ナトコ映画のこと

 玄関口からのインターホンが鳴った。出てみると「水道の検針にまいった者ですが、今月だいぶ使用量が多いのですが…」と言う。二月に一度、水道の検針にやってくる若い男らしい。急いで下りてゆく。前々回のときは、使用量が極端に少ないのですが、と言われた。そのときは息子夫婦が中国に二月ほど行っていた時期なので、理由がはっきりしていた。でも今回はどうしてだろう。
 
 水道を止めた状態で水漏れなどがないかもう一度調べてみると言う。結局、この夏場、この暑さで洗濯やシャワーなどいつもより多く使ったらしい。それにしても、この若い検針員には毎度感心させられる。応対が非常に礼儀正しいのはもちろんだが、使用量のチェックをしっかりして、増減が大きい場合、それを逐次使用者に尋ねるのだ。いろんな土地で暮らしたが、これほどきちんと仕事をする人は初めてだ。
 
 湯水のように使う、というのは水に恵まれた日本特有の言い回しだが、眼を世界に向けると、いたるところ深刻な水不足が問題になっている。もちろんその日本でも、毎月の水道料金は下水道使用量も含めて馬鹿にならない。いっとき若い人たちの中で「朝シャン」なんて言葉が流行ったが、私たちの世代にはにがにがしく思われる流行だった。
 
 子供の頃からわりと水を大事にしてきた。そのきっかけとなったのは、今考えるとおそらくナトコ映画の1シーンである。砂漠を行く探検隊の隊員が水をそれこそ命綱として大事に大事に扱っている様子が映されていた。この光景が頭からずっと消えないのだ。
 
 ところでナトコ映画とは何だったのか、今までまともに考えたことがないので、これはいい機会、とネットで調べてみた。「太平洋戦争後、日本に民主主義を定着させるために連合国軍総司令部(GHQ)が作った映画の総称。アメリカ製の16ミリ映写機<ナトコ>で上映されたことから<ナトコ映画>と呼ばれ、GHQの内部組織の民間情報教育局(CIE)が民主主義について教え分からせるために406種を制作」と出ていた。つまりこの種の映画を、終戦後まもなくのころ、学校や映画館でひんぱんに見せられたのである。

 2005年6月14日付けの読売新聞大阪本社の朝刊によれば、このナトコ映画のフィルムが徳島県内で大量に(201本)見つかり、そのうちの89本がDVD化されたそうだ。その中に果たして私が見た砂漠探検隊のものがあるかどうか、機会があれば調べ…いやいやそこまで調べるつもりはない。

 思えばわれわれ日本人は、かつてアメリカ軍にDDTやらチューインガムやら、このナトコ映画やら、いろんなものをもらったわけだ。中には腹の足しになったものもあった。そう給食時に飲んだ脱脂粉乳などの「ララ物資」である。「ララ物資」など、覚えている日本人は何割いるだろう? そのうち忘れ去られる言葉かも知れないが、できればあのスッカラカーンとどこまでも青かった終戦後の空、町に流れていた並木路子の「リンゴの唄」とともに、貧しくはあったが理屈抜きの希望に燃えていたあの時代のことは伝えていきたいものだが。

 おっと「ララ物資」の説明を忘れていた。これもネットにちゃんと出ている。「ララ物資とは、ララ(LARA;Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)の提供していた日本向けの援助物資のこと。
 
 このララ物資のおかげで、栄養失調から救われた子供たちがどれほどいたか。恩を受けたことに対する感謝の念を忘れるべきではないが、ただ今回調べてみてはじめて分かったのは、ララがアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体であること。つまりサンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としていることである。ところが、日本国内での物資配付にあたっては連合国軍最高司令官総司令部の意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付されたというのが真相らしい。
 
 やっぱり当時の日本人は、本当のことは聞かせてもらえない精神年齢12歳児として扱われたのだろうか。そうだとしたら、感謝の念はすこし差し引かねば。いや、そんなことを言えばその事実を秘匿したアメリカ人と同じになる。この際だ、あの時の青空のように、スッカラカーンと大らかに行こう…か。

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佐々木 孝

佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。
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3 Responses to ナトコ映画のこと

  1. 吉村 満 のコメント:

    ララ物資。占領軍は厳しい言論統制をした。日本の良い事は全てカット。連合軍の悪い話は些細な事でもカット。従わないと「紙」を融通しないと脅した。マッカーサーが「日本は12歳だ」ってね。彼のタワゴトでしょう。フィリピンで日本軍に恥掻かされてたからね、怒りが収まらなかったか。日本の歴史を「色めがね」(特殊な思想)を通して見ない日本人なら何れ分かるでしょう。彼の解任に際しての演説、老兵は消え去る等とどうでも良い事が紹介されますが、全文英語で見ると大東亜戦争は日本自衛の戦争と証言。又、ポツダム宣言原文もヒドイ事を言ってます。日本には立派な「17条憲法」「五箇条の御誓文」など、本々ありました。小生S18年生。H26/12/19記
    (日本が可愛いから、つい余計なお節介をしてしまいました、jazzバンドでベースだけ弾いてりゃいいのにネ)

  2. 三木 文明 のコメント:

    今を生きる我々日本人は、先の戦争に負けたことにより、言いたいことを言い、したいことをし、自由に生活出来る環境にある。このことは戦勝国であったアメリカが日本に進駐したことに意味があると私は考える。もしも、ソ連に進駐されていたらゾッとする。東欧諸国の運命が、そのことを物語る。占領された以上その占領国に文句は言えない。アメリカが民主主義の国でよかったと思う。ララ物資やナトコ映画のように、情報公開等色々問題もあろうが、当時の日本人(私も含めて)は、好意的に受け入れたのであり理解出来る。

    • 佐々木 孝 fuji-teivo のコメント:

      そうですね。ただしこれから先も、現代日本の政治家たちのようにまるでアメリカの属国のような境涯に満足すべきではないでしょうね。誰かさんはむかしノーと言える国に、とかなんとか言いましたが、それ以前に、近代国家そのものの在り方を根本から考え直す政治哲学が必須です。そういう政治家、残念ながら見当たりません。国家百年の計と言いますが、問題はその国家像の根源からの見直し。本当に息の長い闘いが必要です。
       三木さんはもしかして私に近い年代でしょうか。もしそうでしたら、若い世代に少しでもいい世界を残せるよう共に頑張りましょう。

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