もう一人の父の死

 作家の安岡章太郎さんが亡くなられた。初めてお会いしたのは…はっきりした日付は今は思い出せない。名瀬から上京した島尾敏雄さん、ミホさん、マヤちゃんと一緒にお宅に初めて伺ったときに玄関先で撮られた写真が残っているが、その時の私はまだローマン・カラー姿だから、今から…いややっぱり年代は出てこない。ともかく安岡さんにはその時以来ずっと優しくしていただいた懐かしい思い出ばかりだ。いずれその思い出をたどりながら、いかに彼が現代日本最高の作家であり文明批評家であったか、ゆっくりまとめてみたいが、今はまだその気になれない。彼の魂の安らかに憩わんことをと願うばかりだ。

 ただ一人娘の治子さん(東大教授なのでもっと別の呼び方をすべきかも知れないが、私には治子さんとしか呼びようがない)のメールで、亡くなられた日がまさに治子さんのお誕生日であったことを知り、不思議な感動を覚えた。どれほど治子さんを愛され期待をかけておられたかの証し、さらには愛する奥様の治子さんへの《委託》のように思われたからだ。たぶん安岡さんにとっては最後のロシア旅行だったと思うが、大きな建物を背景に(それがレニングラードだったかモスクワだったか、お聞きしたはずなのにはや忘れている)お元気そうに治子さんと一緒の写真がずっと私の書棚に飾ってある。

 いや先ほども言ったように、安岡さんのことを書く気持ちの備えがまだできていないので、いまのことと関連して、もう一人の父親のことを書いてみる。つまり美子の父親のことである。亡くなった日(2000年、享年奇しくも安岡さんと同じ九十二歳)もまさに私の誕生日に当たっていたのだ。しかし安岡さん父娘の場合とはまったく違い、彼と私は、初めから終わりまで義父と娘婿という距離を豪も縮めることはなかった。結婚後しばらくたってから東京に呼び寄せる形で同居が始まったのだが、初めのうちは食事を共にしたが、後には彼らの部屋に食事を運ぶようになった。保谷、二子玉川、清水、八王子と度重なる転居に文句一つ言わず付いてきたが、要するに美子も私もいい娘でも婿でもなかったわけだ。

 その義父が病に倒れ救急車で病院に運ばれたとき、私が玄関から救急車まで背負って運んだことがある。それを心から喜んでいたことを後から知り、そんなことなら何度でも背負ってやるのに、と思ったが、それから間もなく、驚くほど大きな入道雲が見える暑い夏の終わりに病院で亡くなった(その病院がどこにあり、何という病院だったかさえもう忘れているが)。もっと話しかけてやればよかった、もっと優しくしてやればよかった、と思ったが、すべて後の祭り。ただ彼が私の誕生日に亡くなったことは、私なりに重く受け止めた。その後、義母の老人施設での生活を見守り(今度の被災地の大熊町にあったその施設に十日ごとに数年間、おそらく百回以上、美子と車で見舞った)、そしていま美子の介護も、その義父の《委託》でもあると信じているから。

 安岡章太郎さんへの追悼を述べるべきときにこんな形で自分たち親子のことを書いたのも、章太郎さんと治子さんは初めから終わりまで愛情と理解に包まれた関係にあったし、最後の数年間もこれ以上ないほどの看病を尽くされたのであるから、私のような後悔などあろうはずもないと思ってのこと。つまり、確かに大きな悲しみではあろうが、しかし最後まで精一杯尽くされたことへのある種の慰めをも感じておられるのではないか。それは私のような他人にもひしひしと伝わってくる、と言いたかったのだ。言い訳じみて聞こえるかも知れないが、以上、治子さんや奥様への、もってまわった私のお慰めの言葉と見做していただければ幸いである。

 ところで安岡さんの作品の英訳はたくさんあるだろうが、初期の作品『ガラスの靴』は英訳からの重訳ながらスペイン語訳(La zapatilla de cristal,traducudo del japonés por Royall Tyler,traducido del inglés por María Alonso de Yerro,El Tercer Nombre,2009)もある。彼の作品はもっとスペイン語圏の人たちにも読んでもらいたい。川端・三島、あるいは村上だけが現代日本文学ではないことを知ってもらいたい。ハビエルさん、どうです、安岡作品に挑戦していただけません?

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佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。
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3 Responses to もう一人の父の死

  1. 阿部修義 のコメント:

     朝日新聞の今日の朝刊の中で、安岡氏が「文学がビジネスになってしまった」と芥川賞の選考委員を辞任されたことが書いてありました。大衆に阿諛迎合するのではなく独自の視点から文学や社会を見極めていく深い洞察力を備えていた人だと思います。

     謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

  2. Javier de Esteban のコメント:

    安岡作品に挑戦ですか?! 村上の名前が出ましたが、彼の『若い読者のための短編小説案内』では、吉行、小島、庄野、丸谷、長谷川(四郎)と並んで、安岡も素晴らしい短編作家として取り上げられていますね。作家・安岡の「原型」であると紹介されているのは「ガラスの靴」だけでしたが、その解説が面白かったため数年前に図書館で借り、「海辺の光景」、「悪い仲間」、「青葉しげれる」、「相変わらず」などと共にスキャンしてあります。が、諸々で忙しくなり未読のままです。お勧めの安岡作品がありましたら、ぜひ教えて下さい。

    • fuji-teivo のコメント:

      ハビエルさん、やっとご登場ですね。ここの皆さんは既にあなたを『原発禍を生きる』の翻訳者としてご存知だと思います。これからもときどきお顔を出してください。
       ところであなたのコメントを読んでいて私がとんでもない間違いをしでかしていたことに気づきました。そうです「ガラス」を「硝子」などと書いてしまったことで、いま急いで直しました。天国の安岡さんに叱られるところでした。ご存知のように安岡さんは作品のなかでカタカナ表記を効果的に使いました。つまり今の間違いのように漢字で硝子なんて書けば、あの作品の持つ不思議な明るさ、透明感、軽さが台無しになってしまうのです。
       『ガラスの靴』の中にその例を探せばキリがありません。たとえば
      待ちボウケ、朝晩のメシ、クシャミ、テレた、オナラ、、黒白ブチ、チラリと、軸木のハジ、これはみな1ページの中にあるものですが、普通これらは皆漢字かひらがなで表記するでしょう。スペイン語に訳すとき、さてこれをどう処理しましょうかね。                        
       ともあれ、安岡文学の魅力については、いずれまた書きましょう。今はとりあえずここまで。

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