ばっぱさんの遺志(その三)

実は前回で一応「ばっぱさんの遺志」にピリオドを打つつもりだった。しかしこの暑さの中、妄想は更に広がって、自分でもびっくりするような展開を見せ始めた。簡単に言うなら、実現可能かどうかも分からない本格的な「三☩一語学院」の将来に期待するのは、短い余生を考えるとあまりにも切ない(?)。ならばいま現在可能なことから始めようではないか、という話である。
 いうなれば「三☩一語学塾」の原型は既に手中にしているという思わぬ発見(?)。つまり中国語講座と朝鮮語講座はいずれ担当者を探すとして、日本語とスペイン語の講座、そしてこの語学塾の哲学の合わせ鏡的役割を演じるスペイン思想、とりわけマダリアーガの英仏西三カ国比較文化論の講座は、現時点でも不肖わたし貞房が担当できるということである。
 ならば出発進行OKであろう。場所はどこ、とおっしゃる? 佐々木邸です。一講座最大十人くらいなら大丈夫。とりあえずは大震災前日まで週一回続けていたスペイン語講座と「情熱の構造」特講から開講する。駐車場所は狭いので、遠方からの受講者は自転車で来てもらう。ついでに言うと、私自身美子のこともあって、さらに現在は寄る年波のせいで、自転車はまったく使わなくなったが、南相馬とりわけ原町市街区は将来車乗り入れを大幅に制限してもっぱら自転車多用地区にすべきだと考えている。
 それはともかく、先ずは看板を玄関先に掲げなければなるまい。実は現在、幅20センチ、高さ70センチくらいの、文字の消えかかった古びた看板がかかったままになっている。「横笛の会」の看板。これは確か月一の割合で東京から講師を呼んで我が家に宿泊してもらって講習を受けるという長く続いたばっぱさん主宰の会であった。このようにばっぱさん、なかなか多趣味のおばあちゃんで、他にも琴の先生に来てもらったりもしていた。
 もっと大きな新しい看板を作ってもいいが、しかしこのような構想のもともとのきっかけは、ばっぱさんの夢であったのだから、これに上書きして使おうと思う。
 ともあれこうしたばっぱさんの性向は、その血の中に流れていた母方・安藤家の影響かも知れない。小高・大田和にあった安藤家は、残されている写真を見ると、茅葺きながら三階建ての大きな屋敷で、往時には旅商人や時には旅芸人も泊まったらしく、常時大勢の人が出入りしていたそうだ。
 今回の発想のどこかに、あの松下村塾のことがあったことも白状しておこう。江戸末期、長州萩にあった吉田松陰の私塾である。大昔、広島にいたころここを訪ねてショックを受けた。あまりに粗末で狭い住居だったから。木造平屋建て、8畳と10畳の二間だけのこの私塾が高杉晋作、山県有朋、伊藤博文など後の明治維新に活躍する錚々たる人材を輩出した。
 もちろん大震災以後、明治維新に対する私の考えは大きく変化した。現代日本の迷走に色濃く影を落とす富国強兵の長州イデオロギーに対する真っ向からの対決姿勢に変化したからである。そこには父方の先祖が会津のサムライであったことも影響しているかも知れない。
 大きさで競うわけではないが、我が佐々木邸は陋屋とはいえ、広さでは松下村塾の優に四倍はある。老夫婦の12畳の生活空間を除いても、一階には12畳の洋間二つ、8畳の和室一つ、二階には8畳の間三つに6畳の間一つ、広い縁側、更に4畳半の独立した洋間が一つ。トイレは三つ、それに広い風呂場に台所がある。屋根にはソーラー…止めた、単なる自慢話になってしまう。言いたかったのは遠方から泊りがけで塾生が来ても、すべてセルフサービスでならOKだということである。
 ここに来てもう一つ、以上のようなことを考え始めたのには或る家庭の事情があった。つまり必ずしも私(そして美子)の本意ではないが、息子の一家がこの家を出て行く可能性が出てきたからだ。こんな広い家に老夫婦だけがこの先住み続けるのはもったいないし寂しい。だから松下村塾の向こうを張った勇ましい意気込みに、人恋しさの感情が重なっている。たとえ別居にいたらない場合であっても、同居人には意を汲んでもらって、少し修正しつつも基本的には以上の考えは実行に移すつもりだ。
 そのうちこの語学塾の母体ともいうべき「メディオス・クラブ」事務局長の西内さんや、協力を得られそうな青年たちS君、T君、そしてI君、そしてかつてのスペイン語教室の受講生WさんやTさんにも集まってもらって今後の展開をじっくり相談しようと思っています。いや彼らだけでなく、これに共鳴してくださる全国、いやスペイン、韓国、中国など海外の友人たちにも以後の協力方を切に願って、今日はこの辺で失礼します。


呑空庵々主  富士貞房こと佐々木孝


※追記
 将来的には「貞房文庫」の世話・管理をどなたかに(既に意中の人はいますが)おまかせし、また現在のサイト「富士貞房と猫たち」を「三⊕一語学塾」」ならびに「メディオス・クラブ」公式サイトとして全面的に改組することを■にお願いするつもりである。
 また近々拙宅に来てくださる「日西翻訳通訳研究塾」の塾長・碇順治先生と将来何らかの提携が可能かどうかもご相談したいと思っている。
 実は数日来、気分的にかなり落ち込んでいましたが、書いているうち少し元気が出てきました。皆様もどうぞお元気で。

※蛇足
 「三⊕一語学塾」は「サンプラスイチゴガクジュク」と呼ぶが「ショウカソンジュク」より言いにくいかも。だったら「中野サンプラザ」風に、しかも語尾を省略して「南相馬サンプラス」と呼んでもらっても結構。「なんだそれ?」と、惹句としてはいいかも。

※蛇足の蛇足
 いまのところ貞房文庫にハングルの本は拙著の翻訳しかないが、ソウル大統一平和研究所の金聖哲教授にお願いすれば、要らなくなった古書など寄付してくださるかも知れない。これを「捕らぬ狸の皮算用」と称する。

佐々木 孝 について

日本のスペイン思想研究者。1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。6年間の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

ばっぱさんの遺志(その三) への2件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     息子さんのお考えが、事情はどうあれ、私には理解できません。お母様が介護が必要なわけですから先生お一人に任せるのは率直に言って無理です。先生は持病の腰痛をお持ちですし介護は常に非常時の対応が求められます。仕事が理由であれば、私なら妻に母の介護を父と協力するように言って単身赴任をします。母親の面倒を看ること以上に優先するものはありません。

  2. nk のコメント:

    お久しぶりです。

    連絡が途絶えた後、しばらく経ちますので、ご記憶にないかもしれませんが。
    だから、どう話し始めたらいいのか、それで悩み、連絡も出来ずにいました。

    色々ありすぎて、自分の問題だけで、周囲に目を向けれない日もありました。
    ようやく、元に戻れた気がします。
    ブログは度々拝見しておりましたが、近況をご報告したく。
    また、何よりそれを踏まえてのブログの読み方と言います感受が変わりまして。

    一番お伝えしたかったのは、一時の気持ちだけでこちらを読ませて頂いているわけではないということ。
    ご連絡さしあげたのは、当初は新聞記事でしたが。

    色々あり、連絡が途絶えていましたが、逐次読ませて頂いております。

    それだけお伝えしたかっただけです。

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