指紋の存在理由

先日、赤沢典子さんのスペイン留学ドキュメント『光と風のきずな』を、これまた飛び飛びに見ていて、ピカソの「ゲルニカ」をプラド美術館に見に行くシーンにぶつかった。ナレーターの…おっと名前を忘れた…(ネットで検索)…そう市原悦子さんが名調子で言っていた、〈典子の見ようとする意志が、彼女のからだ全体を眼にし、典子は見るのです、ピカソの「ゲルニカ」を〉。
 このナレーションを聞いて、典子さんが「そんなことウソです」と言下に言い切ったときのことを思い出した。典子さんの言うとおり、それは無理というものでしょう。側のだれかが絵の大きさや構図や色や形を正確に説明してやったとしても、晴眼者が見るように見ることは不可能のはずだ。
 ただこのときの「見ようとする意志が…」という言葉が私の意識にずっと残ってしまって離れない。それは、またオルテガを引き合いに出すことになるが、われわれは眼という器官があるから見るようになったのではなく、見ようとする意志が器官を作ったのだ、といった趣旨の言葉(確か『ドン・キホーテをめぐる思索』の中で)と重なってしまったような気がする。それで?
 いやその言葉の力に押されて、私も日常生活の中でそれを実践していることを言いたかったのである。つまらないことですよ。私たち夫婦は、朝食は二階の居間でトーストにコンビーフ(本当はもっと安いニューコンミート)やレタスを載せたものと牛乳ですませ、昼食は下から頴美がお盆に載せて持ってきてくれる料理を食べ、夕食は下でみんなと一緒に食べる。つまり朝食で使ったカップなど、二階の洗面所で洗うのだが、その際、私の手の指は、見えない食器の内部をまるで見えるかのように丁寧にまさぐって汚れを落とす。
 変なこと書いてる、と我ながら思うが、要するにおざなりに洗うのではなく、どんな汚れも見逃さないように、五本の指、とりわけ中指と薬指の腹でなめるように全神経を張り詰めて洗う。そしてそのとき、指紋は犯罪調査のためにあるのではなく、物を良く洗うためにこそあるのだと納得する。あれがツルンとしてたら、汚れを落とすことは不可能だから。
 本当は、毎日繰り返さなければならないつまらぬ行為を、すこしでも意味あるものにしたい、と思っているわけだ。つまり生活全体はどこに流れていくのか分からない、しかもやることはいつも同じ、だからせめてそのうちの一つでも完璧に果たすことによって、生活にアクセントをつけたい、と願ってのことなのだ。

佐々木 孝 について

日本のスペイン思想研究者。1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。6年間の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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