【家族よりご報告】

2018年12月18日午後1時34分
この後、すぐに車いすを押して検査室に向かったが、これが最後の父の微笑になった


家族よりご報告

 
佐々木孝の息子の淳と申します。

 ウェブ上という場で、家族から初めて公にご報告させていただきます。またこの形を通して、これまでお便りやご連絡をくださいました方々へのご挨拶と代えさせていただくことをお許しください。

 父は去る12月20日夜、宮城県立がんセンターにおきまして、入院翌日の気管支鏡検査で起きた合併症がもとで残念ながら帰天いたしました。あまりにも切ない幕切れでした。しかしながら生前、身内や親しい友人に語っていた通り「闘い抜きたい」という決意を全うした最期になりました。クリスマスイブの日に私が投稿した写真は、18日昼過ぎの検査直前のものであり、奇しくも最後の写真は穏やかな微笑の父となりました。父はもちろん生還するつもりでいましたが、一方で死も覚悟していました。入院直前に語っていました。自分の生き方は痛くともつらくとも(癌を)放置などせず、最後まで闘うことだ。そして君は明日死ぬよと言われても従容として受け入れる覚悟は既にできている。闘わずして死ぬのは絶対に嫌だと。ともに過ごした家族は父の気持ちがよくわかります。闘い抜いた父は後悔していないと確信します。

 24日クリスマスイブに、父の兄であるカトリック司祭の伯父により、自宅の病床に伏す母を傍らにささやかな家族葬を行いました。今は天上から母や私たち家族、親しくさせていただいた皆様を見守ってくれているでしょう。生前父がお世話になりました皆様には改めて遺族を代表し、心からの感謝と御礼を申し上げます。

 父はいつも人の言葉や態度というものをそのものとして信じ受け止め、二心なくそれに応える篤実さをもって生きて来ました。それゆえ幾度となく傷ついたことを知っています。それは父が、愚直さというより、むしろきわめて人間らしい善性を内に有していたがためであったのだと私は思っています。また、父は世間が有難がるような華やかなポストとは縁遠い学者人生でしたが、アカデミズムとは何たるかを知る真の大学人であり教育者であったと思っています。イエズス会の修道生活から還俗しても、真正の求道者であり続けた証を、私は父の生きる姿の随所に見出します。今思えば「世間的」「常識的」な目から時に挑戦的に受け止められた発言も、私からすれば、単に父の物事への眼差しがあまりにも天上(つまり真理)、本質に近すぎたがゆえそう受け止められたものと思っており、今もその思いは全く変わりません。父が生涯取り組んできたものにしっかりと目を向けてもらえるならば、すべては判然とするはずです。つまり、父は常に「末期の目」から物事を根源的にとらえようとしていました。ともあれ父は生きていく中で受けた無理解や忘恩、裏切りなどどんな仕打ちに対しても、決して誰かを根に持って恨んだりするようなことはありませんでした。そうような人間になってはいけないと、常に私は注意されて育ちました。

 病の母を案じ、最後の10年は外出も半径2キロ圏内の小一時間にとどめ、蟄居の身を甘んじて受け入れた父。特に震災後は、スペイン人美術家の復興記念展覧会に招かれ福島市を半日訪れたのと、最後の旅となった宮城県立がんセンターへの移動以外、小さな町を出ることはありませんでした。しかし、そのような不自由な身にあっても、言葉を通じ、父の心ははるか時空を超え世界の友人たちのもとへと駆けめぐっていました。そんな中、丹精込めた手作りの私家本の送付や買い物に町の郵便局やスーパーを独り行き来する父の姿は、およそ権勢的な振る舞いや虚飾を張る人間とは対照的な、貧しき孤高の小さき者としてのそれでした。福音書にあるイエスの山上の説教「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」の表現、そして清貧という言葉も、どんな聖職者より父にこそ相応しいと私はいつも心の中で誇りに思っていました。生身の人間としての父を魂で理解し、支持してくれた人は結局はわずかであったと思います。しかし、父が晒され続けた陰の無理解や悪意、嘲笑、冷笑も、今や永遠の相のもと遇される真理の世界においては勲章です。くじけず果敢に生き切った父の姿が、今後、真理の世界に生きようとする誰か一人にでも、ささやかな励ましとなってもらえればと、父を想い、願わずにはいられません。南相馬での晩年、いつどんな場面においても父は「逃げも隠れもせず」(最後に私に自分はそのように生きてきたと語りました)、たとえ無様でもありのままの自分でいることを貫き通しました。故郷を愛し、そこに生きることに誇りと喜びを見出した福島・南相馬での父でした。今振り返ると、晩年は一日一日を慈しむように感謝して生きていました。その姿は、祈りそのもののようでした。

 さて、身内の贔屓はこの辺までにします。父の魂は、父が残した言葉、文章の中でこれからも生き続けます。父のブログ「モノディアロゴス」は今後も継続してまいります。どうか時折でも訪れ、父と再会して下さることを願います。そして父の灯した魂の火を絶やすことなく、心ある方々との間で継承していくことができたら、これにまさる幸せはないでしょう。今後ともどうかよろしくお付き合い、ご指導のほどを心からお願い申し上げます。

 最後に、「カトリック新聞」2018年9月16日付に掲載されたウナムーノの関連記事で父が述べた言葉を引用します。

2019年1月11日
佐々木 淳


「私が、原発被災地という “奈落の底” でしきりに希望したのも、この惰弱な物質主義・快楽主義・没理想への抵抗です。さらに厳しく言えば没義道(もぎどう)の日本を、また世界を、まともな国や世界にするために、ウナムーノに倣って、目先の勝利や敗北に心乱さず、時に嘲笑に身をさらそうとも、最後まで闘い抜く若い世代の誕生を切に望みます」


【追記】死後、父の除籍の文書を役所に発行してもらい気づいたことですが、父と母が役所に婚姻を届けたのは、奇しくも父の亡くなったちょうど50年前の12月20日でした。半世紀ぴったりの結婚生活となりました。

※父の訃報は、スペイン紙 El País 上において、ゴンサロ・ロブレド氏の寄稿による追悼記事が出されております(本ブログでも、コメント欄で生前お世話になった清泉女子大学元学長で現教授の杉山晃先生が、ご弔意とともに紹介くださっています)。リンクと翻訳を以下にご紹介いたします。

Fallece el traductor japonés de Unamuno que se negó a evacuar Fukushima

福島原発事故で避難勧告を拒否した日本人ウナムーノ研究者死去

スペイン思想研究者の佐々木孝氏、12月20日木曜日の夜帰天。享年79

ゴンサロ・ロブレド 東京 2018年12月27日

 スペイン思想研究者でミゲル・デ・ウナムーノの翻訳を手掛けた日本の佐々木孝氏が、去る木曜日の夜(12月20日)逝去した。佐々木氏は、このバスク人思想家の思想に忠誠を示し、近隣の福島第一原子力発電所で起きた原子力事故に際し、居住する町から避難することを拒否した。氏は、「日本政府は生物学的な命を憂慮するだけで、われわれ一人ひとりの人生という意味の命は尊重しない」と、ウナムーノの言葉を引き合いに出して、2011年3月11日の地震と津波の後に起きた発電所の爆発による被爆の危険を前にし、南相馬市からの避難勧告を拒否した理由を語っていた。
 氏はさらに、彼の母も、認知症の犠牲となった妻も、政府が用意した避難所では生き延びることはできないと主張した。南相馬は、ゴーストタウン化し、物資の供給も絶たれ、「排除地帯」であるかのようなレッテルを貼られた。
 佐々木氏は、62歳でインターネットによる発信を始め、ウナムーノを敬し「モノディアロゴス」(独対話)と命名したブログを執筆するようになる。ブログにおいて佐々木氏は、災厄を予見もせず、その重大な結末にも対峙しない政府と原発企業の発する誤った情報、その無能ぶりへの告発を決意する。批判の中で繰り返し焦点に当てたのは、この国の構造的な個人の責任意識の欠如であり、これが集団的決定を促しているということである。モノディアロゴスという羅針盤は、数多くの支持を得、その多くにとって、遺棄された住民に起きた出来事の真実を知る唯一の手がかりとなった。ブログの文章は集成され、『原発禍を生きる』のタイトルで出版化され、中国語や朝鮮語、スペイン語などの言語にも翻訳された。わが国ではサトリ出版から上梓している。
 北海道の帯広で生まれ、下級官吏として海を渡った父親とともに、幼少期の一時期を日帝侵略下の旧満洲で過ごした。第二次世界大戦の敗戦後、5歳で日本に引き揚げ、福島県で暮らし始める。イエズス会経営の上智大学(東京)で学び、カトリシズムとスペイン思想に出合う。この二つによって彼の精神は導かれ、数多くの翻訳を手掛けたことで、スペイン思想研究は日本に普及した。
 政府が南相馬における避難指示を解除すると、彼の住まいは、氏の共鳴者やスペイン研究者、ジャーナリストの巡礼地となった。作家のホアン・ホセ・ミリャス氏や芸術家のホセ・マリア・シシリア氏などが、原発事故前までは公的な正直さ、技術の優秀性が代名詞であった日本という国への氏の批判的ビジョンに耳を傾けにその住まいを訪れた。2017年から2018年の間には、法政大学出版局により、氏の翻訳による『生の悲劇的感情』(再版)や、『ベラスケスのキリスト』といったウナムーノの著作と、このビルバオ出身の思想家の人物像に迫った氏の思索『情熱の哲学』が刊行された。
 彼の命を奪った肺がんの診断が下された病院に入院する前夜、最後のブログを執筆し、デジタルの遺書としてインターネット上に最後の願いのリストが掲載された。病床に伏す妻と息子家族に蓄えを残した。「孫の愛に清泉女子大学で学んでほしい」。佐々木氏はここで教鞭を執っていた。愛さんがスペイン研究の専門家になって、「日本を愛する若きスペイン人と結婚し、スペイン語を広めるという祖父の仕事を継いでほしい」と。そして息子には遺稿の校正と出版を託した。それはイエズス会士であり、平和主義者のダニエル・ベリガンの『危機を生きる』と邦題化された作品、そしてオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』であった。

Fallece el traductor japonés de Unamuno que se negó a evacuar Fukushima

El hispanista Takashi Sasaki murió en la noche del pasado jueves, 20 de diciembre, a los 79 años

Gonzalo Robledo
Tokio 27 DIC 2018 – 16:33 CET

Takashi Sasaki, hispanista y traductor al japonés de Miguel de Unamuno, que por fidelidad a las ideas del filósofo vasco se negó a evacuar su ciudad tras el accidente nuclear en la vecina central de Fukushima, falleció en la noche del pasado jueves (20 de diciembre) a los 79 años. “El Gobierno japonés solo se preocupa de la vida biológica y no respeta nuestra vida biográfica”, había dicho, parafraseando al autor español, al explicar su rechazo a la orden de dejar la ciudad de Minamisoma ante el riesgo de radiación tras las explosiones ocurridas después del terremoto y el tsunami del 11 de marzo de 2011 en la central nuclear Daichi de Fukushima, situada 25 kilómetros al sur.

El hispanista argumentó además que ni su madre ni su esposa, víctima de demencia senil, podrían sobrevivir en uno de los refugios habilitados por el Gobierno en las provincias vecinas a Fukushima. Minamisoma, semidesierta y sin abastecimientos, fue catalogada como “zona de exclusión”.

Sasaki, que a los 72 años se iniciaba en las comunicaciones digitales, comenzó un blog que en honor a Unamuno llamó Monodiálogos y se dedicó a denunciar la desinformación, la ineptitud del Gobierno y las empresas reguladoras de la energía nuclear para prever el desastre y hacer frente a sus graves consecuencias. El blanco reiterado de sus críticas era la falta de responsabilidad individual propiciada por el sistema japonés, que fomenta la toma colectiva de decisiones. Su bitácora digital consiguió miles de seguidores y para muchos fue la única forma de conocer la realidad de lo que sucedía en las poblaciones abandonadas. Los textos recopilados fueron traducidos a varios idiomas y en español aparecieron con el título Fukushima: vivir el desastre, de la editorial Satori.

Nacido en Obihiro, en la isla septentrional de Hokaido, pasó parte de su infancia en Manchuria, territorio invadido por el ejército nipón donde su padre fue enviado como funcionario. Al final de la Segunda Guerra Mundial, con cinco años, regresó a Japón y empezó a vivir en la provincia de Fukushima. Estudió en la universidad jesuita de Sofía, en Tokio, donde conoció el catolicismo y los filósofos españoles que guiarían su vida intelectual y que divulgaría a través de numerosas traducciones.

Cuando el Gobierno levantó la prohibición de visitar Minamisoma su casa fue lugar de peregrinación de simpatizantes, hispanistas y periodistas. Escritores como Juan José Millás y artistas como José María Sicilia acudieron a escuchar su visión crítica de un país que parecía, hasta el accidente nuclear, el epítome de la honestidad oficial y la excelencia tecnológica. Entre 2017 y 2018 la editorial Hosei Daigaku publicó sus traducciones de Del sentimiento trágico de la vida y El Cristo de Velázquez, ambas de Unamuno, además de un ensayo suyo sobre la figura del pensador bilbaíno titulado Filosofía de la pasión (Jonetsu no Tesugaku).

La última entrada de su blog, publicada en vísperas de su ingreso en el hospital donde le diagnosticaron el cáncer de pulmón que acabó con su vida, contenía una lista de últimos deseos que permanecen en la web como su testamento digital. A su esposa postrada en cama y a la familia de su hijo Jun les deja sus ahorros. “Deseo también que mi nieta Ai estudie en la Universidad de Seisen”, dice en referencia a la universidad femenina donde el profesor Sasaki enseñó. Espera que Ai se especialice en estudios hispánicos “y se case con un joven español que ame Japón y siga la labor de la difusión del idioma español de su abuelo”. También pide a su hijo que se encargue de la corrección y publicación de sus últimas traducciones, una obra del jesuita y pacifista Daniel Berrigan que tituló Kiki-wo Ikiru (Vivir la crisis) y La rebelión de las masas, de Ortega y Gasset.

他、カトリック系メディア「Aleteia」紙の追悼記事(こちらで記事になったのは寝耳に水で非常に驚きました)。

Takashi Sasaki, el católico japonés que desafió la catástrofe nuclear

Takashi Sasaki, el católico japonés que desafió la catástrofe nuclear

Jaime Septién | Dic 28, 2018

En sus últimos años de vida, se dedicó a luchar por la paz y la erradicación de la energía nuclear, todo desde el amor a su esposa, y fiel al mensaje del Papa Francisco


El pasado jueves 20 de diciembre, murió a los 79 años de edad, el intelectual japonés Takashi Sasaki en su pueblo de Minamisoma (Japón), ubicado a solo 25 kilómetros de la central de Fukushima, epicentro de la crisis nuclear sufrida después del terremoto y el tsunami que golpearon al país asiático el 11 de marzo de 2011.

Sasaki era un católico practicante, en un país donde los católicos no suman más de 0,5% de la población total. Estudió en la universidad jesuita de Sofía (Tokio), y quiso ser sacerdote antes de tomar la decisión de casarse con su esposa Yoshiko, a quien nunca abandonó, sin importar las circunstancias.

Gran apasionado del español y de la cultura hispana, tradujo al japonés importantes libros de Miguel de Unamuno, como Del sentimiento trágico de la vida y El Cristo de Velázquez. En sus últimos años de vida, se dedicó a luchar por la paz y la erradicación de la energía nuclear, todo desde el amor a su esposa, y fiel al mensaje del Papa Francisco.


Valentía con sentido humano

El 11 de marzo de 2011, Japón vivió uno de los desastres naturales más catastróficos de su historia. A las 14:46 hora local, la costa oriental de Japón fue sacudida por un terremoto de magnitud 9.0 en la escala de Richter, que duró seis minutos. Se trató del terremoto más potente de la historia de Japón y el cuarto más potente de la historia a nivel mundial, desde que hay mediciones. Como consecuencia del terremoto, se crearon olas de maremoto, de hasta cuarenta metros de altura, que golpearon con fuerza la costa del Pacífico japonés.

Entre los muchos daños que dejó el terremoto y el posterior tsunami, el más grave fue el causado a la central nuclear de Fukushima. La central sufrió fallos en el sistema de refrigeración y múltiples explosiones, que pusieron en peligro a cientos de miles de japoneses. Fue el peor accidente nuclear desde el ocurrido en Chernóbil (Ucrania) en 1986.

En medio de la tragedia, destaca el testimonio de Takashi Sasaki. Cuando el gobierno japonés ordenó la evacuación de las zonas cercanas a la central de Fukushima, Sasaki decidió quedarse en su casa a cuidar de su esposa, quien sufría demencia senil. Argumentó, con Unamuno como bandera, que las autoridades “solo se preocupan de la vida biológica y no respetan nuestra vida biográfica”.

El motivo para no abandonar su hogar era que tanto su madre, a quien cuidaba desde hace tiempo, como su esposa, Yoshiko, no podrían soportar las condiciones de los albergues instalados por el gobierno. En los hechos, gran cantidad de los ancianos y enfermos que fueron trasladados a albergues murieron en una situación de extrema precariedad.

Con el riesgo que esto implicaba para su propia vida, decidió quedarse a procurar el cuidado y el cariño de su familia, con el conocimiento de que a partir de ese momento, de ese instante, el mundo exterior le daba la espalda.


Una voz que clama en el desierto

Desde su pueblo de Minamisoma, que se convirtió en parte de la zona de exclusión –donde los pocos habitantes que quedaban fueron abandonadas a su suerte–, Takashi se volvió una voz crítica y tenaz contra el abuso de los poderosos y la insensibilidad humana.

En su desierto nuclear, Sasaki comenzó a escribir un blog de evocación unamuniana, llamado “Monodiálogos” bajo el seudónimo de Fuji Teivo. Al poco tiempo, la publicación adquirió un profundo significado, por ser la única voz que denunciaba –desde el abandono– la desinformación de la prensa, la ineptitud del gobierno y los graves estragos que causa la energía nuclear, tanto en términos de generación de energía –con énfasis en la contaminación que causan los desechos nucleares y los desastres como los de Fukushima y Chernóbil–, como en el componente bélico de las armas nucleares, una herida abierta en el corazón de todos los japoneses.

Con el paso del tiempo, su voz fue cada vez más escuchada en Japón y en el mundo, y sus relatos fueron recopilados en un libro llamada Fukushima: vivir el desastre (traducido al español por editorial Satori). En el Papa Francisco encontró un gran aliado en su denuncia contra las armas nucleares, y dedicó todas sus fuerzas para que el mundo fuera consciente de que lo que pasó en Fukushima se puede –y se debe– evitar en el futuro.


Un legado hispanófilo

A su muerte, víctima de un cáncer de pulmón, Sasaki deja, además de su lucha contra la energía nuclear y el testimonio de entrega a su familia, un legado de amor y respeto por la cultura y las letras hispanas. Además de Unamuno, tradujo a otros importantes filósofos españoles como José Ortega y Gasset.

Gracias a Sasaki, los japoneses pueden conocer y estudiar en su propia lengua el pensamiento hispano, y sobre todo el pensamiento hispana católico. Un puente que une a dos tradiciones milenarias y un testimonio de vida que abre las puertas para que más japonenses sigan su camino intelectual, espiritual y humano.

En medio de los desiertos del mundo actual, brotan flores raras que demuestran que no todo está perdido. La imagen de Takashi, en su desierto nuclear, cuidando a su madre y a su esposa enferma, abandonado por el mundo, escribiendo en la más terrible soledad, traduciendo a Unamuno, luchando por devolver la esperanza al mundo, es una imagen poderosa.

Una imagen que vale la pena recordar.A su muerte, víctima de un cáncer de pulmón, Sasaki deja, además de su lucha contra la energía nuclear y el testimonio de entrega a su familia, un legado de amor y respeto por la cultura y las letras hispanas. Además de Unamuno, tradujo a otros importantes filósofos españoles como José Ortega y Gasset.

Gracias a Sasaki, los japoneses pueden conocer y estudiar en su propia lengua el pensamiento hispano, y sobre todo el pensamiento hispana católico. Un puente que une a dos tradiciones milenarias y un testimonio de vida que abre las puertas para que más japonenses sigan su camino intelectual, espiritual y humano.

En medio de los desiertos del mundo actual, brotan flores raras que demuestran que no todo está perdido. La imagen de Takashi, en su desierto nuclear, cuidando a su madre y a su esposa enferma, abandonado por el mundo, escribiendo en la más terrible soledad, traduciendo a Unamuno, luchando por devolver la esperanza al mundo, es una imagen poderosa.

Una imagen que vale la pena recordar.

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【家族よりご報告】 への18件のフィードバック

  1. Helene Alt (ヘレーネ・アルト) のコメント:

     とても辛いお知らせ、心が潰れそうです。ご家族の皆様の悲しみを思うと、慰めの言葉も見つかりません。ごめんなさい。
     先生とは東京外大でご一緒させていただいて以来、仲良くしていただいていました。学部は違いますが、私も上智大学出身だからなのかもしれません。
     May his soul rest in peace. He will continue to live in our hearts forever.

  2. 佐々木あずさ のコメント:

    呑空庵主佐々木孝先生がもうこの世にはおられないという事実が、心に迫ってきます。この3週間、私の魂にぽっかりと孔が空いたような状態が続いてしまっています。たった2年ほどのお付き合いしかない私でさえ、こんな有様ですから、美子奥様をはじめ、ご家族の皆様の悲嘆、想像するできません。

    いつも、何かをするとき、「先生だったらどうするのかな」などと思いながら前に進んでまいりました。私にとっては空を見上げるときらりと輝く北極星のような存在だったと、今、痛感しています。これからも、モノディアロゴスしながら、この難しい現代社会に身を置き、「魂の重心を低くしながら」沈潜させていけるように自らに言い聞かせていこうと思います。

    今までに感謝。そしてこれからも私の魂に存在し続けることに感謝。呑空庵十勝支部佐々木あずさ

  3. 守口 のコメント:

    佐々木孝兄いのご逝去こと。とてつもない喪失感におそわれております。
    お伝えしきれない感謝の気持ちとともに、心より哀悼の意を表したいと思います。
    守口 毅

  4. 中野恵子 のコメント:

    淳さま
    モノディアロゴスを継続してくださることは何よりありがたいお知らせでした。孝先生に何時でもお会いできますね。元気が無くなった時は、今までのように励ましていただけます。ありがとうございました。呑空庵代々木支部も活動を続けて参ります。

  5. 寺田亮 のコメント:

    残念でなりません。12月24日のブログを拝見して、闘っておられるのだなぁと思い、ぜひご回復していただきたいと祈っておりましたが…。
    もっとたくさんお訊きしたいことがありました。なかなかお伺いする時間を作ることができなかったことが大変悔やまれます。

  6. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    中野様、父が大変お世話になり、心から感謝、お礼を申し上げます。中野様のこと心配申し上げておりました。父は姿を消しましたが、生きていると感じるようになりました。クリスマスイブの投稿で引用した聖句のように。中野様からいただいたコメントの訂正箇所、反映して、こちらで再掲いたしますので、ご安心ください。

  7. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    父が生前、大変お世話になりました。父の生涯を素敵な思い出で彩ってくださり、心から感謝と御礼を申し上げます。外大は、故・牛島信明先生との御縁もあり、父にとってここの教壇に立つことは大きな喜びだったようです。今後ともよろしくお願い申し上げます。

  8. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    あずささん、心から感謝しています。母のことも常に心に留めて下さり、感謝に堪えません。このことは、父が一番喜んでいるはずです。

  9. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    守口様、心から感謝申し上げます。あの日の月を、きっと父もご夫妻と一緒に眺めていたと思います。今後とも愚息とその一家をお見守りいただければ幸甚に存じます。

  10. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    寺田さん、父が大変お世話になりました。母を伴い父が市民講座を持たせていただいた震災前の平和な日々をとても懐かしく思い出します。お力添えくださったこと、改めて心から感謝とお礼を申し上げます。

  11. 中西圭子 のコメント:

    呑空庵 仙台支部の中西です。
    12月22日、ご子息の淳さんから、お父上の佐々木孝先生の突然の訃報のメールが届き、驚愕いたしました。ご家族の深い悲しみを思い、胸が張り裂けそうになりました。
    佐々木先生とは、2年間、ガラ携のメールを通して親しくさせて頂き、対話を重ねてまいりました。高齢で、哲学という学問について全く無知で、勘違いの多い私を、佐々木先生は寛大なお心で温かく優しく包んで下さいました。佐々木先生を尊敬し、お慕い申し上げておりました。私の人生の晩年になって偉大なスペイン思想家・佐々木孝先生に出会った幸せをかみしめております。
    佐々木先生から、宮城県名取市のがんセンターに入院される前夜の12月12日、
    「ありがとう。前向きに戦ってきます。宜しく。」
    と届いたメールが最後となってしまいました。
    これからも、佐々木先生全哲学の三つの要諦に込められた「平和菌」へのおもいを伝えてまいります。 
    熱血の佐々木孝先生、さようなら。心からの感謝を込めて。

    (川柳)
    「ありがとう」メールを遺し急逝きし師よ
      (読み ‥ アリガトウ メールヲノコシ ユキシ シヨ)

    富士貞房Jr.のご健闘をお祈り申し上げます。

  12. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    中西様、温かいお言葉、そして父にお捧げ下さったお歌、心から感謝申し上げます。メールの内容に涙しました。80キロ隔てた仙台の地に同じ思いの理解者を得たのは、晩年の父にとってこの上ない僥倖であったと思います。中西様からの激励に支えられて最後の戦いに臨んだのは間違いありません。本当に有難うございました。「平和菌」は父のたどり着いた思想の結論でした。これからもどうかよろしくお付き合いをお願い申し上げます。

  13. 古屋雄一郎 のコメント:

    三十年近く前、東京外国語大学の大学院修士課程で先生の授業を一年間受けました古屋雄一郎と申します。
    訃報に胸が痛み、息が苦しく、お悔やみを申し上げるのが遅くなりました。
    先生の謦咳に接することができたことはこの上ない幸せでした。
    まっとうに生きることの大切さを教えてくださり、ありがとうございました。
    佐々木孝先生、どうか安らかにお休みください。

  14. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    古屋雄一郎様、父が東外大で得た大切な若きご友人として、愚息も存じ上げておりました。生き方のヒントを得てほしいと、古屋様のブログを私に教えてくれるなど、父は常に古屋様を評価申し上げ、大切に思っておりました。父の急逝後、古屋様がご弔意をお示し下さり、愚息も大きな慰藉を受けました。天国の父も古屋様のお声に喜んでいると思います。父が教壇で伝えたかったのは、まさに古屋様のおっしゃる通り、まっとうに生きることの大切さに尽きたのではないかと思います。それをわかってくださった方は、多くはなかったと思います。しかし、父の死によって、数は少なくとも父の真意を理解してくださる方が続々と態度を表明して下さることで、父の地上での苦闘は報われたのだと感謝に堪えぬ思いです。古屋様、父の生涯を恵みに満ちたものにして下さり、心からお礼を申し上げます。愚息としては、改めて古屋様に今後ともお付き合い、ご指導を切にお願い申し上げる次第です。

  15. 梁塵 松下 伸 のコメント:

    遅ればせながら
    お悔やみを申し上げます。

    書棚のご著書を手にとってみました。
    「根源的」思索と率直な表現。
    存在感はいささかも褪せてはいません。
    ばかりか、
    少し読み進むうち、
    眼からうろこの文章に気づきました。
    小生の学びはまだまだこれからのようです。

    御身は天に召されたとしても、
    その魂はご著書の中に永く遠く遺ります。
    通りすがりの天井のチリのような小生ですが、
    言霊に触れる度、うれしく舞い上がったものです。
    おわかれとお礼を申し上げます。

                                   梁塵 松下 伸 拝

  16. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    松下 伸 さま

    はじめまして。佐々木孝の息子・淳です。
    ご弔意を賜り、心からお礼を申し上げます。お言葉に胸を打たれました。
    松下様のお名前は、時おり父のブログを閲覧し、愚息も存じ上げておりました。
    震災後、孤軍奮闘する父をお励ましくださり、本当にありがとうございました。お寄せ下さったお励ましのコメントが、父にとってどれほど心の支えとなったことでしょう。ごひいきいただいたモノディアロゴス、並びにホームページは、父の遺志を踏まえ、今後とも継続して運営してまいる所存ですので、どうかこれからもご訪問下されば幸甚に存じます。父も喜びます。残された愚息家族とも今後ともお繋がりいただきたく、伏してお願い申し上げます。

    松下様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げております。

    佐々木淳拝

  17. 齋藤 和子 のコメント:

     島尾を読む会で、孝先生にお世話になっておりました。講師席には美子夫人が付き添い?で頷いたりささやいたり、先生は優しく奥様を見守りながらの講義でした。 奥様が大町病院に入院された時は、テキパキした気配りある介護のお姿を拝見して、先生の気力に圧倒されたことがあります。海岸線同人会々員でらっした母上様・千代子先生を思い、気丈な芯の強さを温厚な先生にもおありだと思いました。
     3.11の公私の仕事も一段落して「島尾を読む会」のノートを整理始めましたが、あらためて講義が人間島尾と普遍的な文学論に及んでいると実感しています。
     島尾論を再読して新しい発見をさせていただいてます。最近は、復興の陰になり見えない文化遺産は忘れられていく、そんな危惧をしています。
     淳様には、島尾敏雄のお身内であることを誇りにもなさいまして、ご記憶に留め置き下さいますようお願い申し上げます。『海岸線』編集委員 齋藤 和子

  18. アバター画像 富士貞房Jr. のコメント:

    齋藤和子 様

    メッセージを誠にありがとうございます。齋藤様のお言葉が、苦闘の人生を送った父にとってどんなに救いとなることでしょう。ずっとこのお言葉をウェブ上に父に捧げさせていただこうと思います。
    『海岸線』は、千代おばあさんが健在だったころから存じ上げておりました。齋藤様にお声をかけていただき、この地で生きていくうえで、新たな光を投げかけてくださったと感謝しております。どうか、これからもおつながりいただければ幸いに存じます。齋藤様のますますのご健勝をお祈り申し上げます。

    佐々木淳拝

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