「半径3メートルの生活」*の中で、自らの祈りを言葉に込め発信した父のモノディアロゴス。その最後の投稿まで父に寄り添っていただいた最高の読者のお一人、阿部修義様から先日いただいたコメントを父に捧げよう (東京・銀座で開いて下さった「偲ぶ会」で、初めてお目にかかったが、そのお言葉そのものの、広やかで温かな心を持った「大きな」方だった) 。
*3回目の月命日

「永遠に生きる」私もそう思います。人間は外面的には相対界の一つですが、内面的には絶対者です。永遠という言葉は高さ、深さの次元のことであり、人間の心の在り方にあると私は思っています。先生は「魂の重心を低く」と事あるごとに言われていました。私は、それを「愛を以て」と考えています。それは究極的には己を捨てることなんでしょう。そうすることによって、物事の本質に迫ることができる。「永遠に生きる」とはそういうことではないでしょうか。しかし、人生の中で実践することは至難です。「永遠に生きる」ためには平凡な毎日の中で、少しずつ自分を省みて研鑽していくしかない。人間の幸せ、あらゆる人生の問題も、それらの本質は何かがわからないから欲望に生き、エゴに生き、不幸に陥っているのかも知れません。カール・ヒルティというスイスの実務家であり思想家が自分のお墓に、こういう言葉を刻み付けています。この人も「永遠に生きる」を実践した人でした。すばらしいご感想ありがとうございます。
「愛は、すべてに打ち勝つ。」
追記(6月21日)
この投稿をお読み下さった明大名誉教授・立野正裕先生から、私信のやり取りでいただいたメッセージを以下に引用させていただく。
これは父の尊厳のために、「絶対に」必要なことだからだ。
先生の孤独なたたかいは終生続きました。一切の妥協を排した孤高のたたかいでした。いったいいくたび、巧言令色の輩が出たり入ったりして、そのつど先生に糠喜びを与え、次の瞬間煮え湯を飲ませる、という心なき仕打ちを繰り返して来たことだろうと思います。
しかし、先生の精神も生き方も、日々の行住坐臥の末端にいたるまで揺らぐことなく、最後まで筋を通されました。すべてがどっちつかずに揺らぐ浮薄な現代にあって、揺らぎや右顧左眄とは無縁の、まったく稀有の清貧な強い自律の生涯を、先生は独り貫かれたのです。


「主よ、私の内なる生をその恵みにより照らし、導いて下さい。神の愛の業である幼子たち、病んだ人たち、貧しき人たちを心から愛することができますように」
★立野正裕先生からいただいたメールを、今夜ぜひ父に捧げたく、以下にご紹介いたします。父に免じてお赦しいただけるでしょう。
6月20日午後8時25分来信
佐々木淳様
きょうはこの欄に書き込んでみます。どうしても不具合があるときは携帯からメールを送ります。
じつは今しがたまでモノディアロゴスを読んで、物思いにふけっていたところでした。先生が亡くなられて半年ですね。
きょうのブログに引用された「永遠に生きる」という言葉をめぐる阿部さんの深い洞察と、それを踏まえての考え方に、改めて感銘を受けないわけにはいきません。
と同時に、わたし自身の従来の考え方にも反省的に思いを凝らしてみないわけにはいきませんでした。
それというのも、ちょうどきょう、佐々木先生とも交流があったわたしの友人(女性です)とのメールのやり取りで、4月のサナブリア湖への旅のことを語り合っていたところでしたから。
その人から了解を得ないままメールを引用するので名前をいちおう伏せますが、やり取りはこうです。例によって長くなりますが、あしからずご了承下さい。
サナブリア湖の写真と伝説のことを見た友人がこう書いています。
「フェイスブックで、この伝説を初めて読んだ時から、私は先生の散文詩「静寂」の中のこの部分を思い浮かべます。
あのときほどわれわれが、
互いを見つめ合ったことはなかったろう。
こう言えばあなたに迂闊さを叱られようが、
じつは初めてわたしは知ったのだ。
あなたのなかにも湖があったことを。
ようやくわたしは分かりかけた。
なぜこの湖を見たいと思い立ったのか。
でもすっかり合点がいったわけではなかった。
とにかく動機は内部にあったのだ。
彼方の人のなかの湖をイメージし、
湖底で鳴る教会の鐘が聞こえるような気がするのです。」
彼方の人とは同行者のことです。ここで言う湖はスコットランドのスカイ島にあるコルイスク湖のことです。
返信としてわたしはこう書きました。
「二十代のころに書いた「蜃気楼」という小説に人工湖をめぐるくだりがあります。そこには湖底に村が沈んでいると書いてあるのです。」
「以前読んでいたのに、初めて読むくらい忘れていました。
この湖底に沈んだ村は、ウナムーノ から発想したのですか。
ウナムーノ は私にはとても難しいのだけれど、聖マヌエル・ブエノの本も読んでみたいです。これを読むことはできますか。
「マーヤのヴェール」のところは初めに読んだ時もとても興味深く思いましたが、今回とても怖く感じました。
そして今回とても印象に残ったのは、
〈不幸をほんとうに分かち合うことはできないのだ。
ひとびとはみな固有の重荷を背負っている、それを理解し合うことはできるかもしれない。しかし荷は軽くなることはない。
それどころか、理解し合うということは、相手の分まで自分が背負うということだ。
それは分かち合うことではない。苦しさが増すばかりだ。
おまえたちはみな分かち合えない苦しみを負って生きていく。〉 」
わたしの返信はこうです。
「「蜃気楼」とは言い換えればマーヤのヴェールのことです。この半世紀、わたしの精神のたたかいは、じつはマーヤのヴェールとのたたかいであったことに思い当たります。
小説を書いていた当時、ウナムーノの代表作はすでに読んでいましたが、マヌエル・ブエノの物語はまだでした。たとい読んでいたにせよ、わたしにマヌエルの苦悩が真に理解できたかと問われれば忸怩たるものがあったでしょう。
数年後に、佐々木孝さんのウナムーノ論で漱石の『こころ』との比較論を読み、感銘を受けました。マヌエル・ブエノの、ひいてはウナムーノの生涯に迫る道筋が、そこにあると思いました。
わたしにとって、ウナムーノの精神と思想の核心はマヌエル・ブエノの生涯の物語に凝縮されていると申しても過言ではありません。そして、『こころ』と漱石文学との接点が佐々木さんによって示唆されたことは、ウナムーノを読んでゆくための重要な足がかりとなりました。」
やり取りはここまでです。
ヒンドゥー教の神話に語られるマーヤのヴェールの物語を、当時のわたしは、現実の虚構性ないし虚妄性つまり蜃気楼の代名詞のような意味で使っていました。
70年代の時代的な雰囲気が自分の内部にも影響を与えていました。いっぽうでショーペンハワー、ニーチェ、キルケゴール、ベルジャーエフ、ショラン、そしてウナムーノの思想へと前のめりで傾斜しつつあった時期でもありました。
上に述べているように、『ドン・キホーテの哲学』に遭遇して愛読することになるのは70年代の後半のことです。「蜃気楼」の克服のための手がかりは実存の思想をつかみ直すことにあり、ウナムーノと漱石を結びつけて読み込むことによって道筋を見いだすことが出来ると、この本からおしえられたのです。
時空を超え、肉としての存在の制約を超えて、父は死者とも生者とも魂における対話のみに真の生の価値を置いていた。父は書物に対しそのような気持ちで向き合っていた。書物を通して、死者たちの霊と現実の人間関係以上に濃密な魂の交信を図っていた。16世紀の人間も、父にとっては実体を持った生々しい隣人であり続けた。それゆえか真の生から逸れ、現代が神経症的にこだわる、その実まやかしでしかないものごとをめぐって、時に人に挑戦的、挑発的な態度も辞さなかった。
立派な地位、肩書、富とは縁遠い、一般には無名の学者として生涯を閉じたが、何より学者が備えるべき真に誠実で高邁な精神の自由を父は有していた。
学会においても、日常の市民生活においても、父がともすれば目障りで五月蠅い、下手に近づくと「面倒な存在」として煙たがられがちであったことは、身内の私が感づかぬはずがない。でも、そうした目を向ける者どもも、結局その程度の人品でしかないことは自明であるから、私は怒りはそれ以上に嵩じない。ひたすら世の主流をなす者らの浅薄な営みに嘆息するだけである。
人間的な泥臭さを隠すことなく、ありのままに素朴に生きた父。世間の眼鏡に叶う、講演に招くような聖人君子ではなかった(二宮金次郎を拝むような土地ではなおさら父は孤立していた)。ただ父こそ真正のユマニスムを体現した小さきものとして、心ある人たちの間に伝承すべき人物であると思っている。それこそ「忘れられた日本人」のように。
呑空庵主が、この世での生を終えたとき、沖縄の普天間基地の一隅にいた私。
呑空庵主が、この世での営みを終えたとき、しみじみと我がなすべきことを反芻した私。
この世でもっとも愛したご遺族の平安を祈りながら心に浮かんできたのは、「ただひとり思考し、歴史の過去と今、そして未来をつなげ、語り続けておられた」呑空庵主の日々のこと。
呑空庵主のメッセージに、時にうなづき、時に笑い、時に勇気と智慧をいただいた私の日々も重ね合わせながら…。
なんのお返しもしないまま、この世での別れが、突然やってきたあの日、あの夜。
呑空庵主が遣わしたのは、先生の愛しいJr.。
そのJr.ファミリーとの繋がりに感謝。教えに感謝。そして無償の愛に感謝しながら水無月が過ぎてゆく。
正直に伝えます。私の心はまだ寂しさでいっぱいです。
あずささん、有難うございます。
父が危篤の時も、あずささんとおつながりしていたのは、何か上からの導きとしか思われません。
父の平和菌の歌、カルペ・ディエムこそ、まごうことなく父の人生哲学の結論、集大成でした。
そこに込められた父の祈りを深く理解、支持くださる十勝のあずささんに、心から感謝しております。何らかの形で呑空庵のおつながりを再生したいと強く望んでいます。
愚息ゆえ、しばらく時間がかかるかと思いますが、長い目でお見守りいただければ幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします。
富士貞房Jr.