お菓子な話

もうこれまで何度も使ってきた言い回しで気が引けるが、親鳥が子鳥に餌を運ぶように、昨日も西内君が美味しいものを運んできてくれた。お友達のお土産のお裾分けらしく、洒落た紙袋の中に入っていたのは最中が六個入った「ひとつ鍋」という北海道産銘菓。「ひとつ鍋」?、もしや?と思って製造元を見てみると、やっぱり帯広の御菓子屋である。
 西内君が帰ってから大急ぎで昔書いたモノディアロゴスを探した。たしかあのとき、たまたま地元のスーパーの小さな物産展で購入した「三方六」というバームクーヘンが私の生まれ故郷・帯広の銘菓で、その名前の謂れは、十勝開拓の父・依田勉三たちが使った薪の寸法に由来したとあったことからヒントを得て、私が或るお菓子のアイデアを考え出したのではなかったか。そしてそれがいよいよ売り出されたのだ!
 面倒なので、その時の文章をそのまま以下にコピーする。


三方六

 昨日、いつも買い物をするYBスーパーで珍しい北海道のお菓子を購入した。「三方六(さんぽうろく)」という長方形のバームクーヘン状のお菓子である。説明文にはこう書かれている。「北海道開拓時代、開墾のための伐採が各地で行われて、まっすぐな木は建築のために、その他は薪に割り、厳しい冬の燃料としました。木口のサイズ三方、それぞれ六寸(約一八センチ)であったため、「三方六」と呼ばれ、三方六の薪があかあかと燃える裸火の炉を囲んで団らんをし、疲れを癒したのです」。
 第二十七回世界菓子コンクール「モンドセレクション」で、最高金賞を受賞した銘菓らしいが(製造元は帯広の柳月)、なるほど程よい甘さの美味しいお菓子である。1センチ半幅ですでに切り分けられているのがいい。生まれ故郷の帯広がお菓子業界ではちょっと有名らしいとは聞いていたが、いつのころからそうなったのだろう。というのは、『モノディアロゴス』で紹介した健次郎叔父が、戦後、飛行機乗りから一転どころか数回転した職業の中に菓子製造業があり、たしかシュークリームなどを作っていたはずで、そのころの帯広は業界ではまったくの未開地だったはずだからである。
 ちなみにこの叔父は、終戦後のドサクサのなかでいろんなことに挑戦した。最初は湧洞沼で製塩、次に糸の立たない納豆(もちろんわざとじゃない)作り、前述の菓子屋さん、そして最後にやった機械(チェーン・ソーなど)販売業でやっと陽の目を見たらしい。販売業と書いたが、何かの機会に発明賞をもらったこともあって、元パイロットもなかなか頑張ったようだ。愛妻亡きあと一念発起(?)したのか、娘夫婦の家に車で行ける距離にあるマンションに一人住まいをしながら、九十五歳の今も背筋をぴんと伸ばして連日ダンスとパークゴルフで人生を楽しんでいる。一昨年の老人の日、「北海道新聞」にダンスに興じる大きな写真が掲載され、バッパさんの顰蹙を買ったりしている。
  ところで「三方六」もいいが、十勝開拓の父・依田勉三の「開拓鍋」をモチーフにしたお菓子はどうだろう。たとえば、基本的には甘さ控えめの十勝小豆の最中で、鉉(つる)のところにはブラック・チョコレートを配して。売れると思うよ。(2004/8/24)

 事実そのとき、ご丁寧にもこのブログの内容をそのままその御菓子屋さんにメールし、それに対して丁重なるお礼のメールをもらったはず。でもそうだったら柳月さんも水臭いな、別に意匠登録料(?)など要求する気などこれっぽちも無いんだから、せめて事前に挨拶くらい欲しかったなー柳月さん、えっ柳月、待てよ今度の「ひとつ鍋」は六花亭さんのお菓子、ええっ! これ完全な早とちりでした、すんません!
 意匠登録料などと、思わず欲を出したりして。いえいえ前にも申したとおり、私は決してそんなもの要求しようなどとは…
 それはともかく、「ひとつ鍋」実に美味しいお菓子です。「開拓鍋」なんちゅう硬い言葉より、勉三の言葉「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」からそのまま取った「ひとつ鍋」の方が柔らかくていいですね。でもつるのところはブラック・チョコレートの方がアクセントがあって、もっと洒落ていたと思いますよ。
 調べてみると「ひとつ鍋」の登録は昨年の二月十六日とか。柳月さん、今さら言うのもなんですが、あのとき私のアイデアを使った十勝小豆の最中を作ってれば良かったのに…
 ええい、ついでだから、も一つ、お菓子のアイデアご紹介します。これは2009年の七月に書いたアイデアですが、どなたかこのアイデア買ってくれませんかね。ぜったい、間違いなくヒットする商品だと思いますが。どうです、そこのダンナ、話に乗ってくれませんかね。ともかくこれもコピーしときます。政治の話がいよいよバカらしくなってきたので、お菓子な話でもいかがですか。

柿の実・柿の種

 目の前の筆立てやら本立ての背などに所かまわず貼られた小さな紙片の一つに「柿の実・柿の種」と書かれている。自分で書いたのに、何のことか分からない。他の十数枚の紙片に書かれた走り書きの短文もしくは箇条書きの意味はだいたい分かる。締め切りを越えたのに未だ書き出せない小川国夫『或る聖書』についての断簡である。
 しばらく考えてやっと思い出した。それは新しいお菓子のことである。つまりある時、無性に干し柿が食べたくなって、しかし季節はずれの干し柿などどこにも売っていない。ネットで検索すると、市田柿を使った菓子を売っている店を一軒だけ見つけた。しかしかなりの高価で、郵送費など加算するととても注文する勇気が湧いてこない。そんなおり悔し紛れに考えついた干し柿ベースのお菓子のアイデアなのだ。
 七年前、郷里に移住するに際してひそかに願っていたことがある。それは、秋になれば近在の農家にたわわに実る柿を、思う存分安価で食べれるだろう、という目算である。しかしそれは見事に外れた。スーパーなどに出回る柿は、ほとんどが遠くはなれた他県のものである。発達しすぎるほど発達した流通機構のおかげで、味も見栄えもいい他県の柿が大量に出回り、味も見栄えも悪い地元の柿など今では誰も採るひとさえなく、秋空の下、鳥たちの餌になるならまだしも、大半は空しく立ち腐れていくだけなのだ。
 で、妄想した。あの柿たちを大量に買い集めて、機械で乾燥させ、それを粉末にして、味を調整しながら捏ね、可愛らしい干し柿状のお菓子に作り変えたらどうだろう。納得行く完成品にたどりつくまで、試行錯誤を繰り返さなければならないのは想定内のこと。季節限定のものではなく、一年中いつでも手に入る商品にするまで、技術的にも難しいところがあるだろう、でも粘り強くやれば、必ずや満足いく「柿の実」を開発できるだろう。
 だいいち「柿の種」がこれほど普及しているのに「柿の実」が無いのはおかしいではないか。それにご存知のとおり、「柿の種」は形だけは似ているが、どうせくず米で作った小さな煎餅であり、それだけでは淋しいので、ピーナツを申し訳程度に加えた偽物じゃないか。柿の「カ」の字も入っていない。産地偽装どころじゃない、立派な詐欺じゃないか。
 そこにいくと、新開発の「柿の実」は正真正銘の柿の粉で作られており、「へた」だけが「偽物」。でもその「へた」にしたって、相馬地方の「ひとめぼれ」から作られた実に良心的で美味な煎餅なのだ。長さ3センチ、幅2.5センチ、厚さ1センチほどの、しこしこした歯ざわりの、おまけに粉までふいている、本物そっくりのその小さな干し柿は、必ずや人気商品になり、「柿の種」以上に普及するであろう。開発者の私には思いもかけない大金がころがりこむだろうが、別に個人的な財産など欲しくはないので、老後の安定のために手元に少し残すだけで、あとは地元発信の文化事業に寄付しよっと。
 いや、その前に何人かの仲間を、つまり共同出資者と共同開発者を募らなきゃなんめえ。でも利益配分でもめっか?ここんところはよっくと考えなきゃなんめえ。なーんだかそう考えっと、やんだくなってきた。この話、無いことにすっぺ。スッペ作曲「詩人と農夫」じゃなくて、「詩人と柿の実」のお粗末ってかーっ!(2009/7/16)

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佐々木 孝 について

日本のスペイン思想研究者。1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。2018年12月20日、肺がんのため宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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お菓子な話 への1件のフィードバック

  1. fuji-teivo のコメント:

    エトワールさん
     世の中狭いですね。安藤健次郎、間違いなく私の文章の中にときどき登場する叔父、母と同じ誕生日の弟です。ちなみに先日書いた「身近の人」というのはこの叔父のことで、藤原なんとかという人、あるいは別の人?の考えに影響されたのか(毒されたのか)、自虐史観なんてことを言ってますが、さてその迷妄から覚めてから母のところ(?)に行って欲しいと願ってます。でもあの歳で考えを変えるのは先ず無理でしょうな。半ば諦めてます。
     飛行気乗りでしたからいわば戦争を高みから見た人ですが、中国戦線などで実際に敵兵だけでなく民間人を殺した皇軍の兵士たちのことをときどき考えます。死ぬまで悪夢にうなされた人もいたでしょうし、過去を必死に振り払って、いいじっちゃんとして口を噤んで死んでいった人もいるでしょうね。
     ここに『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』という本があります(大月書店、2004年、第3刷)。つまりこの惨劇に加わった第13師団山田支隊兵士たちの陣中日記ですが、遺族の意向により出身地を伏している人もいますが、大半が我が福島県出身者です。元皇軍兵士たちは今や大変な高齢者か既に鬼籍に入っています。しかし辛いことですが、私たちには彼らの記憶を忘却のかなたに追いやるのではなく、その記憶を語り伝えていく義務があります。最近、撫順戦犯管理所からの帰還兵たちの組織「中帰連」の活動を若い人が引き継いだようですが、これは相手国のためと言うより、他ならぬ私たちのゆるぎない未来平和構築のためにこそ必要だと考えています。
     それにしても若くして死んだ父(いま生きていれば102歳)が、幸いなことに死ぬ前に当時の日本の迷妄から覚めてくれたことは、嬉しいし、こういう人を父として持てたことは私の密かな誇りでもあります。

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