H・ミラーとウナムーノ

ヘンリー・ミラーという作家の作品など読むつもりはまったくなかった。『ネクサス』だとか『南回帰線』などという作品名はどこかで知っていたし、晩年はホキだかポキだかという日本女性とどうとかこうとか、なにやらスキャンダラスな身辺のことも含めて近づきたくもなかったのだが……
 その彼の古い翻訳本が午後ネット古本屋から届いた。吉田健一訳『暗い春』(人文書院、昭和二十八年)である。どうしてこんな本を注文する気になったかといえば、実は三日前、何気なく(ナニゲニじゃない!)インターネットで「ウナムーノ」を検索した際、どこかの誰かの日記らしきものが検索網にひっかかり、そこにヘンリー・ミラーがそのエッセイ集の中でウナムーノの言葉を引用している、と書かれていたからである。
 以前、アップダイクが短編の一つで、主人公が読んでいる『生の悲劇的感情』を小ダシに使っているのを読んだことがあるから、たぶんそれと同じウナムーノ作品かな、それとも別の作品かな、と変に気になりだしたのである。
 最近新しい翻訳が出たらしいが、先の「日記」氏と同じく、比べるまでもなく吉田訳を、と思い、古本を探索。かくして届けられた黄ばんで古本特有の日向臭い『暗い春』を初めからぱらぱらめくってみたのだが、「ウナムーノ」という字は見つからない。二二〇ページほどの中に十篇のエッセイが収録されているのだが、二度、三度とページをめくったのだが見つからないのだ。そのうち疲れてしまって、別の作業をすることにした。つまり少し背の部分が剥げ始めたその古本に硬い表紙を貼り付け、背の部分を鼠色の豚革で補強したのである。遠い泉大津市から届いた『暗い春』も、とつぜん上着を脱がせられ、代わりにちょっぴり動物臭い服を着せられ、さぞかしびっくりしただろう。
 さて今晩は、ハードカバーの豪華な背革の本になった『暗い春』に四度めの探索をする気力は残っていない。それはまた明日の陽が昇ってからにしよう。天気予報によれば明日はいい天気とか、元気も出てくるだろうから。

佐々木 孝 について

日本のスペイン思想研究者。1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。6年間の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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