最期の迎え方

半ば習慣化していることだが、早暁、布団の中で、半覚半睡(これ私の造語です)の中で、いろいろ複雑なことを考えたり思いついたりしている。大半は目覚めてから思い返すと他愛もない妄想のたぐいだが、なかに、時おり、なかなかいい着想やら思い付き(同じことか)を得ることがある。
 今朝しきりに考えていたのは、まだ治らない皮膚炎がらみのことだった。仁平さんの忠告を忠実に守ってステロイド系の塗り薬はいっさい使わず、痒いときはタンポポの根とヨモギの葉から作った「ばんのう酵母くん」を患部にこすり付けて何とか凌いでいる。そのうち体のどこかからタンポポの花が咲くかも(それはそれで気持ち悪<わり>い)。
 患部は頭皮から足の先までと広範囲だが、しかし増えているわけではない。激しい痒さではないが、日中もほのほのと痒く、まるで頭の中にも薄いヴェールがかかっているようで、はなはだ気分が悪い。掻きだすと手が勝手に動いてしまう。初めのうちアナミドールなどに戻ろうとの誘惑を感じたこともあったが、その時は「これを使っても何の効果もなかったんだぞ!」と強く自分に言い聞かせて思い止まった。
 で、今朝の妄想のことだが、どこかの通販から保湿成分の入ったローションの瓶が届いた。注文したわけではないが、先日届いた小型の瓶と同じ成分で、今年新しく収穫した材料(オリーブか何かか?)で作ったので試してください、とのこと。料金も請求せずずいぶん良心的で親切なメーカーだこと、と感心した。お金で払わないとしてもなにか御礼せねば、と真剣に考えはじめた。『情熱の哲学』は残りあと一冊しかないから、なにか私家本でも送ろうか。でも待てよ、その瓶が送られてきた時の包み紙は? いやそれより先日送られてきたというヤクルトほどの小さい瓶はどこにある?
 すみません、実につまらない夢の一部始終をここまでしゃべってしまいました。そう、全て夢の中のこと、その時鳴ったケータイの目覚まし音で今度はしっかり目が覚めました。でも頭がしびれるほど本気で考えたその痕跡が、頭蓋のどこかに残っていて、このことを後で何とか書かなければと思ったわけです。書いているうち本当に馬鹿らしくなりましたので、この辺でケリをつけます。「ケリ」で思い出しましたが、これが古語の完了を意味する助動詞「けり」だということご存知でした?「蹴り」じゃないっすよ。おや知らなかった? じゃせめてそれだけでも収穫にしてくださいな。
 実は白状すると、数日前、しかも二度にわたって半覚半睡の中で考えた或ることを書こうと思ったのだが、内容がちょっと重過ぎるので、その前に少し軽めのものを,と書き出したのはいいが(良くない良くない)、つい長々としゃべってしまったわけ。ところでその或ることとは、先日多摩川に入水したあの人に関してである。彼は私と同じ道産子で、しかも歳は同じはず。生前の彼とはもちろん接点はなかったが、ただ一度だけ、清泉の教え子の森西・村山さんと共訳したライン・エントラルゴ著『スペイン一八九八年の世代』(れんが書房新社、1986年)を「生の悲しみ知る権利」という題で実にいい紹介をしてくれた(「朝日新聞」、1986年7月十四日号)。その最後のくだりだけでも引き写してみよう。

スペインはヨーロッパ文明の突端であり岬である。いまやそのもうひとつの岬となった我が国は、スペインにおける精神の下降と苦悩とはまったく逆のものを、つまり上昇と歓喜を享受しているかにみえる。しかし、本書を読めば、生きることの「巨大な悲しみ」を知るのは人間の輝かしい特権であるとわかるであろう。

 ウナムーノなど「九十八年の世代」の本質を実によく理解している。だが、と先ず褒めた後に貶すのは、とりわけ相手が黄泉の国に旅立った者であれば、つまり死者を鞭打つことなど私の趣味じゃないが、しかし前述したようにこれは半覚半睡の中でのこととして大目に見てもらおう。
 はっきり言おう。あのいつの間にか保守の真髄を言い募るほどになった人の最後があまりにも悲しい。ウナムーノの盟友アンヘル・ガニベットも領事として赴任していたラトビア共和国の首都リガを流れるドビナ河に、グラナダから家族が来るというその日に謎の投身自殺をしたし、漱石『心』の先生も自殺をした。だからというわけではないが、その行為自体を一概に非難するつもりはない。しかし保守の真髄氏の場合、報じられる限りの理由ではその傲慢さに首を傾げたくなる。
 会津藩士のなれの果て(のその子孫)である私から見ても、手段はどうあれ、もしもそれに切腹の意味があるとしたら、彼の自死は完全にご法度のはずだ。確か彼は「自裁」とか言っていたと思うが、誰も「生命」を裁く権利など持っていない。それは生命に対する忘恩であり権利侵害である。
 大した芸も持たないのにいつの間にか芸能界の大御所になってしまった明石家さんまだが、彼が娘さんに付けた名前はまことに大正解。「生きているだけで、まるもうけ」からイマルと付けたそうだ。
 そんなことをつくづく考えさせられるのは、今も私の3メートル横で穏やかな寝顔を見せている美子がいるからだ。ときどき「美子ちゃん、ママ、偉いねー、美子ちゃんがいちばん偉いんだよ」と声をかけると、まるでどこかの国の女王様のようににこやかに、しかも威厳をもってこちらを見てくれる。何もしゃべることができなくとも、人間生きているだけでご立派。美子からどれだけの勇気と喜びを貰っていることか。
 真髄氏に心酔していた二人の友人が自殺幇助罪を犯したことになったかどうか、その後の報道を見ていないので知らないが、ともかく人騒がせな死に方をしたものだ。
 てなことを半覚半睡の中で二日にわたって考えたわけだが、しっかり目覚めている今でもその見解は毫も変わらない。私にいつ死が訪れるか分からないが、たとえ家族や他人様の手を煩わせて惨めな状態になろうとも、最後まで感謝の気持ちを失わず、それまで生きられたことに深く感謝しながら、そしてできることなら美子の最期をしっかり看取ってから死にたいといつも願っている。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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最期の迎え方 への2件のフィードバック

  1. 佐々木あずさ のコメント:

    先生の3メートル先に存在する美子奥さま。かつてダニエルベリガンを翻訳し、英語に親しみ、思春期の教え子たちの成長を助け、そして孝先生の生の原動力。先生のつぶやきを、ささやきを、鼻歌を、ぼやきに耳を傾け、くすっと笑っておられるお顔が目に浮かびます。美子奥さま、こちら十勝は、ゴールデンワーク。お百姓さんは、こぶしと桜が美しく咲く十勝の大地を耕し、神聖な汗を流しています。以前、こちらに来られた時の季節はいつだったのでしょうか。とかち晴れのさわやかな日だったらいいなぁと思っております。先生のいとこ、はげあん先生は半農半医を実践しておられます。時折、大好きだった千代ばっぱ様と健次郎おじさまのことを話してくださいます。どうぞ、孝先生が元気にモノディアロゴスができるように、おそばにいてくださいませ。佐々木あずさより

  2. 阿部修義 のコメント:

     文章を何回か拝読して、『情熱の哲学』の「狂気のドン・キホーテを求めて」を読み返しています。

     「ウナムーノの言うドン・キホーテは、むしろこの世にとどまって闘い続けなければならない、あえて嘲笑に身を晒して生き続けなければならなかったのである。」

     真髄氏は、確かに碩学であり、物事の本質を見事に突く極めて学者肌の人だったと思います。先生と同じような人生を歩まれた人ですが、ドン・キホーテを深く理解していたがドン・キホーテにはならなかった。先生は、ドン・キホーテの道を選ばれた。それはまた、先生の生き方の根源にスペイン思想の魂が、ドン・キホーテの哲学が脈々と流れているからなのかも知れません。先生が言われた「個から普遍へ」という言葉をなぜか思い出しました。先生と美子奥様のご長寿を切に願っております。

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