死者あまた上陸す

 小高駅近くの線路の上をまだ出征前の二人の青年が歩いてくる。確か半袖シャツ姿だったから、季節は夏だろうか。そんな写真を、作家真鍋呉夫さんのお家で見たことがある。二人の青年のうちの一人は、小高を本籍とし、幼年時代から休みごとに小高の母方の実家に帰省していた後の作家島尾敏雄であり、もう一人はその九大時代の友人、やはり後に作家となる眞鍋呉夫さんである。昭和16~17年ごろの写真ではなったか。もちろんその時以来、レールは擦り減って何度も交換されてきたであろうが、しかし路線そのものは、その場から変更されることなく、その上を何十年にもわたって貨車や列車車両の数知れない通過を支えてきたわけだ。しかし今その鉄路は、その上をもう三ヶ月以上も電車が走らないまま冷たく横たわっている。昼日中は昆虫や小動物たちがその上を徘徊し、夜には錆付きはじめたその冷たい重いむくろを月光に晒しているのであろうか。

 そんな光景を思い浮かべたにはわけがある。昨日、気になりながらしばらくご無沙汰していた真鍋呉夫さんに久し振りにお電話さしあげ、しばらくお互いの近況を話し合ったからである。お嬢様の優さんのお葉書で、眞鍋さんが昨年九月末、背骨の圧迫骨折で入院加療のあと、自宅で回復期を送っておられることは知っていた。電話にはもしかしてお嬢様が出られるかなと思っていたら、直接先生が出てこられた。お元気そうですね、と言ったら、声だけはね、とのお返事が返ってきた。

 ところで先生と呼ぶにはわけがある。いや正確には先生よりむしろ宗匠と呼ぶべきなのだが。話はだいぶ昔にさかのぼる。1991年夏のこと、真鍋宗匠の捌きで、関口芭蕉庵を会場に数回にわたって行なわれて連句の会に夫婦で参加したことがある。そのときのことは、私家本『島尾敏雄の周辺』収録の二つほどのエッセイで書いているのでここでは繰り返さない。俳句などとはまったく縁の無かった私には、それこそ未知との遭遇だったが、実に得るところが大きかった。とはいえ、その後すっかり俳句とは無縁の生活に戻ってしまっているが、できれば死ぬまでもう一度、あの連句の会の濃密な文学体験をしたいと願っている。

 とこう書きながら、実は本日捜索した二冊の本がとうとう見つからなかったことを白状しなければならない。探し始めても根気が続かないのである。美子を引っ張って一段一段休みながらゆっくりゆっくり階段を上がるときのように、本の整理も一冊ずつ一冊ずつ、長い時間をかけて整理してゆくしかないのかも知れない。

 ところで前述のエッセイにも書いたことだが、その連句の会でヒットを連発したのは私ではなく美子の方だった。真鍋宗匠にその日いちばんの秀句と褒めていただいた美子の句に、「充ちてたふるるイカのとっくり」があって、ビギナーズラックだな、と茶化しながら、本気で悔しがったことも今では懐かしい思い出になってしまった。

 ともあれ、優さんのおハガキで初めて知ったのだが(弟子?としては申し訳のないことだ)、昨年宗匠は二つも賞を取られたていた。一つは句集『月魄(つきしろ)』(邑書林、2009年)で俳句界でもっとも権威ある蛇笏賞を、そしてもう一つも『月魄』によって日本一行詩大賞を獲得されたのである。つまり昨日から探していたのはその『月魄』と、もう一つ是非ご紹介したかった句が収録されている『定本雪女』(邑書林、1998年)だったのだが。

 ただその蛇笏賞の受賞を知らせるネットで、またまた凄い句にぶつかった。

     死者あまた 卯波より現れ 上陸す 
   
である。氏の句には、「われ鯱と なりて鯨を 追ふ月夜」というスケールの大きい句もある。喩えはいささか穏当でないかも知れないが、黒沢明『用心棒』の冒頭のシーン、つまり砂塵吹き荒ぶ街道で人間の腕を咥えて野犬が街道を横切るシーンを思わせる凄さがある。卯波とは陰暦四月のころ海に立つ波のことだが、どうして四月に死者たちが海から上がってくるのか、もしかして句集の中で解説されてるのかも知れないが、いま、大津波が襲った村上の浜や渋佐の浜で流されたあまたの死者たちのことを考えると、句の凄みがさらに加わるような気がして、これまた忘れられない句になりそうだ。

 自分に詩人としての素質がないことから来るやっかみのせいか、一般的に詩人や俳人に対していささかの不信感のようなものがある。つまり言葉と苦闘しての辛い作業をいいかげんなところで端折って、ちょこちょこと短い言葉を並べ、後は読者の深読みに任せるといった風の省エネ走法が好きでないのだが、真鍋宗匠の句には積み重ねられた無数の言葉の凝縮を感じる、つまり一語一語が立って来る迫力を感じるのだ。

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佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。
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3 Responses to 死者あまた上陸す

  1. 松下 伸 のコメント:

    「カンパーイ」
    遅くなりました。
    83歳の老母付き添いでした。
    健康。大事ですね。
    皆様もぜひ、お大事に・・

    奥様の秀句に
    恐れながら、付けさせて頂きます。

    美酒と言い
         いや美味と言い
              継ぎ注ぎに

    お粗末。
    宮中の歌会で、歌の不出来を
    橘諸兄になじられた、
    秦朝元の気持ち。よく分かります。
    でも、連歌は、詩文よりも
    場の空気が大切と思います。

                     梁塵(恥)

  2. さらり のコメント:

        
     佐々木先生 長いご無沙汰お許しください。
    週刊誌上で懐かしいお二人のお姿を拝見いたしました!
    モノデアロゴスは始められたころからズーと愛読しておりました(少し前にサンチャゴ巡礼で留守にした日々を除いて)。
    大切な本「夢と現実」を誰かに貸して失くしたとの、ある日の記述を読んで跳び上がりました。私の棘となっておりましたから。どうかご海容ください。
     ところで、お探しの本は真鍋呉夫さんの蛇笏賞受賞句集「月魂」(つきしろ)でしょうか。
    もしや真鍋さんとの「雁の会」で巻いた連句の原稿と、先生がお書きのエッセイ「われ俳諧の裾野に徘徊す」の原稿ではありませんか。嘗て頂いたコピーの隅に江古田文学第19号とあります。……そんな気がしてなりませんでしたので…。余計なことと知りつつ書いてしまいました。あらためて奥様美子さんの俳諧味あふれた数々のお句に驚いております。
     先生奥様どうぞくれぐれもご自愛くださいませ。      
                永らへて切抜き帳の梅雨湿り  さらり

  3. fuji-teivo のコメント:

    さらり様
     サンチャゴ巡礼で、もしかしてあの人かな、と見当つけるのですが、見事な句を見て、いやいやあの人ではなく、この人だ、とまたもや迷います。近頃記憶力大幅減退で、確かな特定には至りません。ついでの折にでも教えてください。
     今回の震災後、すっかり音信が途絶えていた人と思いがけない「再会」を果たして、人生の妙味を感じてますが、どこかでこのブログをご覧になってたらいいな、できれば連絡して欲しいな、と願ってる人が一人います。「えにしだ」さんです。
     なんだか「尋ね人コーナー」めいてきましたが、以上よろしくお願いいたします。

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