未整理の本棚から奇妙な本が見つかった。古びた一冊の Bantam Book である。題名もまさに奇妙である。“Very Special People”。作者は Frederic Drimmer、もちろん知らない作者だ。奇妙なのは題名だけではない。表紙の三枚の写真は、両手でほっぺたをゴムのように伸ばしている男。まるで巾着のようなドレスを着た黒人女性。巾着と言ったわけは、両足がドレスから出ていないから。そして最後は腰のあたりから三本目の足が突き出ている男の写真。
どうしてこんな本があるのか。唯一の可能性は、インターナショナル・スクールで司書をしていた美子経由でわが家の本棚に紛れ込んだのであろうということ。さらに推測するに、一度は図書館のために購入したが、実物を見て、これは子供たちにはあまりに刺激的と判断し、図書館印も押さず、登録もしないで家に持ち帰った。いや、自主的判断というより、シスターのだれかに注意されて廃棄処分にしたものを、ひそかに持ち帰った。たぶん後者だろう。
というのは、美子はこの本を危険で忌まわしいものとは思わなかったであろうからである。そう言えば、彼女はたいていの人が非難し、嫌悪し、軽蔑しているもの、に関心を持ち、ときには気持ちを寄せたからである。たとえば今思い出すだけでも、帝銀事件の平沢貞通、連続殺人犯の大久保清、連合赤軍の永田洋子、などなど実際の事件の犯人たちに興味を示し、関連出版物を購入して読んでいた。あるいは映画『エレファント・マン』の原作や法医学関係の本を熱心に読んでいた。
もちろんそれは彼女の幅広い読書対象のほんの一部であり、もっとも好んだ作家は森茉莉であり武田百合子であったが。しかし彼女がいわゆる人間や社会の暗黒面に関心を持っていたことは事実である。暗黒面とは言わないまでも、人間の弱さ、退廃に私とは違う見方をしていたのは確かである。
そうした傾向に初めて気づいたのは、彼女が大学時代、石川達三の『転落の詩集』を愛読していたと聞いたときである。私自身は興味も関心もなかったので、読む気にもならず、たしか新潮文庫版のその詩集は今も本棚の隅で埃をかぶっているはずだ。つまり私は昨日のモンテイロの話の続きではないが、デカダンスとか人間の醜悪面をつねに避けてきたのである。
さて先ほどのバンタム・ブックに戻るが、ざっと見ただけでも、それが興味本位のものではなく、しごく真面目な本であることが分かる。冒頭に作者のおおむねこんな言葉が載っている、「彼らは確かに私たちとは違うが、しかし彼らは私たちに、その不屈の精神をもって、自分たちの恐ろしいまでの奇妙さをけっして逃げていないことを教えてくれる」。
もちろん奇形と犯罪を同列に論じることはできない。しかしそのどちらも、不快感を与えるもの、忌まわしいもの、として目をそらすだけでは、問題は一向に解決しない。
「さぁさぁ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 御用とお急ぎでない方…」と昔は奇形の人間を商売にするとんでもない輩がいた。しかし当今人前にさらされることはなくなっても、奇形に苦しんでいる人たちがいなくなったわけではない。今はたんに隔離されているだけである。
本物の人間学や哲学、そして文学は、そうした問題を避けては成立しないはずだ。今では確かめることはできないが、美子は漠然とそう考えていたのかも知れない。いまさら大久保清や永田洋子の本を読むつもりはないが、若い美子が『転落の詩集』のどんなところに惹かれていたのか、それを確かめることぐらいはできそうだ。T. S. エリオットのプルフロック的世界や転落の詩集、追体験しなければならない課題がまた増えた。
いろいろな所作ができなくて、短気な夫にときおり小突かれている美子は、もしかするとその夫より、はるかに度量が広く聡明な人間(だった)かも知れない。いや「だった」ではなく「なのだ」。
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