12. かくも長き不在の後で(2003年)


かくも長き不在の後で


 定年前に教師の職を辞して田舎に帰ることなどそれまで考えてもみなかった。勤めていた大学を最後の職場にして、それまでやり残してきたことをゆっくり仕上げようと思っていた。ところが人生なんてものは計画通りにはいかない。なぜ辞めたか、など仰々しく語ることではないが、要するに勝算のない戦いでぼろぼろになる前に、別の生き方をしてみよう、と思ったのである。まだ残ってがんばっている若い友人たちや学生たちには悪いが、少子化の波をまともに食らって、教育の理想などそっちのけで、迫り来る統廃合という厳しい現実をなんとか免れようと躍起になっている大学に深く絶望してしまったのである。
 しかしそれも老母がひとり待つ故郷が、そしておりよく支給されるようになった年金があったからこその決断であった。もしそうでなかったら、日増しに締め付けがきつくなっていく管理機構と、教育の根幹とは無縁な雑用の中で、今も命をすり減らすような教師生活を続けていたに違いない。だから定年前の辞職など、勇断でもないし「かっこよく」もない、ある意味で当然の選択であった。
 四十年ぶりにもどった古里も、もちろんかつての古里ではなかった。少子化よりも急激な物流の大変革により、かつてのような勢いを失っているように見えた。それまで住んでいた八王子と同じく(全国の地方都市がそうなのだろう)、日々営業努力を続けている商店のみなさんには失礼な言い方だが、メーン・ストリートが軒並み売上を減らし、気息奄々であるかのように見えた。しかし日が経つにつれ分かってきたのは、バブルがはじけ、低成長期というよりはっきり言ってこの不況の中で、みんながんばっているということである。かつてこの町は、いささか乱暴な相馬弁のせいもあるが、なんとなくがさつだった。しかし何十年ぶりに再会したわが町の若い世代の物腰が、意外にしっとり柔らかになっていることにまず最初の嬉しい発見があった。
 正直に言うと、実はこの一年間、買い物以外はほとんど外に出なかった。二、三の友人と会う以外、とうぜんご挨拶に伺わなければならぬ方々にも不義理を重ねてきた。巣穴を作る不器用な小動物のように、少しずつ新しい環境に慣れる必要があったからである。その間、田舎暮らしを見越して立ち上げたホームページに毎日千字の文章を書くことで、なんとか生活のリズムを作ろうと努めてきた。しかしここに来てようやく地域社会のために、自分も何かやらせてもらおう、という気になってきた。それがどういうものになるか、いま模索し始めたところである。専門にしてきたスペイン思想は無理としても、せめてスペイン語や人間学でなにかお役に立てればと思い始めている。ともかく若い人が地元でなにか生きがいを見つけられるように、地方に住みながら眼は世界へと大きく見開くことができるようにお手伝いできれば、と願っている。
 物作りも人作りもその原理は同じである。効率や利潤追求からは真に価値あるものは生まれない。結局は丹精こめた手作りの作業だからである。この難問に長らく立ち向かってきた先輩や友人たちにいろいろ教えてもらおう。いま大抵の大学は、でか過ぎる箱の中に何とか人を集めようとしているが、主役は箱ではなく人間であるべきである。そうだ、屋台、寺子屋、小屋掛けから始めてみよう。


「福島民報」、「サロン」
          2003年7月11日(金)掲載