老境と読書

 テレビ番組を見て楽しむなんてことは最近めったにしないが、この間からのWBCの試合は準決勝までの六試合を、美子の夕食の介助をしながら鏡像で、つまりテレビ画面が見えるように鏡を布団の上にセットして、結局は全部見てしまった。

 ところが昨日、ドジャー・スタジアムでのアメリカとの準決勝だが、日本時間の朝十時からのはずが、なんと2時間前から原・元監督などをゲストに番組が始まっているではないか。これじゃ騒ぎすぎだろう、ともちろんそんなものは見なかったが、しかし肝心の試合、なんとも期待外れに終わった。筒香や中田の大砲も音無し。エラーで得点献上の埋め合わせでライト方向にホームランを打った菊池は辛うじて及第点を取ったが、なんとも気合の入らぬ選手たち。「世界一奪還」など鳴り物入りで始まった今年の試合だけど、やっぱ事前の騒ぎ過ぎで選手たち疲れたんとちゃう?

 負け試合濃厚になっても、選手たちに悲壮感は見られず、中には笑顔のまま。高校野球並みとまではいかなくても、みんなで円陣を組んで気合を入れるとか、もう少し本気度を見せてほしかったなあ。もっと気楽にみればいいのだが、昔から国際試合となるとバリバリの愛国者(愛国主義者ではありませんぞ!)になるのは治りそうもありません。

 そんなこともあって読書の方も気が入らず、相変わらず大江の健ちゃんの三部作最後の『さようなら、私の本よ!』に難渋している。気分転換にと、二階の段ボールにまだ残っていた祖父・安藤幾太郎の蔵書を4冊ほど持ってきて蘇生術を始めた。まず徳富健次郎の『青山白雲』(民友社、明治31年)、次いで滝沢馬琴(興邦)の『南総里見八犬傳(中巻)』(博文館、明治42年、20版)。両著とも堅紙で表紙を補強して茶色の布をかぶせ、見事に蘇った。健次郎の方はもちろん読めるが、馬琴の方は中巻だけであるのはともかく、私の読解力では読めそうにもない。例えばこんな文章である。

「交遊の厚薄き。只その損益二友にあり。こゝをもて。その志愜(あわ)ざるものは。肝胆も猶胡越のごとく。その志同じきときは。千里といふも合壁に似たり。、、、」

 読点のところが句点になっているのは誤植にはあらずして原文のママ。ともかく私にはすんなり読めそうにもない。こんな文章が1214ページも続くのだ。助けてくれー!

 しかし中巻であることもそうだが、このまま読まないで放置しておくのは、どうも気になる。調べてみると岩波文庫から十巻本で出ているようだ。少しは読みやすくなっていそうだが、でも値段はかなり高くつく。話の概要をつかむためなら子供向けの要約本でも間に合うだろうが、私のプライド(?)が許さない。それでアマゾンで調べたら白井喬二現代語訳(河出文庫版)があった。これならわが能力とプライド双方をある程度満足させるだろうと注文しようとしたが、これも上下二巻で二千円近くになる。残された時間と体力(?)を考えると、読めもしないものに二千円の出資はちともったいない。しかしさらに調べてみると、同じものが1976年に一巻本でも出ているではないか。これだと168円+送料267円で買える。決めた!これで博文館刊の中巻もなんとか読めるようになるだろう。

 ところが話はこれだけでは終わらない。つまり大長編物で不意に思い出したのが中里介山の『大菩薩峠』、そしてたしかこれについて安岡章太郎さんが長編評論を書いたのではなかったか、と思い出したのだ。それで二階廊下の本棚からその二巻本を持ってきた。『果てもない道中記』(講談社、1995年)である。これは氏が胆石の発作に心筋梗塞を併発して半年ばかり入院した際に無聊を慰めるために全巻を読み通し、そのあとめでたく癒えての療養の日々に書いたもの。つまり71歳から75歳までの4年簡雑誌『群像』に書き続けた作品で、第47回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞した力作長編である。

 ここまで書いてきたが、しかしご覧の通り、すべては老境と読書というテーマに沿っているわけだ。大江健三郎の三部作のその主題についてはすでに述べたが、安岡章太郎さんの『果てもない道中記』の主題も、老境に差し掛かった、というより迫りくる死を前にした作家の覚悟みたいなものの表白である点でも同一のテーマを追いかけている。大江のそれが『ドン・キホーテ』とT.S.エリオットがそのご相伴を務めているとすれば、安岡章太郎さんのそれは『大菩薩峠』ということだ。もっとも安岡さんの場合、以後最後の作品まですべて悠揚迫らぬ「死の観想」だと言えなくもないが。

 安岡さんは92歳で亡くなられたが、大江さん(おやいつの間にか「さん」呼ばわり)はまだ82歳の現役作家である。大江さんのものが一段落したら安岡さんの『果てもない道中記』を読み直そうか(もしかして今回が初めてか?)。
 とにかくわが人生総括にいい先導者が見つかって良かった良かった(笠智衆さんの物真似で)。

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佐々木 孝

佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。
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1 Response to 老境と読書

  1. 阿部修義 のコメント:

     最近、メモ用紙に走り書きした坂村真民の言葉が気に入って、机上の棚の整理箱の側面に貼り出して眺めています。

     少食であれ!
     これは健康のもと。

     少欲であれ!
     これは幸福のもと。

     この二つのものを
     しっかりと身につけよう。

     この世を悔いなく終わるため。
     この世を楽しく生きるため。

     先生の文章の主旨とはかけ離れているかも知れませんが、先生の言葉※に、坂村さんと通じるものがあるように私は感じました。結局人生において、坂村さんの言葉を実行できる自分になれるかが大切であり、実行できそうで非常に難しいというのも事実だと思います。若い時は食欲も旺盛ですし、あらゆることに貪欲なものです。やはり、ある程度人生を重ねていかないと到達できない境地なんでしょう。

     ※悠揚迫らぬ「死の観想」
     

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