大連・撫順紀行


まず始めに・・・

 1941年、2歳の時旧満州に渡り(もちろん連れられて)、1946年の春、日本に帰ってきましたから、今度の中国行きはほぼ60年ぶりということになります。
 昨年息子と結婚し、現在来日を大連で待っている穎美に会い、彼女のご両親に挨拶するため、実家のある撫順郊外を訪ねる4泊5日の旅でした。今回は日数が限られていたため、かつて住んでいた河北省ランペイ再訪は先の楽しみに取っておくことにしました(2005/06/26記)。

初 日6月21日(火)仙台空港~大連国際空港~大連賓館
二日目6月22日(水)大連賓館~星海広場~山~自然動物園~ホテル
三日目6月23日(木)ホテル~大連駅~省都瀋陽~穎美さんの実家
四日目6月24日(金)穎美さんの実家~瀋陽北駅~大連~大連賓館
最終日6月25日(土)大連賓館~大連国際空港~仙台空港


2005/06/21(火)晴れ

 仙台空港から大連に飛ぶことが出来て、今度の中国行きがずっと楽になった。成田回りだと、出発前にすでにグロッキーだったろう。
 9時過ぎにクッキーをT動物病院に預け、一度家に戻ってタクシーに10時半に乗り込んだ時点から今度の旅は始まった。いつもそうだが、旅に出るということは、単に物理的・身体的なエネルギーばかりでなく、精神的にもとてつもないエネルギーを必要とする難事業に思える。だが幸か不幸か容赦なく出発の時が近づき、否応ない対応が迫られる。
 11時45分、定刻より5分遅れで館腰駅着。無人改札を急いで出ると、今しも空港行きバス(リムジンだったか?)が出るところ。時間通りの運行は結構だが、電車に遅れが出たときぐらい待ってることはできないのだろうか。
 仙台空港に来るのは初めてだが、羽田や成田のあの雑踏はなく、構内も閑散としていて、家内の後ろのキングサイズのベッド(?)では、どこかのおじさんが爆睡していた。地方空港らしく、なかなかよろしい。


〈機中にて〉
 飛行機は中国国際航空の924便。大連・仙台間のみと思っていたが、北京までの飛行らしい。カウンター前の待合所が余りに閑散としていたので、乗客まばらの心細い旅になると思いきや、出発時間が近づくにつれ満席になった。以前アエロフロートに乗ったときもそう感じたが、スチュワーデスが日本のそれのように変に気取っておらず、かつてのバスガイドなみに実務的なのがいい。現在の日本の文化は過剰なラッピング文化に思えてならない。これは本土に上陸してからなおいっそうその思いを深くした発見の一つである。


〈夜の街へ〉
 現地時間午後5時40分大連着。あとから分かったことだが7月1日から税関チェックが少し厳しくなるそうだが、今回の出国・入国とも荷物検査などが実に簡単で、こちらがテロリストや密輸業者でないかぎり本来移動はこうあってほしいとつくづく思う。
 さて毎晩のように電話では話してはきたが、穎美に会うのは初めてである。入国ロビーの迎えの人混みのなかに大きな花束を抱えた穎美がいた。あのにこやかな穎美(日本名の穎美は笑みと同じ発音)の笑顔は、以後、行を共にしたあいだ一瞬たりとも翳ることはなかった。自分たちの身内自慢と思われるかも知れないが、家内はそれ以後彼女を「私の天使」と呼ぶようになった。夫の両親だからとか外国人だからとかにはいっさい関係なく、彼女の優しさは天来のものであり、大げさでなく彼女に会えたことが私たち夫婦にとってどれだけ大きな恵であったか、あらゆる場面・瞬間に実感させられた五日間であった。
 宿泊先は有名な中山広場に面した大連賓館(旧ヤマトホテル)。建てられたのは確か1909年。もちろん内部は現代風に修築されてはいるが、ルネッサンス様式の実に風格のある建物である。「日本人が建てた」という表現には恥かしい裏があり、それを聞くたびに複雑な思いがよぎる。遼寧省、吉林省、黒龍江省、内蒙古などいわゆる旧満州は、ある年代から上の人にはいまだに亡霊が彷徨っている土地なのか。実は一階ロビーでエレベーターを待っていたとき、70代の日本人らしき二人連れの男の一方が、他方に向かって確かに「隊長!」と呼んだのだ。青春の地を再訪する権利をだれも彼らから奪うことはできないが、「隊長」はないだろう。彼らの泊まった部屋で、夜半、亡霊たちが彼らの安眠を妨げてほしい、と一瞬思った。


〈夜の街で〉
  市内いたるところにある「広場」の一つ中山広場は夜になっても市民たちが三々五々集まって、踊ったり歌ったり、足先で羽根を蹴り上げる遊びなど、実に楽しそうに夜の時間を楽しんでいる。これが「お祭り」ならいざ知らず、平日の夜なのだ。今度の旅でいつも感じていたのは、かつて旅したスペインとの親近性である。「生活を楽しむ」ことが実にうまいのだ。もちろんこの屈託の無さは、別面、うるささ、乱暴さに地続きではあるが、しかし自分が萎縮するだけでなく他人をも意地悪く値踏みする「マナー」などどれほどの意味があるだろうか。 
 広場はロータリーになっていて、周囲をもうスピードで車が走り、その車を避けながらの横断は正直命懸けであり、事故が無いのか心配だ。しかし人びとはまるで闘牛士のように敏捷な身のこなしで危険を避けている。いずれ交通規則が厳しく遵守される時代が来るであろうが、しかし統計的な数字は用意していないが、規則が厳しくなったからといって事故が減るものでもあるまい。つまり自己防衛の本能が退化していけば、元も子も無いわけだ。青信号だからといってまるで守護の天使に守られているかのように、周囲にまったく注意を払わずに道を渡る日本人とつい比較したくもなる。それに「人間的な」運転に代わって「企業的・機械的」な運転が登場したら、この間のJR福知山線の事故のように、「正確さ・利潤追求型」の運転が信じられないような大事故を招くこともある。


〈ホテルでのゆったりとした親子の語らい〉
  写真の日付は22日になっているが、1時間の時差があるから、まだ21日だったはず。夕食を近くの食堂でとったあと(確かラーメンといくつか小皿の一品料理、それに青島ビール)、ホテルに戻って改めて親子のご対面。でも初めて会った気がしない。毎晩電話で話し合ってきたこともあるが、彼女と私たち夫婦のフィーリングが初めからぴったり合っていたせいだろう。
 彼女が用意していたサクランボ(アメリカン・チェリーと色は似ているが、味は日本のそれに近い)とライチを食べながら、お茶を飲んだ。妻にぴったり付き添い、頻繁に便所に立つ妻を(放っておくと廊下の方のドアを開けてしまう)その度に嫌な顔一つせずに甲斐甲斐しく世話をする穎美を見てると、ほんと妻などは彼女を目の前にしながら不覚の涙を流すほどであった。どうしてこんな優しい子が生まれたんだろう?それが以後妻の大疑問となった。しつけ?教育?そのいずれでもなく、あいまいな表現だが天来の素質としか表現のしようがない。その彼女が、遼寧省でもとびきり辺鄙な山奥に生を享けたと二日後に知るに及んで、妻の疑問は大疑問から超大疑問へと変わっていく。


2005/06/22(水) 晴れ

  朝食はホテル近くの食堂で。穎美に聞いて確かめれば良かったが、こうした食堂を何て呼ぶのだろう。市民が出勤途中、おかゆやサラダや饅頭やらを食べる場所のことである。日本では「健康食品」やら「自然食品」やらが専門店で馬鹿高い値段で売られているが、ここでは玄米やらアワやらの、まさに自然食品が馬鹿安い値段で食べられるというわけだ。ちょっと面白いと思ったのは、スペインのチューロ(churro)に似た細長い揚げパンである。もしかしてチューロは中国からスペインに渡っていったものではなかろうか。
 名前やら値段やらをメモしてこればよかったが、穎美に聞けばすぐ分かることだから、と素通りしてきた。ともあれ今回の旅は、金銭的なことはいっさい穎美任せであったので、外国旅行のあのわずらわしさから全面開放された実に気楽な旅となった。
 さて今日最初の訪問先は、海に面した「星海広場」である。タクシーで行ったが、どの車もかなりのスピードで他の車や、横断歩道でもないのに堂々と道を横切る人間たちを避けながらの運転だから、相当の技術を必要とする。思い返してみれば、かつての日本も車と人間が危険すれすれに密着していた時代があった。かなり前のことになるが何気なく点けたテレビ画面で吉永小百合の『キューポラのある街』を放送していたが、川っぷちの道をオート三輪車が相当なスピードで人ごみを縫って走る場面を見てびっくりした覚えがある。
 陽光の目映い星海広場を歩きながら、ポルトガルはリスボンの広場を思い出した。おそらく排気ガスによる大気汚染が深刻化してるだろう市中を抜けてここまで来ると、さすがに気持ちのいい風が吹き抜けていく。


〈穎美の脚の怪我〉
 後から写真を見て、迂闊にもこのときすでに足が痛み始めていたことを、穎美の膝の血の滲んだ包帯で知ることになる。実は前夜の街歩きの途中、段差のあるところで穎美が転んだのである。妻と腕を組んでいなかったなら(つまり無意識裡に妻をかばおうとしなければ)あれほど膝を強打しなかったと思うが、心配させまいとしてか、大丈夫大丈夫と言っていた。彼女の脚が紫色に腫れていることを知ったのは、彼女の実家に行ってからである。
 私たちが日本に帰ってきた日、初めて病院で診てもらったそうだが、幸い骨に異常は無く湿布薬を処方されたとか。


〈噴水の前の二人〉
 公園の中の平地に、たくさんの人の足型が残されたレリーフがあった。穎美からその謂れを説明されたが忘れてしまった。しかし中にちょっと変形した足型が強烈な記憶として残った。纏足の人のそれであった。この奇妙な風習を、今の中国人でさえ忘れ始めているであろうが、もう一つの悪習アヘン吸引とともに、近代中国の暗黒面を示していて、人間という存在の奇妙さ、不思議さを思い知らされる。


〈飛び立つ鳩〉
 大連の鳩は日本のそれとちょっと違うように思われる。目が少し赤みを帯びているせいか。餌をねだって寄ってくるのが面白く、穎美が買ってきた餌を与えてしばし楽しんだ。机の脚と飛行機以外なら何でも食べると言われて有名なのは南の方の中国人なのだろうか。注意して見ても、べつだん大連人は鳩をおいしそうには見ていなかった。


〈現れ出る民族性〉
 日本人と中国人、体格や顔つきもほとんど同じで見分けがつかないが、歩きはじめるとやはりどこか違う。長年染み付いた民族性が動きの中に出てくるのだろうか。日本人は個としてはどこか頼りなげで、歩き方もちまちましているが、中国人は、表現は穏当でないかも知れないが、身体にハンディキャップを持っている人も(ブスも)、日本では人目を避けようとするのが一般なのに、実に堂々と自己主張をしているようで気持ちがいい。


〈タクシーの中の会話〉
 星海広場から次に向かったのは、さてどこだったろう。穎美が「山に行ってみましょう」と言ったから、そしてタクシーは事実山に登っていったのではあるが、それがどちらの方角で何という山か分からずじまいだった。いや、名前なんてどうでもいいことで、何回か写真で見ていた通りの絶景が車窓から次々と飛び込んできて、名前を聞く暇など無かった。
 しかし実を言えば、窓外の景色より車中で穎美が運転手と交わす会話の方がはるかに面白かったのである。もちろん中国語はチンプンカンプンである。しかし日本人以上に(?)しとやかで物静かな穎美が、おじさん運転手たちといつも堂々と渡り合っていることにほとほと感心していた。13歳の時から中学校の寄宿舎で寂しさをこらえながら成長した彼女だからこそのたくましさだろうか。たしかにそれもあるが、中国社会そのものの中で、若い女性も男性と対等に渡り合う下地がまずあるということだろう。感心するのは、女性の強さだけでない。おじさんたちもそうした若い女性の問いかけや注文に対等に、そして誠実に応じているということである。
 もしこちらが言葉も分からぬ外国人だけだとしたら、中国のタクシーはなんて乱暴で、注意しないと法外な料金を吹っかけられる、などといった感想を抱いたまま旅を終えるかも知れない。でも穎美との会話を聞いていると(何度でも言うが内容は分からぬ)ドライバーたちが仕事に誇りを持ち、客との会話を楽しんでいることが良く分かる。どこかの知事が好んで口にする「民度」などというものは、実は文化の違いであって、だからこそ外目で善し悪しなど絶対に判断できるものではないのだ。


〈金持ちたちの城〉
 いまや大連に限らずいたるところの大都市で建築ラッシュが続いているのはよく分かる。つまり現在の中国経済の巨大な発展の中でそれこそ濡れ手に粟式に金儲けをしている階級(?)がいるのは間違いないからである。経済そのものに暗いので詳しいことはわからぬが、表向きは社会主義体制の中での、いわば経済特区とも言うべき階級にとって、もしかすると丸ごと資本主義体制のなかでより濡れ手のその濡れ具合はさらに快適かも知れない。今日も各地で発展から取り残された人たちの反乱が報じられている。どちらにしても、貧しい人が割を食う事態が一日も早く沈静化してもらいたいものだ。


〈パンダよ今度来たとき会おうぜ〉
 確かこの写真の背後にあるのが自然動物園ではなっかたろうか。石の像が何という動物だったか(もしかして架空の?)、忘れてしまった。穎美は水族館にも行ってみようか、と言ってくれたが、家内も私も、名所旧跡めぐりよりこうして穎美といっしょにいること自体が楽しいので、感じのいいタクシー運転手の説明(もちろん穎美の通訳入りで)を聞きながら車で回るだけで満足していた。


〈昨日の歓迎の花束〉
 観光めぐりの最後においしいワンタン(だったと思う)を食べ、三時ころホテルに戻った。今夕、穎美が現在世話になっている妹夫婦とその両親との会食までゆっくり休むことにした。そのとき昨日空港でまるで有名映画女優のように晴れがましく家内が穎美から貰った花束を抱いて改めて記念撮影をした。しかしあのあと、この見事な花束はいったいどこにいってしまったのだろう。捨てられずにホテルのどこかに飾られたのなら嬉しいのだが。


〈中国式の食べ方〉
 穎美の妹のご主人(自動車修理工)は、仕事からどうしても抜け出せないというので、代わりに彼の妹夫婦が急遽参加して総勢8人の楽しい宴となった。隣に坐ったお父さんはにこやかに話しかけてくださるのだが、残念!、私の方はからっきし中国語が分からない。それでも穎美が側にいるときは即座に通訳してくれるが、料理選びに中座でもすると、なんとも困った事態になる。お父さんはめげずに動作入りで話しかけてくださるのに。次回はなんとしてでも片言でも話せるようにしたいものだ。
 中国料理といえば、量も油も半端じゃないというイメージがあったが、大きなお皿でそれぞれが手を伸ばして、いろんな料理を箸から直接口に運ぶ食べ方は、なるほど実に合理的である。それぞれの前にその人だけのために並べられる料理を食べ残しがないよう気を使いながら食べる日本式よりはるかに食事が楽しめる。



2005/06/23(木) 瀋陽北駅行き

 穎美が座席指定券を買っておいてくれた電車は、大連駅を8時に出る。ホテルから駅まではさして遠くない距離らしいが、タクシーで行く。穎美はツアーコンダクターとしても立派にやっていけるのではないか。ともかくこちらは彼女の適切な指示に従うだけであるから、楽なことこの上ない。明後日また同じホテルに帰ってくるので、大きなバッグは預けていくことにしたので、更に身軽になった。
 電車は定刻発車(?)だったと思う。これから内陸部への楽しい旅の始まりである。穎美は毎年、一度春節に帰省するだけだったのに、パパたちとまた帰れるのが嬉しいという。しかし一年に一度の帰省(最近では大連で服飾の勉強をしている弟と一緒の)でも、今回乗るような特急ではなく、朝9時に大連を出て、家に着くのは夜遅くなる便らしい。事実今年の春節のときも、家に着いたと電話があったのは夜9時ごろではなかったか。


〈瀋陽かつての奉天〉
 旧満州の裸山を予想していたが、車窓を流れる風景は、木は少ないが緑が濃い豊かな田園風景が続く。米、トウモロコシ、マメ科の植物、たぶんリンゴなどの果物畑が延々と広がる。
 途中いくつか大きな駅を過ぎ、12時近く、遼寧省の省都瀋陽に入る。旧満州時代に奉天と呼ばれていた町である。ということは、迂闊にも今これを書きながら思い出したが、物心ついたころ一度この町に来たことがあるのだ。名前まで決まっていた弟の死産のあと、病院に行く若きバッパさんと二人でこの町を訪れたはずなのだ。その当時連れ合いが製薬会社に勤めていたバッパさんの叔母の家に、私だけが何晩か預けられたはずである。
 とまれ今回はゆっくり思い出にふける余裕などなかった。朝早く山奥から私たちを迎えに来ているお父さんを探さなければならない。改札口を出たあたりで待ってるはずが見当たらない。こういうとき、ケータイは実にありがたい。もしなければ雑踏の中、出会うまで更に数時間は要していたろう。


〈穎美のお父さん〉
 写真ではすでに見ていたが、もちろん今日が初対面である。勝手な想像かも知れないが、彼は頑健で長身の満族特有の体格をしているのでは、と思う。長女の穎美を目に入れても痛くないほど可愛がって育てたであろうことが、彼の優しい男らしい表情の中に読み取れる。タクシーで家を6時半頃出た、らしい。
 さてそのタクシーを運転するのは、親戚のおじさん。車は黒のフォルクスワーゲン、サンタナ。じりじりとした日差しの中で待っていたらしく、車内は相当な暑さである。動き出したらクーラーが作動するだろうという穎美の希望的観測は見事にはずれ、故障してるとのこと。2時間半以上の道中、窓を開け放したまま爆走することとなる。


〈全戸20軒に満たぬ村落〉
  たしかに現在では電気が来ている。テレビも見れるし、冷蔵庫もあるだろう。しかしそれも最近のことではなかろうか。でもまるで守護神のような大きな木の両側に広がるその部落の、なんという長閑さ。たくましい雌鶏が雛たちを従えて悠々と道を横切る。山羊が草を食んでいる。家の横ではラバ(馬と驢馬の合いの子)がゆったりと大地を蹴っている。どこかで見たような風景、たしかに一度は夢の中で見た懐かしい村の姿。
 日没が迫っているのか、あたりを黄金色の光が包み始めた。ご両親、一時帰省している穎美の弟、そして母方の若い叔父さんとの旧知の間柄のようなあったかな挨拶の交換。夕食までの時間、穎美と三人であたりを散策する。明日山を降りなければならいなんて、あまりに気忙しい日程を組んだことを今更のように後悔した。


〈残光の中の玉蜀黍畑〉
 この時期、食べれる作物がないことを、穎美の家の人たちは残念がっていたが、たしかに家の裏に広がる玉蜀黍が収穫を迎えるころにぜひまた来てみたいものだ。あとはえんどう豆、西瓜、瓜、トマトなどであろうか。
 穎美は西陽を見るのが好きと言っていたが、なるほど幼いときからこの素晴らしい夕景色を見ながら育てば、西陽が好きになるのは当然かも知れない。日本に行ってからは、父母きょうだいのいる方角として、さらに西陽を見るのが好きになるであろう。


〈戸籍を持つ大木〉
  穎美の話だと、この地方では(もしかして中国全土で?)古木や歴史的に見て重要な樹木はすべて戸籍をも持っていると言う。この村落の中央にも、そんな戸籍を持つ老樹があった。おそらくこの村落創世のときから、村人たちの喜びや悲しみすべてを見守ってきたのであろう。


〈山羊と家鴨のいる風景〉
 穎美の家の鶏たちを見ていると時間の経つのも忘れるほど面白い。雌鳥の回りで元気に遊んだり虫を追いかけたり、夕暮れが迫ると中庭の隅にある鳥小屋に帰っていく。中にどうしてもまだ遊びたいのか一羽の黒っぽい体の元気な子がいた。いつ鳥小屋のみんなの元に行くのだろうと心配だったが、私たちが散歩を終えて帰ってきた時分には姿が見えなかった。無事ご帰還遊ばしたのであろう。


〈村はずれで〉
 なんだろう、この懐かしいような、温かくそしてちょっぴり物悲しいような感情は。穎美のように都会に出、そしてさらに海外へと出る人もいれば、彼女の両親のように(同じ村落に叔母一家も住んでいることを翌朝知ることになる)一生をこの村で送る人もいる。日本人との結婚、そして日本への移住を心配する両親、とりわけ母親の気持ちが痛いほど分かる。私たち夫婦と会ったことで、その心配が消えたと穎美は言うが、心配であることに変わりは無いはずだ。翌朝早く、みんなが起き出す前に母と娘は山の方に散歩に行ったらしい。母と娘のあいだの積もり積もった話。それを知って、穎美が幸福になるために私たちはできるだけの手助けをしなければ、と思いつめたように妻がつぶやいた。



2005/06/24(金) みんなで記念撮影

 持参したデジカメがどうしたことか昨夕すでに電池切れになってしまった。大連のホテルで充電したことで安心していたのだが。充電器はともかくとして、予備のバッテリーもホテルに置いてきてしまったので、一瞬目の前が真っ暗になった。するとすかさず穎美がこれを使いましょう、と家にあったフイルム式のオリンパス・カメラを持ってきたではないか。だから日付の入らない写真はすべて大連に戻ってから焼き付けた写真をさらにデジカメで撮ったもの。少し色が暗いのはそのせいである。
 さて翌朝、近所に住む母方の若い叔母さんや親戚の小さな子を交えて、裏山をバックに記念撮影をすることになった。あとから気が付いたのだが、穎美の弟の写真は今回一枚も撮らなかったことになる。もちろんこの集合写真を撮ったのも弟である。口数は少なく控えめな性格の弟だが、父親譲りの体格をしたいい男なのに紹介できなくて残念。


〈玄関前で〉
 妻と穎美のお母さんが手をつなぎ、それを背後から穎美が支えている。穎美らしい心憎いまでの演出(?)である。この家でも頻繁に便所に立つ妻を、その度ににこやかに面倒を見、疲れがとれますよ、と言って、裏山から引いた冷たい水で妻の体を拭いてくれた穎美の優しい心遣い(結局身内自慢になるのでこの話はここまで)。
 朝食は外でとった。すがすがしい朝の大気の中に並べられた御馳走はさらに美味だった。特別な朝なので中国酒かビールを飲もうということになったが、すがすがしい朝にはビールがふさわしい。朝のビール、生まれて初めて飲んだが、なんと美味しかったことか。


〈瀋陽北から大連まで〉
 ひときわ大きなお父さんを中心に、みなが車が見えなくなるまで手を振っていた。帰りは大連に帰る弟を乗せ、運転手は昨日と同じ親戚のおじさん。途中空模様がおかしくなって、瀋陽に近づくころには雨が降り出した。でも下手に天気が良いとみんな車を吹っ飛ばすので、雨の方が注意深い運転でこちらとしては歓迎したい。それでも瀋陽北駅につく頃には晴れ上がって、駅構内は昨日同様の雑踏である。駅前の食堂で美味しい餃子を食べたあと、車両の違う弟と別れる。
 どういう仕組みか、駅員と同じ制服をきた二人の男が車両の真ん中へんで、何かの宣伝を始めた。ちょっとした釘に引っ掛けてもこれこの通り穴も開きません、といった口上らしい。穎美が「パパ買ってみましょう」と色違い三組の靴下が入った小さなビニール袋を注文した。そう言えば往きの電車でも、紐の上でもどこでも唸りを上げて回る独楽を記念だからと妻に買ってくれた。駅の構内では弟が側に寄ってきた物貰いの老婆に小銭を恵んでやった。けっして余裕のある生活をしているはずもない姉弟が、ごく自然に貧しい人に温かな対応をすることに感心した。外国人の目の前で、このように同国人に対して温かな対応をすることは、なかなかできるものではない。
 午後1時に瀋陽を出た電車は、予定通りまた大連の町にわれわれを連れ帰ってくれた。36枚撮りのフイルムを使い切ってホテル近くのDPEに頼むというので、駅前で写真を撮ることにした。幸い2枚ほどで巻き上げが始まった。


〈最後の夜〉
 今度の部屋は前回泊まった部屋のちょうど真下らしい。少し休んでから夕食のため街に出た。中国料理ならなんでも食べると言ったが、でもいちばん食べたいものは、と言われ、つい「北京ダック」と言ってしまった。じゃよくは知らないけど探してみましょう、と街に出たのである。タクシー運転手にも聞いて、ちょっと大きなレストランに着いた。確かに美味しかったが、三人とも旅の疲れから、というより本当は明日また別れ別れになることを考えて、元気が出なかった。
 帰途、先ほど頼んでいた写真を受けとり、ホテルに帰ってパジャマ姿でお茶を飲みながら最後の夜を過すことにした。ちなみに妻が着ているのは、穎美が今度のために買っててくれたパジャマである。



2005/06/25(土) いつもの食堂での朝食

 値段を確かめなかったが、たとえば小皿に盛った漬物や佃煮のようなものは、おそらく日本円で20円くらいではなかったか。玄米や粟のおかゆと、それら小皿のおかずで、実に健康的な朝食が食べられる。
いやそんなことより、仙台行きの飛行機が11時だとすると、あまりゆっくりできないのである。本当は毎日この店で、いろんなおかずを試食したかったのだけれど、それはまた次回の楽しみに。


〈大連賓館前で〉
 高い屋根の車寄せは最新式の建物にはない風格がある。結局三泊世話になったホテルの前で記念撮影。
ところで穎美がチェックアウトの手続きをしているあいだ、私たち二人は近くの椅子で休んでいたのだが、穎美がなにやら受け付け嬢に言われているようである。宿泊料金は払っているはずだが、と近寄ると、穎美がにこやかに、しかしきっぱりと、「なんでもありません、パパ心配しないで」と押し戻されてしまった。後で分かったのは、どうやらバスルームのタオルの所在のことだったらしいが、感心するのは、文字通りの濡れ衣に顔色ひとつ変えずににこやかに事情を聞き質す穎美の態度である。若い中国の女性がすべて彼女のようだとは思えないとしたら、やはりこれは穎美のもって生まれた個性なのだろうか。


〈空港での最後のひと時〉
 さていよいよお別れのときである。穎美の滞留ビザがいつ交付されるのか、現時点では全く分からない。再申請といってもそれは再び最後列に並ぶことを意味し、するとさらに今から2、3ヶ月を要するのか。要するに息子たちの結婚が偽装結婚に疑われたということであるが、そうした理不尽な嫌疑をかけられたことに、激しい怒りを覚える。確かに形としては、息子は結婚手続きのために大連に2日間滞在しただけなので書類的には疑われても……しかし今さらどうにもならない。国家という非情な歯車が時おり(いや頻繁に)生み出す非合理と諦めるしかないか。今回の旅行の航空券、パスポートなどのコピー、ご両親たちとの記念写真などは、もちろん追加資料として入管に提出するつもりだが。
 出国審査を受ける間も、穎美は遠くから私たちを心配そうに見守っていた。


〈JR館腰駅の無人プラットホームで〉
 五日ぶりの日本は蒸し暑かった。11時に大連を発って、1時間の時差はあるが2時半にはもう仙台空港である。東京に行くよりずっと気楽な中国行き。こんなことなら頻繁に穎美の里帰りに同行して中国に行きたい。この次は穎美の実家にもう少し滞在したいし、できれば北京周りで熱河にも行ってみたい。穎美は万里の長城をまだ見たことがないそうだから、ぜひ連れて行こう。というより正確には連れて行ってもらおう。
 さてここでひとまず今回の旅の記録にピリオドを打つ。しかし中国の歴史や文化への旅の記録はこれからも、というよりこれからが始まりである。数百冊の文献もそろえた。あとは一歩一歩、楽しみながら、立ち止まりながら歩いていくだけ。


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する(2021年4月22日記)。

短い大連への旅がいきいきと語られていますね。頴美さんとご家族のこともよく分かります。とりわけ頴美さんの立ち居振る舞いについて、先生はなんども感嘆と感謝を込めて触れておられますが、いちどお邪魔したおりの笑顔をわたしも思い出しました。
一読したばかりですが、感動して自然に涙が流れました。