精神のリレーということ

 案の定「明日あたり」は二日も延びてしまった。まるでエアポケットに入ったみたいに、「書く」意欲が消えていた。もちろん生きている以上、そして美子の面倒を見なければならない以上、さまざまな雑事は無事こなしてはいたが。おかげさまで、美子の食事の方はようやく軌道に乗り始めた。いちばん大事な「コツ」は、焦らないこと、いま悪くても必ず事態が好転すると信じることである。具体的に言えば、一回の食事時間を限定しないで、美子の「気分」に合わせて対応すること、つまり口を開けなくなったら、そばの仕事机に戻って、その時々の作業を並行させ、程よい頃を見計らってまた食事に戻るなどのことである。

 ちょっと筆が止まった理由は、もしかすると例の寒中見舞いハガキの余韻(?)と、続いて一昨日起こった、やはり腹立たしいというか悲しい出来事のせいかも知れない。歳に似合わず何と繊細な(?)神経の持ち主よ、などと笑われるかもしれないが、たぶん歳に似合わず、では無く、歳相応に「傷つきやすく」なっているのだろう。その出来事とは…一昨日の午後、ふと思い立って長らく音信の途絶えていた親戚(今回はニクシンではない)に、ばっぱさんの『虹の橋』とその『拾遺』を送ろうとした。でも震災後一度も接触が無かったので、先ずは電話をかけて安否を確認することにした。その時、全く予想もしなかったことが起こったのである。

 まず最初、互いのご無沙汰をわびる短いやりとりのあと、本を差し上げたい旨を告げた時、「そんなものは要らない」とにべも無く断られてしまったのだ。「えっ!」と一瞬、耳を疑った。「いや、祖父がお宅の先祖のことなど書いたものも入っているんだけど…」。すると「先祖のことなど知っている」。「でもそれはちょっと失礼な言い方では?」「どこが失礼だ、ともかく押し付けは嫌なのだ」、と一方的に電話を切られてしまった。唖然とはこのことなり。震災前まで、いつも会うたびに親しく口を利いた仲だったのに、この豹変振りに、文字通り驚倒した。

 噛み癖のある犬にかまれたとでも思うことにしようとしたが、どうも落ち着かない。それで彼(そう男である)のことをよく知っているYさんに電話で聞いて見ることにした。するとYさん、即座に「あゝあの人、変わり者だー、相手にしない方がえーどー」ときた。納得!忘れることにしよっと。

 要するに、これも原発事故の後遺症であることは間違いない。住み慣れた家を追われ、今は間借り生活、賠償金をめぐるいざこざ、先行き不安…さまざまな要因・不如意が重なって、ストレスが溜まっているんだろう。そう考えると可哀想になってきた。私より歳をくっている彼にとって、すべてが「押し付け」に思われるのだろう。わかった、Yさんの言うとおり忘れることにしよう。彼のようなケースは、おそらく今、被災地の至るところに起こっているに違いない。むしろ事故直後よりもこの先さらに増えていく「事象」と見て間違いないだろう。

 さて肝心の本題からどんどん離れていくので、ここで閑話休題。相馬と現代(戦後)文学というテーマだった。といって、例の『精神のリレー』そのものの内容に立ち入っての話ではない。言い忘れたが、この本は高橋和巳を偲ぶ会と、埴谷さんの『死霊 第五章』発表を記念する会 という二つの講演会を収録したもので、論者が各自自由なテーマを選んでそれぞれの立場から話したものである。だから私も勝手気ままな視点から話を進めさせていただく。
 
 先日も書いたように、先ず私が注目したのは、これまで埴谷さん、島尾さん、小川さんが、いろんな機会に対談したり、互いについて論評したりしたことはあっても、こうして一冊の本の共著者(論者)として顔を揃えたことは無かったと思う。しかし三人がそれぞれの死の直前まで互いに好意を持ち続け、それだけでなく互いの文学を高く評価していたことは周知の事実であった。中でも埴谷さんと島尾さんは共に小高との深い縁で結ばれていた。埴谷さんはかつて植民地であった台湾で生まれたとはいえ、父方は代々相馬藩のサムライの家系(母方は薩摩藩)であり、一方、島尾さんは横浜生まれとはいえ幼少時より母方の実家に頻繁に里帰りし、彼の文学の根っこにその幼児体験が色濃く反映している。小高の浮舟文化会館に併設されている「埴谷・島尾記念文学資料館」は、この二人の同郷の文学者を記念するためのものである。しかしこの資料館も資料展示はもとより大震災直前まで毎月一度私が講師を務めていた文学講座など、未だに本格的な活動を休止したままなのはまことに残念である。

 それはともかく、小川国夫さんもこの二人の先輩作家との交流を通じて相馬地方には少なからず親近感を持たれていたようだ。実は彼の死の直前、浮舟会館での彼の講演会が予定されていたのだが、彼の急逝のため急遽計画が変更され、彼が主宰していた『青銅時代』同人たちによるシンポジウムとなったという経緯もある。しかし小高(南相馬)との関係は、実はこれからもっと深まる可能性があるのだ。というのは彼がその創刊者の一人であった『青銅時代』が南相馬に移植(昔風に言えば移封・転封・国替え)されるはずになっているからある。第四十九号までこぎつけたこの同人誌、小川さんの死後、継続か廃刊かをめぐって同人間で話し合われたが、結局は南相馬の私に続刊の大役が回ってきてしまった。もちろん同人発祥の地・静岡(藤枝)でどなたか継承してもらえないか、と問い合わせたのだが、だれにも引き受けてもらえなかったわけだ。

 そうこうしているうちに大震災。おまけにこれまで編集を引き受けてきた東京のH氏がどういうわけか音信不通となって事実上頓挫状態が続いている。続投を引き受けた私自身が、ご承知の通り身動きが自由にならない状況にあるため、一度は廃刊(同人の一人は「立ち枯れ」などとキツイが実に的確な表現をされた)を覚悟した。しかしこの地にもT君やI君など文学を志す若者が出てきたこともあって、今はなんとか小川さんたちの始めた文学的理想の火をこの地に灯し続けたいと願っている。『精神のリレー』という題名のその「リレー」と言う言葉に触発されているのもそのためである。

 小川さんの文学の最大特徴の一つは、初期の地中海沿岸の一人旅の記録にも顕著なように、土地に深く根ざし、そこから触発された文学であると言えよう。それは彼の生涯を貫く太い思想でもあり、私自身そのことを常に羨ましく思ってきた。もう何度か言ってきたことだが、彼の「故郷」、藤枝を中心とする東海地方の人たちは、自分たちと風土について実に鮮明な表現を享受できるという幸せを獲得したわけだ。

 つまり今回のテーマ「相馬と現代文学」を通じていちばん言いたかったことは、南相馬と血縁・地縁で結ばれた埴谷雄高と島尾敏雄の文学思想を継承するだけでなく、彼ら二人のいわば盟友たる小川国夫をこの相馬の地に移植(あるいは接木?)することによって、若い世代が我らの風土を文学化する試みに挑戦してもらいたいということである。それは経済的復興よりはるかに重要かつ本質的な復興であり、言うなれば真の意味での国創り、神話創生に資するものであることは論を俟たない。

 ここで冒頭の駄文がにわかに意味を帯びてくる。つまり我らの土地は、原発事故という未だ収束しない災厄によって自然が大きなダメージを受けただけでなく、それよりももっと深刻なダメージ、すなわち人々の絆や精神的な連帯感がズタズタにされたということ、そしてそれが本当に癒されるには、以上述べ来たったことこそが枢要な手がかりを与えてくれるだろうということである。

 かくして本項前半部分と後半部分という互いに脈絡のないように見えた二つの事柄が強引に結び付けられました。そして以上舌足らずのまま切り上げますのは、実は今日、たいへん面白いことがあり、頭は既にそちらに向かっているからであります。でもそれについては、今度こそ明日、ご報告いたします。なんだか客の集まらない紙芝居のおっちゃんの口上めいてきましたが、本当に珍しいことなので、明日をお楽しみに。

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佐々木 孝 について

佐々木孝(ささき・たかし) 1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。1962年同学科卒業。5年間の修練生活の後、1967年イエズス会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授、1982年教授となる。1984年常葉学園大学でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、東京外国語大学、駒沢大学、法政大学、早稲田大学などでも非常勤講師を務める。2002年定年を前に退職、病身の妻を伴って父祖の地・相馬(福島県南相馬市)に転居。以後16年にわたり「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。2018年12月20日、小細胞肺がんのため宮城県立がんセンターにて死去(享年79)。
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