病室から(その二十)

八月二十日(木)晴れときどき曇り
 天井を見上げながら、時には両手を振り上げながら美子がひとりごとを言っている。おそらく彼女の頭の中では面白い話が展開されているのだろう。こちらにはとんと理解できないが、しかし彼女の頭の中ではすべてが理路整然と、自然に、そしてそれなりの起承転結を踏まえているのであろう。どちらの世界が、つまり彼女の世界と「われわれの」世界のどちらが真実のもの、「正しい」ものであるかなど、とことん考えていけば分からなくなっていくのではなかろうか。
 午後のリハビリのあと、E先生は、専門外のことなのでなんとも確言はできないが、もしかして美子さんはたんなる認知症ではなく、なにか精神的な要因で記憶障害やその他の異常を引き起こしている可能性があるのでは、と言う。でもたとえそうであっても、脳外科に連れて行き、なんとかスキャンとやらで隈なく脳の中を捜査し、挙句の果てに脳をかち割って、たとえ病巣を見つけたとしても、そのための長期の入院、そしてアフターケアのための…
 いやー、それなら今のままの方がいい。記憶障害ということなら、私と美子二人で充分補い合えるし、幻視や幻聴だって傍で適当にリードしてやればひとつも怖くない。ただ望むことは、ともかく歩けるようになること、一緒にどこにでも出かけられるようになること。
 E先生によれば、すでに二日目にして、リハビリ室の例の用具、つまり二本平行に並ぶ棒を伝って歩く練習では片手だけで歩けるようになっているということだ。それなら回復は早そう。ともかく歩けるようになるよう全力をつくしてみましょう、とのE先生の最終的決断。ありがとうございます、よろしくお願いいたします。
 美子の術後まもないから、そして次はお盆だから、という理由で二回休んだ後の最初のスペイン語教室。みなさん元気に出てこられた。とちゅう文化センターの係りの人が授業風景を写真に撮りたいから、というので短い中断もあったが、一時間半の授業も無事終了。行き交う車の数も少ない夜の街を暫定「我が家」に帰宅。ただいま、と言うと、美子はベッドの上で笑顔を見せた。早く良くなって、また二人で教室に出かけようね。
 さて今夜のDVDシアターの上映映画は、サリー・フィールドがアカデミー主演女優賞を獲得した1984年製作の『プレイス・イン・ザ・ハート』。酔っぱらった黒人に誤って射殺された保安官の妻が、物乞いにきた黒人の助けを借りて綿花栽培に乗り出し、多額の借金を返そうとする1935年ころの話である。つまり大恐慌がようやく終息に向かい始めたころのテキサスが舞台。
 小柄なベティーちゃんといった感じのサリー・フィールドは相変わらずの芸達者である。黒人差別の減少に果たしてきた映画の貢献を改めて感じるが、黒人初の大統領が誕生した今でも、人種差別の根っこがまだまだ抜けきらないアメリカの現実を忘れてはなるまい。もちろんそれと自覚されることのないわが日本の人種差別のことも。


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたコメントを転載(2021年3月17日記)。

「それと自覚されることのないわが日本の人種差別」アメリカの人種差別を強く非難しながら、日本のヘイトに気持ちは分かると平然と言ってのける人々が身近に何人もいる。

佐々木 孝 について

日本のスペイン思想研究者。1939年北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。6年間の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で「モノディアロゴス(Monodiálogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」と題したブログを死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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