じゃ何をしてもらいたいんですか?

昨日、東京のボランティア・グループの一人として相馬に来ていた一人のシスターがわざわざ拙宅を訪ねてくださった。シスターといっても今は昔のように修道院の外ではまったく普通の服を着ているわけだが、玄関先で初対面の挨拶をしたときから、まるで旧知の間柄のように思えたし、夫婦の居間で美子を交えての会話の際も(もちろん今回の震災以後のもろもろの問題をめぐってのものだったが)、波長がピタっと合った実に心地よいやりとりとなった。
 話がたまたま障害者問題に及んだとき、肉親間でも、時には遠慮や過剰な思いやり(?)のためか、障害者側から見て、その距離の遠さに悲しい思いをさせられることに触れた。そしてその距離をなんとか越えてほしいとの願いに対して、相手がじれて、「じゃ私に何をしてもらいたいというんですか?」と言われたときの悲しさを述懐した。
 そのときシスターは「何をしてもらいたいというんですか?」という言葉に強く反応なさった。「そう言われたらおしまいです」という私の言葉に強くうなずかれた。障害者と健常者(と一応は分けるが)との間の距離は、そう簡単には越えられない。そこが障害者に限らず、いわゆる弱者と強者(と言うしかないが)の埋めがたい溝であろう。
 さてこのところの私のモノディアロゴスの嘆き(呪詛?)の根もそこにある。たまたま今朝、東京八王子で避難者たちのために頑張っている■からのメールで、11日にJR八王子駅南口連絡通路で彼が共催者の一人として行なった「追悼 東日本大震災復興写真展」のことを知った。非常に有意義な催しであり、その必要性重要性を強く支持したい。しかしなおその上で、地元で行われた追悼集会の際に感じたことを、こうした追悼行事にも感じることを言わないわけにはいかない(途端に婉曲話法に切り替わった)。
 確かにきわめて微妙な問題ではある。つまり私の意見のように少しでも批判めいた考えに対しては、「なにをぐたぐた言ってるんだ、いったい私たちに何をしてもらいたいんだ?」と逆に難詰されるであろうことは間違いないからだ。そうした反論に対しては、たぶん黙すしかないかも知れない。
 どう考えたって、拗ねている、相手の好意を素直に受け取らないひねくれ者との刻印を押されるかも知れない。
 しかし、しかしである。障害者や弱者の視点に立つと(と言って、私がその視点に間違いなく立てるわけがないが)、こう言いたくもなる。それ、自分で考えてよ。あなたは先ず、慈善家や係官(?)としてではなく、まず一人の友人として、いわば弱者・障害者・被災者と同じ位置に立ってみて。すると弱者が何を必要としているか、何を望んでいるかが自ずと見えてくるはず。で、その物なり好意なりを、さりげなく渡したり、やったりしてみては。いや時には物や行為ではなく、しばしただ黙って側にいてくれることをどんなに望んでいることか。
 「じゃ何をしてもらいたいんですか?」がとんでもなく思い上がった、傲慢な言い方であるか、以上の通りである。
 もちろん遠方からなんとか時間を見つけてボランティアでやってくる人すべてに、こんな難問を突きつけているわけではない。しかし少なくとも、いつも心のどこかにそうした優しい気持ちを持ち続けていてほしい。もちろんこれは先日、報道関係者X氏が指摘されていたポーズとしての <ちょっと寄り添ってみました病> とはまったく違う心の持ち様であることは言うまでもない。

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佐々木 孝 について

日本のスペイン思想研究者。1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。2018年12月20日、肺がんのため宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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じゃ何をしてもらいたいんですか? への3件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     立石先生のホームページを開いたら、イーデス・ハンソンの言葉がありました。「会ったこともない人々の人権を守るためには、想像力が必要です。想像力を持てるのは人間だけであり、生きている範囲を広いものにします」。先生の言われた「優しい気持ち」とは、この『想像力』のことのように思います。

  2. 宮城奈々絵 のコメント:

    以前、私が教会に行ってた頃、よく考えたことと似ている気がする…と思いました。
    クリスチャンなので、奉仕がしたい人が沢山います。でも、「相手のして欲しいこと」ではなく、「自分がしたいこと」もしくは「自分が相手に必要と思ったこと」を優先する人が多く、悲しい気持ちになることがありました。
    まず第一に考えることは、「相手に寄り添う」ことだと私も思います。

    「不必要」を伝えると「好意を受け取るのも愛」だと諭され、拒否は高慢だと言われて来ました。
    でも、弱ってる時に、自分の問題と格闘してる時に、元気な相手に気を使え…?とは変!だといつも思っていました。
    「だったら何をすればいいの?」と聞かれたら「何かすることが大事ではなく、相手の気持ちや立場を知ろうとすることが大事です」と言えたらよかったのに、と思います。
    強者は自己の姿が大きすぎて、弱き者の姿が影で見えにくいのかもしれないですね…。
    自分も気をつけたいです。

    先生や、福島の方々が、涙を流さずに過ごす日々が戻って来ますように、と切に願っています。

  3. fuji-teivo のコメント:

    以下のものは今朝受け取った私信ですが、昨日のスペイン・テレビを観ての大切なポイントを指摘されているので、ご本人の許可を得てここに全文をそのままご紹介させていただきます。
     
     佐々木 孝 先生

     また真冬の寒さに逆戻りしてしまいましたがお変わりございませんでしょうか。
    お知らせいただいたニュース映像を早速拝見いたしました。先生のお宅の書棚の様子や、かわいらしいお孫さんの愛ちゃんの姿をスペインのTV番組を通して目にすることになろうとは思ってもいませんでした。
     スペインの視聴者も番組の中で、いきなり被災地の日本人が流暢にスペイン語を話し出すの見て、驚いたに違いありません。大震災から1年ということで、こうした内容にならざるをえないのでしょうが、センセーショナルな津波の映像や防護服に身を包んだ記者の姿などばかりでなく、もっと前向きに頑張っている人々の明る話題も取り上げてほしかったと先のNHKの番組と同様な感想を持ちました。
     同志社大学にはこの4月から、昨年日本で博士号を取得したばかりの若いスペイン人が新任教員として赴任することになっています。彼によると、スペインの家族が心配して、日本で就職することに随分反対したとのことでした。
     震災を機に帰国したままになっている留学生も少なくありません。日本全体が放射能の危険にさらされているような印象を与えかねない映像が繰り返し世界中で流され、いらぬ不安ばかりが増幅しているのは本当に残念なことです。

     春のお彼岸が近いこの時期は、別れと新たな旅立ちの季節として毎年独特の感慨にとらわれます。このところ大学の9月入学への移行が話題になっていますが生命の復活を実感するこの時期に新年度をスタートするというこれまでの習慣を変えてほしくないというのが、私の個人的な思いです。
     今年はいつもより春の訪れが遅れているようです。
    どうぞ奥さまともども、くれぐれもご自愛くださいますように。

    同志社大学
    立林良一

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