替え歌誕生裏話

 きっかけは単純に音であった。昨今「ジョセン、ジョセン」とかまびすしいが、その音が「ジョシュウ、ジョシュウ」を連想させたのだ。元歌の「麦と兵隊」は昭和13年に作られたそうだが、軍歌というには、また何と物悲しい歌だろう。これじゃ負けるのもとうぜん、と思ってしまう。

 初め3行目は「補助金もらって振り返りゃ」だったが、それだと主人公は立地町村の人に限定されるので、「思いあぐねて」と一般的な表現に変えた。また4行目は「聳え立つ」だったが、そして事実憎たらしいまでの威容を誇っていたが、夕陽に合わせて「照り返る」に、そして5行目は「セシウムまみれの麦畑」だったが、セシウムなんて聞くのも嫌な言葉を避け、また「麦畑」なども無いので、代わりに私の好きな「浜通り」の別称「浜街道」に変えた。

 実は1番だけ作って後を続けるつもりなんぞ無かったのだが、いつもパソコンの危機を救ってくれてきたYさんが、珍しくメールで、ゆうちゅーぶの美空ひばりに合わせて歌ってみた、ついては少なくても3番くらいまで作ってくれないか、とリクエストしてきたのだ。煽てには乗りやすいタイプなので、えーい面倒だ5番まで、と張り切って作ってしまった。

 いや、そんな裏話を、ほんの手遊びの替え歌についてするのも変な話だが、彼以外にほとんど反応がなかったことが不満でもあった。このところ美子に関する新しい展開にいささか「うろたえて」いたし、心細くもあったので、この無視が少々こたえていたのだ。折りしも、こういうとき不思議に事態を察知して励ましてくれるN.Oさんからこんなメールをいただいた。

 「2日付けのブログで、美子さんのご様子を読ませていただきました。深く胸が痛み、その深刻な状況に言葉を失うばかりです。
 でも、涙を流されているとの記述に、正直ほっとしました。皆様が、生きる中でのいろいろな想いを巡らせて、何かを求めて訪ねる場。そこで『どうか教えを』と請われるお立場ゆえに、其のお立場が、時には孤独をもたらすことがあるのではと勝手に案ずることがありました。
 皆様の求道の場が、佐々木孝さんの『心の奥深くの真情を吐露することが出来る場』にもなり得ていることに、嬉しさを感じます。一読者としてしっかり受け止めたいと思います。」

 裏話を、とんだ楽屋落ちを、二つも重ねてしまった。気が弱くなっているんだろう。ここまで「落ちた」なら、ええい面倒だ! 先の替え歌の「解説」までやっちゃいましょう。たぶん世の作詞家は、自分の作った歌詞の中に、これはと思うフレーズを一つか二つ仕組んでるはず。さてそれはどれでしょう? なーんてあつかましい謎々で申しわけない。分かるはずもないでしょう、戯作家の勝手な思い入れなんですから。

 えっ、あなた分かった? えらいっ! そう3連目の最後「婆さますまねえあの世で探せ」でした。

 ところで国見山は南相馬付近の阿武隈山系で二番目に高い山、といっても563.7mですが(一番高い山は、新田川の上流にある656.1mの大足山だそうです)2011年7月、福島県における森林資源活用施設等の環境放射線モニタリング調査により、国見山森林公園多目的広場(駐車場)地内放射線 測定値が国の暫定基準3.8μSv/hを超えたことから現在利用が制限されている。つまり山菜採りはできないわけだ。

 それから百尺観音は、国道6号線を北に向かって少し走ると左手の小高い丘をくりぬいて作られた磨崖観音像で、先日のエトワールさんのご報告だと腕の部分が少し壊れているそうだが、いつか皆さんにもぜひ訪ねてもらいたい隠れた名所である。

 また「婆さま」は「ばっぱさん」と同じく、相馬地方で良く使われている言葉である。いま十和田にいる我が家の婆さまも南相馬に戻ることを楽しみにしてきたが、このところ、どうも車の長旅は無理な状態らしく、ひとまず兄に任せて息子一家だけが先に帰ってくることになるかも知れない。そうなればばっぱさんの守護の天使・曾孫の愛にとうぶん会えなくなるのがなんとも可哀相だが、しかし曾孫に会いたい一心で奇跡的に恢復してくれることを今は祈るだけである。

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佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。
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1 Response to 替え歌誕生裏話

  1. エトワール のコメント:

    「麦と兵隊」を作詞した藤田まさと氏は、戦後、「傷だらけの人生」、「岸壁の母」、「浪花節だよ人生は」などの昭和歌謡の名曲を世に出した好きな詩人の一人です。昭和13年に雑誌「改造」に連載された火野葦平氏の小説「麦と兵隊」が評判になったため、陸軍報道部が、藤田氏に作詞を依頼し、この曲が生まれました。藤田氏は、最初「ああ生きていた 生きていた 生きていましたお母さん・・・」という詩を作って、陸軍報道部へ提示しましたが、軍当局から「軍人精神は生きることが目的ではない。天皇陛下のために死ぬことが目的だ。」と大目玉を食らい、改作して「徐州 徐州と人馬は進む・・・」という歌詞に書き直したといわれています。

    今、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」が世界的に流行しています。いつか、昭和の歌謡曲が世界的に流行する日が来るといいなと思っていましたが、意外に近い将来、本当にそういうことが起きるかもしれません。日本的感性は、そうしたなかにひっそりと息づいているような気がします。

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