実はあの後、論評すべき彼の評論集を少しずつ読み始めた。著者から贈られたのに、本棚の隅に置いたままで、今までまともには読んでいなかったのである。そして読んでいくうち、これまで彼あるいは彼の著作に漠然と感じていた違和感というか距離感が次第に消えて行くのを感じないではいられなくなった。どうしてだろう?
以前、これと似た経験をしたことが記憶の底から浮かんできた。そうだ、それまでどうも理解できなかったある詩人の作品が、ある時からとつぜん分かり始めただけでなく、急に親しいものに思えてきたのだ。つまり彼の詩作の根底あるいは中核に、亡き妻に対する強い愛惜の念があることに気づいたからである。その瞬間、詩人としての彼の力量とか、いわゆる詩壇の中での彼の位置など、その愛の強さと深さの前でなにほどのものだろうか、と思い始めたのである。
詩の批評もっと広く言って文学の批評にとって、これは邪道かもしれない。いや邪道なのであろう。しかし問題が何のための文学か批評か、というところまで行くと、答えはそう簡単に出てくるものではない。たとえば歴史あるいは歴史学についても同様である。実証的な研究を踏まえてある精緻な歴史的図式を組み立てることと、一人の母親が我が子の遺品を前にして感じるであろう様々な想いを比べて、後者より前者の価値が高いと言い切ることは可能か?
いやーそこまで行くんかい?んっ、そうだね、そこまで行くと一挙に絶対零度に戻ってしまって、そこですべてはフリーズしてしまうだろうね。もはや進歩、進展は不可能になる。にっちもさっちも行かなくなる。どうしてもまた価値の世界、評価の領域に出て行かねばならない。だから大事なのは、その絶対零度の地点と現地点とのあいだに往還の通路を作っておくこと、必要とあらばいつもその<原点>に戻れることであろう。そうすれば、19世紀の能天気な進歩主義のような陥穽にはまることはないであろう。
ちょっと大風呂敷を広げすぎた。本道にもどろう。そしてここまで来ると、もはや匿名のまま話を進めることもなかろう。そう、私が書評しなければならぬ本とは、寺内邦夫氏の『島尾紀 島尾敏雄文学の一背景』(和泉書院、2008年)である。そしてこの本というよりこの本の作者寺内邦夫理解の端緒となったのは三番目に収録されている「島尾マヤさんの葬送」である。
この文章は同人誌「青銅時代」の第44号(2002年)に発表されたものであり、発表時にざっと目を通したはずなのだ。しかしそのときは、書き出しの部分、すなわち沖縄航路のフェリ-<なみのうえ>船上の細密描写、とりわけ半ズボン姿の小学生男女の<無人島探検隊>の紹介の文章でひっかかり、あとはろくに読まなかった記憶がある。昨日触れたマクロとミクロの不均衡につまづいたのである。しかし今回はそこのところを怺えて読み進んだ。
次第にマヤとその家族に対する著者の温かな関心と愛が強く意識されるようになった。その瞬間である、あたりの空気が、もちろん文章の中の世界が、一変したのだ。そうなるとあの<無人島探検隊>までが、この葬送の儀礼の流れの中の必然へと変化したのだ。そして残るのは、著者のかつての恩師とその流浪の家族に対する温かな愛である。なるほど島尾敏雄は一人の忠実この上ない伝記作家を持ったのである。
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