むかし『手錠のままの脱獄』(1958)という映画があった。『暴力教室』などで有名なスタンリー・クレイマーが製作・監督したもので、互いに鎖で結ばれたままの黒人と白人の2人の脱走囚の物語である。アメリカの人種問題を極限状況に置いてみたらどうなるか、という製作者の意図が見え見えではあったが、主演のシドニー・ポワチエとトニイ・カーティスの好演でなかな面白かったという記憶がある。ポワティエはこの作品でベルリン映画祭男優賞を受賞したそうだ。
いやそんな映画のことを突然思いだしたのは、昨朝の失敗に懲りて、かんたんに紐が外れないためにはどうすればいいかを思案しているとき、ふと玩具の手錠のことを思いついたからである。しかし玩具とはいえ、それはあまりに剣呑というもの。結局は古いバッグの革紐を利用して、時計のバンド状のものを作り、それに念のため百円ショップで買った極小の錠前をつけた。つまりバンドの金具(あれは何と呼ぶのか)だけでは、かんたんに外れて(外されて?)しまうので、革の先端に穴を開け、そこに錠前をつけて抜けないようにしたのだ。
またまた寒気が戻ってきたのか、からだが芯から冷える一日であった。そんな寒さの中、ときおり階下の書棚を見に行くのだが、息子の引っ越し荷物が片付いてないので、近づくことができず、まだ見つからない。探しているのは、西澤龍生氏の『スペイン 原型と喪失』という本である。「貞房文庫」のリストに載っているのだから、あることは間違いない。しかし頂いた(?)まま、まともに読んでなかったのだ。オルテガを翻訳するのに、敢えて『エスペクタドール(傍観者)』とか『狩猟の哲学』(2001年、吉夏社)を選択されたこともさることながら、氏が歴史家・思想史家としての独創的な見解を『史の辺境に向けて――逆光のヨーロッパ――』(未来社)で披瀝されていることが急に意味を帯び始め、その流れで、氏の独特な視点からのスペイン史観が展開されているであろうあの本を、いままで読んでなかったことが気になりだしたのである。
要するに、自分を数少ないスペイン思想研究家の一人とみなしてきたことが、急に恥ずかしくなったのだ。氏はもともとは下村寅太郎門下の出で、留学中のドイツでオルテガの著作と出会われたと聞く。私のようにスペイン語の学習者として、徐々にスペイン思想に近づいていったのとは別のルートを辿られたわけだ。もしかして、私の方が正門から入ったなどと自負していたのでは? あゝそれはとんでもない心得違い! 思想、いや真理などという繊細微妙な代物に対しては、正門突破よりむしろ脇門あるいは搦め手から、オルテガ自身の言いぐさを借りるなら(『ドン・キホーテをめぐる思索』、「読者に…」)、あのイェリコ包囲戦のように、「われわれの思考や感情は、大きく弧を描きながら、ゆっくりと相手との間隔をちぢめ」る戦法をとらなければならないのだ。
まだ見つけていないので詳しいことは分からないが、『原型と喪失』では主に二人の思想家、すなわちオルテガの高弟フリアン・マリアスと、かつて氏と筑波大学で交流があったと思われる、実にユニークなスペイン史観の持ち主フェルナンド・サンチェス・ドラゴーを俎上に載せておられるらしい。その本の出版と相前後して当方の生活上の大変化があったとはいえ、これまできちんと読まないできたことは大きな損失であることは間違いない。ともかく明日も気合を入れて捜索を続けよう。
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