今日はスペイン語教室の忘年会。家の近くだから歩いていくつもりだったが、聴講生のひとりTさんから電話が入り、七時ちょっと前に車で迎えに行くとの有難いはからい。かくして九時半ごろまで、フォルクローレのミニ・コンサートもあって、実に楽しいひとときを過ごさせてもらった。
例のごとく途中、各自が近況報告をすることになった。自分の番になってさて何を話そうかと一瞬迷ったが、世の中にはたいして大きな名声は得られなかったにせよ、誠実かつ謙虚におのれの生と天命を全うし、それゆえにこそ死後も熱い支持と追慕を受ける人たちがいることを、画家・香月泰男を例に話した。
昨日手に入れた香月婦美子『夫の右手』には、夫の思い出を語る妻の文章を飾るように、三〇枚ほど夫・泰男の絵が収録されている。一度テレビで見たシベリア抑留を題材とした暗い絵と違って、いずれも黄土色と黒を基調にした母と子や父と子を描いた絵で、見た瞬間惹き付けられ、そして虜になった。版画、それも子どもが彫った版画のような図柄、つまり目や鼻など細部が塗りつぶされたような顔や姿が描かれているのだが、それが実にいいのだ。
絵は姿や形を描くものだという常識を見事にくつがえすのが香月泰男の絵。つまりそこに描かれているのは、まさに互いを愛し慈しむ魂が描かれているのだ。たとえば一九七〇年作の「母と子(駄々子)」(19.6×14.8cm)などは、幼い子を抱いた母親の後姿を、黄土色の地に無骨な筆致で黒くなぞっただけの絵だが、母親の慈愛と幼児の信頼がそのまま露出しているような印象を受ける。
1947年、シベリヤ抑留から引き揚げてからは郷里の山口県三隅町(現・長門市)を離れず、教員をしながら創作に励んだ。一九七四年、心筋梗塞で世を去るが(享年六十三歳)、その遺作は郷里の「香月泰男美術館」に展示されているという。いわゆる有名画家ではないかも知れないが、氏の作品に魂を揺さぶられた人たちに、これからも確実に愛され続ける画家に違いない。
香月泰男美術館のひそみに倣って、といって私の場合は死後ではなく生きているときから、そしてさらに根本的な違いは他人からではなく自分から、小さな文庫・貞房文庫を作ろう。先日来やってきたように、本箱の片隅に、ほとんど注目されずに埋もれている本にいまひとたびの光を与えよう。たとえば今日、二冊の岩波文庫が届いた。関敬吾編の『日本の昔ばなし』のⅠとⅡである。つまりこれまであったⅢとこの二冊を合本にしたかったわけだ。花模様の古いハンカチで布表紙の合本を作ってやった。
本そのものがすなわち一個の工芸品のような、そんな夢のある小さな図書館。以前夢想したように、それ自体で小さな宇宙であるような図書館。そしてそのガイドブックを作ってみたい。だれかがこの小宇宙に迷い込んだら最後、その魅力に捕らえられて、外に出て行くより一生この迷路のような入り組んだワンダーランドに留まりたい、冒険の旅を続けたい、と思えるような魅力的な私設図書館を作りたい。もちろん富士貞房の私家本の数々も、この図書館の目玉の一つとなりますように。
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