恩師、もはや死語か(二)

 どこかの仮設住宅の中に据えられた真新しいポストの前で、今年は書く気になれなかったが、一枚書いたら踏ん切りがついて、今年お世話になった人たちに感謝をこめて年賀はがきを出そうと思う、とテレビ画像の中で一人の老人が殊勝なことをしゃべっている。へえー偉いなー、と思うが、さて自分は、となると、どうも今年は欠礼させてもらおうかな、と思っている。どうにも書く気が起きてこないのである。だからそのご老人を、あんたは偉いっ!、と褒めてあげたい。
 
 書く気になれない理由は、原発禍の後遺症だけではない。実は最近、立て続けに二人の親しい友人を失っているからでもある。一人は私より若いかつての同僚の突然の死であり、もう一人は私より少し年上だが、長い間の闘病の末、しかもその間、病床で渾身の力を振り絞りながらこれまでの思索・研究の集大成とも言うべき著書を完成させた上での見事な死であった。

 いずれ彼らについて書くつもりだが、今はその気力も出てこない。出てこないだけでなく、実に小さいことに湯沸かし器を沸騰させている自分に我ながら嫌気がさしている。つまり「恩師、もはや死語か」で触れた出来事である。ただ言い訳じみたことを言うようだが、自分が冷たくあしらわれたからというより、おそらく今までも「恩師」たちが似たようなあしらいを受け、それなりに思ったであろうことを、今後のためにもあえて問題提起させてもらったと思っている。

 簡単に言えば、世俗的権威から自由であるべきミッション・スクールなどに時おり見られる世俗より数倍強固な権威主義のことである。今回のことについてもう少し詳しく言うと、その会報の目次の最初には会長、名誉会長、そして大学理事長のメッセージが麗々しく(といって会の名前に掛けているわけではないが)肩書きと名前入りで紹介されているのに、という思いが発火点であった。つまり現役優先、肩書き優先の精神というか姿勢に引っかかったのだ。要するに彼らは言わば身内、ならば客人をもう少し立ててもいいのでは、と思ったのである。
 
 ついでに思い出したのは同じ大学に勤めていたころに経験した権威主義と同根の事大主義の思い出である。そのころ、全盲の教え子赤沢典子さんのスペイン留学を追ったドキュメンタリー映画が完成した。ある夜、その大学では伝統あるマンドリン・クラブの年次コンサートがあり、これは宣伝のいい機会だと、一家総出で(いや美子と二人だけだったか?)出かけたときのことである。コンサートが始まる前だったか(はや記憶は薄れかけている)、クラブの部長に、急で申しわけないけれど、あなた方の先輩のドキュメンタリーが今度公開されるが、そのことを休み時間の場内放送で紹介してくれないか、と頼んだのだ。ところがその部長、教師である私の願いを、今夜は私たちの年に一度の大切な発表会だから、そんな宣伝などお断りします、とほざいたのだ!

 ええっ!、商業映画の宣伝でもなければ、演奏の途中でもない、客がロビーでおしゃべりしている休み時間にだどーっ!
 
 こうなりゃ教師もへったくれもない! いやてめーらの下手な演奏など聞いてられるか! そう叫ぶと、何がなんだか分からないでいる美子の手を引っ張って帰ってきてしまったのだ。ヤクザのような教師に怒鳴られたショックで、その部長、よよと泣き崩れたかどうかは知る由もない。いや、不良教師にからまれたくらいのことで動揺するような玉でも(おっと失礼!)あるまい。
 
 こう二つ並べると、なんのことはない、ただのお嬢さん学校の世間知らずじゃないか、とも思われてくる。いや、私は初めから彼女たちに悪意があるなどとは天から思ってなどいない。前者は、簡単に言えば、自身この大学の退職教師の或る友人の言い草を借りると、単なるエディターシップ(さすが英文の元教師!)の欠如であり、後者は学芸会を前にした幼稚園児の並みのハイテンションであろうからだ。ただし彼女たちがそれが学園の伝統とかしきたりであり、そのまま社会にも通じると思ったら間違いである。ふつうそうした対応の仕方を慇懃無礼と言っているからだ。
 
 もしかすると、いやほぼ確実に、彼女たちは私のような人間を、下品だとかはしたない、と思っているのかも知れない。どこかのミッションスクールでは、「こんにちは」の代わりに「ごきげんよう」と言う、いや言わせるらしい。私からすれば、そんな風習だか伝統は、たんに気色悪―としか思えない。世間より自分たちが一段上等な人間だと錯覚させるだけで、実はそれこそ純粋培養の世間様にほかならないからだ。書いていてだんだん気分が悪くなってきた、この辺でやめておく。

※追記 大事なこと忘れてました。文中にある赤沢さんのことからもお分かりのように、かつての学科主任の口から言うのもなんですが(何だ!)、スペイン語・スペイン文学科は、教師も(残念ながら皆とは言えませんが)学生も(これは全員)、権威主義や事大主義とは無縁の、それはそれは自由な精神の横溢する学科でしたぞい。つまり文中、槍玉に上がっているのは他学科の学生もしくは卒業生だということです、ハイ。ただし最近のことは知りません。

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佐々木 孝

佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。
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4 Responses to 恩師、もはや死語か(二)

  1. エトワール のコメント:

    1913年、ウィトゲンシュタインは、父の死によって莫大な資産を相続します。それまでケンブリッジ大学で精力的に研究を進めていましたが、多くの学者に囲まれたなかでは最も根元的な問題に到達できないという感覚を抱くようになります。多分、大学の権威主義を嫌っていたのではないかと思います。彼は、この年突然イギリスを離れ、ノルウェーの山小屋に隠遁して全生活を研究に費やします。父親の遺産がたくさんあったので、山小屋の一つを借用する程度は、何ともなかったようです。彼はこのころ書いた論理学に関する論文で学位を取得することを考えていました。G・E・ムーアを通して大学当局へ学位取得を打診しましたが、「規定によると、学位論文にはきちんとした註が付いていなければならない(どこまでが先行する研究の引用で、どこからがオリジナルな研究かを示すため)ので、ウィトゲンシュタインの論文は規定を満たさず通過しない。」との返事がムーアから返ってきました。それを聞いたウィトゲンシュタインは瞬間湯沸かし器のように激怒し「なんて下らない規定だ。そんなのがあるなら地獄へ落ちたほうがマシだ。お前も地獄へ落ちろ」とムーアを罵倒します。この一件でウィトゲンシュタインは学位をとることができず、15年後にやっと学位をとっています。それでも、この時期が生涯で最も情熱的で生産的な時期だったと彼はのちに回顧しています。ウィトゲンシュタインの主著で哲学界に激震をもたらした「論理哲学論考」の元になるアイディアはこのときに書かれたといわれています。

    本日の記事を興味深く拝見いたしました。大学の権威主義を嫌っていたウィトゲンシュタンのエピソードとどこか似たお話のように思いました。大学に限らず、あらゆる組織にこうしたことはつきものだと思います。真の自由な足場の構築は、山小屋への隠遁か、匿名か、その他様々な方策を駆使しなくてはならないやっかいな世界に在るのが現状のようです。「私は私と私の環境である」ウィトゲンシュタインは、私の環境を抜け出すためにノルウェーの山小屋への隠遁を選んだのだと思います。

  2. 阿部修義 のコメント:

    エトワールさんが、真の自由な足場の構築と言ってますが、世俗の生活,名聞利達の生活というものは、自己の真実、人生の真義を失いやすいものだと私は思います。そして、佐々木先生は自己と人生の真実を模索され、モノディアロゴスを書いている。私はそう思います。

  3. 山本三朗 のコメント:

    佐々木先生
    I wish you a Merry Christmas!
    イヴだから書き込みをさせて頂きます。というよりは「先輩(?)たちの勢いに負けないで、どうぞこれからも気楽に書き込んでください。」との先生のコメントに甘えさせて貰っています。
    朝から年賀状と格闘していました。まだ終わりませんので明日へ持ち込みです。
    年賀状、日本郵便で思い出すのが先生の「原発禍を生きる」のP111、4月26日の投稿、「帰り道、なるほど、いままでどこに隠れていたのか、郵便局の車が一台、恥ずかしそうに全身真っ赤にして(ああもともとそうか)行き違った。」この文章、大好きです。思いだして、イメージするだけで笑みがこぼれます。
    冬型の気圧配置が強まり寒さも強まっています。皆様がお元気であることを祈っています。

  4. エトワール のコメント:

    いつも日曜日にギター教室へ行くバスの中では、本を読むことにしています。今日は、何となく書棚にあるすごくたくさんの本の中から埴谷雄高の「散歩者の夢想」という文庫本を手にとり、バスに乗りました。「存在と非在とのっぺらぼう」という小論を読んでいました。その中に次のような一節があります。

    足場を与えよ、さすれば、地球を動かしてみせよう。
    一つの緑色の天体儀の前に坐って、
    そう述べたものにならって、
    巨大な暗黒の空間を覗きながら、
    私も言おう。
    原資を与えよ。しかるとき、宇宙をつくりかえてみせよう、と。

    (埴谷雄高も足場を欲していたんだ。)とぼんやり思って、ページを開いていくと、その後ろに「無言旅行」という小論が掲載されていました。(あれ、こんなのあったかな。)と思って読み進んでみたのですが、この小論は、1966年に埴谷雄高氏が、佐々木孝先生とともに、小高町(当時)にあった先祖のお墓を訪ねられたときのエッセーでした。実名こそ出てきませんが、佐々木先生も文中に登場しています。

    偶然今日手にした本の中に、こんな小論を見つけて少し嬉しくなりました。神様がくれた素晴らしいクリスマスプレゼントのように思っています。

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