人身御供

 今日は月一度の「島尾敏雄を読む会」の日だが、毎年十月は埴谷雄高と島尾敏雄ゆかりの場所周覧ということになっている。朝から曇り空で心配だったが、午後二時の集合時間近くになって小雨がぱらつきだした。しかし埴谷家の墓所以外は小雨なら問題ないということでT氏運転の車で出発。参加者は(うちの美子も入れて)六人。
 
 コースはこれまでと同じなのでここでの説明は省略するが、しかし雨の中の散策は、結果的に非常に趣があってよかった。参加者の一人は、埴谷家跡のすぐ近くで少女時代を過ごしたAさんで、例の般若峠を何度も通った昔の思い出を語ってくれた。どんよりとした曇り空の下で、記憶装置が活性化されたのか、私にも遠い昔のある記憶がよみがえった。家に帰って日記で確かめてみると、それは一九八六年十一月三十日、珍しく埴谷さんから電話があったときの記憶である。
 
 一九八六年といえば島尾敏雄が亡くなった(十一月十二日)年だが、葬式に行けず、一週間後あたりに、美子と夜行列車で鹿児島に行った。そのときのことは同人誌「青銅時代」に美子の日記交じりの文章を書いた。その鹿児島行きの報告をしたことに対するお返事の電話をいただいたとき、当時使っていたワープロの練習のつもりか、埴谷さんのお話をかなり忠実に書き取っている。
 
 「島尾君の家の様子が君の写真のおかげでよく分かった。玄関脇の書庫とか、島尾君がどこで倒れたとか。ミホさんやマヤちゃんも年を取ったね。ところで一つ気になったんだが、『群像』に出した追悼文に、島尾君は生涯借家住まいだったと書いたんだが、君の写真を見ているうち、もしかすると今度の家は買ったのでは、と思い始めてね。まあ、どっちにしても生涯の大半は借家住まいだったから、そのままでもかまわんがね。この頃の文士はみな自分の家を買うようだが」
 「埴谷さんは鹿児島の生まれでしたか」
 「いや、生まれは違うが、僕の母が鹿児島の出でね、祖父は西郷とか大久保を教えた陽明学者で、なに大して優れた学者ではなかったが、ただ偉い人たちを教えたということで、名前が残っていてね。戦前には銅像もあったんだが、今はなくなった。名を伊藤潜龍といってね。鹿児島県人は非常に郷土意識が強くてね」
 「こんど初めて知ったんですが、木曽川の堤防工事に鹿児島県人が駆り出されたということがあったんですってね」
 「そうだ。明治政府は、鹿児島藩の力をなんとか殺ぐ必要を感じたんだろうね。工事責任者は工事を完了するために自分の奥さんを人身御供に供したという史実もあるくらいだよ」

 そこで唐突に会話記録は途絶えている。で、いつものとおり前置きが異常に長くなったが、実は今日の思い出の中で、どこの堤防工事のことか、そしてなぜ人身御供の話になったか、がはっきり思い出せず、それで古い日記を引っ張り出したというただそれだけの話である。お粗末でした。

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佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。
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