最後の大晦日となった2017年(おととし)の写真を見つけた。最後と分かっていたらと、愚息は自らの親不孝を悔やんでも悔やみきれない。意気軒高で不敵な表向きの言動とは裏腹に、父は深い懊悩、憂愁を陰に漂わせたひたすら祈りの人だった。寝静まった母を傍らに、万感の思いで机に静かにたたずむ父の後ろ姿を何度か見かけたことがある。涙を浮かべていた時もあった。言葉の真の意味で謙遜、謙虚な人だった。修道士、聖職者でも稀な清い魂の持ち主だった。私たち若い家族のことに、決して自分から土足で上がり込むような干渉はしなかった。ただ、いつも私たちのことを心にかけ、愛情を注いでくれた。

混迷極まりない社会にあって、人間にとって何が大切かという基準を身をもって示してくださいました。誠実という言葉そのままのお姿を思い浮かべるとき、馬齢を重ね還暦を過ぎた私には、自然と身が引き締まる思いです。数年前、突発性難聴を発症し入院する際、『モノディアロゴス』を持参しました。自分が窮地に追い込まれた時先生の文章にどれだけ救われたか。ご著書の中で、「本物の人物には含羞がある。」と言われていたのを覚えています。優しいお人柄であっても人間を熟知された透徹した目を兼ね備えた君子人。
阿部様、常に心の中で主を仰ぎ、自らの使命を誠実に生きた父を称えるこれ以上ないお言葉に感謝いたします。小さく素朴な、しかし気高い生涯でした。父の生の本質は、間違いなく信仰であり、至高の魂たちへの追慕、献身でした。父の行い、言葉を、心の目できちんと見る人にはわかるはずです。最後、主のふるいにかけられ、追従人、冷笑者たちは霧散し、父を本当に理解し、支持くださった人々が残りました。数は少なかったです。でも、真理、真実は数の問題ではないでしょう。これは常に戦士の気持ちで戦って生きていた父が得た大勝利です。すべては然るべく成し遂げられたのだと思っています。父は今や永遠の憩いのうちにあり、天からの祝福に満たされていると思います。
呑空庵主の最期の大晦日。あの庵主夫妻の砦で、家族が共に時を過ごし、腹を満たし、心を満たした尊い瞬間に感謝。
あずささん、有難うございます。父の魂にメッセージは届いたと思います。
淳さん
大晦日の写真拝見しました。
僕にとってはもう胸が張り裂けそうな景色・佇まいの写真です。
兄いへの感謝、残されたご一家への”平和であれかし!”の祈り、に僕たち二人も加えてください。
守口
守口さま
ご夫妻からの父と私たち家族へのお祈りに心を強められ、深く感謝いたします。父を想ってくださる方がいる限り、父は生き続けるのだと思います。これからも私たちをお見守りください。お願い申し上げます。
それにしても父の最晩年は、まるでその生涯のフィナーレを告げるような恵みの出来事に満ちていました。父は幸せを感じていたと思います。そして母との結婚生活50周年の日に天に迎えられました。何という最期でしょう。母への最後の愛のメッセージだったのだと思いますし、残された私たちは「魂のリレー」としてのバトンを託されたのだと捉えます。