82歳の誕生日

今日8月31日は父の誕生日。生きていれば82歳です。そしてこの日は母方の祖父・源一おじいさんの命日でもあります(2000年歿)。82歳の父の姿は十分に想像されますが、最晩年の健康状態を思い返すと、79歳で世を去ったのは寿命だったのだと思います。3兄弟(真ん中は姉)で一番早く天国に行ってしまいました。長寿の家系とばかり思っていただけに(ひと昔前であれば70代まで生きられれば長生きの部類でしたでしょうけれど)、このような最後を迎えるとは夢にも思いませんでした。全力で駆け抜けた79年でした。今日は父、そして祖父を偲び、この日にかかわる父の過去の投稿を紹介し、二人に捧げたいと思います。

  
  病室から(その十三)義父源一のこと


八月十三日(木)晴れ

 さて八月の死者、最後の二人である。まず菊池重雄さん。十何年か前のいとこ会のおり、■さんが作ってくれた佐々木家の系譜によると、(とここまで書いて、その系譜を挟んだ厚手の手帳、何て言ったっけ、そうシステム手帳、を家に置いてきたので、とりあえず最後の一人に進む。)
 三本木源一さん 美子の実父で私の舅。命日の三十一日は奇しくも私の誕生日に当たった。だが本当に恥ずかしい話、彼のことを実はあまり知らないのである。息子たち、孫たちのために、残された日々、少しでも調べられるころは調べておかなければ、と思っている。しかしそのための条件は厳しい。なぜなら美子に聞くことは無理、そして彼の死後、彼の実家とはすっかり関係が切れているからである。
 そしてついでに言えば、美子の母ウメの実家とも。前者は自然消滅といった感じだが、後者はウメさんの死を親戚何軒かに知らせたのに、一切の返事が無かった。そのころは美子はまだしっかりしていたが、この結果を決然と受け止めた。つまりこちらからもきっぱり縁を切ったのである。これで天涯孤独、私はふざけて、美子は文字通りコゼットになってしまったね、と言った。あの『あゝ無情』のコゼットである。
 親戚のこの思いもよらぬ反応は、彼女にもその理由がまったく分らないようだった。婚約時代、私も美子と一緒に訪ねて、その後しばらくの付き合いもあったのに、いつの間にか疎遠になり、そして最後は完全に縁が切れてしまった。
 でもまたいつの日か、ひょんな機会に、私たちの子孫が彼らの後裔と縁りを戻す機会があるかも知れない。そのときは、過去の一切を水に流し、新しい親戚関係を結べばいい。それこそすべて恩讐の彼方に、である。
 いつの間にか話は家庭の恥をさらすことになった。しかし私たち夫婦にとって、正直なところ恥ずべきことはなにも無いのである。つまり世間の尺度からは恥ずかしいことかも知れないが、私(たちと言うべき、なぜならこの点に関して美子は完全に私と同意見であったから)の最終的な基準あるいは物の考え方の基本からすれば、あらゆる事実は、それが真実のものであるかぎり、いっさい恥ずかしいとは思わないからである。人間関係も然り。思わぬ経緯をたどって、縁が切れたり不仲になったりしても、たがいに悪意がなく、己れに真っ正直であったなら、時の経過とともに、また縁りを戻せばいい。いや無理やりそうするというより、自然の流れの中の自然の修復にまかせたらいいと思う。現に私自身、それもごく最近、一時は互いに絶交したと思われた友人と縁りを戻した。いやむしろ絶交以前よりさらに親密に付き合うようになった。
 いや、そんなことより源一さんのことである。生前の彼の最後の仕事は、福島市の中合という百貨店の警備の仕事だったと思う。もちろんそれは退職後の臨時雇いのような仕事だが、さてそれ以前は? 美子にも詳しく聞いていないが警察官であったことは確かである。戦後、共産党員を見張っていたということを本人よりちらっと聞いた記憶があるから、思想取締り(?)の刑事でもあったのだろうか。
 さて戦中である。陸軍の少尉か中尉で、朝鮮に出兵したのではなかったか。ウメさんも一時朝鮮で生活したはずだ。軍馬に乗った勇ましい写真がアルバムに残っている。そういえばかなり分厚いアルバムに義父と義母の写真が残っているが、もはや美子からいろいろ聞き出すこともできなくなってしまった。そう考えると、なぜもっと美子の生い立ちやら体験を聞いておかなかったのだろう、と悔やまれてならない。
 コゼットは小さい時、家業の宿屋(おもに母親と祖母が切りまわしていた)の手伝いをさせられていました。お客さんが着くと、部屋に行き、お食事にしますか、それともお風呂にします?、と聞くのでした。そして近くの魚屋さんにお刺身を買いに走るのが日課でした。ときどきお客さんから、あのおかみさんはお嬢ちゃんの本当のお母さんなの?と聞かれることもありました。(なぜか涙が出てきて止まりません。今日はここでやめます。)

2009年8月14日付投稿

今朝の母
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思いがけない出逢い

この未曽有の危機の只中、まさに天啓のような、かつ亡き父への天の祝福のような出来事がありました。東京・世田谷で私塾『こころへ教室』を主宰されている高橋由紀子様との出逢い。以下に、高橋様のホームページをそのまま引用しご紹介いたします。


2021年 08月 12日

「こっつぁかねぇ」(くだらない)

私は
ヨノナカの不条理に泣きたくなったり
セケン様の圧力に困惑したようなとき
まずは心身の重心を下げるため
そして言葉に表された知恵を得るため
さらに心に清らかな風をもう一度吹かせ
「ナンセンスにナンセンスという」ために
折々「モノディアロゴス」と題されたブログに還ります
筆者はスペイン思想研究家の佐々木 孝氏(1939〜2018)です

スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(1883〜1955)による痛烈な時代批判の書。
自らの使命を顧みず、みんなと同じであることに満足しきった「大衆」は、人間の生や世界をいかに変質させたのか。一九三〇年刊行の本文に加え、「フランス人のためのプロローグ」および「イギリス人のためのエピローグ」も収録。
二〇世紀の名著を明快な訳文で。(解説=宇野重規) 岩波書店HPより


先日 私が送った暑中見舞いの葉書を受け取った方から「なぜ 郵便番号の枠を使っていないのか」と問われました

私は普段 郵便番号の枠が印刷された葉書を使うときには
郵便局員には手間をかけ気の毒ですが
右側の住所の上に番号を寄せて書くようにしています
なぜなら そもそも郵便番号は住所の一部であって
人間に番号が付されるものではなく
先様の名前の真上に番号が乗っていることに
どうしても違和感があるからです


それなら
郵便番号が書かれていない葉書を使えばよいのですが
私は古道具屋さんから分けてもらう古葉書を使っているので
すでに郵便番号が印刷されている葉書も含まれているのです


人間に番号を付す ということが
どうしても私の生理に合わない
ですから そのことで不便があっても
そのことに準じることには与しないようにしています


先日 佐々木孝氏の「モノディアロゴス」を拝読していたところ
あの「マイナンバー制度」について
膝を打つような氏の洞察に出会いました
賛同される方もおられると思い
佐々木氏の亡き後
ブログを護っていらっしゃるご子息の淳(じゅん)氏に
思わず記事転載の許可を願い出ていました


後日 淳氏より快諾のご返信が届きましたので
以下に謹んでご紹介させて頂きます
一部を勝手ながら抜粋致しますので ぜひ本文を

そして「モノディアロゴス」を
https://monodialogos.com/
お訪ねくださいますようおすすめ致します

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「こっつぁかねぇ」

投稿日2015年12月7日
作成者 佐々木孝


一昨日、とうとう「マイナンバー」とかの知らせが届いた。(中略)
結論から言えば、今回は(?)申請しないことにする。説明書もていねいに読み通すことさえしなかった、というよりできなかった。何かしら心中波立つものを感じ、字面を追うことが苦痛に感じられたからだ。自分に関心のないものには柔軟に対応できないという高齢者特有の心理が働いているのかも知れないが、それ以上に人間を数値化・記号化すること自体に対する本能的(?)な嫌悪感からである。

 ばっぱさん(佐々木氏御母堂 注・高橋)が亡くなったあとに何度か味わわされた、人間を数量化あるいは記号化することのおぞましさに対する怒りがその底流にある。つまり市役所などで、一人の市民の死に対してまっとうな人間の反応が一切無かったこと、(「あのー、その佐々木千代は昨年の正月に亡くなったのですが…」「あ、そうですか、じゃ書類の方訂正しておきます」)、要するに一人の人間が書類上ただの記号に矮小化されていることへの怒りである。「あゝそれはご愁傷様です」という人間らしい反応が見事に省略されていた。

 もしもマイナンバー化されれば一つの部署への死亡届けが一瞬のうちに他の部署の書類にも反映されるからそうした見過ごしあるいは間違いは無くなる、という返事が戻ってくるかも知れない。しかしそれが怖いのだ。一人の人間の死が一瞬の操作でいとも簡単に処理されること自体が。

 ましてや今や少子化、人口減少が急速に進んでいる時代。だったらなおのこと、一人ひとりの人間に対してもっとていねいで人間らしい対応が必要ではないのか。今度のマイナンバー制の考えも、簡単に言えば行政側の便宜・効率化が優先されているわけで、市民サイドのそれははっきり言って二の次であろう、いや二の次だ、と断定していい。

 今から考えると、いや考えるまでもなく、あの平成の町村大合併など誠に愚かなことであった。何事であれ、日本という国は国民が為政者側の言いなりになり過ぎている。露骨な言い方で恐縮だが、為政者の言うがままに馴致されている、もっとはっきり言えば体よく家畜化されている

 他国の民生状態、いま流行の言葉で言えば民度(馬鹿な政治家や自称愛国者に悪用される実に曖昧模糊とした言葉)、に関してわが国は法治国家だから云々という言い方がよくされる。確かに犯罪件数は少ないし、人々は親切で礼儀正しい人が比較的多いかも知れない。それは認めてもいい。しかし大震災後の身近なところではっきり見えてきたのは、日本という国がますます非人間的になっていることだった。あの当時しきりに言われた「絆(きずな)」という言葉がいかに空疎で内実を伴わない言葉か、事ごとに思い知らされたのである

 大事なもの、大切なことはすべからく手間がかかる。それを面倒がって簡便に済まそうとすると、何かが、いや大切なものそれ自体が、失われていく

 死んだばっぱさんが生きていたら(とは変な言い方だが)、たぶん今回のマイナンバーのことなど、「こっつぁかねぇ」と言下に吐き捨てたかも知れない。標準語に直せば、「くだらない」。

(太字・赤字・下線はご子息による)

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大事なもの、大切なことはすべからく手間がかかる。
それを面倒がって簡便に済まそうとすると、
何かが、いや大切なものそれ自体が、失われていく

 

この言葉をこれから 日に何度も自戒していこう
そしてナンセンスにはナンセンス と言い続けよう
本当は「こっつぁかねぇ!」と言い放てたら
いいのだけれど


佐々木淳さま
末筆となりましたが 改めて
「モノディアロゴス」の言葉を快く拝借させてくださり
本当にありがとうございました

御尊父様の愛した福島県南相馬市の空を遠く望みながら




WATCH + TOUCH blog 『日々の体験學』

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1965年4月26日の日記


4月26日

  主よ、私を助けて下さい。将来どんな仕事につこうとも今やっている勉学が基礎となります。人間的な野望にあおられてではなく、御身の御名の光栄と己が完徳、隣人の救いのために役に立つ学識を身につけることができますよう、お助け下さい。
   哲学の勉強が始まってから二週間あまり、少しずつおぼえていくのでしょうが、目標を失わなわぬよう、常に導いて下さい。
   自分の将来について、他人に話すことはやめよう。ただ黙々と勉強し、主の照らしを心待ちにしよう。
文学、哲学、それがどうだ?というのだろう。あのドブのにおいのする労働者の町で、実感したあの感覚、あるいは思想のようなものはどこにいったのであろう。

   Muchas veces me mueven pensamientos de ir a los estudios de esas partes, dando voces, como hombre que tiene perdido el juicio, y principalmente a la Universidad de París, diciendo en Sorbona a los que tienen más letras que voluntad para disponerse a fructificar con ellas, cuántas almas dejan de ir a la gloria y van al infierno por la negligencia de ellos.

(S. Francisco de Xavier)

 疑問

  1.  オルテガ・イ・ガセットを勉強する必要があるだろうか。YES NO
  2.  日本の文学を特に深く、(文学史的な知識ではなく、心情とその問題の所在をたしかめるために)読み進める必要性。
  3.  日本の思想家を深く勉強する必要。
  4.  カトリックの真正な思想家を一人選んで、それを徹底的に勉強する必要。
      聖アウグスチヌスは一番良いのではないか。
  5.  スペイン語を使っては、
      特に聖イグナチオ、フランシスコ、テレジアを研究する方が得策。
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修道日記(1961-1967)

論文はもちろん、日記や手記、モノディアロゴスなど、文字に残した父の精神史は、父の生涯追求したものを考えれば、その価値は決して低いものではないだろう(いや、世間が見向きもしなくても構わないことだが)。父は自分が文章にしたものはすべて公けにしてほしいと願っていた。未熟さや過誤を含めたものこそが真実と思っていたし、それを知ってもらうことにおいてこそ、生きたことの証としたかったのである。特に日記のような断想的なものにこそ、オルテガの言った「内-歴史」のような人間の最も重要な本質が秘められているのだと思う。だから、思想家の端くれとして真剣に生きた父の息子としては、可能な限り、それらの文章をデータ化して、心ある人々と分かち合うことが責務だと思っている。とりあえず何としても成し遂げねばならないのは、特に初期の日記の公開、そのためのデータ化である。手書きなので、なかなか文字に書き起こすのは難しそうである。でも、やらなくては仕方ない。

「いやなこと、不快を感じる時こそ、かえって笑顔で人の前に出よう。たえざる自己滅却。どんな他人からの無視、ぶじょくも心良く!」
1961年の日記①
振り返れば、常に父はそのようにしていた。また大きな試練に直面すると、ふつうは誰もがうちに縮こまってしまうところを、かえって攻めの姿勢に転じ、まったく別の側面から思い切った行動に出て、事態に抗おうとしていた。それは最後まで続いた。

1961年の日記②
「パパは本気で聖人になるつもりで(身と心を
捧げて)修道生活を送っていた」と度々語っていた。
1961年の日記③
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オルテガ誕生日

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再掲「〈紡ぐ〉ということ」



「原発に頼ろうとしている日本だろうと、〈強い日本〉などとキナ臭いスローガンを掲げる右傾化の動きだろうと、それに対する強い拒否と抵抗の〈想い〉さえあれば、いつかそれらを阻止できるかも知れない、いや〈かも知れない〉ではなく、断固その想いを貫徹する意志さえあれば、その想いはいつか実現していく。例の〈平和菌〉だって、たぶんこの〈想い〉の別称なのかも知れない。いやきっとそうだ

2012年11月23日



【追記(2021年5月15日)】
 父の生前からモノディアロゴスを愛読され、父と交流のあった大阪のTさんからいただいたお便りを、ご本人様の承諾を得た上で、以下に転載します。父の魂を慰めるため。

 
 ご無沙汰しております。

 淳さんはじめご家族の皆様、お変わりございませんでしょうか。
 今年2月の福島沖地震や3月の東日本大震災から10年をはじめ、原発や東京五輪、コロナめぐる日本政府の愚かな選択などの折に触れ、皆様のご様子をお伺いしようという気持ちが起こりつつも、私自身の不如意な生活に追われ、ご無礼してしまいました。
 今日のモノディアロゴス。「〈紡ぐ〉ということ」の再掲、ありがとうございます。佐々木先生の強い<想い>、とても尊いです。私にはそこまでの想いを持てる精神の土壌がないことを思い知らされ、心苦しい限りです。
 執行草舟さんは『脱人間論』――その後、私は特定の時間だけ繙いているので、まだ半分強しか読み進めていません――で、ご自身が拠り所とする『葉隠』から、「死に狂い」「忍ぶ恋」「未完」という三つの信念を導き出したことを述べています。その意図するところをそのまま間違いなく、過不足なく、氏と同じレベル、同じレイヤーで語る力は私にはありません。
 が、執行さんの言葉も少し借りながら、私は自分なりにこう思いました。「死に狂い」=死ぬまで、自分を突き動かす<想い>に従って生きること。「忍ぶ恋」=その<想い>は、他者に理解されなくても構わない。一途に想う。「未完」=そして、成し遂げられなくても構わない。一途に突き進む、と。
 先生は、そうした強い<想い>を絶やすことなく生き切った方だと思っています。そして、その<想い>をしっかりと受け止めて行動する人、あるいは、その<想い>をおぼろでも感じ取って何か人生の指針を得ようとする人が、モノディアロゴスに集まっているのだと思います。
 しかし、正直言いまして、不遜というか、心やましいというか、私には<紡いでいく><紡がれていく>ということまでは考えを広げることができず、やはり、自身の生活第一の現実に佇んでいるだけです。だからなおさら、先生のことを尊く思います。
 先生もご家族も交流がおありの様子の小説家・柳美里さんの近著『JR上野駅公園口』について、知人がブログで「ゆっくりと坂道を下り始めたこの国と、その中でやっぱり最初に捨てられていく草莽の人々の哀歓を作者柳美里はたっぷりと作品に書き留め、それが英文に見事に翻訳されて世界に発信された。日本文学にまた一本の金字塔が立った。」と評していました。アメリカで権威ある文学賞「全米図書賞」の翻訳文学部門賞を受賞したらしいですが、大衆メディアの話題に上ることはないですね(私とて、恥ずかしながら未読です。ごめんなさい)。
 また、以前アップされたもののすぐ削除されたT新聞の訃報記事には、本当に私も驚きました(嫌なことを思い出させて申し訳ありません)。記者は、上から目線で悠然と訳知り顔に構えているようであり、いや、先生の生き方と “魂”に対する畏怖めいた気持ちもあってマウンティングしているようにも感じました。
 なんだか取り留めなく書き綴ってしまいましたね。お許しください。

 皆様のご健康とご多幸、心よりお祈りいたしております。

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いのちの初夜

がんセンターへ出立の朝、母に別れを告げて
2018年12月17日朝8時半

2年前の12月17日、父を宮城県立がんセンターに入院させました。南相馬に戻ったその日の夜、父のパソコンを開くと、西日本に住むある方からメールが届いていました。18時10分の受信。父を元気づけるため、私は父の携帯にメールを転送しました。
 父の死後、父の携帯を開くと父の返信メールがあることに気づきました。父はボロボロの身体で、いつもは慣れない携帯メールは誤変換がつきものだったのに、短いながら誤字のない強い決意のこもったメッセージを送っていました。翌日の午後、実質父は生涯を閉じることになります。
 先日、このメールを送ってくださった方からお便りがあり、改めてこの時のことをお話しくださいました。私は、最後となったこのメールのやり取りと、死後2か月していただいたメールを、父を偲ぶためぜひモノディアロゴスでご紹介させていただきたい旨お伝えし、ご了承をいただきました。以下はそのメールです。



佐々木先生

大変ご無沙汰しております。「モノディアロゴス」で先生を知り、時々、メール交換させていただきました。「モノディアロゴス」から多くを学び、先生から直接、ご著書をいただいたりもしました。

私が母の旅立ちを見送ったのが3年前の6月。その後、表立って支部立ち上げの行動をしない自分のふがいなさや後ろめたさもあり、先生には「しばらく時間をください」という趣旨のメールをお送りした後、メールをするのは控えておりました。が、「モノディアロゴス」にはずっと立ち寄り、勉強を続けておりました。「モノディアロゴス」を、ただ通り過ぎていった一人、ではありません。

先日、先生がご入院なさることを知りました。が、やはりメールは憚られ、手紙を書こうと思っておりました。が、忙殺されている間に、もう今日は入院なさったご様子。手紙だと遅くなる一方なので、思い切ってメールを送らせてもらおうと思いました。お許しください。

先生が、無事に治療を終えて退院なさることを心からお祈りしております。そして、元気に発信を続けてください。昔、ご縁のあった方が障害のあるお嬢さんとのことを『娘より三日間長生きしたい』という手記にまとめられ、発刊されました。佐々木先生も、美子さんを残してはいかない、と思っていらっしるのは重々承知(私よりはずっとずっと強い思いで)ですが、ほんと、私も許しませんよ! どうぞ、どうぞ、元気な姿を、ご家族に、モノディアロゴスの皆さんに、そして美子さんに見せてください。再度、心よりお祈り申し上げます。

メール嬉しく拝見しました。今晩が命の初夜です。絶対に負けません。今後とも応援頼みます。
                       2018/12/17 19:55送信

2018年12月18日午後、気管支鏡検査に向かう直前。生前最後の父の写真



2019年3月8日(金) 18:05

佐々木さま

お父様の佐々木先生ご逝去の折は、ご丁寧にお知らせくださりほんとうにありがとうございました。もう2カ月以上が経ちましたね。悲しみは癒えることはないでしょうが、お父様の魂と共にある心強さと安らぎの中でご家族の皆さん、お暮しのことと拝察しております。そして、人生のパートナーとして歩み続けてこられた奥様の美子さんも、魂を共にする穏やかな時間の中にあることをお祈りいたしております。

(中略)

私は先生と直接お話しすることもなく、ましてやお会いすることもありませんでした。東日本大震災の後、あるメルマガを通じて先生のことを知り、思い切ってメールをさせていただいたのをきっかけに、その後、何度かメールや手紙を交換させていただきました。最後は、先のメールでも申しましたが、入院された日の先生に、いたたまれない気持ちになって不躾にも久しぶりのメールを送ってしまいました。先生は怒るでもなく、無視するでもなく、わざわざ喜んでくださった旨を返信くださり、その日を命の初夜をとらえている覚悟まで語ってくださいました。

研究者であり、思索家であり、文学者でもある先生の言葉は、私には難解なことも多く、これまで先生からいただいた言葉に自分の蒙昧さが白日にさらされるようで忸怩たる思いに駆られたことはありました。しかし、どんな時でも、先生からいわゆる “上から目線” で言われているような息苦しさを感じたことはありませんでした。
先生は「魂の重心を低く」と語っておられましたが、私のような者にも優しく接してくださったのも、その表れの一つと思っております。先生は時に瞬間湯沸かし器のスイッチが入るがごとく辛辣に論じたり、他者に怒りをぶつけることがあったご様子ですね。が、それも世の中の不正義、理不尽、人間としての言動の醜悪、無責任に接した時だけだったのでしょう。
これもモノディアロゴスにあった言葉、ないしは、先生の著書にある言葉だと思うのですが(記憶があいまいで申し訳ありません。メモの中からです)、「人と人を強く結びつけるのは、たとえば何に感動するかとか、どんなものが好きか、ということ以上に、何に対して闘いを挑んでいるか、あるいは何に対して真に怒っているかが決定的要因だと思っている。」と。
私は、先生と同じようなことに感動し、また、怒る人間だろうと自負はしています。が、先生のように真に怒ることができず、怒っても行動に至ることなく、日本人的な「仕方ない」「忘れよう」「あきらめよう」に落ち着いてしまう人間のように思います。そして今は、怒るより自分が直面することへの関心にのみ終始しています。というのも、業界の中層で活動するフリーランスのコピーライターという、社会的・経済的に不安定な身を選び、今、老齢期を迎え、人生の落とし前をつけるべくもがいているからです。
でも、そんな私の心の「錦」として、あるいは、やはり「戒め」として、モノディアロゴスに立ち寄り続けようと思います。
淳様には、お父様の言葉を再掲したり、ご自身にもあふれてくる思いを吐露したりしながら、少しずつ少しずつ、前へ進んでいただければと思っております。大阪弁で言えば、「まあ、ぼちぼちやっていきまひょ」ですね(笑)。
僭越なことを申し上げ、また、長々と綴ってしまい、大変失礼いたしました。お互いに健康に気をつけて、春の陽気を待ちながらしっかりやっていきましょう。お元気で。

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私の薦めるこの一冊(2001年)

教職を辞し、病の母を伴って南相馬に移り住む一年前に、父が寄せた文章。


青春の書 オルテガ『ドン・キホーテをめぐる思索』


 たとえばよく話題にされることだが、無人島に一冊しか本を持って行けないとしたら何を持って行くかとか、この世に一冊しか残せないとしたら何を残すか、というような極限状況での選択ならいざ知らず、『レタマ』編集長から出された「この一冊」という題は、おそらくはスペイン語を学ぶ学生たちに何を薦めるかを問うているんでしょう。
 そうなると迷いなくオルテガの『ドン・キホーテをめぐる思索』を選ばせてもらう。『レタマ』の表紙裏を見ればすぐにも分かることだが、「レタマ」という言葉自体オルテガの本からとられたものだ。もう十五年以上も前、常葉にスペイン語学科ができてまもないころの話である。創設以来最初の学年末を前に一期生たちと相談して機関誌を作ろうということになった。少しずつ原稿がたまってきた段階で誌名を募集した。ところが、期日を過ぎてもまったく応募がなく、急遽、私が決めることになった、と思う。このところの記憶はまったくあやふやであるが、一期生に聞いて確かめる時間もないので先に進める。いろいろ迷ったが、誌名はスペイン語であること、「常葉」との関係で何か植物の名前にすること、そして何よりも「青春」を表現した言葉、というのがなんとなく頭に浮かんだ。そしてオルテガ初期作品の中に「青春」が植物とからめて表現されている有名な箇所があることを思い出した。「レタマ」に行き着いた経緯は以上の通りである。そして創刊号表紙裏にはオルテガの次のような言葉が引用された。

「私の青春は私のものというより私の民族のそれであった。私の青春はスペインの歴史の道のほとりで、モーゼのレタマのように、すべて燃え尽きてしまった」

 モーゼのレタマとは、『出エジプト記』(第3章)の中でイスラエルの民を率いたモーゼに対して、道の辺のレタマが自ら燃え上がることによって神の出現を告げたという故事を指す。もちろんここでオルテガは宗教的な意味での神との出会いというより、もっと広くたとえば真理との劇的な出会い(晴天の霹靂、眼から鱗が落ちる、など)を言っている。
 いやそんなことよりも、この引用文が現在のものと違うことにお気づきだろうか。実はこれは、オルテガが一九一六年に発表した『人、作品、もの』という作品集の序文から取った言葉であって、現在のように『ドン・キホーテをめぐる思索』の文章に変わったのは第3号からなのだ。なぜ変えたかははっきりしない。たぶん「青春」を基調とする文章を選んだのはいいが、「すべて燃え尽きてしまった」というあたりが気になったのであろうか。ついでに白状すると、創刊号に書かれた「レタマ」の説明箇所には、実はとんでもないウソが紛れこんでいる。「マメ科の常緑落葉低木」という箇所である。「常緑」で「落葉」という組み合わせの植生などありえない。これは常葉(常緑)に無理に合わせようとインチキしたわけだが、しかし良心がとがめたのか、「常緑」に下線が引かれている(卒業生の中から植物学者や植木屋さんになった人がいないので実害があったとは思わないが)。
 ところで前述のように第3号からは現在のものに変わったのだが、その前後を補足引用するとこうなる。

 「文化的作業というものは、すべて生の解釈――解明、説明あるいは注釈――である。生とは、永遠のテキスト、そこで神が語られる道の辺に燃えるレタマである。文化――芸術あるいは科学あるいは政治――は注釈であり、生が自らの中で屈折することによって、光沢と秩序を得る生の様式なのだ」


 ここには「生きること」と「学ぶこと」との相即不離の関係が明確に打ち出されている。ここでやっと本題にたどりつけたわけだ。つまりなぜ学生諸君にこの作品を薦めるか、その理由がこの短い文章の中に込められているからである。『ドン・キホーテをめぐる思索』はオルテガ三十歳のときの作品で、よく言われることだが、後の彼の思想がほぼ余すところなく表出されている。もちろんそれらは完成態としてではなく萌芽としてではあるが。あのあまりにも有名になった「私は私と私の環境である」という命題が初めて現れるのもこの作品の中である。
 実はこの定式にも重要なメッセージが続いているのだが、普段はまったくと言っていいほど引用されていない。それは「そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」という言葉である。ただしこの場合の「救い」も、先程のモーゼのレタマの場合と同じく、宗教的な意味での救いというより人間学的な救い、つまり自己完成(エンテレキア)ほどの意味であると言って間違いないのではなかろうか。
 ところで私自身がこの『ドン・キホーテをめぐる思索』に初めて出会ったのは、確か上智大学の三年生のときだと思う。講読の教科書であったマリア・デ・マエストゥの『20世紀散文作家アンソロジー』に収録されていた文章との出会いである。ただしそれは「レタマ」の箇所ではなく、次のもっとパセティックな文章との出会いであった。

「いったい(¡Dios mio!)スペインとはなんだろう? 世界という広がりの中、数知れぬ民族にかこまれ、限りなき昨日と終わりなき明日のあいだで道に迷い、天体のまたたきの広大にして宇宙的な冷たさの下にある、このスペインとは、そもなにものか。ヨーロッパの精神的岬、ヨーロッパ大陸の魂の舳先たるこのスペインとは?」


 なぜかこの言葉がすっかり気に入ってしまい、その後紛失してしまった教科書の裏表紙に抜き書きしたことを覚えている。結局この言葉に魅せられるようにしてスペイン思想の奥深い森の中に入ってしまったような気がする。ともあれこの青春の書には「課題としての生」など、オルテガ思想の円熟とともに明確になってくるさまざまな思索の端緒が随所に鏤(ちりば)められていて、「考えること」の楽しさ、いやそうではない「生きること」の奥深さを徹底的に教えられたように思う。何故「青春」の書かと言えば、彼によって物事の誕生の瞬間に立ち会う、原初の光景に立ち会うことを教えられたからだ。世間的常識で薄汚く曇り始めた眼差しを一瞬のうちに拭き清める効果絶大である。ぜひ読んでみてください。
 その後オルテガ以外の現代思想家に次々と出会っていくことになるが、その経過を大まかに言いきってしまうと、ウナムーノによって哲学の根源にある気配あるいは星雲のような問題群を啓示され、オルテガによってそれら問題解決のための方法論を伝授され、そしてそれを手がかりに「問題としてのスペイン」に立ち向かう具体策をカストロに教えられた、となろうか。
 ところで文字通りの蛇足ではあるが、本誌『レタマ』に妹があることをご存じだろうか。八十九年、私は常葉から八王子にある東京純心(当時は短大)に移り、そこでほどなく広報誌を創刊することになったのだが、それに『えにしだ』という名をつけた。「えにしだ」(スペイン語では hiniesta、日本名を漢字に直すと金雀枝)は「レタマ」と瓜二つ、というか同じものという説もある植物なのだ。つまり『出エジプト記』の件の植物は「やぶ zarza」と訳されることが多いように、植物学的に特定できない植物だということである。
 最後に蛇足の蛇足を言うと、私は来春、定年まで数年を残して教師生活に終止符を打ち、田舎で第二の人生を始めようと思っている。このまま教師生活を続けていくことに深い徒労感を覚えてきたからだが、しかし「えにしだ」の方はともかく、その創刊に加わった「レタマ」という苗木がその後も大きくたくましく成長を続けていることを思うと、自分の教師生活もそれほど徒労でもなかったのでは、といささかの矜持を覚えるのである。

(※本書にはいくつか翻訳があるが、筆者がかなり気合いを入れて改訳した未来社版をお薦めしたい)


常葉学園大学イスパノ・アメリカ文化研究会  機関誌 “RETAMA
            第十七号、二〇〇一年

オンデマンド版で『ドン・キホーテをめぐる思索』(未來社) が現在入手可能です。

〔オンデマンド版〕 ドン・キホーテをめぐる思索

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【家族よりご報告】

2018年12月18日午後1時34分
この後、すぐに車いすを押して検査室に向かったが、これが最後の父とのやり取りになった


家族よりご報告

 
佐々木孝の息子の淳と申します。

 ウェブ上という場で、家族から初めて公にご報告させていただきます。またこの形を通して、お便りやご連絡をくださいました方々へのご挨拶と代えさせていただくことをお許しください。

 父は去る12月20日夜、宮城県立がんセンターにおきまして、入院翌日の気管支鏡検査で起きた合併症がもとで残念ながら帰天いたしました。あまりにも切ない幕切れでした。しかしながら生前、身内や親しい友人に語っていた通り「闘い抜きたい」という決意を全うした最期になりました。クリスマスイブの日に私が投稿した写真は、18日昼過ぎの検査直前のものであり、奇しくも最後の写真が父の穏やかな微笑となりました。父はもちろん生還するつもりでいましたが、一方で死も覚悟していました。入院直前に語っていました。自分の生き方は痛くともつらくとも(癌を)放置などせず、最後まで闘うことだと。そして君は明日死ぬよと言われても従容として受け入れる覚悟は既にできている。闘わずして死ぬのは絶対に嫌だと。ともに過ごした家族は父の気持ちがよくわかります。闘い抜いた父は後悔していないと確信します。

 24日クリスマスイブに、父の兄であるカトリック司祭の伯父により、自宅で病床に伏す母を傍らにささやかな家族葬を行いました。今は天上から母や私たち家族、親しくさせていただいた皆様を見守ってくれているでしょう。生前父がお世話になりました皆様には改めて遺族を代表し、心からの感謝と御礼を申し上げます。

 父はいつも人の言葉や態度というものをそのものとして信じ受け止め、二心なくそれに応える篤実さをもって生きてきました。それゆえ幾度となく傷つき苦しんできたことを私はずっと昔から知っていました。父が、愚直さというより、むしろきわめて人間らしい、しかしまたきわめて稀な聖性、善性を内に有していたがためのことであったと私は思っています。また、父は巷が有難がるような華やかなポストとは縁遠い学者人生でしたが、アカデミズムとは何たるかを知る真の大学人であり教育者であったと思っています。イエズス会の修道生活から還俗しても、真正の求道者であり続けた証を、私は父の生きる姿の随所に見出します。今思えば「世間的」「常識的」な目から時に挑戦的と受け止められた発言も、私からすれば、単に父の物事への眼差しがあまりにも天上(つまり真理)、本質に近すぎたがゆえ異端視されたものと思っており、その思いは今も全く変わりません。父が生涯取り組んできたものにしっかりと目を向けてもらえるならば、すべては判然とすることです。つまり、父は常に「末期の目」から物事を根源的にとらえようとしていました。ともあれ父は生きていく中で受けた無理解や忘恩、裏切りなどどんな仕打ちに対しても、決して誰かを根に持って恨んだりするようなことはありませんでした。そうなってはいけないと、常に私は注意されて育ちました。

 病の母を案じ、最後の10年は外出も半径2キロ圏内の小一時間にとどめ、蟄居の身を甘んじて受け入れた父。特に震災後は、スペイン人美術家の復興記念展覧会に招かれ福島市を半日訪れたのと、最後の旅となった宮城県立がんセンターへの移動以外、小さな町を出ることはありませんでした。しかし、そのような不自由な身にあっても、言葉を通じ、父の心ははるか時空を超え世界の友人たちのもとへと駆けめぐっていました。そんな中、丹精込めた手作りの私家本の送付や買い物に町の郵便局やスーパーを独り行き来する父の姿は、およそ権勢的な振る舞いや虚飾を張る人間とは対照的な、貧しき孤高の小さき者としてのそれでした。福音書にあるイエスの山上の説教「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」の表現、そして清貧という言葉は、どんな聖職者よりも父にこそ相応しいと私はいつも心の中で誇りに思っていました。著作などを通じてでなく、生身の人間としての父を魂で理解し、支持してくれた人は結局はわずかであったと思います。しかし、父が晒され続けた陰の無理解や悪意、嘲笑、冷笑も、今や永遠の相のもと遇される真理の世界においては地上の何物にも勝る勲章です。くじけず果敢に生き切った父の姿が、真理の世界に生きようとする誰か一人にでも、ささやかな励ましとなってもらえればと、父を想い、願わずにはいられません。南相馬での晩年、いつどんな場面においても父は「逃げも隠れもせず」(最後に私に自分はそのように生きてきたと語りました)、たとえ無様でもありのままの自分でいることを貫き通しました。半ば周囲の四面楚歌(あるいは無視、無反応)に遭い、孤軍奮闘しようとも、故郷を愛し、そこに生きることに誇りと喜びを見出した福島・南相馬での父でした。今振り返ると、晩年は一日一日を慈しむように感謝して生きていました。その姿は、祈りそのもののようでした。

 さて、身内の贔屓はこの辺までにします。父の魂は、父が残した言葉、文章の中でこれからも生き続けます。父のブログ「モノディアロゴス」は今後も継続してまいります。どうか時折でも訪れ、父と再会して下さることを願います。そして父の灯した魂の火を絶やすことなく、心ある方々との間で継承していくことができたら、これにまさる幸せはないでしょう。今後ともどうかよろしくお付き合い、ご指導のほどを心からお願い申し上げます。

 最後に、「カトリック新聞」2018年9月16日付に掲載されたウナムーノの関連記事で父が述べた言葉を引用します。

2019年1月11日
佐々木 淳


「私が、原発被災地という “奈落の底” でしきりに希望したのも、この惰弱な物質主義・快楽主義・没理想への抵抗です。さらに厳しく言えば没義道(もぎどう)の日本を、また世界を、まともな国や世界にするために、ウナムーノに倣って、目先の勝利や敗北に心乱さず、時に嘲笑に身をさらそうとも、最後まで闘い抜く若い世代の誕生を切に望みます」

佐々木孝


【追記】死後、父の除籍の文書を役所に発行してもらい気づいたことですが、父と母が役所に婚姻を届けたのは、奇しくも父の亡くなったちょうど50年前の12月20日でした。半世紀ぴったりの結婚生活となりました。

※父の訃報は、スペイン紙 El País 上において、ゴンサロ・ロブレド氏の寄稿による追悼記事が出されております(本ブログでも、コメント欄でお世話になった清泉女子大学元学長で現教授の杉山晃先生が、ご弔意とともに紹介くださっています)。リンクと翻訳を以下にご紹介いたします。

Fallece el traductor japonés de Unamuno que se negó a evacuar Fukushima

福島原発事故で避難勧告を拒否した日本人ウナムーノ研究者逝く

スペイン思想研究者の佐々木孝氏、12月20日木曜日の夜帰天。享年79

ゴンサロ・ロブレド 東京 2018年12月27日

 スペイン思想研究者でミゲル・デ・ウナムーノの翻訳を手掛けた日本の佐々木孝氏が、去る木曜日の夜(12月20日)逝去した。佐々木氏は、このバスク人思想家の思想に忠誠を示し、近隣の福島第一原子力発電所で起きた原子力事故に際し、居住する町から避難することを拒否した。氏は、「日本政府は生物学的な命を憂慮するだけで、われわれ一人ひとりの人生という意味の命は尊重しない」と、ウナムーノの言葉を引き合いに出して、2011年3月11日の地震と津波の後に起きた発電所の爆発による被爆の危険を前にし、南相馬市からの避難勧告を拒否した理由を語っていた。

 氏はさらに、彼の母も、認知症の犠牲となった妻も、政府が用意した避難所では生き延びることはできないと主張した。南相馬は、ゴーストタウン化し、物資の供給も絶たれ、「排除地帯」であるかのようなレッテルを貼られた。

 佐々木氏は、62歳でインターネットによる発信を始め、ウナムーノを敬し「モノディアロゴス」(独対話)と命名したブログを執筆するようになる。ブログにおいて佐々木氏は、災厄を予見もせず、その重大な結末にも対峙しない政府と原発企業の発する誤った情報、その無能ぶりへの告発を決意する。批判の中で繰り返し焦点に当てたのは、この国の構造的な個人の責任意識の欠如であり、これが集団的決定を促しているということである。モノディアロゴスという羅針盤は、数多くの支持を得、その多くにとって、遺棄された住民に起きた出来事の真実を知る唯一の手がかりとなった。ブログの文章は集成され、『原発禍を生きる』のタイトルで出版化され、中国語や朝鮮語、スペイン語などの言語にも翻訳された。わが国ではサトリ出版から上梓している。

 北海道の帯広で生まれ、下級官吏として海を渡った父親とともに、幼少期の一時期を日帝侵略下の旧満洲で過ごした。第二次世界大戦の敗戦後、5歳で日本に引き揚げ、福島県で暮らし始める。イエズス会経営の上智大学(東京)で学び、カトリシズムとスペイン思想に出合う。この二つによって彼の精神は導かれ、数多くの翻訳を手掛けたことで、スペイン思想研究は日本に普及した。

 政府が南相馬における避難指示を解除すると、彼の住まいは、氏の共鳴者やスペイン研究者、ジャーナリストの巡礼地となった。作家のホアン・ホセ・ミリャス氏や芸術家のホセ・マリア・シシリア氏などが、原発事故前までは公的な正直さ、技術の優秀性が代名詞であった日本という国への氏の批判的ビジョンに耳を傾けにその住まいを訪れた。2017年から2018年の間には、法政大学出版局により、氏の翻訳による『生の悲劇的感情』(再版)や、『ベラスケスのキリスト』といったウナムーノの著作と、このビルバオ出身の思想家の人物像に迫った氏の思索『情熱の哲学』が刊行された。

 彼の命を奪った肺がんの診断が下された病院に入院する前夜、最後のブログを執筆し、デジタルの遺書としてインターネット上に最後の願いのリストが掲載された。病床に伏す妻と息子家族に蓄えを残した。「孫の愛に清泉女子大学で学んでほしい」。佐々木氏はここで教鞭を執っていた。愛さんがスペイン研究の専門家になって、「日本を愛する若きスペイン人と結婚し、スペイン語を広めるという祖父の仕事を継いでほしい」と。そして息子には遺稿の校正と出版を託した。それはイエズス会士であり、平和主義者のダニエル・ベリガンの『危機を生きる』と邦題化された作品、そしてオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』であった。

Fallece el traductor japonés de Unamuno que se negó a evacuar Fukushima

El hispanista Takashi Sasaki murió en la noche del pasado jueves, 20 de diciembre, a los 79 años

Gonzalo Robledo
Tokio

Takashi Sasaki, hispanista y traductor al japonés de Miguel de Unamuno, que por fidelidad a las ideas del filósofo vasco se negó a evacuar su ciudad tras el accidente nuclear en la vecina central de Fukushima, falleció en la noche del pasado jueves (20 de diciembre) a los 79 años. “El Gobierno japonés solo se preocupa de la vida biológica y no respeta nuestra vida biográfica”, había dicho, parafraseando al autor español, al explicar su rechazo a la orden de dejar la ciudad de Minamisoma ante el riesgo de radiación tras las explosiones ocurridas después del terremoto y el tsunami del 11 de marzo de 2011 en la central nuclear Daichi de Fukushima, situada 25 kilómetros al sur.

El hispanista argumentó además que ni su madre ni su esposa, víctima de demencia senil, podrían sobrevivir en uno de los refugios habilitados por el Gobierno en las provincias vecinas a Fukushima. Minamisoma, semidesierta y sin abastecimientos, fue catalogada como “zona de exclusión”.

Sasaki, que a los 72 años se iniciaba en las comunicaciones digitales, comenzó un blog que en honor a Unamuno llamó Monodiálogos y se dedicó a denunciar la desinformación, la ineptitud del Gobierno y las empresas reguladoras de la energía nuclear para prever el desastre y hacer frente a sus graves consecuencias. El blanco reiterado de sus críticas era la falta de responsabilidad individual propiciada por el sistema japonés, que fomenta la toma colectiva de decisiones. Su bitácora digital consiguió miles de seguidores y para muchos fue la única forma de conocer la realidad de lo que sucedía en las poblaciones abandonadas. Los textos recopilados fueron traducidos a varios idiomas y en español aparecieron con el título Fukushima: vivir el desastre, de la editorial Satori.

Nacido en Obihiro, en la isla septentrional de Hokaido, pasó parte de su infancia en Manchuria, territorio invadido por el ejército nipón donde su padre fue enviado como funcionario. Al final de la Segunda Guerra Mundial, con cinco años, regresó a Japón y empezó a vivir en la provincia de Fukushima. Estudió en la universidad jesuita de Sofía, en Tokio, donde conoció el catolicismo y los filósofos españoles que guiarían su vida intelectual y que divulgaría a través de numerosas traducciones.

Cuando el Gobierno levantó la prohibición de visitar Minamisoma su casa fue lugar de peregrinación de simpatizantes, hispanistas y periodistas. Escritores como Juan José Millás y artistas como José María Sicilia acudieron a escuchar su visión crítica de un país que parecía, hasta el accidente nuclear, el epítome de la honestidad oficial y la excelencia tecnológica. Entre 2017 y 2018 la editorial Hosei Daigaku publicó sus traducciones de Del sentimiento trágico de la vida y El Cristo de Velázquez, ambas de Unamuno, además de un ensayo suyo sobre la figura del pensador bilbaíno titulado Filosofía de la pasión (Jonetsu no Tesugaku).

La última entrada de su blog, publicada en vísperas de su ingreso en el hospital donde le diagnosticaron el cáncer de pulmón que acabó con su vida, contenía una lista de últimos deseos que permanecen en la web como su testamento digital. A su esposa postrada en cama y a la familia de su hijo Jun les deja sus ahorros. “Deseo también que mi nieta Ai estudie en la Universidad de Seisen”, dice en referencia a la universidad femenina donde el profesor Sasaki enseñó. Espera que Ai se especialice en estudios hispánicos “y se case con un joven español que ame Japón y siga la labor de la difusión del idioma español de su abuelo”. También pide a su hijo que se encargue de la corrección y publicación de sus últimas traducciones, una obra del jesuita y pacifista Daniel Berrigan que tituló Kiki-wo Ikiru (Vivir la crisis) y La rebelión de las masas, de Ortega y Gasset.

他、カトリック系メディア「Aleteia」紙の追悼記事(こちらで記事になったのは寝耳に水で非常に驚きました)。

Takashi Sasaki, el católico japonés que desafió la catástrofe nuclear

Takashi Sasaki, el católico japonés que desafió la catástrofe nuclear

Jaime Septién | Dic 28, 2018

En sus últimos años de vida, se dedicó a luchar por la paz y la erradicación de la energía nuclear, todo desde el amor a su esposa, y fiel al mensaje del Papa Francisco

El pasado jueves 20 de diciembre, murió a los 79 años de edad, el intelectual japonés Takashi Sasaki en su pueblo de Minamisoma (Japón), ubicado a solo 25 kilómetros de la central de Fukushima, epicentro de la crisis nuclear sufrida después del terremoto y el tsunami que golpearon al país asiático el 11 de marzo de 2011.

Sasaki era un católico practicante, en un país donde los católicos no suman más de 0,5% de la población total. Estudió en la universidad jesuita de Sofía (Tokio), y quiso ser sacerdote antes de tomar la decisión de casarse con su esposa Yoshiko, a quien nunca abandonó, sin importar las circunstancias.

Gran apasionado del español y de la cultura hispana, tradujo al japonés importantes libros de Miguel de Unamuno, como Del sentimiento trágico de la vida y El Cristo de Velázquez. En sus últimos años de vida, se dedicó a luchar por la paz y la erradicación de la energía nuclear, todo desde el amor a su esposa, y fiel al mensaje del Papa Francisco.

Valentía con sentido humano

El 11 de marzo de 2011, Japón vivió uno de los desastres naturales más catastróficos de su historia. A las 14:46 hora local, la costa oriental de Japón fue sacudida por un terremoto de magnitud 9.0 en la escala de Richter, que duró seis minutos. Se trató del terremoto más potente de la historia de Japón y el cuarto más potente de la historia a nivel mundial, desde que hay mediciones. Como consecuencia del terremoto, se crearon olas de maremoto, de hasta cuarenta metros de altura, que golpearon con fuerza la costa del Pacífico japonés.

Entre los muchos daños que dejó el terremoto y el posterior tsunami, el más grave fue el causado a la central nuclear de Fukushima. La central sufrió fallos en el sistema de refrigeración y múltiples explosiones, que pusieron en peligro a cientos de miles de japoneses. Fue el peor accidente nuclear desde el ocurrido en Chernóbil (Ucrania) en 1986.

En medio de la tragedia, destaca el testimonio de Takashi Sasaki. Cuando el gobierno japonés ordenó la evacuación de las zonas cercanas a la central de Fukushima, Sasaki decidió quedarse en su casa a cuidar de su esposa, quien sufría demencia senil. Argumentó, con Unamuno como bandera, que las autoridades “solo se preocupan de la vida biológica y no respetan nuestra vida biográfica”.

El motivo para no abandonar su hogar era que tanto su madre, a quien cuidaba desde hace tiempo, como su esposa, Yoshiko, no podrían soportar las condiciones de los albergues instalados por el gobierno. En los hechos, gran cantidad de los ancianos y enfermos que fueron trasladados a albergues murieron en una situación de extrema precariedad.

Con el riesgo que esto implicaba para su propia vida, decidió quedarse a procurar el cuidado y el cariño de su familia, con el conocimiento de que a partir de ese momento, de ese instante, el mundo exterior le daba la espalda.

Una voz que clama en el desierto

Desde su pueblo de Minamisoma, que se convirtió en parte de la zona de exclusión –donde los pocos habitantes que quedaban fueron abandonadas a su suerte–, Takashi se volvió una voz crítica y tenaz contra el abuso de los poderosos y la insensibilidad humana.

En su desierto nuclear, Sasaki comenzó a escribir un blog de evocación unamuniana, llamado “Monodiálogos” bajo el seudónimo de Fuji Teivo. Al poco tiempo, la publicación adquirió un profundo significado, por ser la única voz que denunciaba –desde el abandono– la desinformación de la prensa, la ineptitud del gobierno y los graves estragos que causa la energía nuclear, tanto en términos de generación de energía –con énfasis en la contaminación que causan los desechos nucleares y los desastres como los de Fukushima y Chernóbil–, como en el componente bélico de las armas nucleares, una herida abierta en el corazón de todos los japoneses.

Con el paso del tiempo, su voz fue cada vez más escuchada en Japón y en el mundo, y sus relatos fueron recopilados en un libro llamada Fukushima: vivir el desastre (traducido al español por editorial Satori). En el Papa Francisco encontró un gran aliado en su denuncia contra las armas nucleares, y dedicó todas sus fuerzas para que el mundo fuera consciente de que lo que pasó en Fukushima se puede –y se debe– evitar en el futuro.

Un legado hispanófilo

A su muerte, víctima de un cáncer de pulmón, Sasaki deja, además de su lucha contra la energía nuclear y el testimonio de entrega a su familia, un legado de amor y respeto por la cultura y las letras hispanas. Además de Unamuno, tradujo a otros importantes filósofos españoles como José Ortega y Gasset.

Gracias a Sasaki, los japoneses pueden conocer y estudiar en su propia lengua el pensamiento hispano, y sobre todo el pensamiento hispana católico. Un puente que une a dos tradiciones milenarias y un testimonio de vida que abre las puertas para que más japonenses sigan su camino intelectual, espiritual y humano.

En medio de los desiertos del mundo actual, brotan flores raras que demuestran que no todo está perdido. La imagen de Takashi, en su desierto nuclear, cuidando a su madre y a su esposa enferma, abandonado por el mundo, escribiendo en la más terrible soledad, traduciendo a Unamuno, luchando por devolver la esperanza al mundo, es una imagen poderosa.

Una imagen que vale la pena recordar.
A su muerte, víctima de un cáncer de pulmón, Sasaki deja, además de su lucha contra la energía nuclear y el testimonio de entrega a su familia, un legado de amor y respeto por la cultura y las letras hispanas. Además de Unamuno, tradujo a otros importantes filósofos españoles como José Ortega y Gasset.

Gracias a Sasaki, los japoneses pueden conocer y estudiar en su propia lengua el pensamiento hispano, y sobre todo el pensamiento hispana católico. Un puente que une a dos tradiciones milenarias y un testimonio de vida que abre las puertas para que más japonenses sigan su camino intelectual, espiritual y humano.

En medio de los desiertos del mundo actual, brotan flores raras que demuestran que no todo está perdido. La imagen de Takashi, en su desierto nuclear, cuidando a su madre y a su esposa enferma, abandonado por el mundo, escribiendo en la más terrible soledad, traduciendo a Unamuno, luchando por devolver la esperanza al mundo, es una imagen poderosa.

Una imagen que vale la pena recordar. 

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Nochebuena

Takashi Sasaki(1939-2018)

¿NO ESTABA ARDIENDO NUESTRO CORAZÓN DENTRO DE NOSOTROS?

私たちの心は燃えていたではないか
 
 
Lc 24 32
カテゴリー: モノディアロゴス | 6件のコメント

しばしのお暇頂きます

 今日は息子の運転する車で、名取市にある宮城県立がんセンターに行き、朝の九時から夕方の五時半まで一日中いろんな検査を受けました。皮膚炎に気を取られているうちに、どうも肺にガンの腫瘍ができていたらしい。場所も分かりにくいところ。つまり手術もできないし、かなり進んでいて、悔しいけど第四ステージ。
 でも負けません、美子のためにも頑張ります。来週月曜から順調にいけば来一月中旬まで入院して、さらに詳しい検査・加療を受けます。息子が甲斐甲斐しく全て面倒見てくれてます。美子も頴美や訪看さんやヘルパーさんたちが万全の備えで世話してくれますので、その点は安心です。
 帰りがけ、がんセンターのロビーで宮城工専の生徒さんたち五人ほどが演奏してました。不思議な感覚。つまり観客も含めて「命」と真剣に向き会う人たちの集まり。一種、宗教的な雰囲気。普段の生活がいかに本質を忘れて浮足立ったものか、それが理屈じゃなく肌に伝わってきました。帰りの高速で後部座席から見える夜景も、長い間忘れていた夜の神秘に満ち満ちていて、思わず涙が出そうになりました。
 でも気が弱くなったわけではありません。戦い抜く覚悟です。そんなわけでしばらくブログをお休みすると思いますが、みなさんからの「気」をお願いします。
 メールからも本人はしばらく離れますが、今晩から息子が「富士貞房Jr.」を名乗ってくれることになりましたので、必要なことは適宜Jr.がお返事すると思います。その節はどうぞよろしく。
 皆さんのご健康を心から願いつつ、私自身も「気」を入れて頑張ります。おやすみなさい。

※追記 留守中、時おりは訪ねて下さり、これまでご覧にならなかったブログや、「富士貞房と猫たちの部屋」の記事や写真などご覧いただければ幸いです。

カテゴリー: モノディアロゴス | 3件のコメント

美子、金婚おめでとう!

美子、あと2時間で私たちの金婚の日(11月17日)を迎えます。少し早いですが、今晩はいつもの皮膚炎の苦しい夢ではなく、久しぶりに美子と一緒の若い日々の夢でも見たくなったので、これから寝ることにします。
 50年前の今日、福島市の、、、あれっどこでしたっけ、たぶん松木町の教会でしたね、結婚しました。爾来半世紀、いつも、どんなときも、二人の信頼関係が崩れたことは一度もありませんでした。もう何回も言ったことですが、むかし「亭主元気で留守がいい」というコマーシャルが流行ったとき、その意味が分からないというので冗談かと思いましたが、どうやら本当に分からなかったようでした。だから、認知症で寝た切りになった現在、美子は幸福とは言えないでしょうが決して不幸とは思っていないと確信しています。なぜなら孝は美子といつも3メートル以内のところにいるからです。三日おきぐらいにスーパーに出かける以外、いつも一緒です。
 何も話せなくなってからもう何年経ったでしょう? でもたとえ話せなくとも、全てを理解していると思ってます。だからいつもいろんなことを報告してますし、頴美も愛も出かけるときや帰宅時に必ず挨拶に来ます。幸いなことに、愛はおばあちゃんがまだ元気で話をし歩いていたときのことを覚えています。
 私ももちろん、いろんな機会、いろんな瞬間に美子が元気であった頃のことを思い出します。認知症なんぞにならなかったら、いろんなところに行けたし、いろんな楽しいことを一緒に楽しんだのに、と思うときがあります。でも私たち、いろんなところに一緒に行きましたよね。家族旅行でスペインにも(あゝレンタカーで5千キロ走りました)、南は熊本、北は北海道にも、あゝそれから認知症の初期段階でしたが大連から瀋陽、さらにその郊外の頴美の実家を訪ねました。
 こうして振り返ってみると次々と懐かしい場面が蘇ってきます。でも過去への遡行はこれからも美子の傍で一緒に写真を見ながら時おり繰り返したいことの一つです。実は美子、この金婚を機会に、ちょっと詩でも書いてみようかな、と思っていましたが、どうも今回はできそうにありません。その代わり結婚式の写真を大きくアップしましょう。

 エメラルド婚(55年)なんて軽々越えましょう。いやダイヤモンド婚(60年)だって二人元気で迎えましょうよ。パパの心からの願いはこれからも二人して元気に過ごすこと、美子がいない日々なんて決して迎えたくありません。できる限り頑張って、そして美子の最期を看取ってから僕も死ぬつもり、理想を言えば美子が息を引き取ってから5分後(いや1分でいいか)、美子の安らかな顔を見ながら死にたいです。
 今さら言うまでもなく美子あっての孝です。この数年間、風邪も引かず、持病だったギックリ腰にもならないのは、常に美子からパワーを貰っているからです。どうかこれからもよろしくお願いします。

 頴美が撮ってくれた今朝の二人。(クリックしたら大きくなります。その必要ないか)

カテゴリー: モノディアロゴス | 4件のコメント

「焼き場に立つ少年」報道異聞

昨晩、寝しなに二歳児・藤本理稀(よしき)坊や発見のニュースや西日本新聞の「焼き場に立つ少年」についての記事を読んだからであろうか、朝方、以下に述べるようにそれら二つのニュースが重なって、半覚半睡(これ私の造語)の中で面白い内容の夢となった。それら半覚半睡の中の夢のほとんどは起きてから思い返すと荒唐無稽なものだが、たまに今回のように目覚めてからもなお何らかの意味を持ち、それを現実に反映させたいと願う(ふざけて夢のお告げと謂う) こともある。
 簡単に言えば、私と同い年の尾畠さんが二歳坊やを発見したことと、原発被災地に住む78歳老人(私のことです)が焼き場に立つ少年を再発見したという二つの出来事が重なって見えたわけだ。尾畠さんの方は、この殺伐とした事件頻発の世の中で何か心温まるエピソードとして大きく報道されたが、じゅうぶんその価値がある。もう一方の焼き場に立つ少年については、報道された写真と法王フランシスコは確かにニュースバリューがあるが、再発見した(きっかけを作った)老人の方は無視してもいいと思われたのかも知れない。
 先日、法王のメッセージとその写真が印刷されたカードが全カトリック信者に配られた時、仙台のある信者さんたちは法王発信のきっかけを作った佐々木について何も触れてないのはけしからん、と怒ったそうだが、私としては法王がそれについて何も言っていない以上、そのカードに佐々木への言及がないのはむしろ当然と思っていた。しかし八月九日付の「朝日新聞」の記事の中で、「法王はどうしてこの写真を選ばれたのでしょう?」という意味の記者の質問にカトリック中央協議会の担当者(職員それともどこかの司教?)が「さあ?」と言葉を濁していることには納得がいかなかった。というよりその時から協議会への不信の念を強めた。なぜなら既に七月二十二日付けの「カトリック新聞」に、北海道新聞の岩本記者がその顛末をしっかり記事にしていたからだ(上のメディア情報履歴にここに出てくる関連記事が収載されている)。
 この協議会の対応には二つの可能性が考えられる。その記事を読まなかったか、読んでいても無視したか。とうぜん後者ではないかと思う。なぜなら、カトリック新聞はまさに協議会のお膝元(同じ建物)にあるだけでなく、その後の展開を見ていると、個人の手柄(?)よりもむしろ組織のそれを優先させる体質が見え見えだからだ。今さら言うまでもないが、この話の本質は、一老人の自慢話ではない。私が当時ローマにおられた元イエズス会総会長ニコラス神父に、自作のスペイン語キャプションを付けた少年の写真を送っただけでなく、相前後して送った「スペイン語圏の友人たちへ」と題するスペイン語訳書簡の中に次のような一節があったからだ。

「最近、ローマ教皇フランシスコは、核兵器は人類に対する犯罪であり、私たちは広島や長崎の悲劇から何も学ばなかった、と公式に発言なさった。そしてこのメッセージは、国や宗教の垣根を越えて多くの人たちから熱い賛同を得た。洗礼名が教皇と同じフランシスコで元イエズス会士の私としては、教皇にもう一歩踏み込んで、私たちはすべての核利用を放棄すべきであると言っていただきたいと心から願っている。なぜならだれもが知っているように、原発作動の技術は核兵器製造に容易に転用できるからだ。つまり両者は同根のものであり、互いに応用可能なのだ。愚かな日本の政治家たちが言っているように、原発開発の技術は、核兵器のためのいわば担保とみなされている。」

 つまりその写真の送り主が原発被災地に住む元イエズス会士(五年間の修練のあと還俗)であり、日ごろから熱心にあらゆる核利用に反対してきた人物であることをおそらく承知したうえで、あの写真を宣布なさった可能性大だからだ。ただし私の願いのあと半分、すなわち原発全廃についてはいまだにはっきりとは反対を表明されていない(と思う)。EUのカトリック大国フランスなどへの気兼ねがあるのでは、と愚考している。
 もちろんあの写真はかなり広く知られていたものだが、先の推定を裏付ける決め手(?)は、私が作文したスペイン語のキャプションである。つまり同じ内容のメッセージを句読点まで含めて一字一句全く同じものを作る、あるいはどこかから持ってくる可能性はほぼゼロだからだ。
 個人的なことになるが(すべてがそうだが)今月中に私も満七十九歳、つまり数えで八〇歳になる。だから残された日々、いわば我が「白鳥の歌」の叙唱として、人にどう思われようと言うべきことを言ってから死にたいと思っているので、今回しつこいようだがこの問題にこだわっている。
 前述の中央協議会に限らず、現在信徒数も伸び悩んでいるカトリック教会はどうも元気がない。ちょっと言い過ぎになるが相撲言葉で言えば「死に体」。要するに今回の写真をめぐっての対応にしても、生きた共同体の「共に喜び、共に泣き、そして共に怒る」姿勢が微弱であるということである。つまり今回の写真騒動のことだって、「田舎の教会の一人の老人が発した願いを教皇様がいち早く聞き届けてくださった。実に目出度いし勇気が出てくる。さあ私たちも神父さんや中央協議会に対してだけでなく、このネット時代、時にはローマや教皇様に自分たちの願いや喜びを直接伝えよう」となれば最高。しかし或る教会事情に詳しい人の言によれば、日本の教会は司教叙階と列聖運動しか話題にしないそうだ。
 彼ら(つまり教会やその信徒)の並走者を自認する私にとって、彼らが死に体であっては困るのである。
 一月の時点、つまり法王があの写真を宣布した直後にも書いたことだが、いわば法王庁は宮内庁みたいなところがあって、一個人の提案の由来を明確にしてことが進むはずもない。しかしかなりの確率で推定できることを下々の人間が書いたり話したりすることは許されるだけでなく、そうすべきであるとさえ言える。つまりそうすることによって雲上人がより親しく感じられ、その人間性を理解できるようになるからである。
 宮内庁で思い出したが、大昔、ある人を介してその頃はまだ皇太子妃であられた美智子妃殿下がオルテガの作品を読みたいと所望されていることを知り、私が故マタイス神父と共訳した『個人と社会』と『ドン・キホーテをめぐる思索』を献呈したことがある。今年創立八百周年を迎えるサラマンカ大学に美智子妃殿下の名を冠した広間があり、常々皇室とスペイン王室が親しく交流されていることなど、遥かなむかし私たちの訳した本がそのために何らかの貢献をしたと考えることは、なにも不遜なことでも単なる妄想でもないはずだ。※※※※
 先の話に戻るが、法王が写真を宣布してから半年以上も経って、北海道新聞の岩本茂之記者がカトリック新聞に書いた「焼き場に立つ少年・写真が教皇庁に渡った顛末」という記事を読むと、この問題に対する彼の強い関心とその記者魂に感心させられる。その間の流れを少し説明すると、1月9日に岩本さんからこんなメールが来た。

 ニコラス神父から、佐々木さんが「焼き場に立つ少年」を送られたことが、1月1日の配布指示につながった(のではないか)というご確認がとれないでしょうか。
 ニコラス神父のご確認が取れれば、大きなニュース記事として、佐々木さんの願い「全反核」を発信できるのではと思った次第です。何卒よろしくお願いいたします。いずれにせよ、佐々木さんのお話が大変嬉しく新年の希望の光であることに変わりありません。
 素敵すぎるニュースをありがとうございます

 それに対して、あの写真採用は、三人が、つまりイエズス会士で現法王のフランシスコ、同じくイエズス会士で元総会長ニコラス、そして現在は原発被災地で寝た切りの妻を介護しながらすべての核利用廃絶のために奮闘している元イエズス会士佐々木、これら三人のいわば紳士協定、つまり暗黙の友情交換だから裏を取るようなことはしたくない。佐々木の名前は出さないが、君の下手なスペイン語をそのまま使うことで私の賛意をくみ取ってほしいとの法王フランシスコの気持ちを裏切りたくない、と返事したが、彼からは「佐々木さんのお気持ちを尊重したいので、法王庁に聞くのは断念します」との答えが返ってきた。
 しかしとにかく現時点で書ける範囲のことを記事にしようと、彼は5月21日付けの自社新聞(北海道新聞)の夕刊「今日の話題」というコラムに「網を揺り動かす」を書いたのである。そして今度は、そうした経緯を見守っていたカトリック新聞の大元記者が自社新聞の「意見・異見・私見」というコラムへの執筆を岩本さんに依頼し、かくして7月22日、岩本さんの「焼き場に立つ少年・写真が教皇庁に渡った顛末」がカトリック新聞の紙面を飾ることになった。言うまでもなくこれは佐々木が企んだことではなく、あくまで大元記者の寛大な申し出と、それに快く応じた岩本記者の善意から生まれたものであった。この際、改めて両者の誠実な対応に感謝申し上げたい。
 ながながと書いてきたが、この辺で切り上げよう。最後に言わずもがな、の補足だが、一月の時点でこのニュースを知った昔の教え子の一人が、先生のスペイン語を法王が無断で借用したのは悔しい、せめて著作権マーク(©)を付けてほしかったです、と言ってきたときは、そんな馬鹿な、と笑ったが、いま考えると彼女の指摘にも一理あるなと思えてきた。
 せっかく書いたのだから、このままブログをコピーして、関連記事を書いた朝日新聞と西日本新聞の記者氏に郵送しようと思っている。あっ大事な宛先を忘れていた、カトリック中央協議会には当然送付しなければと思っている。

 以上、長のお付き合い感謝します。


※ 動かぬ証拠(?)として、送信記録が残っているニコラス神父宛ての写真に付したスペイン語をそのままここに転記する。これは法王フランシスコが全世界に向けて宣布した時のキャプションと全く同一であることはスペインの新聞に載った記事からも確認している。今回カトリック教会が信者に配布したカードの日本語は、そのスペイン語を訳したものらしい。
“Un niño que espera su turno en el crematorio para su hermano muerto en la espalda. Es la foto que tomó un fotógrafo americano, Joseph Roger O’Donnell, después del bombardeo atómico en Nagasaki. La tristeza del niño sólo se expresa en sus labios mordidos y rezumados de sangre.”

※※ 文中、法王と教皇という風に二通りの表記があるが、一般的には「法王」、そして信者間では「教皇」を使うためで他意はない。

※※※ 先日、グラナダの我が恩師マルドナード神父からの動画入り情報によると、ニコラス神父がフィリピン経由で日本へ戻られたそうだ。しかし病気療養の状態なので、上の記事の「裏を取る」ことは絶対に控えてください。そこんところよろしく。

※※※※ たしかそのころだったか、我が恩師・故神吉敬三先生が頻繁に宮中に呼ばれ、スペインやスペイン美術のご進講をしたのは。ただしオルテガについては、仲介したのは今はスペインに戻られたシスター・ガライサバルで、その頃清泉の教え子の一人が教育係侍従(たぶん皇太子の)になったはず。彼女はもう世間に(?)戻っているが。

★ ラジオ福島の番組録音は上の「メディア情報履歴」に移しました。まだの方はぜひお聞きくださいませませ。

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安息日について

暑くなったり寒くなったり、体温調節が難しい季節になった。いや私のことではなく美子のことだが。でもおかげさまで、朝晩二回の胃婁からの栄養剤注入作業にも慣れ、月一のクリニックの先生の往診でもこのままの状態を続けるようにとのお墨付きもいただいた。
 しかしこのところの政治の世界の安っぽいドラマはどうだろう。もちろん朝鮮半島の非核化、平和は望むところだが、しかしあの二人の主役、一人についてはゴネ得の帝王という言葉しか思いつかないし、もう一方については私の知る限り米国史上もっとも下品な大統領としか評価しようのない御方、芝居自体が初めからドタバタ喜劇なのだから多くを期待していなかったが、今のところ最小限の効果はありそうだ。でもいつどんなどんでん返しがあるか最後まで予断を許さない。
 政治の話はここまで。ところで先月28日のラジオ福島の短い電話インタビューは、当方、難聴のこともあって緊張したが、なんとか無事に終わった。次回からは電話インタビューを収録して、あとで適当に編集することになり、少なくとも気分的には楽になった。と言っているうち、今日がその収録の日、前回は福島県知事の施政方針に対するダメ出しだったが、今回は教育問題について話す予定。原発事故後いろんなことを考えさせられたが、中でも教育問題、もっとはっきり言うと学校教育の現状は考えるだに目の前が暗くなる。たぶん今日は、とっかかりとして先日ここでも話題にした東松島市の夏休み短縮の話でもしようか。
 数日前になるが、突然「安息日」という言葉が頭に浮かんだ。息子の嫁や孫娘が洗礼を受け毎日曜隣の教会のミサに行くのは大歓迎大賛成だが、私たち夫婦が教会に行かなくなったのはいつからだったろう。それさえ思い出せないくらいの昔になった。いや話を戻すと、その「安息日」という言葉からいろいろなことを考え始めたわけだ。
 本箱の隅っこにあった昔懐かしい『公教会祈祷文』という小さな祈りの本に「公教会の六つのおきて」というページがある。これはいわゆる十戒とは別に、信者が守るべきおきてが書かれてあり、その第一はこうなっている。

「主日と守るべき祝日とを聖とし、ミサ聖祭にあずかるべし」。

 「主日」とはすなわち日曜日のことである。先ほど不用意に「安息日」などと言ってしまったが、正確に言うと「安息日」はユダヤ教の土曜日を指す。
 それはともかく、その安息日あるいは主日という言葉から連想したのは、この世は(とひとまず言うが)いくつかそれぞれ異なる価値体系の混合体ではないか、いやそうあるべきではないか、ということである。安息日は宗教的価値体系に属し、その他の曜日とは異なる価値基準が支配する。例えばキリスト教徒やユダヤ教徒など普段の生活とは違った時間の過ごし方をする。つまりと現政治体制や教育体制とは別個の価値基準・行為基準に則った時間の流れである。もちろん運動会や学芸会など年に数回の学校行事の場合は別だが、それぞれの安息日は宗教や地域、そして各家庭の自由に裁断できる時間が流れる……
 どうもうまく言えないが、要するに言いたいのは、先の学校教育の問題との関連で言うなら、現在の日本は、政治や教育その他もろもろの現世的(とひとまず言うが)価値体系、行為基準が各地方、各地域、いや各家庭にまでその支配力を及ぼしている。最近ではそれに拍車をかけているのがテレビなどマスコミによる均一化(横一列)の加速である。
 どこかの大学の話だが、近頃トイレで弁当を食べる学生がいるとか。それは孤独を好んでではなく、学食などで自分の回りに友人がいないことを恥じての行為らしい。一人でもいっこうにかまわんよ、という自信が見事にかき消え、ひたすら衆に紛れようとすることの裏返しである。
 最近話題になった日大のアメフト事件も、あるいは新幹線での惨劇も、突き詰めていけば現代日本を覆うこうした価値の一元化、画一化、つまり以前から言ってきたように学校が金太郎飴製造機と化していることの結果であることは間違いない。前者は部活の指導者への絶対服従、後者は金太郎飴製造機からはじき出された人間の悲劇である。
 そろそろ電話機の前にスタンバイしなければならないので、話の途中だがこの辺で一時中断する。あとから続けるかどうかお約束できないが…
 この話、「安息日」から始まったので、最後にとっておき(?)のオチを一つ。
 ユダヤ人たちの「安息日」に対する画一的・横一列の極端なまでの形式主義に対して、キリストはこう言われたそうな。

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ 2.27-28)。

 つまりユダヤ教徒の安息日重視・一元化・画一主義に対して、各自が自由に、安息日の行動的主体者になりなさい、と勧めておられるのだ。つまり、政治や教育制度の画一化・一元化から個の自由・主体性を取り戻せ、と言っておられるわけだ。んっ、先の「六つのおきて」とちょっと矛盾する? まあいいっしょこの際、はい時間が来ました、お後がよろしいようで ♬♪

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最期の迎え方

半ば習慣化していることだが、早暁、布団の中で、半覚半睡(これ私の造語です)の中で、いろいろ複雑なことを考えたり思いついたりしている。大半は目覚めてから思い返すと他愛もない妄想のたぐいだが、なかに、時おり、なかなかいい着想やら思い付き(同じことか)を得ることがある。
 今朝しきりに考えていたのは、まだ治らない皮膚炎がらみのことだった。仁平さんの忠告を忠実に守ってステロイド系の塗り薬はいっさい使わず、痒いときはタンポポの根とヨモギの葉から作った「ばんのう酵母くん」を患部にこすり付けて何とか凌いでいる。そのうち体のどこかからタンポポの花が咲くかも(それはそれで気持ち悪<わり>い)。
 患部は頭皮から足の先までと広範囲だが、しかし増えているわけではない。激しい痒さではないが、日中もほのほのと痒く、まるで頭の中にも薄いヴェールがかかっているようで、はなはだ気分が悪い。掻きだすと手が勝手に動いてしまう。初めのうちアナミドールなどに戻ろうとの誘惑を感じたこともあったが、その時は「これを使っても何の効果もなかったんだぞ!」と強く自分に言い聞かせて思い止まった。
 で、今朝の妄想のことだが、どこかの通販から保湿成分の入ったローションの瓶が届いた。注文したわけではないが、先日届いた小型の瓶と同じ成分で、今年新しく収穫した材料(オリーブか何かか?)で作ったので試してください、とのこと。料金も請求せずずいぶん良心的で親切なメーカーだこと、と感心した。お金で払わないとしてもなにか御礼せねば、と真剣に考えはじめた。『情熱の哲学』は残りあと一冊しかないから、なにか私家本でも送ろうか。でも待てよ、その瓶が送られてきた時の包み紙は? いやそれより先日送られてきたというヤクルトほどの小さい瓶はどこにある?
 すみません、実につまらない夢の一部始終をここまでしゃべってしまいました。そう、全て夢の中のこと、その時鳴ったケータイの目覚まし音で今度はしっかり目が覚めました。でも頭がしびれるほど本気で考えたその痕跡が、頭蓋のどこかに残っていて、このことを後で何とか書かなければと思ったわけです。書いているうち本当に馬鹿らしくなりましたので、この辺でケリをつけます。「ケリ」で思い出しましたが、これが古語の完了を意味する助動詞「けり」だということご存知でした?「蹴り」じゃないっすよ。おや知らなかった? じゃせめてそれだけでも収穫にしてくださいな。
 実は白状すると、数日前、しかも二度にわたって半覚半睡の中で考えた或ることを書こうと思ったのだが、内容がちょっと重過ぎるので、その前に少し軽めのものを,と書き出したのはいいが(良くない良くない)、つい長々としゃべってしまったわけ。ところでその或ることとは、先日多摩川に入水したあの人に関してである。彼は私と同じ道産子で、しかも歳は同じはず。生前の彼とはもちろん接点はなかったが、ただ一度だけ、清泉の教え子の森西・村山さんと共訳したライン・エントラルゴ著『スペイン一八九八年の世代』(れんが書房新社、1986年)を「生の悲しみ知る権利」という題で実にいい紹介をしてくれた(「朝日新聞」、1986年7月十四日号)。その最後のくだりだけでも引き写してみよう。

スペインはヨーロッパ文明の突端であり岬である。いまやそのもうひとつの岬となった我が国は、スペインにおける精神の下降と苦悩とはまったく逆のものを、つまり上昇と歓喜を享受しているかにみえる。しかし、本書を読めば、生きることの「巨大な悲しみ」を知るのは人間の輝かしい特権であるとわかるであろう。

 ウナムーノなど「九十八年の世代」の本質を実によく理解している。だが、と先ず褒めた後に貶すのは、とりわけ相手が黄泉の国に旅立った者であれば、つまり死者を鞭打つことなど私の趣味じゃないが、しかし前述したようにこれは半覚半睡の中でのこととして大目に見てもらおう。
 はっきり言おう。あのいつの間にか保守の真髄を言い募るほどになった人の最後があまりにも悲しい。ウナムーノの盟友アンヘル・ガニベットも領事として赴任していたラトビア共和国の首都リガを流れるドビナ河に、グラナダから家族が来るというその日に謎の投身自殺をしたし、漱石『心』の先生も自殺をした。だからというわけではないが、その行為自体を一概に非難するつもりはない。しかし保守の真髄氏の場合、報じられる限りの理由ではその傲慢さに首を傾げたくなる。
 会津藩士のなれの果て(のその子孫)である私から見ても、手段はどうあれ、もしもそれに切腹の意味があるとしたら、彼の自死は完全にご法度のはずだ。確か彼は「自裁」とか言っていたと思うが、誰も「生命」を裁く権利など持っていない。それは生命に対する忘恩であり権利侵害である。
 大した芸も持たないのにいつの間にか芸能界の大御所になってしまった明石家さんまだが、彼が娘さんに付けた名前はまことに大正解。「生きているだけで、まるもうけ」からイマルと付けたそうだ。
 そんなことをつくづく考えさせられるのは、今も私の3メートル横で穏やかな寝顔を見せている美子がいるからだ。ときどき「美子ちゃん、ママ、偉いねー、美子ちゃんがいちばん偉いんだよ」と声をかけると、まるでどこかの国の女王様のようににこやかに、しかも威厳をもってこちらを見てくれる。何もしゃべることができなくとも、人間生きているだけでご立派。美子からどれだけの勇気と喜びを貰っていることか。
 真髄氏に心酔していた二人の友人が自殺幇助罪を犯したことになったかどうか、その後の報道を見ていないので知らないが、ともかく人騒がせな死に方をしたものだ。
 てなことを半覚半睡の中で二日にわたって考えたわけだが、しっかり目覚めている今でもその見解は毫も変わらない。私にいつ死が訪れるか分からないが、たとえ家族や他人様の手を煩わせて惨めな状態になろうとも、最後まで感謝の気持ちを失わず、それまで生きられたことに深く感謝しながら、そしてできることなら美子の最期をしっかり看取ってから死にたいといつも願っている。

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ヨブ的悲嘆(その二)

表題に(その二)としたのは、およそ13年ほど前(2005/5/31)に同名の文章を書いたからである。内容はもちろん半ば冗談である。だいいち、私はヨブのように信仰の人ではない。震災後知り合って親しくお付き合い願っている或る神父さんの、彼は教会には来ないが信念の人ですから、という評言を人伝に聞いて嬉しくなっている態の不信心者である。旧約聖書のあの偉大なる人物の名前を冠したのは、前回同様(前回は糖尿病発覚に繋がった)、彼ほどの皮膚病(象皮病か)ではないがともかく皮膚炎に悩む男だからというただの一点からだが、クリニックと病院の皮膚科で処方してもらった薬が一向に効かないでいる。アレルギー性、アトピー性など重なりあっての、いや簡単に言えばただの老人性皮膚炎なんだろうが、一進一退を繰り返していて、それがストレスになってまた炎症を悪化させている。ある友人から、三日ほど絶食すれば治りますよ、と誠にありがたくもまた非情なご忠告もあったが、それを敢行する勇気がない態の信念の持ち主である。
 ヨブが難聴であったかどうかは知らないが、この現代の偽ヨブは難聴でもある。安い集音器ではやはり用を足さないので、パリ・ミキから補聴器をレンタルしているが、しかしこれとて難聴の不便さを解消してくれるわけではない。つまり面と向かって話しかけられれば聞き分けられるが、周辺での話し声は全く理解できないのである。特にテレビ・ドラマなどのセリフはほとんど聞き取れない。
 いや他人の皮膚の悩みや難聴のことなんぞ聞いてもクソ面白くもないので、この話はここまで。ところで残念ながら悲嘆の理由はそれら以外にもいくつかあるが、しかしその前に、およそ一月ほどの入院を終えて美子が無事帰宅できたことをまず感謝しなければなるまい。顔色も良く、反応も以前に戻っての自宅療養が始まった。今月いっぱいは、訪看さんたちが朝昼晩と三回も来てくださって胃婁が体になじむまでお世話してくださっている。ともあれ来月からは朝晩二回の栄養剤注入は私の担当になるので、それまでなんとか手順を修得しなければならない。
 朝晩三回も訪看さんが来て下さるのは誠にありがたいのだが、ベッドのすぐ傍の机に向かっている私としては、読書にも身が入らないし、さりとて訪看さんの作業を、たとえ見習い中とは言えいちいち見ているわけにもいかず、結局はその間、豆本や私家本の印刷製本をすることになった。こうしてこの十日ばかりの間に三、四十冊は作ったか。
 しかし以前のように単発ながら注文する人も絶えてなくなった現在、新たなさばき先を見つけなければならない。つまり今までのようにせめて製作実費と送料だけでも、なんてケチな考えではなく、例えばすでに佐々木梓さんの呑空庵十勝支部や中西圭子さんの仙台支部が実践しているように、無料貸し出し文庫を作ってもらうことである。この際どなたか手を挙げて下されば、即刻準備にかかりますが、いかがですか。
 実はヨブ的悲嘆のもう一つは、そのことと関係無きにしもあらず。というのは或る人の仲介で個人宛ではなく或る組織にそれぞれ30冊の私家本を贈呈したのだが、以後いっさいの連絡がないことである。組織と言っても別途送った手紙はそこの長に当たる人宛なので、せめてハガキなりとも(あるいはメールなりとも)受領の連絡が欲しいところ。かなりの重量なので郵便局の駐車場から窓口まで折り畳み式キャリーで運んだり、いやそんなことより一枚一枚丹精込めて作った本の数々、御礼でなくともせめて受領の報告ぐらい、と思うのは自然だが、しかしもしかすると皮膚炎+難聴によるストレスがいつの間にか積もり積もって、それで気短になっているのか。
 そういえば先日も、美子退院の夕方、支払いを済ませて駐車場に向かう途中、このままでは今晩眠れそうもないな、と思い、取って返して会計窓口のお姉さんにこうのたもうた。あのね、お姉さんから見れば患者さんやその家族など下に見えるのかも知れないけど、でもお姉さんたちが食べていけるのは、患者さんがいるからだよ。支払いのあと、「ありがとございます」は変かも知れないけど、「ご退院良かったですね」、いやそれも長すぎるんだったら、せめて「ご苦労さんです」くらいの挨拶をしなさいよ、ときっちり睨みつけながら注意した。そんなこと言われたことがないのかびっくりした顔で、「はい」とは返事したが、さて翌日から彼女に変化があったかどうか。先日も病院の受付業務にいちゃもんを付けたが、会計も同じこと。せっかくいいお医者さんや看護師さんへの感謝の気持ちが、つっけんどんな会計の対応で水を差されてしまう。
 でもこれもそれも、ヨブ的悲嘆+ストレスのせいで、気短で怒りっぽくなった老人の所業かも知れない。でも残り少ない人生(といって長生きするかも)、少々(ですかー?)人に嫌われても、言いたいことはきっちり言っておきたいとは今も改めて思っている。
 以上の愚痴っぽい話で終わるのは私も嫌なので、少し実のある話で締めくくろう。と言って大した話ではないが、大震災後とりわけ意識の中にわだかまっている反近代の思想を考えるに際して役立つ一つの処方を、以上のようなヨブ的悲嘆の中で考え付いた。簡単に言えば、近代の三種の神器をPSSで表そうという思い付きである。すなわちプログレス(進歩)、スピード、スぺキュレーション(投機)である。飽くなき進歩幻想(右肩上がり)、スピード、投機心こそが狂った現代の状況を作り出している進歩と投機についてはこれまでも何度か指摘してきたが、スピードについて一言。今の政治家のアホらしい言い草の一つ「スピード感を持って」を聞くたびに虫唾が走るが、己れの肉体を鍛えて早く走ったり高く跳ぶことに、オリンピックも近いことだし、とやかく文句を付けるつもりはない。しかしカーレースや最近ではエアレースなどというバカげた競技に熱中する人々の気持ちにとてもじゃないがついていけない。例えばいまエアレースで福島県出身のレーサーが脚光を浴びているが、でもあの競技の観戦中に観客の中に間違って墜落でもしたら、誰が賠償金を支払うのだろう。一瞬のうちに何十人、いや下手すると何百人もの死傷者が出るかも知れぬ危険な競技に、うつつを抜かす人たちの心理は、言って悪いが(かな?)やはり異常だろう。
 おや、またまたボヤキ始めたぞ。この辺でやめよう。

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くたばれ、データ神!

以下に述べることは、もしかすると病院慣れ、あるいは通院慣れしている人には当たり前、何をいまさら、と笑われることかも知れない。
 二週間あるいはもっと前からだったか、最初は腹回り、背中、次いで足、最後は頭部へ湿疹が広がり、クリニックから処方された飲み薬や軟膏でも治らず、ついに紹介状をもらって総合病院の皮膚科で診察してもらうことになった。しかし寝たきりの美子を置いて長時間外出することはできない。弱った、どうしよう?
 その病院の皮膚科は毎週金曜だけの診察しかなく、そのため大勢の患者さんが押しかけているようだ。金曜はちょうど午前中にヘルパーさんが来て美子のお風呂、昼過ぎには訪看さんが来てケアの日で、出かけるとしたらその後しかない。おまけにその日は三時から歯科医院の予約が入っている。皮膚科が予約制だったらいいのだが、そうではない、さてどうしよう?
 ともかく電話で聞いてみることにした。
「クリニックからの紹介状を持って今日の午後診察していただきたいのですが、寝たきりの家内を置いていくので、例えば今から2時間後に診察などということは可能ですか?」
「いいえ、皆さん順番を待っておられるので」
「いやいや、割り込もうというのではありません。順番の最後あたりに診察してもらえればありがたいのですが…」
 電話の向こう側のセニョリータは「でも皆さん順番待ちしているので」の一点張り。埒が明かないので、クリニックに電話して、先生に何とか相手側の先生に連絡してもらえないだろうか、と頼んでみたが、予想通りそれはできません、とのつれない返事。
 いやこれ以上実況放送並みに逐一経過を報告するつもりはない。歯科医の診察後、その病院に行き、何とか事態を進展させようとして応対に出た職員に先ほど電話に出てくれた職員に会いたいのだが、と言ってもいま席を外してますとの冷たい返事。しかし最後に応対してくれた事務局員(というのであろうか)の次の一言で一気に事態が動いたのだ。
「それではこうしたらいかがでしょう、とりあえず受付を済ませ、そうですね今からだと五時頃、いまお渡しする番号札をもっていらしてみては? 少し待つことになりますが」
「いえいえそれは当然覚悟してます。ぜひそうしてください」
待っていたのはその答えなのだ。つまり「とりあえず受付を済ませ、渡された番号札(ここで初めて番号札の存在を知った)を持って、適当な時間を見計らって、再度来院すること」
 初めからそう言ってもらえれば、こんなに事態が紛糾しなかったはず。もちろん私もそういう方向に話を進めればよかったのかも知れない。しかし病院慣れしてない私としては馬鹿正直に正面突破を試みるしかなかったのだ。
 ここで言わせてもらえれば、学校にしろ病院にしろ、どこか内向きになっていて、外部の人に対する思いやり、親切、つまり忖度(こういうときにこそ使う言葉だ)が少ないのではないか。一つの例を挙げれば、例えば他医院への紹介状には、「…先生、御侍史」と書いてある。実は80年近く生きてきてこの「御侍史(おんじし、あるいはごじしと読む)」という言葉に初めてお目にかかった。これはドクターが手紙を書くとき、相手の医師の宛名を「○ ○先生御侍史」「○○先生御机下」とする医療業界にだけ残っている独特の慣例で、意味は秘書やお付きの人のこと。 つまり「先生に直接手紙を出すのは 失礼なので、お付きの人が開けてくださいね」という意味らしい。いうなれば寿司屋さんやヤクザ屋さんの場合と同じ業界用語・隠語である。
 先日も或る不動産屋さんとの連絡で、相手方の事務員が司法書士先生、とやたら「先生」を付けることに対して、すまんが司法書士といえどもいわばあなた方の仕事仲間、それなのに外部の客への文書に「先生」の連呼はおかしい、と文句を付けたことがある。
 つまり外部の者に対してはすこぶる冷淡というか不親切なのに比べて、内部の者、とりわけ業界同士の関係がすこぶる丁寧というか互いに謙譲の美徳発散というわけである。その丁寧さ、親切さをもうすこし外部の者にも振り向けてもらえんだろうか、というのが正直な感想である。
 この点、もしかすると近ごろ民間より公的機関の方が進んでいるかもしれない。というのは、先日、印鑑証明を貰おうと市役所の窓口付近でうろうろしていると、一人の女性職員が近づいてきて「何をご所望でしょうか、あゝ印鑑証明でしたら、ここにあるこの用紙にこことこことここに必要事項を記入して、何番の窓口に行ってください。書類ができましたら番号でお呼びします」と即座に指示してくれた。以前はそんなサービスなどなかったのに、ごく最近大きく変わったようだ。書類への記入などに慣れていない市民にとっては実に頼もしくありがたいサービスである。
 つまり今回のことに話を戻すと、外部からの問い合わせに即座に適切かつ親切なアドバイスをしてくれる受付さんがいてほしいということだ。なんなら市役所並みに、入り口付近で迷っている人の案内のためだけの専任の職員がいてもいいはずだ。
 さてその日、言われた通りに五時近くに病院に戻り、63番という番号札を受付に見せると、この廊下の一番先にある皮膚科の前でお待ちください、と言われた。前客(?)が五人ほどいて結局は診察完了まで小一時間かかったが、担当医は患部を見て即座に頭皮用のローション、体全体に塗る軟膏を処方してくれた。
 午後いっぱいかかった病院での奮闘もこれでめでたく完了。ネットで調べるまでもなく、現代人の皮膚病は食物その他の影響でおそろしく複雑化していて、即効薬はなさそうだ。たぶん今回の薬にも劇的な効果など求めず、根気よく、そしてストレスをできるだけ感じないように(これが難しい)付き合っていくことになりそうだ。
 ついでに憎まれ口をもう一つ。今日の午後届いた「県民健康調査」(福島県・県立医科大学発行)という10ページ近くの文書について一言苦言を呈したい。震災後、毎年のように送られてくるこの種の調査に応じたことはない。その無意味さに毎回腹立たしい思いをさせられるからだ。震災直後の調査では、あなたは事故があったときどうしましたか、どこに避難しましたか、その時の手段は…こうして忌まわしい過去のことについて根掘り葉掘り聞くことは、特に老人にとっては苦痛を強いられること以外の何物でもない。一体そんなことを調べ、そして統計にして何のため、将来の同種の事故に備えるため? ザケンジャナイ!、そんなことのために時間と金を使って統計表を作るなら、こんな事故がもう絶対に起こらぬよう、日本全体の廃炉を考えた方がずっと世のため国のため、そして国民のためになるとは思わないのですか。
 今回の健康調査にはこんなふざけた質問まである。
最近一か月の食事についての設問で、「人と比較して食べる速度が速いほうですか。」
過去30日の間に、「どのくらいの頻度で絶望的だと感じましたか。」「どのくらいの頻度で自分は価値のない人間だと感じましたか。」
 おいおい、ふざけるんじゃない! こんなことを聞いて、統計して、それでどうするの?
 現在の日本の学校も同じようなことをやってる。学力テストしかり、成績管理しかり。すべてはデータ神のため。(先日、震災のため学力テストの成績が悪かった生徒・児童の今夏の休みを五日間短縮するという愚かな(ここで初めて言う)決定をした東松島市の教育委員長あての意見書(めいたブログ)には、予想通り何の返事も来ない。)
 そんなつまらぬことに精を出すより、例えば先ほどの病院の例のように、組織や同業者ではなく、患者一人ひとりの方を向いてくださいな。データ神ではなく、ウナムーノさんが言うように肉と骨を備えた具体的な人間を大事にしてくださいな。

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或る公的(?)私信

昨日の朝日新聞デジタル版に次のような見出しの記事が載っていた。


「学力下位返上へ夏休み5日減 東松島市、授業30時間増」

 長いので要点だけまとめると、小中学校全国学力テストで全国平均を下回っている宮城県東松島市が、今年から例年よりも5日早く2学期を始め、これにより授業時間を30時間増やすことを今月29日の市教育委員会で正式に決定する、という。
 学力低下の理由として、工藤昌明・市教育長の「中学3年の生徒は震災時に小学2年だった。避難所や仮設住宅といった、勉強がしにくい生活環境に長くいた」とする談話が紹介されている。
 この記事を読んで、真っ先に思ったのは、学力低下を真剣に憂慮していることは充分理解できるが、しかしそのことを休みを削って授業時間を増やすことへと短絡させることへの疑問、もっとはっきり言えば憂慮である。
 世界の教育現状について調べたことはないが、日本のように、真面目に(?)小中学校から全国学力テストを実施し、それでランク付けを堂々と公表している国は、あってもごく少数であろうし、それも学校教育先進国(?)日本を見習ってのことではないか、と推測している。
 このことに関して、数年前ソウル大統一平和研究所から、原発事故被災者の一人としての見解を求められて書いた拙文(翻訳されて定期会合で朗読され、のち機関誌に収録)の一部を紹介したい。

「私は長らく教師をやっていましたから、国民の真の覚醒のために教育が重要なことは痛いほどよく分かります。しかし現実の学校教育の実態はこれまた嘆かわしい状態になっています。知識を記憶させることには熱心ですが、生きる力、考える力を養うといういちばん大事な教育がないがしろにされてきました。
 大震災直後、被災地の学校はすべて閉鎖されて避難所などに使われましたが、私は当時ブログにも書いたように、真の教育に目覚めるための好機到来とばかり内心期待したものです。つまりこの際、教師も親も、そして当事者である児童も、教育とは、学ぶとは何かを考え直す絶好の機会だと思ったのです。この機会に親と子が向き合い、日ごろ読めなかった良書をじっくり読んだり、時おり巡回してくる教師に課題を出してもらったり質問したりできる手作り教育の好機と思ったからです。これからの長い人生にとって、半年あるいは長くて一年のこうした体験は実に貴重な財産になったはずです。しかし実際は原発事故現場から30キロ圏外にある学校にバス通学をさせ、教室が狭いので廊下で学習させるなど実に愚かな対策を講じました。教育関係者には明治開国以来の盲目的学校信仰が骨がらみになっていたわけです。
 最近の新聞紙上では経済協力開発機構(OECD)が実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果が話題になっていますが、それについて私はきわめて懐疑的です。たとえば問題処理能力で日本の子供は好成績を上げたそうですが、これについては完全に否定的です。コンピュータ・ゲームなどでの障害物や迷路を抜け出す能力は一種の慣れの、想定内の問題ですが、しかし今回の原発事故のようなそれこそ想定外の「問題群」に対しては無力であることは、大人たちの体たらくを見てもはっきり証明されました。想定外の問題に対しては、ろくろく学校にも行けない発展途上国の子供たちの方がはるかに高い能力を示すであろうことは容易に「想定」できます。つまり人間にとってより重要かつ手ごわいのは、「生きる」ことに直接かかわってくる、つまり「死活の」問題群なのです。」

 知識偏重の学校教育からいい加減抜け出したらどうだろう。私の究極的な案は、文科省への中央集権の廃止、教育の地方分権化だが、いまそれについて論じる用意が無いし、あまりに過激と警戒される恐れがあるので、ここは笑い話でお茶を濁す。私の知っているある女の子は、はっきり言えば私の姪っ子の一人は、小学生だったころ「どうだった、通信簿?」と聞いたら、「うん、良かったよ、2、2、3、3、2、4、4…」と得意そうに答えた。どうも5段階評価の数字を、走りっこ並みの1番、2番と考えていたようだ。でもこんな子でも、のちに早稲田大学を卒業することができたし、こう言う私も、試験の成績と通信簿評価に因果関係(?)があることを、中学生になってからの或る日、学校帰りの途次、青天の霹靂のようにようやく悟った。これは極端な例だが、でもそんな中学生でも、のちに(一流とはとても言えないが)大学教授にまでなったのである。
 要するに言いたいのは、小学生や中学生の時の学力試験の結果なんてそう気にすることはないということ。そんなことより、世の中の出来事について自分なりに考えてみたり、本を読んで人間の生き死にについて思いめぐらしてみたり、そしてそれよりももっと大事なことは、自分の日常生活に起こるすべての事象について自分なりに判断したり(たとえそれが親や教師の言うことと違っていても)することである。
 まっ、こう言ったからといって、今さら東松島市の決定が覆るはずもないだろうが、ふだんより(でも来年からずっとですか?)五日も早く始まった登校日に、みんなで楽しく夏休みの宿題をやったり、……いやいやそんなことより、せっかくだからこの機会に、今回の夏休み短縮について子供たち自身の率直な意見を聞いたり、例えばこの私のような考え方をする人も世間にはいるんですよ、と伝えてみたり……要は生徒たちに学力低下などという理由付けで決して自信を無くさせず、ましてや教育長談話のような事実があるのだから、それこそ何百年に一度という得難い体験をむしろ奇貨と見做すよう教えるべきだ。
 かく申す78歳の老人にしても、今回の大震災で、国の在り方、人間の生き方などいろんなことを根底から考え直すきっかけになったのですから。
 たぶん今回の経緯に教育熱心な(?)父兄、とりわけ言いたがり(失礼!)のお母さんたちの突き上げが大きく影響しているはずですが、どうか教育長、そして先生方、この年寄りの愚見をも、すこし聞いていただければ幸いです。
 おやおや、いつのまにかこの孤老の話し相手がいつものブログの読者友人ではなく、東松島市の教育長殿に変わってしまいました。そう、通常の意見書、陳情書の形式ですとなにか堅苦しいので、失礼とは存じますが、ここは思い切ってブログそのままをお送りさせていただきます。
 最後にしつこいようですが、日ごろからの私の主張を述べて、この型破りのお手紙を終わらせていただきます。
 今や日本人の物作りについては、世界中から関心を寄せられ称賛されている。確かにその物作りの精神は良し、されど人作りにそのまま当てはめることは愚か。もともと人間はでこぼこ(きれいな言葉で言えば個性的)にできており、その事実を曲げて等質の金太郎飴製造機のように児童を扱うことは愚の骨頂である。
 東松島市の皆様、とりわけ子供たちの教育に日頃より奮闘しておられる教育長、教育委員、そして教員の皆様への心からの応援の言葉をもって、最後のご挨拶に替えさせていただきます。

     二〇一八年新春
                南相馬の住人 佐々木 孝

追伸 新年早々起こった珍しい出来事についてブログに書きましたので、それも併せて送らせていただきます。ローマ教皇への願いが私ごとき一介の老人でも聞き届けられたことをお知らせして、せめて小生の願いも教育行政に対する一つの意見として聞いていただければ幸いです。(さてはおぬし、味をしめたな?)


【息子追記】その後も、父の死を経てももちろん返事などない(恥をここに残したわけだ、向こうがである)。まぁ、教育委員会はむろん、東松島市に限らず、今、教育行政にかかわるのは哲学も思想も無縁の低劣な輩ばかりだろうから当然と言えば当然だ(笑)。齋藤孝みたいなの(例えとしてだが)を手放しに有難がっているような連中であろう(笑)。また父兄も同様にそういう輩を有難がっている。ずいぶん彼は人気があるようだ。つまり、今の教育はおぞましい形でうまく調和が取れているわけだ。

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内なる変革を!

この間、たまたま見ていたテレビで、福島県の内堀知事が、今年の施政方針としてイノベーション、リノベーション、コラボレーションの三つの「ション」を掲げた。刷新、復興、協力の意味らしい。でもなんで英語なんだよ。美しい海岸線の浜通りをバレー(谷間)でもないのに、シリコン・バレー並みのロボット・バレーにしたいっちゅうお前さんのことだから、もうすでにお前さんの頭はアメリカ産ロボットの頭に挿げ替えられているのかも。わが懐かしの静岡弁でこういうのを「ションない話」というだでよ。
 今もっとも必要なのは、もう一つの「ション」、つまりそうしたろくでもないことを考えつくお前さんの頭のレボルーション。そう、政治的な意味とは違うレボルーション、つまり変革さーね。
 ついでに言えば、今度の日曜は、ここ南相馬の市長選挙らしい。現職市長ともう一人現職市議が立候補するらしい。ちょっとその主張を見たところなんともお粗末な主張。一人はロボット産業で町起こしとか。ザケンジャナイッ! 投票所に行く気にもならねえ。これまで意識的に、つまり一つの意思表示として棄権したことは…たぶん無かったが、今回だけはその意思表示をさせてもらうぜよ。つまり棄権じゃよ。
 こうして原発被害の真因を考えることもないまま、スピード感をもって(あゝき汚ねえー言葉!)フッコウ、フッコウのお題目、アンゼン・アンシン(これまた手垢にまみれっぱなしの汚ねー言葉)の繰り言並べくさる、あゝ見てらんねー聞いてらんねえー。
 だったらお前出ろってか? 残念ながらこちとらにゃ女房の介護っちゅう尊い仕事があるうえ、もう歳でそんな体力も元気もありましぇん(気力だけはあっとー)。だったら何も言うな、ってかー? それもそうだな。もうやーめた。


【息子追記】その後、南相馬市は「ロボットのまち南相馬」をスローガンに掲げ町を上げて開発を進めている。

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新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

 当方、おかげ様で家族一同元気に年を越すことができました。美子は身動き一つできず寝たきりですが、月一の医師の往診で褒められるほど栄養状態もよく元気です。私の方も彼女の介護をすることで逆に力をもらい、日々『平和菌の歌』の豆本作り(現在累計2,285冊、スペイン語バージョン384冊)などに精進しています。また今月末には、長らく絶版になっていた旧著『ドン・キホーテの哲学』が、日本スペイン外交関係樹立百五十周年・サラマンカ大学創立八百周年記念出版の第1弾として、執行草舟さんの監修・増補改訂で『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』と名を改め、法政大学出版局から上梓されます。
 他方、世界の現状を見て暗澹たる思い無きにしも非ずですが、十六世紀日本で苦闘を強いられたバテレンたちの「ケセラン・パサラン (力を尽くせばなんとかなる)」の心意気に合わせて頑張る所存です。
 今年も皆様のお力添えで、本「モノディアロゴス」もさらに仲間を増やし、それと同時にますます緊密な友情で結ばれますよう心から願っております。そして皆さま方におかれましても、ご健勝に恵まれ更なるご活躍を祈り上げます!

平成二〇年元旦 呑空庵庵主・富士貞房

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諦めず今日もケセラン・パサラン

この雨の中、迷いに迷ったが、といって誰とどこに投票すべきか迷ったんじゃない。投票すべきか、それとも棄権すべきか、それを迷っていただけ。つまり投票によって国民の意思が表明されるというこの有難ーい投票制度そのものに絶望しているからだ。
 特に今回ほど日本の政治がグダグダの末期症状を呈していたことはなかった。結局、小池という出たがり屋のおばさんにかき回され、辛うじて命脈を保っていた革新勢力が分断され、安倍政権に引導を渡すどころか政権続投へのお墨付きまで与えたわけだ。いや、まだ結果は分からないが、100パーセントそうなるだろう。
 岸洋子の歌の文句じゃないけど、大した勝算もないままに「“希望” という名のあなたをたずね」た前原の罪は大きい。まっ、もともと脆弱な政党であり、これで落ちるところまで落ちたわけで、これも日本政治全体の退廃現象の一つに過ぎない。
 選挙戦終盤にきて、安倍首相が福島入りをした光景をたまたまテレビで見たが、彼を歓迎する善良な県民たちのなんの屈託もなく嬉しそうな顔に、正直深ーく絶望した。大震災直後の参院選挙の時もそうだったが、これだけ痛めつけられているのに何一つ不満や怒りを持てない良民たち。その時も「清き一票」などとさんざ刷り込み教育をされてきた「良識」の民の投票行為が、結局は日本の政治をダメにしてきたと感じたが、もちろんそれに代わる有効手段がないことにさらに深く絶望している。つまりお上に「従う」ことは教えられたが、そのお上の不正や間違いに対して批判することも正しく「怒る」ことも教えられてこなかった良民の悲しくも痛ましい姿だ。
 しかし今は「最悪の事態だが、ここで諦めず、不退転の覚悟をもって自分らしく力を尽くして」生きてゆこう。(あれっ、どこかで聞いた文句だと思ったら、それ「平和菌の歌」の解説の言葉じゃない? そうだよ、要するにケセラン・パサランの精神。だからおいちゃん(本当はお爺ちゃん)は、こうして今日もせっせと豆本作りに精を出してます)。

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去来する様々なことども

以下に書くことは、(おそらく)、現在準備中の『モノディアロゴス 第14巻 真の対話を求めて』の「あとがき」になるであろう雑念の塊である。我が愛しのブログはすべて「ごった煮」の「どんぶり勘定」なので「ゆるしてたもれ」。とにかく歳のせいか(いやいや生まれつきでしょう)いよいよせっかちになってきた。刹那的に、かっこよく言えば、ホラチウスの「この日をつかめ(Calpe diem!)」の精神で生きております、はい。
 これまで年に2巻は作ってきた「モノディアロゴス」がここに来て少しペースを落とし始めた。ネットでの発言自体、このところ週一、下手をすると何にも書かない週があるから当然の話なのだが。そして量より質とも言い切れないことがちょっと情けない。でも第14巻の編集そのものは六月には終わっていたと思う(記憶がはっきりしないが)。そして解説を立野さんにお願いした。しかし彼の海外旅行や私の側での都合などが重なって作業が少し停滞していたところ、それまで考えてもいなかった新たな状況が生まれたので、急遽、立野さんに解説そのものを新しい状況に合わせて書いていただけないか、と持ち掛け、快諾(とは言えないか、強引なお願いだから)を得たところである。
 新たな状況とは、「モノディアロゴス」などを含めたスペイン語訳作品集の出版を進めていた過程で、以前、『原発禍を生きる』の出版元の論創社に第二弾出版の話を持ち掛けてそのままになっていたことを思い出した。つまりこの際、それ以後に書かれたものから選りすぐって(?)一冊にまとめること、その編集・解説のすべてを立野さんに丸投げすることにしたのである。
 かくして第14巻の「あとがき」は私自身が書くことになった。しかし例のスぺイン語訳出版のかなりの難渋、そして生きている以上次々と出来する雑事、その一つは柄にもなく(?)賃貸にしていた桜上水のワンルーム・マンションの売却にまつわる交渉(連日のようにかかってくる慇懃無礼な不動産屋からの電話※※にウンザリしてとうとう売る気になった)、などなどで、「あとがき」執筆はどんどん先き延ばしにされてきた。しかしカタルーニャ問題の最中でありながら、マドリードのガージョさんの口利きで作品集出版の可能性が少し出てきたり、売却については談話室でおなじみの上出さんのお力添えで、これまた動き始めたので、ようやく「あとがき」を書く気になってきたのだ。
 ところでついでだから言ってしまうが、その間面白いこともいくつかあった。一つだけご披露しよう。それはまたもやの映画出演である。と言っても前回の『日本でいちばん長い日』同様、我が幼少期の写真による出演である。今回もその映画の助監督さんがたまたま我がホームページの家族アルバムを見たのがきっかけである。その映画とは近浦啓監督、中国の国際派俳優ルー・ユーライ、 藤竜也主演の中国人不法滞在者の苦悩を描く日中合作映画『CHENG LIANG (チェン・リャン)』である。つまり私は藤竜也の幼児期を演じる(?)のだろうか。写真登場の場面は既にこの八月に山形で撮影済みで、封切りは来秋らしいのでお楽しみに。
 もう一つついでに。あんなこんなで結構あわただしい日を送っているが、たまに見るテレビではメジャーリーグの今期最後の試合をやっている。しかしこちらが歳を取ったからであろうか(いやいやそれは関係ない)、選手だけじゃなく監督までも試合中汚い唾、中には噛みタバコのドス茶色い唾、を所かまわず吐き散らすのを見ると、本当にやつら汚ねーって思う。時々映るダッグアウトの床の汚さったらない! ありゃ文化の違いなんてもんじゃなくて人間性の違いだっせ。前田よ、ダルビッシュよ、マー君よ、やつらの真似なんかするなよ。そんな場面を見ると観戦する気にもなれなくて、すぐスウィッチを切ってしまう。あゝほんとババッチイこと!
 最後はとても真面目な、しかも悲しいお話。三日ほど前、『平和菌の歌』の作曲家というより我が舎弟のピアニスト菅さんから電話がかかってきて、一度川口さん菅さんと一緒に南相馬市中央図書館で行われたチャリティー・コンサートで端麗なフルートの演奏を聞かせてくださった浦崎玲子さんが闘病の末、先日亡くなられたという。東京純心で事務員をなさっていたころからいつもにこやかで、すでに亡くなられた長尾覚さんともども、あまりいい思い出のない純心でオアシスのような存在だった。亡くなられる直前まで、また菅さんと南相馬で演奏したいとおっしゃっていたそうだ。かわいらしいお子さん(たち)の母親でもあった彼女の突然の死で深く悲しんでいる菅さんに昨夜こんなメールを送った。

「最近ばっぱさんのことを思い出すことが多いのですが、その際思うのは、死者のために祈るとは、はるか遠く天国にいる霊魂のために祈ることではなく、いま地上に生きている私たちのすぐ傍らに彼または彼女が今もなお生きていることを信じることだと思います。」


「ゆるしてたもれ」この言葉は武蔵を三年間待っていたお通が、武蔵の後を追おうと旅の準備をしているときに花田橋の手摺りに武蔵が書き記して去っていった時のもの。関係ないか。
※※ 留守電に残っている電話番号をネットの検索にかけるとそれが迷惑電話の不動産屋であることがたちどころに分かる。便利(?)な世の中じゃ。

★ 急いでの追記 書き終わってから、一つとても嬉しいことをお知らせするのを忘れていた。それは長らく絶版になっていた拙著『ドン・キホーテの哲学 ウナムーノの思想と生涯』(講談社現代新書)が、この度、執行草舟さんの監修で、他に三つほどの論考を加えて法政大学出版局から復刊されることになったことである。その三つの論考のうちの一つは、むかしサラマンカ大学のウナムーノ研究誌に発表したものを学芸員の安倍三﨑さんが翻訳して掲載される。執行さんの「復刊後記」を安倍さんが密かに読ませてくださったが、著者に対する最大級の賛辞が書かれており、そんな褒め言葉などいただいたことが無かったので、眼が思わず踊ってしまったほどである。その時が来たら皆様にもご紹介したい。この復刊は、来年創立八百年を迎えるサラマンカ大学と在日スペイン大使館、それに執行さんの戸嶋靖昌記念館の共同イベントの一環としてであり、長らくスペイン思想を学んできた私にとって思ってもみなかった幸運である。草舟さんをはじめ関係諸氏に深く感謝したい。

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我が教育学原論

 なんだろ、この頃の政界見てらんねぇね。小池のおばちゃんの登場でぐだぐだになってきた。アホらしくてニュースを追う気にもなんねぇ。とってつけたような脱原発の旗印も自民党顔負けのチョー保守志向の中で霞んでしまって、本気かどうかさえわかんねくなってきた。もともと彼女、憲法改正、安保法制賛成だけでなく原発再稼働賛成だったはず。日本全体が大きく右旋回してきた。それでなくとも腰の据わらぬリベラル派が踏み絵もどきを踏まされて根絶やしにされそうだ。
 そんな時、たまたま『大学の中で考えたこと』という私家本を見ていたら、30年ほど前、静岡にいたときに書いたちょっと面白いのが見つかったので、気分転換にでもどうぞ。我が政治学原論にも通じる教育学原論である。


病後のたわごと ――架空インタビュー―


「のっけからナンですが、なぜ架空インタビューという形式を?」
「いや、べつだん深い理由があるわけじゃない。ただこの原稿の締切が明日というときになって、ここ十数年来かかったことがないような流感にやられて二日間寝っぱなしだったもんでね。それでちょっとまともな文章を作る気力も集中力もなくて。一日目などは眼が覚めたら八時、てっきりアシタになったと思ってね、それにしてはずいぶん外が暗いな、って言ったら家人に、なにブリッ子してるの、まだキョウよ、って言われてね」
「カッワイーッ」
「よしてくれよ。でもほんとに可愛いと思う? まさかね。でもね、この《可愛い》と いう言葉の使い方は、そうだなここ七、八年来のものだな。タモリの『笑っていいとも』 のスタジオに集まった女の子たちよろしく、なんでも《カッワイーッ》だもんな」
「いいじゃないですか。要するに先生がそれだけ年をとったということですよ。若いもんのフィーリングについていけない……」
「そんな意味でなら、ついていく気はさらさらないね。ともかくだね、日本中がブリッ子になってきたってこと。まだほんの青二才のときからオジン、オバンと言われまいとしてみんな汲々としているじゃないか。このあいだも『ナウ・ゲット・ア・チャンス』とかいうテレビ番組を見ていたら……」
「どうでもいいですが、ずいぶんつまらない番組を見てますね」
「ン……幼稚園の保母さんたちの大会でね、見ているうちゾーっとしてきたね」
「若さムンムンで?」
「よしてくれよ、あんな保母さんたちにゃ金輪際子供なんか預けたくないね。まるで餓鬼のまんま」
「だって子供好きで子供と一緒に遊ばなきゃならないんだから当然じゃないですか。あれでけっこう大変なんですよ、保母さんの仕事」
「それは分かるよ。でもね、そこにはまったく落差が感じられない」
「…? 何です、そのラクサとか言うもの?」
「つまりだね、子供に近付くのはいい、しかし、いい大人が子供の世界に入るにはそれだけの精神的負荷の一瞬の放下というか、つまりだね、もっと分かりやすく言うと、餓鬼が餓鬼に近付いても面白くも可笑しくもないということだよ。つまり、子供は子供になれない、なぜならもともと子供なんだから。いまさらキリストや良寛和尚を引き合いに出すまでもなく、子供になる、子供の背丈で物を見るというのは実は至難の技なんだよ」
「そうかも知れませんが、でも面白可笑しいで教育は済まないと思いますけど……」
「そうかね、ひょっとすると教育にとっていちばん大切なものかも知れないよ。いや少なくとも今の教育にいちばん欠けているものとは言えるね。すべてが前もって決められた枠から豪も出ようとはしない。教育とはそれこそ未知のものとの遭遇であり冒険であり、知的食欲をそそる旅への誘いであるはずなのに、今じゃただ食べたくもないのに無理矢理消化しなければならぬメニューとして重くのしかかっているだけだ
「先生、そうは言っても現場じゃいろいろと大変なんじゃないですか? 先生は比較的自由な大学の先生だからそう言えるかも知れないけれど…::」
「なるほど、今の受験戦争の中じゃ、学ぶ喜び、教える楽しさなんていうのは、それこそ理想論にすぎない、もっと現実的に、というわけなんだろう?」
「ま、そういうことですね。現実はどうしようもなく学歴社会なんだし、競争原理で動いている社会なんですから……」
「しかしね君、その現実というのは何だい?」
「そう面と向かって言われても……」
「いや、べつだん君とここで哲学論議をしようなんて思っていないよ。ただね、君の言い方だと、現実というものはすでにそこにあるもの、ということになるけど、それは人間的現実のほんの一部、というかその物的部分にすぎないということさ。人はパンのみにて生きるにあらず、むしろより多く夢を食べて生きているのさ。たとえばね、この世はすべて金さ、学歴さ、と言っている連中だって、実はそういう夢を見ているに過ぎないのよ」
「要するに、ものは考えよう、ということですか?  それはちょっとおかしいですよ。だって制度なり社会といったって所詮人間が作ったものなんだから」
「だろう? それじゃあどうする? 制度を変えるか、それとも社会改革を目指すかい?言うは易く、行なうは難し、だよ。それに先ほどのような物の見方だったら、いくら制度を変えてもあんまり意味がないよ。つまりね、人間的現実の物的な部分にしばられている限りいくら制度を変えても意味がないということ
「……つまり発想の転換がない限り?」
「そういうこと。たとえば最近問題になっている《いじめ》は、結局は現在の学校的環境を支配している画一主義や管理主義に繋がっているが、それだって親や教師のあいだに、発想の転換がない限り問題は解決しないさ。この間題で槍玉に上がっている先生たちは実に心外だろうね。だって自分たちは学校の評判と威信のため、それこそ一身を捧げて来たんだからね」
「およそ的はずれの滅私奉公?」
「そう。だいいち気色悪い図柄だね、いい年した男が(あるいは女が)女生徒のスカートは膝下何センチでなければならないとか、前髪は眉の上何センチでなければならないなんてしょっちゅう眼を光らせているなんて光景は。僕にも高一の娘がいるけど、そんなことコッパズカシクテ見たことないよ」
「何です、そのコッパなんとかというの?」
「東北の方言で、とても恥ずかしくて、という意味。それはともかく、僕がいいたいのは規則を無視しろということとは全然違うんだな」
「規則は理にかなったもの、それも必要最小限に、でしょう?」
「よく分かったね」
「あたり前でしょ、先生が僕をしゃべらせているんですから。あっ、分かった、インタビューの形式をとったわけが……」
「そう言わないでもう少し付き合えよ」
「それじゃ先生にとってずばり学校教育とは何か?と聞いてもらいたいんでしょ?」
「しごく簡単明瞭さ。要するに学校教育とは、人間形成にとって比較的有効な一手段であって、それ以上でもなければそれ以下でもない、ということ。ついでに言わせてもらえば、学問とは、結局は人間の蓄積された知恵とも言うべき常識あるいは共通感覚に戻るにしても、絶えずそれを疑い批判していく作業であり、物事を外面からではなくそれの生成状態において見ること。つまり現在の教育の荒廃は、実に逆説的だが、学校教育の物神化にある
 確かに学校教育に対して昨今異常とも言える批判が集中しているが、しかしその学校教育そのものがそれほど自明的に、あるいは絶対的に必要なものなのか、といった問題提起は一度もされてこなかった。昔なら日本のそこかしこに住んでいた古老というか知恵の人がつぶやく次のような言葉、どんな偉い教育学者も顔色なしとする次のような言葉、つまり《学校? 行きたけりゃ行くがええ。いい友達が見付かっかも分かんねぇしな。だけどな、爺っちゃんらは学校さ行かねども物事の道理を違えたことなどねぇ》といったなどは、今では小説か映画の中でしか聞けなくなってしまった。だからね」
「なんですか、論文口調になったり話し言葉になったり」
「今日もとつぜん教育機器の会社だか予備校からだか電話がかかってきてね。あっお父さまですか、お宅に◎◎君いますね、どうですか元気に勉強してますかね、とやけに馴れ馴れしくずうずうしいんだよな。要するに受験とか学校という名を出せばだれでも平身低頭すると思ってるんだな、お前にカンケイねえよ、ってすぐ電話を切ったがね」
「先生ガラが悪いな。恥ずかしいなこんな先生持って」
「受験受験で尻引っぱたかれて来たはずの君たちが、いざ大学に来るとまったく勉強しないんだもんな。どうなってるのこれ。なまけ者のこの僕だって毎晩三時すぎまで勉強してんのよ」
「どうも雲行き悪くなってきたな。ここらで退散しましょ。先生ほんとに風邪引いてたの? それともまだ熱あるんでねぇかい?」

          一九八?年   「常葉大きゃんぱす」第?号

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貧者の一万円

今朝の便でアマゾンンからジョセフ・ラブ著『教えるヒント学ぶヒント』(新潮選書、1983年4刷)の古書が届いた。著者は1992年に62歳の若さ(今の私からすれば本当にそう思う)で亡くなったイエズス会神父・教授・美術家である。美術家などとあいまいな言葉を使ったが、優れた美術論を書くだけでなく、ご自身が優れた画家(木版画・墨絵)・写真家でもあったからだ。さっそく布表紙の美本に仕上げる。
 先日なぜ彼のことを思い出したか、というと、徒然なる物思いの切れ間に「貧者の一灯」という言葉が突然頭に浮かんだからだ。もちろんその意味は「長者の万灯より」貧しい人の心のこもった一灯の方に価値がある、という意味だが、これをもじって別の格言を作ってみよう(このごろ物覚えが悪くなったのを補完しようとしてか、よくそういう遊びをする、特に昭和歌謡曲の陳腐な決まり文句を揶揄しながら)。そうだ「(長者の百万円より)貧者の一万円」では? 貧者が与える方ではなくもらう側と逆にはなるが。そしてその時思い出したわけだ、有難ーい一万円のことを。
 話はずいぶん昔に遡るが、ラブさんとは私がまだイエズス会にいたときから親しく付き合い、私が退会した後も、大半の友人とはそれ以来疎遠になったが、彼は一切変わりなく付き合ってくれ、ある時は南相馬の家まで訪ねてきた。その時、近くの酒屋で夕食の時に飲む美味しいカクテルの材料など仕入れてくれたが、さて何というカクテルだったか。近くの浜で海水パンツ姿の彼がふざけてボディービルダー風のポーズをとった写真が残っているから、季節は夏だったはず。日記を調べれば分かるが、確か私は新婚ほやほやの時代だったと思う。
 それからほどなくして私たち夫婦が双子の赤ちゃんをそれぞれ一人ずつ抱いて上京し、南武線稲田堤で貧乏生活を始めて間もなくのある夏休み、家じゅう探しても一銭も現金が無く、それで思い余って勤め先の清泉女子大の会計課に金を借りに行ったことがある。確か互助会だったかの申し込み用紙の目的欄には家具購入などの項目はあるが生活費などという項目は見当たらず、でもウソを書く気にもなれず生活費に充当と書いたところ、そんな項目はありませんので貸せませんと言われ、なんのための互助よ、と捨て台詞を吐いて会計課を飛び出て、帰途サラ金から金を借りたころのことである。何かの用事で上智大学に行ったとき、門のところで偶然にラブさんに会った。すると彼は別れ際、そっと手に万札を一枚握らせてくれたのだ。生活苦のことなど一言も話さなかったのに、彼はそれとなく分かったのではないか。
 どことなく上品なヒッピー(あゝこれも今や死語か)風の芸術家にも見える神父さんで、お堅い神父さんたちとの生活は、時には苦しいこともあったとは思うが、しかし彼は実に自由に、そして周囲を明るくする人であった。困窮する私にさりげなくお金を握らせるなど、普通の人にはなかなかできるものではない。名前通り愛の人だった。そういう彼であったから、詩人の谷川俊太郎さんや詩人・美術評論家の大岡信さんなどたくさんの芸術家たちと親交があった。
 しかし私たちが静岡に越してからは彼との付き合いが途絶えたばかりでなく、やがて難病に罹り、最後は車椅子の生活になったことを風の噂で知った。彼とあれほどまで親しく付き合ったのに、最後あたりなぜ病牀を見舞わなかったのか、今になって深く後悔している。今朝届いた『教えるヒント学ぶヒント』も、ネットで彼のギャラリ-探索の時に偶然知った情報である。なぜ手に入れることもなく今日に至ってしまったのか、今となってはただただ忘却の底に沈んでいて確かめようがない。しかし彼の唯一の絵本『夜を泳ぐ』(リブロポート、1991年)が二階廊下の本棚にあったことを思い出し、急いで持ってきた。静岡県雲見の里の少年の一種の夢想譚が彼自身の描く11葉の色彩画で語られている52ページほどの本である。つまり彼の死の一年前に出版されたものだ。しかしこれは彼から贈られたのだろうか。その記憶はない。本の最後あたりに封筒に入った6枚ほどの、彼の絵が印刷された絵はがきが挟まっていた。封筒裏に印刷された差出人の名はラブ神父だが住所は稲城市のものになっている。彼が急性肺炎で亡くなった多摩市の病院近くの住所らしい。するとこれは最後の日々、彼を献身的に介護した(と聞いたことのある)その絵本の訳者K・Mさんの住所ではないか。
 実は今さっき、そこに記されていた番号に思い切って電話をかけてみたのだが、「現在使われておりません」と機械音の答えが返ってきて、内心ほっとした。もしご本人が出てきたら、なんて無礼を詫びていいか言葉に詰まったであろうからだ。
 ところどころ記憶が消えて黒い穴が広がる過去。だが強いてその穴を埋めようとはせず、しかし蘇った過去の砕片を大事にそっと静かに眺めることで満足しよう。
 でもラブさん、あなたにもう一度会いたかった。あの時のカクテルを飲みながら、あなたが心から愛した日本の美術や…いや震災を経たにも関わらず、いよいよおかしくなってきた日本、そして貧者の一灯どころか誰もが長者になりたがり、利便追求に己れを失っている日本について話し合いたかった。
 でもそれがかなわぬ今、残された日々、あなたの遺書二冊を読みながら、そしてネットでも観ることのできるあなたのギャラリーを訪ねながら、これまでの空白を埋めるべく、あなたとゆっくり話し合っていきたい、どうぞよろしく。

※ すぐ後の追記
『夜を泳ぐ』がなぜ手元にあったのか、いまやっとわかった。2002年九月十六日のモノディアロゴス(行路社版に収録)にこう書いていた、長いがそのままコピーする。げに記憶とは不確かなものよ。

生まれつき貧乏性なのか、昨年秋から始めたインターネットも、時間の経過とともに料金が加算されるというタクシー乗車賃のようなシステムにどうしても馴染めず、ドキドキしながらネットの海の水際でポチャポチャ遊んでいた。ところがこの三月の相馬移転と同時にADSLという有難いものを使い始めて、ようやく料金加算システムの魔手から逃れ、水際から少し先まで泳ぐようになった。おかげで、この数ヶ月のあいだ、たくさんの新しい友だちができたし、思いもよらぬ出会いや発見が続いた。そのうちの一つに、山梨・秋山工房のミチルさんを介して故ジョゼフ・ラブ神父との劇的な再会があった。彼女からいただいたラブさんの『夜を泳ぐ』(一九九一年、リブロポート)がその時以来机の上に乗っている。静岡県伊豆松崎の雲見という漁村に住む平太郎少年の一夜の海中冒険を美しい水彩画と散文で綴った不思議な絵本である。
本と一緒にミチルさんがくれたラブさんの絵はがき数枚の中に裸の少年を描いたデッサン画がある。平太郎のモデルになった少年ではないかと思われる。思春期前期の少年の裸が実になまめかしい。膝から上の裸像だから当然性器が描かれているが、なまめかしさは単にそこから来るのではない。おそらくそれは少年を通して日本文化や日本人に対するラブさんの深い愛情が滲み出たものだと思う。関心のある方はラブさんの実作品などが展示されているネット・ギャラリーがあるので訪ねていただきたい (Joseph Love Art Gallery)。
そして先日とつぜん、ラブさんとの古い約束を思い出したのだ。急いで引っ越し荷物を探し回り、ようやく二冊の本と訳稿一束を見つけた。著者は両方ともD. ベリガン、そして訳稿はそのうちの一冊を私が訳したものである。D. ベリガンはラブさんと同じくアメリカのイエズス会士であり、徴兵カードを燃やした廉で逮捕されるなど反戦運動家としても有名な詩人である。彼の『ケイトンズヴィル事件の九人』は有吉佐和子訳で出版されている(新潮社)。訳稿のある方は九編からなる一種の現代教会批判論であり、ラブさんが強く共鳴して私に翻訳を勧めたものだ。なぜ手許にそのまま残っているのか。原書の出版社マクミランと日本のカトリック出版社との折り合いがつかないことに嫌気がさして篋底にしまい込んでしまったのだ。ラブさんのためにもこれをなんとか生かす道を考えなければ。


※【息子追記】遺稿として訳書・ダニエル・ベリガン『危機を生きる』(原題: They Call Us Dead Men)を託された。

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くたばれ関白宣言!

前にも書いたが、美子の無聊をなぐさめるため(?)、夫婦の居間にはほとんどいつもCDやテープからの音楽が流れている。このところばっぱさんが残してくれた「昭和の流行歌」という20巻物を代わるがわる聞いているが、その曲が流れ出すととたんに気分が悪くなる、というより腹立たしくなる。だったら飛ばせばいいのだが、カセッターまで行くのが面倒で、腹を立てながら美子の食事の介助などしている。
 その曲とは1979年発表のさだ・まさしの「関白宣言」である。なぜ腹が立つかと言えば、小心者のくせに口だけはやたら偉そうな歌詞が気に食わないのだ。さだは一種コミカルな線を狙ったらしいが、「北の国から」とかグレープ名でリリースした「無縁坂」、「精霊流し」などなかなかいい曲があるのに、なんでまたこんな駄作を、と気になってネットで調べると、なんと「発表されるや否やその歌詞をめぐって女性団体などから“女性差別”、“男尊女卑”と反発を受けるなどの騒動となった」との解説があり、とたんにばからしくなった。つまりそれら婦人団体がさだ・まさしの何十倍もアホに見えたからだ。「関白宣言」批判では同じに見えても、その根拠は真逆だからだ。
 急に思い出したが、昨年だったか例の「平和菌の歌」の1番にあった「不美人」という言葉に東京のある婦人グループが女性差別だととんでもないイチャモンをつけてきたことがあった。あまりに馬鹿らしいので、以後拙者の周囲に顔も見せるな、と追っ払ったが、ウーマン・リブとかフェミニストを自称する奴らのかなりの部分は、ただ観念的な女性尊重を言挙げするだけで、本当の意味での女性の尊厳の主張からほど遠い連中であることが多い。
 つまり歌詞にある「柳眉逆立つ不美人」という言葉の意味さえ理解できない頭の固い連中だったということ。だってそうでしょう、どんな美人でも柳眉逆立てれば不美人になりますぞ、という含意が読み取れなかったわけだから。ちなみにわが恋女房のことを言うと、彼女はそうした頭でっかちで観念的な女性運動を毛嫌いしていた。こうした頭でっかちで何にでもクレームをつけたがる女性が最近とみに増えてきたように思える。しかしそれもこれも男が不甲斐ない、情けない存在になっているということの逆証明だが。
 ついでに言うと「おいどんは」などと亭主関白ぶっている、いわゆる九州男児が昔から嫌いだったが(さだ・まさしは長崎出身だからオイドンとは言わないだろうが)、実はそんな男たちを実際に牛耳っているのが九州の女性軍だとはとっくにお見通しである。
 要するに日本という国が一見平和、実は内面グダグダになってしまったということなんだろう。またまた腹が立ってきたのでこの辺でやめておく。だれかモンクアッカ!

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古書蘇生術二件

万が一、我が陋屋を訪れ、夫婦の居間に隣接する応接間といえばいいのか、あるいは明るい本置き場といえばいいのか、を眺める機会があれば、壁一面にしつらえられた本棚のほとんどすべての本が例の蘇生術を施されたものであることに一驚するであろう。つまり文字通りの古書だけでなく、比較的新しい本までもが布表紙にされたり背を布や革もしくは人造皮革で装丁されたりしているからだ。
 こうなると単なる趣味の段階を越えて正真正銘偏執狂の域に入ったと言わざるをえまい。つまりもう立派なビョウーキである。ただ救われるのは、それを自覚しているということか。
 先日、虫害に遭った、もしくは辛うじてそれを免れた本たちへの蘇生術についてはすでに報告したが、一時的にその本棚から他の本やら雑誌も外に出して積み重ねておいた。ところがどうもそれが気になってきた。そのうちの一かたまりは、オルテガが創刊した「西欧評論(Revista de Occidente)」A5判それぞれ110ページほどの20冊である。
 オルテガが主宰したのは1923年から内乱勃発の1936年まで。1955年に彼が死んだ後も休刊が続いたが、1962年に息子が再刊し1980年には今度は娘が引き継ぎ、2007年からは娘の息子、つまり孫が切り回している。一家三代続いての雑誌発行は珍しいが、創刊当時からまさに西欧の最高水準の文化・思想雑誌で、現在はどうか知らないが、オルテガ存命中はヨーロッパの有名作家や思想家の寄稿が盛んに行われた。目録を見ると、いわゆる「西欧」だけでなく、日本からも鈴木成高や三島由紀夫の名も見つかった。実物を見ないと分からないが、三島のものは「七つの橋」という題なので、寄稿というより彼の『橋尽くし』の翻訳であろう。
 ここにあるのは1974年から1975年にかけての13冊と1980年の7冊である。で、今回は前者13冊を三冊の分厚い合本にしたのだ。まず赤地にパンダ(もちろん白黒の)が点在する布で全体を覆い、背中に茶色の布を貼ってそれぞれ450ページほどの豪華本(?)にしたわけだ。内容はいちいち中を見ないとわからないので、表紙に各号から一つだけ後から読みたい記事を抜き出して表示した。

 第一冊目は、

  • ライン・エントラルゴのアソリン論
  • トマス・ハーディの原題は “The Gave by the Handpost”という短編(1913年作だから寄稿ではなく翻訳であろう。)
  • いくつかのピカソ論
  • M.アルフォードのカフカ論

 第二冊目は、

  • いくつかのラス・カサス論
  • F.チュエカの「丹下健三と日本の建築」
  • D.アンジューのボルヘス論
  • A.フォンタンのルイス・ビーベス論

 第三冊目は、

  • フリアン・マリアスの「人間的自由と政治的自由」
  • ロバート・リカードの「アビラの聖ヨハネ」
  • ルイス・ボルヘスの未発表詩篇

 最後に一冊まるごとのテーマ別総索引

 ここで白状しなければならないのは、1980年の7冊は当分おあずけにして、それらの側にあったもう一つの雑誌群を合本製本したことだ。今度はノーベル賞作家のカミロ・ホセ・セラ(1916-2002年)が1954年以来住み続けた(実際はマドリードと往復して)パルマ・デ・マジョルカの地名を冠した四六判100ページほどの小雑誌 “Papeles de Son Armadans” 12冊である。これを今度は薄紫の地に赤と黒の金魚をあしらった布地で覆い、背中に茶色の模造皮革を貼って、これまた豪華な2冊の合本にした。これは私にとっては無名の詩人や作家たちの寄稿が主な内容の可愛らしい雑誌で1956年から1979年まで発行され、現在はデジタル版のサイトに変わって彼の作品紹介などしているようだ。今回の調査(?)で彼の母親がアイルランド人であることを初めて知った。
 彼とは自慢話にあやうくなりそうなニアミス(?)の機会が一度あった。それは1996年の野間文芸翻訳賞の審査員を依頼されたとき、彼もその一人だったときだ。残念ながら審査会には来日せず、マドリードの授賞式には来たそうだが、私自身はもちろん行かなかった。(この年の受賞者は、友人のセビリヤ大教授フェルナンド・イスキエルドさん)
 寄る年波のせいだろうが偏執狂的古書蘇生術なんぞの報告をしたかと思えば、ついむかしの自慢話に話が移ったようだ。でもどこかに生きた痕跡を記録しないことには、すべて忘却の海に埋没するわけだから、スペインの有名人との出会いというより接触をもう一つご披露したい。それはウナムーノの9人の子供の長男フェルナンドさんをマドリード郊外のご自宅に訪問したことである。彼は建築家で奥様やお子さんも同席していたと思うが、記憶からは消えている。記録を調べて見れば分かることだが、今はちょっと面倒。で、その時と相前後してだか、サラマンカ大学の元総長宅(その時は記念館になっていた)で、次女のフェリーサ夫人にお会いした(確か彼女独身だったと思う)。その時の写真がアルバムのどこかに残っているはずだが、お二方とももうお亡くなりになったことだろう。私がこんな歳になったのだから。
 あゝすべてがはかなく忘却の海へと消えていく。まっこれも仕方ないことか。ここにきての安倍内閣の支持率急落という嬉しいニュースにもさして喜びを感じなくなってきたが、まっこれも仕方ないことか。でも頑張る、頑張らなくちゃならない。もしかすると、いやたぶん、わが古書蘇生術も自分が生きた痕跡を何とか後世に残そうとの果敢ない努力の一つかも。
 まっ、それもこれも悲しくも、しかしそれ自体雄々しい人間の性(さが)なんだろう。泣いて笑って、怒って諦めて、ともかく最後まで生き抜くっきゃない。

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ウナムニスタ宣言

特に項を改めて書くほどのことでもないので、これから書くことのいわばお先払として記録しておく。
 ほかでもないが私の思想的骨格を形作っているものの一つ、それもかなり重要な部分は、本モノディアロゴスの名祖(なおや)ウナムーノの思想だが、例えばデカルト哲学の徒のことをカルテジアンというように、ウナムーノ哲学の徒は何というのか、実はこれまで考えたことがなかった。こうした呼び名は自分から名乗るものではなく他人からそう呼ばれるべきものではあろう。しかし人生の最終コーナーをよたよた走って、いやよたよた歩いている私としては、ここらで自分にも言い聞かせる意味で旗印を鮮明にするのもいいのでは、と考え始めた。
 つまり自分でもこれから最後まで歩いてゆくその道筋をはっきりさせようかな、と思い始めたわけだ。ところが、さてそれを何て言うべきか考えてこなかった。日本語では「…派」「…主義者」とか、先ほど挙げた「…の徒」なんて言い方をするだろうが、スペイン語でそうした意味を作る接尾辞は「…ano」か「…ista」である。前者は「…の性質をもった人」、後者は「…主義者」を言う。しかしキリスト教徒を cristiano とは言うが cristianista とは言わない。ところがキリスト教徒の場合とは違って、「ウナムーノ的な人」は unamuniano だが、ウナムーノ的な主義・主張の人は unamunista と言うべきであろう。
 もちろんこれら二つの属性の間に画然たる境界線が引かれているわけではなく、どちらかといえば性格的なものを言う時には …ano、思想的なものを言う時には …ista をつければいいのか。
 では、私はウナムニアーノか、それともウナムニスタか。先ほど進むべき道筋なんてことを言ったわけだから、とうぜんウナムニスタとなるか。
 そうだこれに決めた。これがとても便利な言い方であるのは、私が目指すべきもう一つの姿勢がヒューマニスト、すなわちスペイン語でウマニスタだから、このウナムニスタという言葉の中にアルファベットとしてはすでにウマニスタも含まれているということだ。
 グーグルで調べてみると、ウナムニアーノもウナムニスタもすでに使われていることが分かる。
 オルテガの場合はオルテギアーノもしくはオルテギスタとなるはずだが、前者はほとんど使われておらず、後者に至ってはニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線の指導者ダニエル・オルテガ(1945-)の同調者をもっぱら指しているようだ。
 ともあれ、遅ればせながら、今日から私もウナムニスタを自ら名乗ることにしよう。もちろんこれは私だけの僭称ではなく、だれでも名乗ることは自由である。私の友人の何人かにもこの名が当然当てはまる人がいるが、その人たちも私に倣って(?)ウナムニスタを名乗ってほしい。
 先ほど、以上の駄文がいわば先駆けで、本論がありそうな話をしたが、実は今日とりわけて書きたいテーマがあったわけではない。しかしついでだから一つのことを記しておこう。

 先日、虫害に遭ったレイモンド・カーの『スペイン――1808-1975』のコピー本を補足するものとして “Modern Spain 1875-1980” をアマゾンに注文していたのが先日届いた。で、その表紙絵に使われている一枚の写真を見ていると胸に迫るものがあった。兄弟らしい半ズボン姿の二人の幼い子供が目の前高く貼られたフランコ総統の似顔絵にファシスト流の敬礼、つまり右腕を高く掲げている後姿の写真である。
 買い物籠を下げた兄の方はもう鬼籍に入ったかも知れないが、弟の方はまだ存命中かも知れない。なぜ胸に迫るか。こういう幼い子供までも巻き込んで、一人の独裁者もしくはそのグループへの忠誠を誓わせることの恐ろしさである。これまでも再三言ってきたことだが、私は愛国者ではあるが決して愛国主義者ではない。つまり一つのイデオロギーに過ぎない国家主義への忠誠など死んでも(?)御免蒙りたい
 政治論として有効かどうかは与り知らぬが、ここで持論の国の在り方の三つのレベル、すなわち国家(ステート)と国民国家(ネーション)そして国(カントリー)についての自論を繰り返すつもりはないが、現政権などがひそかに望んでいる愛国心教育は、詰まるところステートへの忠誠を志向するものでしかないことは明らかだ。現体制がどうであれ、父祖伝来の風土、先祖たちへの敬愛、自分を育んできた文化遺産などへの純粋な愛着を涵養するものではないということである。
 日頃の私の言説からすると意外に思われるかも知れないが、私は反天皇制論者ではなく、現憲法下での象徴天皇制はわりとまともな国の在り方ではないか、と緩やかに考えている。つまり民主主義の本家本元と言われるアメリカ合衆国の大統領制よりずっとマシではないか、ましてや愚かな政治家たちの愚論・愚行が横行している昨今の我が国の政治情勢下ではなおさらそう思う。すなわち現政治体制がたとえどんなに品位なく乱れていようとも、少なくとも対外的に、いや国内的にも、辛うじて品位を保ち、まともな政治体制誕生までの期待を繋いでくれる。
 象徴天皇は政治的な権力も権限もなく、したがって国家存亡の危機に遭っても政治的発言は一切できないとされているはずだが、前述のような独裁者の専横を許さないためにも、それこそ一国民としての、もっと正確に言えば一人の人間としての鶴の一声、つまり「平和憲法の精神に立ち返ってください」くらいの発言は認められてもいいのでは、と考える。その発言が文字通り「白鳥の歌」とならないためにも。

※ 追記 ウナムーノ自身は、自分が…派だとか…主義者だとレッテルを貼られることを毛嫌いした。なぜなら「わたしミゲール・デ・ウナムーノは、完全なる自覚に達することを切望するすべての人と同じように、唯一無二の種だからである」(「私の宗教」、『キリスト教の苦悶』所収)。しかしそれだけの矜持と度胸を持たぬこの不肖の弟子は、そんなことが言えた師の跡をたどりたいのだ。

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連想から妄想へ

次々としなければならない雑用のため、連日あっという間に時間が過ぎてゆく。むかし勤め人だった時よりもむしろ忙しい。だから本棚の隅っこに隠れていた見たこともない本に出合ったりすると、嬉しいけれど困ったな、と思う。なぜなら、今や宿痾ともなっている古本蘇生術に取り掛からなきゃならないからだ。
 昨日も運悪くそんな本に出合ってしまった。本当に古い本、私の生まれる一年前、つまり昭和13(1938)年発行の改造文庫、モンテスキューの『ペルシア人の手紙』(斎田禮門訳)である。最近は購入日時を本の中扉あたりに小さく記すことにしているが、今日のように誰が買ったのか、だれが読んだのか全く分からない本がたびたび見つかる。
 私が買った覚えはない、美子の本でもなさそうだ。読んだ形跡もない。しかし改造文庫ということなら以前ばっぱさんのものを見つけたことがあった。書名は忘れたが、確かドイツの教育哲学者のものだったような気がする。福島女子師範時代に買ったものらしい。すると確率的にはこれもばっぱさんのものか。
 さっそく厚紙で表紙を補強し、百円ショップで買った猫柄の手ぬぐい地で装丁したが、先日来イスラム文化のことを考えていた時だったので、偶然ではあるがグッドタイミングの出会いであった。つまり十八世紀初頭(発表されたのは1721年)、小説仕立てのフィクションとはいえ、イスラム文化とキリスト教ヨーロッパの出会いを描いた作品だからだ。正確に言えば二人のペルシア人がパリで見聞したことを故郷の友人に知らせるという形で、実は作者の狙いは当時のヨーロッパ社会を風刺するという内容らしい(実はこれから読むところ)。
 フィクションとはいえ、ここで二つの文化が比較されているわけだが、もしかするとサイードのオリエンタリズム批判では、ヨーロッパ人が十字軍時代のように敵対者としてではないにしても、今度は西洋が東洋を見る視線の中に含まれる蔑視、つまり “表象(イメージ)による暴力” の端緒を作ったと批判されているのかも知れない(サイードのその本も読まないまま本棚に鎮座している)。
 ところでこのモンテスキューの作品のスペイン語訳が貞房文庫にもあることが分かって、今度はそれが気になってやおら捜索に乗り出した。しかし系統的な整理をしていないし、寄る年波で踏み台を使って高いところに上るのは怖いし、近くのものでも懐中電灯で照らさないと背文字が読めない。要するに今回探すのは無理、時間がかかっても少しずつ整理した暁での発見に希望を託すしかないか、と半ばあきらめたとき、これも偶然、古いが風格のある古本が目に入った。18世紀スペインの作家ホセ・カダルソの『モロッコ人への手紙』の原書である。これはモンテスキューの訳書よりさらに古い、何と1885年にバルセローナで出版されたスペイン古典草書の一冊である。これは清泉女子大時代に研究費で手に入れたものだが、マドリードのマジョール通り61番地のマヌエル・タラモナという弁護士の蔵書印が押してある。
 この本はモンテスキューの『ペルシア人の手紙』から数えて64年後の1785年に書かれた、やはりこれも書簡体小説で、前者がペルシア人ならこれはモロッコ人による当時のスペインの風俗習慣の実況報告の形を取っている。もちろんカダルソは執筆時モンテスキューの作品のことが頭にあったはずだ。
 こうして期せずして十八世紀ヨーロッパとイスラム世界の出会いと相互理解の物語が出てきて、これらをサイードのオリエンタリズム論に照らし合わせながら読むという面白い課題…課題?、聞いてないよ、だいいちそんな時間ないし…
 実はいま目の前にそれぞれ厚さ5センチ近い(袋とじ印刷だからこうなる)私家本が、しかもそれぞれご丁寧に布で表装されて積み重なっている。いずれ市販本にしたいものばかり。そのうちの一冊はスペイン語版作品集で、これはほぼ確実に出版されそうだが、問題は残りの三つの訳書、すなわち古い順から言えばダニエル・ベリガンの『危機を生きる(原題は They call us dead men)』、アメリコ・カストロの『葛藤の時代』、そしてオルテガの『大衆の反逆』である。
 もっともあとの3冊についてはこの構造的出版不況の時代、無理に出すつもりはないが、それでも最終的な推敲を終えてないまま死後に残すのは避けたいものと、このところ頭を痛めている。なのにこんなとき、またもやこの男(私のことでーす)新たにアマゾンに本など注文している。自分でも意味の分からない(?)ふるまいである。
 そのうちの1冊は先日来の苦闘の後を引いてか、大江の健ちゃんの『暴力に逆らって書く 往復書簡』で、中の一人がサイードだし、それに例の破壊された価格の1円だからいいようなものの、もう1冊というより1組はな、なんと『新・子連れ狼』コミック全11巻なのだ。
 前述したように自分でも説明はむつかしいのだが、このところ時おり部屋に流している昭和歌謡曲の中の、橋幸夫の「子連れ狼」の歌(小池一雄作詞・吉田正作曲)を聴いているうち、無性に読みたくなったのは確かだ。萬屋錦之助や若山富三郎の映画にしろテレビにしろこれまで一切見たこともないのに、ここにきてトチ狂ってる。
 歌そのものもいいが、間に挟まれる若草児童合唱団の擬音の合いの手が実にいい。

しとしとぴっちゃ、しとぴっちゃ、

も可愛いが、それよりいいのは、霜の朝の

ぱきぱきぴきんこ、ぱきぴんこ 

が素晴らしい。

 繰り返し聞いているうち、例のごとく妄想が広がってゆく。つまり私は拝(おがみ)一刀で、時おり外に出て「涙かくして 人を斬る」が、家には三歳の大五郎ならぬ病身の美子がチャンの帰りを待っている。

帰りゃいいが帰りゃんときゃあ
この子も雨ン中 骨になる
この子も雨ン中 骨になる

だからこの老いさらばえた拝一刀、外出しても死に物狂いで帰ってくる。
(まさかウソですよ。)

※31日の追記
 今日とうとう子連れ狼がやってきた。さてこれをどのように合本にしようか。迷ったが結局1-3,4-7,8-11に分けた。つまり都合3冊のぶっとい合本を作ったのだ。それぞれを厚紙で補強し、一見革に見える古いジャンパーの端切れを背中に張り、もともとの11枚の表紙絵から選んだ3枚をそれぞれの表紙に張り付けて、ちょっと見栄えのいい美本に仕上げた。
 「新」とついているのはなぜかなと思っていたら、要は拝一刀が柳生烈堂との果し合いで死んだ後、東郷重位(しげかた)という侍が大五郎の父代わりになって新たな旅立ちをするところから始まっているかららしい。昔からの愛読者ならとうぜん知っていることでも、拙者にはすべてが未知の世界である。まっ、手元に置いて、昼寝の時の誘眠剤(こんな言葉があったかな?)として読むことにしよう。

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いささか憂鬱な苦言

もちろん歳のせいでもあろう、最近いろんなことに対して今まで以上に(?)短気になってきた、つまり堪(こら)え性がなくなってきたのである。例えば次のようなことに対して。
 このところタブッキの作品、特に最初に読んだ「レクイエム」に感心して、いくつか彼の作品を読み進め、さらには雑誌「ユリイカ」の特集号を2冊取り寄せ、いつものように厚紙で補強して布表紙の合本にするなどかなりの入れ込みようだった。しかし同じ頃に購入した『時は老いをいそぐ』(和田忠彦訳、河出書房新社、2012年)が同一の作者によるものとは思えないほどつまらない作品群(まだ全部は読まないが)なのだ。「レクイエム」でえらく感心した、あの複数の登場人物の対話の場面もこれらの作品に来ると、ものすごく分かりにくいものになって、今しゃべっているのは誰なのか皆目見当がつかなくなる箇所が頻出する。健ちゃんの『晩年様式集』の方がまだ分かりやすい(失礼!)と言えるほどに。
 もちろん(とここで謙遜の意味で同じ言葉を再度使わせてもらうが)これは一部、私自身の加齢現象のせいではあろう。しかしたぶんかなりの確率で、だれでも同じ感想を持つのではないか。これには二つのことが考えられる。すなわち訳者の力量不足か、あるいは作者自身の小説作法の退化か。おそらく二つともが関係していると思うが、しかし「レクイエム」が書かれたのが1996年、「時は…」は2009年、つまりタブッキの53歳と66歳の時の作品だから、それほど急速に劣化(失礼!)するとは思われないので、かなりの責めを訳者が負わなければなるまい。手元に原文がないし、あっても読めないのでその点の判断は保留するが。
 そんなこんなでどうも気分がよろしくなく、何か別のものを読んでスッキリしたいところ、たまたま目に入ったのが先日取り寄せたばかりのボルヘス『ブロディーの報告書』。これは新書版になったものだが、以前のB6版のもの(出版社も訳者も同じ)は静岡時代に学生に貸したまま戻って来ていないのに気づき、急遽取り寄せたものだ。しかしこれから書くことがその大先輩の訳者批判になるかも知れない(いや確実に)あえて名前を伏して話を進める。
 短編集の最初にあった「じゃま者」の訳文についてである。「語り伝えられるところによれば、ネルソン兄弟のうち弟の方のエドゥアルドが、1890年代にモロン(ブエノスアイレス市郊外の郡)で病死した兄クリスチャンの通夜の席で、すすんでこの話をしたということだが、これはどうも眉唾くさい。」という書き出しから、読者ははや濃密なボルヘス的世界に引き込まれてしまうのはいつもの通りである。ただ初めからいちゃもんつけるようで心苦しいが、そしてそれは多分にタブッキから引きずっていた気分が作用したのかも知れないが、その弟の話というのができれば秘しておきたい内容、つまり兄弟二人で一人の女を殺した話なので、「すすんで」は「問わず語りに」というか、つまり「隠しおおせずに」の意味が出る訳語がなかったのだろうか。また「眉唾くさい」は「眉唾物だ」くらいが適語じゃないだろうか。
 実はこれから書くことの裏を取りたくて貞房文庫にあるはずの原書を捜したのだが見つからず、万が一あとから原文と比較して自論を訂正しなければならないときは、隠さず再度報告するが、今のところ原文を横に置かなくても大きく間違えることはあるまい、と更に先に進む。
 いやいやこれから問題にしようとすることからすれば先の二つの訳語ことなどほんの些細なことで無視しても構わない。この短編の内容は、要するに二人の仲のいい兄弟がフリアナという一人の女を巡って対立しながらも、最後は兄が女を殺し、弟の方もその兄を許して兄弟の絆を修復するという物語で、ボルヘス的世界特有の濃密な因習と血縁の世界、もっとはっきり言えば旧約聖書的な世界が描かれている。
 いま旧約聖書的世界といったが、作者は「教区司祭の話では、ゴチック文字で印刷されたボロボロの黒表紙のバイブル…家じゅう探しても本はこれ一冊だけだった」と書いてさり気なく伏線を張っていた。
 さて問題の箇所は、兄弟のいさかいの原因たるフリアナを娼家に売り飛ばしたはいいが、その後も客として二人は別々に隠れてその娼家に通うので、そんなことならいっそ買い戻そうと、再び女を買い戻す。「ふたたび前の状態に戻った。あの不埒な解決策は失敗に終わったのだ。兄弟もいったんは互いに欺き合うという誘惑に屈した。カインがあたりに姿を見せたが、しかしニルセン兄弟の愛情は深かった」。
 それまで一回も出てこないカインの名がそこに突然出てくるが、その場かぎりだ。さーて皆さんはどう思われますか? いやそれ以前に訳者はどう思ったのかが気になる。
 問題は不適切訳とか単純な誤訳とは違う。つまりこの作品の根幹に関わる問題なのだ。
先ほど旧約聖書的世界といったことを思い出してほしい。つまりこの話は「カインとアベル」の物語の現代版あるいはゆがんだ形のパロディーなのだ。パロディーと言ったわけは、旧約聖書では弟の捧げ物だけが神に嘉せられたことをねたんだ兄のカインが弟アベルを殺したのだが、この現代の兄弟は自分たちの結束を固めるために哀れな女を生贄にしたからだ。
 さて、とここで再度言うが、問題は果たしてどれだけの読者がそのことに気づくか、もっときついことを言えば、果たして訳者はどこまでこの話を理解していたか、ということだ。私など足元にも及ばない実績のある偉い訳者だから、もちろん例の伏線のことは承知していただろう。しかし文化が違う言語への翻訳の場合、そしてこの場合はゆがんだ形であれ聖書の教えが血肉と化している文化の産物を翻訳する場合、ここらあたりのことをしっかり押さえてほしい。
 文学作品に訳注はそぐわないとしても、せめて解説あたりでさらっとでも指摘してもらいたかった。また作者はいわばサブリミナル効果を狙って「カイン」という言葉を入れたのかも知れないが、それだったら他にも数か所「カイン」という言葉を挿入してほしかったし、訳者にもそのあたりのことを解説してもらいたかった。
 少し長くなったが、以上のことと関連してもう一か所だけ指摘しておきたい。作品集の最後から二番目にある「マルコ福音書」のこんな場面はどうだろう。これも陰惨な事件が内容だが、その要約は端折らせてもらって、問題の箇所で、主人公の父親についてこう書かれている。

「彼の父親もいわゆる自由思想家で、彼にハーバード・スペンサーの思想を吹き込んだ。しかし母親は、モンテビデオに旅立とうとする彼をつかまえて、毎晩、父の祈りを唱え、十字を切るようにすすめるような、そんな女だった」。

 さて「父の祈り」とは何でしょう? 彼の父親、まさかね。では誰? カトリック教徒ならすぐ分かることだが、これは「天にましますわれらの父よ」で始まる「主祷文」、つまり聖母マリアに祈る「天使祝詞」とともに、最も大事な祈祷文のことである。でも普通の読者はそれが分かる? そういう祈りを唱えなくなってから何十年にもなるこの私にも自明のことだが、果たしてどれだけの日本人がそれを理解できるだろう。ここはせめて「天父の祈り」くらいの訳語を当ててほしかった。
 以上、タブッキ体験から続くブルーな気分の中でのつぶやきでした。

※ 6月3日の追記 夕食前、本の整理をしていたらボルヘスの『ブロディーの報告書』の原書が出て来た。問題の箇所を見てみると、まず「邪魔者」の冒頭だが、「すすんで」などという言葉はどこにも見当たらない。次にカインだが、確かに訳されているように唐突にカインが登場するが、これは読者がとうぜん旧約聖書と結びつけるだろう、と作者が考えたはず。でも聖書になじみのない読者のことを考慮して、訳者はどこかでそれについて触れるべきだろう。
 最後に「父の祈り」だが、原文では rezara el Padrenuestro と大文字で書かれていて、当然「主祷文」を指している。要するに先日の批判はすべて当たっていたということだ。

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不便さを楽しむ

特に髭の濃い方じゃないから、三日に一遍くらい安いブラウンのシェイバーで髭を剃る。でもさすが三日目あたりになるとジャングルから出てきた小野田さん(古っ!)みたいになるので慌てて剃る。だいぶ使い込んだシェイバーだけど買い替える気にはならない。今はやりの首振り何とかといった機能もない簡単な代物だが、そったら機能には負けない自前の高性能がある。つまり微妙な角度にも対応するおのれの手首である。
 手首が不自由な人になら確かに便利だろうが、こちとらみたいに不器用ながら手首など自在に動かせる人までが新機種、新機能に飛びつくのは、考えてみれば実に滑稽な現象である。これでは国民全体を徐々に手足不自由児にしてゆくようなものではないか。
 我が家では、いや少なくとも我ら老夫婦の居住空間では、普通ならとっくに張り替えるであろう古ふすまや、とっくに捨てるであろう色あせた色紙など、大切にそのまま使っている。死んだばっぱさんの思い出の品々だからだ。
 最近、断捨離とかいう不思議な風潮が蔓延している。私から言わせればザケンジャナイ!だ。これまで機会あるごとに批判してきた日本全土を覆う「更地の思想」の一つの表れであろう。こうして過去を切り捨てることによって、いよいよ根無し草になっていく。つまりいよいよ宙に浮いていく。
 話は変わるが日テレで毎週放映している「小さい村の物語 イタリア」をよく見ている。地に足をつけた素朴で堅実な彼らの生き方が実に美しい。ところがスポンサーの東芝が合間に流すコマーシャルが番組の内容と大きく乖離している。やたら先端技術の宣伝ばかりで、そうした進歩思想、技術礼賛をこそ考え直さなければならないのに…あっそうか、そうして己れの体質をあえてさらけ出すことで、視聴者の反省を促してるのか。そういえば東芝さん、最近経営が破綻しそうだって? だから言わんこっちゃない。

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長い休講のあとで

隣のコメント欄でセミナーハウス長の■さんが心配しておられるが、申し訳ない、体調をくずしていたわけでも、何か怪しい事件に巻き込まれていたわけでもない。ごく簡単に言えば生来のなまけ癖がつい長引いただけの話で、本当に申し訳ない。その間、何をしたか。もちろん介護業務は滞りなく果たし、その合間あいまを縫って豆本作りも怠らなかった。ちなみに現在、日本語版は1,700、スペイン語版は250に到達。スペイン語版はフェルナンドさんが雑誌に紹介記事を書いてくれたりして、スペインにも平和菌が広まりつつあることは嬉しい。
 いやそんなことより、実はこの半月あまり、例のスペイン語版作品集の翻訳が大詰めに来て、一昨日、ついに最後の翻訳がハビエルさんから届いたばかりなのだ。つまり翻訳はハビエルさんだが、作品集の構成その他のことに没頭していたというのが今回の長期休講の本当の理由。これまでの翻訳すべてをB6版の仮綴じ本にしたら、厚さ5センチ5ミリにもなった。もちろん袋とじ印刷だから実質はその半分の厚さだし、実際に本になる場合にはA5版だろうから、もう少し薄くなるはず。
 要するにこの分厚い仮綴じ本を読み直したり、撫でさすったり(?)していると、あっという間に時間が経っていたというわけ。どんな作品集か分かってもらうために、その書名と目次をご紹介しよう。ちなみに収録作品のほとんどすべてはネット上で読めますので、お時間のある時にでもどうぞ。

平和菌の歌 佐々木孝作品集
F. ハビエル・デ・エステバン・バケダーノ訳

  • 目 次
  • 序詞 ゴヤ「砂に埋もれる犬」 
  • 第一部 作品
     いまだ書かれざる小説へのプロローグ
     ピカレスク自叙伝
     修練者
     転生
     A・M・D・G
     切り通しの向こう側
     ビーベスの妹
     補注「スペイン思想の中のサラマンカ」
  • 第二部 モノディアロゴス
     双面の神
     小鴨と深淵
     理性と感情
     渚にて
     生成の場に立ち会う
     霧の中の覚醒
     秋を愛する人は
     道に迷ったアラブ人
     行間を読むということ
     妄想と溜息の中で
     実にあざとい!
     後書きに代えて
       東日本大震災・原発事故を被災して(ソウル大統一平和研究所へのメッセージ)
  • 第三部 付録
     メディオス・クラブ・マニフェスト
     スペイン語圏の友人たちに
     平和菌の歌
     平和菌の増殖・拡散に向けて
     撒こう平和菌の歌
     南相馬に残った夫婦の四十八年 
  • 解説 フェルナンド・シッド・ルカス

 以上である。実は最初のうち書名は、作品の中でちょっと自信のある、それにスペインの読者のことを考えて「ビーベスの妹」を考えていたのだが、しかし作品全体を表すものとして「平和菌の歌」に決めた。
 このスペイン語版作品集は年来の望みで、これができないうちは死にたくない、とまで考えていた。まだ出版の引き受け手も本決まりでないのだが、しかし不幸にして当面不首尾に終わったとしても、ここまでやったことでホッとしている。もちろん出版まで最善を尽くすつもりだが、でも……いや最後までしつこく食い下がろう。
 まるでビックリ箱のように雑多なものが詰め込まれた作品集だが、一人の人間の生を過不足なく表すものとして、この形しかないと今では自信を持っている。
 長い休講のあとなのに、大風呂敷を広げてしまったようで申し訳ない。

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すべて人生の薬味・滋養

これまでずいぶんものを知らないで生きてきたんだなあ、と思うことが最近目立って増えてきた。例えば今日など、三月は弥生か、それじゃ旧暦で月の数え方全部言えるだろうか、と考えてみたら、途端に自信がなくなった。特に7月、9月が出てこない。睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月…そうだ文月だ、次いで葉月…うーんと長月、神無月、霜月、師走。六月の水無月がそのころ田んぼに大量の水を必要とするから、とは知っていたが、さて他の月にはどんな謂れがあるのだろう。そのうち調べてみなきゃ。
 大気が乾燥しているだけじゃなく、灯油ストーブを使っているせいか、ときどき背中あたりが痒くなる。そんなときのために机の脇に常時孫の手を掛けている。ちょっと待て、ほんとに孫の手なんだろうか。辞書で調べると、孫は麻姑の当て字で、その麻姑は中国の伝説上の仙女とある。つまり「後漢のころ姑余山で仙道を修め、鳥のように爪が長く、それで痒いところを搔いてもらうと、とても気持ちがよかった」かららしい。なるほどそういうことか。
 ことほどさように、知らないことがいっぱい。そんな意味でも、いま読んでいる岡村訳『ドン・キホーテ』はいろんなことを教えてくれる。まだ第十二章あたりをゆっくり楽しみながら読んでいるのだが、ドン・キホーテやサンチョの科白(せりふ)が実に面白いし生きている。いずれ会田訳や牛島訳と比較するかも知れぬが、今はとりあえずスペイン語原文を時折参照しながら読んでいるのだが、岡村氏、原文からは決して離れず、しかも実に自由闊達に訳している。たとえばサンチョが主人への感謝の意を表すのに「感謝感激雨霰」などという懐かしい日本語をさりげなく挟んでみたり、「臥薪嘗胆」とか「白髪三千丈」などという漢語が実に自然に遍歴の騎士物語の中に溶け込んでいるのだ。
 そればかりか原作者の向こうを張って(?)、原文にはない言葉遊びさえしている。たとえば「<馬鹿を申せ>と、ドン・キホーテ。《幾人討ったとて、罪に問われる遍歴の騎士がどこの世界におる。さような例を見たことがあるか?読んだことがあるか?》《人を売ってどうのこうのなんて、おら、なんにもわからねぇ》と、サンチョ。」
 つまり homicidios(人殺し)という騎士の言葉を従者は聞き間違えて単なる悪意ほどの意味を持つ omecillos という当時の俗語に言い換えたわけだが、それを岡村氏は「討った」と「売って」と二つのまったく別の意味の言葉で遊んでいるわけだ。
 他の訳者はここをどう訳しているかいつか調べてみたいが、とにかく大変長丁場の苦しい翻訳作業だったとは思うが、しかし楽しみながら翻訳を進めたらしいことがこれ一つとっても充分うかがえる。
 以上はスペイン語から日本語への翻訳の話だったが、今度は逆に日本語からスペイン語への翻訳の話である。他でもなく現在進行中の私のスペイン語版作品集のことだ。先の『原発禍を生きる』ですでに実証済みだが、ハビエルさんが今回も冴えた訳筆をふるっている。たとえば『ピカレスク自叙伝』の中で主人公の少年(私でーす)に向かって、兄が「お前は橋の下で拾われたマンジンの子なんだぞ」と言った時、側で聞いていたおやじは、なんとも訂正しなかったではないか、という箇所で、とつぜんこんなスペイン語が出てきて、最初は間違いではないかと思った。つまり直訳すれば「この口は私のものだとは言わない」(no decir que esta boca es mia)という訳文だが、よく調べてみると確かにその表現が辞書にあった。つまり押し黙ることをそう表現するらしい。これも原意を十分咀嚼したうえでの一種の言葉遊びであろう。皮肉やダジャレ混じりの拙文にはうってつけの訳者であることが再確認できて嬉しい。
 とここまで書いてきて、かなりの回り道になったが、実は今晩(おっともう翌日になった)ぜひ書きたかったのは、今晩いや昨晩7時半から放送されたNHKクローズアップ東北「もっと笑える~医療的ケア児と家族の日々~」についてであった。番組紹介は以下のようになっている。

「山形県鮭川村で旅館を営む元木家。長女の陽菜さん(13)は、原因不明の難病で目や脳に障害があり、日常生活を営むために栄養剤の注入などの医療行為が欠かせない「医療的ケア児」だ。村には訪問看護などのサービスがないことから、母親の美香さんが医療行為を行ってきた。そんな元木家は家族ひとりひとりが楽しく暮らすためにできることを見つけてきた。元木家の穏やかな日々を見つめる。(語り: 杏)」

 ほぼ寝たきりだが、家の美子と違って陽菜(ひな)ちゃん時折手足を動かすことができる。妹と昼寝をしながらその妹に両腕で絡みつくような動作をすることもある。お腹から栄養剤(美子のエンシュアとは違うようだ)を注入しなければならない陽菜ちゃんはお母さんの四六時中の介護が必要で、この先どうなるのか、それは確かに心配である。しかし茶髪で元気に介護するお母さんの美香さん、旅館業で忙しいお父さん、鮭川村でただ一人の小学生の可愛い妹とのこの四人家族の明るさはどうだろう。まさにホラチウスの Calpe diem!(この日を掴め)を見事に実践している。さしあたっての問題や苦労はないがしょっちゅういがみ合っている「幸福な」家庭よりも数千倍も幸せな家庭を作っている。
 美香さんにこれまで多くの試行錯誤、ご苦労があったことは間違いないが、いつも前向きで、介護の作業一つひとつを実に丁寧に、しかも絶えず工夫を凝らしてこなしている。つまり介護を楽しんでいるとさえ言える。要するに美香さんだけでなくこの元木家にとって、陽菜ちゃんは太陽のような存在なのだ。私にとって美子がいわば生きる原動力であり活力源であるのと同じ。何を無理して、いい子ぶって、と言いたい奴には言わせておく。
 元東京都知事であった男が、在任中、胃ろうなどで命をつないでいる病人がいては都の財政が逼迫するだけだ、などとほざいたことがあったらしいが、その元知事の豊洲移転問題で記者会見をしているのを陽菜ちゃんの番組のすぐ前にちらっと見たが、なんとも痛ましい姿だ。
 いや玄関先から車までヨタヨタ歩くのはいい。私だっていずれそうなる。しかし会見に臨む心境は、と問われて、果し合い前の侍の心境だ、なんて口だけは達者。そのサムライが言ったのは「私だけの責任じゃない」とまことにみっともない言い訳。かつての最高責任者が言うことか! 武士の風上にも置けない卑怯な言いぐさ。おぬしは侍なんぞじゃない、湘南の元不良の成れの果てだ。会津侍の血を引く(らしい)貞房が言うことに間違いなし。
 さてこれまで翻訳の話と陽菜ちゃんの話と全く関係のなさそうな話題二つを書いてきたが、わたし的には(おゝ嫌だこの言葉!)同じ一つの主題である。つまり簡単に言えば、すべてを、たとえそれが表現上の困難であろうが、生活上の不便や介護であろうが、すべてを前向きにとらえて、できればそこに楽しさ、喜びさえ見つけようとの姿勢である。そこに負け惜しみや無理はない。
 だって一度限りの人生だろ、だったらすべてはその人生の薬味であり滋養であり、無意味なものは一つもないはずだ。

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そういうものだ

*文末に大事な追加があります。

疲れと寒さのダブルパンチか、ここ四、五日ほど腰痛に悩まされている。腰痛といってもギックリ腰のような痛さではなく、上半身をある角度に曲げたときにピリッとくる痛さ。でもこの微妙な痛さが何とも煩わしい。いっそ激痛が走ったほうが……いや、やっぱりそれは困る。
 こういう時だからと、いわば気散じにヴォネガットやブラッドベリのものを読んでいる。ブラッドベリのものは題名に引かれて『社交ダンスが終った夜に』(伊藤典夫訳、新潮文庫、2008年)という短編集だが、最初のいくつかを読んでみたけれど、いまひとつピンとこない。持ってるだけでまだ読んでいない『タンポポのお酒』(北山克彦訳)、晶文社、1991年、55刷)の方が面白そうだ。
 でもヴォネガットの方は期待にたがわず面白い。『スローターハウス5』(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫、2007年、22刷)は自身の戦争体験を「食肉処理場」という物騒な題名のもとに、絶えず時間軸をずらしたり飛ばしたりして描いているものだから、慣れるまでちょっと戸惑ったが、次第にはまってしまう面白さがある。そして場面と場面を繋ぐ呪文のような言葉がたいそう気に入った。「そういうものだ」である。原語では “So it goes.” らしいが、ネットで調べるとこれが何回使われているか数え上げている物好きがいた。103回だそうだ。なるほど、そういうものか。
 なぜこの言葉が気に入ったかというと、わが「平和菌の歌」のリフレイン「ケセランパサラン」と見事に重なっているからだ。Qué serán, pasarán の後に続く como pasarán は私がくっつけたものだが、全体の意味は、「どうなるだろう? まっ、なるようになるさ」となり、「そういうものだ」と同じメッセージを伝えている。つまりそれはけっして投げやりでペシミスティックな意味ではなく、こんな理不尽なことがまかり通っている世の中だが、でも慌てまい、へこたれまい、だって地道に努力していれば、いつか正道に戻るはず、だじろがず、絶望せず、今できることを「しっかりまじめに」やっていこう、というしたたかな気骨を示しているからだ。
 ちなみに「しっかりまじめに」という言葉は、2011年7月30日、奥入瀬(おいらせ)でのばっぱさん最後の誕生祝いの席での短いスピーチを、従弟の御史さんが記録したものの中にあった文言、いわば遺言である。歌詞「カルペ・ディエム」の中にも再録しておいた。

* さすが現役の英米文学教授、立野さんが素晴らしい情報を送ってくれました。つまりヴォネガットの主人公の名はビリーですが、同じビリーでもビリー・ジョエルという実在の歌手に So it goes という曲があり、またもっと古くは人気歌手ペリー・コモの、やはり同じタイトルの歌があるそうです。そしてついでに Let it go が思い浮かび、次にごく自然にポール・マッカートニーの Let it be が思い出された、と言ってきました。
 もちろんすべては別々のものですが、しかし立野さんの言うように、すべてに共通して、「あきらめによる現状肯定や現実追随ではなく、あきらめないエンデュアランス、したたかなオプティミズム」で響き合っています。
 新しい現実が見えてくるのは、このようにそれまでばらばらだったものが、ちょうど一気に磁気が作用して一点を、思いがけない現実を、そして世界を、指し示すからだと思います。十六世紀のバテレンの謎めいた言葉が五世紀後のこの益体もない時代に突然の光と、そして希望を与えてくれたわけです。さあ、皆さんもことあるごとにケセランパサランと唱えて勇気を出しましょう。

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或る私信

以下にご紹介するのは、昨日届いた立野正裕さんから私宛ての私信ですが、読みながらこれはぜひ皆さんにも読んでいただきたいと強く思いました。立野さんに特にお願いしてお許しを得ましたのでそのままコピーします。番外編としてもかなりの長文ですが、最後まで内容の濃いお手紙です。ぜひお読みください。(1月19日、貞房識)


佐々木先生、
 先日、小熊秀雄について書かれたことのお知らせをいただいて、その後すぐに拝見しました。ご案内をいただきながら、返信を差し上げるのが遅くなりました。

 「貧窮と病に苦しんで三九歳でこの世を去ったこの漂泊流浪の詩人に、もしこのつね子夫人なかりせば、おそらく彼の全詩業は生まれなかっただろうし、たとえ生まれたとしても、あの破天荒ながら、しかし突き抜けた先に見えるあの青空のような晴朗さは存在しなかったであろう。」

 つね子夫人のことがすっかり視野から抜け落ちていたわたしなどは、ここを読んであっと思いました。
 これはぜひと思いましたから、ブログをコピーさせていただいて、わたしの若い友人にも送りました。
 返事ないし感想を待ってからお伝えしようと思っていましたが、かれのアルバイトがホテルの夜間勤務で、普段は読書も執筆も比較的容易なはずですが、このところたいそう宿泊客が多いため、なかなか時間的余裕が持てずにいるようです。
 ただ、きょう届いたメールに、「佐々木さんの小熊秀雄についてのエッセイを送付いただきありがとうございます。拝読、感激しました。あらためて感想をのべる機会があれば幸いです」とありました。
 ちなみに友人は『トルソー』発起人の一人で群島の会の同人、創刊号にいくつもの文章を精力的に書いています。コラムは匿名ですがすべて同君の文章です。
 ところで、その二日後に佐々木先生がブログで紹介された米国人マイク・ヘインズさんの言葉にも、わたしは深く感銘を受けました。
 コメント欄に書き込みをさせていただこうとも思いましたが、長くなりそうでためらっておりました。
 取りあえず、手紙でお伝えしようと思いますので、お目とおしいただければさいわいです。

 イラク戦争の従軍経験後、十年もの長きにわたって人前でものを話すことができない状態だったというPTSDを克服し、来日して、あのような平易な言葉で、日本の現状がイラク戦争前のアメリカに酷似してきているとヘインズさんは警告したのですね。
 ヘインズさんの言葉とかれが語る体験は、「愛国心」から戦場に出て行った一人の若者が、現実に味わった苦悩がどのようなものであったか、そしてそれを勇気をもって直視するに至る魂の経緯がどのようなものであったかを垣間見る機会となりました。
 読みながら、いくつかの連想がわたしに生じましたが、まず思い出されたのはクロード・イーザリーのことでした。
 ご存知とは思いますが念のため申し上げれば、イーザリーは広島原爆投下の前に観測機に搭乗し、投下OKと打電した飛行士です。投下成功のあと、他の飛行士らとともに国民的英雄となり、勲章を授与されました。
 しかし、かれはジョン・ハーシーの『ヒロシマ』を読むうち、無差別爆撃による無辜の市民多数の殺害の当事者としての責任を自覚するようになっていきます。やがて強い自責の念に駆られるようになり、「奇行」を繰り返して、自らの虚偽としての英雄性を踏みにじろうと執拗に試みます。
 郵便局やスーパーで万引きや強盗をはたらき、そのつど検挙逮捕されるのですが、「ヒロシマの英雄」と分かるとすぐに釈放されます。しかし同じケチな愚行をすぐにまた繰り返すのです。すべては意図的に行われた犯罪でした。
 困惑した国家はイーザリーから勲章を剝奪する代わりに、かれを精神病院に送り込みました。このことを知った反核運動の推進者でもある哲学者ギュンター・アンダースは、書簡を送って、イーザリーの意図とその「愚行」の根源をなすものに理解を示します。こうして、二人のあいだに頻繁に往復書簡が交わされるようになります。それが一本にまとめられて、ひところは日本でも翻訳がちくま文庫に入っていました。(現在は残念ながら絶版のように見受けられます。)
 その往復書簡集を読みますと、戦争犯罪を回避するための口実として、命令だから仕方なくやった、というよく聞く弁明が良心を偽る以外のなにものでもないこと、人間性をあくまで保持しようとする人間は、必然的に当事者意識に立ち、そしてその意識ゆえに、取り返しはつかないながら苦悩とともに責任の重荷を引き受けようとすること、いったんは命令に従いながらも結局は自らの倫理感を貫こうとすることが、如実にうかがえるのです。
 復員した元軍人クロード・イーザリーによって示された個人としての良心の保持は、かれに勲章を与えて国民的英雄としながら、のちにかれを精神異常者としてあつかった国家の大義とは、根本的に矛盾し、激しく対立するものです。両者のあいだに融和はあり得ません。
 ヘインズさんの場合もまさにそうですね。復員後のヘインズさんの苦悩の根底には、人間であり続けることの条件がなんであるかを人間に明かす、その意味で根源的な倫理が存在しています。
 それから、昨年の早い時期だったと思いますが、テレビのドキュメンタリーで、ウクライナの青年兵士たちを取材した番組をわたしが見たことも、記憶として浮かび上がってきました。一七、八歳のかれらは、ハイスクールを出るとすぐに兵士となったかつてのヘインズさんと、年齢も思考の持ち方もさしてちがわないでしょう。
 戦場に出て行って敵を殺せるかという質問に答えて、若者たちが、命令ならば発砲すると発言していたのが、とくにわたしに印象的でした。命令を至高価値と受け取るかれらは、その従順さにおいて、ほとんど全世界の軍人のそれとなんら変わるところがありません。
 それが、やはりヘインズさんの言葉からわたしに輓近の実例として連想されたことでした。
 命令にしたがって発砲するとき、そこには人間を人間たらしめる基礎、つまり良心と意識は背後に退き、不在かほとんど不在といった人格の希薄な状態になります。その欠落部分を充填するのが、国家のため、名誉のため、栄光のため、という超個人的な徳、しかし人間性をみごとに欠いた「大義」となるわけです。
 ひるがえって近代日本について申せば、日清戦争、日露戦争以来、日本人は右の超個人的大義のために、いかにやすやすと個人としての良心と意識を擲ってきたことでしょうか。アイヒマンを自分とは別個の異質な存在とみなす資格など、ほんとうは大多数の日本人にはないと思います。
 ヘインズさんが指摘するとおり、幻想の敵を誇大宣伝しながらナショナリズムを露骨に標榜するエイブこと安倍晋三と、反イスラームとヘイトスピーチで排外主義の言辞を臆面もなく公言するトランプとは、瓜二つとみなさないわけにはいきません。両者はまるで一卵性双生児のようです。
 しかもこの双子瓜は、現在の世界のように良心の干上がりかけた人心砂漠の炎天下では、政治的高熱のためのぼせ上がればいつなんどき爆発するか分かったものではない危険性をはらんでいます。その点もヘインズさんが憂慮するとおりにちがいないと思われます。
 日米の激化しつつある愚かしいナショナリズムや排外主義に足をすくわれないため、われわれが日本人として人間的な正気を保つ足場となるものは、やはり憲法でありましょう。基本的人権の価値を明記し、戦争放棄を明言した現行憲法のなかにこそ、こういう時代に正気を保つ思想的な根拠をわれわれは見いだすことができると思います。
 しかし、エイブは著書『美しい国へ』のなかで、個人の自由と国家の関係について次のように述べています。

 「個人の自由を担保しているのは国家なのである。それらの機能が他国の支配によって停止させられれば、天賦の権利が制限されてしまうのは自明であろう。」

 唖然とするような愚論です。近代の人権理念の根幹をなすのが「天賦の権利」としての基本的人権ですが、その「天賦の権利」でさえも掣肘可能な国家にエイブは日本を作り替えようと躍起になっているのです。
 しかし「天賦の権利」という言葉を口にしながら、そのじつエイブらにとっては、それはしょせん絵に描いた餅にすぎないとしか見えていないことは明らかです。
 たとえば、現行の憲法でわたしが読み返すたびにことのほか胸を熱くせざるを得ない一条があります。それは、基本的人権の本質を明言している第九七条にほかなりません。そこには次のように書かれております。

 「この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 日本憲法のこの一条ほど、二つの大戦に巻き込まれて非業の死を遂げざるを得なかった世界の幾千万という人々の犠牲の意味を、まざまざとわれわれの脳裡に浮かび上がらせるものはありません。
 エイブら野卑そのものの政治家たちが、寄ってたかって踏みにじろうとしているのは、まさにこの「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」そのものなのです。
 犠牲をことごとく犬死に終わらせるか、それとも人類史における「自由獲得の努力の成果」とみなすかは、かかってのちの世代たるわれわれ次第であると申さねばなりません。なぜなら、われわれは死者たちから「信託」を受けているわけなのですから。
 生き生きとした記憶と感覚と想像力を伴う「信託」あるいは「委託」を通じてこそ、現在に生きるわれわれは過去をあたかもわがことのように受け継ぐことができます。そして同時に、受け継いだものを、来たるべき時代の人々へと手渡してゆく責務があるわけです。
 過去は過去としてあるわけではなく、現在は現在としてあるわけでもなく、未来は未来としてあるわけでもありません。すべてはつながりあるものとして存在します。そうであればこそ、われわれは過去と対話することができますし、未来を構想することもできます。そうであればこそ、過去と未来の遭遇する場所として、現在を現在として見つめるまなざしもまた獲得できるわけです。

 マイク・ヘインズさんの言葉と行動から連想したことどもを書き連ねているうちに、釈迦に説法のようないらざる饒舌を先生のまえで弄してしまいました。どうかご海容をお願いします。

        二〇一七年一月十六日            立野正裕



※ 立野さんが引用しているエイブ(Abe、これは盟友ハビエルさんが教えてくれたように、エイブラハム・リンカーンの「エイブラハム」の愛称で、リンカーンその人は嫌っていたそうだが、自らアメリカの属国首相を任じている安倍には嬉しい愛称のはず)の言葉に総毛立った。この一言で彼の本性が見事あぶり出される。つまり彼は、個人は国家あっての個人であるという、まさに国家至上主義のかたまりのような男なのだ。この事実に気付かない、あるいは気付いても等閑視しているマスコミ、いや国民全体こそいい面の皮。一日も早く引きずり降ろさなければ日本はとんでもない国になる。

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初夢

夢らしきものは毎朝のように起き掛け直前の半覚半睡(この方が言いやすい私の造語、正確には半醒半睡)の中で見るが、新年に入って四日目のものだから正確には初夢とは言えない。しかしはっきり覚えているのは今朝のそれだから初夢とさせていただこう。
 さてその初夢、昨夜床に入る前にハーバート・ノーマンの『忘れられた思想家 安藤昌益のこと』を読んで寝たせいか、しきりに世直しのことを考えていた。いまや世界は、プーチン、習近平、トランプそして安倍と武闘派が跋扈する危険な時代に突入したが、その武闘派に抗して「無闘派」を立ち上げなければ、としきりに考えていたようだ。もちろんこれは一種の言葉遊びで、もっと正確には、わが敬愛する故・真鍋呉夫宗匠の言葉をお借りすれば「不戦」派である(夢の中ではそこまで緻密にダメ出し(?)をしていた)。宗匠は「反戦」という言葉がすでに「主戦」と同じ土俵に上がっているのではないかとのお考えから、それを避けて敢えて「不戦」を選ばれたようだ。病床で撮られたメッセージDVDのタイトル「不戦、だから不敗」にこめられた宗匠の強い意思が胸に響く。
 残された日々最後まで「平和菌」拡散を続けようと考えているのは、原発被災を経験した者として「反原発」を主張することは、間違いなく「反戦」に通じると確信しているからだ。もっとはっきり言えばあらゆる核利用の先に潜む科学への盲目的信仰を撃つためである。
 青年期の一時期、その思想的先見性に感銘した或る思想家が反核運動に対して「科学の進歩を止めてはいけない」といった意味の発言をしたとき以来、彼の思想と決別したが、科学の進歩に歯止めをかけることは本当に許されないことなのか。私からすればそれこそ人間理性が目指すべき叡智への裏切りとしか思われないのだ「パンドラの箱」はいつか、どこかで閉めなければ地球崩壊・人類滅亡に至ることは間違いない。

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実にあざとい!

時事ネタはできれば避けたいテーマだけれど、このごろ時局とりわけ政局にはおかしなことが多すぎる。たまたまテレビのニュースを見ていたら、福島県の内堀知事が中央に出向いて「イノベーション・コースト構想」とやらの助成を陳情したらしい。なんで英語を使うのか、そこがまずおかしいのだが、要するにわれらの浜通りを「ロボットバレー」にするための後押しを求めに行ったらしい。つまり浜通りをシリコンバレー並みのロボットなど先端技術革命のメッカにしたいらしい。(シリコンバレーのように渓谷地帯ではない浜街道が何でバレーなんだよ、アホかいな)
 こんな惹句が作られたようだ。「福島県は、東日本大震災、東京電力福島第一原子力事故に伴う廃炉と向き合い復興を成し遂げるため、新たな産業の創出として、ロボット関連産業の振興に取り組み、『ふくしまロボットバレー』の形成を目指しています。」
 これだけ読むといかにも殊勝な考えではないかと早合点しそうだが、しかしよくよく読むと将来起こるであろう原発事故にも万全の備えをしたい、つまりさすが福島県はとうぶん原発は作れまいが、しかし原発事業を推進する中央政府には逆らいませんという下心見え見えの惹句である。そのためには「災害対応ロボットやインフラ点検用ロボットの研究開発を行っている企業、大学、研究機関等の事業者に対して、福島浜通り地域の橋梁、トンネル、ダム・河川、その他山野等オープンスペースを、実証実験の場として提供します。」と来た。
 ざけんじゃない! この美しい浜街道を実験場として提供するだと! よくぞ言ってくれますね。さらに将来的には「医療・福祉(介護施設、病院等)、農林水産業など、仕事や生活の場へのロボット導入を推進します。」だと。またまた、ざけんじゃない!!!ロボットの介護士など見たくもねえや!
 とどめは、「選ぶならふくしま」というこんな勧誘広告までしてけつかる「優れた交通アクセス・優秀で粘り強い人材……」。粘り強い? これまでも東北人を「褒め殺しにする」ための常套句だ。「再生可能エネルギーの推進」という言葉も見られるが、それはあくまで建前であって、本音は「安全・クリーンな」原発推進だろう。そんな神話は3.11で雲散霧消したというのに。
 ええい! 面倒だ、ついでにもう一つ癪の種ニュースを言っちゃえ。
 ヤフーニュースのトップの見出しにこうありました。

「安倍首相、真珠湾訪問へ=歴代初『未来に不戦の決意』―26日から、オバマ氏と慰霊」

 これも実に騙されやすいニュースだ。この間のオバマ広島訪問の返礼というわけだろう。「不戦の決意」だと? 本当に不戦の決意だったら、あの「戦争法案」は何のため? オバマもあの原爆慰霊碑前で「感動的な」メッセージを読み上げながら、背後に核弾頭発進ボタンを詰めた黒カバンがちゃんと用意されていたのと同じで、首相の言う「不戦」はただアメリカとは戦わないというごく仲間内の約束でしかないことは見え見えだ。日米同盟という仲良し同盟の確認に過ぎない。
 実にあざとい(誰が? 言うまでもあるまい)、つまり小利口。中国語に訳すと「小聡明」。利口・聡明のつもりらしいが、見る人が見れば「小芝居」に過ぎない。彼のパフォーマンス好きは死ぬまで治るまい。
 鞍馬天狗じゃないが、「杉作、日本の夜明けはまだまだ先じゃ。おさおさ油断するでないぞ!」
(チキショウ! 今日も貴重な豆本作りの時間がこんなヨタ話で潰れてしもうたわい。)

※どうしても言っておきたい追記
 私がなぜロボットという言葉に異常なまでの反応を見せるか、については、必ずや阿部さんが見付けてくれるはずだが今回は私が先陣を承って指摘しよう。昨年十月三十日の「狂夢にまつわる三題噺」にこう書いている。

「ここで思い起こされるのは、ロボットという言葉の生みの親、小国チェコが生んだ作家カレル・チャペック(1938-180)である(robot の語源はチェコ語で「賦役」(強制労働)を意味する robota らしい)。人間のエゴイズムと科学技術の安易な結合の産物たるロボット物語は、実は人類の危機を予想した警告の書ではなかったのか。近代の価値観、その科学崇拝の最先端の継承者たる小国ニッポンは、原爆投下と原発被災という二重の悲劇を経験したというのに、未だにバラ色一色の未来図しか見ていない。」

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ボヤキ三題

詳しく見てたわけではないが、テレビのニュースで、生徒児童に勉学をうながすスマホ(?)用のアプリ(?)が開発されたそうだ。あゝそう、といった感じで見ていたが、しかし後から考えてだんだん腹が立ってきた。どうもこれは、子供たちが勉強しなくなってきたとのクレームが出る前に、いいとこ見せようとしたのとちゃう?
 なんと良心的だこと、と最初は感心する向きもあろうが、要するにそれだけ子供たちの生活にケータイだかスマホだかが(私にはいまだにその違いが分からない)深く食い込んでいるということで、考えるまでもなくそのこと自体恐ろしい事態なのだ。つまり親の領域にまでスマホが割り込んできているということ。そのうち親に代わって子に説教を垂れるスマホが登場するだろう。誰がたくらんでいるのか分からないが(誰が、というよりこれまで再三警告してきたように、広く言えば〈近代病〉、もっと具体的に言えば進歩・発展幻想)、こうして人々は徐々に機械に支配されていく。つまり自身ロボット化していくわけだ。
 以前から書いたり言ったりしてきたことだが、長い目で見れば、これは原発事故で飛散した放射線よりも恐ろしい。なぜなら体を蝕まないかも知れないが、もっと内面の精神を蝕むからだ。
 ところで「…ちゃん! お使いに行ってこー!」とか「…ちゃん! も少しで父ちゃんかえってくっからそろそろ風呂炊いとけよー!」という母ちゃんの命令に、「いま勉強してるのーっ」などという言い訳が効くのは最近のことで、昔は決して勉強が言い訳になんぞになりませんでした。だから見なさい、二宮金次郎さんは薪を背負いながら本を読んどった。以前にも紹介したが、ゲーテは『伊太利紀行』の中で、よちよち歩きの幼児までが家計の助けにと木っ端集めをしてるナポリの光景に感動してました。
 誤解してもらいたかないが、私は何も国粋主義者のように修身を復活させよなどと言っているのでもないし、貧困を称賛してるわけでもない。言いたいのは現代日本はNTTやKDDI(両社の関係も良く分からんとです)、そして任天堂などの、知能指数は高いかも知れないが人間的には単細胞の開発業者によって支配されているも同然だということ
 ちょっと下品な言葉だが、ほんとそのうちそうした業者たちに「ケツの毛までむしり取られ」ますぜ。喜劇的いや悲劇的なのは、ケツの毛までむしられているのに、その自覚症状がないことだ。
 風呂で思い出しました。昔はどんな家でも風呂は木や石炭で沸かしてました。だから私など、中学生のころまで月に二度くらい、兄貴と近所の材木屋さんとか工場(確か箸工場がありました)にリヤカーでバタ材をもらいに行ったものです。あらバタ材ご存じない? バタ材とは丸太を製材したときに出る一番端の、皮が付いたままの状態の板です。工場などからそれを安く分けもらったものです。その頃の風呂は故障など無縁でした。
 ところが今ではすべてガスや石油や電気の給湯器で、焚口で薪をくべなくとも全自動です。でもいまの電化製品すべてと同じく、故障するともうお手上げです。実は我が家の給湯器も最近ひんぱんに故障するようになって、その度に福島市から修理人に来てもらってます。三日前ほど前もお湯の出が悪くなって修理を頼んだのですが、その人は修理のたびに出張費や技術料をいただくのはシステムだから仕方がないけど心苦しい、そろそろ買い替えた方がいいですよ、と勧めてくれました。どんな製品でも10年から12年でガタが来るそうです。
 ガタが来ないような製品をなぜ作らないか、ですって? 適当にガタが来るように作らなければ商売にならないからですよお役所もその辺のことは了解済み、というか当然のこととして認めているようです。なぜって国民より国の発展が大事なんですから。こうしたカラクリを天野祐吉さんが『成長から成熟へ――さよなら経済大国』(集英社新書、2013年)の中ですっぱ抜いてますが、ともかく職人気質は遠い過去のことで、いまどきは便利で多機能の製品を作ることにかけては冠たる日本ですが、堅牢さに関しては昔の比ではありません。
 最後のボヤキ。先日クリニックでのいつもの検診で、糖尿病の方の数値は落ち着いてますが、今回はちょっと血圧が高いです、と言われた。そんなことを言われたのは初めてなのでびっくりしましたが、ただなぜ血圧が高かったのかは説明がつく。クリニックに行く前に例のAUでケータイ買い替えのことなどで興奮したまま駆け付けたからだ。でも気にはなった。それでアマゾンで安いデジタル血圧計を調べてみた。上腕に巻くやつと手首に巻くやつと二通りあるらしく、値段もピンからキリまで。見てるうちに疲れてきて、同時に馬鹿らしくなってきた。これは放射線の線量計と同じで、気にし始めると止め処(ど)がなくなるぞ、と分かってきたからだ。もともと血圧はいろんな要因で高くなったり低くなったりしているもん。それをいちいち気にしてチェックしてたらどうなる?
 人間の体、注意してればいろんな信号を出している。今でも思い出すと怖くなるのは、こちらに越してきて間もないころ、後頭部から首筋にかけてやけに痒くなり、それを掻いてたら膿疱状態になり、しばらくティッシュを当ててたら、まるでジャングルを逃げ回る敗残兵みたいで、さすがに怖くなった。それでクリニックに行く気になり、そこで初めて自分が糖尿病になっていたことを知った次第。もちろんこれでは遅すぎ。痒くなった時にすぐ医者に診てもらうべきだった。要は注意してやれば、体はきちんとシグナルを出しているということだ。
 特にこの歳になって、長らくご苦労をかけてきた愚かな兄弟(中世の聖者たちは自分の肉体をそう呼んだ)を大事に労わってやれば、それなりにいろいろ教えてくれるはずだ。だから…デジタル血圧計は買わないことにした。

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ビッグ・ブラザーの治世

一昨日、私学振興・共済事業団から平成28年度分扶養親族等申告書にマイナンバーを記載せよとの通知があり、びっくりした。つまりもともとマイナンバー制に反対だったから送られてきた申請書類など一切無視して来たのに、いったいいつからこのように義務化されたのか青天の霹靂だったからだ。
 あわてて上出弁護士に問い合わせたところ、すでに住民票を基にマイナンバーそのものは確定していて、様々なところで記載が義務づけられているそうだ。たとえば交通事故の示談が成立して保険会社に報酬を請求する時にもマイナンバーを知らせないと手続きが進まないという事態になっているという。ご自身もマイナンバー制に反対の上出さんは、時代はまさにジョージ・オーエルの『1984年』の世界になってきたと嘆いておられた。ただしマイナンバーカードを申請するのでなければ、市役所で個人番号記載付きの住民票を申請すれば自分や家族の個人番号は分かる、と教えてくれた。
 なるほど、政治家や役人どもは来年一月の本格始動めざしてシュクシュクと準備してきたらしい。人間を記号化するこうした制度はマイナバーだけでなく社会のあらゆるところに現実化している。でもそれは何のため? 簡単に言えば国民を為政者の都合に合わせて統治しやすくするためであることは間違いない。彼らの究極の理想は、戦時中の国家総動員令とまではいかなくとも、少なくともその手前くらいまで進めたいのであろう。詳しく報道を見てなかったが、熊本地震のとき、災害時の緊急対策条例のことが話題になったようだが、時の為政者が超法規的な統制に乗り出すことに我々はもっと敏感にならなければならない。
 あらゆるデータを一元化することは、為政者にとっても好都合であろうが、しかし犯罪者にとっても格好の餌食になるということである。詳しくは知らないが、はやマイナンバー・データ流失事件が報じられているようだ。先日も、マイナンバーではないが、何万人にも及ぶ高校生の成績データが、無職の17歳少年によって盗み出されたらしい。データ化し記号化することによって事務的には効率が上がるが、しかしそこにはこうした危険が付きものだし、生身の人間の姿が次第に希薄になっていく危険が常に、必然的に付着する。
 以前書いたことだが、家のばっぱさんの死をめぐっての市役所や銀行などの対応で愕然としたのは、佐々木千代という生身の存在が数字や文字に限りなく矮小化されていることだった。こんな小さなコミュニティでもこうした非人間化の動きは加速している。そのうちいつか人間も、出生時にマイナンバー入りの微小なチップを体内に埋め込まれる時代が来るかもしれない。そんな馬鹿な、と言われるかも知れないが、効率化という進歩幻想に骨がらみになった人間の行きつく先は案外そのあたりかも知れない。
 オーウェルの描く仮想国オセアニアでは、国民の記号化が進み、国中いたるところにテレスクリーンが設置され、『ビッグ・ブラザーがあなたを見守っている』というキャッチフレーズと共に、カイゼル髭の生えた壮年男性がテレスクリーンに映し出されている。もちろん「見守っている」は「監視している」ということである。
 人間の記号化と並行して、いまやある程度までの判断能力を備えたロボットの開発が急ピッチで進んでいる。人間の労働力不足を解消するためという大義名分が用意されてはいるが、しかしこれは原発の場合と全く同じ経路をたどって、たやすく戦争の具に転用される。ロボットとコンピュータによる世界戦争勃発の日が近い将来やってこない、とだれが保証できる?
 すでに事態は正常な分限を超えている。ここでブレーキを掛けなければ、間違いなく人類は絶滅し、そして世界は破滅する。おのおのがた、油断めさるな、日本の、世界の最後は近づいてるぞよ!!!
 なんだか暗い気持ちになってきたので、この辺でやめよう。ところで例のマイナンバーのことだが、年金受領のために背に腹は代えられないので、昨日市役所で個人番号記載付き住民票を大枚200円払って無事受領してきた。窓口のお姉ちゃんには何の罪もないので(?)、「平和菌の歌」5冊を進呈してきた。せめても平和菌をばら撒くことしかおいらの抵抗手段がないからだ。みーじめ鳥飛んでいく南の空に、ミジメー、ミジメー!(古ーい古いギャグです)

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アベノシアタ―

寝ようと思った矢先、今回のオバマ広島訪問についての、二つの全く対蹠的な論評が目に入り、どうしても紹介したくなった。全文引用という異例の形をとるが、緊急のこととして寛恕願いたい。
 ほとんどの日本人が、というより報道機関が、今回のオバマ大統領広島訪問にただただ感動し、その名演説にころりと参ったようだ。遠来の客を温かく迎えるという日本人の美質発揮というところだが、またその美質は日本人の根本的な欠点にもなりうる。ともかく弱いんだなこういうムードに。自ら手掛けた今回の「歴史的偉業」に今頃安倍首相は大満足していることだろう。このアベノシアターを海外の著名日本人も絶賛している。今晩のネット版朝日新聞にはローマ帝国研究で名高い塩野七生がこんなことまで言っている。


★オバマ氏に謝罪求めぬ日本、塩野七生さんは「大変良い」

聞き手 編集委員・刀祢館正明
2016年5月25日06時49分

 あの人は今、どう受け止めているだろう。オバマ米大統領の広島訪問が近づくなか、作家の塩野七生さんの考えを聞きたくなった。ローマの自宅に電話したずねると、「日本が謝罪を求めないのは大変に良い」という答えが返ってきた。塩野さんが思う、米大統領の広島訪問の迎え方、とは。

――オバマ大統領が被爆地・広島を訪問することを知ったとき、まず、どう感じましたか。
 「知ったのは、ローマの自宅でテレビを見ていた時です。画面の下を流れるテロップでのニュースだったけれど、それを目にしたとたんに、久方ぶりに日本外交にとってのうれしいニュースだと思いました」
 「特に、日本側が『謝罪を求めない』といっているのが、大変に良い」

――どうしてですか。
 「謝罪を求めず、無言で静かに迎える方が、謝罪を声高に求めるよりも、断じて品位の高さを強く印象づけることになるのです」
 「『米国大統領の広島訪問』だけなら、野球でいえばヒットにすぎません。そこで『謝罪を求めない』とした一事にこそ、ヒットを我が日本の得点に結びつける鍵があります。しかも、それは日本政府、マスコミ、日本人全体、そして誰よりも、広島の市民全員にかかっているんですよ」
 「『求めない』と決めたのは安倍晋三首相でしょうが、リーダーの必要条件には、部下の進言も良しと思えばいれるという能力がある。誰かが進言したのだと思います。その誰かに、次に帰国した時に会ってみたいとさえ思う。だって、『逆転の発想』などという悪賢い人にしかできない考え方をする人間が日本にもいた、というだけでもうれしいではないですか」

――悪賢い、とは。
 「歴史を一望すれば、善意のみで突っ走った人よりも、悪賢く立ちまわった人物のほうが、結局は人間世界にとって良い結果をもたらしたという例は枚挙にいとまがありません」

※ 残り:2732文字/全文:3498文字とあるので、この先何を言っているのか分からないが、まあこれだけでも十分だ。
 このばあさん、権謀術数の渦巻くローマ帝国研究の挙句の果て、完全にマキャベッリ流の政治力学に骨がらみになったらしい。もう一人の、とろんとした目が魅力的な(と自ら思っているらしい)右翼の論客・櫻井よしことどっこいどっこいだ。
 このままでは腹が立って寝られないなと、さらにネット渉猟して、やっとまともな論評を見つけた。それが次の「毎日新聞」の記事だ。


元広島市長の平岡敬氏 (88) に聞く

 オバマ大統領は再び「核兵器のない世界」に言及したが、手放しで喜んではいけない。米国が「原爆投下は正しかった」という姿勢を崩していないからだ。原爆投下を正当化する限り、「核兵器をまた使ってもいい」となりかねない。私たちは広島の原爆慰霊碑の前で「過ちは繰り返しませぬ」と誓ってきた。原爆を使った過ちを認めないのなら、何をしに広島に来たのかと言いたい。
 日米両政府が言う「未来志向」は、過去に目をつぶるという意味に感じる。これを認めてしまうと、広島が米国を許したことになってしまう。広島は日本政府の方針とは違い、「原爆投下の責任を問う」という立場を堅持してきた。今、世界の潮流は「核兵器は非人道的で残虐な大量破壊兵器」という認識だ。それはヒロシマ・ナガサキの経験から来ている。覆すようなことはしてはいけない。
 「謝罪を求めない」というのも、無残に殺された死者に失礼だ。本当に悔しくつらい思いで死んでいった者を冒とくする言葉を使うべきではない。広島市長と広島県知事も謝罪不要と表明したのは、残念でならない。米国に「二度と使わない」と誓わせ、核兵器廃絶が実現して初めて、死者は安らかに眠れる。
 オバマ大統領は2009年にプラハで演説した後、核関連予算を増額した。核兵器の近代化、つまり新しい兵器の開発に予算をつぎ込んでいる。CTBT(核実験全面禁止条約)の批准もせず、言葉だけに終わった印象がある。だからこそ、今回の発言の後、どのような行動をするか見極めないといけない。
 広島は大統領の花道を飾る「貸座敷」ではない。核兵器廃絶を誓う場所だ。大統領のレガシー(遺産)作りや中国を意識した日米同盟強化を誇示するパフォーマンスの場に利用されたらかなわない。【聞き手・寺岡俊】

※ よくぞ言ってくれました。そういうことです。現広島県知事と広島市長は謝罪を求めないという声明を出したらしいが、それじゃ冥界に眠る原爆犠牲者たちの霊は浮かばれまい。謝罪を求めない、ということを私的な見解として持っているのは自由だ。しかし公的な声明まで出したとなると完全に行き過ぎ。これもアベノシアター演出上の要請に応えたものとしか考えられない。平岡さんの言う「貸座敷」のための塵払い役を自ら買って出たわけだ。やってくれるよ、まったく。でももう寝ようっと。

※ 翌朝の追記  アベノシアター(最初ドラマとしましたがそんな高尚な骨格を持っていないのでシアターと言い換えます、それもお涙頂戴の陳腐な股旅物しか演じられない芝居小屋です)のもう一つの舞台であった伊勢神宮、これも悠久の昔からひたすら平和を祈願してきた神聖な場所ならまだしも、戦時中は国家神道の聖地としてひたすら戦争賛美に加担していたことをを思うと、まさにアベノシアターの舞台にふさわしい。本当は靖国神社もアベノシアターの舞台にしたかったのかも知れないが、そこまでの勇気はなかったので次善の策を講じたのかも。

※ 翌々日の再追記 経済のことはまったく分からないが、今朝の新聞各祇を見ると、G7本会議でもやたら経済危機を強調した安倍の独り舞台だったようだ。要するにアベノミクスの失敗を糊塗するために小芝居を打ったわけだ。まさにアベノシアター、だからタイトルを「二つの論評」から「アベノシアター」に換えます。

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済州島に渡った豆本

このところ週一のペースになってきた。特に理由はないが、これまではせっかくアクセスしてくださる方にお応えしないと悪いのでは、という健気な(?)気持が働いていたが、何人かの友人以外はただ通り過ぎるだけなんだと気づいて(気づくの遅いっつーの)、それなら本来のペース、つまり書きたいことが溜まって何とか吐き出さないと苦しくなった時だけ書こうという気になったまでだ。
 それでは今は? 書くのが気が重いのだが、まったく無視するわけにいくまい。つまり現在進行中のサミットとかいう見世物についてだ。経過を逐次追っていたわけではないが、テレビを点けると嫌でも目に入ってくる。今日は客人が石橋を渡った先に安倍が待ち受けるというなんともクサイ演出のパフォーマンスに出くわした。いや時と場合によっては実に感動的な場面にもなりうるはずだが、なにせ前提条件が悪すぎる。安部については今更言うもでもないが、オバマにしてもせっかく広島詣でをする気になったのはいいが、原爆投下に対する謝罪はしないという。哀悼の意を表する? 自然災害の被災者に対してならそれでもいいが、明らかに人間が、人間の意志が犯した犯罪なのだ。誰かが飛行機に積んできた原爆を広島に、そして長崎に落としたのだ。原発事故も(おっとこれは日本の為政者たちのことだが)いつのまにか自然災害の扱いをしている。「心からの哀悼の意」など言葉のマヤカシ・ゴマカシ以外の何物でもない。地下に眠るたくさんの犠牲者たちの無念さを思うとやりきれない。まっ、もともと外交なんてものはこんなもんなんだろう。もちろんオバマ批判はそのまま何十倍もの勢いで安倍に、いや日本国民全体にはね返ってくる。戦争責任を逃げまくってきた情けない過去そして現在があるのだから
 わが盟友であり良き仕事仲間で、現在沖縄に住んでいるJさんは今日のメールの追伸でこんな叫びを上げている。まさに今のオキナワにいれば当然の怒りである。

立ち上がれ、ウチナーンチュたち!!!!
とぼけるな、安倍!
広島を訪れていい気になるな、オバマ!
金返せ、舛添!

 ここで一息つこう。先日、狭い我が家の庭に見慣れぬ黄色い房状の花が目に入った。もちろんそれ以前からそこに咲いていたのだろうが、改めて気づいたわけだ。はて、何ていう花だろう? サクラ、ウメ、タンポポ、チュウリップくらいしか花の名前を知らぬ私に、突然閃いた言葉がある。ミモザ! どうしてか分からない、この衰えかかった脳髄のどこかにこびりついていた花の名前。

 急いでネットで検索した。間違いなくミモザらしい。去年も咲いたのだろうか、それともいつの間にか飛来した種が実を結んだのだろうか? 全く分からない。ばっぱさんが植えたのだろうか? それも確かめようがない。
 オーストラリア南東部原産の小高木で、日本には明治時代の初めに渡来したそうだ。ミモザの花言葉は豊かな感受性・プラトニックな愛・秘密な恋・友情・神秘・堅実・エレガンス・気まぐれな恋、だそうだ。ちょっと欲張ってない? アカシアの仲間で、日本でミモザアカシアとして呼ばれているものの多くはギンヨウアカシアやフサアカシアで、単にミモザとも呼ばれている。早春に淡黄色の花を枝いっぱいにつけ、丈夫であることに加え、都会的な美しさと香りのよさが親しまれているそうだ。房状につけた小花は明るく華やかなので、枝物の少ない時期には花材として重宝し、春には切り花として、秋には葉を観賞する切り枝として流通し、淡黄色の花は現代的な洋風の生け花に人気があり、樹高は5~10m。開花期は2~4月で鉢の市販期は3月頃だそうだ。
 我が家のミモザはせいぜい3メートルくらいだが、5メートルにもなるんだろうか。それにもうすぐ6月になるというのに。本当にミモザか? なんだか自信がなくなってきた。でもせっかく咲いてくれたんだ、大事にしてやろう。
 では次に爽やかな話題。先週の土曜日は全国的に運動会の日だったようだ。川口の孫たちの学校も、愛の学校も運動会。頴美にもらっていたプログラムを見ながら、すぐ裏手にある第二小学校に行く頃合いを検討し、昼食前の全員リレーを見てくることにした。愛の空色組は愛の出番の時、先頭から大きく離されて4組中3位、幸い愛は抜かれることなく最後まで走り切った。めでたし、めでたし。
 昨日、学校から、その日の感想を生徒本人と父兄のだれかが俳句にせよとのお達し。頴美がおじちゃんに頼みます、と回答用紙を持ってきた。それで急遽、即席俳句をでっち上げた。それがこれ。

   走り終え 息継ぐ子らに 初夏の風

 陳腐かも知れないが、季語を入れたあたり、まあまあの出来、と自負している。苦心したのは「息継ぐ」。
 最後は少しまじめな話。例の豆本歌詞集作り、心配していた通り、急には止まらないで続けている。そんな折、とても嬉しいことがあった。先日或る人から、済州島への旅で一緒になった人に(名前は失念したそうだが)あなたの作った豆本をいただき、特にその「原発難民行進曲」に感動した、とのはがきが届いたのだ。これは嬉しい、わが豆本が済州島まで行ったんだ。こちらからは東京新聞の記事と新たに豆本一冊を送ったところ、今日その方からご丁寧なお便りとYMCAの会報に載ったご自身の記事が送られてきた。それによるとその方は日本基督教団神奈川教区巡回牧師で青山学院大学名誉教授である。お歳は私より十一歳上の大先輩。
 まじめな話といったわけは、その文章を読んで大いに感動したからである。シールズや京大有志の会の言葉より、私と年齢が近いせいか一層身近に迫ってくる。先ほどの日米両首脳への残念な思いを打ち消すためにも、ここにほぼ全文を紹介したい。氏の許可なしだが、すでに公表された(2014年1月)ものだから許して下さるだろう。

戦争を知らない若者よ、戦争に巻き込まれるな

 このごろは〈戦争を知らない大人達〉が、日本の国を〈戦争へ戦争へ〉と追い立てているように思います。第二次世界大戦において300万人の同胞と2,000万人のアジア・太平洋地域の人びとに犠牲をもたらした後、〈戦争を知った大人達〉が痛切な思いを持って新しい憲法、特に〈第九条〉を含めて採択しました。非戦・平和の誓いを含んだ憲法は諸外国から人類の宝とまで評価されたのです。人類史的希望である平和と共生の世界を先取りする形で表明した第九条は、敗戦国日本の唯一の世界史的貢献でありました。これこそが、日本のみならずアジア・太平洋地域における戦争犠牲者の死を無駄にせず、その残された平和への叫びに応答するものに他なりません。
 しかるに最近は、A級戦争犯罪者達をひそかに合祀した靖国神社に日本の首相はじめ、国会議員達が続々と参拝に出掛けています。これではあの戦争を肯定・賛美することになります。日本がかつて侵略した中国や韓国から批判の声が挙がるとすぐに〈村山談話〉(村山富市元首相の戦争責任対する謝罪表明)を持ち出して弁明します。これではいつまでたっても日本は国際的に信頼される国になりません。省みて同じ敗戦国のドイツではナチスの犯罪告発を徹底し続け、大統領がユダヤ人墓地に謝罪の拝礼をいたしました。それ故今はEU諸国での指導性を発揮するに至りました。日本とは正反対です。
 また最近の教科書では〈愛国心〉なるものが強調されています。祖国の罪を隠しながら戦争を美化することが「愛国心」ではありません。祖国の罪を直視し、これを悔い改めて新しく国際社会に平和的に貢献する国になるように努力することこそが、本当の〈愛国心〉なのです。(中略)
 〈戦争を知らない若者達〉よ。この次にやって来るのは徴兵制度ですよ。いやも応もなく国家の命令によって軍隊に入ることになります。第二次世界大戦中、銃弾に当たって戦死した人よりも、食糧も弾薬もなく餓死した兵の方がはるかに多かったのです。〈戦争を知らない若者達〉よ。憲法第九条をしっかり守って、断じて戦争に巻き込まれることなく、貧しい人びと、貧しい国々へ平和と共生の社会を創造するために、君達の若い力をささげてください。

 この方、いま87歳とすると50年前は少壮気鋭の若手教授、とすると22歳の美子が青山でお習いしたかも。美子に確かめられないのが残念。でも明日あたり美子の英文卒論の載った『峠を越えて』を献呈しよう。英語劇などで活躍したから、ひょっとして覚えておられるかも。まさか。
 夕食時にたまたま見ていたBS朝日の番組「それでも私は、デモに行く」で90何歳かのおじいさんが、ずっと毎週金曜の国会前の反原発・反戦のデモにご老体を鞭打って参加している姿を見た。偉い先輩たちがいる。見習わなければ。現在の民放各社がどんなスタンスで政治を見ているのか全く知識がないが、伊勢志摩サミットに合わせての企画だとしたら、お見事と喝采したい。

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地方分教の提唱

気が付いてみたら今月は今日のを入れてまだ五つしか書いてない。そのうちの一つは「お知らせ」だから実質四つか。でもご心配めさるな〈誰も心配などしてないっつーの〉、体調崩しているわけでも(ちょっと疲れてはいるが〉気が滅入っているわけでもない。これでも次々と雑用をこなしながら元気にはしている。そうそう、その間ずっと豆本歌詞集は作り続けてきた。800台の中頃に差し掛かっている。
 でも宛先を明記し、ご所望とあらば無料で差し上げます、という呼びかけに応じてくださったのはわずか数人。あとは無反応のまま電磁空間の闇の中で沈黙を守っている。まっそんなもんだろ。ネット世界は伝播も早いが、具体的な反応へ即座に繋がるわけではない。「あゝ何か書いてるな。ふむふむ。そうだね」で終わってしまう。
 まあ愚痴は言うまい。こちとらはそんな無情の風なんぞに負けてられません。千冊を一応満願成就の目安としてきたが、こうなれば意地、体力が続くかぎり死ぬまで作り続けるつもり。幸い材料費はたいしてかからないし、布切れがなくなれば吾輩の古着でも引き千切って表紙に充てよう。
 しかし作るだけではなく適宜散布しなければならない。郵送の方は一段落したので、今度は来客がある時に適時差し上げることにする。先日も遠路はるばる訪ねてくださったH新聞のH記者に10冊ほど持っていってもらった。
 さて本稿の主題はこれからである。そのH記者から今日あたりかかってくる電話への返答内容がそれである。つまり最近難聴気味で電話ではトンチンカンな答えになるし、バカな不動産などからの電話に辟易して留守電に常時セットしているので、電話インタビューにうまく答えられないから、この場を借りるわけだ。これを情報発信の一元化(?)と称する。
 インタビューの内容は承知している。先日いらしたときに渡された一冊の本についての感想である。本とは文部省著・西田亮介編『民主主義』(幻冬舎新書2016年)である。つまり1948年から1953年まで中学・高校の教科書として、尾高朝雄が中心になって作った本のエッセンス復刻版。
 文字通り読み飛ばしての感想だが、教科書として使われたとあるが、1953年は私の中学2年か3年に当たるが、正直そんな教科書を使った記憶は全く残っていない。もっともその頃は、成績は試験の結果が反映するものという冷厳な事実にようやく気付くという超奥手の子供だったから実際は使ったのかも知れないが。
 それはともかく、読後の最初の印象は、ここに書かれていることはいまでは普通の中学生でも知っているだろうということ。ということはだれでも頭では知ってはいても、さて現実の社会は、そして政治は、その本で諄々と説かれている民主主義から大きく逸脱しているという悲しい現実である。簡単に言えば民主主義なり、その最高法規ともいうべき憲法の精神が日本人の中に血肉化されていないということ。だから日本憲政史上最低とも言うべき現在の為政者たちの正体が見抜けないでいる
 なぜこうなったか、については、今回の原発事故以降、私自身が考え続けてきたことに繋がる。つまり民主主義を血肉化するための最重要な二つのことが一切顧みられてこなかったことに尽きる、と。一つは時間軸にかかわることで、おのれの来し方・歴史認識の欠落。もう一つは、空間軸にかかわることで、おのれの生きる風土(オルテガの言うように、私の半分を作る環境)に対する認識の欠如、つまり真の意味での郷土愛の欠如
 要するに上の二つは深くアイデンティティにかかわるものであり、したがって現代の日本人は自己同一性を亡失したまま漂流しているという悲しい現実である。
 先日お話ししたように、現代日本の嘆かわしい現実からいかにして抜け出せるか、と考えるとき、真っ先に思い浮かぶのは現今の劣化した学校教育の改革である。歴史教育に絞って言うと、日本近代史、とりわけ過誤の歴史をしっかりと教えること、受験用のデータの丸暗記ではなく、祖父母たちの犯した過ちを隠さずに教えること、そして親たちの戦後史の実体を身近なものとして伝えること
 わたし自身の経験から言うと、小学生時代、帯広の小学校で習った十勝開拓史、依田勉三のことなど今でも覚えている。たとえば当地では相馬の歴史などきちんと教えられているのだろうか。
 与えられた宿題を大きく逸脱したかも知れませんが、最後にいまの問題に関連して一つ申し上げたいのは、真の民主主義を血肉化させるためには、地方分権というときに従来全くと言っていいほど触れられなかった最重要の問題、つまり自家製新語を敢えて使わせてもらえば、地方分教、つまり地方独自の教育の実践である。日本全体、まるで金太郎飴製造機みたいに一律の教科内容を教え込んで何の個性化か? 互いの個性を尊重し理解するために貴重な素材や機会をこそぎ落とした教育などやめてもらいたい。そのためには文科省の解体同様の全面的改革が必須だが、その覚悟がないのに民主教育の普及など、フロスト警部の言い草を借りると「屁のつっぱり」にもなるまい。
 今日は盛り沢山の内容になってしまったが、ついでにちょっと嬉しい予告。今度の日曜(5月1日)の朝日新聞日曜版(グローブ)に美子の婚約時代の写真が載るかも知れません(ひと月遅れのエプリル・フールでなければよろしいのですが)。お近くにあったら是非ご覧ください。認知症でなかったら、どれほど美子が喜んだろう、と考えると少々複雑な気持ちですが。

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それでもわたしは…

或る新聞が豆本歌詞集にも触れた記事を出してくれるというので、正直いささかの期待を持っていた。第二面に写真入りで、しかも問い合わせ先のメール・アドレスやURLまでつけて大きく報じてくれたのだが、反応は少なくとも私のところにはこれまで一切届いていない。豆本が欲しいと殺到するかもしれぬ(まさか!)ので、その節は応援頼むと伝えた友人などには「大山鳴動ネズミ一匹」の可能性大だからあまり期待していないが、とは言っていたが、ネズミ一匹さえ出てこないことにかなりがっかりしている。
 だいいち(ほら矛先が変わったぞ!)このブログを訪ねてくださる方からも、数人の友人以外、これまで何の問い合わせもなかったのだから、他は推して知るべしなんだが…
 でも「喝采」のちあきなおみではないが、「それでもわたしは 今日も平和の歌 うたってる」。
 現在632個。その製造技術も少し上達して、縦8センチが今や7センチと、どこかの国の弾道ミサイルよろしく小型化も進んだ。
 反応の無さにがっかりはしているが、しかしだからなお一層、この老躯に鞭打って、当初の目標千冊などみみっちいことを言わないで、生涯作り続けようとさえ、いまは思っている。つまり日本中(世界中はちと無理)を平和菌で埋め尽くしたいわけだ。どこかの反原発集会あるいは安保法制撤廃のデモかなんかで、「おや、あなたの胸ポケットにちょっと覗いているの、それ『平和菌の歌』とちゃう?」「あっ君も持ってるの?」なんて具合に、平和菌感染者同志がデモで出会うなんて場面を夢想しながら…
 ついでに言うが、最近のニュースで少しばかり嬉しいのが一つあった。それは今春卒業する防衛大学生の任官拒否が昨年の二倍になったことである。関係者は、これは民間企業が好調で就職受け入れ先が増えたからだろう、なんて誰にもウソと分るとんまな答え方をしている。もちろんこれは例の安保関連法案成立を受けての賢い卒業生の選択の結果である。NHKでさえ(だからこそ?)任官希望の父兄たちからのコメントは報じるが、任官拒否学生の父兄のコメントは一切報じていない。報じられないのであろう。また国費で四年間勉学した義理もあって、本人たちも明言を避けるであろう。ともかく「考える」若者が少しでも増えたことを諒としたい。

※ところで気になさってる方がいらっしゃるかも知れないので(そんな人いないぞーっ、との野次が聞こえてくる)、もし平和菌拡散に協力していただけるなら、豆本歌詞集無料で喜んで差し上げます。ただ希望者が多いかもしれませんので(それ杞憂ってやつ、ともう一つの野次)、豆本自体は無料ですが郵送用の切手を同封していただければありがたい。1冊なら通常料金の82円切手、10冊なら定形外郵便で250円くらいになります。宛先は
〒975- 福島県南相馬市 佐々木孝 です。 よろしく。

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老テロリストのつぶやき

このところ暇を見つけては例の豆本歌集を作っている。病妻の側で外出もせず、ひねもす背をかがめてなにやら細かい手仕事をしている老人の姿は、我ながらあまりぞっとしない光景だが、他人が見たらなおさらその感を深くするであろう。もしかして、いや確実に憐憫の情を催すに違いない。
 でも見る人が見たら(?)政府転覆を図って、なにやら危険な作業をしているの図と見えるかも知れない。現に、T新聞のSさんは「平和菌をばらまくとは、佐々木さんらしいというか、現政権がいやがるような大いなるテロリストですね」とメールしてきた。さすが現役ばりばりのジャーナリストである。
 今回はこの尻馬に喜んで乗せてもらおう。そう、私が作っているのは、歌集とは表向き、実は政府要人を狙う弾丸作りなのだ。そら見てご覧、紙と布そして糊は時間が経つにつれ、火薬と鉛に変化する。ただしこの弾丸の殺傷能力は限りなくゼロに近い。つまり相手の体内に入ると、血液中に溶解する。あとは「平和菌」の歌詞にあるとおりの効果を徐々に発揮する。
 だったらいいな!
 ところでもう一つ元気が出るような話をご紹介する。今日の便でラテン・アメリカ文学者でガルシア・マルケス研究家の米谷勲さんから大きな、しかし薄手の茶封筒が届いた。何だと思って開いてみると、「みすず」2016年1・2月合併号「読書アンケート」の部分コピーである。赤線が引かれた箇所を見ると、ドイツ文学者でアドルノやワーグナー研究家でもある三光長治さんが5冊ほど年間の収穫として挙げた中に、富士貞房の『風景と物語の創造――モノディアロゴスXⅡ』(呑空庵、2015年)があるではないか。こう書かれている。

 文章の世界で “野に遺賢あり” とは、まさにこの私家版の著者のような人のことだろう。いろんな意味で「わが党の士」でもある。エクリチュールの端々にいたるまで共感し、ページに棒線を引いたり、ちょっとした感想を書き込みながら熟読玩味した。

 Hurrah!こんなに嬉しい書評もらったことがない!このブログを毎回愛読してくださっているごくごく少数の人はともかく、まさに空を打つように、確かな手ごたえの無いまま書き続けてきたものを、見る人は見ていてくれていたんだ、とありがたく、そして嬉しく思う老テロリストであります ♬♫。

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こっつぁかねぇ

一昨日、とうとう「マイナンバー」とかの知らせが届いた。北海道かどこかで宛先不明だか受け取り拒否だかで何万〈何十万?〉通とかが返送されたとのニュースをネットで読んだような記憶があるが、とうとう我が家にも配達されたか、と一種のとまどいを感じた。中には私と美子のための申請用カード二枚、そして申請の仕方などの説明書が数枚入っている。
 正直に言うと、マイナンバーがどういうもので、もしそれを申請するとどういうメリットがあり、申請しないとどういうデメリットがあるかなど、これまで一切調べもしないし考えてもみなかった。だから「とまどい」よりは不意をつかれて「狼狽した」というのが本当のところである。
 結論から言えば、今回は(?)申請しないことにする。説明書もていねいに読み通すことさえしなかった、というよりできなかった。何かしら心中波立つものを感じ、字面を追うことが苦痛に感じられたからだ。自分に関心のないものには柔軟に対応できないという高齢者特有の心理が働いているのかも知れないが、それ以上に人間を数値化・記号化すること自体に対する本能的(?)な嫌悪感からである。
 ばっぱさんが亡くなったあとに何度か味わわされた、人間を数量化あるいは記号化することのおぞましさに対する怒りがその底流にある。つまり市役所などで、一人の市民の死に対してまっとうな人間の反応が一切無かったこと、(「あのー、その佐々木千代は昨年の正月に亡くなったのですが…」「あ、そうですか、じゃ書類の方訂正しておきます」)、要するに一人の人間が書類上ただの記号に矮小化されていることへの怒りである。「あゝそれはご愁傷様です」という人間らしい反応が見事に省略されていた
 もしもマイナンバー化されれば一つの部署への死亡届けが一瞬のうちに他の部署の書類にも反映されるからそうした見過ごしあるいは間違いは無くなる、という返事が戻ってくるかも知れない。しかしそれが怖いのだ。一人の人間の死が一瞬の操作でいとも簡単に処理されること自体が。
 ましてや今や少子化、人口減少が急速に進んでいる時代。だったらなおのこと、一人ひとりの人間に対してもっとていねいで人間らしい対応が必要ではないのか。今度のマイナンバー制の考えも、簡単に言えば行政側の便宜・効率化が優先されているわけで、市民サイドのそれははっきり言って二の次であろう、いや二の次だ、と断定していい。
 今から考えると、いや考えるまでもなく、あの平成の町村大合併など誠に愚かなことであった。何事であれ、日本という国は国民が為政者側の言いなりになり過ぎている。露骨な言い方で恐縮だが、為政者の言うがままに馴致されている、もっとはっきり言えば体よく家畜化されている
 他国の民生状態、いま流行の言葉で言えば民度(馬鹿な政治家や自称愛国者に悪用される実に曖昧模糊とした言葉)、に関してわが国は法治国家だから云々という言い方がよくされる。確かに犯罪件数は少ないし、人々は親切で礼儀正しい人が比較的多いかも知れない。それは認めてもいい。しかし大震災後の身近なところではっきり見えてきたのは、日本という国がますます非人間的になっていることだった。あの当時しきりに言われた「絆(きずな)」という言葉がいかに空疎で内実を伴わない言葉か、事ごとに思い知らされたのである
 大事なもの、大切なことはすべからく手間がかかる。それを面倒がって簡便に済まそうとすると、何かが、いや大切なものそれ自体が、失われていく
 死んだばっぱさんが生きていたら(とは変な言い方だが)、たぶん今回のマイナンバーのことなど、「こっつぁかねぇ」と言下に吐き捨てたかも知れない。標準語に直せば、「くだらない」。

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新・大衆の反逆

Kさん、この度は拙著『スペイン文化入門』のご感想など、出版社気付で送ってくださりありがとうございます。昨日、竹内社長さんから転送してもらいました。これまで未知の読者からこのような懇切丁寧な感想が寄せられる経験などめったになかったので、大変嬉しゅうございました。感想だけでなく気の付かれた誤植などのご指摘も痛み入ります。幸い(?)すべて索引・ミニ事典に関してのものでしたので、さっそく編者の碇さんにも転送しました。めでたく再版になるようなことがあれば、ぜひ訂正させていただきます。ただし Maeztu に関しては、従来からマエストゥと表記されてきたもので誤植ではありません。
 ともあれこれまでKさんの実体験に裏付けられたラテン気質についての貴重なご意見も興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。ところでその最後にオルテガに高評価を与えている著作として、小室直樹の『新戦争論― “平和主義者” が戦争を起こす』を挙げられ、この著者が誠に興味ある人物であるとコメントしておられます。「興味ある」ということが奈辺を指しておられるのか分かりませんが、彼に関してちょっとだけ私見を述べさせていただきます。
 実は小室直樹という人物について、いちど調べたことがあります。たぶんご指摘の著書に関して、つまり戦争論をめぐってであったと記憶しています。ただその折り感じたのは、戦争は国際紛争解決の究極的な手段であるから、戦争に代わるものを作り出さない限り戦争はなくならない、といったオルテガの主張の、その前段を誇張することによって、オルテガの思想をかなり恣意的に利用しているといった感想を持ちました。こうした傾向は小室直樹だけでなく、例えば三島由紀夫などにも見られます。詳しくは覚えてはいませんが、戦争をしない軍隊は軍隊ではない、といったかなり過激な解釈を施して、現代思想家のうち信用できるのはオルテガだけだと礼賛してました。
 それとはちょっと違った文脈ではありますが、オルテガの『大衆の反逆』を換骨奪胎(したと自負?)して『大衆への反逆』を書いた西部邁についても言えます。つまり高みから大衆を見下ろすという貴族主義的なところに共鳴し、オルテガ思想の一側面を拡大解釈して自論を展開するといった傾向です。でもスペイン人オルテガの貴族主義は日焼けすればその下から庶民が顔を出す態の貴族、逆に言えばゴヤの「裸のマハ(下町の小娘)」のモデルが実はアルバ公爵夫人だったように、もっぱら精神のあり方を意味していて、自宅の庭にロココ風の装飾を施して悦に入っていた三島流の貴族主義とは違うように思います。
 しかしオルテガ曲解はなにも日本に限った現象でありません。本家本元のスペインでも、かつてファランヘ党(ファシズム政党)の創始者ホセ・アントニオがオルテガの政治思想をたくみに取り入れて、その全体主義的体制を補強したことは有名です。オルテガがこうした趨勢に抗して長らく亡命生活を余儀なくされたにも拘わらず、です。
 もともとオルテガには右翼思想に利用されやすい側面があったと言えなくもないのでしょうが、しかし彼の思想をその出発点から辿ってみる限り、それは悪く言えば曲解、良く言っても部分的な拡大解釈だと言わざるを得ません。私個人のことに絡めていえば、そうした表面的なオルテガ像でいちど残念な経験をしたことがあります。もうかなり昔のことですが、或る大出版社から『大衆の反逆』翻訳の打診があったときも、その会社の編集会議のようなところでオルテガ右翼説(?)が出てきたらしく、結局その話が流れるということがありました。
 実はその後、別の出版社が企画した世界思想全集の一巻にオルテガが入ることになり、彼の他の作品と一緒に『大衆の反逆』の翻訳に改めて着手したこともありましたが、今度はその出版社が倒産してしまい(その後その出版社は【新】を冠して再出発しましたが)これまた頓挫しました。『大衆の反逆』翻訳の紆余曲折に触れたので、更に補足しますと、その後、また別の出版社の新訳文庫から依頼されて翻訳の見直しを始めたのですが、編集者と肌が合わず(?)難航しているときにあの東日本大震災に遭遇、思いもよらぬ原発事故被災者になってしまいました。それ以来その出版社から連絡が途絶えたことをいいことにこちらからも一切の関係を絶って今日に至っております。
 しかし捨てる神あれば拾う神あり、とはよく言ったもので、今度は別の出版の可能性が出てきましたが、それにはスペイン政府機関の助成が前提となっており、昨年、一応申請はしましたがその結果は未だに届いておりません。何冊か既訳があることもあって、たぶん駄目だったのかも知れません。こうなれば残り少ないわが人生、いざとなれば私家本で出そうか、といまは開き直っています。
 余計なことをだらだら書いてしまいましたが、しかし今回Kさん宛てのこの手紙にも実は深く関係していることなので、つい筆がすべったわけです。というのは、今回の『大衆の反逆』には本邦初訳の「イギリス人のためのエピローグ」を加えたのですが、それが平和主義についての論考だからです。つまりまだ解説を書き出してもいないのですが、彼がそこで展開している平和主義批判をどう読み解こうか、少し思い悩んでいるところだったのです。ですから小室直樹の新装版の副題が「“平和主義者” が戦争を起こす」となっているのを見て、またか、と思った次第です。
 大袈裟に言えば、事はオルテガ解釈にとどまらず、残り少ない私自身の時間の中で、なんとかおおよそでもその道筋を考えなければならないテーマ、すなわち核兵器を含むあらゆる核利用の廃絶のための闘いにも深く関係しているからです。
 でも国際政治にも政治論にもまったくの素人なので、どこから手をつけたらいいのか。しかし原発問題に対する私の基本姿勢を反戦論にも貫くしかないのでは、とは思っています。つまり塚原卜伝流に無手勝流に、と言えば格好のつけ過ぎですが、要するに素人は素人なりの真っ向勝負を挑もうと考えています。最近、そうした私の考え方に近い二人の先輩を見つけて意を強くしています。一人は御年百歳ながら未だ矍鑠として戦争撲滅のために奮闘しているむのたけじ翁、もう一人は今年三月までウルグアイ大統領であったホセ・ムヒカさんです。両者に共通しているのは、そのメッセージが実にシンプルなことです。正戦は果たしてありうるか、とか、原発の安全は将来可能か、などの議論には深入りせず、単刀直入、ズバリ本筋に切り込んでいるところです。
 話は急に飛びますが、今朝のネット新聞(日ごろから実に右翼的傾向で有名なサンケイ新聞)に小泉進次郎の農林部会長起用に関するこんな記事が載ってました。
「…高村正彦党副総裁は10月下旬、党本部ですれ違った小泉氏の腕をつかみ、副総裁室に招き入れた。高村氏はかねて、小泉氏が復興政務官在任中に安全保障関連法をめぐり、政府や党を批判したことに強い不快感を抱いていた。
高村氏は「政府と党が共闘している最中に、政府の立場にある者が後ろから味方に向けて鉄砲を撃ってはならない」と指摘。「本当に国民を安全にしたいと考えるなら、世論と同じレベルで動いたのではプロの政治家とはいえない。単なるポピュリストだ」などと切々と諭した。」
 いちど権力の座に座ると、民意に耳を傾けようとする者をポピュリスト呼ばわりするという昨今の体制派の汚いやり方です。この伝でいくと、安保法制成立阻止を目指して今夏、国会周辺のみならず全国的にデモを展開した国民運動など無視すべきであるということになり、事実政権与党はそう判断してひたすら沈静化を狙っています。ポピュリズムとは、もともと19世紀末に農民を中心とする社会改革運動で、政治の民主化や景気対策を要求したアメリカやヨーロッパ、ロシアの民主化運動の総称でしたが、いつのまにか「大衆迎合主義」という一点に収斂して使われるようになりました。
 しかし繰り返しになりますが、真剣に民意を探り、それに誠意を持って応えようとしない政治家とはいったい何者なのでしょう? 質の劣化著しい政治家たちの傲慢さ、識見の無さは目に余るものがありますが、その彼らが、これまで政治に無関心であった(よく言えばそうであり得た)多くの国民の初めてと言っていいような意思表示を無視するだけでなく、それを見下すとは滑稽以外の何ものでもありません。
 半ば公開の私信とはいえ少々話が長くなりましたので、そろそろまとめに入りましょう。要するに私が言いたい、そしてこれからの方針としたいのは、オルテガ『大衆の反逆』の西部流換骨奪胎ではなく、まさにオルテガ思想の入魂作業、と言えばちょっと大袈裟ですが、つまりは彼の大衆論の新たな解釈そして展開です。いや新たなと言うより、もともと彼の大衆論に内在した大衆、すなわち彼が鋭く批判した大衆人(hombre-masa)ではなく、スペイン文学・思想の真の主役であった庶民・一般大衆の復権です。言うなれば「大衆への反逆」ではなく「目覚めた大衆の悪政に対する反逆」です。
 『大衆の反逆』を読む者が先ずぶつかる問題は、ところで私自身は果たしてここで批判の対象になっている大衆なのだろうか、それとも選ばれた少数者なんだろうかという素朴な疑問です。三島由紀夫や小室直樹、そして西部邁などは自らを大衆とはっきり一線を画した選良と自負しているようですが、私自身はそこまで自分を買い被るつもりはありません。著書などその一冊も読んだことの無い今は亡き小田実ですが、彼の言った一つの言葉だけは大賛成です。人間みんなチョボチョボナや、です。
 要するに私が目指したいのは、大衆への反逆ではなく、戦争や原発依存などひたすら亡びの道に進もうとするあらゆる動きに対する目覚めた大衆の粘り強い反逆です。原発など核エネルギー利用や戦争に対して反対を表明すると、それは単なる感情論と言われることがよくあります。単なる感情論? 上等じゃないですか。理性は大きく間違えますが感情は間違っても大きくは間違えません。単なる厭戦? 厭戦のどこが悪いのでしょう、敗戦のあと私たちの先輩はどんな理屈を並べられようと、もう戦争はこりごり、と心の底から思いました。原発事故のあと、私たちはどんな生活の利便より、父祖の残したこの美しい自然を汚すような核の利用はもうまっぴら、と心底思ってます。理屈など犬に(ブタでしたっけ?)喰われちまえと思ってます。
 原発推進を画策する人たちは、どうぞ自分たちだけで住める無人島か人工島でも造って、そこでどんどん稼動させればいい。どこに住めばいい? もちろん今まで口がすっぱくなるほど言ってきたように、推進論者の政治家、電力会社のお偉方は全員家族同伴でその島に移住してけつかれ!おっと下品な言葉を使いました、お住みくだされ!と思ってます。
 おやおや話はどんどんエスカレートしそうなので、この辺でそろそろやめましょう。初めてのお便りなのに、思わず長話になってしまっただけでなく、どうやら尻切れトンボになってしまいました。でもこれに懲りずときどきはこのモノディアロゴスや母屋の『富士貞房と猫たちの部屋』を覗いてみてください。それからオルテガについて興味がおありでしたら、『すべてを生の相のもとに オルテガ論集成』という私家本もありますのでどうぞ。
 最後に、もう一度、ご丁寧な感想文をお寄せくださいましてありがとうございました。今後ともどうぞ宜しく。

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狂夢にまつわる三題噺


★その一
 先日、何気なく見ていたテレビ番組で、福島県のどこかで実験的な農業に取り組んでいる人たちの話が取り上げられていた。そのうちの一人が、これからの農業は従来のような経験と勘だけでやるのではなく、科学的なデータの解析によらなければ駄目だろう、とタブレット・パソコンのデータ分析画面を見せながら得意そうに語っていた。そしてその分析結果を搭載した無人小型ヘリ(いま話題のドローンとは違うらしい)で肥料や除草薬を散布するシミュレーションも見せてくれた。
 でも彼には「経験と勘」を失った人間の悲しい末来図が見えないのだろうか。行き着く先は零細農家や小農家がバッサバッサ蹴散らされて、大農家というより大企業が主役に躍り出るであろう。現在ティーピーピーだかピーピーピーだかが話題なっているが、政治家どもの頭に確たる将来設計図が描かれているはずもない。大規模農業と機械化がどんどん加速していくのは時代の趨勢だろうが、「経験と勘」で大地と対話してきた農民の息遣いが聞こえない無人の畑や田んぼ、ただ効率よく搾取されるだけの大地の悲しみと怒りが感じられないのか。
 ここで思い起こされるのは、ロボットという言葉の生みの親、小国チェコが生んだ作家カレル・チャペック (1938-1890) である (robot の語源はチェコ語で「賦役」(強制労働) を意味する robota らしい)。人間のエゴイズムと科学技術の安易な結合の産物たるロボット物語は、実は人類の危機を予想した警告の書ではなかったのか。近代の価値観、その科学崇拝の最先端の継承者たる小国ニッポンは、原爆投下と原発被災という二重の悲劇を経験したというのに、未だにバラ色一色の未来図しか見ていない。
 ロボットがさらに進化して、いまやアンドロイド (SF用語で「人間そっくり」の意) の時代。これもたまたま(しょっちゅうとちゃう?)見ていたテレビのお笑い番組「笑点」で、太っちょのオカマさんのアンドロイドが舞台に上がって漫才の相手役までしていた。あな恐ろし。
 いまや好い年放(こ)いた老人までが産業ロボットに賛嘆し、スマホの新機種発売やスカイツリー見物にも並ぶ時代。新しいものなどに目もくれないで「そったらものいらね!」と意地を見せた老人など今や絶滅危惧種。大きく言えば、この日本から良い意味での保守派が消えている。

※チャペックを生んだチェコだが、近接するオーストリアとドイツからの強い批判にもかかわらず、現在二箇所に原発を稼動させているという。いま生きていたら、チャペックは何と言うだろう。

★その二
今朝のネット新聞にこんな記事が出ていた。

「ロウソク生活、気付けなかった貧窮 茨城3人死亡火災」

 茨城県那珂市で27日朝、焼け跡から3人の遺体が見つかった住宅火災で、この家族が数日前から電気を止められ、明かりにロウソクを使っていたものの、市や近所の人が生活の変化に気づくことはなかった。県警はロウソクが火元になったとみて調べている。
 県警は29日、司法解剖の結果、3人の死因について一酸化炭素中毒と発表した。県警によると、火災があった那珂市戸崎、無職叶野(かのう)善信さん(82)方は5人暮らし。足が不自由だった叶野さん、妻美津子さん(80)、特別支援学校高等部1年の孫娘の美希さん (15) と連絡が取れていない。
 働き手は会社員の18歳の孫娘だけ。電気料金の支払いが滞り、電気が止められた。叶野さんの長女 (48) は調べに「明かりとしてロウソクを使っていた」と話したという。
 東京電力茨城総支社(水戸市)によると、料金を滞納すると、基本的に検針日から55日後をめどに電気を止める。利用者から訴えがなければ、自治体に連絡することはないという。

 格差が、構造的貧困がここまで進んでいるのだ。弱者の困窮などに目もくれないアベ政治、「富国強兵」の狂夢(こんな言葉は無いのかも。でもアベとその一派に貞房から献呈しよう)がもたらした悲しい事件だ。この記事を読んで泣かないヤツなど人間じゃない、アンドロイドだ。とりわけ唯一の働き手の18歳の孫娘と焼死したと思われる15歳の孫娘のことを考えると涙が止まらなくなる。

★その三
 そんなことがある一方で、こんなニュースも同時に報じられていた。

「東京電力、経常利益3,651億円で過去最高益 中間期決算、燃料費低下が奏功」(産経新聞 10月29日 (木) 22時41分配信 )

 東京電力が29日発表した平成27年9月中間連結決算は、経常利益が前年同期比50.4%増の3,651億円と、中間期として最高益だった。原油や液化天然ガス (LNG) の価格下落で燃料費が4,340億円も減少したことが奏功した。
(中略)
 柏崎刈羽原発(新潟県)の再稼働時期が見通せないことから、28年3月期の業績予想は開示しなかった。同日会見した広瀬直己社長は柏崎刈羽原発について「経営安定のため再稼働が必要だ」と強調。再稼働を前提に「値下げを考えないといけない」と述べた。

 それより数日前(26日)、愛媛県の中村知事は四国電力伊方原子力発電所3号機の再稼働 に同意し、地元の伊方町も再稼働に 同意したという。福島と同じ事は起こらない、とほざいたらしい。

 狂ってる! いまの日本、どう考えても狂ってる! 今回の三題噺、「お後がよろしいようで」なんて、絶対に、ゼッタイに言えないぞ!

 憤死寸前の貞房より

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構造的貧しさ

近ごろ嫌なことが多すぎるので、心温まるニュースがあるとほっとする。その一つを下手に要約などしないでそのまま引用しよう。

64年前の少女どこに 再会願い【奇跡信じる】日系2世元米兵

 米ロサンゼルス近郊に住む日系2世の元海兵隊員、ロバート和田さんが、64年前に横須賀市で出会った少女を探している。朝鮮戦争出征前の不安を和らげてくれた思い出が、85歳となった今も忘れられず、奇跡の再会への思いを募らせている。
 和田さんが少女と出会ったのは1951年5月。朝鮮戦争で釜山へ赴く途中、横須賀に寄港した最初の夜だった。
 外出先から深夜に基地へ戻ると、門前で造花を売る10歳ぐらいの少女がいた。少女を案じた和田さんは財布の中身を全て渡して花を買い上げ、日本語で「危ないから、こんな遅くに二度とここへ来てはいけない」と諭した。
 ところが数日後の深夜、また同じ少女が門の前に立っていた。和田さんは再び叱った。
 「ちょっと待って」。少女は、少し離れて集まっていた6、7人の女性の中から母親の手を引いてきた。実は「日本人に似た顔立ちで日本語を話す米兵」に礼を言うため、母親たちは翌日から待っていたという。
 「私たちはあなたが無事に自分の国に戻ることを祈っています」
 母親はそう告げた。女性たちはずっと手を振り続けてくれた。
 出征直前の不安な時だっただけに、和田さんの胸に深い感動が残った。少女から買った花は、任地まで持って行った。
 無事に帰国でき、その後は経営コンサルタントとして成功し、全米日系退役軍人会の会長を務めていた。だが64年たった今でも、思い出は鮮明だ。
 あの時の少女に会いたい―。和田さんがずっと持ち続けていた願いを、ロサンゼルス在住の日系人、クリス三宅さん(63)が聞き、仲介役を買って出た。自らのネットワークで探す一方、9月末までの約1カ月間の来日中、知人を介して神奈川新聞社にも協力を呼び掛けた。
 三宅さんは「名前も知らないし、見つかるのは奇跡だろう。だがその奇跡を信じたい。誰かが覚えていてくれれば」と、和田さんの言葉を代弁し、情報提供を求めている。

[カナロコ by 神奈川新聞 10月12日 (月) 配信 ]

 次はニュースではないが、このあいだスペインの文化人類学者カロ・バロッハの本を何気なく見ていたとき、ゲーテの『イタリア紀行』のナポリの描写を紹介している箇所が強く印象に残った。で、さっそくその箇所を探そうと思ったのだが、そのバロッハの本がなぜか見つからない。隣りの部屋の本棚に収まりきれなくて床に積み上げられたいくつかの山の中のどこかにあるはずなのだが…しかし結局見つからず、それならゲーテの『イタリア紀行』そのものの中から探した方がいいだろうとページをめくっていったところ運よくその箇所らしきところにぶつかった。相良守峯(もりお)の名訳になる岩波文庫版(中)の、1787年5月28日 ナポリにて、の次の文章である。つまりフォルクマンという人の案内書には、ナポリには三万から四万の徒食の輩がいると書かれているが、それは北国人の見方であって、ひどい格好はしていても決して無為の徒ではないと推察しての観察記録である。

 私の主張するところを一そう確実明瞭にするため、もっと詳しい点に立ち入ろう。ほんの小さい子供でさえもいろいろと立ち働いている。そういう子供の大部分は魚を売りに、サンタ・ルチアから市内へ出かけてくる。また他の子供が砲兵工廠のあたりや木屑の散らばっている普請場や、小枝や小さな木片が波に打ち揚げられている海岸で、小さな破片にいたるまで手籠のなかに拾いいれているのをしばしば見かける。やっと大地を這うような二三歳の子供も、五六歳の子供の仲間に入ってこの小さな生業(なりわい)に従事している……

 ゲーテはこのあとさらに貧しい子供たちがいかに健気に、たくましく、しかも楽しそうに働いているかを描写している。

 以上二つのエピソードから何が読み取れるか。簡単に言えば貧しさの中の豊かさ、あるいは貧しさの中の人間的な温かさ、そして感動である。もうどこかで書いたことがあるが、私自身、敗戦後の旧満州で、ばっぱさん(当時は30代後半だったろうか)が収容施設から町へ出て、路傍でラッキーストライクやキャメルなどアメリカ・タバコを売ったり(今でもその図柄を見ると不思議な懐かしさを覚える)、壷に入った唐辛子汁(?)を戸別に売り歩くのについていった経験がある。また引き揚げてきてからも、あの当時は一種の流行だったのだが、小三から小四にかけて、朝、学校に行く前に、手籠に入れた納豆を売り歩いたこともある。売上金の十円銅貨がまるで宝石のように輝いていたことを今でもはっきり覚えている。
 今じゃ小学生がアルバイトするなんて考えられないだろうが、皆が貧しかったあの当時、子供が働くことに何の不思議もなかった。十八世紀末のナポリほどじゃないが、小さな子供もそれなりの才覚を働かせて家計を助けたのだ。そして学校で学ぶこと以上の人生の勉強をしていた。ところが現代の子供たちは、一律に、機械的に、その多くは生きるために特に必要でもない知識をやたら詰め込まれて窒息しそうになっている。空き地でボール遊びをする男の子たちや、路地裏で茣蓙を敷いてのままごと遊びをする女の子たちの姿もめったに見られなくなった。言うなればこれは豊かさの中の貧しさである。
 しかし最近、状況は少し変化しているようだ。先日も或る中学校の教師から聞いたことだが、いま貧しい家庭の子が増えているそうだ。世はアベノミクスとやらが喧伝され、いかにも景気が良さそうだが、それは大企業や一部の金持ちたちのことで、大多数の庶民の生活はかなり苦しくなってきている。つまり経済的格差が広がっている。しかし現在の貧しさはいわば構造的な貧しさであって、かつてのような貧しさの中の豊かさは望むべくもない。
 85歳になるかつての老兵にとって、64年前のあの貧しい花売り娘との出会いは、まるで闇夜を照らす探照灯のように以後の彼の人生を照らし続けてきた。言うなればかつての花売り娘の貧しさが彼の人生を豊かにしてきたのだ。人生の三苦(老・病・死)を避けようと四苦八苦してきたわれわれだが、実はそれら三苦こそが同時に人間の尊厳性を、そして情けと友愛のきっかけにもなることを忘れていはしまいか。恥ずかしながら、今までばらばらだった我が家も、今回の嫁の発病をきっかけに一気にまとまりを見せ、互いを思い労わる気持が高まっているのもその真実性を証明しているだろう。
 人生の最終コーナーにさしかかって、柄にもなくそんなことを思う最近の貞房でした。

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反戦の思い新たに

今朝(11日)の「毎日新聞」ネット版によると、「日本政府は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に【南京大虐殺】が登録されたことを受け、登録申請した中国政府に抗議するとともに、制度に不備があるとしてユネスコに改善を求める方針」と出ていた。
 また別のニュース筋では自民党の片山さつき国際情報検討委員会委員長代行は、夕刊フジの取材にこう明言した。「中国の記憶遺産申請は政治的利用であり、記憶遺産の本来の目的を逸脱している。このような理不尽な登録が行われた場合、分担金の支払いを留保することも考えていいのではないか」 日本政府筋も「断固たる措置を取る」と語った。
 またもや繰り返される醜い、そして分担金留保をちらつかせるなど意地汚いわが国の反応。従軍慰安婦問題のときと同じ、ただ見栄とその場しのぎの、まったく倫理性の欠如した対応。被虐殺者の数が30万は根拠がなく、したがって捏造である、という論理は乱暴かつ幼稚極まりない詭弁であり言い逃れに過ぎない。たとえそれが十分の一、いや百分の一であったとしても、その残虐非道さ、しかも皇軍の冒した罪、を言い逃れることは不可能である
(3という数字から連想して、実質0.3丈【1メートル】くらいを「白髪三千丈」【李白】と表現する中国人にしては30万は少ないくらいだと言ったら、あまりにも不謹慎な冗談だと咎められるだろうが、しかし大虐殺の数日間だけでなく、そして兵士だけでなく、数多くの民間人がその前後に殺されたという記録もあるので、30万という数字はそれほど誇張されたものではないだろう。繰り返しになるが、その数字を盾に取って、虐殺の事実そのものを否定しようとすることの反倫理性をこそ恥じなければならない)。
 そんな折りも折り、少し遡って昨夜(10日)のことだが、東京のMさんから今晩、つまり昨晩11時からEテレで、むのたけじさんのドキュメンタリーがあるとのメールが届いた。戦時中の報道姿勢の責任を感じて敗戦後即座に朝日新聞を辞し、郷里秋田に帰り、以後「たいまつ」という地方紙を立ち上げ、その反戦の思想を貫いてきた反骨のジャーナリストのことである。3冊ほど彼の著作を持ちながら、今までじっくり読むことを怠ってきたが、その彼が100歳の今も矍鑠(かくしゃく)として執筆・講演に(さすがに週刊紙は休刊したらしいが)活躍しているという。これはぜひ観なければなるまい。
 ところがその少し前の九時から、NHK総合で日本に帰化したドナルルド・キーンさんの特集が放映されるというので、それを初めから終わりまで観た。原発事故のあと東北での彼の講演や憲法九条改定の動きに対する憂慮発言などを小耳に挟んでいたこともあって、番組中それに触れた発言を期待していたが、ただただ彼の日本賛美の発言ばかりが目立った収録だった。NHKらしく渡辺謙などという大物インタビュアーを配しながら、とうとう最後までその種の発言は一切なかったのである。さすが公共(原発がそうであったように実質国営)テレビと、予想通りで驚きもしなかった。しかし2時間後の、同じNHKのむのたけじさんのドキュメンタリーも期待はずれになるかも、と懸念しながら最後まで見たが、こちらは予想に反して(?)百歳翁の今も変わらぬ反戦・不戦の思想が熱く語られた。とりわけ感銘を深くしたのは、最近の若者たちへの期待が繰り返し語られたことだ。反安保法案に直接触れることはなかったが、画面に若者たちの安保法案阻止のデモ風景などが点轍されるなど、NHKとしてはたぶんギリギリの画面構成が図られていて、少し安堵した。
 そして今朝(11日)、今度は東京のⅠさん、鄭周河さんの写真展以来友だちになったⅠさんが、11時からBS日テレで南京大虐殺に関するドキュメンタリーがあるとメールで知らせてくれた。ちょうどその時間だったので慌ててチャンネルをひねった。本当は録画したかったのだが、その時間がなく、そのまま画面を追った。
 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店、1996年)の編者の一人でいわき市在住の小野賢二さんも登場したり、取材班が実際に現地を調査するなど、実に良心的な編集がなされていて感心した。前にもどこかで紹介したが、南京大虐殺の実行部隊には悲しいことにわが福島県人が多数含まれており、彼らの証言や戦中日記など一次史料を踏まえた正確な史実再現が画面を引き締めていた。しかしその証言者たちはいま生きていれば百歳を越える人たちで、生存者はもういないのかも知れない。聞き取り時の映像や音声、そして戦中日記など実に貴重な史料を現在は小野さん個人が保管しているようだが、右翼などに盗まれたり処分されたりしないのだろうか、などといらぬ心配までしながら最後までじっくり拝見した(いや冗談でなく、どこか公的な施設に厳重保管し、研究者の随時閲覧可能な態勢を早急に作ってもらいたい)。
 後で調べると、このドキュメンタリーは例の Daily Motion が『NNNドキュメント’15「 シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言」』として既にちゃんとネットに収録していた。まだ観てない方はぜひご覧になってください。ネットには他にも南京虐殺を否定する輩(やから)の集会の映像もあり、それもちょっと覗いてみたが、このように歪んだ愛国心に燃えた連中の、なんと姑息で哀れな姿か、実に見るに堪えない
 確かに中国側の行き過ぎた反日教育もさることながら、私たちの側でも、自分たちのおじいちゃんたちが中国や朝鮮で犯した大きな過ちの事実を教えられず今日まで来てしまったことはどうあっても間違っていたと言わざるを得ない。今回のNNNドキュメントのような、客観的で正確な番組作りは、今後ともぜひ作り続けてほしい。そうすることによって、いつか中国側を加えてのより正確な共同調査への第一歩が踏み出されるはずだ。
 つまり過去の過ちを糊塗するのではなく、あえて直視することからしか真の和解の道は拓かれないからだ。むのたけじ翁が喝破していたように、我々は人間同士の殺し合いではなく戦争絶滅を目指す不退転の決意を持たないかぎり、この世から戦争はなくならないだろう。
 とにかく昨日の夜から今日のお昼近くまで、テレビの映像を介してではあるが、反戦に思いを馳せる実に密度の濃い時間を過ごすことができた。MさんⅠさん、よい番組を知らせてくれてありがとう。

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誤解してるのはお前の方だ!


菅義偉官房長官は31日午前の記者会見で、安全保障関連法案に反対する大規模デモについて「一部の野党やマスコミから戦争法案だとか徴兵制の復活などの宣伝もされ、大きな誤解が生じていることは極めて残念だ。政府として、誤解を解く努力をしっかり行っていきたい」と述べた。(時事通信)

さてもし私に絵心があれば(絵心はあるが技術が無いのだーっ)この菅官房長官のとんでもない間抜け面を思い切り戯画化するのだが、残念! それにしても一昔前までは、こうしたバカ丸出しの政治家に痛棒を食らわせる漫画家が手薬煉(てぐすね)引いて待っていて、即座に餌食にしたのだが、最近は(と言って各紙を購読をしていないので断言は出来ないが)そんなことは滅多に無いのはなんとも寂しい限りだ。
 実は書こうと思っていたことが二、三あったのだが、この官房長官のコメントを見て一気にロートル湯沸かし器が沸点に達してしまってそれどころではなくなってしまった。それにしてもなんだろうこの菅という政治家。よくもぬけぬけと戯(たわ)けたことをおっしゃいましたなー。それが本心からだとしたらとんだ間抜けだし、内心の狼狽を糊塗するためだとしたら、四流時代劇の腹黒家老を地でいってますなー。
 どちらにしてもこんな政治家が言いたい放題とは、まっことこの国はどうなってるんだろう。いまの政治家、国民を舐め切ってます。そうした妄言を粛々とメモって記事を書いたり放送したりするジャーナリストたちよ、悔しくないのか? 報道の中立性? いやさ、その悔しさ、怒りを行間に滲ませたり、さりげなく疑問符を紛れ込ませたり…そこを何とか工夫するのがプロっちゅうもんじゃないか? なにっ、長官の言葉に何も感じない? あっそう、それじゃ話にならんばい。やめようっと。
 健康に悪いので、この辺で今日は止めておきます。

息子追加(2021年7月7日、東京の新型コロナウイルス新規感染者920名)
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行間を読むということ

全国的な猛暑続きで、老人たちが何人か熱中症で死んだというニュースが報じられている。川口の娘からもさっそくこまめな水分補給の忠告が届いたところである。でもありがたいことに、こちらはまだそれほどの暑さは感じられなく、何とか持ちこたえている。
 でも美子の髪が伸びて暑苦しそうなので、今朝入浴サービスの前に思い切って散髪(今風に言えばカッティング?)と白髪染めをしてやった。髪の毛を触られるのは嫌じゃないみたいで、おとなしくされるがままにしている。といってもここ数年、手足すら動かさないようになってはいるが。だから体温調節には気をつけてやらなければならない。
 もともと心臓も胃腸も丈夫な性質(たち)なのがなによりもありがたい。二人暮らしになってから一度も風邪を引いてないし、お腹をこわすこともない。この夏も今までどおり無事乗り切ってくれるだろう。美子の元気に助けられたかたちで、私自身も持病のギックリ腰にこの数年なっていない。さすがにオシメ交換などのあとは腰が鉛のように重くなるが、椅子に座ってしばらくすれば元に戻る。
 ところで本の整理の方は一つの山場を迎えている。つまりビーベス関係の本を整理しているうち、長い中断の前にビーベスに相当のめりこんでいたことを徐々に思い出してきたからだ。そしてこのままで死んでしまうのはなんとも悔しいと思い始めたのである。どこに発表するかなどとりあえずは考えず、我が人生の最後の課題として出来るところまでやってみよう、と思い始めたわけだ。
 これまでも何度か折に触れて、とりわけ原発事故のあと、指摘してきたことだが、現代世界は大きな歴史の曲がり角に遭遇した十六世紀ヨーロッパ世界に酷似しており、エラスムスやビーベスなど当時のウマニスタたちの苦闘は、現代の私たちにもさまざま貴重な示唆を与えてくれそうだ。わが国には渡辺一夫というフランス・ユマニスム研究の偉大な先達がいるが、残念ながらビーベスについては、私が今まで読んだ限りでは一切言及していない。しかしオランダのエラスムスを筆頭に、フランスのビュデ、イギリスのトマス・モアと並んでスペインのビーベスが当時から、いわば人文学思想の四巨頭と言われてきたことは間違いない史実である。渡辺ユマニスム研究にビーベスが完全に欠落していることは実に不思議としか言いようがない。たとえば『フランス・ユマニスムの成立』(岩波全書、1976年)の詳細な索引にもまったく載っていない。
 ただ渡辺一夫は、先日も紹介したように、例えばロヨラのイグナチオを反(本当は対抗)宗教改革の巨魁といったステレオタイプの見方を早くから抜け出ていた。渡辺一夫のユマニスム研究の優れているところは、単なる学説史という狭い見方をせず、彼自身の生きている現代、とりわけあの愚かな戦争に突入していった日本、そして敗戦によっても根本的な覚醒をせずにここまできた日本という地場を一歩も離れずに、つまりそこを基点として、思索を展開したことである
 他の分野はいざ知らず、人文学(ユマニスム)が他ならぬヒューマン(人間であること)の学であるからそれが当然のことなのだが、とかく学者という人種は抽象的な学説史の迷路にはまり込んで、研究者自身の生から離脱する傾向がある。簡単に言えば、というかきれいごとを言えば、客観性の誘惑から抜け出せないのだ
 もっと具体的に言うと、下手をすればビーベス研究の基本文献を博捜するならまだしも、文献学史のぬかるみに足をすくわれる危険が常にあるということである。例えば大学や研究室での研究形態は、まず従来の研究史の穴場を見つけることから始めるのが通常だろう。そうでもしなければいわゆる学界での評価が期待できないから、つまり業績として認められないから、というわけだ。その点、大学からも研究室からも離れて孤軍奮闘しなければならない私のような研究者は、逆にそれが強味になる。
 ところで先だって何十年も前の書き物をまとめた『スペイン文化入門』の「まえがき」にあえて書かなかったことが一つある。つまり早くは1970年代に書いたものが今でもある程度の価値があることを発見(?)したのは、他の分野、特に日本文化についての優れた論考がいろんな人たちによって既に1970年から遅くも1990年頃までには書かれていたということである。つまりそれなら私の場合も、と改めて自信を持ったわけだ。
 今日もそういう目で、既に呑空庵で作っていた『内側からビーベスを求めて』を読み始めたところだ。『スペイン文化入門』の場合と同じく、これまで読み直したこともなかったのだが、(そろそろ例のエゴラトリーアが始まったぞ)、これがなかなかいい。少なくともビーベス研究の基本構造、つまりなぜ今さら日本人の私が敢えてビーベス研究を志すのか、そのことがしっかり自覚されたものになっているということである。
 この私家本には、大学紀要に連載した四つの論考が収められているが、言うまでもなく未完のまま長らく放置されていた。先ずはそれらをゆっくり読み直してから、今後の方向を決めてゆくことであろう。ユダヤ系という出自を背負って、若いときから国外、主にブルージュやルーヴァン、さらにはイギリスへと渡り歩かなければならなかった彼の個人史にこれまでかなりの紙幅を使わなければならなかったが、今後の予想としては、エラスムスとはまた違った角度から展開した彼の平和論を中心に攻めていくことになろう。
 そしてこれも何度か言及してきたことだが、スペインのウマニスモが他のものと決定的に異なるのは、スペインが新世界問題と四つに取り組まなければならなかったことから来る、人文思想の質的変化そして深化である。ビーベス自身はラス・カサスやビトリアなどのように直接その問題にかかわってはいないが、彼ら一世代先輩の思想家たちの動向を射程内に捉えていたはずで、先ずはそこらあたりを探ってみたいと考えている。
 今度の蔵書探索の過程で、ビーベス研究のために新たに文献を求める必要のないことが判明した。あとはじっくりあせらず手持ちの文献を読み進めるだけ。さあ忙しくなってきたぞ。そうそう言い忘れるところだったが、先日紹介した『ビーベスの妹』はかつてビーベス研究にのめりこんでいる時に、ふと思いついた「仕掛け」だったことを今回やっと思い出した。つまり故郷バレンシアで家族がフダイサンテ(隠れユダヤ教徒)の嫌疑を受けて焚刑に処せられるなどのことがあったにもかかわらず、というよりそれが為になおさら故国に帰ることが出来なかった彼の悲劇の生涯、それらすべてをいわば行間に埋めての彼の著作活動であったことに触発されての創作だったのである。
 つまり、これもこれまで再三言ってきたことだが、ある人の生涯を辿る際、最も大事なことは、文字や作品に表現されていない部分をていねいに読み取るということだ。私家本の表題の意味もそれである。そのためには、時にはフィクションに限りなく近くなるほどの想像力を駆使しなければならない。
 そういえば今日見つけ出した本の中に、『行間のビーベス(Vives entre lineas)』(A. Gomez-Hortiguela, Bankaixa, 1993)というのがあった。著者は1955年生まれとあるから、私よりはるかに若い研究者だが、私と同じような考え方をしているらしい。彼には邦訳『ルイス・ビーベス』(木下登訳、全国書籍出版、1994年)があるが、まだ読んでいなかった。これを機会に読んでみようか。いや読まない方がいいだろう。私のビーベス像を作るには、先ず私自身が書いたもの、次いで彼自身の書いたものをしっかり読み直すことだ。

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渡辺一夫と大江健三郎


 介護・家事の合間を縫って、というより本の修理・装丁の合間に介護・家事をこなしながらの生活がまだ続いている。時おり本棚の隅から懐かしい本が顔を出して、その度にその本に関連する他の本を探してきたり、それにまつわる思い出を愉しんだりしている。
 僅かな数の蔵書のはずだが、こんな調子だと、いつ整理が終わるか見当もつかない。つい先ほども、他の本の後ろから渡辺一夫関連の本数冊を見つけ出してきた。そのうちの一冊は大江健三郎の『日本現代のユマニスト 渡辺一夫を読む』(岩波書店、1984年)で、それをぱらぱらめくっていると、先日どこかにあるはずと書いた例のものが挟まっていた。渡辺一夫さんからいただいたはがきである。ただし宛名はエバンヘリスタ先生、佐々木孝先生(当時わたしはただの哲学生なのに)と連名に、そして住所は練馬区上石神井■-■、上智大学イエズス会神学院となっている。
 予想通り1966年にエバンヘリスタ神父と共訳で出した『ロヨラのイグナチオ その自伝と日記』(桂書房)を献呈した時のお礼状である。肉筆の文面は以下の通り。

「御高著御恵贈賜りありがとう存じました。目下病臥中ながら拝読させていただいて居ります。きびしい魂の遍歴には、心撃たれるものがございます。小生の名まで御引用下さり、ただただ恐縮いたしております。右御礼まで。
文京区元駒込■-■-■  渡辺一夫

二伸 御礼申し上げるのが遅れ、(二字ほど判読できず)申しわけなかったと思います。お赦し下さい。」

 文中「名まで御引用」とあるのは、「あとがき」で氏の『三つの道』(朝日新聞社、1957年)の「イグナチオは初めから、宗教改革運動を意識して行動したとは思われません。事実として存在したカトリックの教会制度の硬化腐敗に目をつけていたとも考えられない」という文章を引用紹介させてもらったことを指している。
 1901年のお生まれだから、このときはまだ65歳、それから約十年後の1975年74歳で亡くなられたわけだ。
 この本と一緒に見つかった『文学に興味を持つ若い友人へ』(彌生書房、1995年)の中の「僕の書斎にある洋書」を読んでいるとこんな文章が出てきた。

「…書棚を整理しながら、まだ頁の切ってない本にずいぶん出会う。何か大切な友人を今までほったらかしにしておいたような気持になり、思わず、ナイフで頁を切って読み始めることが多い。こんな本が一度に二三冊あると、その日の整理は停滞してしまう。しかし、その為に、書庫の中での数時間は、限りなく楽しくもなる。
あと何年この世に生きられるものか全く判らぬし、いついかなる時に、天変地異(戦争もその一つかもしれぬが)が僕を見舞うかもしれぬ。その時がくるまで、僕は、書庫のなかで暮らすであろう。この頃の寒風に泣く人々、悪制度政治に苦しむ人々のいる浮世を片時も忘れたくないが、ただ、僕は、僕としての条件と分限のなかで、僕に与えられた仕事、大げさに言えば、使命をも果たさねばならぬと思うだけである。明日は、何冊ぐらい整理ができるかしら?(dec.1954)」

 まさに現在の私と同じ心境を語っている。ただ大きく違うのは、そのときの彼は私より二十二歳も若いということ、そして私の方は実際に天変地異、つまり大震災と原発事故に遭遇したということか。ただ同じなのは、当時も今も悪政に苦しむ多くの人々がいることであろう。
 本当は大江健三郎の亡き恩師への切々たる追慕と感謝の念に裏打ちされた渡辺一夫論を紹介するつもりだったが、つい現在の我が生活の処し方に引き寄せて書いてしまった。渡辺一夫論についてはまた別の機会にするとして、大江健三郎という作家自身についてちょっとだけ触れておきたい。簡単に言えば私にとって氏は長年気になる作家の筆頭であったということである。彼の出した本はその都度たいていは買い揃えてきた。そういう現代作家は、島尾敏雄、埴谷雄高、小川国夫、真鍋呉夫(いずれも鬼籍に入られた方ばかりになってしまったが)など数人いるが、その方々の作品はほとんど全部読んできたのに、大江健三郎の場合は、揃えただけでほとんど読んでいないという違いがある。
 つまり作家・大江健三郎というより人間・大江健三郎が気になっている、と言えば氏に対して失礼かも知れないが、事実、彼の作品自体より彼の生き方、そして時おりの、とりわけ政治的な発言に強い共感を覚えてきたのである。
 しかしそうした彼の戦後民主主義への終始変わらぬ信念の根っこにあるのは、息子の光さんと彼のこれまでの生き方が一つ、そしてもう一つは恩師・渡辺一夫に対する彼の一貫して変わらぬ師弟愛である。つまり彼の政治的な信念は、イデオロギーというよりもはるかに深い人間理解に支えられていることへの強い共感に由来する。
 そしてこれは半分冗談であるが、彼も私も同じ名前を有するから。大江は中国語で確かターチャン(語尾が上がる)と発音されると思うが、私も昔から愛称ターチャン(語頭にアクセント)だから。健次郎叔父も、よっちゃんも、今でも会うと私をターチャンと呼ぶ。実はばっぱさんも、最後のあたり、昔に戻ってタカシではなくターチャンと呼び始めていた。
 さてここまで、以上の文章を、今日同じく本棚の側のボール箱に入っていた、ばっぱさんのカセット愛唱歌集を聞きながら書いてきた。全二〇巻の『昭和の流行歌』と題したシリーズ物の最後の巻である。ちなみにこの第十二巻目に収録された全二〇曲のタイトルをご紹介しよう。

  • SIDE A(古城、川は流れる、下町の太陽、長崎の女、東京の灯よいつまでも、夜明けのうた、まつのき小唄、さよならはダンスの後に、唐獅子牡丹)
  • SIDE B(銀色の道、虹色の湖、恋の季節、白いブランコ、希望、絹の靴下、四季の歌、青葉城恋唄、夢芝居、女の駅)

 これら懐かしい歌を聞きながら、なぜか胸が熱くなってきた。そう、古い奴だとお思いでしょうが、私ゃ骨の髄まで戦後昭和の男でござんす。急に飛躍するようですが、こんな懐かしい平和なニッポンをまたもや戦争の出来る国にしちゃっちゃ先輩たちに申し訳がたちません。安保法案とやらは必ず廃案にしなきゃなりません。唐突ですが今晩はこれまで。お休みなさい。

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私設図書館の勧め

昨日も一日、いろんな本を修理したり新たに装丁したりして過ごした。そんなことしてもいずれ本は腐り、もっと悪いことには誰も読まないかも知れないのに、なんともご苦労なこと、と思わないでもない。しかし生涯半径一キロ以内に住むことになった身にとって、差し当たってはこの陋屋が、そして何冊かは知らないが本たちが、我が牙城そしてその防壁であることは間違いない。ならばちょうど昆虫がおのが唾液(でしょうか?)で巣穴を塗り固めるように、本たちを蘇生させたり新たな装いを凝らしたりするのも、あながち奇矯な行為とは言えないではないか。
 だが本の整理、つまり類書を集めたりテーマ別に並べたりする方は一向に進捗していない。もしかすると今年いっぱいは取り掛かれないかも知れない。あと十年自由に身体を動かすことが出来るなら(二階との行き来がかなりきつくなってきたが)、なにもそう慌てることもあるまい。
 もちろん最終的な目標は、それら本もしくは本の集まりについてのチチェローネ(蔵書あるいは読書の案内)を書くことである。自分の専門の方に取り掛かるにはまだまだ時間がかかりそうなので、最初のテーマとして美子の数少ない蔵書についてまとめてみようかな、と考えている。すでに本棚の一隅に美子コーナーらしきものを作り始めた。中心になるのは卒論に使ったと思われる何冊かの T. S. エリオットの原書やら研究書である。(※彼女の卒論は呑空庵刊の『峠を越えて』巻末に収録されている。読みたい方はどうぞ)
 弥生書房の『エリオット選集』(全四巻)の別巻はあったが中央公論社の『エリオット全集』(全五巻)は一冊もなかった。両方とも美子の卒論執筆時には出ていたはずだが、英文での卒論には特に必要を認めずに購入しなかったのか。今だったら美子は揃えたいのではと考え、というより私自身いつか読みたいと思って、震災前、中央公論社の五冊全集をアマゾンから購入し、例のごとく背革で装丁した。すでに認知症が進んでいた美子の反応がどうであったかは記憶にないが、たぶん分からなくなっていたのではと思う。
 肝心の英文原書は詩と演劇のそれぞれの選集はあったが、これもなんとか全集を手に入れたいと思い、震災前のあるとき、アマゾンの洋書コーナーから『エリオット詩・演劇一巻本全集』(The Complete Poems and plays of T. S. Eliot, Faber and Faber, reprinted 1978)を購入した。
 自分で読むことが出来るかどうかさえ分からないのに、さては奇妙な蒐集癖に取り付かれたかなと思われるかも知れないが、しかしそうした心の動きの底には一種の罪滅ぼしの意識が働いていたことは間違いない。
 そう、あれは保谷に住んでいたころのことである。そのころ福島の両親を引き取ったこともあって共稼ぎが必要となり、そのため彼女は用賀の清泉インターナショナル・スクールの司書の仕事を始めた。幼い双子の子育て、朝早くから西武新宿線の満員電車に揺られて(あるときは痴漢に遭ったりして)の通勤というハードな生活に疲れたのだろう、ある晩、何のことがきっかけかは記憶に無いが、彼女、二階の窓から研究社の分厚い大英和辞典を引きちぎり引きちぎりして夜の中庭に投げ捨てたことがあった。
 「私だって専門の勉強をしたかった!」とつぶやいていたと思う。高校時代は英語弁論大会で東北一になったり、高松宮、三笠宮杯全国大会では惜しくも三位、青山に進んでからは英語演劇で主役を張り、アメリカ留学も願っていたが一人娘との理由で両親からは許されず、福島の実家に戻って母校桜の聖母の英語教員になった。そして当時は職のなかった私と結婚、両方の親元に半年ずつ同居したあと二人の幼子をそれぞれ胸に抱いて上京……
 彼女とて事情が許せば好きな英文学をさらに勉強したかったのであろう。めったに夫婦喧嘩もしないし不満を託つこともしなかった彼女だが、心の奥底にあった悲願が、あの夜そんな形で吐き出されたのかも知れない。破り捨てられた辞書は拾い集めて(私が? たぶん)長らく見せしめ(?)のため取っておいたが、そのあと時効が来て(?)新しい辞書を買ってやった。
 そんな彼女への罪滅ぼしの気持を認知症になってから時おり感じるようになった。もっとも彼女自身は、認知症になる前からそうした過去の願望を思い返すこともなく、もっぱら彼女の愛読書は松本清張などの推理小説、次いで森茉莉や武田百合子さんへと移っていったが。特に百合子さんは島尾敏雄を偲ぶ会でお会いしてから大好きな作家となった。これら作家たちの本も美子コーナーに集めてやろう。
 以下蛇足までに。これも昨日のことだが、本棚の隅に『家庭の本 蔵書の整理と手入れ(Los libros de casa Formación y cuidado de una biblioteca)』という150ページほどの小冊子が見つかった。これは読書週間(書籍市)にスペイン文化省の肝いり、そして書店組合の監修で無料で配られたものらしい。日本の文科省はこんな粋な取り計らいをしたことがあっただろうか。
 ついでに言うと、いま日本の家庭からどんどん本が消えている。古本屋に売るならまだしも、多くは新聞紙などと一緒に紙ゴミの日に捨てられている。
 でも爺さんなり婆さんが読んだ本を捨てちゃったーはまずいっしょ。我が家には本好きだった幾太郎爺さんの愛読書が数十冊残されている。あの特有な装丁の岩波の『漱石全集』の何冊か、そして健次郎叔父の名祖(なおや=eponym)たる徳富健次郎の『思出の記』などである。後者は東京民友社発行、明治三十七年十八版のもの。
 もちろん古本屋に高額で売るつもりなどないから、厚紙で表紙を補強し、それに茶色の布を貼って見栄えを良くした。巻末の空いた場所に「二〇一一年八月、健次郎叔父がこれまで保管していた数十冊の、故幾太郎の蔵書を、十和田の淳の処に運ぶ。その月末に今度は淳が原町に運ぶ」と私の字で書かれている。
 こうして四世代にわたる一族の歴史が目に見え、手で触れることの出来る形で引き継がれていく。ひらひらと手を右や左に動かしてページをめくるあの電字本(と言うのでしょうか。正式名称など覚える気もありませんが)では決して出来ない肌と肌の触れ合った本の伝承です。
 それから本の整理をしていて気付くことは、それがいつどこで購入されたものか本の片隅にでも書いておかないと、後ですっかり忘れてしまうということ。これも本を次世代に申し送るためには必要なことである。なに? 古本屋に売るとき安く買い叩かれるですって? あなたここまで読んできてもまだ本を売るつもり? そうか、そういう人がいなきゃ、私がアマゾンから安く買うこともできないか。でも世は次々と捨てていく時代だから、私のように本は売らない、ていねいに扱って次世代に譲り渡すという人がいても大勢は変わらない、つまり相変わらずアマゾンの商売は成り立つ。心配することはない。
 皆さんも今日から家にある本を大切に扱って、出来ればわが「貞房文庫」のように私設図書館(実質はせいぜいコーナーであっても)を作り始めては? 我が家の歴史を伝える格好の方法です。


【息子追記(2021年2月16日)】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する。

エリオットのいい読者ではありませんが、フェイバーから出ているエリオットの著作は学生時代からだいたい全部買い集めていました。訳書もばらばらに持っています。愛読しているというわけではないのに、いつも気になっていて、年に数回はエッセイや詩を読みます。この詩人批評家のわたしにとっての重要さは、なんといっても古代神話研究の現代的な意味を明らかにしようとしたことで、フレイザーやリヴァースの人類学に依拠しながら、ジョイス文学の画期的な序文を書いたことにあります。ウナムーノやオルテガを踏まえた佐々木先生のご意見などうかがいたいと思っていました。というのも、わたしの恩師がエリオットに造詣が深かったと同時に、ウナムーノ、オルテガを深く読んでおられて、大学院の演習ではエリオットとオルテガが講義のなかで言及されるのが常だったからです。英語圏文学の研究者にして、スペイン語圏哲学を自家薬籠中のものとしながら語った人は、わたしの知るかぎり世界に恩師の橘教授一人だけでした。

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小娘と蜜柑

目の前に下がっている今月分のノート式カレンダーが後半部に入ってはや八日目。今日は「風」と「便」と二つ並んだ日だ。つまり月曜は午前中に美子の訪問入浴、午後に排便サービスがある日で、結構気忙しい日である。水曜は「便」だけ、そして金曜にはまた「風」と「便」が重なる。
 時おり他の予定が挟まるが、私の一週間はこれら二つの「行事」を縦糸(あるいは横糸?)に流れていく。時の流れは早いのだろうか、それとも遅いのだろうか、そんなことも分からなくなってきたが、でもこれから先いつこの流れが途切れるのか、それはいつも気にしている。
 相変わらず食事の準備や美子のオシメ換え、二日にいっぺんの割での買い物の合間に、蔵書の蘇生作業やつまみ読みを続けている。漱石の『行人』のあと、やはり『道草』を読み始めた。これも日本語とスペイン語を交互に読んでいる。相変わらず辛気臭い世界だ。いや『行人』よりさらに辛気臭い。でも先日書いたように、なぜだか心引かれて抜け出せない。
 漱石の憂鬱が乗り移ったかのように、なんとなく気が晴れない日が続いている。かといって、実世界の方でも面白いことは何も無さそうだ。安倍晋三などという歴代最低の首相を野放しにしている政界、マスコミ、そして一般大衆。言いたい放題、やりたい放題の彼を一喝し縮み上がらせるぐらいの「重鎮」はいないのだろうか。みな遠くで礼儀正しく上品に批判しているだけ。
 そんなとき、漱石の『道草』の側に、芥川龍之介の西訳本が目に入った。『或る阿呆の一生』の他、六篇の短編が収録されている。そして冒頭に収録されている「蜜柑」の文字を見て、昔読んだときの感動が一気に蘇ってきて、はや目頭が熱くなった。『道草』の健三の気鬱にそれだけ参っていたのかも知れない。スペイン語でわずか六ページのものを読み返していくと、予想通りやはり泣けてきた。列車を舞台にした名作は他に志賀直哉の『網走まで』があるが、読むたびに心が洗われるような感動を覚える。安倍なんぞのことなど思いっきり忘れることができる。
 読み終わってから急いで廊下の本棚に並んでいる新書版『芥川龍之介全集』(岩波書店)の第三巻を持ってきて読み返した。書き出しから一気に龍之介ワールドに引き込まれてゆく。

「或曇った冬の日暮れである。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発車の笛を待ってゐた。……」

 発車間際に、駅員から怒鳴られながら、しかも三等切符なのに間違って飛び込んできた小娘、「横なでの痕のある皸(ひび)だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい」十三四の小娘は、初めのうちすべてに疲れ切って厭世的なこの「私」には侮蔑と無視の対象でしかなかった。ところがトンネルを二つばかり抜け出たとき、急にこの小娘が重い車窓を必死に開けようとする。もちろん「私」は、出来れば永遠に開かなければいいと冷ややかに見ている。するとトンネルを抜けた先の踏み切りのところに立っている、やはり頬の赤い小さな三人の男の子が、目白押しに立って「いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分からない喚聲を一生懸命に、叫んでいる」。その彼らに向かって、ようやく硝子窓を下ろした小娘がやおら懐から出した蜜柑を五つ、六つと投げるのだ。
 つまり奉公先へと旅立つお姉ちゃんの、小さな弟たちに対する心ばかりの餞別だったわけだ。このとき「私」は、初めて「云いやうのない疲弊と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。」(了)
 鮮烈なまでの感動が胸を突き抜ける。この小娘の一途な、必死の「生」の姿こそ、漱石、龍之介、そしてその子孫たるわれわれ「近代人」が無益無謀な「進歩幻想」の果てに忘れ去っていたものなのだ。私もここ数日の曰く言い難い倦怠と無力感からいっとき抜け出すことが出来た。ありがとう、小娘さん、そして龍之介さん!


【息子追記】立野正裕先生からFacebook上でお寄せいただいたお言葉を転載する(2021年2月17日記)。

この項は題を見ただけですぐさま龍之介の短編小説が念頭に浮かびました。というのも、このところやりかけている仕事に龍之介の「奉教人の死」を取り上げるので、しきりに龍之介の小説やエッセイを読み返していたからですが、そうでなくとも「蜜柑」は一読忘れがたい名品で、先生がお書きになっていられるように、わたしも読み返すたびに胸を熱くさせられます。最後に先生が記された次のひと言にも共感と同感を禁じ得ません。
「この小娘の一途な、必死の「生」の姿こそ、漱石、龍之介、そしてその子孫たるわれわれ「近代人」が無益無謀な「進歩幻想」の果てに忘れ去っていたものなのだ。」
ありようはそういうことだと思います。一途な、必死の「生」の姿が見失われて久しい時代、まさしく「乏しき時代」に、われわれはただただ呆然と、あるいは四六時中せわしなく、餓鬼か幽鬼のように生きています。
龍之介自身がおのれの日常を鬱陶しいしがらみとともに生きていましたが、その魂の奥に、この小娘のひたむきな姿を髣髴とさせるような憧憬を宿していた人でした。
十年ぐらい前かと思いますが、友人がひと夏かけて龍之介全集を読んだという便りをくれました。その一週間後に、駅前の古書店の奥に龍之介全集が床に積み上げられているのを見て、即座に購入して宅急便で届けてもらいました。岩波の分厚い全集ですが新版が出るに当たって誰かが手放したものでしょう。龍之介にかぎらず全集、著作集が現今はおおむね廉価で出回っているのもご時世というものでしょうが、そのご時世なるものの正体が「無益無謀な進歩幻想」でしかありませんからね。
せめて心ある若い人々には、文学や芸術をとおして、人間の「一途ひたむきな生の姿」を見てほしいと願わずにはいられません。


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頑張るよりしょうがねえ

一昨日の夕方、帯広の健次郎叔父さんから電話があり、その夜の十一時から2チャンネルで南相馬についての番組があるよ、と教えられた。いつもなら叔父さんには悪いが空返事でほとんど見ないできた。見たとしてもそのセンチメンタルな作り方に腹立たしくなったりバカらしくなったりして最後まで見ることはなかった。しかし一昨夜のものは老々介護という身につまされる話につられて、珍しく最後まで見ることになった。おかげさまでいい番組に、そしていい人に出会えた。
 桑折馨さんと言う86歳のおじいちゃんが、体の不自由なタキ子おばあちゃんを介護する日々を追ったドキュメンタリーである。一人息子を津波で失ったおばあちゃんは、息子のことを思い出すたびに泣いている。
 そんなおばあちゃんを励ますために彼は思い切って新しい家を建て、一緒に暮らすことを決意する。それまでも日に三度、おばあちゃんを病院に見舞って食事の介助をしてきたが、いずれ退院しなければならず、職員払底のためもあって介護施設に入ることもできず、かといって借り入れ住宅では介護が難しい。おじいちゃん自身、脚と腰が悪く、杖や歩行器に頼らなければならないからだ。ある日、二人の間にこんな会話が交わされる。

「頑張るよりしょうがねぇ。な? 一緒に頑張ろぅ!」
「・・・・・頑張れねぇ・・・・」
「いやぁ!頑張れねぇじゃなくょ? “頑張ります!” な?」
「・・・・・・・・」下を向いたままのおばぁちゃん。
そして小声でつぶやく。
「・・・・・・・死ぬよりほかねぇ・・・・・。」
「死ぬほかねえのはいいんだけど死ぬまで大変だべ。・・・・・頑張るよりしょぅがねぇんだ。」

 この場面を思い出すたびに涙が止まらなくなる。おじいちゃんも必死だけれど、おばあちゃんがあまりにもいじらしく可愛いいからだ。可哀想なんて段階をとっくに通り越している。家の美子は一切の言葉と体の動きを失ってしまったが、もしかしてときどきこのおばあちゃんと同じ言葉を呟きたくなるのではないか、と……今もこの情景を辿りながら涙が止まらなくなって一時中断した。
 画面の途中で総選挙風景や、増設される介護施設の状況などが点綴(てんてい)される。安倍首相の演説のなんと空しく響くことか。復興とは名ばかりの掛け声だけの政治、オリンピック開催のとばっちりを受けて建材や人手不足がこんな田舎まで波及して、おじいちゃんの新築計画が大幅に遅れ、施設には風評被害のために若い介護職員が集まらない。公共放送の制約のためか批判めいたナレーションは一切ないが、画面を見るだけで何を言いたいのか痛いほど伝わってくる。
 心配していた通り、おばあちゃんは新居完成を待たずに亡くなってしまう。ここまで痛めつけられても、おじいちゃん、おばあちゃんの思いを胸に「頑張るよりしょうがねえ」と呟いて今日もこの南相馬のどこかで生きているはずだ。
 今月十三日(土)深夜零時から三回目の再放送があるそうなので、見逃している方はぜひ録画するなりしてご覧ください。
 思い出すたびに涙が止まらなくなるのは、確かに我が身に引き換えて見たせいかもしれないが、しかしこの二人の人間性に強く共感し感動したからである。これからも二人の姿を思い起こすたびに新たに勇気と希望が湧いてきそうだ。美子も私もまだまだ元気、そう、頑張るよりしょうがねえ。

※追記 なぜ泣けてくるのか、その理由が分かった。タキ子おばあちゃんの「…頑張れねぇ…」という言葉だ。真っ正直な、掛け値なしの真実の言葉である。「おじいちゃん、もうずいぶん頑張ったよ。もう頑張るのよそうよ」と言ってるのだ。物凄く優しい、女性らしい言葉だ。でも生きることはそもそもが頑張ること。たいていの人間は惰性で生きている。おじいちゃんは、このタキ子さんの言葉を聞いて、実は逆に大きな勇気をもらっている。こんな可愛いおばあちゃんのためにも生きなければ、と思っている。
 もっとも助けを必要としている弱者を切り捨てるような政治屋、このおばあちゃんの切実な叫びをしたり顔で説諭しようとするすべての似非人道主義者など、…犬にでも喰われっちまえ!

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「私文学」とは

旧棟一階の応接室(と言えるかどうか)の壁二面の天井まで届く書棚に雑然と並べられた本を少し整理しなければ、と思いながらまだ果たせないでいる。整理すると言っても、具体的には当面読みそうもないものを二階の書棚に運び、代わりにスペイン思想関係の本を運び下ろすことだが、作業はすぐ中断してしまう。手に取った本の中にまだ読んでいないものがずいぶんとあり、その度にぱらぱらとページをめくってしまうからだ。先日も『加藤周一著作集』第六巻の「私文学論」を飛ばし読みしていて、なかなか面白い内容にいろいろ考えさせられた。
 乱暴に要約してみれば、近代日本文学の主流だったいわゆる「私小説」が時代の流れに取り残された感があるのは、作者や読者が文学と思っていたものが実はそうではなかったこと、その証拠に『徒然草』や『枕草子』の例を出すまでもなく、「私」の視点から書かれた作品は、たとえ小説ではなくともその優れた文学性ゆえに時代を超えて生き残っているではないか。
 と、加藤周一がびっくりして墓の中から生き返るような変な要約をしたが、中(あた)らずと雖も遠からずであろう。つまりは「私小説」ならぬ「私文学」の提唱である。その一例として、執筆当時(1955年)ベストセラーだった渡辺一夫の『うらなり抄』(光文社、カッパ・ブックス)を挙げている。
 渡辺一夫さん(「さん」付けするほど好きな学者なので)のその本を、さっそくアマゾンから取り寄せた。もちろん古色蒼然たる古書だが、例のごとく古いレンガ色のシャツの切れ端で装丁しなおした。荒正人さん(この「さん」は南相馬・鹿島区出身だから)の推薦で「西日本新聞」に百回連載した短文集成だが、奥付をみて仰天した。出版された年に既に28版になっている。つまり五月二十五日から九月一日までの実質三ヶ月ちょっとで二十八版。どこまで伸びたのか想像もつかない凄まじさだ。昭和三〇年当時、人々は活字に飢えていた、としか形容できない。いや内容もそれだけアピールしたということだが、飛ばし読みした限りでは加藤周一が褒めるほど、少なくとも渡辺先生(今度は「先生」になりました)の他の作品ほどではありません。
 まだ全部読み終えていないので断定は避けますが、思ったより凄くないです。傲慢の誹りを免れないが、貞房のこのモノディアロゴスのいくつか(全部ではありませんぞ)の方が優に文学性に富んでいると思います。(冷や汗タラリ)
 それはともかく、加藤周一の「私文学」論、大賛成である。先だっても「エゴラトリーア(自画自賛)」について書いたときにも言ったが、私がウナムーノなど優れたスペインの作家に惹かれてきたのも、そしてなんとかその顰(ひそみ)に倣いたいと思ってきたのも、その「私文学」性ゆえである。どんなに高邁な思想を語ろうとも、どんなに文学性を主張しようとも、その文章の中に「私」不在のものが多すぎる、と思うのは私の驕りだろうか、それとも錯覚だろうか。
 話はとつぜん変わるが、あともう少しで東京から、かつての教え子が二人(そのうちの一人にはもうお孫さんがいる)日帰りで訪ねてくる。生涯周囲一キロ世界の住人からすれば、こうして遠方からの客人にはただただ感謝あるのみである。しかしいつものように一方的に話しまくることだけは慎まなければとの自戒の気持ちを新たに。ではこれから駅前のバス停まで迎えに行ってきます。

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大切なことはすべて面倒くさい

毎月、講談社のPR誌『本』が送られてくる。たぶん昔、ここの「現代新書」から『ドン・キホーテの哲学―ウナムーノの思想と生涯』を出してもらった関係から送られてくるのだろう。たいていは目次をさらっと見ただけで屑籠に入れてしまう。それなら郵送を断ればいいようなものだが、たまーにこれはと思う記事が載っているので止められない。今月号はそんな記事として平田オリザの「対話劇を創る―双葉郡・広野町」があった。
 平田オリザという若者(私から見ればだが)については劇作家であり舞台演出家であること以外良くは知らない。「下り坂をそろそろと下る」というエッセイを連載中で、今回が十回目にあたる。これまでも何やら良いことを言っているようだな、と思いながらもしっかり読んだことはなった。しかし今回の記事は胸にストンと落ちた。
 小泉進次郎復興大臣政務官の音頭とりで「ふたばの教育復興応援団」が組織され、彼はその一員で足繁く広野町に通っているという。つまりこの四月に新設された「ふたば末来学園」のお手伝いの一環として、そこの生徒たちと一緒に対話劇を創るというワークショップを担当しているそうだ。
 胸にストンと落ちたのは、例えばこのような彼の考え方である。

「…そもそも、いわき市からも、福島市からも、すべての子どもたちをいまからでも避難させるべきだと言う人もいる。そうした善意の暴論の一つ一つが、福島に残った人々の心を少しずつ傷つけていく。
 私たちは、人類が誰も経験していない【低線量被曝の時代】を生きている。そこには絶対的な安心も安全もあり得ない。だから私たちは、どこかで線引きをしなければならない。
 私はもちろん、原発再稼動には絶対反対であるし、国内のすべての原発は、即刻、廃炉作業に入るべきだと思っている。しかし一方で、山本太郎氏に代表される【反原発原理主義】の方たちにも強い違和感を覚える…

 平田氏がどんな思想の持ち主か、などとは関係なく、原発問題に対するこうした氏の基本的な考え方に賛成である。氏は「線引き」という言葉を使っているが、私の言葉で言えば「覚悟」であろう。こういうまともな考え方をしている人もいるんだ、と我が意を強くしたのは、実は最近、或る人とこうした問題に関する考え方にビミョウなずれがあることに気付き残念に思ったことがあるからだ。その人の善意、誠実さに疑問の余地はないけれど、被災地あるいは被災民を外から見る視線に違和感を覚えたのだつまり被災者への同情や心痛に偽りは無いが、しかし必死に生きている側からすれば、その同情や心痛は妙にこちらの元気を殺ぐのだ。平田氏は例の「美味しんぼ」騒動についても、それがどれだけ福島の人々の心を傷つけたか、東京に暮らす人が実感することは難しいと言っているが、あの漫画家自身も決して被災者を傷つけるつもりで描いているわけではないのだろうが、結果的にはむしろそうした描き方が被災者の心を傷つけていることに気付かない無神経さ。
 平田氏が山本太郎的な姿勢を「反原発原理主義」と評していることの真意は分からないが、私流に言えば、彼らは被災者の苦しみを土台に(?)、つまりいま現在も日々苦しみながら生活している被災者よりも、自分たちの主義を主張することに急な一派、ということだ
 ことほど左様に原発問題は根が深いし複雑なのだ。いま流行の言葉で言えば「面倒くさい」のである。でもこの世の中、本当に大事なものはすべて面倒くさいたとえば「寄り添う」という言葉だが、これが政治家の使う「粛々と」という言葉同様、内実を失った美辞麗句として手垢にまみれている。被災者を哀れむべき対象とするのではなく、つまり言って悪いが「上から目線」で見るのではなく、よりよき末来に向かって労苦を共にする仲間としての視線、反原発を目指す同志としての目線、つまり同方向に眼差しを向ける友としての姿勢が求められているわけだ
 こう書きながら、うまく伝わらないもどかしさを感じている。そう、むつかしい問題、でも見方によったら実に簡単なのだ。つまり理屈抜きに、これまでどおり、被災犠牲者としてではなく年来の友として、この世の矛盾やむつかしさ、そうではあってもこうして生きることの素晴らしさ、その喜びについて共に語り合うところからしか始まらないということ。そんなことを、認知症の妻に対する親戚や友人たち(であった)の憐れみに満ちた、しかし距離を置いた、ときには既に死んだ人であるかのような対応を見ながら学んできたことである。
 見てください、それでなくとも現政権の進もうとしている未来がどれだけキナ臭いものか、あの単細胞のカッコマンによってとんでもない方向に進んでいきそうな気配に本気で立ち向かわなければ…アワアワワ、最後は支離滅裂になりました。

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お天道様に申し訳ない

生きている以上は当然なんだが、このところ身辺いろいろとあって、少し疲れたのかも知れない。だいたいそういう時は、何かしら手仕事に没頭することで精神のバランスを保っている。今回はこのところ定番となった装丁の仕事だ。
『スペイン文化入門』の出版が刺激となったのであろうか、スペイン思想関係の本を二階の本棚から引っ張り出してきては、まず埃を払ったり、必要とあらば背中を、百円ショップで買ってきた糊付きの布で補強し、新たに書名を印刷して貼ったりしている。そんなことをして何になる?と一瞬空しくなるが、いつかだれかが読んでくれるはずと強引に思いなおして作業を続けている。
 いや他のだれかではなく、新著の「まえがき」にも書いたように、長らく中断していた研究になんとか復帰しようとは思っている。まだ読んでない本も多いだけでなく、いちど読んだことは線引きや覚え書きを見ても分かる本でさえ、もうすっかり忘れている。悲しいけど負けてはいられない。頭が辛うじて働くあいだは、たとえ死の前日まで(死の瞬間までと言いたいが、さすがにそれは無理でしょう)挑戦を続けるつもりだ。
 そんな作業の中で、今日はラモン・リュル(日本の人名事典ではラテン名のライムンドゥス・ルルスとなっている)の研究書を見つけた。彼自身の著作や彼についての研究書が他にも何冊かあるが、今日見つけたのはミゲル・クルス・エルナンデスの『ラモン・リュルの思想』という452ページほどの研究書である。
 簡易表装のペーパーバックなので、例によって表紙を厚紙で補強し、それを布で包むことにした。美子のネグリジェも使い切ったので、今回は私の古いレンガ色のカラーシャツ(と言うんでしょうか)を解体した。原書表紙の題字やカット絵を切り抜いてうまく表紙に貼り付け、なかなかの美本になった。
 それはともかく、このリュルという十三世紀カタルーニャ出身の哲学者・神学者・神秘家の何と波乱に満ちた生涯であることか!『ブリタニカ国際大百科事典』の要領いい紹介文を引用しよう。

「非キリスト教徒の家に生まれたが、1263年頃見神の経験を得てキリスト教に入信して宣教を決意。ヨーロッパ各地で説教を行い、北アフリカ、近東のイスラム圏にもおもむき布教に努めたが、北アフリカのブージーでイスラム教徒に捕えられ投石によって殺された。彼が考案した、イスラム教徒をキリスト教に改宗させる方法は【大いなる術(またはルルスの術)】と呼ばれる。これは護教のために全学問の総合的体系を組立て、基本的な学理ないし概念を設定することにより、そこからできるだけ多くの結論を引き出そうとする一種の記号計算的な方法で、それによりキリスト教の優位を証明しようとした。著作は292編、神の存在や三位一体を論じた神学書、哲学書、小説、詩などが含まれる。」

 今度の『スペイン文化入門』でも触れているが、スペインはリュルの一世紀前には共にコルドバで生まれのイスラム最高の哲学者アベロエス、ユダヤ最高の哲学者マイモニデスなど、三つの宗教・文化にまたがりそれらを融合しようとした人物を輩出した国なのだ。
 しかし世界は次第に排他的な傾向を強め、さらには近代国家の誕生と共に狭隘なナショナリスムが勢いを増していく。二つの大きな大戦を経ても(スペインの場合は同胞相食む内戦まで経験して)未だに真の平和を獲得していない世界、その行く末を考えると暗澹たる思いに駆られる。しかしここで負けてはいられない。といって、周囲一キロ世界の中で生きざるをえない余生を思うと……
 そんなことを思いながらの探索の途中、まだまともに読んだこともなかった正岡子規の『病牀六尺』が目に入った。彼が何年病床にあったかは知らないけれど(150日?)、彼に比べればまるで夢のような広い世界に生き、しかも薬に頼っているとはいえまだ五体満足、元気を出して頑張らなくちゃお天道様に申し訳ない。それに百パーセント私の介護に頼っている美子のためにも負けてなぞいられない。 
 おやおや装丁の話から世界平和の話、しまいは我が身の健康にまで話が広がったよ。『男は辛いよ』の寅さんじゃないけど、今夜はこのへんでお開きってことにするか。


【追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)のコメント(2021年2月22日記)。

精神上の均衡回復の方法として、先生が採用されたのは手仕事への没頭でした。人々が手仕事の文化を脱却したのは、手工業時代が産業革命に突入し、非熟練労働によって日常生活の基礎が急激にすげ替えられてしまったことと平行していますが、手仕事の文化を放棄したことの裏面に、熟練を度外視した簡単便利と消費の圧倒的な普及があります。同時にそれは人間が自らの全体性を喪失してしまう過程でもありました。
その意味で、先生が精神的均衡回復のため本の装丁に没頭されたのは、かつて遠い時代に手のはたらきが人間に保証していた心身一如の文化の想起または回帰にほかならなかったと思います。

理屈を捏ねて恐縮ですが、わたしが若い時代に恩師と目した方たちは、皆さんがこの心身一如を重視しておられた。大西巨人さんも、執筆読書の日々の合間、無上の没我的悦びとして、古書店より購入したボロボロの書籍の再製本の手作業に従事なさっておられたと夫人に伺いました。ゴルフもパチンコも競馬も水泳もやらない代わりに、古本の再生に勤しむ。どこか佐々木先生とも話が合いそうに思われて、わたしにはせっせと手を動かしておられるお二人の後ろ姿が目に見えるようです。

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脱原発都市宣言

ふだんなら市の広報「みなみそうま」はちらっと見てすぐゴミかごに入れるのだが、今回はその最終ページに目が行った。そこには「原子力エネルギーに依存しないまちを目指して」というタイトルの下、以下のようなことが書かれてあった。


市では、東日本大震災に伴う原発事故を克服し、原子力エネルギーに依存しないまちづくりを推進していくことを広く市内外に表明するため、平成27年第2回定例会において「脱原発都市宣言」をする旨を議会に報告し、平成27年3月25日付けで告示しました。

【脱原発都市宣言】

 2011年3月11日、東日本大震災により南相馬市は未曾有の被害を受けた。
 さらに東京電力福島第一原子力発電の事故に伴い6万人を超える市民が避難を余儀なくされ、多くの市民が避難の中で命を落とした。
 家族をバラバラにされ、地域がバラバラになり、まちがバラバラにされ、多くの人が放射線への不安を抱いている。
 南相馬市はこの世界史的災害に立ち向かい復興しなければならない。
 末来を担う子どもたちが夢と希望を持って生活できるようにするためにも、このような原子力災害を二度と起こしてはならない。
 そのために南相馬市は原子力エネルギーに依存しないまちづくりを進めることを決めた。
 南相馬市はここに世界に向けて脱原発のまちづくりを宣言する。

平成27年3月25日
                         南相馬市

 
 一読して先ず感じたこと、えっまだ宣言してなかったの?という驚きである。事故後すでに五年目に入ったというのに脱宣言をしてなかったとは。あわててネットを調べてみると、この南相馬の宣言がこれでも日本最初の脱宣言表明ということだ。まあ今さらぼやいても仕方がない。かくなる上は、少しでも脱宣言をする市町村が増えること。なにも都市でなくてもいい、おらほのムラでもいっこうかまね。だいいち、いくら宣言しても法的な効力は大してないんでしょ? だったらどんどんしたらいい。
 詳しく確かめたわけではないが、高浜原発再稼動に司法がノーの判決を下したらしい。スペインの友人がメールで、それを報じた The Japan Times の記事をわざわざ送ってくれた。でも他方では、再稼動の動きが一向に衰えない。現政権の陰に陽にの後押しがなければ考えられない事態だ。もう一箇所どこかで事故が起こらない限り、日本国民は目が覚めないらしい。そんな国民を同胞なんて思いたくもないカゲキ? そうでしょうなあ、でもそうとでも考えない限り腹の虫が治まらない。
 さて改めて宣言文を読んでみた。起草者には申し訳ないが、なんとも気の抜けた文章だこと。沸々たる怒りを表面に出さなくてもいい。しかし内からこみ上げてくる怒りが全く感じられない。バラバラなどという擬声語だか擬態語が三度も繰り返されているように、文字通りバラバラな言葉遣い。かと思えば「世界史的災害」などという学問的(?)第三者的な表現
 じゃお前ならどう書く? そう言われてもすぐには思い浮かばないけれど、でも日本最初ということは世界最初ということでしょ? だったらもしも起草を頼まれれば、斎戒沐浴して、気合入れて書きますよ。
 先ほど「怒り」と言う言葉を使ったが、要するに誰を、あるいは何を睨んでの宣言かが明確でない。つまり怒りの対象がはっきり見えてないから、怒りが湧いてくるはずもない。この美しい山や川や畑、いやいやそれ以上にすべての先祖や今生きているわれわれ、そしてこれから生まれてくる末来の人間たちにまで、とんでもない被害を、不幸をもたらした奴はどこのどいつだ! 東電か、地方行政か、中央政府か? つまり天災ではなく人災である以上、必ず責任者がいるはずなのに、それが意識されていない。それではまるで天災とどこも違わないではないか?
 でも東電や政府が当事者であっても究極の責任者、いや犯人ではなかろう。韓国の写真家・鄭周河さんが萱浜の海辺で厳しく言ったように、究極的な犯人は、そうした事態を座視し認めるだけでなく、中には積極的に推進してきた人間たちの欲望に他ならない
 日本語に比べて破裂音が多く、そうした怒りを表現するのに実に適した言葉・朝鮮語で、彼は言った。「それは海の過ちではなく、人間の過ちです。…根源は人間です。人間の欲望が作りあげたものが、いま私たちを叩きのめしているのです」。
 そうだ、人間の飽くなき欲望・欲心こそがこの悲劇の真犯人なのだ。今日もこの飽くなき欲望が、ひたすら生活の利便と快適さを求めるこの欲心が、日本列島をすっぽり覆っている。アベであろうとだれであろうと、そうした欲心に骨がらみになった人間たちがこの国の命運を決めている。さてどうする? 革命か? んにゃ、革命起こしたってその人間の欲心を黙らせないうちは、何したって無駄だろうね。だったらどうする? そうさね、倦まず弛まず、機会があろうとなかろうと、そして場所を選ばず至るところに、そうした欲心を鎮める、いや笑い飛ばす平和菌を仕掛けることしかないだろう。しんどいしまだるっこいけど、そうするしかないべさ。
 でも、それって本来は宗教の領域じゃない? んにゃ、今時の宗教者の多くも、ごく少数の例外を除いて、そうした欲心に侵されているわさ。仕方が無い、誰でもいい、目覚めた人が率先してやらなっきゃならないわけ。ここまで読んでくれた君(えっ君って私のこと? そうだよ)、君もたっぷり平和菌が沁みこんだわさ。さっ、君も今日一日、平和菌ばら撒いてきて。

(2015年4月16日00:19発信)

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古い日記帳

先日は今にも消えそうな記憶の砕片を拾い集めたいなんてことを書いたが、それより以前に、文字に残されている過去を整理しなければならないことになって、この数日あたふたしている。思わぬ邪魔が入るといけないので(まさかウソですよ)具体的なことはまだ言えないが、ある申請書のために必要な「履歴書」を、それも外国語で作らなければならなくなり、慌てて古い日記などを整理している。今までも本の奥付などに簡単な履歴・業績を出版社が作ってくれたことはあるが、今回のように正確な日付を入れなければならない履歴書作成は久しぶりである。以前一度かなり詳しい履歴書を作ってパソコンに入れておいたはずだが、何回かの機種交換でいつの間にか無くなってしまった。
 さてそのためには日記が役立つのだが、改めて調べてみると、たぶん普通の人よりマメに書いてきた方ではないかな。といってモノディアロゴスを書くようになってからはつけていない。つまり2002年あたりから日記からは離れてしまった。これまでの日記帳は合計8冊あるが、中には大学ノート十冊くらいを合本にした背革の大冊もある。

1. 1961~1967年
2. 1967~1972年
3. 1973~1974年
4. 1974~1977年
5. 1977~1982年
6. 1983~1990年
7. 1990~1993年
8. 1994~2002年

 背革大冊の1は『修道日記』という題名つきの日記で、修道院入りから還俗までの日常が克明に綴られている。先日ここで紹介した母の手紙が挟まっていたのもこの日記の中であった。他にもラテン語で書かれた退会証明書なども挟まっている。
 それら日記群のところどころを読み返してみると、まるで他人の記録のように思えてくる。時間の経過がそのように思わせるのかも知れないが、要は記録の中の私は私であって私ではない、という不思議な存在になっているということだろう。だからピープスのように暗号化する必要もないし、他人に見られても恥ずかしいとも思わない。事実、だれも手に取ることはあるまいが、廊下の書棚に雑多な本と一緒にまとまって鎮座ましましている。死後、子どもたちや孫たちが読んでくれることさえ願っている。ちょうど祖母・安藤仁や母・千代が書き残した文章群のように、一族の記憶の連鎖が途切れないためである。
 大袈裟な物言いになるが、過去に囚われるのも愚かだが、過去を亡失することは愚か以上に忘恩であり(だれに対して?まあ言うなればお天道様、人類共同体、先祖様に対してかな?)低劣な生き方である

 過去を忘れ、ただただ右肩上がりで前のめりの現代日本人よ、お前はどこに行こうとしてる?(ちょっと偉そうに言ってみました)

父の死後、8冊の日記はバラバラに保管されていたが、すべて揃えることができた。まだ開くことができない(息子記)。
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武蔵再会

夕刻、ガラス戸越しに西の空を見ていて、不意に武蔵に会いたくなった。以前も一度、武蔵と小次郎に会いたくなったときがある。もちろん吉川英治の武蔵と村上元三の小次郎である。二人ともよっちゃんに進呈してしまったあとだった。その時は河出書房「国民の文学」村上元三集が安く手に入ってなんとなく落ち着いた。しかし戻ってきた小次郎にその後会いに行ったわけでもない。いつでも会えると安心しただけだ。単なる所有欲? かも知れない。コレクターが集めるだけ集めて満足しているのに似ている。
 だが数日前、武蔵はどうなった? と気になりだした。美子の介護に係る雑事以外にも、いろいろ片付けなければならない約束事やら課題があるのに、なぜか気になりだしたわけだ。でも待てよ、武蔵はとんでもない破格の値段で手に入ったのでは?
 さっそくアマゾンを調べてみた。するとまだありました、講談社の「吉川英治歴史文庫 宮本武蔵全八巻」が、何と送料込み1,429円で。店頭売りならまだしも、これはもう価格破壊なんてものではなく、まさに文化破壊です。おそらく倉庫代の方が高くつくので放出するわけでしょう。こんな事態がいつまで続くのか分からないが、でもこの際下手に文句など言わずにありがたく買わせてもらいます。
 それが今日届いた。もちろん前回と同じくさっそく衣装換えです。2巻ずつ合本にし、先日の「日本児童文学全集」の外箱を解体したボール紙で表紙を補強し、それを百円ショップで買ったよもぎ色のインド木綿でくるみ、それぞれに佐多芳郎のカバー絵を貼って、世界に一つしかない『宮本武蔵』出来上がりです。
 そんなことをしたって誰が読むでもなく、いつかそう遠くない末来に、この陋屋と共に朽ち果てるのに。無駄な時間と労力? そうかも知れない。でもこれより世のため人のためになることといって、とりあえず何かあります? だいいち人生ってその大半は時間をつぶすことに費やされるんじゃない? 
 時間を過ごす、というのをスペイン語では pasar el tiempo と言うが、この pasar(過ごす)という言葉は、「耐える、我慢する」という意味もある。日本語でも「やり過ごす」という言葉がある。つまり貞房流に言うと、生に耐える、生きることに耐える、である。つまり人間にとって、世界は、国は、社会は、あるいは家庭は、多くの矛盾を抱えていて、間尺に合わないことだらけである。真剣に生きようとすればするだけ、苦しくなってくる。
 貞房氏って見かけとは違って意外とペシミストね、ですって? いや正確に言いますと、ペシミスティック・オプティミスト、つまり悲観論的楽観主義者です。根底は楽観主義、平たく言えばチャランポラン。
 話は武蔵に戻るが、実は吉川武蔵でいちばん記憶に残っているのは武蔵やお通と言った主役級の人物ではなく悪役、それもばあさんである。そう、お通の元いいなずけ又八のおっかあである。又八が道を間違えたのは武蔵のせい、ととんでもない逆恨みでねちっこく武蔵の命を狙うが、あの強烈な個性がなぜか印象に残っている。
 そのうちまた街道筋にお杉ばあさんの姿を求めて新装成った『宮本武蔵』を読み返すかも。いや全編は無理としても、つまみ読みくらいはするつもり。

※ いま慌てて訂正しましたが、悲観論的楽観主義者をオプティミスティック・ペシミストなんて書いてました。逆でした。でも本質形容詞という考え方もあって、属性が本質を凌駕・変質させることもある。例えば日系アメリカ人の場合、アイデンティティは日本人それともアメリカ人? 話はややこしくなるので止めておきます.2月28日訂正

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古い皮袋での熟成

恥ずかしいことに、この数日間気分が滅入ってどうしようもない時間を過ごしていた。美子の世話をしなければならない、という義務感だけでなんとか崩れないでいた。崩れる? いやそれがどんなことか分からないが、ともかく辛い時間を過ごしていた。私よりもっと辛いことに耐えている人がいることを考えて、こんなことで負けてたまるか、と反発心を奮い起こしてなんとか時間をやり過ごしていた。
 そんなときアマゾンから安岡章太郎さんと近藤啓太郎さんの対談集『齢八十いまなお勉強』(光文社、2001年)が届いた。同い年の二人が来し方を振り返りながら、老齢を生きることで見えてくるさまざまなことをこもごも語っていて実に面白い。私もあと数年でその歳になるが、それまで彼らのような元気を保てるか。いや私など老人としてはまだひよっこ、フンドシ担ぎなのに、いまからもうこの体たらく、先が思いやられる。
 昨日の朝、十時ごろ、帯広の健次郎叔父から電話があった。ここ数日寒い日が続いて外出も出来ずに家に閉じ込められていたが、今日は天気も良く、といってまだフトンの中だが、『内部から!』をとうとう読みきったよ、と例の明っかるーい声で報告してきた。美子さんの面倒を見ながら良く書くよ、私など絶対出来ない、などと言う。でもこの叔父の元気ときたら、これは安岡さんたちも比ではない。あのとき安岡さんたちは八十歳だったが、この健ちゃんは御歳九十七歳! 娘の史子(ちかこ)さんの「父は病気のように元気です」という至言を思い出しておかしくなった、と同時に元気がわずかながら戻ってきた。
 そして数日前から延ばしのばししてきたことをようやくやる気になった。それは昨年夏からIさんの編集で進められてきた『スペイン文化入門』の最終的なチェックと「まえがき」執筆だ。実はIさんには申し訳ないのだが、今日まで読み直すことすら一切やってこなかった。アマゾンに既に出版予告が出ているにもかかわらず、なぜか他人事のような気持ちで来てしまった。編集その他をすべてIさんにまかせたという気楽さからでもあったが、この出版不況の時代、むかし書いた雑文の寄せ集めなど本当に出版できるのだろうか、などとこの期に及んでもまだ内心半信半疑であったためでもある。しかし大きな私塾の経営という激務の合間を縫いながら出版目指して頑張ってきたIさんからの相も変らぬ篤実な文面の問い合わせのメールで眼が覚めた。そして八年ぶりに眼を通しはじめた(私家本にしたのは2006年)。
 それだけの年月を経て読み返すためか、まるで他人の文章を読むような新鮮味が感じられ、そして感動(?)した。落ち込んだり感動したり、まさに老人特有の感情の動きとお笑いくださってもいいが(誰に向かって言ってる?)、なかなかいいことが書かれていたのである。そして原発事故以後の混迷の中で辛うじて体勢を整えるにあたって、スペイン思想研究で得たさまざまな考えがまるで髄液のように自分を支えていたことを再認識した。
 冒頭の「われわれにとってスペインとは何か」(「朝日ジャーナル」掲載)などほとんどの文章が1970年代、つまり40年以上も前のものであるから、例えばスペインがフランコ独裁体制から新体制へと生まれ変わるあたりのことは、確かに「古さ」を感じさせる。しかしスペイン思想・文化の骨格・本質、そしてその問題点は確実に捉えられており、その部分は現在でも充分通用する。いやむしろ現在にこそ生きてくると思われたのである。そして日本の読者より現在のスペイン人にぜひ読んでもらいたい、というとんでもない願望が生まれてきた。
 つまり原発事故以後の覚醒の中で発見したことの一つは、日本文化そして日本という国それ自体が近代以降その本質・自己同一性を失ったまま迷走を続けてきたこと、そしてその危険ならびに解決への糸口を既に1970年代、さまざまな視点からさまざまな覚醒者によって指摘されていた事実だが、それと似たようなことはおそらくスペインにも起こっており、遠く東洋から発信された見解もいま改めて見直されてもいいはずだ、と考えたからだ。ここまで来ると、さすがに我ながら恥ずかしくなって、急に一つのスペイン語を思い出した。それはエゴラトリア(egolatría)つまり自画自賛という単語である。自画自賛・自己顕示欲の雄・安倍晋三首相が連想されてちょっと嫌ーな気分になりそうだが、しかし日本を間違った方向へと誘導しつつある現体制に対抗するためなら、少々のエゴラトリアは許されるであろう。
 それはともかく『スペイン文化入門』の中核に位置する「スペイン的【生】の思想」(『スペイン黄金時代』所収、NHK出版、1992年)が書かれたのが、ベルリンの壁崩壊や湾岸戦争という激動の時代であったこともあって、そこで主張されていることは現在とも不思議に符合している。新しい酒は新しい皮袋に、という聖書の言葉(マテオ、九章)もあるが、しかし古い皮袋の酒もそれなりの熟成を経て薬味を醸し出すこともあるだろう。ちょっと言い過ぎか。でもそんなことをぐーんと薄めて「まえがき」を書かせてもらうつもりだ。
 ここまで書いてきてだいぶ元気・生きる勇気(?)が出てきた。君って意外と単純なんだね、という声が聞こえてきそうだが、そうなんです、相当に単純なんです、純なんです、はい。先日、美子の血液検査の結果もほとんど問題ありません、との結果が出ましたので、とうぶん(?)元気に頑張ります。皆さんもどうぞ頑張ってください。

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雪の夜の断想いくつか

今朝方、寒さで眼が覚めた。直前、夢の中で一生懸命四文字熟語を探していたようだ。そしてついに見つけた、「そうだ竜頭蛇尾だ!」。夢うつつの中で、頭の部分は暖かなのに足の部分が寒いことをなんとか表現しようと思っていたらしい。足の方の掛け布団がずり落ちて毛布だけになっていた。朝方の目覚める直前の夢とも現ともつかぬ中で(以前この状態を表すために半覚半睡などという新語を作ったこともある)いろんなことを考えるクセがついてから久しい。中には後から役に立つアイデアもあるが、もちろんその大半は、今朝見た夢のように後から考えると何のことか見当もつかぬガラクタである。
 今日の午後は、と話は変わるが、いつのまにか雪になったり、何気なく見た衛星テレビの映画に泣かされたりで気が紛れたが、このごろ夕方近くなるとやけに寂しくなる。これも以前作った言い方だが、「まるで酢漬けになったような」寂寥感に襲われる。或る人に「あなたには愛する奥さんがいるから」と言われたが、その奥さんは一切の意思表示もできないので、もしかすると独り身の寂しさよりさらに過酷な寂しさかも知れない。
 そんなわけで(?)、以前より増えてきたと思われる独居老人のことを考えることが多くなった。ともかく良く耐えている、「偉いな」と思う。私など書くことによって幾分その寂しさを紛らわすことが出来るが、その手立ての無い老人はどのように耐えているのだろう、と感心してしまうのだ。
 ところで今日の午後観た映画は以前も一度さらっと観たことがあって、その時は変わった映画だな、くらいの印象しかなかったが、今回、それも途中から見たのだが、とうとう最後まで観てしまった。おまけに、最後あたり、いつの間にか涙が出るほど感動させられた。その映画とは、ラッセ・ハルストレム監督、ジュリエット・ビノシュ、ジョニー・デップ主演の映画『ショコラ』である。非常に保守的な村長が支配するフランスの小さな村に、ある日謎めいた母娘がやってきてチョコレート・ショップを開店する。禁欲的なこの村には似つかわしくない店だったが、母ヴィアンヌが客の好みにあったチョコを見分ける魔法のような力で、次第に村人たちをチョコの虜にしていく。当然のように、村長や村人からの反撥をくらい、いくつか騒動が持ちあがるが、最後はハッピーエンドで終わってほっとする。
 私の言う「平和菌」も彼女のショコラのようなものだが、それについていつかまた話す機会もあるだろう。
 ともかくアメリカ映画としては異色の雰囲気と内容を持った映画だが、自分自身のこのごろの精神状態に波長が合ったのか、最近にないほど感動してしまった。北風に導かれるように諸国を旅してきた女主人公にも惹かれたが、そんな個性的な母親に健気について歩く小さな娘アヌークに自然と眼が行った。このごろ、スーパーなどで小さな女の子を見かけると、ついその姿を追ってしまう。なにロリコンか、だって? とんでもない、ハイジの、ネロの、あるいはピノキオのおじいちゃんたちと同じ純粋な祖父愛どす。
 話はまたぐーんと飛んでしまうが、例の名古屋の女子大生が犯した殺人事件にもいろいろと考えさせられている。これまでだって異常で猟奇的な事件がなかったわけではないが、この女子大生の深い闇に震撼させられている。確かに異常な事件だが、彼女が長いあいだ彷徨していたその出口のない深い森は、だれの心にも幾分かの影を落としていて、決して無縁とは言い切れない怖さがある。『ショコラ』の村長のように、世の穢れ、罪を糾弾するに急のあまり、おのれの中にもあるその闇を自覚しない傲慢…いかなる教育、説教、説諭も届かない深淵…忌避し隔離するだけでは決して治癒することのない人間社会の病巣…その事実に思いを致して謙虚になること…


【息子追記】立野正裕先生(明大名誉教授)のコメント転載(2021年3月13日記)。

「おのれの中にもあるその闇を自覚しない傲慢…いかなる教育、説教、説諭も届かない深淵…忌避し隔離するだけでは決して治癒することのない人間社会の病巣…」いずれも深く考えさせられることばかりです。

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よっちゃん、見ーっけ!

ひさびさに G. グリーンの『おとなしいアメリカ人』(1955年)という小説のことを思い出している。書棚から持ってきてはみたが、果たして読んだかどうか、すでにして定かではない。だったら読み直そうか、といえば、実はその気もない。ただ漠然と、この小説は一人の善意のアメリカ人がサイゴンの町を歩く先々で彼を狙うテロが勃発し、無辜のベトナム人が次々と死んでいくというストーリーであったことだけは覚えていた。つまりこれは、ひとりよがりの善意のアメリカがインドシナ問題に介入することによってあのベトナム戦争という底なし沼のような悲惨な戦乱を招き拡大したことを批判した小説というわけだ。
 でも思い出したきっかけは、そんな大仰なことではない。ある一人の善意から発した行為が思わぬ展開になったこと、つまりあるものの崩壊(とでもボカシておく)のきっかけとなった或る出来事である。その事実を彼に何回かメールで指摘したが一向に返事がない。なにか性質(たち)の悪いヤクザにでも絡まれたと思っているらしい。しかしどうしても連絡したいことがあって、直接電話してみた。そして恐れていた通りの展開になってしまった。つまり当方のロートル湯沸かし器が一気に沸騰したのである。
 いや善意から発したものであることは当方も認める。しかしそれが思わぬ結果をもたらしたことに対してちょっとでも遺憾の意でも示せば、沸騰は起きなかったであろう。などとおのが沸騰器を絶対視するのも可笑しな話ではあるが。要するに相手は、しつこいクレイマーを前にしたどこかの店員のように、ひたすら責任逃れの態度に終始したのである。相手が一般人であったからいいようなものの(?)、もしも彼が教員とか坊さんとか神父さん、つまり生徒や信者さんの、時には家庭のことにまで相談に乗るべき人だったとしたら、それだけで彼の態度はその資格を疑問視させるに充分である。
 それなら他人に対する善意の発動を控え、他人事には口を挟むな、とでも言いたいのであろうか。いやいや決してそうではない。善意は最後まで、つまり途中で我関せず焉と逃げるのではなく、とことんその善意を貫く、つまり最後まで責任を取るべきであるということである。例えばあのドン・キホーテである。彼はときに善意の思い込みでおよそ場違いな行為に及んだ。宿場のいかがわしい職業の女たちを官女ととり違えて、丁重に扱う。女たちはそんな彼を笑いものにするが、しかし彼はあくまでその「信念」を貫き通す。するとどうなったか。そこに不思議な奇跡が起こるのだ。つまりそのうち彼女たちの内面に隠れていた気高さ、人格本来の資質が現れ出てきたのである。
 先の話とうまく繋がらなかったかも知れないが、要するに人に善意を示す時は、それが思わぬ展開になって、その善意が事態の悪化を招くような時は、その状況を出来うるかぎり修復することにも力を尽くすべきであるということである。ならば面倒、他人のことに容喙するのは差し控えよう、と言う人にはあのドン・キホーテの無償の愛を思い起こしてほしい。なーんてこれは自戒の意味も込めて言ってます。
 話は例によって突然変わるが、昨日久しぶりに鹿島の寺内によっちゃんを訪ねた。ところが何たることか「ホームなごみ」は無人となっていた! 慌てて近くの集会所を訪ねて聞くと、先月末をもってそこは閉鎖され、老人たちはそれぞればらばらに分散したという。誰がどこに行ったか全く知らされていないらしい。それで家に帰ってから、仙台に避難している彼女の長男の J に電話で聞くと、現在は石神にいると言う。
 出来るだけ早く本を渡したいので、今日の昼前、ベッドに寝ている美子のことを心配しながら、その「グループホーム石神」とやらを探しに行った。住所は大木戸。駅前通りを四葉通りを越えてまっすぐどこまでも進むと石神に入り、見当をつけていた辺りにあったコンビニで聞くとそこを左折して5、6百メートル行った右側にあるという。最初は行き過ぎて、通りがかりの人に聞きながらようやく見つけた。
 今度は仮設ではなく一昨年だかに出来た新しいホームで、案内されて広間に入ると、いたいた元気なよっちゃんが。最初きょとんとしていたが、「たーちゃんだよ」と近づいていくと分かって喜色満面のいつものよっちゃんになった。ばっぱさんの『虹の橋 拾遺』と司馬遼太郎の『竜馬が行く』の文庫本を4冊の合本にしたものをお土産として差し出した。95歳なのに私より耳はいいし、頭もはっきりしている。しかし可哀想なのは、さんざたらい回しにされて今自分がどこにいるか分からないことである。
 お昼の食卓の準備が始まったようなので、近くまた来るからと別れを告げた。別れ際、思い付いてコピーしていった四人のいとこたちの二十歳ごろの写真、すなわち健次郎と敏雄(後の作家島尾敏雄、二人は同い歳のいとこ同士)と誠一郎と千代(長男と長女)の二枚の写真だ。たぶんよっちゃんの今夜の夢は、仲の良かったいとこたちとの青春の思い出だろう。よっちゃん、千代ねえちゃんは青森くんだりまで連れて行かれて向こうで死んじまったが、よっちゃんは健ちゃんと同じく百歳を軽ーく越えて長生きすっぺー。今までは一緒だった愛はもう来れなくなったけんちょも、前より近くなったぶん、これから何度も訪ねてくっから、と言うと、よっちゃん心から嬉しそうな笑顔になった。

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さらば!右肩上がり

このごろ夫を毒殺したとして逮捕された67歳の女が話題になっている。だいぶ前にも、確かカレーライス毒殺事件とかで、やはり女が世間を騒がせたことがあった。毒殺犯の性別にこだわるつもりは無いけれど、しかしあの執念は…いや男性だってもっと残酷な事件を犯しているわけで…うっ、やっぱこだわっているか。
 いや言いたかったことはそんなことではない。もしも彼女が真犯人だとしたら、いつ死んでもおかしくない年齢なのに、どうしてそこまでお金や生活の安定に執着するのか、大きな謎としか言いようが無いということである。しかし良くよく考えてみると、人間なんてみんな大なり小なり彼女みたいなことをやっているんじゃないか、とも思われてくる。
 話はとたんに大きくなるが、要するにいま世界で起こっているほとんどすべてのことが、彼女の狂気と比べてもどっこいどっこいの愚かな執着に過ぎないのではないのか、ということである。つまり現代の地球規模の環境破壊・資源浪費、それが危うくなってきたといっては、例えば原発のような地球それ自体を破壊すること間違いなしのもの(もちろん並行して開発されてきた核兵器ともども)に対する愚かな執着だって、彼女のものとさして違わないということである。
 時おり考えて頭が痛くなるのであまり考えないようにしていることがある。簡単に言えば地球そのものにも寿命があるということ。まさか永遠に存続するはずも無い。そんなことは天文学、地球物理学、あとなんだか分からない高度な学問に拠れば、地球の最後がいつごろか計算されているわけだろう。原発事故のあとのあるとき、頭を過ぎったのは地球最後の日のこと、そこでそれを描いた小説や映画を探しまくった。その時、頭の中をしきりにグレゴリアン聖歌の「怒りの日(Dies irae)」が流れていたものだ。
 いやそんな日ははるか先のことだと言われても、その日がいつか来ることは間違いない。宗教が立ち上がって来るのは、そんな終末意識の中からであろう。しかし今は宗教のことはさておいて(?)、ともかく、あたかもこの世が永遠に続くかのように、そして資源が無限にあるかのように、領土や資源をめぐって、あるいは国や民族の面子をかけて戦争をやっていることの愚かしさ、あくなき支配欲で少数民族の文化や伝統を破壊してまでおのれの支配下に繋ぎとめようとする大国の強欲。もちろん毒殺犯の女とスケールが違うだけでやっていることは似たようなものだ。誰が言ったか分からないが(もしかして『独裁者』の中のチャップリン?)、「一人殺せば殺人者、戦争で大勢殺せば英雄」と同じ理屈である。
 それにしても元気っすなー、衆議院解散の議場でバンザイしてるの図、ぐれーつ極まりない滑稽な光景。みんな前のめり。いつから使われ出したんでしょうかねー、あの「右肩上がり」という嫌ーな言葉。人間の自然な体形は両肩平衡です。確か司馬遼太郎さんが言った大好きな言葉がある。「美しき停滞」。経済用語に言い換えると「ゼロ成長」。なんで右肩上げなきゃならん? それで貧しい人が減るならいいが、不自然に右肩上げると格差が広がるだけ。

 回し車の中のこまねずみみたいな生き方、もういいかげん止めようよ。 


※追記 原発事故のあと頭に浮かんだのは、もちろん地球の寿命と言うより、それ以前に愚かな人間たちによって人為的に崩壊することだった。でも人間たちが知恵を出し合って自滅を逃れたとしても、いずれ…やはり頭が痛くなってきます。でも分からないのは、毒殺犯の女は、そして愚かな人間たちは、いずれ自分の寿命が尽きるから、世の終わりが来るから、それでなりふり構わず、やけくそになって強欲振りを発揮しているのか、ということ。どうもそうではなさそうである。なぜならやがて訪れる死とか、地球の寿命あるいは不幸にしてその自滅の可能性を考えるだけで、人は自然に謙虚になり、おのれの生き方を真剣に内省し始めるであろうからである。

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間にあってよかった


佐々木さんの本にあやかっての私家本です。
間にあってよかったです。
暑さがつづきますが、くれぐれもおからだ大切に。

2011、七、九          石原保徳

 これは石原さんの『世界史再考 歴史家ラス・カサスとの対話』(制作デジプロ、2011年)に挟まれていた絵入り小型便箋に肉筆で書かれたメッセージである。文中「間にあってよかったです」という言葉に今も胸が痛む。何に間にあったのか? 彼の死に間にあったのである。彼はそれから間もなく帰天した。
 彼、石原保徳さんは岩波書店の編集者として、あの画期的な「大航海時代叢書」第二期(全25巻)、さらには『アンソロジー・新世界の挑戦』(全13巻)を手がけた。いや単に編集者としてだけではなく、歴史家・翻訳家としても生涯、死の直前まで「新世界問題」に取り組んだ。それも後半は前立腺ガンとの闘病生活の中で。しかし彼は常に前向きで明るかった。
 亡くなられる年の三月、あの忌まわしい原発事故が起こったときも、病床にありながら何度か電話をかけてくださった。あのいつもの明るい元気な声で。そして美子のことを最後まで心配してくださった。最後の日々、元同僚のTさんがコピーした私たち夫婦に関する新聞や週刊誌の記事なども読んで、無事を喜んでくださったそうだ。
 あの覚悟そして力はどこから出てきたのだろう。おそらく、彼の今だから言える「晩年」に、彼を捉えて離さなかった使命感、つまり新世界問題との苦闘の中から得た新たな知見と問題意識をもって前人未到の企図、すなわち世界史再考・再構築というとてつもなく大きな課題へ挑戦しなければとの強い想いからではなかったろうか。
 彼が残した足跡は、以下の作品群を辿ることでその大略を知ることができる。

  • 『インディアスの発見 ラス・カサスを読む』、田畑書店、1980年
  • ラス・カサス著『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(訳・解説)、現代企画室、1987年
  • 『世界史への道 ヨーロッパ的世界史再考』、前後編、丸善ライブラリー、1999年
  • 『大航海者たちの世紀』、評論社、2005年
  • 『新しい世界への旅立ち』、岩波書店、2006年
  • そして絶筆『世界史再考 歴史家ラス・カサスとの対話』。

 しかし忘れてならないのは、彼が長南実訳で出た全五巻のラス・カサス『インディアス史』(岩波書店、1990年)を圧縮・再編集した岩波文庫版、全七巻(2009年)の存在であろう。ラス・カサス基本文献のこれほどまで周到な作業は本国スペインでもなされていない。石原さんの驚異的な執念あればこその偉業である。
 私には原発事故のあとの覚醒の中で初めて見えてきた近代批判や明治維新再検討の必要性を、石原さんはそれこそさらに広い世界史的観点から夙に見抜いておられたわけだ。その慧眼恐るべし。恥ずかしいことに上記の労作のいずれも、今までしっかり読んでこなかった。残された日々、出来うる限り彼の切り開いた道を辿りたいが、私よりも若い世代のだれかに、それもこの南相馬の次代を背負う青年たちに、ぜひ彼の宿願を引き継いでもらいたいと強く願っている。
 彼のそうした問題群への最初の橋頭堡とも言うべき1980年の『インディアスの発見』の中に、そのころ書かれた私宛のはがきが挟まっており、そこにはこう書かれている。

「出版社に働くこと二十年、さまざまな矛盾を背負いこんでいます。他方【学問】の質は次第にオカシクなっているとしか思えません。大学も相当荒れていることでしょう。想像はつきます。しかし、アキラメてしまうわけにはゆかず、編集や学問の姿勢をただしてゆくことも必要だと思っています」

 偉い「学者先生」たちや編集よりも営業が幅を利かせる会社組織とも対峙しなければならぬという苦しい両面作戦の中で、彼の問題意識はさらに研ぎ澄まされていったはずだ。しかも…

「振りかえってみれば、私の晩年は、一九九二年に前立腺ガンの摘出手術をうけてからというもの、なおその断端をのこすガンとのたたかい・共生にあけくれたといえる。死はさほど遠くない、との主治医の診断が示されたのは二〇〇七年夏のことであった」(『世界史再考』、「おわりに」)

 ちょうど一週間前、とつぜん(!)老夫婦だけの生活が始まり、時おり目の前が暗くなるような寂寥感に襲われることがあるが、そんな時、この石原さんの「覚悟」のほどを思いめぐらし、天国の石原さんから叱咤激励を受けているような気持ちになる。
 2009年に作った詩集『コギト』は石原さんに捧げた。そのときは奇跡的に持ち直しておられた時期で、死神は退散したのでは、と楽観視していたが、でもその時、石原さんに捧げていて本当によかった、つまり私なりに「間にあってよかった」からだ。

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鎖国よ今一度…

美子のトイレ・サービスが終わるのを待っているとき、整理のためたまたまテーブルに置いてあった、いいだももの『猪・鉄砲・安藤昌益』(農山漁村文化協会、1996年)に眼が行った。ぱらぱらページをめくっていると、こんな文章にぶつかった。

 鎖国の平和とともに鉄砲が「忘れられた兵器」となってしまった、というかつての飯塚浩二説は、今日では、ノエル・ペリンの『銃を捨てた日本人――日本史に学ぶ軍縮』(川藤平太訳、紀伊國屋書店)となって、いうならば世界的定説となるにいたっています。これは歴史についての無責任な健忘症ではなくて、むしろ暴走の行き詰まり(デッド・エンド)から正常な歴史の大道へとひきかえしてゆく人間の「忘却」能力=選択能力を意味しているのであって、殺傷兵器から花火へのこの徳川期的転換能力が、ひとつの比喩的モデルとしてでも、原爆・核兵器、毒ガス・化学兵器、細菌戦・生物兵器などを21世紀の核廃絶・全面軍縮へ向けて扱ってゆく上でのモデルとなって、それらのジェノサイド・エコサイドの武器を「忘れ去り」「すてる(断念する)」上で全世界的に参考になるとするならば、それ自体はたいへん結構なことでしょう。

 いささか回りくどい文章(失礼!)であるが、要するにこれまで否定的にのみ解釈されてきた鎖国時代の再評価が必要という私がようやくたどり着いた考えの傍証になるべき見解だということである。1543年、ポルトガル人によって種子島に伝えられた鉄砲の技術は、瞬く間に改良され、普及し、一時は同時代のヨーロッパのどの国よりも鉄砲保有数の多い国になっていたことを今回初めて知った。ところが鎖国によってそれら殺傷兵器は、せいぜい畑を荒らす猪を脅すためや「鍵屋、玉屋!」の花火へと使用法・対象を転換したわけだ。
 片やヨーロッパやアメリカでは、殺傷能力をさらに高める改良が進み、その果てが核兵器へ、そして平和利用というサギまがいの美名のもとに原発へと進化したもちろん明治維新以後の日本も、そうした軍拡競争に邁進し、中国では731部隊による細菌兵器にまで手を伸ばしたと思ったら、現在はキナ臭い軍事立国、平行して原発大国を目指している。徳川期の平和構築の知恵をかなぐり捨てての狂奔である。またぞろその悪癖がぶり返して、安倍政権によって従来の武器輸出三原則が骨抜きになりそうな事態にもなっている。要するに歴史に学ぶ姿勢は一切なく、日本人が本来持っていた美質を捨て去るの愚を冒しているわけだ。

  
  「鎖国よ今一度…」


外国からは
 真理とまごころだけ
 を受け入れよう

その他のことは
 つつましく内輪で
 考えてみよう

 
 この詩ともいえない断章を書いたのは、1964年十二月、今からちょうど半世紀前、このあいだ土砂災害のあった広島市安佐南区のイエズス会長束修練院にいた時である。いまとなってはその真意は自分でも分からない断簡だが、国交を閉ざして排他的引きこもりをすべし、と言っているわけではない。現在ならこう言うだろう、すなわち前に進むのではなく、後ろに戻るのでもなく、今すべきは「内部に進む」こと、自己を掘り下げることだ、と。

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たのしい幼稚園

 
 父は筆まめな人で、日記は簡略文で必ず書きつけておりました。物ごころついた頃からの記憶には、父の座右にはいつも当用日記がおいてあり、その年によって、大型小型さまざまでした。暮れになると、新しい日記帳を買って来て、満足そうに机の上に置いていた父の姿が目に浮かんできます。そして、ついでに、いや心がけて、私にはフロクのついた少女雑誌をその時々で、「少女世界」、「少女倶楽部」、「少女の友」などを、弟には「譚海」という少し小型で分厚いもの、そのほか「少年世界」、「少年倶楽部」であったが、私は弟の本には余り手をつけませんでしたが、弟達はむさぼるようにして読んでいましだ。
 あの新しい雑誌のにほいには何ともいえない満足感をそそるものがありました。そして付録には大てい「双六」が入っており、お正月にはよくそれであそんだものでした。

 以上は現在準備中(まだ三分の二のところ)の『モノディアロゴスXI』に収録予定のばっぱさんの「想い出の記録」中の一節、愛読した懐かしい少女雑誌の思い出である。それらは誌名を変えて今も出版され続けているのかどうかは知らない。私が覚えているのはそのうちの『譚海』だけであるが、もちろんそれはむかし叔父たちが手にしたものとはだいぶ様変わりして戦後しばらく続いた少年雑誌である。と言ってその時はまだ「高嶺の花」で、もっぱら愛読していたのは『冒険王』のようなもう少し易しい内容のものだったと記憶している。
 どこかの図書館には当時の少年少女雑誌のバックナンバーなどが収蔵されているかも知れない。一度手にとって見たいと思わないでもないが、しかしばっぱさんのように、想い出の中に大事にしまっておいた方がよいのかも。
 ところで表題は講談社の幼児向け雑誌の誌名で、他に小学館の『幼稚園』というのがあるが、付録などから察するに、前者は女の子向け、後者は男の子向けとなっているようだ。いつのころからか毎月愛のためにおじいちゃんが買ってきたが、今日発売の十二月号には、1.ジュエリーボックス、2.きらきらブレスレット、3.チェンジシート、4.イノセント・ハーモニーマイク、5.クリスマスカレンダー、となんと五つも付録がついている。
 今時の子供はスマホだかについているサプリ、いやアプリか、に熱狂しているのかも知れないが、でも視覚や聴覚だけでなく触覚、さらにはばっぱさんの言うように嗅覚までをも刺激する紙の雑誌に、記憶に残るという点で敵うはずはない。私が全能の魔法使いなら(あな恐ろし、いや、あなおぞまし)この世からすべてのスマホならびにその記憶さえも消してしまうのだが。
 話は急に人間相互のコミュニケーションへと広がるが、要するに現代人は天から与えられた五感を実に粗末に扱っているということだ。たとえばいま問題になっているラインとか何とかによるイジメもそうだが、人間というものを電子文字という極小の存在にしてしまい、それに「死ね!」とか「臭い!」などと、おそらく面と向かってはさすがに躊躇するだろう悪口を平気で書き込めるのも、五感のうちの視覚だけを使っているからだ。
 想像力は五感と連動している。五感の省略・縮小によって、当然想像力も制限されていく。たとえばヘイト・スピーチをやる連中の想像力は相当のダメージを受けているとしか思えない。戦時中の「鬼畜米英」の心的構造とまったく同じである。人間からそのほとんどの属性が消され、「鬼畜」というおぞましい限りのイメージへと収斂してしまったわけだ
 ヘイト・スピーチで思い出した。このところ鶴見俊輔さん(と格付けが上がった)の本をいくつか読んでいるが、そのうちの一冊『思い出袋』(岩波新書、2010年)は八〇歳になった俊輔さん(さらに親しく)が老化と記憶の問題など、その時の彼より五歳若いだけの私にとって実に切実な問題を一人語り風に語っているが実に面白い。その内容にいつか触れるかも知れないが、いま紹介したいのは、これまで全く知らなかった或る戦中女性の話だ。つまり朝鮮の青年、朴烈との運命的な出会いをした金子ふみ子(1904-26)である。
 彼女は朴烈事件で大逆罪に問われたが、彼と「共に生き共に死ぬ」ことを願って獄中で自死する。瀬戸内晴海が『余白の春』で小説化したらしいが、晴海は苦手(?)なので、獄中手記そのものを探したら、『何が私をこうさせたか』として春秋社が1931年初版のものを再刊しているのがアマゾンで見つかり、さっそく注文したところである。
 その繋がりで、本棚の隅に読まれもしないであったつかこうへいの「娘に語る祖国 『満州駅伝』――従軍慰安婦編」(光文社、1997年)を見つけてきた。今まで映画『蒲田行進曲』の圧倒的な印象の影で忘れていたが、彼もまたザイニチであることを再確認した。たぶん従軍慰安婦問題などについては、ストレートな批判ではなく幾重にも屈折した感慨を述べているだろうと思うが、今回は井上ひさしとの共著『国ゆたかにして義を忘れ』と『人は幸せになるために生まれてきたのです』も注文した、もちろん破壊された価格のものを。
 今日も実感していることだが、いままで見過ごしたり読み飛ばしたり、あるいは読まずに来た重要な証言が、我が貧しい書庫の中でも再発見できるということだ。いつもの喩えを使うと、ジグソーパズルのピースは身近なところに充分すぎるほど転がっている。それらをゆっくり広い集めて、適切な形に並び替えてみること。このジグソーパズルの喩えは、一昨日、雲南旅行から帰られたばかりで拙宅に寄ってくださった渡辺一技さんにもご披露したが、うなずいてくださったから、喩えとしてほどほどの普遍性(?)を持っているのであろう(と勝手に思っている)。
 ところで冒頭に振った『たのしい幼稚園』だが、おそらく今回がおじいちゃんに買ったもらう最後の号となるだろう。愛の記憶の中で、その思い出はどんな形で残るのだろう。あるいはすべて忘却の彼方に消えていくのだろうか。まっそれも仕方ないか。


【息子追記】立野正裕先生(明大名誉教授)から頂戴したお言葉を転載(2021年3月13日記)。

読んでいていろいろ連想や想起をうながされずにはいないことがらに触れておられます。

わたし自身には孫はおりませんし、とくにほしいと思ったこともありませんが、友人知己が初孫の話をじつに楽しそうに語るのを、相槌を打つでもなく、羨ましいと思うでもなく、そばでただ聞いていることは以前よくありました。無感動なわたしにかまわず、相手はエピソードを披露して気がすむまで、ひとしきり語り続けます。
しかし、それも間遠になり、やがて自然に話題に出なくなります。むろんこちらから促すようなこともありません。代わりにスポーツ談義、あるいは政治談義、そして種々の事件談義と相成ります。
いっさい話に出ないのが自己のことです。せいぜい持病自慢に終始するぐらいがせきのやまといったところでしょう。
老人とは、あるいは老人になるとは、かくのごときものか。
退職前後から声をかけられて出かけてゆく会合がいくつかありましたが、コロナ禍を機にすべてぱたりと途絶えました。それでいい、とわたしは思っているのです。

イタリアのテルツァーニというエッセイストがおります。何冊もの著書があり、本国では最も信頼されている一人ということです。この人のことを詳しく知っているわけではありませんが、著作から、確かに非常に深い思索家であることがうかがわれます。末期ガンを患っていて、ヒマラヤの何処かで暮らしていると聞いたのはもう何年も前です。
あるとき佐々木先生にこの人物のことをお話したことがありました。関心をもって聞いてくださった。メールのやり取りですから、丹念に探せば記録が残っているはずですが、わたしがお伝えしたのは、人は人生の大半をすぎたあとになって、記憶に値するなにも自分の人生に起きなかったという事実に気づかされる、とテルツァーニが語っていることでした。
この心境を人は避けてとおることが出来ないもののようです。ましておびただしい書物や文献資料に取り囲まれて半世紀も学究として過ごしながら、あるときふと気づいてみると、自分のなかががらんどうでなにもない、という事実に人はどのように耐えるのか。
壮年期まで自らに期するところあった人であれば、なおさら落莫の実感は痛切をきわめる。
そういう人々を、何人もわたしは知っています。幸か不幸かは推測の限りですが、多くの先輩方がすでにこの世の人ではなくなりました。神田神保町の古書店街をあるいていると、店先に投げ出されるように置かれた段ボール箱に目が行きます。無造作に突っ込まれた廉価本のなかに、わたしの知る人の蔵書だったとおぼしい書物を見かけることがまれではない。遺族が始末に困って引き取らせたのでしょう。わたしは手に取って購入するときもあれば、もとに戻すこともあります。
感傷にふけるわけではありませんが、学者や教授として生きられた人生の多くが辿る行路(末路?)を、勤務先大学がごく近いので、まるで日常のようにわたしは目の当たりに見てきました。
数日前も古い友人から葉書が届き、われわれの先輩である方が先月中旬物故されたことが分かったと知らせてきました。満九十歳だったそうです。この先輩はわれわれの共通の恩師の一番弟子と目された人でした。
立野よ、やたらに書くな、筆を惜しめ、惜しんで書け、というのが後輩やわたしのような若輩に対する先輩からの忠言でした。事実、著書は生前一冊のみ。学生にシェークスピアの面白さを分からせたいという趣旨で書かれた啓蒙書です。
恩師ご自身が著作の極度に少ない人でした。弟子筋がみな師にならったと言えば聞こえはいいでしょう?が、翻訳は何冊かあっても自著を持つ人はあまりおりません。わたし自身も六十歳までただの一冊も著書を上梓したことがありませんでした。還暦を目前にして、ある日冷水を浴びせられた心地を味わったのを覚えています。おれはいったいなんなのだ、と思いました。大学のロクを食んでいままで三十年やって来たというのに、仕事が全然かたちになっていないではないか。そこへ思いを致して茫然となりました。
さいわい督励してくれる人々がいて、とにかく一冊はかたちにしてから還暦を迎えようと腹をくくりました。
したがって、遅きに失した出発どころの話ではないわけです。まして遅れを取り戻すどころではない。世間の同年代の人々は引退して孫の話を楽しそうにしている。サッカーだの、野球だの、相撲だのの話に夢中になっている。
どれも無骨者のわたしが興味を持てる話ではありません。好きな映画でさえ、ロッキーだの、カンフーだの、フィールドオブドリームだの、といったスポーツや格闘技を扱った作品は評判のよしあしにかかわらず見ない。
とにかく、そんなこんなで、自分の老いという現実とどのように向き合うかを考えざるを得なくなったわたしは、遅きに失したとはいえ、ものを書こう、書き続けられるあいだはものを書こうと思い定めた次第です。
そして、そういう矢先と言ってもいいころに、佐々木先生のモノディアロゴスに遭遇しました。そのときのわたしの内側に生じた驚嘆の念を、ひとくちで言い表わすことはとても出来ません。なんという膨大な日々の思索の営みであろう! モンテーニュやアミエルやピープスといった先人の例は知っていましたが、同時代の日本で、佐々木先生のモノディアロゴスのような豊かな批評的思索の営為、半ば私的半ば公的な言表空間を自分が見いだすことになろうとは想像のほかだったのです。
ここで阿部さんとも出会いました。初めはコメントを愛読していただけだったのが、その欄を談話室と改称していただいてからは、遠慮なく上がり込むようになりました。水を得た鯉と申すのは僭越ですが、初めのほうに書いたような無感動に相手の話を聞いているという状態とは打って変わり、言いたい放題に振る舞わせていただいたのです。阿部さんとはいまも連日のように筆談対話を続行させていただいています。腹蔵なく語り合うことの出来る最良の友を引き合わせてくださったのも佐々木先生でした。

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吉里吉里国独立す

あと数時間でスコットランド独立の是非を問う国民投票が決着するそうだ。昨日だったか、あるテレビの解説者が、経済的な損失を考えると独立を言い出すなんて気が知れない、などと言っていた。たぶん彼は、今回の騒動が何に起因していたのか、またその帰趨までも予測できる事情通なんだろう。でもどちらに転ぶにせよ、独立の是非を経済的損得勘定で割り切るその姿勢に大いに疑問を感じた。しかもよその国についてよく言うよ、というわけだ。
 だからこれから書くことは、良く言って「岡目八目」。つまりイギリスの正式名称が「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」であることを今回改めて確認したという全くの素人の、その床屋談義である。もともと独立した王国スコットランドがイングランド王国に統合されたのが1707年、ウェールズの併合はそれよりずっと前の1284年、それら三つをグレートブリテンと言い、さらに1949年に北アイルランドがイギリスの統治下に入るという実に複雑な構成の国であることを調べたところだ。
 スコットランド独立の動きはこうした入り組んだ関係の中から出てきた問題だから、私のような素人が軽々に口を出すべきではないのかも知れない。しかしそこに固有の問題があってのことだとしても、私からすればこの先世界いたるところに起こるべきして起こる大きな地殻運動のその兆しの一つに思えてならない。或る意味ではウクライナ問題もその一つであろうし、良くは知らないが最近(いやずっと昔から)のスペインのバスクやカタルーニャの動きもそうであろう。(もちろん渡辺一技さんが真剣に取り組んでおられるチベット問題然り)
 要するに、これまで折に触れて言ってきたように、とりわけ原発事故後に強く感じているのは、近代国家という枠組みそのものが金属疲労もいいところ、とっくにその役割を終えているということ、それを無理に維持しようとするところから、現在地球上いたるところでの分離独立運動やら国家間紛争が発生しているという見立てである。
 もちろん新しい国のあり方に成功しているところなどどこにも無い。一歩先んじたEUも雲行きが怪しくなっている。でもそれはいわば産みの苦しみであり、方向性としては決して間違っていないと思う。
 こういう過渡期にあるにもかかわらず、わが国の為政者たちは相も変わらぬ古い国家観に固執してるどころか、安倍首相などは富国強兵という明治初期の長州イデオロギーに先祖返りしていて恥じるところが無い
 昨今の日本の政治を考えると、どこにも出口の無い閉塞状況の話になるので、話を元に戻して再度繰り返すが、今回の分離独立問題が表面化したのには、それ固有の下地があったにしろ、一般論としては時代の必然性が働いていると思わざるを得ないのである。もちろん独立したスコットランドが、旧態然としたもう一つの国家になるだけだったら、反対派が言うようにあまり意味のある決断とは言えない。つまり単なる分離独立ではなく、そこに新しい国のあり方への果敢な挑戦があってほしいわけだ。核のない国、北欧並みの福祉国家を目指すという賛成派の意見に期待したい。
 今回のニュースを見ていて急に井上ひさしの『吉里吉里人』を思い出した。経済立国・工業立国を追い求める中央政府に対して、東北の地に金本位制・農業立国・医学立国・好色立国を目指すユートピア国建設の夢を語った小説である。いちばん最後のスローガンは井上ひさし特有の冗談としても、「方向性」としては実に卓越した思想の筋が通っている。発表後、日本各地に町興しの余興として擬似独立国が生まれたようだが、それらは冗談を冗談として受け入れただけで、小説の根底に横たわる井上ひさしの骨太の思想が真剣に受け取られたわけではない。
 当時、本土での商売がらみの反響とは違って、沖縄ではかなり真面目な共感が寄せられたと聞く。これも原発事故以後のわが貧しい覚醒の一つにオキナワ問題があるが、そこに難しい課題が横たわっているにせよ、いつか沖縄がかつての琉球王国のような自主独立の歩みを再開してほしいと密かに思っている。いや沖縄の先鋭な論客・知念ウシさんの言うように、ヤマトからオキナワの独立というより、オキナワに甘えに甘えてきたヤマトのオキナワからの乳離れこそが求められている。 さてわがトウホクはどうか。坂上田村麻呂の時代から征伐の対象であり、以後現在に至るまで中央政府の収奪の対象であり続けたわが東北はどうあるべきか。吉里吉里国独立の話を単なる寓話・おとぎ話で終わらせていいのか。
 先ほど新潮文庫三巻を簡易合本にした『吉里吉里人』(通巻1,500ページ余)を探し出してきて、古ジャンパーの切れ端で背革布表紙の豪華美本に作り変えた。今日から、机のすぐ横にある手作り本棚に、これまた全巻革で装丁し直された『イェルサレム聖書』(スペイン語訳)の横に並べるつもりである。吉里吉里国の顰に倣った新版相馬藩、いやせめて南相馬文化特区の夢を紡ぐヨスガにと念じつつ。

※追記 国単位の問題とはレベルを異にするが、例の町村合併の思想も、近代帝国主義路線の併合・合併の思想と同じで、ひたすら強大な中央政府の統治しやすさだけを考えた悪法・愚策であることは間違いない。各地方が持っていた固有の文化や風習の破壊が結果していることは明らかである。要するに大切なもの・貴重なものを維持するのは、合理性・利便性だけを旨とする思想にとってやっかい極まりないこととしか見えないわけだ。かつて永井荷風は『日和下駄』の中で、東京の街から散歩のたびに貴重な懐かしいものが消えていくことを嘆いたが、現代では更に高速で伝統的なものが消失している。列島改造論に代表されるいわゆる「更地の思想」が日本ほど徹底している国は世界中どこ探しても無いことだけは断言できる。

※再追記 どうやらスコットランド独立は否決されたらしい。でも賛成派は今回の「反乱」によって、無血でさまざまな特権を獲得できそうなので、結果オーライと思っているに違いない。どちらにしても、今回の騒動でスコットランドは一躍世界の耳目を集めたわけで、世界各地の分離独立派に希望を抱かせたはずだ。新疆ウィグル族やチベット族など名前だけは自治区となってはいても内実はひどい圧制に苦しんでいる人たちに、今回のことが無血分離独立への一つのヒントになったのではないか。(この辺、かなり楽天的であること、書きながら認めざるを得ないが)
 ところで『吉里吉里人』のことだが、実は今まで読んだことがなかった。それで取り上げた以上は読まなければと読み始めたのだが、これがめっぽう面白い。しかもこれは私が買ったものではなく、私より数倍読書力も読書量も勝っていた美子の本なのだ。ついでに白状すると、昨夜来のことが引き金になったのか、今朝方、六時からの又寝の中で美子が口をきいた夢を見た。いや話すだけでなく車椅子から立ち上がったのである。以前、妻の夢をめったに見ないことに或る後ろめたさを感じていると書いたことがあるが、事実、認知症になってからも、妻の夢を見たことがなかった。それが夢の中では初めこちらの言うことを鸚鵡返しに繰り返すだけだったが、次の瞬間自分の言葉で話し始めたのだ。夢の中でも、これは一大事、美子の言葉をしっかり記憶しておこう、と思ったが、夢から覚めたあと、どうしてもその言葉が思い出せない。嬉しい夢なのに、後に残ったのはやり場の無い悔しさと悲しさだった。


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からのコメントを転載する(2021年3月21日記)。

吉里吉里は三陸沿岸町として実在しますが津浪で壊滅的打撃を受けました。わたしは小説を読んでいませんが、実在の町のイメージと小説の虚構のイメージとのあいだの「解離」になんとなく違和感を覚えたせいです。
しかし、先生のモノディアロゴスによれば、小説そのものはやはり一読に値するようですね。
ところで、スコットランドはなんども出かけておりますが、いつもエジンバラかグラスゴーを起点にもっぱら北上し、人家も見当たらないハイランド最北部の何処かに滞在するので、独立のことを現地の人々とじっくり語り合う機会もまれでした。
『ブレイブハート』のウォレスやロブ・ロイの物語が映画となり、ゆかりの地に観光客が増えたのが目立ちますが、ハイランド最北部の荒涼たる美しさはいつ出かけてもそのままです。


Jun Sasaki さん、国家廃絶に向けての思想的心組みをわたしは埴谷雄高を通じて学びましたが、そのこととは別の次元の物語として、リーウィウスの『ローマ建国史』のような史書を愛読しています。侵入してきた征服者に向かって、「わたしはローマの市民である!」と決然と言い放った市民の気高い故事などは有名なもので、つとに西欧では人口に膾炙しています。
近代日本には軍国主義的傲慢さはあっても、古代ローマの市民的気高さの感覚はついに確立しませんでした。
たとえば武士道は市民的精神とは類を異にしたものですね。問題はあくまで市民的自立の精神です。世界にひらかれた寛容さと物事に対する気高さの感覚をそなえた市民の絆ですね。吉里吉里人にそれがあるかどうか見てみましょう。


ローマ的洗練には欠けるとしても、スコットランドの人々には生活のなかに感覚や絆として気高いものや寛容さといったものがあり、それが直感されるのでわたしはいつしかイングランドよりもスコットランドの北部へ足を伸ばすようになりました。スカイ島のような辺境の寒村を好ましく思うのも、彼の地の漁村の人々との交流が楽しいからです。


スカイ島の漁師の家の二階に数日滞在したことがありましたが、そこの奧さんの父親がむかし小学校の校長を務めた人ということで、一人の日本人と親しく文通を交わしていたそうです。よくよく聞いてみると、その日本人は英文学者でスティーヴンスンの小説を訳しており、さらには、スコットランドの民族叙事詩オシアンの物語を訳すので、ゲール語を学びたいと校長に依頼して、それを引き受けたため長期の文通を取り交わすことになったというのです。スティーヴンスンもスコットランドの出身ですが、その小説もオシアンものちに岩波文庫に収録されました。さいわいわたしは訳書を読んでいたので、漁師の奧さんから詳しい話を聞くことが出来たのです。
スカイ島の歴史の本も借りて読み、その本が絶版だったので読み終わったら返すという約束で旅のあいだ貸してくれました。南下して旅を続け、アイオナ島の古書店で同じ本を見つけましたから、地元の郵便局から無事に送り返すことができましたが、ただの口約束だけで、行きずりの旅人に、貴重な父親の蔵書を無期限で貸してくれるという親切と好意。その魂に根ざすものこそ、わたしが旅で学んだスッコトランド的なるものと思っています。

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原発事故で見えてきたこと

※以下の文章は、昨日、ソウル大学「統一平和研究所」主催のシンポジウムで朝鮮語に訳されて発表されたものである。『左膳、参上! モノディアロゴスⅩ』には既に全文収録されているが、ネットで公開するのは初めてである。少し長いものだが、原発事故後の私の考えを総括するものとしてぜひ皆さんにも読んでいただければと思う。


東日本大震災・原発事故を被災して(仮題) 

 ソウル大学「統一平和研究所」の金聖哲教授から研究所の皆様宛てのメッセージを、それも学術論文ではなく(もともとそれは私には無理でしたが)、今回の原発事故被災者の一人として何をどう考えているのか、率直に書いてもらいたい、さらには会議に参加するようにとのお誘いを受けたときは、大いに喜び、そして光栄に思いました。ただし会議出席の方は家内の介護のため断念しなければなりませんでしたが、このメッセージを訳された韓南大学邢鎭義教授が私の代わりに出席してくださることになったので、邢教授には大いに感謝し、そして研究所に対してはこうしてご好意になんとかお応えできることを嬉しく思っております。 本題に入る前に、貴国ならびに皆様に対する私の率直な思いをお伝えしたいのですが、これについては拙著『原発禍を生きる』の韓国版や京郷新聞のインタビューなどですでに語っておりますので繰り返しを避けます。しかし、原発事故のあとの思わぬ展開の中で、在日の方々や韓国の友人たちとのお付き合いが始まり、長年の願いがこの歳になってようやく実現したことを心から嬉しく思っていることだけはぜひ申し上げたいと思います。
 さて本題に入ります。といって、国際政治や平和問題に造詣の深い諸先生方に対して首肯に値する卓説を用意しているわけではございません。ただ2011年3月11日のあの東日本大震災・原発事故によって私たちの住む、福島第一原発から25キロほどの地帯が最初は屋内退避区域、次いで緊急時避難準備区域に指定され、思っても見ぬ災禍に見舞われましたが、その渦中で考えたことのいくつかを、それこそ無手勝流に申し上げるだけであることをどうぞ御理解ください。
 いま無手勝流などという言葉を使いましたが、もともとこの言葉は塚原卜伝という剣豪の「戦わずして勝つ」という戦法を指していますが、私の言う意味はそのような高等戦術ではなく、何の戦略も武器も無しに素手で立ち向かう徒手空拳と同じ意味です。実は今回のお招きに応じることだってそうですが、原発事故に遭いながらも、そしてその廃絶を目指して残り少ない人生を賭けようと思いながらも、私は未だに原発の仕組みや歴史、さらには放射能と放射線の違いという、今では小学生でも知っていることすら知らないし、この先知ろうとも思っていないのです。
 つまり事故以前から原発には最初から反対しましたが、その理由は実に簡単明瞭でした。要するに核エネルギーの平和利用とか安全利用などというのは実にいい加減な詭弁であり、その廃棄物の安全確実な再利用法が完成しないうちに見込み発進したこと自体言い逃れようのない愚挙である、という実に単純明快な考えからでした。物理学や放射線学を修めた最高の知性集団に、素人の私にも一目瞭然のこの事実がなぜ分からないのか、未だに大きな謎です。
 一つ考えられるのは、彼ら専門家集団・推進者の思考回路には、それがなければ人間の理性がいつか踏み誤る回路、すなわちスペインの哲学者オルテガの言う「往還の回路」が欠落していた、いや今なお欠落しているのでは、ということです。つまり科学研究の場合で言うと、いま研究している対象が人間の生にとって果たして最終的に有益なものかどうかを、絶えずフィードバックする回路です。この場合大事なポイントは、作業の一貫性とか効率性ではなく「人間の生」にとって有益か、という一点です。それがなければ悪しき意味でのスコラ哲学的迷走を始めてしまいます。よく引き合いに出される中世ヨーロッパの笑い話に、煩瑣な哲学論議の果ての、あの「針の尖に天使は何体とまれるか」というのがありますが、それと同じ迷走を演じてきたのでは、と考えています。
 先ほどは無手勝流という私の基本的な姿勢を述べましたが、別の言い方をすれば物事を根源から見るという立場でしょう。つまりラディカルな見方です。政治的な訳語としては過激派と訳されるかも知れませんが、生来ノンポリ(非政治的)の私ですから、ラディカルという言葉の語源の根っこ(ラテン語の radix)をもじって根っこ派と自称することもあります。時にそれを「奈落の底から」とか「魂の重心」などと表現して来ましたが、すべて同じ意味で使っています。別言すれば物事をその生成の瞬間・状態において(ラテン語で言うところの in statu nascendi あるいは in fieri)見る、立ち会うということです。
 原発事故のあと、外出も控えての籠城生活を余儀なくされた一時期、次々と流されるテレビの画像を見ているときに、とんでもない発見をしたのもそうした視点に立っていたからです。いや発見などと大層なものではなく、実は誰もが知っていて、それでいて気づかない或る重大な事実、すなわちこの世界は投機で動いているという厳然たる事実です。大津波や原発事故関連のニュースのあと、画面が切り替わって、アナウンサーは事も無げに「さて今日の株式市場は…」と続けたのですが、それまでは何とも思わなかったこの流れが実に奇妙で理不尽なものに思われたのです。事故や戦争の結果、株価に変動が生じるのはいつものことですが、しかし良く考えてみるとその原因と結果が、ちょうど鶏と卵の連鎖関係になっていることが分かります。つまり戦争があったから株価が変動するのか、それとも株価の変動を見越して戦争があるのか、それこそ綾目も分かたずに繋がっているのですから。世界がこういう動き方をするようになったのはいつからでしょう。経済学にはうとい私には分かりかねますが、しかしそれほど遠い昔からのことではないはずです。極論を言えば、この世は理想とか信念、あるいは人間の善意などによって動いているのではなく、投機あるいは投機心で動いているというなんとも味気なくも情けない現実です。
 もちろんこのような世界の仕組みを元に戻すことなど不可能です。しかし少なくともその事実をしっかりと認識し、これ以上おかしな事態に進まないように、皆が知恵を出し合うことが必要でしょう。
 そういう意味からすれば、9.11というもう一つの悲劇の日に、世界貿易センターがテロの標的になったのも、絶対に許されないことではありますが、それなりに理屈には合っていたわけです。つまりテロリストからすれば、アメリカ主導の世界経済の動きに対する異議申し立てでもあったわけですから。
 以上が震災・原発事故の直後に考えたことの一つですが、もう一つそれに負けず劣らず根源的な問題がありました。それは私たちにとって「くに」とは何か、という問題です。つまり元はと言えば国策によって生じた事故で、それまでの日常が一瞬のうちに崩壊しましたが、その奈落の底で見えてきた問題です。そして事故後から踝を接するように次々に起こった領土問題、従軍慰安婦問題、さらには沖縄の米軍基地問題などでこの難問はより一層深刻かつ焦眉のものとして迫ってきました。
 この政治問題を国内的側面と国際的側面とに分けることなど不可能なくらい両者は分かちがたく連関していますが、今は便宜的に分けて考えてみます。まず国内的な問題としては、この事故によって原発が国のエネルギー政策によるものであることを改めて認識させられただけではなく、原発は決して国民の安全・幸福に役立つものではないという苦い現実が突きつけられました。とりわけ日本のような地震多発国にとってこれだけの数の原発を設置したことは、ちょうどいつ暴発するかも分からない爆弾をやたら抱えこんでいるようなものです。しかも福島第一原発の事故が汚染水の処理など未だに収束からほど遠いのに、現政府は多数の国民の不安や反対を無視して再稼動に踏み切ろうとし、さらには海外への輸出さえ断行してきました。
 問題は、こうした政権に対して国民の意思をどう反映させるかです。選挙制度の見直し、中央政府と地方行政のバランスつまり地方分権の問題、などなど課題は山積しています。しかし事故後、私にはそうした政治問題の根底に横たわるもっと大きな問題が見えてきました。私はそれを国民それ自身の中に広がる液状化現象と呼んでいます。今回の大地震によって近県にもまたがる広い地層内部での液状化が問題になりましたが、それよりも深刻な魂の液状化現象のことです。ですから事故後しきりに叫ばれた「絆(きずな)」と言う言葉が実に空疎に響きました。人と社会、人と人を結んでいたと思っていた繋がりがいたるところで断ち切れていたからです。自分の目で見、自分の頭で考え、そして自分の心で感じる者たちの強い繋がりではなく、危急の時にはたやすく切れてしまう軟弱な社会であったことが露呈したのです。
 たとえば事故後の最初の国政選挙であった参院選で福島県は一人区でしたが、自民党候補者が圧勝しました。そこには自民党議員でありながら脱原発や廃炉を訴えるというサギまがいの戦術があったとはいえ、被災民自身の意識が低く、そして当然感じるべき怒りが極めて希薄で、調子のいい言葉にたやすくなびいたということです。日本人は我慢強く、助け合いの精神に富んでいるという評判の実態は大いなる買い被りだと言わざるをえませんでした。上は事故後の行政の対応の仕方から、下は日本郵政や銀行その他の社会構造のいたるところに、平常時には見えなかった脆弱さ、もっとはっきり言えば「想定外」という言葉に代表されるような、あらゆる局面での責任逃れの構図が露呈したのです。
 南相馬市の南部は小高区といって最初は警戒区域として立ち入りが出来ませんでしたが、現在はそれも解除され、大部分は私の住む原町区とほとんど変わらない低線量の地帯です。しかし現在もなお無人境のままです。私の母方の親戚が多く住んでいましたが、彼らは今なお仮設住宅や遠く離れた他県に暮らしています。私は時おり人を案内して小高に行くことがありますが、そんなとき、やり場のない不思議な怒りを覚えます。そして内心こう叫びます。私だったらもうとっくに住んでいるぞ、と。
 私は敗戦の時は6歳で、家族は旧満州の熱河から引き揚げてきました。父は敗戦の二年前、治療する医師もいないその僻地で病死しました。ですから当時の日本人の苦しい生活を知っています。国自体が崩壊したわけですから、国にも誰にも頼れず、しかもその日その日を必死に生きなければなりませんでした。食事にありつけるだけで御の字と思っていました。
 しかしいま被災地の人たちに当時の日本人の生きる力・気力は微弱にしかありません。震災後、暴徒化したり略奪行為に走ったりするようなことはありませんでしたが、しかしそれとは裏腹に、未だに自力で復興する気のない、すべてを「お上」まかせの依存体質の国民になっていました。つまり遵法精神とか法治主義というより、自ら考えることをしない国民、言葉は悪いですが馴化・家畜化された国民に成り下がっていたのです。
 こうしてすべてが国まかせ、補償金待ちの状態ですからストレスが蓄積していきます。長らく沖縄でPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療に当たってきた蟻塚亮二医師は昨年から隣の相馬市でメンタル・クリニックを開院しましたが、その彼によると、いま被災地で問題になっているのは放射能禍ではなくストレス症候群である、と明言しています。私の見立てもそれに近いです。
 こう考えてきますと、単に被災地だけでなく国そのものの真の復興のためには政治の仕組みや選挙制度を変えることなどでは足りず、国民一人ひとりの覚醒が必要だということが分かってきます。でも悲観的なことばかりではありませんでした。事故後、ちょうど液状化した地層の所々に打ち込まれたパイルのように、更なる液状化を止める頼もしい人たちがいたことも嬉しい事実です。社会全体の液状化を止めるこうした有意の人を育てていくこと、それがもっとも肝要なことだと思います。
 私は長らく教師をやっていましたから、国民の真の覚醒のために教育が重要なことは痛いほど分かります。しかし現実の学校教育の実態はこれまた嘆かわしい状態になっています。知識を記憶させることには熱心ですが、生きる力、考える力を養うといういちばん大事な教育がないがしろにされてきました。
 大震災直後、被災地の学校はすべて閉鎖されて避難所などに使われましたが、私は当時ブログにも書いたように、真の教育に目覚めるための好機到来とばかり内心期待したものです。つまりこの際、教師も親も、そして当事者である児童も、教育とは、学ぶとは何かを考え直す絶好の機会だと思ったのです。この機会に親と子が向き合い、日ごろ読めなかった良書をじっくり読んだり、時おり巡回してくる教師に課題を出してもらったり質問したりできる手作り教育の好機と思ったからです。これからの長い人生にとって、半年あるいは長くて一年のこうした体験は実に貴重な財産になったはずです。しかし実際は30キロ圏外にある学校にバス通学をさせ、教室が狭いので廊下で学習させるなど実に愚かな対策を講じました。教育関係者には明治開国以来の盲目的学校信仰が骨がらみになっていたわけです。
 最近の新聞紙上では経済協力開発機構(OECD)が実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果が話題になっていますが、それについて私はきわめて懐疑的です。たとえば問題処理能力で日本の子供は好成績を上げたそうですが、これについては完全に否定的です。コンピュータ・ゲームなどでの障害物や迷路を抜け出す能力は一種の慣れの、想定内の問題ですが、しかし今回の原発事故のようなそれこそ想定外の「問題群」に対しては無力であることは、大人たちの体たらくを見てもはっきり証明されました。想定外の問題に対しては、ろくろく学校にも行けない発展途上国の子供たちの方がはるかに高い能力を示すであろうことは容易に「想定」できます。つまり人間にとってより重要かつ手ごわいのは、「生きる」ことに直接かかわってくる、つまり「死活の」問題群なのです。
 さてこうして書いてきましたが、与えられた紙幅がどれほどのものなのか、さらには求められたメッセージが以上のようなものでいいのかどうかさえ怪しくなってきましたが、ここまで来ましたのでもう少し続けさせていただきます。つまり国内的な側面はこれくらいにして、国際的な側面に話を進めさせていただきます。
 これまで述べてきたことと地続きのことですが、奈落の底ではっきり見えてきたのは、日本のみならず現代世界全体が陥っている進歩幻想、すなわち何のための進歩かを問い直すことをしないままの闇雲なまでの進歩幻想です。とりわけ日本は明治の開国以来、欧米に追いつけ追い越せの「富国強兵」路線を突っ走って来ました。「近代」がもたらした経済優先、効率優先、快適・利便優先に骨がらみになって来ましたし、現政権のキャッチフレーズ「アベノミクス」にも明らかなように経済優先路線が時代遅れの国粋主義的思想(注1)と奇妙な複合体をなしています。
 スカイ・ツリーのフアンには申し訳ないですが、無駄に高いあの塔が、重心のやたら高い日本の姿を象徴しているように見えてきます。さらにこんな格言も思い出します。「馬鹿と煙は高いところに登りたがる」と。
 前述しましたように、大震災・原発事故に続けて起こった領土問題などではっきり見えてきたのは、そうした効率優先の「近代的思考」のもう一つの産物たる近代国民国家の仕組みがもたらす深刻な弊害です。つまり小さな無人島をめぐっていまだに「固有の領土」を主張することの無意味さ、それに気付かない政治家たち、そして国民たち、の蒙昧さです。それは日本で同時期に再燃したオキナワ基地問題にも繋がっていきます。
 近代国家とは一般的に言えば中世封建国家や近世の絶対主義国家の崩壊後に成立したもので、国民の代表機関たる議会制度,統一的に組織された行政制度,合理的法体系に基づく司法制度や常備軍制度など,中央集権的統治機構を備えた国家ということでしょう。しかしとかく忘れがちなのは、こうした近代国家の枠組みがたかだか数世紀の歴史しか持たない過渡的なものであり、決して未来永劫に続くはずもない、という当たり前の事実です。先般来のウクライナの場合もそうでしたが、1998年のコソボ紛争その他世界各地で起こっている紛争でも、これまで多少の問題を抱えながらも民族・宗教・言語の相違を越えて平和裡に共存していた人たちが、互いの国籍・領有権をめぐって鋭く対立し、多くの犠牲者を出してきました。
 でも最初にお断りしたように国際政治に関しては無知に近い私なので、この話題をこれ以上は続けない方がいいでしょう。ともかく日本名でいうところの尖閣諸島や竹島をめぐって日中、日韓のあいだで対立が始まったときにもブログに書きましたが、たとえ国際司法裁判所に調停を願い出たとしても、当事者双方が納得できる調停案など出るはずもありません。なぜなら過去のある時点を境にすべての国が納得ずくで国境を定めたのでない限り、互いの領有権論議はどこまで遡っても妥協点が見つかるはずもないからです。私からすれば解決法はただ一つしかありません。すなわち領有権はひとまず棚上げして(でも私の願いは永久に、ですが)係争地を双方の共同管理にすること、その近辺に地下資源などがある場合はそれを完全に折半するということです。
 いやいやもっと根源的なことを言えば、相手が気に入らないからと言ってどこかに引越しできるわけでもなく、この世が続く限りお隣さんなのですから、仲良くしなければ損だという当たり前の理屈です。
 これをお読みの先生方は(もしもお読みになればの話ですが)なんと乱暴な素人論議だこと、そんなものは素朴な感情論に過ぎないと言われるかも知れません。しかし理性は大きく間違えるが、感情は小さくしか間違えません
 あるとき原発推進派と反原発派の論客とが討論するテレビ番組を見たことがあります。推進派は今回の事故はあくまで万に一つの事故で、それに対しては衷心からの反省の気持ちを表したいが(本当ですか?)、しかし…と、原発がいかにエネルギー源確保にとって大切か、そして事故を未然に防ぐための研究も着実に進んでいる、と縷々自説を展開しました。そのとき悟ったのはいかに感情論と軽蔑されようが彼ら専門家の用語や論理に乗っかることがいかに不毛な論議に繋がるか、いや不毛どころかいかに危険か、という一事でした。
 平和問題の専門家の皆様を前に申し上げるのは不遜の誹りを免れないかも知れませんが、平和論議も同じではないか、と思っています。関が原やワーテルローでの兵士同士の戦いの時代ならいざ知らず、ミサイルや核兵器を使っての現代戦においては、たとえ自衛のためとは言えいかなる戦争も許されないと思います。今から冷戦時代を振り返ってみれば、そうした対立が互いに手持ちの戦力をちらつかせながらの愚かなチキンレースであったことは紛れようもない事実なのですから。
 先ほどこの世界は投機で回っていると言いましたが、同時に地球を何千回も破壊できるほどの核弾頭で覆われている、これにさらに原発所在地を示す赤丸を満遍なく印していったら地球は真っ赤に染まってしまいます。これはどう考えても狂っているとしか言いようのない世界です。ここでも先ほどと同じことを繰り返し言わなければなりません。すなわちこうした世界の現状を一気に元に戻すことはほぼ不可能である、しかし私たちはこんな狂気の世界に生きているんだということを事あるごとに思い返し謙虚になることです。現代と同じく戦乱と狂気の時代であった十六世紀のユマニストたちが言ったように「この狂気の時代にあって、唯一残された道は、いかにして正気であり続けるか」なのです。
 あるいはセナンクール『オーベルマン』の主人公の言葉をもじって言うなら、「世界は狂っている。――確かにそうかも知れない。しかしこれに抵抗しようではないか。そして、混乱と狂気が世界を覆っていようとも、それを当然と思わぬことにしよう」と。
 初めて皆様にお話するというのに、終始暗い内容になってしまったことを心苦しく思いますが、それも「奈落の底」からのメッセージと思ってお許し下さい。でも最後に少しは明るい話題で締めくくりたいと思います。実はすでにブログには書いたことなのですが、領土問題が持ち上がっていたころ、こんな夢を語りました。すなわち尖閣諸島や竹島を最も建設的に利用する方法です。つまりそれらの島々にそれぞれ当事国同士が最高の技術や資材を出し合って、一大合宿所を建設し、そこで当事国の若者たちが互いの文化や歴史を学習し親睦を深めるという夢です。これはどんな空母や戦闘機にもはるかに勝る最強の防衛施設ではありませんか。
 でも現実はそんなことを夢見ることさえ許さない厳しいものになっています。本当に残念で、そして情けない。お隣同士がいがみ合っている嘆かわしい現実。そんなときにいつも思い出す場所があります。アルザス・ロレーヌ地方です。何世紀にもわたって独仏両国の流血が絶えなかったその係争の地が現在は両国友好と相互協力の磁場に生まれ変わっているという事実です。あるいは領有権はフィンランドにありながら住民の九割はスエーデン人で、しかも永久に非武装中立を誓ったアハベナンマー(スエーデン名はオーランド)諸島のことです。
 そして今のところはまだよちよち歩きのEUのことです。その成立事情には詳しくありませんが、初めはヨーロッパ経済共同体(EEC)でこじんまりと出発し、次いでヨーロッパ共同体(EC)に,そして現在は加盟国も格段に増えてのヨーロッパ連合(EU)にまで成長しました。素人考えですが、かつての近代国民国家という枠組みを緩やかに解体しつつあります。東アジアにも同様の道筋をたどってほしいと願うのは単なる幻想でしょうか。 
 かつて国際連盟のスペイン代表を務めたサルバドール・デ・マダリアーガという思想家に、皆様もどこかで聞いたことのある有名な言葉があります。「イギリス人は歩きながら考え、フランス人は考えた後で走り出し、そしてスペイン人は走った後で考える」。これは島国、大陸、そして半島に住むそれぞれの民族を、行動の人、思考の人、そして情熱の人とする面白い比較文化論です。もちろん彼の説を日本、中国、そして韓国にそのまま当てはめることは無理でしょう。でも私が言いたいのはイギリス、フランス、スペインよりもはるかに密度の濃い歴史的・文化的相互交流を経た、しかも現代に入ってからは流血を伴う不幸な歴史を持ったアジアの三国が、互いに相手の長所、時には短所をも認め合って、相互に裨益し合う真の交流が、政治的な軋轢などでびくともしない堅固な友情で結ばれる日が一日も早く到来してほしいということです。
 もしも私に財力があれば、いやその前に充分な時間が残されているなら、その時間そして私財と体力・知力を投げ打ってでも南相馬(注2)に三ヵ国語学院を作り、次代の東アジアの平和と友好に役立つ子供たちを育てるのですが、それはかなわぬ夢ですから、日々細々と、しかし諦めずに平和菌(注3)をばら撒き続けましょう。最後に来て、佐々木よ、なんたる血迷いごとをと呆れるかも知れませんが、三ヶ国語学院というのは現代と同じく戦乱と昏迷の時代でもあったあのルネサンス期のブリュージュでエラスムスなどが教えた人文学の学校を真似た塾のことです。もちろん当時はラテン語・ギリシャ語・ヘブライ語の学院でしたが、私が妄想するのは中国語、朝鮮語、そして日本語の学院です。
 これも私の持論ですが、経済分野のグローバリズムはいざ知らず(これとて私自身はかなり懐疑的ですが)文化の領域でのグローバリズムにはむしろ反対です。旧約聖書に出てくるバベルの塔は、互いに意思疎通ができなくなる神の罰ととるのが一般的でしょうが、私からすれば互いに言葉が通じないことによって、相手をさらに知ろう、理解しようと努めるための神の粋な(?)計らいだったと解釈しています。ですからこの学院ではいわば当面のつなぎ役として、たとえば英語が使われることはあっても、目指すべきは三つの言語が同等の重要性と役目を持つべきだと考えています。
 おやおやまるで今にも実現しそうな話をしていますが、私には気力はあっても知力、体力は衰えかけています。どなたか蛮勇を奮ってこの学院創設に参加していただけたら、というのが、私の最後の夢です。
 ちょうど漠然と想定した一万字になりました。こういう場合、落語家はこう言って次の噺家に演台を譲ります。
 お後がよろしいようで…

 2014年4月5日、東日本大震災三周年にあたって
         被災地福島県南相馬市にて  佐々木 孝



注1 実は筆者はこのメッセージを書く直前に、太平洋戦争中は海軍の戦闘機乗りだった今年九十六歳の叔父宛ての公開書簡で、過去の過ちを率直に認めようとしない人たちが、それを認める人たちに投げつける「自虐史観」との批判にこう答えている。
「でも本当に謝罪したのでしょうか。領土問題に限らず、従軍慰安婦問題や河野談話や村山談話をめぐっての一部の政治家たちの再三にわたる発言・行動を見れば、それがまったくのまやかしである、と当該諸国が考えるのも無理はありません。たとえば従軍慰安婦問題ですが、南京虐殺問題の場合とまったく同じです。つまりわが国の一部の人たちはそれを公式文書が見つからないとか、規模・数字に誇張があったとして、行為そのものさえをも否定しようとしてきました。
 私はこうした態度は、過去の行為以上に絶対に許されないことだと思います。時に人間は過つもの、そして戦争の最大悪は、人的・物的損害よりも人間性を獣以下の状態に追い込むことです。しかし平和時に、正常な精神状態の中でおのが罪の言い逃れをしようとしたり、さらには行為そのものを否認することは、かつての悪行以上に人間の品性を貶めることだと思います。かつての過ちを心から悔い、相手方に率直に謝罪すること、これを自虐と言いふらすことの方が人間のさもしさ、情けなさを晒す自虐行為だとは思いませんか。自虐と言うなら、自らを三百代言に貶めることの方がはるかに自虐の名に値しませんか。」

注2 私の住む南相馬は、かつて200メートルの無線塔で有名でした(1921年完成、1982年老朽化のため解体)。これは現在のスカイ・ツリーのように、最先端の工学技術を駆使して、いわば国威発揚の象徴でもありました。しかしこの塔には悲しい歴史が秘められています。つまり危険な作業に使われたのは死刑囚と徴用された朝鮮人で、彼らのことは公式文書に残されていません。
 この塔は1923年、建設してまもなく起こった関東大震災で、いち早く世界にSOSを打電したことでも有名です。無線塔と関東大震災、スカイ・ツリーと東日本大震災・原発事故、偶然の一致とは言え私には不思議な暗合を感じさせます。
 だからこそ南相馬にぜひ三ヶ国語学院を、と願っているのです。

注3 震災後の籠城生活の中で作った戯れ歌です。歌詞の中にあるケセラン・パサランという言葉は化粧のための白粉を食べて生きるという伝説をもつ菌状の謎の生物で、キリシタン時代に伝わったスペイン語、qué serán, pasarán が語源だという説もあり、未だに謎の言葉です。スペイン語だとしたら、「どうなるだろう? なるようになるだろう」の意味になります。アメリカ映画『知りすぎた男』でドリス・デイが歌った「ケセラセラ(なるようになる)」を連想させます。

    
平和菌の歌  作詞・富士貞房 作曲・菅祥久 (「月光仮面の歌」の雰囲気で)          
    1  生まれは いずこか知らないけれど
       その働きは いつかは分かる
       柳眉逆立つ不美人さえも
       これをはたけば 楊貴妃に
       ケサランパサラン、コモパサラン

    2  そのわけ 何にも分からんけれど
       誰にも効き目は じわりと分かる
       争い、もめごと、戦争さえも
       これを被れば 茶番劇
       ケセランパサラン、コモパサラン

    3  見た目は カビと変わらんけれど
       漂う芳香 いつかは気づく
       虚勢や威嚇は ただそれ嗅ぐだけで
       馬鹿丸出しの 猿芝居
       ケセランパサラン、コモパサラン

    4  原爆・原発 被った今も
       懲りずに推進求めるアホは
       ほんわか菌を浴びるがよろし
       まことの幸せ 見えてくる
       ケセランパサラン、コモパサラン

    5  飛ばそ撒きましょ 平和の菌を
       みごと咲かせよ 心の園に
       あなたと私の垣根を越えて
       国境線さえ 消してゆく
       ケセランパサラン、コモパサラン

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我関せず焉の世界

数年前からこの奇妙な現象にうすうす気づいてはいた。それを漠然と「魂の液状化」などと呼んだこともあったが、数日来ようやくその現象がどういうものかが少しずつ分かってきた。要するに自分の内面が外に現れること、あるいは他人の内面を打ち明けられることを極度に、あるいは病的に、避ける傾向である。個人情報保護条例なるものは、そうした傾向を助長する、あるいは法的根拠を与えていると言ってもいい。
 もうすでに何度も書いてきたことだが、私などは常日頃、個人情報の大盤振る舞いみたいなことをやってきた。自分のことだけでなく、たとえば妻の認知症のことや排泄のことまで何の恥じらいもなく書いてきた。排泄のことまで書かれて、たとえ認知症でも奥さん可哀想じゃありませんか、と心配して(本当は非難して)くれる人がいるかも知れない。ところがどっこい、妻はもともと糞尿譚が大好きで、彼女が愛読してた本をざっと紹介しましょか。先ずは安岡章太郎さんが編んだ『滑稽糞尿譚 ウィタ・フンニョアリス』(文春文庫、1995年)という傑作アンソロジーがあります。もちろんこれは文豪・森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』をもじったもの。他にも山田稔『スカトロジア』(福武文庫、1991年)、さらには中村博『糞尿博士・世界漫遊記』(現代教養文庫、1983年、17刷)なんてものもある。
 ドリフターズがかつてなぜあんなにも子供たちに人気があったかご存知かな? それはだね、彼らがウンコとオシッコをうまくダシに使ったからに決まっている。ETがあれほど人気が出たのも、彼の顔かたちがなんとなくウンコに似ていたからに決まっている。
 おっと話が思わず臭い方にいっちゃったので本道に戻る。そんな私でもひとには言いたくない、あるいは言う必要もないヒミツ、墓場まで持っていくつもりのヒミツなどゴマンとある。つまりそれだけ人間の内面世界は広くて深いということだ。自分の内面あるいは本心を隠そうとしている人の、そのヒミツなど、どうってことないものばかりである。ここ数年のあいだ、私のそういう考え方に反発してというか警戒して去って行った数人の人のことを思い返しても、彼あるいは彼女のナイーブさは今もって謎いや滑稽である。たとえば彼は過去に悪所通い(古っ!)をしていたとか、彼女はいま不倫をしているとか、そんなヒミツをバラしたわけではない。名前も個人データもいっさい触れないで、つまり誰からも特定されない形で、その人の書いたものを、それも非難するためではなく褒めるために引用したのに、私はそういうことに慣れてませんのでやめて下さい、と言われて仰天したこともある。
 いや他人のことは言うまい。実は身内からも数日前同様のことを言われて(手紙で書かれて)一瞬心が凍りついたようなショックを覚えたばかりなのだ。幸いその人ならびにその周囲の人はインターネットを使わないので具体的に言うと、最近連れ合いを亡くした或る身内の深い悲しみ、そしてそこからようやく立ち直ったことを記した実に感動的な手記(私のところに署名入りで送ってくれた)、その他、例の吾峰会宛ての公開書簡、叔父へ手紙(これも公開済み)、ソウル大宛てのメッセージ、のコピー(私にとっては三点セット)をその人に送ったところ、私はこのように宛て先の違う複数の手紙を読む気持ちにはとてもなれません、転送はいかがなものでしょうか(この表現、いまどきの政治家みたいで大嫌い)、とのコメント入りでそっくり返送してきたのだ。初めその意味が分からなかった。中の二つともがその人にとってもそれこそ身内に関係した文書である。あとは吾峰会とかソウル大などその人とはまったく関係の無いいわば第三者宛ての文書である。前の二つが身内のものとはいえ、確かに内面に深く関わった内容なので、どうもそれに反撥したとしか思えない。どちらにしてもその人自身の内面の深淵を見せられたようで、私の方がうろたえた、というのが本当のところ。つまり個人情報が知れれることなど屁とも思わない私でさえ、そこまで自分の内面の実相をさらけ出す勇気(?)はないということだ。
 とにかくその手紙を見て、ちょっとやそっとでは立ち直れないほど落ち込んだのも事実である。ところが、である。「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったもので、それら文書の当事者の一人と言ってもいい人、もちろん身内である、からまことに嬉しい、そして美しい手紙を受け取ったのである。きれいな便箋にきれいな字と言葉でびっしり三枚にわたって書かれたお礼の言葉そして感想である。ここまで書いたからには、もっとはっきり言えば、健次郎叔父の長女、つまり私の従妹からの手紙である。本当は全文をここで披露したいのだが、さすがにそれは止める。要するに自分の父(私にとっては叔父)に、あのように温かな手紙を書いてくれたことへの感謝の気持ちが綴られていたのである。さすが我が愛する従妹よ!
 しかし私がもっと感動したのは、彼女にとっても身内である「あの人」の、その全編が一個の詩とさえ言えるあの手記に対する次のような言葉である。これはぜひ紹介したい。

 「ところで…さんの奥さん…の急逝にはびっくりしました。私も嫁いで以来お目にかかっていないので、お二人の記憶もままならないのですが、…の思いに触れて、わが身に迫る思いで涙が出ました。長年連れ添った人との別れは本当にお辛いものでしょうね。私達にもいつ死が訪れるか分からない残された人生、悔いのないように生きたいと思います」。

 だから人間は美しい、だから生きてるってことはすばらしい。魂が魂に触れた瞬間である。いっとき凍えていた私の魂がみるみる解け出して、温かな感動が全身を浸していった。
 われわれ日本人よりはるかに自己表出が得意な、ときにはそこまで自己を主張しなくてもいいんじゃない、と思うようなスペイン人に対してさえ、わが師ウナムーノはこんな苦言を呈している。どうして彼らは、まるで甲殻動物のようにわが身を鎧っているのだろう、どうして魂と魂が触れ合うことを避けているのだろう。そして冬の或る朝、総長官舎から大学への道すがら、歩道の並木同士が互いに地下で樹液を通わせ合っているんだとの一種神秘的な啓示に触れた体験を書いている。

 我らの梶井基次郎にもこんな言葉がある。

 桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
 これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。

 桜だけじゃない、人間同士も本当は互いに魂と魂で触れ合うべきなんだ。なぜ内面を隠しあって、このように冷たい人間関係を現出させているんだろう。魂をさらす、そして他人の魂に触れるのは、時には確かにタフなことだ。ウザいと思われることだってある。でも人間同士がそのように魂と魂の触れ合いを恐れていたら、生きていて他にどんな喜びがある?
 レイモンド・チャンドラーも似たようなことを言ってたよ。「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」と。
 先日もある人とメールで話し合っていたとき、期せずして意見の一致を見た話題があった。それはケータイとかメールの普及で、これまでとは比較にならないほど便利な世の中になったが、それと反比例する具合に互いの間の真の交流が出来なくなっている、ということ。それでいて相手が自分をどう思っているかが絶えず不安なものだから、しきりに他人の動向をうかがっている。
 たとえばいま校門を出たばかりの高校生が、自転車に乗りながらまるで軽業師のように器用にメールを打っている。誰に対して? いま分かれてきたばかりの友だちに対してさ。その内容は? さあ知らんけど、他愛も無いことだろう、たとえば今晩のテレビ何見る?
 これは会話なんてもんじゃない。ちょうどボクシングで言うジャブのように、相手が離れないように、同時に余りに近く寄らないように繰り出すジャブ、あるいは野球で言う牽制球のように、相手がこちらの意に反して勝手に走り出さないように時おり投げる牽制球みたいなものなのだ。その種の「情報」がびっしり隙間も無いくらいに(幸か不幸か電波は場所をとらない)人々の間を飛び交っている。
 一昔前までは近所に必ずいたおせっかい婆さん、あるいは爺さんはいまや絶滅危惧種になっている。いやもはや死に絶えている。彼女あるいは彼は近所のガキどもに煙たがられながらも健気に子供たちの安全を守っていたものだ。しかし今あるのは、いたるところに設置された監視カメラ。でも監視カメラは危険をあらかじめ察知し知らせる頭脳なんぞ持ち合わせていない!
 最近、特に被災地の仮設住宅などで老人の孤独死が多発している。「絆」要員(なんでこんなところにこんなイヤな言葉を使うんだろ?)がドアを叩いてみたが返事がないのでそのままにして一週間後にまた訪ねても返事が無い、それでようやく変事に気づいた、などととんでもない寝言を語って、だれもその怠慢を指摘することもない。要するに下手な干渉を避けて当然と思っているわけだ。昔だったらうるさいほどドアを叩いて、それでも返事が無かったら合鍵で開けるか、それもなかったらドアを蹴り破るくらいは当然の状況なのに。

 我関せず焉(えん)の非情な世界、何がキズナだ!!!いけねえ、またキモチ悪くなってきた。今日はこの辺で止めておく。


【息子追記(2020年12月1日)】
この出来事も、当のかかわった人たちに少しでも「末期の目」があり、父という人間、その取り組んできたものを理解していて下されば、その真意を汲み取っていただけたのにと思うと残念でしかない。しかし、人間社会の現実を思えば、仕方のないことといえば、そうでしかないかもしれない。肝心の息子が当時、戸惑ったのだ。でも、今は全く違う。ともかく人々の間には魂の歩みの差があり、人間理解への岐路があるのだと思う(魂においては通じていると思いたい身内においてさえそうなのだ)。物事の在り方、人間としての在り方を筋でしか捉えない人には、父はわかってもらえないかもしれない(と考えると、先行きは果てしなく暗い)。であれば、もはやそれまでなのだ。ただ、父も私も、どのように思われようが、揺るがない。 

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ストップ・ザ・進歩(続き)

一昨日から昨日にかけて、我が家は久しぶりに大賑わいだった。成田での香取神道流の集まりに来日したエバさん(拙著『原発禍を生きる』のスペイン語版の表紙絵を描いてくれた女流イラストレーター)とスペイン大使館勤務のかつての教え子・色川紀子さんが泊りがけで遊びに来てくれたからだ。実はもう一人、やはりマドリードの道場仲間の画家ビセンテさんも一緒に来てくれ(彼はすぐ近くのホテルに泊まった)、一昨日は福島からのバスを駅前のバス停で迎えてから、その足で六号線を北上して日立木の美味しい蕎麦屋さん、次いでその向いにある百尺観音(例の替え歌「原発難民行進曲」に出てくる観音様)などを見物したほかは、夕食をはさんで四人でさまざまな話題をめぐっての楽しいおしゃべりで時間を忘れた。
 昨日は伊達市で町興しのスタッフとして働いているベネズエラ帰り(確か海外青年協力隊員として)の■さんも来てくれ、午後一時の福島行きのバス時間ぎりぎりまで、またもや楽しいおしゃべりが続き、普段は埴谷さんの『死霊』に出てくる黙狂並みにひたすら沈黙を守っている私にとっては盆と正月が一緒に来たような、いやもっと適切な表現を使えば「そのまま思い出となるような」楽しい二日間だった。
 それはともかく、先日の尻切れトンボのその尻尾をつけないことには、本当に言いたかったことが伝わらないな、と気になっていたので、取ってつけたような尻尾に見えるかも知れないが大急ぎで書き足してみる。
 今回の騒動がアホらしいと思ったのは、要するにそれほど大騒ぎをするほどのことか、と言いたかったのである。たとえばスタップ細胞とかが医療に応用されるようになって、これまで不可能だった治療に革命をもたらしたとしよう。でもそのためには莫大な医療費が嵩み、その恩恵に与れるのはほんの一握りの富裕層に限られるであろう。いやいつかそれはさらに安い費用で庶民にも使われるようになる? そうかなー。今だって世界全体に目を転じれば、医師や病院がないため、あったとしても治療費、入院費が高額なため碌な治療も受けられずに死んでいく人の方が、病院などで治療を受けられる人よりはるかに多いんじゃない?
 いやちょっと話がずれてきたようだ。もちろん私は、病人は高額で高度の治療など受けずに、すべからく従容として死を迎えるべし、などと考えているわけでもないし、あの「ものみの塔」のように輸血拒否を勧めているわけでもない。でも内臓移植あたりまで来ると、他人がそれをすることに反対するつもりはないが、しかし自分のこととなるとその手術を受ける気にはなれない。本当に? もし自分の子供とか愛する人の場合も?
 もし現実にそういう事態なっても、と自信を持って言うことは出来ないが、しかし美子の認知症に関してはすでにどこかで書いたことではあるが、もう一度おさらいしてみる。もしも適切な治療法があればもちろん何としてでも受けさせたろうが、しかし少なくとも現状では治療法がないと知っていたので、そのための診察を受けることもしなかったし、ましてや各地の大病院や大学病院を訪ね回ることなど最初から考えなかった。そしてもしもこの先、画期的な治療法が見つかった場合でも、そのために長期の入院加療が必要で、しかも治ったとしても罹病してから現在までの記憶がすべて消えてしまうとしたら、二人の老い先も短いことを考慮して、治療をことわるだろう、と書いた。つまりこの十年近くの、そして今も続く介護の日々、そのすべての時間が二人にとっていまや何物にも換えがたい貴重な宝だからだ。
 いま書いていることがたいていの人には首肯しがたいものであろうことは書いている本人も承知しているので、少し視点を変えてみよう。要は私の中には、もともとあった考え、そして原発事故のあとさらに強まり、いまや確信どころか信念にまでなった考え、すなわち進歩幻想に対する異論、というよりいまや激しい怒りともなった考えが根底にあるわけだ。
(またもや難航し始め、一夜が明けた。難航で思い出したが、韓国の客船海難事故、本当に痛ましい。犠牲者ならびに遺族のためにも一日も早い事態収束を心より祈っている。)
 話はふたたび急旋回するが、先日ある人からのメールに、小説家のA. Sさんは原発容認派らしいが、ともあれ私としては反対派の意見もよく聞いたうえで、自分なりの見解を持たなければと思います、とあった。しかし私からすれば、核エネルギーについてはもはや両者の言い分を比較考量するまでもない、と考えている。かと言って、反対派の口を封じる気もないし、議論する気もない。お天道様が東より上がって西に沈むのと同じくらいはっきりしていることだからだ。ダンテの『神曲』の地獄編にあるように、「汝見て、しかる後、黙して過ぎよ」の心境である。過激ですか?
 そうであり、またそうではない。つまり私はラディカルではあるが、過激派ではなく、いたって穏やかな根っこ派なのだ。もちろん心の中では、A. Sさんよ、作家のくせして(?)ばっかじゃなかろか、とつぶやくだけで声には出さない。でも彼女(そう女流作家です)いつごろからおかしくなったんだろう。前はもっとまともだったのに。そういえば大昔、彼女の小説について評論を、それもかなり好意的な文章を書いたこともあった。それがあの二人のしんちゃんみたく、やたら右傾化してしまった。二人のしんちゃんてだれのこと? もち首相と元都知事さーね。もう一人別のしんちゃん、クレヨンしんちゃん、はすぐお尻プリっと出して下品だけど、害はないわな。
 話はまたがらっと変わるが、事故後まもないある日、テレビを見ていたら、宇宙開発の番組らしく、アメリカの大金持ちが「かつてはゴールドラッシュだったが、これからは月にあると思われる鉱物資源を目指してのムーンラッシュだどい」なんて赤ら顔を輝かせて興奮していた。それを見て心からの軽蔑の念をこめて「ばっかじゃなかろか」と、このときは一人だったので思い切り罵倒してやった。
 どうしてこう際限なくものを欲しがったり、やたらその先を求めるんだろう。月は眺めるものであって、けっして征服さるべきものじゃない。どっかの石油成金の国の豪壮かつ高層な建築群を見て(もちろん映像を通して)なぜ人は吐き気を催さないのだろう。金に飽かせてつるつるの大理石の御殿をぶっ建てて、幸福になどなれるんだろうか?
 またもや大きく脱線気味。軌道修正しようにも、元のレールがどこに行ったかも分からなくなった。あゝそうだった、スタップ細胞のことだった。彼女、名前を忘れてしまったが、真面目なのは、真理一筋なのは分かる。でも何のため? ここで先日、ソウル大学統一平和研究所宛てのメッセージで書いた一部を引用して、今日もまた尻切れトンボのまま退散しようっと。今度は二股の尻切れトンボになっちゃったけど。あのメッセージの場合は原発推進派の研究者に対してであったが、今回のスタップ研究集団に対してもまったく同じことを言いたいのである。

 「彼ら専門家集団・推進者の思考回路には、それがなければ人間の理性がいつか踏み誤る回路、すなわちスペインの哲学者オルテガの言う「往還の回路」が欠落していた、いや今なお欠落しているのでは、ということです。つまり科学研究の場合で言うと、いま研究している対象が人間の生にとって果たして最終的に有益なものかどうかを、絶えずフィードバックする回路です。この場合大事なポイントは、作業の一貫性とか効率性ではなく「人間の生」にとって有益か、という一点です。それがなければ悪しき意味でのスコラ哲学的迷走を始めてしまいます。よく引き合いに出される中世ヨーロッパの笑い話に、煩瑣な哲学論議の果ての、あの「針の尖に天使は何体とまれるか」というのがありますが、それと同じ迷走を演じてきたのでは、と考えています。」


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載いる(2021年9月6日記)。

曾野綾子の小説は短編集一冊を読んだことがむかしあるだけです。そのなかの一編はその後も再読しました。作に感動したからではなく、モチーフに関心を持ったからです。自分の代わりに身代わりになって死んだ人がいた。助けられたほうの人はその後の人生をどのように生きたのか。『バラバ』から『プライベート・ライアン』にいたるまで、このモチーフは文学に扱われます。
自分は誰かを犠牲にして生き延びたにすぎない。このモチーフはヴァリエーションを伴いつつこれからも文学に繰り返し取り上げられるでしょう。
曾野綾子の短編小説がわたしに対して持った意味は、題材またはモチーフの特異さによるところが大きく、作の中身の充実によるものとは言えなかったので、さらに他の小説を読もうとするところまで関心が伸びることはありませんでした。
先生がかなりこの作家の作品を読み込みつつ、同時に辛辣な批評を寄せておられたことは当時少しも知りませんでした。
しかし、短編集一冊だけであとは事実上敬遠したわたしのなかにも、この作家に関心が湧かない理由の一端が、先生によって指摘されていたようです。なぜ書くか、という作家の執筆動機に内的な必然が稀薄と感じられたのが理由の一つですね。事実を調べて書く。そこに作家への信頼性を感じる読者は少なくないでしょうが、当時のわたしにはそれが作家を信頼する大きな理由ではありませんでした。迷路と化した現代人の意識の迷妄に分け入る勇気を持った作家の作品にもっぱら引かれていました。

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叔父への手紙

健次郎叔父さんへ

 その後お変わりありませんか。いつもお電話していただき、そのたびに勇気づけられ元気をもらっています。もう少しで九十七歳になるというのにお元気そのもの、連日のパークゴルフ、ダンス、カラオケそして温泉三昧、しかもそれらの日程を次々と自ら運転する車で回りながらこなしておられるとは羨ましい限りです。前から130歳まで生きると豪語されてましたが、この勢いではそれも充分射程距離に入ってきましたね。叔父さんより二十二歳も若い私の方が先に行ってしまう可能性も出てきました。
 だからというわけではありませんが、年下の私がなにやら遺言めいたお手紙を書くこともそれほど長幼の序を違えることにはならないでしょう。いやいや私とてまだまだ生きるつもりです。だって叔父さんがこよなく愛したお姉さん(ばっぱさん)も99歳でしたので、その息子の細胞核にも長生きDNAが含まれているはずだからです。でも大震災・原発事故のあと美子の介護をしながらの日々、自分の寿命のことより脱原発のことやらこの国の行く末について考えない日はありませんでした。
 原発事故収束への作業工程が未だに確立されていないというのに、為政者たちは、いや国民の大多数は、はや深刻な現実から目をそらし経済優先、果てはオリンピックへとまっしぐらです。景気を良くして事態収束に弾みをつけようというならまだしも、実は自分たちの利便・快適さ追求に一生懸命なんだと思えてなりません。
 でも私がもっと心配なのは、この国のあり方そのものです。今まで何度も言ってきたことですので今さら繰り返すと老いの繰言と思われるかも知れませんが、今日はいま一度自分の基本的な考えを整理してみたいと思っています。いや白状しますと、そろそろ締め切りの迫った、或る国の、或る平和研究集会へのメッセージを書き出すはずみをつけたいという下心もあります。でもだからといってこの手紙が単なる下準備、粗雑なデッサンとお考えになりませんように。というのは法学や国際政治学の専門家に向かって自説を展開するより、叔父さん宛てに書くことの方が、或る意味でもっと難しいからです。
 つまり叔父さんのことを、さまざまな体験を積まれて、人間や世界について確たる信念をお持ちの方、失礼な言い方かも知れませんが、日本人の圧倒的多数を占める良識人の典型であると思ってきましたが、そのような人に納得してもらう文章を書くことの方がはるかに難しいからです。要するに、叔父さんを納得させられないのに、学者さんたちに自説を披瀝することなど、それこそ机上に空論を重ねるようなものだということです。ともかくこの手紙を少し早めの私の白鳥の歌と思って聞いてください。
 さて本来なら論拠を順序良く次々と重ねていって、最後に結論を出すというのが論争家の常道でしょうが、私はだれかに論争を挑もうなどと考えているわけでなく、先ほども言ったように、大震災・原発事故を経験した人間の、いま考えられる精一杯の白鳥の歌をうたおうとしているだけなので、最初にいちばん言いたいことから始めることにします。それを思いっきり簡単にまとめれば、私たちはもうそろそろ狭い国家観を抜け出さなければならないのでは、ということです。
 事故直後からどういう風の吹き回しからか領土問題や歴史認識にまつわるさまざまな問題が踝を接するようにして起こりました。ところがそれら問題に対する為政者たちの対応の仕方が実に愚かで、場当たり的で、真に国のあるべき姿を見据えての行動とはとても思えませんでした。現に近隣諸国との関係は悪化の一途をたどるばかりで解決への糸口さえ見つかっていません。安倍首相のつもりとしては、中国などが近年次第に経済力を蓄えてついにはGNPではわが国を追い抜き、さらには軍事力の増強などでアジアにおける存在感を日増しに増大させていることに危機感を覚え、なんとかその劣勢をはね返そうとしているのでしょうが、私から見れば彼はただいたずらに摩擦を起こし、愚かなパワーゲームはまり込んでいるとしか思えません。
 たとえば尖閣諸島や竹島をめぐる領土問題です。その問題が顕在化してきたときにも書きましたが、かつて石橋湛山は満州の帰趨をめぐって緊張が高まってきた1914(大正3)年、こう発言しました。「かくて我が軍の手に帰せる青島は、結局いかに処分するかを以て、最も得策となすべきか。これ実に最も熟慮を要する問題なり。この問題に関する吾輩の立場は明白なり。アジア大陸に領土を拡張すべからず、満州も宜しく早きにおよんでこれを放棄すべし」 (石橋湛山評論集「青島は断じて領有すべからず」から)。
 それからの日本は湛山が危惧したとおりに危険な隘路をがむしゃらに突き進み、ついには坂道を転げ落ちるようにして最大級の国難に遭遇してしまいました。戦後、自民党第二代総裁にまでなった彼がかつてそういう発言をしていたことを安倍総裁は知っているのでしょうか。もし知っていたとしたら今それをどのように考えているのでしょうか、大いに気になるところです。ましてや問題はチンタオや満州とは比較にならないちっぽけな無人島なのです。
 領土問題を考えるとき、いつも思い出すのはアルザス・ロレーヌ地方の領有をめぐるドイツとフランスの数世紀にも及ぶ流血を伴った確執と、それが現在では両国親善・交流の磁場となっているという事実です。ここに至るためにはさまざまな紆余曲折があったと思いますが、根底にあるのはドイツの為政者そして国民が第二次世界大戦を通じて近隣諸国に多大の迷惑をかけたことを一貫して率直に謝罪してきたことです。日本もさまざまな機会に謝罪してきたではないかと言う人がいるかも知れません。いやそういう意見の人が、安倍首相だけでなく最近増えてきているように思われます。
 でも本当に謝罪したのでしょうか。領土問題に限らず、従軍慰安婦問題や河野談話や村山談話をめぐっての一部の政治家たちの再三にわたる発言・行動を見れば、それがまったくのまやかしである、と当該諸国が考えるのも無理はありません。たとえば従軍慰安婦問題ですが、南京虐殺問題の場合とまったく同じです。つまりわが国の一部の人たちはそれを公式文書が見つからないとか、規模・数字に誇張があったとして、行為そのものさえをも否定しようとしてきました。
 私はこうした態度は、過去の行為以上に絶対に許されないことだと思います。時に人間は過つもの、そして戦争の最大悪は、人的・物的損害よりも人間性を獣以下の状態に追い込むことです。しかし平和時に、正常な精神状態の中でおのが罪の言い逃れをしようとしたり、さらには行為そのものを否認することは、かつての悪行以上に人間の品性を貶めることだと思います。かつての過ちを心から悔い、相手方に率直に謝罪すること、これを自虐と言いふらすことの方が人間のさもしさ、情けなさを晒す自虐行為だとは思いませんか。自虐と言うなら、自らを三百代言に貶めることの方がはるかに自虐の名に値しませんか。
 かつてルス・ベネディクトという日本民族の精神文化を鋭く分析した人類学者は、西洋文化を罪の文化、日本文化を恥の文化と分類しました。おのが罪を絶対者との関係性の中で深く悔いることのできる西洋民族と、絶対者ではなく世間とか仲間社会に対する恥と捉える日本民族とを対比させて、前者を上位に置いたことは間違いないでしょう。確かに日本人は西洋人よりも世間体を気にするようです。小さいときから、世間様に、他人様にどう思われるかを躾(しつけ)の根本に置いているようなところもありますから。
 でも最近、ルス・ベネディクトの説に疑問を感じるようになってきました。その経緯を簡単に言うと、震災後しきりに「日本を取り戻す」とか「日本人の誇りを!」といったスローガンが声高に叫ばれ、その度に何か違和感を覚えたことが発端にあります。つまり取り戻すべき日本人そして日本とは何なのか、自分でもしっかり見極めたい。その取っ掛かりとして、たとえば国民文学と通称される小説や、日本的伝統の真髄を形作っていると言われてきた武士道などを改めて見直してみようと思ったのです。吉川英治や司馬遼太郎の小説、『葉隠』や宮本武蔵の『五輪書』、新渡戸稲造の『武士道』など今まで手にもしなかった本を少しずつ読んでいるのもそのためです。
 つまり、一般的に保守的な人や右翼的な人が何かと言えば引き合いに出す日本人像や日本観に対して、いやいや実際のものはあんたたちの言うような排他的なものでも唯我独尊的なものでもないよ、と思いながらもそれを実証する手立てがなかったことに思い当たったからです。
 その成果は、と言うほどのものはまだありませんが、しかし昨今の近隣諸国との問題にひきつけて言うなら、安倍首相を初め現政権の言動は武士道から大きく逸脱したものとだけは断言できます。その理由をごく簡単に言うと、「武士の一言」、つまり武士に二言無し、ということです。武士道においては、虚言遁辞はもっとも卑怯なこととされました。これは世間体とか対・他者のものと言うより、おのれ自身に対するもの、そして二言、すなわち二枚舌は、死を持って償うべきものとする厳しい内面の掟だったはずです。
 先ほど悪行そのものより、それを隠蔽しようとすることの方がはるかに恥ずべきことだと言った理由もこれに尽きます。こう考えてみるとルス・ベネディクトの恥の文化に対する評価はここで大きく覆されることになりませんか。つまり罪を犯した人間はそれを悔い改め、神から赦免されることをもって、ある意味で晴天白日の身になりますが、恥ずべき行為をした人間は、たとえ相手が許したとしても、恥はさらに内面深く食い入り、ついには自らの死をもって償なわなければならないのですから。
 もちろん国粋主義的な主張を繰り返してきた人たちの主張がすべて間違っているわけではありません。彼らの国を愛する気持ちは分からないでもありません。一般的に彼らは真面目です。お国のことを一生懸命考えている人たちと言ってもいいでしょう。先般の都知事選に立候補した田母神という男を例に出しましょう。叔父さんは海軍、彼は航空自衛隊という違いはありますが、彼も叔父さんと同じく戦闘機乗りでした。彼の主張は私からすれば噴飯ものですが、しかしそれを別にすれば感じのいいおじちゃんです。決して腹の黒い男ではありません。付き合うとしたら当選者の桝添より気が合いそうです。
 でもそこがいちばん問題なのです。つまりかなりの若者たちが彼に票を入れたことからも分かるように、なんとなく話が分かりそう、人が良さそうですですが彼の国家観はまるで太平洋戦争以前のものだからです。つまり敗戦経験から何も学ばないままなのです。お国のためを思いながら、結果的にはお国のためにならなかったという苦い体験を未だに検証しないままだということです。
 もちろん叔父さんのように実戦の経験はありません。安倍しかり。叔父さんは確かアメリカのグラマン戦闘機と何度も渡り合って、そのうちの何機かを撃墜しましたね。私はもちろんガキでしたから兵役経験もありません。でも満州の僻地熱河での敗戦そして引き上げを体験しましたから戦争の後姿は確実に見ました。確か朝陽の駅近くの鉄路にへたり込んでいた敗残の日本兵の姿を夕陽の中で見たときのことを今でも思い出すことができます。そのときばっぱさんは、と言ってもまだ三十台半ばの母でしたが、腹をすかしたわが子三人を差し置いて、なけなしのお金をはたいて彼らにスイカを買ってやりました。そのときは腹が立ちましたが、いま考えると、ばっぱさん実にすばらしい愛国婦人であり烈婦でした。でもばっぱさんはその体験からいろんなことを学びました。大きく言えば国と個人の関係性の問題、もっと簡単に言えば国民の真の幸福に沿わない国策に対する強い怒りです。先だってもこのブログで紹介したばっぱさんの文章からも明らかなように、原発には当初から反対でした。
 実は生前、原発や国はどうあるべきかなどについてばっぱさんとじっくり話し合ったことはありませんでしたが、以上ここまで述べてきたことは間違いなく分かってくれるし、賛成してくれると確信しています。またその連れ合い、つまり叔父さんからすれば義兄、私からすれば実父の稔は、34歳の若さで熱河省灤平で病死しましたが、ばっぱさんが繰り返し証言していたように、「すべての日本人は悔い改めて出直すべきだ」というのが父の白鳥の歌でした。父のその言葉の重さを今日なお一層強く感じています。
 いま日本はまたもや危険な傾斜をすべり落ちそうな気配です。戦争体験者は高齢になり、その貴重な体験談を確実に次代の者たちに伝えてきたとは思えません。ですから時おり新聞の読者欄などで戦争の悲惨さ、そして昨今の危険な兆候に警鐘を鳴らしている老人がいると、これからも機会を作ってぜひ多くの人にその考えを伝えて欲しいと心から願ってます。
 あの困難な時代を誠実に一生懸命生き抜き、お国のために粉骨砕身努力された叔父さんとしては、あの戦争が間違ったものだとはなかなか認めたくないでしょうが、しかし怖いのはそうした善意の人たちの願いすらも踏み砕き、しかも相手があることですから相手国の人たちの命や生活をも破壊し奪ってしまう戦争です。それを絶対に許すまいという強いメッセージを叔父さんからも発して欲しいのです。
 安倍や田母神の言動を見たり聞いたりしていると、戦争ができる普通の国にそんなにしたいなら、戦争ゲームでも買ってきて、好きなだけ戦争ごっこでもしやがれ、と言いたくもなります。
 いま地球上で起こっている紛争のすべては古い国家観の呪縛から抜け出せないでいることから起こっています。このあいだのウクライナとロシアもそうです。国の指導者たちの権勢欲に踊らされた国民の悲劇。それまでさまざまな文化を持ちながらも仲良く共存してきた人たちが、そうした古き国家観によって敵対し分断される悲劇は、1998年のコソボ紛争でもありました。それに懲りもしないで、いまだに国家の威信とか面通にこだわる政治家や指導者は引きも切りません。人間はどこまで愚かなのか呆れるばかりです。
 でも明るい兆しが無いわけではありません。その歩みは時に乱れがちですがヨーロッパ連合(EU)は、古き国家観から脱皮するための一つのヒントにはなります。そして先日の「朝日新聞」(3月14日)で初めて知ったのですが、フィンランド領のアハベナンマー(スエーデン名はオーランド)諸島のことがあります。フィンランド南西、ボスニア湾口にある六千近くもある島々で、古来ロシアとスエーデン間の係争の地でしたが、現在はフィンランド領、ところが住民のほとんどはスエーデン系という不思議な諸島です。もちろん長年フィンランドとスエーデン間に確執がありましたが。1921年、国際連盟の裁定で主権はフィンランドに帰属するが、島の自治は保障され、しかもスエーデンの意向に沿って非武装・中立地帯となったのです。
 そして新聞はこの島々がわが国とも無関係ではないとするこんなエピソーもド伝えてます。すなわちこのとき国際連盟の事務次長がなんと前述の『武士道』の著者・新渡戸稲造で、このときの彼の言葉も残されていました。
「将来、諸国間の友好関係を妨げる類似の問題が生じた場合、大小にかかわらず、その処置の先例を確立することになりましょう」。
 白鳥の歌を、などと格好いいことを冒頭に述べましたが、結果的には尻切れトンボもいいところ、まるでアンデルセン童話の醜いアヒルの子のつぶやきに終わってしまいました。どちらにせよ、絶唱を歌うのはまだまだ遠い先のことと考えて、残された日々さらに精進します。どうぞこれからも遠い北国から、あの明っかるーい声でお電話ください。
 最後にもう一つお願いがあります。叔父さんの戦争体験のことですが、最近も帯広の有志の方たちの前で戦争体験を話されたそうですね。ところが私自身はいままで叔父さんの戦争体験を詳しく聞いたことがありませんでした。いつかぜひ聞かせてください。お願いします。

わが生誕の地・帯広に今日も元気に暮らしておられる叔父健次郎様

   東日本大震災三周年を閲して間もない叔父さんの生誕の地・南相馬から愛をこめて


                2014年3月26日
                            孝より

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生成の場に立ち会う

昨日は断想などと格好をつけてみたが、実際は妄想あるいは雑念だろう。今日もいくつかそうした雑念を拾ってみる。
 大震災・原発事故のあと、「心の重心」あるいは「奈落の底」という言葉をよく使った。当時得た覚醒の形をそれなりに表現しているが、今日、いつもの私家本作りの最中、ふと思い出したことがある。それは以前からものの見方・捉え方において最重要な視点として「生成の場に(あるいは状態に)in statu nascendi」立ち会う、と言っていたのをすっかり忘れていたことに気づいたのだ。重心とか奈落とかいう言葉は、なるほど真理発見のための言うなれば空間的深さを表現するだけでなく、ある程度その時間的・歴史的広がりをも表現している。たとえば東アジアやオキナワの受難への共振や共感のように。しかしそこにもう一つ、「生成の場に」立ち会うという視点を加えることによって、さらに現実認識が深まるのでは、と思うのだ。
 それは平たく言えば「原点に還る」ということだが、もっと平たく言えば、寅さんの啖呵売の口上「物の始まりが1ならば国の始まりが大和の国、 島の始まりが 淡路島、泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、助平の始まりがこのオジサンっての。」に言うように、すべてのものには始まりがあり、時に、とりわけ重要な瞬間に、その原初の状態に戻ってみることが必要だということである。もちろん現実には無理だが、そこは想像力を働かせて。
 元の言葉はラテン語だから、どこかスコラ哲学の教科書にでも載っていたのかも知れない。私は確かオルテガの著作から引き出したと思う。いずれにせよ、何かを考えるときの視点として大切にしてきたものである。
 たとえば大きな問題として「国」を考える場合、現在の「国民国家」というものは、別称「近代国家」と言われるように、まさに近代に入って初めて生まれた「くに」の形であり、あり方であるということがとかく忘れられている「くに」のあり方として太初からそうであり、これから先も未来永劫にそうであるかのような錯覚というか固定観念に囚われている。時にクーデターあるいは革命のようなものがあったことはあったが、それはおおむね時の政権を転覆させることであったり、自らが権力の座に取って代わろうという部分的・限定的な運動であって、「国民国家」そのものの根本からの改革でも問題提起でも否定でもなかった。
 かくしてそれは今や金属疲労を起こし、形骸化甚だしく、いまも世界のいたるところでくすぶっている国境問題にしろ、あるいはシリアその他で現に何万と言う死者、それも兵士だけでなく一般市民を巻き込んでの戦乱となっているのも、要するに国民国家という狭い枠組みそのものが形骸化どころか、人々の最大不幸の原因となっているからこそに間違いない。
 つまり「生成の状態」にあっては、無秩序で法的な保護を受けていない人々の群れを、王様のような国家元首の下に統一し、通貨を定め、教育制度を整え、道路網を敷いいたりすることによって、限定的ではあれ一定の法的平等と経済的繁栄をもたらした功績は大きいのだが、しかし現在それはもはや安定や平和に資するどころか、逆に大きな不幸をもたらす元凶となっているわけだ。このあたりのことは法制史や国際政治史にも暗いので、立論の仕方に少々遺漏や不備があろうが、そこは勘弁していただいて先を続ける。
 身近な例を挙げれば、たとえば尖閣諸島や竹島をめぐる領土問題である。今は固有の領土なんて言うが、もともとは、つまり地球創生のときまで遡らなくとも、人間の生が営まれ始めたときから或る時点までは、日本の領土か中国あるいは韓国の領土かなどとはまったく関係なく、その周辺に住む人々の生活の糧を与えてくれる漁場であったり嵐のときの避難場所であったり、ともかくありがたい場所であったものが、いつの間にか当事者双方の了解が成立しないままに国境線が引かれ、ために爾来絶えざる紛争の場と成り下がって今や一触即発の危険な場所になってしまったのである
 この場でも以前書いたことではあるが、仏独国境のアルザス・ロレーヌ地方が長いあいだ両国紛争の激震地であったのに、いまや双方の懸命かつ賢明な歩みよりの結果、むしろ両国友好の窓口にさえなっているというのに、愚かな政治家たちの(どちらの?とは敢えて言うまい)ただただ旧弊な領土観のおかげで、紛争解決の糸口からいよいよ遠のいている現実は、政治家のオツムの程度がどれだけ愚鈍を極めたものか、嘆かわしい以上に腹立たしい限りである。身丈に合わなくなった旧来の国家観からの脱却の試みは、すでにEUなどにおいてなされ始めているが、それについては今は触れない。
 ところで今日の新聞には、「竹島の日」制定とかの記念日にまたもや政府高官が出席し演説している写真が載っている。これでは解決に近づくどころか、紛争をさらにエスカレートさせるだけだ。
 先の都知事選に、おらが福島県の出身者であることが顔から火が出るほど恥ずかしい(でもないか、そんなこと知ったこっちゃないが)候補者がいた。彼はまた時代を逆行するようなとんでもない国家観の持ち主であるが、彼のようなにわか政治家がお馬鹿な若者たちの票を集めたといって調子こいている姿を見るにつけ、日本という「くに」がこうしていよいよ頑迷の度を深めていくのかと、暗澹たる気持ちにさせられる。
 かつての賢明な政治家たちが決めたように、あの島々の領有権問題を棚上げして、ともかく共同管理のものとして(それが世の終わりまで続けばそれも良し)、対立する双方の国の若者たちが互いの国の歴史・文化を知り合う白亜の(でなくてもいいけど台風襲来にも負けない堅牢な)合宿所をあの島々に建設したらどうか、それがどれだけ建設的で互いの利益にもなる妙案では、とここで書いたこともあるが、今のところそれは夢のまた夢であろう。
 でも憂い顔のこのロートル・サムライは、五月に或る国の或るところで開催予定の或る研究集会へのメッセージの中に、なんとかその妙案を忍び込ませたいなどと密かに企んでいる。
 いつもの通り尻切れトンボのこの雑念披露に、もう一つ忘れていたことがある。それは「生成の状態に」立ち会うということが、私にとって思いがけないユーモア発生の仕掛けでもあるということである。つまりどのような権力者・有力者であろうと、生成の状態、つまり生まれたばかりの状態では、まことに頑是無い赤子であり、オシメにウンコもオシッコもしていた光景を想像するだけで、嵩に懸った権力者の姿を等身大にする効果がある。等身大と言ったが、もちろんそれなりに馬鹿丸出しの姿である。
 つまり人間はすべて等身大であるべきだが、天麩羅の衣の様に余計な飾り物を、つまり勲章や肩書きで膨れ上がった権力者は、等身大にされることによってその愚かさが際立つという按配になる。実はもっとスカトロジカルな喩えを用意していたが、やっぱそれはちょっと下品なのでここで止めておこう。お後がよろしいようで。

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ここに生きる

以下の文章は、月刊誌『カトリック生活』3月号に掲載されたものである。先月、編集長の関谷義樹神父さんに拙宅でインタビューを受けたおり、私はいつもの通りまとまりのない話をしたのだが、それを実に手際よくまとめてくださった。今号で1017号となる週間誌大の全頁アート紙の月刊誌で、3月号の表紙を飾るのは、雑草の生い茂った小高駅の鉄路である。これは写真家でもある神父さんを私が案内した折に撮られたもの。日本だけなく世界中の美しい景勝地や史跡を被写体にしてこられた神父さん(写真集やカレンダーがあります)の撮影時の思いはいかなるものであったか。それを想像するとき、見る者もまた改めて胸を締め付けられる思いがする。
 ともあれ、「福島からの問いかけ」を特集とする今号は、被災者から見ても実に行き届いた編集がなされていて、これが200円とは驚きである(別に宣伝費はもらってません、念のため)。でも〔念のため〕発行所を書いておきます。
〒160-0004 新宿区四谷1-9-7 ドン・ボスコ社


ここに生きる ――南相馬での新たな決意


震災直後のこと

 この辺りも震災の後は8,9割の人が避難していきました。町は閑散として、近所は夜、真っ暗でした。でも私は無謀にここに残っていたわけではありません。絶えず環境放射線値をチェックしていました。飲料水も一日遅れでしたが、全部データは出ていて問題ありませんでした。初めから放射線値は、飯舘村や福島市や郡山市よりも低いと出ていました。あとは風向きも気を付けていました。放射線の性質はペスト菌のように伝染しない、そしてサリンとか炭疽菌のように即死につながらないという二つの原則があります。毎日測定しているわけですから、距離の保ち方によったら大丈夫だと思いました。
 みんななぜあわてて逃げたかというと、政府や国の公的機関に対する不信があって、公式のデータは嘘で、もっと状況はひどいと信じ込んだからです。そしてツイッターなどの通信機器からのまことしやかな「真実」に踊らされてしまったのですね。放射能は目に見えないから怖いという情報だけが繰り返されて、これに洗脳されてしまった。もう少し落ちついていればよかったのですが。
 私は公的見解や発表された数値をひとまず(暫定的に)信じました。もし報道されているよりもっと深刻な事態があったとしたら、この狭い列島逃げ回っても意味がないだろうと考えました。だから最悪の状態、たとえば死を想定してそこから逆算していき、ここまでは大丈夫だと考えればいいと思いました。でも多くの人はそうではなく、たえず不信とか恐怖を足し算して不安に取り込まれていったのだと思います。
 当時、いろんな新聞が被災地の報道をしていて、南相馬市から福島市のある公園に避難した若いお母さんとお子さんの記事がありました。放射能が怖くて逃げてきたとある。しかし、その場所は当時ここの4倍の放射線量があったのです。もちろん「ただちに」の健康被害はないという線量ですが。私はここに残っていましたが、電気も水も通っていたし、線量もずっと低かったのです。けれど新聞記者がそれを理解していないし、避難している本人も避難しているというムードの中に飲まれて客観的になれてない状態でした。そういうおかしなことがいっぱいありました。
 一番気の毒だったのは老人、病人です。当時、南相馬市だけで半年で293人亡くなりました。無意味な搬送をしたことが原因です。医者も逃げ、夜道をわけのわからないうちに、カルテもつけられず車で連れて行かれた病人や老人たちがたくさんいました。それについて誰も責任を負っていませんよ。ある病院の院長は、私は間違っていなかったとさえ言っています。想定外の展開だったと。反省がまったくないのです。でもこれは医師法違反どころか過失致死に近い犯罪ではないですか?
 当時、98歳の母が近くのグループホームにいて、普段は十数人のスタッフがいたのですが、ほとんどのスタッフが避難していなくなってしまいました。もちろんスタッフの中には家が津波に流されてしまった人もいるでしょうから、家族と共に避難するのは理解できます。でも、避難指示区域ではないところのスタッフもいたはずです。でも逃げました。立派な職場放棄ではないですか?
 日ごろ、老人のために誠心誠意やりますと言っていた人がほとんど逃げた。それで「すいません。おばあさん、引き取ってください」と言う。私は母をよろこんで引き取りましたが、そのときに、引き取り手がいない老人が三人残っていました。行政の判断は、その三人をここより放射線量が四倍も高い阿武隈山地の霊山の施設まで送ったのです。そういうでたらめなことがありました。でも、そのあとの反省は一切ありません。想定外という言葉でごまかしています。


過剰な報道による二次災害

 震災後、絶えず流される報道は原発事故関連のことばかりです。しかし、きちんと物事を見極めて報道することがなく、上っ面を並べているだけです。
 南相馬市の一つの問題は、過剰な報道によってストレスが蓄積されてしまっていることで、これはとても深刻だと思います。今でも毎日、地方テレビ局は環境放射線値を伝えます。事故直後からほとんど同じで変化はないのに。行政はお化けみたいな線量計をそこらに設置しているので、絶えず意識がそこに向いてしまいます。家族で楽しいはずの団欒も放射能の話になってきます。逃げるなら別ですが、ここで生活すると決めた以上、もう考えないほうがいいわけですよ。
 テレビ番組もここを悲劇の町としてだけ扱います。私たちもそういう映像を見ていると、自分がとんでもなく異常な所にいるような気分になってきます。ですから、私はある時期から、もうそういう番組を見ないことにしました。読むと腹立たしくなってくるので新聞も読まなくなりました。
 沖縄戦によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)症状を60年以上たってから発症する患者が数多く存在することを発見し、長らくその治療にあたっていた蟻塚亮二さんという精神科医によると、南相馬も似たような症状が多発しているそうです。鬱(うつ)とは診断されないけれど「慢性的な気分の落ち込み」が続き、生活が崩壊したり自殺が危惧されるケースが多いといいます。普通の生活を送っていて表面はなんでもないのですが、将来に対する希望が消えて「ああ、死んでもいいか」とふっと思う危険だと。これは過剰な報道による二次災害といえます。


見えてきた日本という国、日本人の姿

 南相馬市は微妙な場所で、警戒区域、緊急時避難準備区域、原発から30㎞超えてなにも指示が出ていない区域と、三つの層から成る町ですから、いろいろなことがよく見えた場所でした。ここは悲劇と喜劇が織り交ざっている町です。純粋な悲劇もありました。線量が高くて逃げなければならなかった人たちがいたし、津波被害で死者も出ました。そして、微妙な悲喜劇。そして完璧な質の悪い喜劇がある。行政の、そして人間の愚かな姿が表れたことです。ものを考えないということによって出てきたいろんな喜劇がある。笑えればいいのですが、笑えない喜劇です。
 私は、認知症の妻の介護もありましたし、最初から覚悟を決めてここに残ろうと思いましたから、動かないことでいろいろ見えたのです。自然科学には位置を定めてする定点観察というものがありますが、私は必然的にそういう位置に立たされていたのだと思います。
 そして日本の本当の病巣は何かということが見えてきました。今は日本全体の重心が高く、浮き上がっている状況だと思います。日本社会というのは本当にひどい社会になってしまったと思いました。震災後、液状化現象が問題になりましたが、これと同じく魂の液状化現象が広がっていると。自分で考えない、判断しない。日本は法治国家で国民の遵法意識が高いといわれますが、そうではなく、言葉は悪いですが、国民は家畜化されて飼いならされた状況なのです。非常時のなかで有効に活用すればいいものがたくさんあるのに、優先順位を間違えてマニュアル通りでしか動けなくなっているおかしな民族になってしまったのです。教育においても物を考えることを教えていません。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の心で感じて判断するという人間教育というのがないのです。
 復興とかいうけれども、行政に全部まかせています。本当の復興は点と点が結びついて、つまり何人かの人が戻って住んで励まし合って線になっていくのが、それが本当の復興だと思うのです。終戦後の日本は国そのものが崩壊していたから自分たちでがんばるしかなかったのですが、今は全部依存体質になって自分で何かをやるという力がない。補償待ちも問題になってきました。仮設住宅でも、町や村の違いで補償金の額が違ってきて、それで喧嘩になったりする。依存体質のなかで人間がさもしくなっているのではないでしょうか。
 もともと日本人は、武士道においても、“武士道といふは死ぬことと見つけたり”とあるように、死ぬことを覚悟してそこから生きることを考えてみようという美学とか美徳をもっていました。死を考えて、そこから考えれば正しい筋道ができると。しかし、今はまったく逆で本来の美徳をかなぐり捨てて、利潤、快楽、便利さを追い求めてきて、まだそれでも懲りない日本人がいます。無限に便利になっていくという幻想のなかに生きています。ヨーロッパは伝統を引きずっているのでブレーキがかかりますが、日本ほど近代において進歩主義を純粋に迷いなく受け継いだ国は他にありません。これがどれほど恐ろしいことか。原発事故というのは日本人にとって警鐘のはずなのですが、警鐘を警鐘として捉えていないということが一番の悲劇だと思います。原発事故よりは、今置かれている日本人の姿のほうがはるかに怖いですね。


ここに生きる

 最近は、沖縄のことをよく考えます。本土の人はどれだけ沖縄にひどいことをしてきたか。それに対してどれだけ沖縄の人が辛抱強く戦ってきたか。構造的にいうと沖縄の米軍基地問題と福島の原発は同じです。効率的に考えれば東京湾に原発を建てたほうがいいのに、リスクを福島に押し付けた。人が少ないし反対運動が出ても、お金で解決したのです。沖縄に対してもそうです。
 原発事故も、その事象だけを見るのではなく、長い人間の歴史、とくに日本の、そして東北の歴史の一つの出来事として見ると何かがわかるはずです。東北は収奪の歴史を繰り返されてきました。その歴史の一つの結果としてのこの事故があったと見ることはできないでしょうか。これを機会に東北の歴史を取り戻せたらと思います。
 東京など各地で反原発の集会をやっていると聞きます。当然の主張ですが、でも被災地住民としてはときどき違和感を覚えます。もちろん反原発をもっと主張して欲しいと思います。ただ被災者の苦しみを踏み台にして欲しくないのです。予測を含めて被災地がどれだけ悲惨であるか、と強調されるたびに被災地住民は心理的に追い込まれるからです。原発自体が、ものすごく反自然であり、反人間的であるから原発に反対する。これが原点で、そこから出発して欲しいのです。
 ここに生きる、ここに拠点を持つということ、そういう人が増えて、時間がかかるかもしれませんが、そこからゆっくり広げていけばいいと思います。この中で見えてくるものを、さあ一緒に頑張って育てていきましょうと言いたいです。
 今のこの瞬間、この土地で、この生き方を貫きとおすことによって希望を見出していきたい。ここで生き、ここで一生を終えると私は決めました。ここを動かずにじっと耐えながら、花が咲くのを待ちたいと思います。その中で萌え出てくるものをいつくしみ、ここで生きるための力を汲みとっていきたいです。現実を捨てて、ユートピアをとることはしたくはありません。現実には苦しみも悲しみもありますが、それも私にとっては宝ですから。今ある現実を全的に受け止め、そこにあるわずかな光を大事にしていきたいですね。ローマの詩人ホラチウスの言った「カルペ・ディエム!」、つまりこの日を掴め、今という時を大切に、という気持ちで生きていきたい、いや生きていくべきだと思います。

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奇妙なファンレター

鬼の霍乱? ふだんからそれほど健康に恵まれているわけでもないから鬼の霍乱とは言えないだろうが、しかし不意打ちであったことは間違いない。油断していた。いや大層なことではないが久しぶりに風邪を引いてしまったのだ。三日ほど前からなんとなく調子が悪くなり、一昨日は全く食欲がなくなり、おまけに夕方、ゲホをしてしまった。ゲホとは愛が風邪を引いて夜中に嘔吐するときなどを指す我が家の隠語だが、これまでどんなに風邪を引いてもゲホすることなどなかったので、ちょっと狼狽した。でもありがたいことに、美子はその間、ずっと元気にしていてくれたので助かった。
 それでも一昨夜はぐっすり眠れたので、昨日は食欲も戻り、外出は控えたがほぼ治ってきたようだ。そんな日の午後、美子は車椅子で楽な姿勢で、私もその真向いに、リクライニグさせた椅子の上でうとうとしていたときである。頴美が大型の分厚い小包封筒を持ってきた。なんと関口照生さんからのお手紙入り写真集『地球の笑顔』とそのカレンダーである。直筆の礼状は実に達筆であり、取りあえずは書くことが専門の私としてお返事は、さてどうすべきか、つまり直筆にすべきかそれとも無難にワープロ文書にすべきかなど、さっそく心配している。
 そんなことをぼんやり考えているうち、やたら鮮明な白昼夢を見出したのである。白昼夢? そうとしか言いようがない。つまり次々と想念が生まれ、それが別の想念と繋がり、それでいて単なる妄想とも違っていやに細部がはっきりしているのだ。きっかけになったのは、それまでぱらぱらと眺めていた写真集の中の少数民族の群像、とりわけ子供たちの屈託のない笑顔である。チョン・ジュハさんの写真はいずれも素晴らしい作品だが、しかし彼は外国人としてあくまで控えめに、それも被災者の背後から、そして多くは人影のない風景だった。でも関口さんの写真を見ているうち、そうだ、彼に被災地の子供たちの笑顔を撮ってもらえないだろうか、と夢想し始めたのである。
 たとえば島尾敏雄の名作「いなかぶり」には、彼が幼少年時代、休みごとに帰っていた母の実家・井上本家が舞台の作品だが、もちろんいまは無人の廃屋と化している。小高い坂道を上がってすぐ右折すると、典型的な相馬の農家のたたずまいが広がる。まずは小型四輪置き場になってはいるが昔は馬が飼われていた一角。続いて農機具置き場、隠居部屋、そこからカギ型に回って当住(トージ)、そして昔はカイコが飼われていた天井が高く広い部屋部屋、ついで隠居から見れば娘一家の住まい。その裏は晝なお暗い竹やぶ。そしてカギ型の住居にはさまれるように広がる中庭、たしか今でも実をつける一本のザクロの木、外便所……
 震災後なんどかここを訪れたが、いまは完全な廃墟となっている。主を失った家屋がこれほどまでに一気に腐食・崩壊の度を速めるものか、実に暗澹たる気持ちにさせられてきた。当家の主人、つまり私にとっては又従兄にあたるHさんとは震災後会っていない。駅通りの時計店に嫁いだ妹のS子さんとHさんの長男のお嫁さんにはばっぱさんの弔問に来ていただいたが。
 夕餉時に広がる五右衛門風呂の薄い煙、囲炉裏端囲んで一家団欒(もちろんこの風景は私の子供の時のものだが)、黄色い裸電球にかえって黒々とした闇を際立たせている納戸のあたり…
 これら人間たちの生きた佇まいがあの忌まわしい原発事故の夜、一瞬のうちに消えてしまったのだ。でも人影の絶えた風景を撮ったチョンさんの写真をじっと見つめていくと、次第にそこに楽しかるべきかつての日々の人間たちの姿が見えてくるように、ほらそこの馬小屋の角で笑っている少女時代のキヨちゃんが見えてくる。そう関口さんが撮ってくれれば…
 以上、白昼夢の一部である。だからまるでプロデューサー気取りで構図の指図までしていることを許していただきたい。「いただきたい」?
 まさか君は、このままそっくりの文章を関口さんに送るつもり? そのつもりだよ、いいじゃない、白昼夢と初めにことわったんだから、大して失礼にもなるまい。ところで関口さんから写真集をもらったことを知った川口の娘が、こんなメールを寄こした。「えーっ、何で関口さんと知り合いなの? 昔、ママが関口さんのこと素敵!って言ってたよね」。だからもしも美子が認知症でなかったら、今度のことをどれほど喜んだことだろう。でも私には『北の国から』で雪子おばさん役で出ていた竹下景子さんの印象の方が実に強烈で、彼女を不幸にした松崎という男が本当に憎らしかったことを思い出していた。彼が駅前商店街で楽しそうに奥さんと買い物する姿を電柱の陰から悲しげに見ていた雪子さん、そのとき流れていた五輪真弓の「恋人よ」の悲痛なメロディーをいまでも思い出すことができる。
 いや実際の竹下景子さんは、「日本・スペイン交流400周年」の親善大使であり、しかも関口照生という名カメラマンが旦那さんときちゃー、めでたさ通りこして…やめましょ、まだ風邪気が抜けず、考えも支離滅裂。もう何も考えずにこのまま関口さんに送ってみよう。変なおっちゃん(じっちゃん)からファンレターだか仕事のヒントだか分からない変な手紙がとどいたよ、と即座に処分されるかも知れないが。
 そうだ、もう一つ。ときを同じくして、宜野湾市佐喜眞美術館の上間かな恵さんがいいこと(?)を教えてくれた。というのは、長い間沖縄で、沖縄戦の後遺症、正しくは心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんできた人たちの精神的ケアに従事してきた蟻塚亮二医師がこの四月から相馬市のメンタルクリニックなごみの所長さんになられたということ。さっそくネットで調べたら、「中日新聞」(8月23日夕刊)にインタビュー記事が載っていた。ついでに言うが「東京」そしてその親新聞「中日」は実にいい記事を作る。
 まさに私の予想してきたとおり、南相馬は今、直接の放射能禍よりはるかに恐ろしいストレス障害が広く深く蔓延している。そして沖縄戦のPTSDとの類似点が明確に現れていて、その対症療法に共通するものがあるという。そのうち蟻塚さんにお会いしたいと思っている。ともかく事態は深刻である。それなのに今日もどこかの会合で反原発の旗手小出某は「放射能に対する敏感性はお子さんは成人の何百倍、いや千倍はあります」など科学者の「信念」を能天気に披瀝してござる(のをネットで聞いたばかり)。おいおい、その千倍という数値、どういう根拠・データで出してきた? これを聞いた被災者、とりわけ幼い子を持つ母親たちはどう判断すると思う? 千倍、というと年間1ミりシーベルトの千分の一でも子供には危険ということだわ。どうしましょ、もうどこにも行くところないじゃない…こういう風に不安と疑心暗鬼の無限スパイラル落ち込む人が、事故直後よりむしろ確実に増えている。

「うつ病ってのは、とても困難なことがあって、それに対して<生きたい>と思って発熱してる状態なんです。ある意味、相撲の得俵に足をかけて踏ん張っている状態なんです。自己防衛・保存本能なんです。ところが福島の<死にたい>は発熱して踏ん張っているのではない。普通に生活してて、ふと「死にたい」と思ってしまう。先の見えない不安。これが一番怖い」(先のインタビューから)。

 南相馬が実はこんな深刻なストレス禍にすっぽりくるまれた町と化していること、おい君、小出君よ、どう思う? まるで特命を帯びた宣教師のようにもうさんざん放射能の怖さを書いたり、語ったりしてきたろ? もういいよここらで少し発言を控えてみては? 太郎よ、反原発を謳うのはいい、しかし被災者の苦痛を踏み台にしてお題目を唱えるのはもうやめてくれんか。
 それじゃ勢いが出ない? だろう? それが被災者の痛みを踏み台にした反対運動だと言ってるんだよ。都会で行なわれる反原発集会、こちとら聞いただけで怖気をふるうぜ。さあ現在避難生活を続けているXさん、どうぞ被災地の現況をお話し下さい…そんなこと無理だべさ、あの日以来ずっと各地を逃げ回って、一度も被災地さ戻ってねえんだから。さあ続いて先日チェルノブイリ使節団に加わって彼の地を見てこられたYさん、どうぞお話下さい…それ定番だが、大陸性気候でもともと甲状腺異常の多発地帯だったところと、小さいときから潮風浴びて昆布食ってきた地帯と安易に結び付けないでおくれ。
 前から言って来たことだが、子供とチェルノブイリの話が出てくるときにはご注意あれ。その多くはおのれの不安をその二つに仮託して話し始めるのだから。じゃどうせよ、と? これまで以上に迫力と信念を持って反・原発運動を展開してください。でもそれは被災民の苦しみを踏み台にしてではなく、原発安全神話そのものが稀代のインチキであり、核兵器と同じく原発それ自体が反・人間、反・自然の代物であると主張しながらですよ。核の平和利用という謳い文句自体、不老長寿の夢、錬金術の夢同様、根拠のない夢物語だと主張しながらですよ…
 あ、いつのまにか関口さん置いてきてしまった。戻ります、ですから関口さん、南相馬いや被災地全体の確かな希望の象徴として、屈託ない子供たちの笑顔を、その姿を撮ってください。私たち被災者にとってそれが何にもまして未来への希望の懸橋になるのです。よろしくよろしくお願いいたします。半ば夢うつつのまま長い手紙になりました。どうぞ真意をお汲み取りくださいますように。
 あ、それから雪子おばさん、いや竹下景子さまにどうぞくれぐれもよろしくお伝え下さい。いつかお二人で南相馬にいらっしゃるようなことがあれば、と念じております。

※後記 昨日、福島医大から愛の健康診断書が送られてきたが、前回同様何の問題もないそうだ。被災地の子供たちは事故前は無かったような精密な診断を定期的に受けている。詳しく調べたことは無いがほとんど問題例が出たことは無いそうだ。

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そのまま思い出のようなひと時

机脇の手造り本棚から何気なしに三好達治の文庫合本を取り出す。『三好達治詩集』、『三好達治随筆集』そして『詩を読む人のために』の三冊の手造り合本である(いずれも岩波文庫)。手造りといっても茶色のなめし革で装丁されたなかなかの豪華本である。頭が疲れたり、気分が鬱屈しているときなど、ぱらぱらとページをめくる。そうした類の本には、他にも志賀直哉の短編集や伊東静雄の詩集がある。最近はそれらに、わが宗匠・眞鍋呉夫の定本『雪女』が加わった。
 それはともかく、達治の詩集『南窗(なんそう)集』の中にこんな素敵な詩を見つけた。友人・梶井基次郎への挽歌「友を喪ふ 四章」の一つ「路上」である。

巻いた楽譜を手に持って 君は丘から降りてきた 歌ひながら
村から僕は帰ってきた 洋杖(ステッキ)を振りながら
……ある雲は夕焼のして春の畠
それはそのまま 思い出のようなひと時を 遠くに富士が見えてゐた

 梶井が亡くなったのは1932年3月24日。そのころ三好達治が彼とどのような交流をしていたのかは知らない。たぶんこの詩は、実際の出来事ではなく帰天した基次郎を空想の中で悼んだ詩かも知れない。
 先ほど素敵な詩と言ったが、私が強く引き付けられたのは「そのまま 思い出のようなひと時を」という詩句である。そのまま思い出のようなひと時…
 雑駁に過ぎ行く日常の中にも、なぜかそのまま、つまりまるで写真や絵画のフレームの中にしっかり取り込まれたように感じられる瞬間があるものだ。目の前の情景を体験している、見ている自分とは別に、未来の自分の眼差しにも捉えられていると感じるような情景…そんな体験をこれまで何度もしてきた。たとえば…
 たとえば、もう20年ほど前の或る爽やかな秋の一日、鎌倉の日本庭園で眞鍋宗匠囲んでの実に文学的な集まり(それが何の集まりだったかは忘れてしまったが)に美子と一緒に参加したときの、柔らかな午後の緑色の光の中の数刻。あるいはちょうど今ごろの季節、まだ歩ける美子と夜の森公園の大きな銀杏の樹の下を通ったときの黄金色の光の中の数分…そして不思議なのは、いずれの場合にもその瞬間、あゝこれはそのまま思い出になるな、と確信していたことだ。
 と考えると、先ほどの達治の詩に描かれた出来事も空想の中のものではなく、過去のある時点で実際に起こったことと考えた方がよさそうだ。つまりそのとき、達治は「あゝこれはそのまま思い出になる」と心の中で強く感じたに違いない。
 でも本当は、そんな特権的な時間だけではなく、すべての時間が、すべての体験が「そのまま思い出になるように」生きなければならないのではないか。そのとき時間は直線状に未来へと続くのではなく、いわば螺旋状に現在に重なってくる。
 ということは、奈落の底からの視点、終末からの視点、限りなく重心を低くした視線、「末期の眼」などもすべて同じことを言っているような気がする。さらに言うなら、人はそのような瞬間の中に「永遠」を垣間見る、先取りする。

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日本スペイン交流400周年の真義

今まで小説や映画で読んだことも見たこともなかったあの有名な決闘にとうとう立ち会った。時は慶長17(1612)年4月13日、船島(通称巌流島、山口県下関市の沖合い)での武蔵と小次郎の決闘である。確かむかし見た映画のポスターでは武蔵は櫂のような物を持っていたと記憶していたが、村上元三の小説ではこうなっている。「右手にさげた獲物は、小太刀ではない。おそらく、船の櫂を削ったものであろう。木は新しいが幅が太く、不恰好であった。長さは、四尺一、二寸と思われる」。
 それに対し、小次郎は四尺の小太刀。この一~二寸の差が、そして前日周到に決闘場所を下見していた武蔵の戦略が勝敗を決した。つまりわざと四時間も遅刻して来た武蔵が、小舟から上がって海を背にしたため、それに向かう小次郎の目は次第に疲れを覚え、そしてついに両者が切り結んだとき、小次郎の切っ先は武蔵の額の鉢巻を切り落としたのだが、一~二寸長めの武蔵の切っ先は、「小次郎の額の生え際から二寸ほど上のところへ、大地へ打ち込むくらいのすさまじい打撃を加えた」のである。
 ともかく一瞬の勝負だった。離れたところで立ち会っていた伊之瀬東馬(小次郎の妻となった兎禰(とね)の元いいなずけ)が駆け寄って、まさに絶命せんとする小次郎の右手から固く握り締められていた小太刀を離そうとするが、その左手には小さな黄色い浜ぐるまの花が握られていた。兎禰への最後の伝言ででもあったのだろうか。
 これより少し前、豊後(大分県)の古国府(ふるごう)で小次郎と再会した兎禰は、付き添い役に徹した東馬と共にキリシタンの洗礼を受けて、ようやく魂の平安を覚えるまでになっていた。しかし小次郎は、彼女とついに夫婦になったとはいえ、なおも見果てぬ夢を追い求めつつ、ここに二十台半ばの若い命を落としたのである。一方、武蔵は更に30年以上も生きながらえ、剣法者として『五輪書』(オリンピック案内書ではござらぬ)を表すなど円熟の晩年を迎える。武蔵と小次郎、たぶん世人の圧倒的な支持を得るのは武蔵であろうが、葛藤と焦慮の中で果てた小次郎に、いまは不思議な愛着を覚えている。これから読むであろう吉川英治の『宮本武蔵』の後にも、なおその愛着は持続するかどうか。
 大団円にしてはいささかあっけないこの幕切れ近くに、こんな一節もあって、一気に現代へと繋がった。「また九州平戸には二年前からオランダ商館が設けられているし、この年の六月には、スペイン領メキシコ総督からの使節としてバスチャン・ヴィスカイノが日本に到着し、いまは江戸の将軍秀忠のところに滞在している。」そうだ、そのあと、遠く奥州相馬の里をビスカイーノ一行が通過するのだ。バスチャンは正しくはセバスティアン、ヴィスカイノはビスカイーノ、つまりこの三月、相馬市市史委員会から頼まれてその相馬での件(くだり)を訳したあのヌエバ・エスパーニャの特使ビスカイーノである。以前書いたように、彼の一行が相馬を通ったのは、慶長大地震(1596~1615年)とりわけ会津地震(1611年9月)、三陸沖地震(同年12月)の直後のことであった。
 さらに東馬と兎禰が洗礼を受けたのは、耶蘇(イエズス)会のイスパニア人ロドリゲス神父からで、このころから厳しくなったキリシタン弾圧を逃れて、イルマン(エルマノ=修道士)トマスとなった東馬は、ロドリゲス神父と共にイスパニアに逃れるであろう。そして小次郎とはついに結ばれることが無かったナビィは長年彼女を愛していた南屋十兵衛とともに琉球に戻って危殆に瀕した祖国琉球のために再度奮闘することになろう。
 では愛しい兎禰は? 心配ご無用。彼女は島兵衛・小里という忍者夫婦に付き添われて先ずは小次郎の父だと名乗り出た江州(ごうしゅう=近江=滋賀県)観音寺の佐々木義弼(よしのり)のところに立ち寄り、生前会うことの無かった亡き息子の形見を届け、そのあと越前の彼女の父の元に帰るであろう。
 これにて佐々木小次郎一巻の終はりといふわけだが(おっとつい旧かなになってしもた)、前述したようにちょうど四百年前の日本が私の頭の中で急接近したように思えたのだ。小次郎の短い生涯をたどるだけでも、彼の生きた時代、彼の歩いた日本は決して私たちと無縁の世界ではなく、さまざまな局面で深く現代にまで繋がった世界であり、小次郎を初め当時の日本人たちの喜びや悲しみも現代のわれわれと強く共鳴するという嬉しい発見であり新鮮な驚きである。
 と、ここまで書き進んだとき、震災後知り合ったH新聞社のI記者から、慶長遣欧使節支倉常長について寄稿してもらえないだろうか、とのメールが入った。いや不思議な暗合はそれだけではない、昨夜はイエズス会総会長ニコラス神父さんから、「貴兄のなさっておられることに私も全く同感であり、貴兄の友人であることを誇りに思います。御著が広く読まれ、多くの実を結ぶことを願ってます」との嬉しいメールが、そして今朝は、サトリ出版のアルフォンソさんから、先日マドリードの書店で行なわれた出版記念会に参加したマドリード大学のロダウ教授と 自治大学のホセ・パソ教授が、日本とスペインの関係についての佐々木の見解に共鳴しているとの力強いご報告があったのである。
 つまり多くのメリットをもたらしたがまたそれに負けず劣らず多くのデメリットをもたらし続けている「近代的価値観」に対して、スペインと日本は全く対蹠的な姿勢をとってきたこと、すなわち近代のいわば廃嫡された長子スペインと、近代の最優秀な養子日本との面白いまでのコントラストについての拙論である。いま各所でさまざまな形で祝われている両国の交流四百周年記念行事も(先日のシシリア展もその一つ)、この視点を根底に据えなければ、もっとはっきり言わせてもらえば、今回の両国首相の話し合いのようにただひたすら経済問題に終始するだけなら、単なるお祭り騒ぎに終わるということである。いや今までそこまではっきり言わなかったが、これからはぜひそのことを強調させていただくつもりだ。
 要するにこのところ小次郎、武蔵、さらに『葉隠』、利休、そして昨日は二階の書棚から埃まみれの三枝博音『日本の思想文化』や岡倉天心『茶の本』、鈴木大拙『日本的霊性』などの合本を運んできて机脇に置いているのもそのための下準備なのだ。
 なぜか? こんな歳になって、しかし今次の原発事故を経たからこそ、日本文化の本質を見直そうとの意欲が俄然湧いてきたのだ。つまりはっきり言えば日本は反近代の姿勢を貫いてきたスペイン(EUの中のせめぎ合いで時おりそれも怪しくなるが)から多くのことを学び、スペインは原発に代表される近代への盲信で己が真の姿を見失う以前の「日本的なるもの」から(時にそれは見る影もないほどの変質を蒙ってはいるが)なお多くのことを学ぶためである。
 はっきり言おう。原発、経済優先、ふつうの国を目指すと言いながら内心は排他的・自己中心主義的な大国日本を画策するすべての勢力に言いたい、あなたたちは本当に価値ある日本を駄目にし、裏切ってきた。原発は真に日本的なるものとは決して相容れない邪道である、と。これまでは反自然、反人間という視点から原発反対を主張してきたが、これからはそれに加えて、堂々と反日本、反愛国であるからとの主張を前面に出そうと思う
 つまり自然との共生、節度と礼節を重んじる優れた日本の伝統文化に共鳴する世界のすべての人たちとの幅広い連帯を構築していきたいのだ。そういう意味で言うなら、サムライ・ジャパンもなでしこジャパンも応援しまっせ。
 ということはおぬし、新・保守主義を掲げるつもりか? とんでもごぜえやせん、あっしにゃー保守も革新も無く、ただ只管(ひたすら)根っこから(ラディカル)、つまり過激ではなく根源から奈落からの主張という意味での根源主義に徹してるだけでごぜえやす。なんだか鶴田浩二の歌みたくなってきちゃった。ええいっ面倒くさい、「傷だらけの人生」でも一緒に歌いましょか?

「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ
新しいものを欲しがるもんでございます。
どこに新しいものがございましょう。
生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、
右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。」

何から何まで 真っ暗闇よ
すじの通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
ばかと阿呆の からみあい
どこに男の 夢がある 

(以下省略)
              (作詞:藤田まさと 作曲:吉田正)


【息子追記】立野正裕先生からFacebookでいただいたご意見を以下転載する(2021年2月18日)。

興味深く一読させていただきました。とくに前半、武蔵と小次郎の決闘のくだりを。先生は村上元三にもとづいておられますが、わたしの場合は吉川英治です。高校時代に内田吐夢の武蔵と付き合い大学まで見続けたいきがかりで、ずっと後年、武蔵論を書くときも吉川英治と内田吐夢の濃い影を背に負っていました。ただし、わたしの場合は、小次郎との決闘にまでたどり着かず、一乗寺下リ松の吉岡一門との肉弾相打つ血みどろの斬り合いと、このとき殺した子供のことがながいあいだ気になっていました。佐々木先生が吉川英治をお読みになっておられたなら、問題のその子供殺しについてどのようにお考えになったか、ぜひご見解をうかがいたかったところです。

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美しき停滞

数日前、ロブレードさんから十二分ほどのビデオ映像が電送されてきた。十月四日から福島県立美術館で二ヶ月間開催される「ホセ・マリア・シシリア 冬の花」展の開催期間中、場内で希望者が常時見れるように作られた紹介ビデオである。内容は南相馬の海岸を歩きながらのシシリアさんの哲学的な独白から始まって彼の前衛的な作品紹介へと続くが、中ほどに私たち夫婦のシーンが出てくる。美子と私が車を降りて夜の森公園の坂道を登っていく場面(あゝ懐かしい、震災の年の秋だ!)と今年四月、拙宅でのシシリアさんとの対話で私が話す短いコメントである。(近く完成ビデオを「取材映像」に収録させてもらおうと考えている)
 先だってのスペインテレビの時もそうだったが、私がいちばん伝えたいメッセージが実に的確に紹介されている。今回は(毎度の主張だが)、現代日本がいかに進歩幻想にイカれているかに怒(いか)っている(すみません、つまらぬ言葉遊びです)私の話が流れる。日本だけではないが、なかでもとびきり日本が進歩幻想に冒されているとの指摘である。
 そしてたまたま今朝方読んでいた司馬遼太郎・井上ひさし対談集『国家・宗教・日本人』の中で、その発言と呼応する司馬遼太郎の面白い発言を見つけた。つまり息せき切って進歩を追い求めてきた日本がいま最も必要とするのは「美しき停滞」だという意見である。
 お二人がもし生きておられたら原発事故及びその後の日本についてどういう発言をされたか、非常に興味がある。要するにイリッチの言う「プラグを抜く」勇気、古い喩えを使うなら「パンドラの箱を閉める」勇気と同じことを主張されたのではないか、と推測している。だが明治の開国以後、闇雲に走ってきた日本にとって、実はこの美しき停滞こそが至難の業なのだ、つまり賢い減速ができないのである。
 ところで話はいつものように突然変わるが、実は今、バルセローナのカタルーニャ語発信のARAという新聞社から紙上インタビューを申し込まれて回答を執筆中なのだが、いくつかの設問の中にとうぜんオリンピック招致に関しての質問が入っている。つまり今回の日本招致の際、汚染水問題などに対して煙幕を張ったのではないのか、という痛ーい指摘である。
 それに対してはこう答えようかな、と思っている。確かに海外の人から見れば煙幕とか誤魔化しに見えるであろうし、それを否定することは不可能だ。事実、日本でも私のものも含めてそうした批判が続出している。だからそうしたごまかしを弁護する気は全く無いのだが、敢えてもう少し事情説明をするとすれば、実は当事者たちにその意識は「希薄」だということである。つまりインチキをしているという意識はほとんどなく、あるのはただひたすら「一丸となって」経済の好転を、苦境脱出を、との「気迫」(また言葉遊びです)の表れであろう、と。
 でもそこが実はいちばん恥ずかしいところ、要するに一向に悪びれるところがないので始末が悪いわけだ。つまりそうした発言なり態度が一見外向きのものように見えながら実はひたすら内向きのものであり、それが国際的には明らかにインチキ・誤魔化しに見えるということに思い至らないのである。
 太平洋戦争その他での日本の愚行に関して関連諸国といつまでたっても問題を起こし続けてきたというのも、同じ心理機制から生じている。つまり当人たちには、真面目に必死に一丸となってやってきたという意識しかなく、それが他者に対するとんでもない蛮行であったという認識が希薄なわけだから、悪びれるところが無いのである。こうした日本人の心理機制を、『菊と刀』のルス・ベネディクトは恥の文化と呼んだ。つまり罪の意識が希薄で、ひたすら対面を気にする文化という意味で。
 ただルスさんには申し訳ないが、それについてはいささかの反論がある。問題がややこしくなるので、ごく簡単に言うと、欧米流、つまりキリスト教流に言う「罪の文化」と対比された「恥の文化」は確かに分が悪いが、しかしその恥をもう少し良く見てもらいたい思うのだ。簡単に片付けられない難問に入ってしまうが、要するにある意味で「恥を知る」文化は「罪の文化」を凌駕することもありうるということである。つまり「恥」といってもそれこそ体面というひたすら他者の評判を意識した表層のものから、罪意識よりさらに内面に届く恥の意識があるということである。
 要するに、絶対者の前におのれの罪行を深く反省し、その結果許されたと考えることによって、俗な言葉で言うなら「すっきり」するのに対し、恥はたとえ被害者から許されたとしても(絶対者を持たない文化では)、その恥は己が死をもってしか完全には雪(すす)がれる事は無いのである。
 そう、ここでこのところ考え続けてきたサムライの感じる恥に行き着く。こんなところで持ち出すには少し躊躇するが、『葉隠』の言う「武士道と言ふは死ぬことと見つけたり」もこのあたりのことを言っているのではないか。そんなことを言うと、とたんに三島由紀夫流の右翼思想と同一視されてしまうので、大急ぎで私見を持ち出すと、武士道の言う死は単に天皇とか主君への忠義立てというより、常に死を覚悟することによって己が生き方を律するという意味ではなかったか、と愚考するのである。
 ただ『葉隠』などこれまでヒットラーの『わが闘争』程度の危険文書として毛嫌してきたので、これではいけない、とさっそく和辻哲郎・古川哲史校訂の『葉隠』三巻本(岩波文庫)を注文したところである。(あゝしんど、またもや難問を抱えてしもた)
 閑話休題。私の言いたかったことは、このところの偽サムライ、似非伝統主義者は、そうした真の「恥の文化」を継承していないのではないか、ということである。つまりオリンピック誘致運動に端無く(はしなく)も露呈したのは、恥知らずな振る舞いだということ。彼らの好きな言葉を逆用すれば、彼らの罪「万死に値する」と。もちろん、こんな長―い、持って回った説明を外国の新聞社にするつもりはないが。
 ところで例の本の中で、そのあと司馬遼太郎は面白い例を挙げている。つまり先だって引退宣言をしたアニメ映画の宮崎駿さんが、『紅の豚』の登場人物の一人、アメリカからイタリアの町工場主のおじいさんの所に戻ってきて飛行艇を設計する十七歳の女の子の役を一般の人たちから募集してテストしたところ、ほとんどみな娼婦の声で駄目だったという話である。娼婦と言う言葉で何を意味しているのかはにわかには判じがたいが、しかし何となく分かるのは、凛として自己を主張できる女の子がいなかったということではないか。
 これも先日ここでボヤイたこと、つまり最近いわゆる女子アナ(嫌な言葉だ)なるものがニュースを読むときの声がやたら気になるということと繋がる。要するに発声からしてすでに媚びた声の持ち主が大半を占めるということだ。古い言葉を使うと「衣食足りて礼節を知る」ことが無い日本の悲劇である。あるいは「足るを知る」ことができない日本の悲劇。しかしこれは先日来話題にしてきたサムライの生き方の真逆の生き方ではないか。
 「足るを知る」は老子の言葉だし、もうひとつ「朝(あした)に道聞かば夕べに死すとも可なり」は孔子の言葉という具合に、サムライたちの生き方を律していた哲学は、中国発祥のもの、それを日本古来の哲学と合体させて自家薬籠中の物として独特な色合いに染め上げたものが武士道だとすれば、武士道も決して排他的・自閉症的な生き方ではなく、広く世界中の人に共感してもらえる哲学であり文化であると言えよう。
 つまり私の知る限り、スペインやメキシコなど世界中にいる日本文化愛好家たちが憧れるハポン、ジャパンの文化は、今や絶滅危惧種となっているのではないか。遅まきながら私が近ごろ向かおうとしているのは、その保護運動の一種かも。
 ちょっと話が長ーく、しかももつれてきました。尻切れトンボではありますが今日はこれにて失礼、お粗末でした。

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腑に落ちぬこと

参院選は予想通り、自民党圧勝のうちに終わった。あまりにも馬鹿げた結果なので、わが瞬間湯沸かし器はコトリとも音を立てなかった。笑っていいとも、どころか、笑うっきゃない事態だからだ。
 ところで孫たちはいま無事里帰り中である。一昨日の電話で、愛はこっちのキューリはあまり美味しくない、原町のキューリが食べたい、と言ったあと、おじいちゃんに会いたい、などと殺し文句をつぶやいた。幼いながらこちらの心理を見抜くことにかけては天才である。
 それはともかく、選挙の話に戻るが、どうしても腑に落ちないことがある。ネットの新聞をすべて調べたわけではないが、しかしそのことについてどの新聞も取り上げてもいないようだ。つまり一人区の福島県で、自民党の森雅子が脱原発を訴えて圧倒的な票を集めて当選したことである。再稼動に舵を切った自民党公認の候補者、それもたぶん閣僚経験者(少子化担当でしたっけ?)が堂々と脱原発を訴えたこと、これ許されることなんでしょうか? 現職の首相夫人が脱原発を公言していることの欺瞞については既に書いたが、しかし夫人は政治家じゃない。しかし森議員はばりばりの政治家。これっておかしくないですか?
 「なんだべー森昌子に似て美人だこと。んで、生活も豊かになって、ほれ原発も廃炉にしてくれるんだと。こんないいことなかんべー」(いやいや自民党政権が続くかぎり、たとえ雅子ちゃんがその中で何と言おうと、再稼動、原発輸出はいよいよ加速するだけ。そのうち可愛い孫たちは嬉々として国防軍兵士に志願しまっせ。いややがては徴兵制度復活、さらには国民皆兵かもね。いやそこまで行かないとしても、戦争のできる普通の国にするというのが彼らの究極の狙いでっせ)
 急いで新聞を読んでみると、彼女、福島県の全原発の廃炉を訴えて、いろいろと迷っていた選挙民の心を捉えたらしい。でもこれ、よく考えて見ると、いや考えるまでもなく断然おかしい。日本のすべての原発の廃炉を訴えるならまだしも(それさえも自民党の中にいながら主張することはゼッタイおかしいが)、弱り目に祟り目の被災民からなんとしてでも票をかっさらおうとする魂胆が見えみえのえげつないというか、あざとい戦法である
 こんなインチキにやすやす引っかかる被災民も被災民、国民も国民だ(いま危うく非国民と書きそうになった、クワバラクワバラ)。これまでいつも言ってきたことだが「清き一票」なんて欺瞞もいいところ、何も考えない、というよりひたすら自分たちの生活の利便しか考えない無辜の、いやいや無恥の、民の一票など何の価値も無いどころか、今の日本の政治がまさにそうであるように、行き着く先は「衆愚政治」の見本みたいなギマン社会以外の何物でもない!
 静かだった湯沸かし器が沸点に近づいてきました、もう怖れるものなんか何も無い!こんな情けない状態に置かれている被災民ですらこの体たらく。いいよいいよ、滅びの道をまっしぐらに進んで行きゃがれ!
 といって、私たち老夫婦だけならこんな日本ぶっ壊れても屁とも思わないが、でもねー可愛い孫たちがこれから生きて行かなきゃならない世界、放っておくわけにも行かねーべ。さてどうすっぺ。
 話はがらっと変わるけんちょも(たぶん屁に誘われて)、昨日は出ずに心配していたが、そしてもし今日も出なかったら○○取りの翁がカンチョー持って出動と覚悟してましたが、午後一時十五分、いつもの通りやってきたケアのお二人に任せて翁は自室の机の前で固唾を呑んで待ってました。目安の十五分が過ぎても連絡無し。さあいよいよ出動。買いだめしていたカンチョーを一本もってトイレに直行…出ましたよ出ましたよ!
 さあ、こうなりゃ槍でも鉄砲でも持ってきやがれ! 何!再稼動だと!……おっと、それやっぱ、まずいっしょ。
 最近、元気が出ないときには鄭周河さんの映像と声を聞きます。そしてついでにスペインテレビの貞房さんと美人アナウンサーのマルタさんのナレーションを聞きます。貞房さんは、何も自己判断の出来なくなったこの日本を再建するには政治の仕組みと、とりわけ教育の抜本的見直しが必要だと訴えてます。マルタさんは最後のところで、日本人はいまお金と利便・快適だけを求めるという悲劇に見舞われています、という貞房さんのメッセージを代弁してます。あゝその貞房さんの悲痛な叫びが日本のテレビからも流れていたら!(残念!たとえ流れたとしても聞く耳が無いか!)
 最後に貞房さんのキーワード二つの補足をします。
 英語のライフという言葉には大きく分けて二つの意味、すなわち生命と人生、があると言ってきましたが、正確に言うともう一つ、つまりそこに「生活」を加えなければなりません。もちろん生活は「命あっての物種」と言うように、どちらかと言うと「命」に近い概念です。でも便利で栄養過多の生活をすることによって、命そのものを縮めるという二律背反的な関係にもなります。キリストの言う「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(聖ヨハネ福音書、第12章24節)という厳しい言葉もあります。
 ともかく今の日本は、生活(水準)を重視するあまり、生命やかけがえの無い人生を粗末にする国に成り下がっていることだけは確かです。
 もう一つの補足は、伴淳のアジャパーというギャグについてです。「アジャ(スペイン語では<向こう>はパー(何も無い)よ)と無理にこじつけたが、もともと「パー」は「クルクルパー」の「パー」であることを思い出した。これでもいい。つまり「お前達がしきりに目指しているあちらには何も無いよ」という意味でもいいし、「あちらはアホの向かうところだよ」という意味に解してもいいということである。もう一つの解釈もある、つまり「パー」をフランス語の例の破裂音の「pas」、つまり「ne」と一緒に否定の意味を持つ副詞ととっても貞房氏の[オヤジ]ギャグは成立するわけだ。以上蛇足でした。

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ここらでちょっと(二)

明日話を続けます、などと言った手前、実は未だ自分の中で固まっていないことを話す羽目になってしまいました。いや、もともとこの「モノディアロゴス」自体、当初から未だ具体的に固まっていない想念をとりあえずは書いてみる、もっと正確に言えば、書きながら考えていく態のものでした。
 で、ぶっちゃけた話、実はこのところ、私自身の来し方行く末をつらつら考えていたのであります。きっかけは、『原発禍を生きる』のスペイン語版やそれを紹介したスペインテレビを見ているうち、佐々木孝という人間が世間的には「イスパニスタ [スペイン文学研究者]」として分類されていること、それも恥ずかしいことに「第一級の」などの形容詞が付けられていたことです。もちろんそれは一種の外交辞令なのですが、妙に気になってきました。 といって遁辞はいつも用意しておりました。たとえばスペイン語訳の最後にある「自画像」の中では、「私の専門はウナムーノ、オルテガなど現代思想であり、それらの源流ともいうべきビトリアやビーベスの人文思想にも大いに関心を持って迫ろうとはしたのですが、しかし <生来の怠けぐせ> が災いして最後の詰めを怠って来ました」などと断ってはいるのです。
 そんな折もおり、昨日、急に思い立って、それら放り出したままのスペイン思想研究のうちの一つ『内側からビーベスを求めて』を読み始めました。これには大学紀要などに断続的に書いた四つの論考が収録されています。私家本にしてから読み直すのは初めてです。そして自分で言うのも変ですが(いや本当に)、これがなかなかいいのであります。エラスムス、モア、ビュデと並んでヨーロッパ人文主義の四大高峰と称えられたビーベスの人と思想を主に彼の書簡、そして彼宛てのエラスムスやモアの書簡などから解明しようとしたなかなかの力作なのです。これを未完のままにしておくのはいかにも勿体無い。
 かといって、今さら研究論文を書く、たとえばビーベス論の(五)を書き加えるというのもためらわれます。つまりもう少し若かったら、手元にあってまだ読んでも使ってもこなかった研究資料を駆使して、ビーベス論を一応の完結まで持っていくことも出来ましょう。しかしいかんせん、限られた時間の中でやらなければならないことが山積してます、たとえば?、たとえば日本や世界から原発や核兵器が無くなるための運動、運動たって美子の介護があるから、せいぜい文章を書いたり共鳴者と連絡しあったりすることですが…
 そんなときです、マドリードの■さんを通じて、ローマのイエズス会のニコラス総長に献呈した拙著のスペイン語版に対して、実にていねいなメールのお返事が届いたのは。確かにかつては同じ釜の飯を食べた尊敬すべき先輩ではあります。しかし今は文字通り雲の上の存在、全世界二万人のイエズス会士の頂点に立つ方です。返礼があったとしても秘書官を通じての公的文書みたいなものだろうと思っていました。それが個人的なメールで、しかも「親愛なるタカシ」と呼びかけてくださったのです。私が原発事故の被災民になっていたとはご存知なかったようで大変びっくりなさり、しかもしっかり本を読んでくださった上での礼状であることのはっきり分かる文面でした。
 急いで返事を書きました。以前から私の終生の恩師であった、そして今もそうである故メンディサーバル神父の純粋で高潔な徳を、そしてイグナチオの精神を、忠実に引き継ぐのはニコラス神父さんだと思っていたので、2008年、総長に選出されたときは心から喜んだこと、そして現代は大変化の時代であるという意味で、イグナチオやビーベス(ちなみに両者は新世界発見の年1492年に相前後して生れた全くの同時代人である)の時代に似た時代であり、このような時代に総長という難しい役に就かれた神父さんは必ずやカトリック教会だけでなく世界のためにも良き仕事をなさると確信している、私も老骨に鞭打って、世界平和のため、とりわけ原発や核兵器の無い世界が来るよう頑張るつもりです。これからも時々神父さん宛てにお手紙書きたいと思いますが、さぞかし大変ご多忙な毎日と思いますので、お返事など心配なさいませんように、と書き送ったのです。ところがすぐ折り返し、お返事が遅れたとしたら、それは旅行か仕事が溜まっているためですので、どうぞこれから遠慮しないでぜひお考えなど聞かせて下さい、そして日本語はまだ読めますので、時には日本語で書かれても一向に構いませんよ、との嬉しいお返事でした。
  さあ、思ってもみなかった展開です。つまり私としては、この小さなブログの場を使って、ニコラス総長に、世界平和や原発・核兵器ゼロの世界実現のための貧しい思索を、いわば公開書簡のような形で書かせてもらえないだろうか、と考え始めたのです。それには伏線として、ビーベス論と同時に読み始めたエラスムスの『平和の訴え』(箕輪三郎訳、岩波文庫、1991年、弟7刷)のことが頭にありました。ビーベスとも親しかったエラスムスが「いとも令名高きユトレヒトのフィリップ司教猊下」に宛てた書簡です。
 自らをエラスムスに擬えようなどとは不逞な考えですが、でもユトレヒトの司教よりもはるかに影響力をお持ちのイエズス会総長に書簡が送れるというこの千載一遇の機会を見逃すというのは、それこそ「平和の神」に申し訳が立たないほどの……
(唐突ではありますが、老体にはきつい真夜中です、シンデレラさえ十二時を回ったら急いでカボチャの馬車でご帰宅、この私めも続きはまた明日ということにしてここらで退場いたします)。

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南無三、地球は投機で回ってる!

しばらく画面から消えておりました。NHKの鄭周河さん紹介の番組やら、スペイン・テレビの拙著紹介の番組やらで、文字ではなく生身の貞房を晒しているので、その方でしばらく時間がかせげる(?)わいと、怠けていたこともありますが、もうひとつ、何とも中途半端な時間を過ごさざるを得なかったからでもあります。
 つまり先週、毎年一回の精密検査で心電図やら尿の検査やら胸部レントゲンやらをしてもらったのですが、その問診の際、胸部レントゲン写真を見てI医師が「これは血管が重なって出来た影だと思いますが、安心のためCTを撮ってもらいましょう」と近くの病院に予約を入れてくれたのです。なんとも気分的に落ち着かない五日目が今日で、午前中病院で撮影してもらい、いま帰ってきたところ。結果はいつ分かるか聞いたところ、クリニックに届くまで3、4日かかるとのこと。何でもスピードアップの時代にそれはないでしょ、と思ったけれど、これだけは待つしかない。
 で、これ以上中途半端な執行猶予の時間を気もそぞろに待つのは馬鹿げている、もうそれについては考えずに、しっかり「生きて」行こうと考え直したところです。でも世の中には、今も持病を抱えたり、余命を気にしながら生きている人がどれだけいるかことか、その人たちにとって毎日がどれほど大変なことか、と考えると、掛け値なしに偉いなあ、とその人たちを尊敬してしまいます。
 私にとって、たとえば今入院とか手術とかが必要になったとしたら、いちばん困るのはその期間、美子の介護が出来ないことです。それだけは何としても避けたい。強がりを言うつもりはありませんが、美子のことが無かったらどんなことでも耐え抜けるのですが…
そして唐突にこんな都々逸をつぶやきました、「貞房殺すにゃ刃物はいらぬ、入院必要告げりゃいい」。つまり日ごろ勇ましいことを言っても、貞房にとって妻・美子は泣き所というわけ。ところでこの都々逸まがいの文句の元歌は、「ニコヨン殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればいい」だと思いますが「ニコヨン」といっても今じゃぴんと来ないでしょう。ニコヨンはつまり昭和20年代の半ば、失業対策事業に就労して職業安定所(今のハローワーク)からもらう日給が240円だったことから土木作業員(土方とも言った)を意味した言葉。いろんなバリエーションがありますが、傑作は「噺家殺すにゃ刃物はいらぬ、あくび一つもあればいい」でしょうか。
 それはさておき、この五日間、もちろんただぼーっとしていたわけではない。もしも結果が悪い方に出たらどうしようか、としきりに考えていた。美子の世話ができなくなることを怖れたただけではなく、おかしくなってきた日本をこのままにしておきたくはない、といよいよ切迫感が増してきました。比喩的表現ではなく文字通りの末期の目から見れば、多少の問題はあるにせよこのまま日本が、そして世界が推移していくと考えている多くの人たちの目を覚まさせないうちに自ら果てることはなんとも我慢がならぬ、などひとり怒っていたのです。原発事故の収束さえ覚束ないのに、あたかも何事も無かったかのように愚かな政治を進めている安倍晋三よ、お主は後世の評価では「愚者列伝」の筆頭に来る政治家だぞい、などとつぶやきながら。
 いやいや冗談じゃなく、日本を筆頭に、世界全体がおかしいのですぞ。地球を何千回、いや今だったら何万回でしょうか、ぶっ壊すことが出来る核弾頭が存在すること自体、どう考えったっておかしな世界でしょ。「笑っていいとも!」なんてアホ面下げて笑ってる場合じゃないんですよ、ほんとに。
 いやいや、もう何回も書いたり喋ったりしてきたことですが、この世界は理想や信条や善意の人たちの努力によって動いてるんじゃありません。はっきり言えば「投機」によって動いてるんですよ。こんな世界になったのは、そんな遠くの昔じゃありません。長くても2、3世紀この方のことです。マルクスがどう言おうがケインズがどう言おうが(あと名前が出てきません)、この世は明らかに「投機」、あるいは「投機心」によって展開してます。ガリレオが異端審問所で「E pur si muove! それでも地球は回ってる!」と言いましたが、いまはそれを少し換えて「南無三、地球は投機で回ってる!」と言わなければなりません。
 もちろんこんな世界を一気に元に戻すことは不可能です。革命なんてやっても無駄なことです。でもこの世がおかしいということを少なくとも自覚すべきでしょう。何?無駄なあがきは止せ、ですって? そうかなー、パスカルの「考える葦」じゃないけど、いやそうだけど、人間の尊厳て、突き詰めていけばそこに尽きるのじゃない?
 そして我らがウナムーノが『生の悲劇的感情』で引用しているセナンクールの『オーベルマン』の決定的な言葉を、今日の結論としてだけでなく、いまの私自身への自戒、いや励ましの言葉にしましょう。

「人間は死すべきものである。確かにそうかも知れない。しかし、抵抗して死のうではないか。そして無がわれわれに予め定められているとしても、それを当然と思わぬことにしよう」

★3日朝の追記 渡辺一夫さんの、確かフランス・ユマニスムについての文章の中で読んだ言葉だが、現代に生きる私たちへの無上の覚醒と励ましの言葉を取り急ぎ書き加えておく。「この狂気の時代にあって、唯一残された道は、いかにして正気であり続けるか、である」。(正確な引用はまたの機会に)

★★同じく3日朝の追追記 先ほどとつぜんクリニックから連絡が入り、昨日の結果が出たのでいらっしゃいとのこと。取るものもとりあえず(もちろん美子の安全を確認して)出頭(?)しましたら、CT検査の結果、ガンその他の心配は一切無い、という嬉しい判定結果。八割がた大丈夫と信じてはいても、これだけは実際に結果が出るまで心配なものです。でも待合室のテレビから流れる映像は大飯原発再稼動のニュース、嗚呼!一難去ってまた一難、さあ皆さんめげずにすべての原発廃炉まで息の長い戦いを共に戦い抜きましょう!

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真の復興のために

私の机の前の手造りの棚に、時おり、まるで恐山の山腹にはためく護符のように(と言うんでしたっけ?)断片的な言葉が書かれた紙片がセロテープで貼り付けられている。不意にひらめいた想念をなんとか書き止めようとしたその痕跡である。だから時間が経つと、何を言おうとしているのか皆目見当もつかない語句が並んでいたりする。いまちょうど目の前にある紙片には、「愛へのプレゼント ハングル」とだけ書かれている。これは書いてからそう時間も経ってないので何を意味しているかは分かる。
 それでも一月以上も前のことだ。ここにも書いたが、鄭周河さんが写真展・ギャラリートークのすべてを無事終え、南相馬を離れる前に拙宅にご挨拶に来られたときに、愛へのプレゼントとして『松の子ピノ~音になった命』(北村笙・文、たいらきょうこ・絵)という絵本を下さったのだが、その献辞はすべてハングルで書かれていた。それ以前、私に下さった写真集にもハングルだけの献辞だったが、そのことがきっかけになって私の七十の手習い・ハングルへの挑戦が始まったのだが、愛はまだ四歳、彼女に私のような一念発起は無理というもの。しかし今回もまたそのことがきっかけで私自身がいろいろ考え始めた。
 愛には覚え始めたばかりの「かな」とはまるで違うハングル…ここで、なぜハングル文字と言わないかといえば、ハングルとは「大いなる文字」という意味で既に「文字」の意味が込められているからだ。世界の三大宗教の場合、キリスト教、仏教と並べて普通イスラム教と言うが、正確にはイスラムという言葉それ自体が「教」の意味を含んでいるのでイスラムとだけ言うのが正しいのと同じことである。
 言わずもがなの寄り道をしたが、本題に戻る。たぶん愛の幼い頭に、その奇怪な文字は強い印象を残したことだろう。そして意味は分からぬまでも、あの背の高い優しい異国のオジサンが書いてくれた字の意味を何とか知りたいと、いつかハングルの勉強を始めるかも知れない。ウナムーノは生涯、外国語を含めて言葉に対する強い関心を持ち続けた人だが、そのきっかけは、幼いころ、父が客人と話す不思議な言葉(実はフランス語だった)に強い興味を覚えたからだという。
 要するに言いたいのは、私たちにとって異国の言葉が未知の世界へと誘う強力な磁場を持つ入り口になるということ。ふつう旧約聖書のバベルの塔の話は、人間の傲慢を戒めるために神が互いの言葉が通じないようにしたとされているが、本当は人間が互いの違いを認め合ってより深い理解へと進ませるためのものであった、と解した方がいいのではないだろうか。経済のグローバル化についてはよく分からないところもあるが、しかし言語や文化のグローバル化は決して人類の幸福に繋がるとは思えない。むしろ表面的な理解には役立つだろうが、互いの立場や違いを認め合った上での深く、そして真の理解を逆に阻害するのではないか。
 だから今テレビでしょっちゅう流される英語が話せれば国際人になれる式の広告を見るたびにいよいよ日本が浅薄で底の浅い国になっていくのではとの危惧を持っている。21世紀の日本が世界の、とりわけ東アジアの、平和に貢献できる真に文化的な国になるためには、英語だけでなくせめて選択科目としてでもいい、中国語と朝鮮語を、それも大学生になってからではなく、中学生あたりからでも学べるようにすべきだとさえ思っている。第一次伊藤博文内閣の文相だった森有礼(ありのり)がフランス語を国語にすべきだと言った提言よりはるかに理にかなった、というかまともな考えだと思う。
 しかしそんな考えなど今の政治家たちのだれにも思いも及ばぬことだろう。でも先日も言ったように、教育の地方分権化がもう少し進み、それぞれの地方なり学校が独自のカリキュラム、この場合は外国語科目だが、を組めるようになっていけば、たとえば南相馬市の第一中学校では英語のほかに朝鮮語を選べ、第二中学校では中国語を選べるなどのことができるようになれば、実に面白いのではないかと夢想する。そのうち韓国や中国の大学に留学する若者が出てきたり、もちろん韓国や中国からも日本に留学する若者が出てきたり…
 夢? もちろん今は夢でしょうなー、でもいつかそんな時代が来るかも知れないと想像するだけでも元気が出てきません? かつては国境線をめぐって血と血を流し合ったアルザス・ロレーヌ地方が、いまドイツとフランスの相互理解の眼に見える成果を挙げている場所へと変貌していることはこの際貴重なヒントとなる。
 話は大きく変わるが、このところ古代や戊辰戦争時代の東北について書かれた本をいくつか飛ばし読みしている。新島八重の大河ドラマに刺激されてではない。だいいちこれまで一回も放送を観たことがない。べつだん意地を張ってるわけではない。今のところ喧伝されているような切り口での彼女にはまったく興味がないからだ。ところで古代史といっても史書の類ではない。高橋克彦の『火怨――北の耀星アテルイ』や澤田ふじ子の『陸奥甲冑記』※※などであり、戊辰戦争といってもそれを直接扱った本ではなく、石原真人の『ある明治人の記録』※※※などである。今日はまた、同じく高橋克彦の『天を衝く――秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実』が届いた。
 これらの本を読んで東北人の矜持を改めても持とうなどと思っているわけではない。しかし古代から蝦夷(えみし)と蔑称され、大和朝廷からは異民族視され、征討の対象とされた東北についてあまりにも無知であったことを恥じ入るためである(?)。たとえばスペインでは、カタルーニャやバスクなど、確かに一時は国を分裂と対立にまでエスカレートさせた時代があったとしても、それぞれが独自の文化や伝統を豊かに引き継いできて、それがいまスペイン文化全体の奥行きと深さを保持することに貢献している事実から有益な教訓を得られるのではないだろうか。
 たとえば『陸奥甲冑記』の冒頭に、長岡京への遷都の話が出てくるが、そこにはこう書かれている。

「桓武天皇は、自分を古代中国の帝王に擬していた…律令体制の衰微、陸奥蝦夷の脅威、時代はまさに強力な政治的指導者を望んでいる…その精神的土壌は、天皇が百済帰化氏族の血をを享けていることによる…」

 つまり、要するに、日本という国を、太古の昔から、天皇を頂点とする生粋の大和民族の国だったというような静的・固定的で誤った認識から一日も早く脱却して、実はさまざまな人間集団やさまざまな文化を内包しながら複合的に形成されてきた国なのだと、もっと動的・流動的な捉え方をすべきだということである。さらに、日本という国が中国や朝鮮とどれだけ深い繋がりを持った国であるかをしっかり認識すべきだということ。簡単に言えば、これらの国々はまさに日本とは兄弟の国々(特に朝鮮とは天皇家の祖先の血を介して)であり、真の友好と相互理解を深めていかなければならない国々なのだということである。
 ついでに白状すれば、これまでハングルは失礼な言い方だが何か得体の知れぬ幾何学文、つまり直線、曲線を組み合わせた抽象的模様のように見えていた。しかし鄭周河さんの流れるような達筆のハングル、そして現にハングルに印字された拙著を見ているうち、当たり前のことなのだが、ハングルが初めて意味の充満する美しい文字群に見えてきたのである。こんな当たり前のことさえ気づかないでいる日本人は、きっと私だけではないであろう。
 実はさらに恥ずかしいことを白状すれば、手書きでハングルを入力できるシャープの電子辞書をアマゾンから購入したはいいが、雑事に追われて未だに使っていないのだ。新しいもの、ましてや新しい外国語などに容易には対処できない疲れきった我が頭脳には、ゆっくりと楽しみながらの慣らし運転が当分(いや最後まで?)必要なのだろう。慌てない、アワテナイ(これ一休さんの口癖でなかった?)。

追記 いずれも宣伝文からそのまま紹介する。

辺境と蔑まれ、それゆえに朝廷の興味から遠ざけられ、平和に暮らしていた陸奥の民。8世紀、黄金を求めて支配せんとする朝廷の大軍に、蝦夷の若きリーダー・阿弖流為は遊撃戦を開始した。北の将たちの熱い思いと民の希望を担って。朝廷の大軍を退けた蝦夷たちの前に、智将・坂上田村麻呂が立ちはだかる。威信を懸けた朝廷の逆襲がはじまった。信に足る武人・田村麻呂の出現で、阿弖流為は、民のため命を捨てる覚悟を決めた。北の大地に将たちが1人、また1人と果てていく。蝦夷の心を守り戦い抜いた古代の英雄を、圧倒的迫力で描く歴史巨編。古代東北の英雄の生涯を空前のスケールで描く、吉川英治文学賞受賞の傑作。
※※桓武王朝期、統一国家への道を急ぐ天皇は、蝦夷征伐の勅を坂上田村麻呂に下した。部族の独立を守るために迎え撃つのは陸奥国の盟主・阿弖流為。知勇を尽くした長い戦いが始まったが、田村麻呂の慈悲深い同化政策の前に、戦いはしだいにその様相を変えてゆく…。歴史の闇に葬られた民に光をあてた長編小説。
※※※ 明治維新に際し、一方的に朝敵の汚名を着せられた会津藩は、降伏後北の辺地に移封(斗南藩)され、藩士は寒さと餓えの生活を強いられ…明治33年の北清事変で、その沈着な行動により世界の賞讃を得た柴五郎(後に陸軍大将、軍事参事官)は会津藩士の子であり、会津落城の際に自刃した祖母、母、姉妹を偲びながら、(死の三年前)、惨苦の少年時代の思い出を(口述して)残したもの。


【息子追記】立野正裕先生(明大名誉教授)から頂戴したお言葉を転載する(2021年3月13日記)。

高橋克彦の著書を始め、先生がここに挙げておられるどの本もまだ読んだことがありません。長らく宿題になっています。小説をとおしてではあれ知識も必要ではありますね。

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避けられない課題

ちょうどエアポケットに入ったみたいに、すべてに張り合いを失い、思うことといえば、残された時間のことを考えれば所詮すべては中途半端に終わるのでは、などと柄にも無く(?)弱気の虫に取り付かれた数日が続いた。こんな気持ちに襲われたことはこれまでだってしょっちゅうあることなので、別に慌てはしなかった。そう、こういうときは機械的な手仕事を続けること。私の場合は古本装丁の作業である。今回はメキシコの小説家のものが中心となった。それにはあと数日で、メキシコ大使館からの客人を迎えるための心の準備の意味もあった。
 今回の訪問は、例のオクタビオ・パスの長詩『太陽の石』の朗読会に関連する流れの中の一環である。つまりこれまで何度か触れてきたように、一昨年の大震災・原発事故を追悼する意味で企てられた詩の翻訳・朗読の催し(初回は三月八日、東京の芭蕉記念館で)が、ここ南相馬でも行なわれる話が持ち上がった矢先、それがちょうど400年前の慶長地震・津波の際にヌエバ・エスパーニャ(メキシコの前身)の特使セバスティアン・ビスカイーノが相馬を訪れたという史実とぴたり重なったことから、俄然新しい意味を帯び始めたのである。
 実はその下調べのこともあって、今回の朗読会の世話人のひとり阿波弓夫さんが先月南相馬にいらしたので、いつもの通りメディオス・クラブ事務局長の西内さんを交えて第一回の打ち合わせをした。今週後半に予定されている訪問はそれの本格始動への第一歩のためである。詩の朗読会そのものがメキシコ政府と日本政府合意の下の文化交流であったのだが、来月または六月開催予定の催しは、はっきりメキシコ大使館が前面に出る行事になるわけで、そうした公的な対応にはまったく不慣れなわがクラブはいささか心もとない気がしないでもない。でもできないことを無理してやるわけでもなし、できることだけしっかりやれば…
 いやそんなことを書くつもりではなかった。例の装丁の作業だが、先ずはオクタビオ・パスのスペイン語詩集やらエッセイ集を合本にしたり、布表紙にしたりしているうち、彼の『孤独の迷宮』(高山智博・熊谷明子訳、法政大学出版局、1990年、第5刷)が読まれないままだったことに気がついたこと。そしてそれを飛ばし読みしながら、メキシコそしてメキシコ人が抱えるとてつもない困難な課題に初めて目が開かされたことを報告したかったのである。つまりかつては長らく宗主国スペインの支配下にあったが、1821年の独立以後、一度は途切れたスペイン征服以前のマヤ・アステカ文明との連続性をも徐々に回復しつつ、国民の大半がインディオとスペイン人の混血(メスティソ)という独特な人種構成もあって、ユニークな国づくりをしてきた、との一般的な認識しか持ち合わせていなかったが、ことはそう簡単ではなかったことを改めて教えられたのである。簡単に言えば、独立運動を主導したのはクリオーリョ (現地生まれのスペイン人) だったということは、スペインからの独立は彼らのそれではあっても、決して社会構造そのものの変革ではなく、むしろ現代にも続く独裁者の温床はそのまま残ったということである。

 「…新生諸国はそれぞれに独立記念日を持ち…民主的な憲法を制定していた…だがイスパノアメリカでは、植民地体制の遺骸の上に、近代的な衣を着せただけのものであった。自由と民主主義的な観念は、我々の歴史的な状態を具体的に表現するどころか、むしろそれを隠したのである。政治的な虚偽が、まるで体質的ともいえるほど、我々国民の中に取りついた。精神的な弊害ははかり知れず、我々の本質の奥深くにまで達している。我々はごく自然に、嘘の中で動きまわる…」

 パス(1914~1998)のこの言葉を読みながら、彼の一世代あとのカルロス・フエンテス(1928~)までが執拗にメキシコとはそも何者か、という難問にどうしてあれほどこだわってきたのか、その謎が少し分かり始めている。フエンテスの名前まで出してしまったが、ここでも恥を忍んで白状しなけばならないが、わが敬愛する先輩・西澤龍生さんが訳された彼の『メヒコの時間』(新泉社、1975年)もまたこれまで読まずじまいなのだ。 冒頭に述べた悲しい現実はそのとおりだが、しかし中途半端に終わってもいい、死ぬまで、いやボケが来るまで、日々新しいことにも挑戦していこう。
 そしてパスの言葉をもう一度よく読み直して見ると、これは決してメヒコやイベロアメリカ諸国だけの問題ではなく、わが日本にもほぼそのまま当てはまる指摘ではないか。「和魂洋才」は掛け声だけで、実は「魂」までが近代的な衣装をすっぽり被らされ、自分にさえ自分が分からなくなってしまっている、見えなくなってしまっている、それが日本であり日本人の現実ではないのか。政治のみならず社会そのものが体質的虚偽に浸食されているのではないか。
 言われている地方分権も、そうした中央の体質構造をそのまま地方に移し変えるだけなら、ちょうどほとんどの地方都市がリトル・トウキョウ化しているのと同じではないか。これまで何度も繰り返し主張してきたように、今回の不幸な震災・原発事故がすべてに亙っての自己点検の機会であるべきなのに、そのチャンスをまたもや見逃そうとしている。
 政治についてもそうだが、私としては特に教育に関して大変な危機感を持っている。このままならアイデンティティを持たない人間、私流の言葉で言えば、限りなく魂の重心が高い、というより重心を欠いた等質の人間を金太郎飴製造機のように作り出すだけのものであろう。政治の地方分権以上に緊急の課題は教育の地方分権である。硬化した日教組も問題だが、それ以上に硬直し巨大化した文部科学省の地方分権、というより解体が必要である。
 大昔、私が帯広市柏小学校の生徒であったころ、十勝開拓の父・依田 勉三(よだ べんぞう、1853~1925年)のことを教えられ、子供心に深い印象を残した。後年、静岡の常葉学園大学の教師になって学生たちを夏季合宿に伊豆に連れていった際、そこの松崎が勉三の生まれ故郷であることを知り、まるで自分の故地に出会ったような不思議な感動を覚えたものである。しかしいま考えると、彼はちょうど新大陸を征服したスペイン人のようなものであり、本当の十勝の歴史教育はアイヌの歴史から始められなけれならなかったはずだ。
 それはともかく、この教育システムがこのままだと、「笑っていいとも!」のスタジオ参加者のように、同じくだらぬ冗談に、同じタイミングで馬鹿笑いする国民の大量生産に役立つだけだろう。いやシズテムをいじるだけでは、これまでの教育改革の轍を踏むだけだ。まどろっこしく見えるかも知れないが、国民全体の中に本当の意味の覚醒がなされなければすべては無駄であろう。とてつもなく大きな難問を、メキシコや中南米諸国のみならず、わが愛する日本もまた突きつけられていることに先ずは気づくことだ。
 そう考えると、無気力に陥っている暇など無いわけ。さあ元気を出して頑張ろう!

※文中、メキシコをメヒコと言ったり、中南米をイベロアメリカとかイスパノアメリカなどと呼び混乱させて申し訳ない。先ずメキシコ(México)、この場合の x の発音はJ、カタカナにすればハ行、つまりヒと発音される。だからスペイン語圏の人はメキシコをメヒコと言う。またイベロアメリカはポルトガル語圏のブラジルを含んだ呼称で、一般に中南米を指すラテンアメリカ(ラテン系アメリカ)と同義であるが、しかしイスパノアメリカと言う場合はスペイン語圏アメリカすなわちメキシコ以南のブラジル以外の国々を指す。念のため。

※※表題を「避けられない課題」としたが、しかしこの難問はしてもしなくてもいい哲学論議と違います。つまり「生きる」とは究極的かつ必然的に「生きるとは何か」を問うことと同じであるように、「日本とは、日本人とは何者か」と問うこと自体が、真の日本、掛け値なしの日本人であることに繋がるのです。何?面倒くせえだと?「愛する」ことが限りなく面倒くせえことであるように、この世で真に価値あるものは、確かオルテガさんもどこかで言ってたように、すべからくメンドウクセエことなのさ。すべてはその覚悟ができるかできないかにかかっている。いやなに、しかめ面して深刻ぶるのとは違いまっせ。爽やかににこやかに、楽しみつつ生きていくことでっせ。念のため。

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幸いなる罪

ギャラリートーク四度目の発言 

徐先生の最後の締めの言葉がこの後もうひとつあると思いますけど、その前にちょっと、今のことに補足というか。つまり確かにこの原発事故は、過去の日本が東アジアの人たちに対して犯した罪も含めてなんですが、要するに人間の愚かさによって犯した罪ですよね。だけど私は、その罪を逆転させる、その意味を逆転させることができることも、人間にはできるはずだ、と。
 ここでえらい聖人の名前を出すのはおこがましいんですけれど、皆さんも御存知のアウグスティヌスっていう人が「フェリックス・クルパ」―ラテン語ですけれども、簡単に言えば「幸いなる罪」という表現をしたんですね。それは「人祖の罪」なんかのことも含めてでしょうが、私は今その神学的な解釈を考えてるんじゃなくてですね、犯した罪あるいは不幸というものの意味をプラスに転じ得るのも人間なんですよ、と言いたいわけです。
 つまり、ひらたく言えば、原発事故というものを経験したおかげで、私自身の個人的なことで言えば、いろんな人とのつながりができたんですよ。つまり、今ここで、こうやって持っている集会や、鄭さんの写真展が出来るっていうのも、正直言えば、私の方から見てゆけば、それはひとつの、「紡ぐ(つむぐ)」という行為なんですけど、その「輪」が少しずつ増えてきているんです。簡単に言いますとですね、私のことを最初に発信したのは、「東京新聞」の佐藤直子さんっていう、今はちょっと病気で休まれている方の記事、つまり私の家族の写真と一緒に出た記事なんですけれど、それを読まれた「朝日新聞」の論説委員の浜田さんっていう方が、南相馬に来てくださったんです。そして、そのことを論説委員室からの「窓」っていうコラムで、私が何気なく使った「魂の重心」という言葉を拾い上げてくださった。その「魂の重心」という言葉を、今度は、徐さんが拾ってくださったわけです。で、そういう輪がずうっと繋がっていったんです。これ自慢話しているわけじゃないですよ、今言っているのは、魂と魂の結びつきのことなんです。
 震災後にいろんな言葉が、たとえば「絆」とか言う言葉が、正直いやになるほどやたら使われ、「絆」っていう言葉を聞くだけで、もう食傷気味なんですよ、実はね。だけど、その浜田さんは、そういう人と人の繋がりを、「あぁ、先生、それは『紡ぐ(つむぐ)』ということでしょう」って言ったんですね。ちょうどひとつひとつ糸を紡いでゆくように。それが今こうして実現しているわけです。私の願いは、そういう形の広がりがさらに広がることなんです。先ほど徐さんがおっしゃったように、南相馬もひとつの発信源となって、もっと広く東アジア、韓国の人たちに向かっても語りかけていくことを望んでいます。本当にこういうことについて皆が話し合いをしたり、これからの若い人たちも含めてですね、どうしたら本当にそういう望むべき世界像に近づけるかっていうことを、これから本当に話し合うべき時期が来ているのだと思います。だから、さっき言ったあの「フェリックス・クルパ」というのを、そういうふうに解釈して希望を持ちたいと。
 で、ついでですから、多分ご本人は嫌がるかもしれませんけれど、その浜田陽太郎さんが、この集まりのために、わざわざ東京から奥様とご一緒に駆けつけて下さっています。浜田陽太郎さんをご紹介します(拍手)。ありがとうございます。
 えー、今申し上げたかったことは、初めから何か大きなうねりのようなものを考えるのは無理かもしれません。だけど、さっき徐さんがおっしゃってくださったんですけど、そのひとつひとつの繋がりの中からエネルギーを引き出して、少しずつ運動してゆくしか、たぶんないのかなぁと思います。この間も、ある歯医者さんの待合室で雑誌を見ていたら、倉本聰さん、あの「北の国から」の倉本さんが、講演に行かれて、聴衆に問いかけたらしいんです。2階席はほとんどは若い人たち。それから1階席はまぁ年配の方たち。それで、二者択一の問いかけをしたって言うんですね。つまり、「便利な生活をこのまま続けるために、例えば原発の再稼働を選ぶか、それとも、10年か15年、逆戻りするけれども、自然エネルギーのような安全なエネルギーを使って生活をするか。さぁどちらを選びますか?」と。
 皆さん、どう考えます? 下の1階席の人たち、つまり年配の人たちの90%は、15年くらい戻っても構わない、と。それは希望ですね、「あぁやっぱり年配の方々は考えて下さっている」と。ただ残念なのは、2階席の若い人たちに向かって同じ質問をしたら、70%は、「携帯とかそういうものがない生活は考えられないから、原発再稼働を選択する」っていうんですよ。「わぁー」と思いましたね。本当に悲しい。ただ、その時思ったのは、そういう子供たちを育てたのは私たちなんだ、ということです。まぁ皆さんとは違って、いや皆さんのある人たちとは同じ世代でしょうが、私は敗戦を経験しています。小学校1年生の時に終戦ですから。何もないころを知っていますよ。何もない、今晩食べるものさえないような。だけどね、もっと何かなぁ、がむしゃらに生きていたと思いますね、あの頃の日本人は。
 実はこの間、鄭さんと小高の町(原発警戒10キロ付近区域)に行ったんですよ。そしたら、多分皆さんのお知り合いもそうかも知れませんが、私の母方の親戚も皆小高区の住民です。でね、車で通りながらね、やり場のない怒りを感じ始めたんですよ。それは非常に複雑な怒りです。つまり、親戚たちに戻って来いなんて言えないですよ、だけどね電気は通っている、水なんてのはタンクローリー車で運べばいい。買い物なんてのはそれこそスーパーまで車で来れるんですよ。私の親戚の家なんてのは、まぁ立派な家ですが、森閑としているんです。町に誰もいないんですよ。私、思ったんです、その時。「あっ終戦後の日本人だったら、絶対もう住んでます」と。テレビのニュースで知っただけなんですけど、理髪店経営のどなたかが、避難所からいつも水を運びながら小高で営業している方がいるそうです。そういうひとつひとつの「点」からしか、復興なんて始まらないんですよ。皆、今、補助金待ち、支援待ちです。なんで日本人はそこまで依存体質になったんだろうか。まぁこれは本当に、身内の人を責めるわけには行かないんだけど、今感じている怒りはそういうことです。
 もちろん行政とか、原発とか、東電とかに怒りを持っていますけれども、それよりか、複雑な思いを、私は今持っています。もっとがんばろう、ともかく生き始めましょう、という。で私は、今日は来てませんけど、私がそういう考え方になったのは認知症の妻がいるからです、正直言うと怖いものなんてないんです私、はっきり言うと。私の日常生活は、本当に、言葉は悪いですけれど、あっこれ音声拾って欲しくない言葉だけれども、「糞取りの翁」ですよ、毎日がね。だけども、その中で本当に怖いものなんてないですよ。つまり、生きることに対して多分前より貪欲になったと思います。ただ、貪欲なだけじゃなくて、私はね、このまま、おめおめ死にたくないと思っています。若い子供たちに、本当に良い日本を遺して死にたいと思ってます。まぁ本当に微力で何もできないかも知れませんけれども、ただ、心からの願いはそういうことです。そして、思ったのは、東アジアの、とりあえずはすぐ近い韓国の人たちと、本当に友好の輪を、本当の和解の道を探りたいと思っています。私の話は、以上です、ごめんなさい。

朝日新聞夕刊  2011年6月2日

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新たな挑戦として

 今になって白状するのも変だが、実はギャラリートーク会場での私の座った場所のせいなのか、それとも私自身少し難聴気味のせいなのか知らないが(確率としてこちらの方が高い)、他のお二方の発言内容がよく聞き取れず、いきおい私の発言は聞き取れた範囲のことから半ば推定してのものであった。その意味では他の発言者の内容を紹介しなくても良かった(?)のだが、今回の二番目の発言(すみません順序が逆になりましたが、昨日紹介したのは、実はこのあと、三番目の発言でした、お詫びして訂正します)は芸術の本質に関わるものなので、他のお二方の発言も急遽紹介させていただく。


  はい。ありがとうございました。えー、同じ質問の延長上でもうひとつだけお聞きすると、私自身は、この放射能災害というものが、人間個々人の尺度をですね、いろんな意味で越えている現象だと思うんですね。ひとりの人間の人生が80年だとかしても、放射能災害の及ぼす時間尺度はもっとね、数百年とか、場合によっては、数万年、そういう尺度であると。あるいはこれは目に見えなくて、例えばここ福島で起こったことが福島に別に限定されることなくですね、近隣はもちろん、全世界に及んでゆくと。そういう意味で、空間的にも時間的にも、尺度を越えている現象なんですね。そこのところが交通事故とかとは違うわけですね。
 しかし、それを表現しなければならないわけです。それを表現するということは、先ほど、芸術の限界っていうふうにおっしゃったけど、芸術家に対する非常に深刻で重大な挑戦なんですよね。それは、写真家はもちろんですけれども、絵描き、あるいは文章を書く者も、自分たちが行っている「表現」という行為自体を、この尺度を越えた現実に取り込む中で、新しい方法を考え出し、新しい挑戦をしなければならないような内容を持っているわけですね。その点について、鄭周河先生が今までやって来られた作品活動と、今回、この福島を契機にして新しい自分自身の技法上のですね、新しい局面と言いますか、新しい挑戦って言いますか、そういう変化があったんでしょうか?どうでしょうか?それからそれは今後どうなって行くんでしょうか?

  まず、写真という媒体に内在されている技術的条件に大きな変化はありません。ところが、それを支えているテーマの問題、主題の問題において、自分の生の変化というより、私自身をさらに強化された契機が今回の作業に通じて与えられたと思います。芸術家としての写真家は誰しもそう思うわけですが、私も同じく自分が写真で表現してあげるからこそ人が見ることができる、そのような瞬間を見つけ出したいです。ところが、そういう瞬間をみつけるためにも、写真家も同じく人文学的な学習や十分な経験を兼備しなければ、世の中へもっと入ることはできないと思います。芸術家は比較的に自由な職業ですが、一つ義務があるとするならば、まさにそれが芸術家の義務ではないかと思っています。

佐々木  あの、今のは難しい質問ですよね。答えになるかどうか、多分、少しずれると思うんですけど。写真のことは正直申し上げてよくわからないので、例えば文学というものを考えるとですね、たまたま震災後、ある出版社から東北文学事典を作るから協力してくださいとの依頼がありました。で、それをはじめは引き受けたんですけれど、しかしその企画自体は震災前のもので、そこに大震災・原発事故が起こった。それで東北の文学事典を作るっていう企画は、私の考えからすれば、そもそもの出発点から、つまりなぜ文学という表現があるのかというところまで、もう一度、考え直さなかったら無理じゃないかと思ったんです。だけど、出版社の方は、まぁこれは出版社以外のどこでもそうなんでしょうけれど、考え直してない。その最たるものは政治ですよね。
 つまり、大袈裟なことを言うようですが、根源からの問い直しが土台無理な話だとしても、少なくとも大震災後でもなお従来どおりの文学表現でいいのかどうか、とか考えてみる必要があるのではないか。私のちょっと独自なっていうか、非常に恣意的な言葉遣いで言うと、終末論的な視点っていうか、つまり、たかだか人類の歴史、さきほど何万年っていう膨大な原子力の時間問題について考えると、そういう人間の尺度を越えるという話が出ましたけど、そこまで行かないとしても、せめて人間の歴史からいっても、有史以来の人間のいろんな生業、表現、あるいは国のありかたなんかを含めて、たかだかわずかな時間の中で、つまり膨大な時間からすれば本当に短い時間の中でのことです。それを非常に固定的に、これしかないといった形で、例えば、国のありかたもそうなんですけれど、あるいは文学表現についてもそうなんすが、何かもういつの間にか、「これしかない」といような固定観念の中で縛られてきたんじゃないないだろうか、と考えるんです。
 ですから、私は文学表現に関しても、ここでもう一度、緒元に戻って考えるべき時期じゃないかと。それは、作家とかいろんな人たちも、本当はそうした問いかけを、自らにすべきだということです。まぁ人のことは言えないんで、私自身もそうなんですけれど。でもね、それがどうもウヤムヤになってまた元のままに戻ろうとしている政治なんてのはもう笑っちゃうほど反省がないですね、だけど、私は文学とかね芸術に関してもですね、特別なひとつのメッセージが発せられている、と思うんです。例えば、今回の原発事故、「3・11」を、自分に対する挑戦として、先ほど徐さんがチャレンジって言われたように本当にチャレンジとして受け止めるぐらいの、考え直しって言うか、それが本当は必要じゃないかと、まぁ、そういうふうに考えます。

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「京郷新聞」(韓国)紙上インタビュー

京郷新聞2013年3月10日付記事(동일본 대지진 2년(5) 후쿠시마 남은 사사키 교수)

今朝の韓国ソウルの「京郷新聞」に私に対するインタビュー記事が掲載されました。あらかじめなされた13の質問に対する私の答を、拙著の翻訳者ヒョン・ジニさんが訳され、それを新聞社側が編集し直して記事にしたものです。せっかくの機会なので、その原文を以下にご紹介します。なお新聞紙上で使われている私たち夫婦の写真は、友人の写真家織田桂子さん撮影によるもので、織田さんには事後、快いご承諾をいただきましたが、事前にその旨翻訳者に連絡しなかったのは私のミスでした。ここで改めて陳謝します。

※ついでに、スペインのデジタル新聞 “El Confidencial” 最新号(3月10日号)にも私への電話インタビューや『原発禍を生きる』の本文を引用した記事(El hombre que decidió quedarse en Fukushima)が掲載されています。こちらに使われている写真は、震災前、海浜公園近くの海辺で撮った写真です。アクセスは El Confidencial で検索すると出てきます。

質問に順次お答えください。

1. 最近はどのようにして毎日を過ごされますか。簡単な近況を教えてください。

 家内の介護がありますので、旅行とか遠くに長時間出かけることはなく、二日に一度の割で買い物に行ったり、近くの公園で散歩したりしています。つまり私はほとんどの時間を家で、本を読んだり書き物をしたりして過ごしているわけです。家内は週に一度デイ・サービスに行き、また週に一度訪問入浴のサービスを受けます。食事は朝だけ夫婦の部屋で老夫婦だけで、昼食と夕食は息子の家族と一緒に食べます。
 スペインにも中国にも家内と一緒に旅行したことがありますが、韓国はまだです。家内が認知症でなければ、二人で韓国に行けたのに、と大変残念です。でも今回、ヒョン・ジニさんやチョン・ジュハさんという素晴らしいお友達ができたので、お二人を介してもっと多くの方々とお友達になれれば、実際に韓国に行けなくとも、韓国からのお客さんを迎えたり、本を読んだりして、もっともっと親しい国になることを期待しています。


2. 先生の本の韓国語版の出版に関してのご感想はいかがですか。

 私は今回の韓国語版の出版に際して、初めて親戚の家にご挨拶に伺うような緊張と喜びを感じています。拙著は韓国語以外にも、中国語とスペイン語でも出るわけですが、私にとってこれら三つの言葉そして国は特別深い意味を持っています。中国は一時旧満州に住んだことがあり、いま息子の嫁が中国人、孫娘に二つの国の血が流れているから。そしてスペインは私の思想形成に大きな影響を与えた国だから。そして韓国は著者まえがきに書いたとおり、私の一方的な思い込みかも知れませんが、いつかは会える異母きょうだいのように思っていた国だからです。


3. 奥様の体調はいかがですか。

 一年前までは一緒に散歩に行けたのに、今はベッドと車椅子だけの生活になってしまいました。意志表示もほとんど出来なくなりましたが、心臓や胃腸などが丈夫なので、介助さえしてやれば、皆と同じものを食べ、排泄のほうも順調なので助かってます。私はこの妻を中心に生活していますが、そのこと自体に満足し、幸せを感じています。


4. 西内さんの活躍が印象的ですが、原発禍の中での住民たちの自主的連帯や責任感ということについてどうお考えですか。

 西内さんは小学六年のとき以来の友人ですが、今度の大震災あと、彼がこんなにも頼り甲斐のある、そして温かな人間であることを発見して驚いてます(?)。つまり今度の震災の中で、本当に頼りになる人あるいは組織と、実は見かけだけで頼りにならない人や組織がはっきり見えてきました。残念なことですが、すべての人間関係、すなわち親子、夫婦、親戚、友人、上司と部下、それらの多くが平常時には見えなかった脆さや利害関係が露呈しました。つまり地震のあとで土地の液状化が問題になりましたが、人間関係・社会にも液状化現象があったということです。


5. 本の中で、いたるところで国家に対する批判(日本は一つ、国歌斉唱、国家主義など)をなさっているんですが、国家に対して批判的な認識をもつようになったきっかけ、理由がありますか。先生は根源派であるとご自身を規定されているんですが、先生にとって国家とはなんですか。

 さあ、きっかけが何であったかは自分でも分かりません。幼いときですが旧満州で多くの日本人が皇軍や国に見捨てられたことが根っこにあるのかも知れません。ともかく現在の国民国家という「くに」のあり方はたかだか数世紀の歴史しかありません。たとえば私は日本人であるより前に、東北人であり、もしかするとアイヌ人であり、さらには縄文人です。日本式に言えば尖閣諸島や竹島には、もともとその近海を生活の場とし糧とする人たちが住んでいたわけでしょう。それがいつの間にか中国だ朝鮮だ日本だと線引きが始まり、そこに住む漁民はそのたびに生活手段を奪われ翻弄されてきたわけです。


6. 韓国の読者に向けた序文で「原発問題は国家と個人の関係の問題である」とおっしゃっているんですが、その「関係性」について説明をお願いいたします。

 ふだん私たちは国というものを、ちょうど家のように国民を守るものと思ってます。あるいは先ず国家があって次に個人がある、と。しかし本当は、いまさら言うまでもないことですが、先ず人間・個人があって、国家はその個人の集合体である社会の委託を受けて成り立っているはずです。ところがその関係性がいつも当然のごとくに逆転されてしまいます。原発問題はその本来の関係性を、つまり国は人間の幸福を守るものであるか、そうでないか、を劇的に見せつけてくれた出来事だったと思います。


7. 今回の事態の以前と以降において、先生の考えておられる政治とはなんですか。

 上の二つのお答えにも重なりますが、政治は国民一人一人の幸福をできうる限り促進する仕掛けのはずです。それが油断をすると、かえって人間を不幸にするものに変質してしまいます。原発事故のあと、政治がいかに国民から遊離したものであるか、国会審議などを見ていると以前より鮮明に見えてきました。民主主義、議会政治などあらゆるところで金属疲労のようなものがあり、本当はこの原発事故を機に一度原点に立ち返って、根本から政治のあり方を問い直さなければならなかったのに、またもや辻褄合わせの政治に戻ってしまいました。


8. ウナムーノの「内的な歴史」に触れておられるんですが、現在福島と国家、住民、歴史の関係についてどのように見ておられますか。「奪われた野にも春は来るのか」を引用しながら、「国策原発に奪われた野」であると書いておられるんですが、もう少し説明してください。

 政治もそうですが、歴史の見方も為政者の交代や戦争が主役になっています。でもそれらは歴史という大海のほんの表面の出来事に過ぎません。そうした波立つ事件の底には、いつもとほとんど変わらぬ庶民の日常があります。もちろん愚かな政治や国策によって、その庶民の生活が、たとえば国を追われたり分断されたりといった悲劇が襲うことがありますが、でも私は生まれつき悲観論的楽観論者からでしょうか、そのどん底にあっても常に希望を、光を見るようにしています。難しく微妙な問題で私が口を挟むことは慎まなければならないとは思いますが、貴国の南北分断のことを考えると、歳のせいで涙もろくなっていることもありますが、時には涙が出るほどの無念さを感じています。


9. 日本帝国主義時代に書かれた朝鮮文学を読むべきであるとおっしゃいましたが、韓国文学や歴史、いわゆる韓流について関心を持つようになったきっかけはなんですか。

 それは私にとって努力目標であって実際にはほとんど読んでこなかったと白状しなければなりません。でもかなり若いときから、東アジアとりわけ朝鮮や中国の人たちの過去の悲しみや苦しみを他人事ではなく感じるようになりました。そしてあるとき、三島由紀夫自刃に抗議して書かれたという金芝河の「アジュッカリ神風」という詩に衝撃を受けました。昨今「サムライ」とか「なでしこ」とかやたら国威発揚的な表現に出会うたびに、金芝河の「どうってこたあねえよ」というフレーズを自らつぶやくようにしています。はっきり言うと、かつて朝鮮や中国の人たちに与えた苦しみや悲しみについて謝る以前に、彼らの苦しみや悲しみを先ずは「感じ理解する」ことが必要で、それを誤魔化したり曖昧にする限り、真の和解も友好もありえないと思ってます。いやそれが無ければ、本当の意味で品位ある日本にもなりえないとさえ思っています。


10. 韓国の原発状況についてご存知ですか。今の朴政権ではこれからの原発は、「他のエネルギーが確保できる」という前提で見直す方針であるという公約を掲げました。こういった韓国の原発状況についてどうお考えですか。なにか韓国にアドバイスは?

 正直言って貴国の原発事情に関してほとんど知りません。そして自分の国が明確な脱原発路線を打ち出せないでいるのに他国に対してアドバイスなどできるはずもありません。しかし敢えて言わせていただくなら、日本や他のアジア諸国に先駆けて脱原発を掲げる国になっていただきたい。本の中でも再三言っていることですが、核廃棄物の絶対に安全な処理法が見つからないのにその平和利用を言うのはまったくのインチキだからです。


11. 北朝鮮の核実験で、韓国の右翼側から核武装論が出ておりますが、これについてはどうお考えですか。

 バランス・オブ・パワー理論がまったくの愚論であることは、とりわけ核武装に関しては火を見るより明らかです。そして自分たちが核武装しながら他国にそれを思いとどませようとするのは、やはりおかしな理屈だと思います。たとえば日本は、北朝鮮に実験中止を呼びかけると同時に、アメリカなどの核保有国に対してもきっぱりその削減を、そして究極的にはその廃絶を訴えなければ説得力がないのは当たり前です。それを知りながらとりあえず実験を非難するのは政治的パフォーマンス以外の何物でもありません。


12. 「必要な時に正しく怒りなさい」とおっしゃってますが、福島以降の日本における「怒り」の意味について付け加えることがありましたら、一言お願いいたします。

 つねづね日本人は怒ることが下手な国民だと思ってました。ましてや追従笑いやごまかし笑いは恥ずかしい、と。ずっと昔のこと、日本でも学生運動が盛んなときでしたが、あるときテレビ画面で、確かソウル大学の卒業式だったでしょうか、政府高官の祝辞の途中、それに抗議する学生が一人、二人と決然と席を立って退場する光景を見て感動したことがあります。横一列になって抗議することも時には必要ですが、一人一人が自分の意見をはっきり態度で示すことはそれ以上に大切なことだと思っています


13. このブログはいつまで続くのでしょうか。

 耄碌して書けなくなるときまで書き続けるでしょうね。どうしてかは自分でも分かりませんが、いつのころからか書くことによって必死に生活を立て直しながら生きるようになってしまいました。書くといっても原稿用紙の上に書くだけだったら、単なるモノローグ(独り言)に終わっていたでしょうが、ブログを書くことによって自分の中にいる別の自分と対話(モノダイアローグ)したり、読者の反応などを意識することによって、他者とも無意識に対話できるこの表現方法に満足しています。


동일본 대지진 2년(5)

후쿠시마 남은 사사키 교수

김종목 기자
2013.03.10 22:02 입력

“원전 25㎞ 떨어진 곳서 치매 아내와 ‘자택 농성’”
“국가가 개인 행복 못 지켜준 게 후쿠시마 사고”

사사키 다카시 전 도쿄준신여대 교수(73)는 2011년 3월11일 도쿄전력의 후쿠시마 제1원전이 폭발했을 때 이웃들의 피난 행렬에도 집을 떠나지 않았다. 원전에서 25㎞ 떨어진 미나미소마시 하라마치구 자택에서 치매에 걸린 아내를 돌보며 ‘자택 농성’에 들어갔다. 농성을 벌인 이유는 정부의 행정 편의주의에 대한 분노 때문이다. 정부는 ‘옥내 대피지역’으로 지정해놓고는 시내 병원과 노인시설을 30㎞ 권역 밖 시설로 이송했다. 이동 과정에서 의료진, 간병인의 도움 없이 이리저리 내돌려지다 사망한 노인 수만 사고 직후 1주일 동안 40~50명이었다. 정부 조치에 혼란과 불신을 느낀 주민 3만여명 중 80%가 자발적으로 피난을 가서 ‘가혹한 대피소’ 생활을 감수했다.

사사키 교수는 “명백한 과실치사에 해당하는 범죄라고 생각했다”며 “최선의 선택은 권내에 머무르며 의사나 스태프, 약품과 식료품을 시급히 보급하도록 국가와 현에 강력히 요구하는 것이었다”고 말했다. 그는 무인지경이 된 집에서 블로그 ‘모노디아로고스’(스페인 사상가 우나무노가 만든 말로 ‘독백’을 뜻한다)를 쓰며 “버림받은 마을에서 쌓이고 쌓인 분노와 항의, 탄식의 소리” 등을 토해냈다. 일본에서 주목받은 블로그(https://monodialogos.com/)는 중국·스페인에 이어 한국에서 <원전의 재앙 속에서 살다>(돌베개)란 책으로 번역됐다. 동일본 대지진 2주년을 맞아 원전 사고의 비극과 혼란의 현장에서 비판적 성찰을 보여준 사사키 교수와 e메일 인터뷰를 지난 6일 진행했다. 번역은 <원전의 재앙 속에서 살다> 역자인 형진의 한남대 교양융복합대학 교수가 맡았다.

사사키 다카시 교수는 ‘자택농성’을 벌이며 국가와 개인, 인간의 자유와 존엄을 깊게 사유하고 있다. ‘사랑의 보금자리’인 ‘농성장’에서 치매를 앓고 있는 부인을 수년째 돌보는 그는 “아내 요시코를 중심으로 생활하는 데 만족하고 행복하다”고 말했다. | 돌베개 제공
사사키 다카시 교수는 ‘자택농성’을 벌이며 국가와 개인, 인간의 자유와 존엄을 깊게 사유하고 있다. ‘사랑의 보금자리’인 ‘농성장’에서 치매를 앓고 있는 부인을 수년째 돌보는 그는 “아내 요시코를 중심으로 생활하는 데 만족하고 행복하다”고 말했다. | 돌베개 제공

▲ “국민과 동떨어진 정치 선명하게 드러났다”
블로그에 올린 글 모은 ‘원전의 재앙…’ 한국 출간

– 한국어판 출간 소감은.

“친척 집에 인사드리는 것 같은 긴장과 기쁨을 느낀다. 원전 피해지역에 살면서 과거 조선인, 중국인이 겪은 고통과 슬픔을 이해할 수 있는 처지에 놓여 있다고 생각한다. 이상화 시인의 ‘빼앗긴 들에도 봄은 오는가’에서 ‘일본제국에 빼앗긴 들’과 ‘국책 원전 사고로 빼앗긴 들’은 연결된다고 본다. 조선인, 중국인의 고통이나 슬픔을 먼저 ‘느끼고 이해하는’ 것이 필요하고, 그것을 감추거나 흐지부지하는 한, 진정한 화해도 우호도 있을 수 없다고 생각한다.”

– 책의 여러 군데에서 ‘국가’를 비판했는데, 계기는.

“어렸을 때, 구만주에서 살았다. (그곳에서) 많은 일본인들이 황군(일본군)이나 국가로부터 버림받는 것을 보면서 비판적이 되었는지도 모르겠다. 오늘날 국민국가(nation)라는 ‘국가(state)’의 형태는 100여년에 지나지 않는다. 저는 일본인이기 이전에 도호쿠 사람이고, 어쩌면 아이누의 피를 이어받았을 수도 있다. 지금 문제가 되고 있는 영토분쟁 지역에도 원래 그 근해를 삶의 터전으로 삼아온 사람들이 살고 있었을 것이다. 그것이 어느새 중국·조선·일본 등으로 선이 그어지고, 그곳에 사는 어민들은 그때마다 생활수단을 빼앗기고 혼란을 겪는 것이라고 본다.”

– 스페인 사상가 우나무노의 ‘내적인 역사’를 언급했는데.

“정치가들의 등장과 전쟁을 역사의 주역으로 보는 관점이 있다. 하지만 그것들은 역사라는 큰 바다의 표면에 나타나는 작은 움직임이다. 그런 파도의 밑바닥에는 서민의 일상이 있다. 어리석은 정치나 국책 때문에 서민의 삶이, 예를 들면 나라 밖으로 내몰린다든지 분단된다든지 하는 비극이 일어나는 일도 있다.”

– “원전 문제는 궁극적으로 국가와 개인의 관계성에 관한 문제”라고 책에 썼는데, 부연한다면.

“먼저 인간·개인이 있고, 국가는 그 개인의 집합체인 사회의 위탁을 받아 성립하는 것이어야 한다. 그런데 그 관계성이 언제나 당연한 듯이 뒤집힌다. 원전 문제는 그 본래의 관계성을, 즉 국가는 개인의 행복을 지키는지 아닌지를 극적으로 보여준 사건이었다. 그리고 우리 한 사람 한 사람은 국가라고 할 수 있다.”

– 원전 사고 후 정치에 대한 생각은.

“정치는 국민 한 사람 한 사람의 행복을 추구해야 한다. 자칫하면 오히려 인간을 불행하게 만드는 것으로 변질돼버린다. 원전 사고 후에 정치가 얼마만큼 국민과 유리된 것이었는지, 국회 심의 등을 보면 이전보다 선명하게 보인다. 민주주의, 의회정치 등 모든 면에서 금속성의 피로감 같은 것이 느껴진다. 원전 사고를 계기로 원점으로 돌아가 정치 본연의 자세를 되짚어야 하는데, 여전히 땜질식 정치를 하고 있다.”

– 재앙 속에서 사람들 간 연대나 불신의 문제는 어떻게 보나.

“대지진은 사람들의 마음을 서로 묶어주면서도 서로의 다름도 실감하게 했다. 진정으로 의지할 수 있는 사람이나 조직과 전혀 의지할 수 없는 사람이나 조직이 확실히 구분됐다. 모든 인간관계에서 평상시에는 보이지 않았던 부분들, 이해관계가 그대로 드러났다. 인간관계, 사회에도 액상화(바닷물이 땅속으로 들어가 단단한 지반이 액체화되는 현상)가 있었다. 인간은 서로 돕고 의지하는 것이라는 기본 조건을 단순히 머리로만이 아니라 뼛속 깊이 체득해야 한다고 본다.”

– 인간을 불안정하고, 연약한 존재로 내몬 것 중 하나로 투기적 욕망을 꼽았다.

“투기적 욕망을 정당화하는 게 국제경제다. 일순간에 육친을 잃어버린 비극 직후에 텔레비전에서 흘러나온 뉴스가 엔화 폭락이 시작되었다는 것이다. 그 잔혹한 현실, 즉 인간의 불행이 누군가의 투기적 욕망을 자극하는 계기가 되는 세계경제의 잘못된 현실을 이상하다고 생각조차 하지 않게 되어버린 것 같다.”

– 한국 정부는 에너지원이 확보된다는 전제하에 추가 원전을 ‘재검토’한다는 입장이다. ‘탈원전’과는 거리가 있는데.

“한국 상황은 잘 모른다. 일본이 탈원전 노선을 표명하지 않는데 다른 나라에 조언하는 것도 온당치 않다. 그러나 한국이 일본이나 다른 아시아에 앞서 탈원전을 선언하는 나라가 돼달라는 말씀은 드리고 싶다. 핵폐기물의 안전한 처리방법이 아직 없는데 그것의 평화이용을 말하는 것은 완전히 언어도단이다.”

– 북한의 핵실험 때문에 한국, 일본에서 핵무장론이 나온다.

“일본은 북한에 핵실험 중지를 요구하면서 동시에 미국 등 핵보유국에 대해서도 단호하게 폐기를 주장해야 설득력이 있다. 핵실험만 비난하는 것은 정치적 퍼포먼스에 지나지 않는다.”

– 청년들에게 “필요할 때 분노하라”고 강조했다.

“일본인은 정당하게 화내는 것을 잘못한다고 생각한다. 일렬횡대로 항의하는 것도 때로는 필요하지만, 한 사람 한 사람이 자신의 의견을 분명한 태도로 나타내는 것은 그 이상으로 중요하다.”

<시리즈 끝>

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先ずは心の除染を!

先週の日曜日、すぐ隣りのカトリック教会で行なわれた「日本カトリック部落差別人権委員会」というグループの春季合宿で一時間半ばかりお話をしてきた。どういう委員会でどういう活動をしてきた会なのかは知らないが、その会のお世話をしている一人のシスター(昨年、駅近くに設置されたカトリック・ボランティアセンター担当)に頼まれてのお出ましだ。
 ちょうどミサが終わったらしい聖堂の中で、しかも祭壇にお尻を向けてお話するのはいささか恐れ多い気もしたが、しかし話していくうちそのことはすっかり忘れ、時に持ちネタの駄洒落、さらには例の(?)終末論とスカトロジーの相関関係にまで話が及んで、あとから反省したがそれこそ後の祭り。
 それはともかく、日ごろ話し相手に恵まれないために溜まりにたまった数々の思いを際限なく話すのは避けたいと自戒していたが、しかしむかし取った杵柄というか、1コマ90分の体内時計がきっちり作動して、終わってみたらちょうど一時間半であった。西は広島あたりからの人もいるらしい合計30名近くの参加者は、大部分は私ぐらいの年配の人だったと思うが、その人たちに向かって言ったことをまとめにまとめて(この言い方埴谷大先輩に似てきたが)言うなら、遠方から見れば確かに南相馬は被災地・悲劇の町だが、私のように初めから動かずに定点観測をしてきた人間からすれば、8割がたは喜劇、それも質の悪い喜劇の町だということ。つまり愚かな行政と、自ら考えることをしない住民による喜劇である、と。
 放射能による死者は、少なくともこれまでのところゼロだが、慌てふためいての自主避難はまだしも、病人や老人の半ば強制的な移動もしくは移送は、ある場合は医師法違反どころか犯罪に近いものがあった。益体も無い事故後検討会とかで、南相馬はなぜ293名もの病人や老人の死者が出たんだろう、なんてすっとぼけた発言を、何の批判も加えないで報道するマスコミには、怒りを通り越して開いた口がふさがらない、などの話もした。
 被災者の一人の、苦しい体験談などが聞かされるだろうと思っていた参加者たちも、祭壇を後ろ盾に怒れる一人の老人が矢継ぎ早に悲劇の町の実態を暴いていくのを、たぶんあっけにとられて聞いていたのではと心配したが、後日、主任神父さんから皆さん喜んでおられましたよ、と聞き、ほっと胸を撫でおろした(古臭い表現だが)次第である。
 ところで話は変わるが、午前中、気になっていた例の郵便局宛ての手紙を何とか書き終えた。原町郵便局にはどうせ午後出かけなければならない用事があったので、窓口に置いてきてもよかったのだが、今回はきちんと90円の切手を三通それぞれに貼り、郵便番号・住所もしっかり調べて書いて投函してきた。どういう反応があるのか楽しみでもあるが、その文面を保管しようとわがパソコンのドキュメント収納箱を覗いてみたら、これまでも3通ほど郵便局宛てに書いた抗議文が残っており、それらには文書でのまともな返答など無かったことを思い出し、とたんに興も醒めてしまった。
 それに追い討ちをかけるように、午後の配達で福島県保険福祉部・健康管理調査室というところから分厚い大型の封筒が私と美子宛てに二通も届き、中を開けてみると、「県民健康管理ファイル」というものが入っていた。A4の文書が入る立派なファイルである。福島県と福島医大が主管する「県民健康管理調査」に関する結果などを保存して「家庭用カルテ」として使ってくださいということらしいが、申し訳ない、別の書類入れに流用するつもりだ。
 過去二回ほど送られてきた調査票はいずれも破棄した。それらは外部被曝線量などを推定するための資料にするらしいが、はっきり言って当時のことなど思い出したくもないし、それを記録して届け出ることもお断りしたわけだ。将来のための基本資料に役立てたいだと? おいおい、またこんな事故があると想定してるんかい? こちとら、放射能のことなど一日も早く忘れたいと、これでも必死に生きている。で、膨大な量の数字を集めて、統計表を作って、それでどうしようってんだい?
 こちとらの願うことは、ただ一つ。一日も早く福島県、いや日本中のすべての原発を廃炉にし、すべての有害廃棄物を最終処理場に埋めること、それもどんな地震にもびくともしないところに、日本科学の粋を結集して絶対安全な方法で。つまり世界に先駆けてパンドラの箱の蓋を閉めることだ。
 放射能のことに限らず、日本は(だけじゃないが)すべてのことに数値が優先する国に成り下がっている。たとえば教育である。日本の学校の機能というか役割の半分以上は数値に関わっている。つまり成績評価とその数値の処理や保管に大部分のエネルギーが使われている。いまさら言うまでもなく、教育とは教える者と教えられる者の、時にはその関係が逆転するほどの優れて人間的かつ生命的な出会いであり対話である。それ以外の雑事は最小限にとどめらるべきもの。ところがいまや教育は成績評価と統計と意味のない比較が主戦場の世界になってしもた
 そしてその成績を数値化するための試験問題に間違いがあると言ってはペコリ平謝りのパフォーマンス、そのデータが紛失したといっては謝罪会見。数値やデータが主役で、生徒や教師は脇役の教育現場
 むかし現役の教師だったころ、或る大学に傑作な先輩教授がいた。本当かウソかは知らないが、学生たちのもっぱらの噂は、あの先生、答案など採点せず、机の上から答案を滑り落とし、いちばん遠くに飛んだ順に成績決めるんだって。まさかとは思ったが、あの先輩なら不思議でないかも、と思った。あまりに不真面目ですって? でもねー学ぶということは、教場での教師の教えや、本を読んでの新しい知解によって次第に広い世界が開示されていくこと、そしてそれに興奮し喜び、さらに広い世界へ絶えず開眼していくことであり、それ以外のことはすべて二義的な付け足しではなかろうか。ところがいまや学校教育は生徒の記憶の程度を数値化するつまらぬ記録装置に成り下がっているのだ。
 今時の病院も、患者の問診や触診はほとんど行なわれず、とりあえずはCTスキャンとか種々の検査の数値化が主な仕事となっている。これからいろいろお世話になるところだから、あまり病院の悪口は言いたかないけど、学校も病院も、いずれもいつのまにか数値とデータが幅を利かせる世界になってきているのである。
 この話、それこそ際限なく続きそうだからこの辺で止めておくが、表題の意味について一言。先日の会でも言ったことだが、南相馬のかなりの人たち、とりわけ幼い子供さんを持つ若いお母さんたちに、いま最も必要なことは、懇切丁寧なカウンセリングではない。定期的に市を訪れて母親たちの育児相談に乗ってくれている知り合いの心理学者もいて、まことに言いにくいし暴言と取られるかも知れないが、ぶっちゃけた話、それら心配性のおかあさんたちにいちばん必要なのは催眠術師の派遣である。つまり「さあ、あなたの頭の中の放射能に関する思い煩い、これから三つ数えるうちに、遠くに飛んでいきますよ、いいですか、ひとーつ、ふたーつ、はいっ、飛んでいきましたよ、さあもうあなたの頭の中に放射能はありませんよー」

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嗚呼、一等国!

※いま右のコメント欄で、久しぶりに面白い駄洒落を思いつきましたのでご覧下さい。 

今朝の某紙のネット・ニュースによると、訪米中の安倍首相が戦略国際問題研究所(CSIS)での講演で、「日本は一級国家。今も、これからも二級国家にはならない。それが、私が一番言いたかったことだ。繰り返して言うが、私はカムバックした。日本も、そうでなくてはならない。」と言ったそうだ。この発言は、アーミテージ元国務副長官など数人の発言に反論してのものらしいが、おいおい安倍よ、またもや君の古臭い国家観が見えてきたよ、と言わざるを得ない。古臭いだけではなく、きわめて危険な国家観である。
 実はいま紹介したのは演説の冒頭部分だけで、さらに読もうとすると、「記事全文をご覧いただくには、××新聞デジタルへのログインが必要です。」とのメッセージが入って、登録会員でなければ読めない仕組みになっている。いったいいつからこのような次第になったのか覚えていない。実は一昨年の大震災・原発事故からしばらくして、それまで一度も止めたことの無い新聞購読を止めた。その新聞だけでなく他のすべての新聞、さらにはテレビ報道が「奈落の底から」見ると、それまで気づかなかったこと、つまりいかにいい加減な報道がなされているかに嫌気がさしたからである。
 もちろん中にはこれはと思う的確な記事、自分の蒙を啓いてくれる記事が無いわけではない。しかしそれはきわめて稀で…なにか適当な喩えを、と思ったが出てこない。
 しかしそれら以外に情報を得る方法は無いわけで、その後は講読はしないが時おり各社のネット報道やらテレビ報道を、かなり覚めた眼で見るだけになった。では外国ではどのようになっているのだろう。私が時おり覗いているのはスペインの新聞、特に「エル・パイース」や「ABC」などスペインを代表する大手の新聞だが、ニュースの途中で「ここからは登録会員のみ」などとまるでどこかの秘密クラブ入り口みたいなことはしていない。
 秘密クラブなんて上品(?)な喩えを使ったが、本当はそうした扱いを受けるたびに、まるで祭りの見世物小屋で客の興味を引きそうなものをちらりと見せて、後はお代を出せば見せてやるよ、と言われているようで誠に味気ない、というより、はっきり言って不愉快である。
 たとえば高い執筆料を払って掲載する記事に対して、読みたければお代を払って、と言われるならある程度なっとく出来る。しかし事件や、安倍首相の演説内容など、国民が知る権利のある(かな?)ニュースまで金を払わなきゃ教えない、というのは、どうだろう? 報道に携わる者として、たとえ無料でも国民に知らせたいと思わないのだろうか。
 もちろん現今、新聞社や出版社がコンピュータやケータイなどの急速な普及によって経営的にも大変困難な時代を迎えていることは重々承知しているし、同情もしている。とにかくこれまでのように、まるで総合商社並みに肥大化し巨大化した組織では、多数の社員・従業員のみならずその家族を養わなければならないという事情も分からないでもないが…
 思わず本題から離れてしまった。そう、安倍首相の演説のことである。記事の途中だから、この首相演説を記者はどういう魂胆から記事にしたのか分からないが、つまり批判的な目で記事にしているのか、それとも…私がこの記事を読みながら、思わず連想したのは、むかし李香蘭つまり山口淑子が初めて故国日本に帰ってきたときの話だ。彼女の乗った船が下関へ入港し、水上警察の係官が上船してきた。彼女がパスポートを出すと、警官がとつぜん怒鳴り始めた。

「貴様、それでも日本人か!よく聞け。一等国民の日本人が三等国民のチャンコロの服を着て、支那語なんぞ喋って、貴様! 恥ずかしくないか、え?」

 安倍晋三の言う「一級国」はこの水上警察官の言う「一等国」とまったく同じことである。こんな時代錯誤的な言葉、というよりそういう発想をする人間が、今の日本を代表する首相であることをしっかり認識する必要がある。これが何を意味するかが分からない人は、そう、いつのまにかアベノミクス(何だこりゃ!ザケンジャナイ!)の術策にはまり始めていると思ってください。

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一世一代の大仕掛け

実はまだ例の郵便局宛ての書簡、あのままにしてます。なんだか嫌気がさしてきたからです。でもその後に起こった小さな事件(?)で、あの後を書き進めて、当初考えたように三つの郵便局に送ろうといま改めて思ってます。その小さな事件とは…昨日の午後のことです、前回ちょっと触れた或る企てというか謀(はかりごと)の重要な協力者になっていただけそうなマドリード在住の■さんに、その企てのいわば材料となる私の私家本8冊を航空便で送ろうとしたときのことです。いつもより値が張るはずなので、事前にネットで代金を調べました。いちばん安い航空便SALは、印刷物・書籍2,570グラムでは2,680円です。
 局に行って、中身は本ですがこれをSALで送ってください、と窓口に出しました。するといつも親切な応対をしてくれるおにいちゃんが、パソコンを見て答えました、「えー、ちょうど5千円になります」。ええっ5千円、ちょっと待って下さい、確か家で調べたときは2,600円ぐらいだったはずですが。「えーっと2キロを越えると小荷物扱いになって、5千円、別の…で送ると6千円を超えます」。家で見てきたデータは見間違いだったのだろうか、と自信が無くなり、危うく5千円払いそうになりました。すると隣りのベテランの女性局員が、「それ印刷物ですか?」と聞いてきました。ええ、先ほども言ったように本です。そのときおにいちゃん自分の間違いに気がついたのでしょう。「あゝ印刷物ですか、それだと2,680円です」。おいおい冗談はよし子さん(古っ!)、なにか嫌味のひとつでも言おうかと思ったけど我慢。2,680円を払って局を出ましたが、じんわり怒り、いや怒りというより不思議な恐怖を覚え始めました。
 いま流行の「アンゼン・アンシン」なんて、こちらがよほど注意してないと、いとも容易く消えてしまうという恐怖。事前に調べていったから良かったようなものの、もしそんな手立てが無いお年寄りなど、不審に思いながらも払わされてしまうという恐怖。そんなつもりは無かったといっても、これ立派なヤラズブッタクリでっせ。
 以上、いつもの通り、異常に長―い前振りでした。本筋に戻ります。といって、取り止めのないお話ですから、どこから始めましょう。例の企てのことですよ。
 そう、むかし故・小川国夫さんたちとやっていた『青銅時代』(おっと過去形じゃまずいです、第49号まで来たこの同人誌、第50号は発行場所を東京から南相馬に移して続刊するつもりです)の仲間の一人、自称詩人のことから始めましょうか。この女性、あるとき「だれか私の詩をスペイン語に訳してくれる人いないかしら。私の詩って、翻訳された方が詩として生きてくるのよ」とのたまいました。おいおいおい、それって他人のフンドシで相撲とるってことだぜ、と言いたいのを辛うじて我慢しました。あれっ、女性にフンドシはないか、それじゃ…アホらし、止めた。
 で本題ですが、私の企ててることは、その自称詩人のやろうとしていたことと形は似てます。つまりその女性の詩に当たるものは私がこれまで書いてきたたくさんの文章だからです。専門分野での論文(めいたもの)もありますし、それこそ雑多な文章、中には詩(もどき)まであります。活字や電字になったものばかりでなく、書庫に眠っている青年時代のたくさんの日記まであります。ただ自分から言うのもなんですが、それらの文章、組み合わせたり入れ替えたり、時には蕎麦の場合のヤマイモのように適切な「つなぎ」を加えることによって、格段の風味を出す可能性のある文章群なのです。
 たとえば先日、■さんにこの企てのヒントになりそうだから読んでみて、と送った『ビ-ベスの妹』という短編があります。16世紀スペインの偉大なウマニスタ(人文主義者)ビーベスをネタに作った虚構です。そしてこの作品の中に出てくる私の発言草稿、つまりむかし国連大学(この大学、今どうなっているのでしょう、確か学長が武者小路なんとかがなり…それはともかく)でのパネル・ディスカッションで発表した短い「スペイン思想の中のサラマンカ」という文章と組み合わせると、スペイン語圏の読者をビックリさせるような、というかうまく騙せる不思議な作品に仕立て上げることができます。
 この作品は、実はもう一人ぜひ企てに参画してもらいたいと思っている■さんにも読んでもらいたいと昨夜メールでお願いしたところ、彼からこんな内容の返事が来ました。すなわち彼は初めこの題名を「ビーナスの妹」と間違えたそうで、たぶんロリータみたいな美少女物語だろうと思った、と。嬉しいですね、つまり■さんは最近も学会でナボコフ論を発表するほナボコフにぞっこん参っている人で、ビーベスをビーナスと間違えたこの勘違い、実に文学的じゃないですか。もともと彼を拙著の翻訳者に懇望したのは、一昨年夏、原発事故の後、電車とバスを乗り継いで南相馬を訪ねてくれた彼が、東京に戻ってからくれたメールの日本語をパソコンから捜し出して読んだときです。何とセンスのある日本語を書く人だろう!、と感心したからでした。
 それはともかく、私の言う企てとは、既にある材料をうまく利用して、三人で(つまり■さん、■さん、そして私とで)協同して、スペイン語の作品を創り上げ(でっち上げ?)ること、そしてペン・ネーム富士貞房という謎の作家を世に送り出すというとてつもない企てなのです。富士貞房ってお前のことだろう、ですって? いやいや富士貞房なんて作家は、まだ誕生してません。確かにその名を作者にしたいくつかの書き物は存在しますが、それらはいわばまだ点線で辛うじてなぞられているだけで、しっかりした実線で存在する作家にはなっていないのです。
 そしてご存知かも知れませんが、富士貞房というペン・ネームはローマ字書きにすると、スペイン語圏の読者にはピーンとくる或るカラクリが隠されています。つまりフジテイボウのジはスペイン語ではヒの発音になりますが、するとフヒテイボウ、フヒティーボ(fugitivo)つまり「逃亡者」を意味するんですわ。何からの? そうね、すべてからの、とりわけ真実からの。だってそうでしょ? どこかのキリスト教聖者が言ったように、真実はあまりにも強烈な光を発するので、人は敢えてそれを直視することはできない、と。つまり、その意味で言うと、この世に生きることは、どんなにしかめ面をして真面目くさっても、どこかウソ臭い。つまりウナムーノの言う「生の悲劇的感情」と裏腹、表裏一体の「喜劇的感情」に満ち溢れているわけですから
 先ほど三人の協同作業と言いましたが、しかし正確に言うと、こうしてその作業の経過をこのブログで逐一報告していくつもりなので、これを読む皆さんもいわば共同謀議者、それが言い過ぎというなら、少なくとも一部始終を見守る観衆ですから、そう実に大掛かりで公正なハカリゴトというべきなのです。
 じゃそうして出来上がった「作品」の著作権者はだれか、ということですが、この際、はっきり宣言します。そうして出来上がった「作品」の著作権者は、私・佐々木孝ではありません。では富士貞房? いや、そうではありません。だって富士貞房は言うなればこれから創り上げられていくものなのですから。では誰の? リライター(編集者兼翻訳者)のもの(そしてそれに発生する印税も)です。私個人は、もともと現今の行き過ぎた著作権という概念は好きくありません。だれかがもう言ったかも知れませんが、どんなに独創的な作家といえども、その書くものの大部分はこれまでの人類の厖大な知的遺産の一部引用だったり註であるに過ぎません。だから有名作家が、自分の作品の海賊版が出ているからケシカランと抗議しているのを聞いたりすると、何をおっしゃるウサギさん(これまた古っ)、他人の作品として盗作されたなら怒ってもいいけど、そうでないなら、自作が安い値段でたくさんの人に読んでもらえること、むしろ密かに喜んでいいんじゃない?と思ったりします。おおっぴらにそう喜んじゃ、ちょっとまずいかも知れませんがね。これはタダなのに自作を一向に読んでもらえない人間のヒガミかも知れませんけど。
 それはともかく先を、といっても疲れてきたのでそろそろ終わりにしますが、もうひとつ面白い作品になる材料を挙げましょうか。例の「ケセランパサラン」伝説です。このスペイン語かも知れない不思議な言葉をネタにして、寓話・民話仕立ての奇妙な作品を創ることができます。材料? それの基本的な材料は、そして未完成の名曲の歌詞も既に随所に発表してきましたよ。
 あっ、いま気がついたんですが、■さんは一応紹介しましたが、■さんについてはまだでした。簡単に、それも彼女の業績だけ書きます。彼女はマドリード在住の日本人女性で、これまで三島由紀夫の『青の時代』と『仮面の告白』をスペイン人と共訳で大手出版社から、そして今回拙著の■さん訳を出してくれる出版社からは徳富蘆花の『不如帰』と永井荷風の『濹東綺譚』(わおーっ)を単独訳で、そして現在、浜尾四郎の探偵小説を翻訳中というすごい人なのです。
 だからこのお二人と出会い、心許せる友人になった今、私が前述のような壮大な夢を見るようになったのは、ひとつも不思議じゃないでしょう? そんなことを言えば、スペイン文化の底を流れる「人生は夢」(カルデロンの有名な作品があります)という意味で、私だけでなくだれもが夢を見る権利が、いや能力がもともとあるんだ、とは思いません? 確かに目の前の人生は、たとえば原発事故、キナ臭い政治、真のアンゼン・アンシンにはほど遠い光景が広がってますよ。でもだからこそ自分を鼓舞するそれぞれの夢を思い描き、せめてもそれに向かって自分や愛する人たちのために進んでいくべきだとは思いませんか?
 ここまで長―く引っ張って来てすみません。でも本当のことを言うと、午前中ここまで書いた文章、キー操作を間違えた、と言うよりこのごろ老朽化したパソコンのせいで、一瞬のうちに消してしまったのです。一時は頭が真っ白になりました。でも自分を奮い立たせて、頴美が作ってくれた美味しい昼食を食べ終えたあと、パソコンに再び向かってここまで思い出しながら書いてきました。もちろん一字一句は思い出せるはずもなく、時には思いがけない文章が出てくるなどして(生の喜劇的感情や人生は夢などのことは二回目に付け加えたもの)まったくの無駄ではありませんでした。生きるってことには、このように無駄なものはひとつも無いんです。
 それから最後に付け足し。文中触れた『ビーベスの妹』や「スペイン思想の中のサラマンカ」は、それぞれ呑空庵刊(それどこの出版社と聞かれる? 何をおっしゃるシタジラしい)の私家本の『切り通しの向こう側』と『飛翔と沈潜――ウナムーノ論集成』に収録されてます。読みたい方はご注文ください。ともかくそれだけ読みたい方は、大サービス、抜き刷りをメール添付で無料でお送りしますので、ご遠慮なく。ではこれで本当に今日は最後にします。


『切り通しの向こう側』に収録されている「モノダイアローグ」の中で、作中人物のこんな対話があった。

――しかしそうは言うけどね、人間本当に言いたいことは一言ですんじゃうぜ。あの壮大な体系を築いたへーゲルだって、「理性的なるものはすべて現実的であり、現実的なるものはすべて理性的である」と言いたいばっかりに、あの膨大な量の作品を書いたんだし。
――おや大きく出たね。
――しかし本当のことだぜ。「私とは何か」を含めて、すべてのことの真実が明かされないのは、われわれにとって不幸でもあるが、また幸いでもある。真理を見た者は盲になるほど、真理というやつは強烈なものさ。真理を見たいがための悪戦苦闘という面から見たら、生きることは悲劇的だが、真理を見ることを一寸刻みに延ばしているという面から見れば、生は喜劇的である
――またウナムーノ。
――そう露骨にいやな顔をしなさんな。確かに、『生の悲劇的感情』のウナムーノは、生きることはパサール・エル・ラト、つまり暇つぶしをする、時をやり過ごすことである、とも言っているからね。つまり生の意味を見出さんとする姿勢からは悲劇的感情が生まれ、生の無意味さを暇つぶしでまぎらせようとする姿勢からは喜劇的感情が生まれる
――答は分かっているような気がするけど、どちらが本当なの?
――そう、どちらも本当。というより、どちらも結局、同じ一つのことを言っているにすぎない。なぜならパサール・エル・ラトのパサールという言葉は、同時に、苦しむ、耐えるという意味、つまり生の無意味さに耐えることでもあるからね。
――どちらにしてもペシミスティックだな。
――そうかな、いやむしろペシミスティック・オプティミズムだと思うがね。つまり根底はオプティミズム。

【息子注】文中の一部を伏字に処した(2021年3月17日記)。

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もう一人の父の死

作家の安岡章太郎さんが亡くなられた。初めてお会いしたのは…はっきりした日付は今は思い出せない。名瀬から上京した島尾敏雄さん、ミホさん、マヤちゃんと一緒にお宅に初めて伺ったときに玄関先で撮られた写真が残っているが、その時の私はまだローマン・カラー姿だから、今から…いややっぱり年代は出てこない。ともかく安岡さんにはその時以来ずっと優しくしていただいた懐かしい思い出ばかりだ。いずれその思い出をたどりながら、いかに彼が現代日本最高の作家であり文明批評家であったか、ゆっくりまとめてみたいが、今はまだその気になれない。彼の魂の安らかに憩わんことをと願うばかりだ。
 ただ一人娘の治子さん(東大教授なのでもっと別の呼び方をすべきかも知れないが、私には治子さんとしか呼びようがない)のメールで、亡くなられた日がまさに治子さんのお誕生日であったことを知り、不思議な感動を覚えた。どれほど治子さんを愛され期待をかけておられたかの証し、さらには愛する奥様の治子さんへの《委託》のように思われたからだ。たぶん安岡さんにとっては最後のロシア旅行だったと思うが、大きな建物を背景に(それがレニングラードだったかモスクワだったか、お聞きしたはずなのにはや忘れている)お元気そうに治子さんと一緒の写真がずっと私の書棚に飾ってある。
 いや先ほども言ったように、安岡さんのことを書く気持ちの備えがまだできていないので、いまのことと関連して、もう一人の父親のことを書いてみる。つまり美子の父親のことである。亡くなった日(2000年、享年奇しくも安岡さんと同じ九十二歳)もまさに私の誕生日に当たっていたのだ。しかし安岡さん父娘の場合とはまったく違い、彼と私は、初めから終わりまで義父と娘婿という距離を豪も縮めることはなかった。結婚後しばらくたってから東京に呼び寄せる形で同居が始まったのだが、初めのうちは食事を共にしたが、後には彼らの部屋に食事を運ぶようになった。保谷、二子玉川、清水、八王子と度重なる転居に文句一つ言わず付いてきたが、要するに美子も私もいい娘でも婿でもなかったわけだ。
 その義父が病に倒れ救急車で病院に運ばれたとき、私が玄関から救急車まで背負って運んだことがある。それを心から喜んでいたことを後から知り、そんなことなら何度でも背負ってやるのに、と思ったが、それから間もなく、驚くほど大きな入道雲が見える暑い夏の終わりに病院で亡くなった(その病院がどこにあり、何という病院だったかさえもう忘れているが*)。もっと話しかけてやればよかった、もっと優しくしてやればよかった、と思ったが、すべて後の祭り。ただ彼が私の誕生日に亡くなったことは、私なりに重く受け止めた。その後、義母の老人施設での生活を見守り(今度の被災地の大熊町にあったその施設に十日ごとに数年間、おそらく百回以上、美子と車で見舞った)、そしていま美子の介護も、その義父の《委託》でもあると信じているから。
 安岡章太郎さんへの追悼を述べるべきときにこんな形で自分たち親子のことを書いたのも、章太郎さんと治子さんは初めから終わりまで愛情と理解に包まれた関係にあったし、最後の数年間もこれ以上ないほどの看病を尽くされたのであるから、私のような後悔などあろうはずもないと思ってのこと。つまり、確かに大きな悲しみではあろうが、しかし最後まで精一杯尽くされたことへのある種の慰めをも感じておられるのではないか。それは私のような他人にもひしひしと伝わってくる、と言いたかったのだ。言い訳じみて聞こえるかも知れないが、以上、治子さんや奥様への、もってまわった私のお慰めの言葉と見做していただければ幸いである。
 ところで安岡さんの作品の英訳はたくさんあるだろうが、初期の作品『ガラスの靴』は英訳からの重訳ながらスペイン語訳(La zapatilla de cristal, traducudo del japonés por Royall Tyler, traducido del inglés por María Alonso de Yerro, El Tercer Nombre, 2009)もある。彼の作品はもっとスペイン語圏の人たちにも読んでもらいたい。川端・三島、あるいは村上だけが現代日本文学ではないことを知ってもらいたい。ハビエルさん、どうです、安岡作品に挑戦していただけません?


*【息子追記】祖父が亡くなったのは、自宅から5キロほど離れた八王子戸吹の総武病院だった。夕食後、食卓で家族談笑している時に病院から電話がかかってきて、祖父の死を知らされた。父は義父・源一を偲び、南相馬の生活では形見の銀牌を母の誕生日など祝いの日に使っていた。

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体罰・自殺事件

どこかの男子高校生が部活の指導教員から体罰を受けたことを苦にして自殺した、という事件があったようだ。実はそのニュースを新聞紙面でしっかり読んだわけではなく、ただテレビ画面でざっと知っただけであるから、これから書くことはその事件についての論評でないことをあらかじめお断りしておく。つまりこの種の事件が繰り返し起こるたびに感じることを一般論として述べるだけである。
 生徒一人の命が失われた事件だから誰もはっきり言わないようだが、実に後味の悪い事件である。というより、事件を機に巻き起こったいつもの周辺事態がなんとも嫌な、としか言いようのない思いを喚起する。周辺事態と言ったのは、たとえば事件後の学校とか教育委員会の姿勢である。もっと具体的に言うと、テレビカメラの放列を前にしての「責任者」たちのあの謝罪パフォーマンス。反省すべきことが多々あるのだから謝罪は当然だが、もういい加減あの謝罪パフォーマンスは止めたらどうか。産地偽装から入試問題のミスまで、その度にあのパフォーマンスが日本中で繰り返されるようになったのは、いったいいつの頃からか。取材陣ばかりかテレビ画面を見る観客(!)までが、責任者たちの深々と下げた頭のどれが一番先に上がるか、などと固唾を呑んで見守っている。要するに「見るに堪えない」光景である。
 もしも謝ることがあるなら、謝るべき相手への心からなる謝罪の言葉を述べた後に、「しかるべき対応は今後とも真剣にさせていただきますが、とりあえず本日の会見はこれにて終わらせていただきます」とあのパフォーマンス抜きで切り上げたら、どうなる? おそらく全国から抗議の電話が殺到するであろう。あゝなんて道徳的な国民だこと! だから僻目かも知れないが、まあこの場は無難に頭を下げておきましょか、といった魂胆丸見えの仰々しいパフォーマンス。
 今回の場合はどうであったかは知らないが、体罰を与える教師のことなど、これまでずっと校長以下誰もが知っていて黙認してきたことではなかったか。つまり我が校の○○部の好成績はあの先生のおかげ、少々のことは眼をつぶってましょ。要するに体罰に関しては、全教職員の「共犯」である場合がほとんど
 でも中には、体罰を与えたり、生徒を厳しく叱った教員の側にも同情すべき点がある場合もある。この点で印象的だったのは、『北の国から』の分校に都会から赴任してきた女先生(俳優の名前は忘れたが…あっ思い出した、りょうこ先生を演じた原田三枝子だ!)の場合である。つまりあの場合、生徒の自殺はまるで「当て付け」「意趣晴らし」としか思えないし、りょうこ先生が可哀相に思えた。自分の命を犠牲にした生徒について誰もそんなことを口に出しては言わないが、しかしだからこそ最高最大の仕返しになる。
 生徒のことを思っての真剣な、ぎりぎりの体罰はありうると思うが、しかし問題を起こした教員には、体罰が常習化していた場合が多い。そして怖いのは、そうした体罰は次第にエスカレートしていくことだ。旧陸軍内務班での日常化していた体罰がそうであったように。 私が親なら、そんな教師は心からなる軽蔑に値すること、ましてやそんな教師の為に己の命を犠牲にするなど愚の骨頂だと子供に教え諭すだろう。事件の後、講堂に集められた生徒たちを前に、校長や教師はどんな訓示を垂れたのだろうか。一度聴いてみたい気がする。貞房先生ならこんなことを言うかも知れない。

「あってはならない悲しい事件が起こりました。こうした結末に至るかも知れないいくつもの兆候があったのに見てみぬふりをしてきた私・校長初め教職員全員、心から反省しています。我が校は運動部や文化部の活動では全国的に名を馳せた有名校です。それを誇りにしてきました。でもそんな好成績など、あなた方一人一人の命に比べれば、言葉は悪いですが屁みたいなものです。自分をもっと大事にしてください。先生といえども人間です、なんて逃げを打つ気は毛頭ありませんが、でも理不尽なことを言ったりしたりする人に対しては、相手が先生であろうと誰であろうと、自分が正しいと思ったことを堂々と主張する人間になってください。しかしあなた方は先生方を相手にするには実に弱い立場にあります。どうしても理解してもらえないときには、他の先生やこの校長の所に相談に来てください。それはけっして告げ口をすることではありません。この学校が単にものを覚えるだけではなく、人生に起こるいろんな難題を一緒に考えるための場になるためです。私がいつも言ってきたように、皆さん一人一人が自分の目で見、自分の頭で考え、そして何よりも自分の心で感じる人になるための学校でありたいからです……

 例の問題を起こした学校では、その運動部、バスケット部でしたっけ?、は活動を停止したというニュースが続いた。おいおい何を考えちょる? それじゃ生徒たちはますます萎縮し、教師たちはますます自信を失うのとちゃう? 指導教員を入れ替え、りょうこ先生みたいな(彼女バスケできるかな?)素敵な先生のもと、亡くなった生徒のためにも人心一新して明るい学校になるよう、それこそ教師・生徒一丸になって努力すべきじゃない? 
 それはそれとして、新聞やテレビの報道の仕方、何とかなりません? たとえばですな、例の謝罪パフォーマンスが始まるな、と思った瞬間、カメラをパンさせてですな、見るに堪えない場面を映さないなど。そんなテレビ局や取材班が一つでもあれば日本の報道機関にも希望が持てますけど、相も変わらず他社に負けじと、そら横一列にヨーイドン、あゝ救われねーっ!

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厄介な習性

 『原発禍を生きる』のスペイン語訳はしばらく前、ハビエルさんのおかげでめでたく完成し、嬉しいことにいまスペイン人ジャーナリスト・作家のラモン・ビラロ(Ramon Vilaró Giralt)さんが序文を書いてくださっているところ。それで今日、訳者ハビエルさんのところに、彼から序文完成のためにさらにいくつかデータが欲しい、とのメールが入った。
 本来なら、すべてが陽の目をみるまで(?)、この種の書き物は公開すべきではないのだが、困ったことにここ数年「モノディアロゴス」執筆の姿勢をとらないことには頭がスムーズに働かないという厄介な習性が身についてしまっている。それでネットに載せる載せないはともかく、少なくとも載せるつもりで以下のように書き出すことにした。
 ハビエルさんが伝えて来た要点は二つ。①ネットその他でこれまで履歴や業績をまとめたものがあるかどうか ②スペインあるいはスペイン文化が私の人生にどのような意味あるいは重要性を持っているか
 さて①についてであるが、昨年スペインの作家ミリャス氏が拙宅に寄られたとき、あわてて自己紹介の文章を書いたことがある。その時のスペイン語原文はパソコンに取り込んだはずだが、今探してもどこにも見当たらない。しかし幸いなことに、『モノディアロゴスⅥ』の十月九日の項に「唐突な自己紹介」として日本語訳(?)を載せておいた。私の下手なスペイン語よりハビエルさんが完全なスペイン語に訳してくださるであろう。
 さて難問は②である。ハビエルさんは5行から10行の文章を求めておられるが、はたしてそんなにうまくまとまるかどうか。ともかく書いてみよう。
 十代中ごろの田舎の若者でも、狭い周囲世界を抜け出してもっと広い世界に目覚め憧れることがある。外国と言えばまず頭に浮かぶのはアメリカやイギリス、文学好きな若者だったらそれにフランスやロシア、広く芸術好きな若者だったらイタリアなどにも目が向いたであろう。しかし私は、なぜかスペインに憧れを持った。それにはたぶんにその当時観たアメリカ映画『誰が為に鐘は鳴る』や珍しくやってきたスペイン映画『汚れなき悪戯』などが影響したのかも知れない。だから当然のように大学ではスペイン語を専攻することにした。
 この調子で行くと長い半生記になりそうなので少し急ぐが、イエズス会経営の上智大学の三年生の秋、急に修道生活が視界に入り、翌年イエズス会の志願者になった。そして卒業と同時に広島にある修練院に飛び込んでしまった。しかし五年目、入会の時もそうだったが退会の決意も突然やってきた。五年間の修道生活を、ふざけて私の「魂の兵役」と呼んだこともあるが、白状すると未だに私にとっては謎の五年間である。おそらくその意味を終生突き止めることのできない謎であり続けるのかも知れない。
 その後、結婚し、男女双子の子をもうけ、いくつかの大学で人間学やスペイン思想を教えた。一応専門はスペイン思想だが、ウナムーノ、オルテガなどの現代思想から、その源流を求めてビトリアやビーベスなどのスペイン人文主義思想に至り、そこに掘り下げるべき貴重な鉱脈を見つけたと思ったが、生来の怠け癖から抜けきれず、いずれも中途半端のまま今日に至ってしまった。
 しかし今回の大震災・原発事故という奈落の底で改めて強く実感したのは、私の人生観・世界観そして価値観の主要な筋道は、曲がりなりにもこれまで関わってきたスペイン思想との対話の中から得たものだということである。だから今回拙著がスペイン語に訳されてスペイン語圏の読者にお目見えするということは、わが魂の第二の故郷への帰還そして恩返しの旅の意味を持っているのである。
 こんなところかな。それではいい機会なので、今回序文を書いてくださるラモン・ビラロ(1945年生まれ)さんの略歴をご紹介する。

新聞記者・作家。ブラッセル、ワシントン、東京での20年に渡る通信員として、日刊紙エルパイスの記事を書く。後にカタルーニャの経済紙シンコ・ディアスから派遣される。ラ・バングアルディアをはじめ現在、エル・ペリオディコ紙と週刊カンビオ16にも配信している。
著書として、『ハンバーガーだけでないアメリカ』『カウボーイのズボン』『ビデオと芸者以外の日本』レポート「ニューヨークとワシントン」、歴史書『大日、フランシスコ・ザビエルの偉業』(訳が平凡社から出ている)『タバコ、カミージャ侯爵の帝国』、随筆『ヤンキーの国、アメリカの断片とスペインの影』などがある。

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風邪去りぬ

自分の中では、ほぼ一日おきくらいのペースで書いてきたつもりだが、新たに設けられたカレンダー(右に見える)によればそんなことはなく、二日おきから、時には四日おきの間隔になっている。それが気になり、いつしかプレッシャーになって、今日もこうして書くこともないのに何か書かなきゃ、とパソコンに向かっている。
 風邪のことでも書こうか。ここ数年風邪を引かないなどと豪語していたが、今年の夏はとうとう風邪を引いてしまった。いわゆる夏風邪というやつで、やたら咳が出たが、熱もなく体のだるさもあまり感じず、要するに病気になったという実感はなかった。しかし昨朝から昼過ぎにかけてのそれは、もしかしてヤバイことになるのでは、と心配になるものだった。つまり体がだるく、節々が痛く、食欲が落ちたのだ。
 しかしなぜ引いたか、その原因ははっきりしていた。早朝、掛け布団がずり落ちていて寒くて目が覚めたときにかかったのだ(と思う)。つまり東側の押し入れ(といっても現在は明かり取りのために上半分は出窓のようになっている)にベッドを寄せているため、寝返りを打つたびに反対側に布団がずり落ちるわけだ(昨晩から襖とベッドの間に布団を挟みこむようにした)。
 ともかく風邪の原因ははっきりしていたが、美子の介護に支障が出るので、早く治さなければならない。頴美が心配するので、昼食はなんとか我慢して食べた。幸い薬は買い置きの葛根湯があったのでそれを飲み、いつもはソファーで仮眠を取るだけなのだが、ともかく昼食後は布団にもぐることにした。結果的にはそれが幸いしたのか、二時間ほどぐっすり寝たあと、これは治るぞ、と確信めいたものを感じた。
 つまり日ごろの行ないがいいから(?)、およそ半日で風邪を治した、いや治ったわけである。美子をベッドから車椅子に、車椅子からベッドに移す際も、要所要所で必要な力を振り絞ることもできるようになった。
 今回は幸いにも短時間で風邪は去ってくれたが、持病その他で体力が落ちた場合、気力でカバーしようとしても無理な話で、そうであるならこれからの日々、いかに体力を維持し、病気にかからないようにしていかなければならないか、もう少し真剣に考えなければなるまい。美子が今の状態をいつまで維持できるのかも心配だが、それよりも介護しなければならない私がどこまで頑張れるかどうか、考えて見ればお先真っ暗…いやいやそこまで悲観的に考えてません。
 でもここ数日、いろんな人から喪中のはがきが届く。友人知人が親なり配偶者に先立たれる年齢層になってきたのだろう。私自身もばっぱさんの喪に服してますとはがきを出さなければならないのだが、年賀状も書かないが喪中のはがきも出さないだろう。社会的な慣例・常識からは外れるが、残された短い余生、喪に服すというより、死者とともに、その日その日を精一杯楽しく生きるべく努めた方が死者も喜ぶと思うからだ。家のばっぱさんは間違いなくそう考える人だった。ものに頓着しない性質(たち)だからというより、何回忌などと死者をさらに黄泉の国に遠ざけることや、死者と生者を区別することを嫌ったのかも知れない。愛する夫・稔さんのすべての回忌を祝わないでしまった。
 美子は今日、デイ・サービスから誕生日の花束とお祝いの手紙をもらって帰ってきた。あと数日で美子も六十九歳になるのだ。昔は長生きの部類に入ったと思うが、今は六十九歳はまだまだ若い部類…
 いやいや歳のことなど考えずに明るく生きましょう。明日は明日の風邪を引く、おっと間違い、風が吹く、です。


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する(2021年4月19日記)。

先生ご家族同様、わたしも母が亡くなって十年たちますが、ただの一回も法事らしいことをやったことはありません。

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渚にて

気軽に催し物に出かけたり旅行をしたりすることはできなくなったが、現在持っている本(「貞房文庫」所蔵)を見ているだけで、毎日、少なくとも空想世界の中ではあるが、かなり広い時空間を旅することができ、いろんな人や出来事と遭遇することもできる。たぶん負け惜しみに聞こえるかも知れないが、少なくとも(?)嘘ではない。今「見ているだけで」と言った。つまり必ずしもきちんと読んでいるわけではない。本当の蔵書家に比べれば、恥ずかしいほどの数の本しかないが、それでも自分に残されているかも知れない時間のことを考えると(こういう場合最大限の時間を想定するわけだが、それでも)、残念ながら全部を読む時間も体力もない。だから「飛ばし読み」と「スポット読み」を適当に織り交ぜて本と付き合っている。
 たとえば今日、表紙も本文も黄色に変色した汚ない一冊の文庫本に出会った。ネビル・シュート著『渚にて』(井上勇訳、創元推理文庫、1965年)である。読んだ記憶のない本だが、副題の「人類最後の日」を見て思い出した。昨年、大震災のあと、確か人類最後の日を描いたグレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナー主演の映画があったなあ、と思い出し、ついでに原作もあることを調べ出し、二つともアマゾンから手に入れたのだ。もしかするとこれらについては既に書いたかも知れない、と右の検索エンジンで調べてみたが、二つとも引っかかってこない。しかし世の終わり、神の審判を歌ったグレゴリアン聖歌『ディエス・イレ(怒りの神)』については、四月十一日の「或る終末論」で書いているので、注文したのはたぶんそのころだ。でもあの混乱時にそんな余裕があっただろうか、注文はもっと後のことかも。
 それはともかく、その二つとも観も読みもしてなかったのだが、今日、本の方があまりにもみすぼらしいので、急遽蘇生術を施してやることにした。第三次世界大戦が勃発して人類が最後の日を迎えるという、SFにしては深刻な題材を扱った小説なので、そのくらいの厚遇には値するだろう。いまのところ読む気はちょっと出てこないが、ただ巻頭のエピグラフは気に入った。美子の大好きなT. S. エリオットの詩の一部である。

 このいやはての集いの場所に
  われら ともどもに手さぐりつ
  言葉もなくて
 この潮満つる渚につどう……

 かくて世の終わり来たりぬ
  かくて世の終わり来たりぬ
  かくて世の終わり来たりぬ
 地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに

 どの詩篇が出典なのか、全集を探してみたが見つからない。いつかゆっくり探すことにして…小説のタイトルはこの詩からとったのであろう。というより、この詩から想像を膨らませて小説を書いたのかも知れない。ともあれ、いつもは世の終わりなど考えたこともない私でも、さすがに大津波や原発事故のあと、それについて少しは考えたわけだ。地震や津波という自然災害で人類が滅亡することが無いとしても、愚かな人間が作り出した核兵器や原発事故で地球が目茶目茶に破壊される可能性はある。しかしたとえそれら二つのものに耐え抜いて人類が絶滅を回避しえたとしても、この地球が永遠に存続するという保証はどこにもない。物にはすべて終わりがあると考える方が自然である。では地球の終わりはいつ? もしかすると何人かの天文学者、あるいはホーキンス博士のような人が、地球の寿命を既にはじき出したのだが、世の中混乱するから黙秘しているのか。
 しかしもし地球に寿命があるとしたら、あるいは人類最後の日がいつか必ず来るとしたら、私たちの生き方、生きる姿勢は根本から変わるのでは? たとえばちっぽけな、それも無人の島を巡って国同士が争っていることがどれほど馬鹿げたことかはっきり見えてくるであろうし、いまインドネシアかどこかで仏教徒とイスラム教徒が何百人と殺しあっていることが、どれだけ愚かで無駄(?)なことか分かるであろうに。
 世の終わりという事実あるいはそういう考え方を前に、人には大きく二つの姿勢があるだろう。もしも終わりがあるなら、それまでせいぜい自分たちの欲望を満足させることに邁進するか、それとも限りがあるからこそ馬鹿な争いをやめ、互いをいたわり、限りある資源を仲良く分かち合うか。さてどちらだろう? どうも確率的には、というより願いとして後者であってほしい。単純な性善説と言われるかも知れないが、人間存在に対してそれくらいの信頼は持ち合わせている。
 するといま地球上で愚かな殺戮合戦をしている前述のような人たちは、この世に終わりがあるとしても、自分たちの信じる神様(仏様?)がそれを許してくれるだろうし、自分たちには最終的に幸福な来世が約束されているなどの甘えからあのような愚挙に及んでいるのか。いやいやそんな小国のことを笑ってなんぞいられません。アメリカといわず、今世紀ばかりか前世紀、二つも世界大戦を繰り返した大国たち(その中に不肖わが国も含まれますぞ)も、神が自分たちを応援していると考えてるからこそ、あのように性懲りなく戦さをしてきたのだろうか。いつでしたか、どこかの政治家(首相でしたっけ?)は我が国は神の国だなんてことのたまいましたな。
 先日も言ったことだが、ボクサーが十字を切ってリング中央に出て行くようなことをやってきたわけで、考えてみれば笑止千万な話だ。いやいや戦争をするにはそれなりにのっぴきならぬ理由が……そう? そんなの屁理屈とちゃう?
 このあたりからちょっと支離滅裂になってきましたが、しかし原発事故以後、世の中、おかしなことがいかにもそれなりの理由があるかのように取りざたされていること自体が、実にグロテスクに見えてきたんですわまたもや埴谷大先輩の言葉をお借りすれば、実にグレーツ極まりないことが多すぎる。
 そんな折、たまたま(こじつけじゃありませんぞ、本当です)本棚の隅にポール・ジョンソンという人が書いた『神の探求―ある歴史家の魂の旅』(高橋照子訳、共同通信社、1997年)を見つけた。奥付けの上の鉛筆書きによると、息子が買ったものらしい。著者はイギリスの歴史家でジャーナリストでカトリック教徒ということだ。先ほども言ったが、たぶん震災前だったら次に紹介する「本書の目的」という冒頭の一文など、ふーんなるほどごもっともっすなー、と読み飛ばしたかも知れないが、今はこの手の文章にひっかかる、というより、正直言うと何を馬鹿なことを言っとるか、と怒りさえ覚える。ともかくこういう文章である。

 「…もし神が存在するなら、そしてこの世の生が終ったあとにまた別の生があるなら、その結果は重大だ。地上の生活の一日一日、それどころか一瞬一瞬がその影響を受けずにはいない。この世の生活は永遠の生にいたる準備段階にすぎず、つねに未来を念頭において暮らさなければならなくなる。一方、もし神が存在しないとしたら、その結果もやはり重大である。この世の生が唯一の生であり、自分以外のだれかに義務や責任を負う必要はなく、自分自身の利益や快楽だけを考えればよいことになる……」

 へーそうかいな? でもそんな簡単に割り切っていいの? ちょっときつい言い方になるが、あなたはそんな単純な理由で神の存在を考えてるの? ということだ。先だっても皮肉交じりに言ったことだが、世の多くの人(その中には大勢の有神論者が入っている)はあたかも神が存在しないかのように生きている、と言ったが、なるほど上述のような単純な理由で神を信じているんだったら、そりゃーリング上のボクサーよろしく、簡単に十字切って戦争をおっぱじめるわな。
 ちょっと話が込み入ってきたので、大急ぎで本当に言いたいことを言おう。つまり人間がこの世を真剣に、真面目に、有意義に、そして平和裡に生きるためには神存在を想定しなければならないとしたら、そんな神は余分である。つまり神を想定しなくとも、人間は充分に真剣に、真面目に、有意義に、そして平和裡に生きようと努めることができる、いやそうしなければならない、ということだ。だいいち、そんな理由で神様を担ぎ出したら、神様に失礼とちゃう?
 それにはいろんな理由があるが、まず神の審判を待たなくとも、人間の記憶の法廷という厳格この上ない審判が待っている。何? そんな法廷など極東軍事裁判並みのいい加減で恣意的な法廷だというのか。君、分かっちゃいないねー、私の言っている法廷とは人間一人ひとりが魂の奥底に持っている濁りの無い鏡のような良心でもあるし、たとえばこの間の仏教徒とイスラム教徒の無残な殺し合いの際に逃げ惑う幼い子供たちの恐怖に満ちた、しかし濁りの無い悲しみに満ちた眼差しという、どんな裁判にも匹敵する厳しい法廷のこと良心の存在から神存在の証明の道がある? そう、でもいまの問題はそれと少し違う。
 このあたり、必要な説明を外しているので(わざとじゃないが面倒くさくて)分かりにくくなりました。ともかく、このおじちゃん(自分としてはまだおじいちゃんではありませなんだ)、この世にあたかもそれ相当の正統な理由があるかのように罷り通っていることのほとんどに、心底怒っているのであります。何? あの天下のヒタチがイギリスの原発開発に乗り出した? ざけんじゃない、ヒタチのものなぞもう買わないぞ。何? 外務省はメスプレイ、おっと間違えたオスプレイの全国的な導入を提案してるだって? ざけんじゃない、沖縄の人たちがオスプレイに反対しているのは、基地存続そのものの象徴的存在として反対してるんだぞい……フガフガフガ、ガクガクガク、すみません瞬間湯沸かし器が壊れてしまいました、この辺で今日のところは終わりにします…
(影の声、だから言ったじゃない、長時間作動させるとぶっこわれるって……舞台暗転)


【息子追記】立野正裕先生(明大名誉教授)からいただいたお言葉を転載(2021年3月13日記)。

中身の詰まった文章ですからどこからでも相槌を打ちつつ対話に参加出来そうですが、取りあえずは項目の「渚にて」に目を引かれます。映画が公開されたのはわたしがまだ中学生のころでした。田舎町では劇場にかからず、後年新宿かどこかの名画座でようやく見ることが出来たのだったと思います。
メロドラマとしての感傷が批評家の不評を買っていたように記憶しますが、わたし自身はなんども見た映画です。グレゴリー・ペック扮する艦長の沈着な立ち居振舞いがよかった。映像にも目を見張りました。ジュゼッペ・ロトゥンノという名匠について知ったのは後年のことです。当時の特撮技術も駆使することは出来たでしょうが、ほとんどの場面が実写で、それだけに異様なリアリティが感じられました。無人と化したメルボルンの街頭風景のなかに新聞紙か広告ビラかが風に舞うというイメージが焼きつきましたが、数年前に映画に詳しい友人と語り合ったとき、確かに無人の街は映るが紙切れが風に舞う場面はないと言われ、さては自分で映像を改竄したらしいと思い苦笑したことでした。
オーストラリアの国歌ともいうべきワルツィング・マチルダの曲を覚えたのもこの映画のおかげです。
ところで、原作も英語と日本語訳を持っていたのですがいま見当たりません。おそらく岩手の書庫にでも疎開していると思われます。原作に掲げられているエリオットの詩は読んだことがあるようにも思います。出典をすぐには言い当てられない始末ですが「うつろな人間」ではなかったかと。「世界はこのようにして終わる。」
エリオットは第一次大戦後の西欧世界は終わったと見ていました。ヴェルサイユ条約も列強のまやかしにすぎないと見抜いていました。
映画製作当時は冷戦時代、キューバ危機より数年前ですが核戦争の危機に警鐘を鳴らすために作られた映画ですから、寓意は明白に切羽詰まったものだったわけです。

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鱓の歯軋り?

十年間ほとんど毎日(ではないか)、飽きもしないで(ん?、いや、時にはウンザリしながら)文章を書いてきた。だから人間と人間の関係、その複雑な感情の動きなどたいていのことはなんとか表現できるようになった(何たる自信過剰!)。そのため現実の困難にぶつかって二進も三進もいかなくなったときでも、書くことによってなんとか難局を乗り切って、いや、すり抜けてきた(それは本当)。しかしいま書こうとしていることは実に難しい。何がなにやら自分でも分からなくなり、途中で投げ出す仕儀になるやも知れぬ。その時はどうぞご勘弁を。
 さて何から始めようか。そう、昨日の午後、徐京植さんから韓国の著名な写真家・鄭周河氏の『奪われた野にも春は来るか』という分厚い写真集が送られてきた。昨年三月の大津波・原発事故後の被災地の風景を撮ったもので、ページを開くや否や、その見事な映像に引き付けられた。それは瓦礫の山とか防護服の作業員たちを撮ったいわば定番の現場報告とは違って、ここ南相馬のものも含めて、見慣れたのどかな田園風景や農家のたたずまいを撮ったものだ。しかし良く見ると、ほとんどの写真の中に人間の姿がない。そのあたりのことを徐さんが解説でうまい表現を使って説明していたが、いま手元に無いので正確な引用はできない。つまりのどかに見える風景も実は荒廃していたわけだ。
 写真集がいま手元にないのは、午後拙宅に来た西内君に貸してしまったから。端折って言うと、その写真集が送られてきたのは、南相馬で展示会ができないだろうか打診するためであった。二日前の電話でその話を聞いたときから、実は実現のためにお役に立てれば、と思っていた。実物を見てさらにその意を強めた。西内君も同様の感想を持ったようだ。こういう場合、実働部隊長(といって隊員はいないが)は西内君。今回もその例に漏れず、写真展開催の可能性を各方面に働きかけてくれることになった。
 ところで写真集のいささか長めのタイトルは、私には初めて聞く名前だが、朝鮮の詩人李相和(リ・サンファ、1901-1943)の詩の題である。序でだから少し長いがその詩全文をご紹介する。ネットで拾った訳文なので、もしかするともっといい訳があるのかも知れないが、これだけでも詩の素晴らしさは充分伝わってくる。


今は他人の地―奪われた野にも春はくるのか


わたしは全身に陽光を浴び
青い空と青い野が交わるところめざして
カリマ*のようなあぜ道を夢の如く歩いて行く

口をつぐんだ空よ野よ
わたしにはひとりで来たような気がしないのだ
おまえが誘ったのか誰が呼んだのか もどかしい 答えておくれ

風は耳元でささやき
一歩も立ち止まるなと裾をゆすり
ひばりは垣根越しの乙女のように雲の間で嬉しそうにさえずる

ありがたく育った麦畑よ
ゆうべ夜半を過ぎて降った美しい雨で
おまえは麻束のようなその髪を洗ったのか わたしの頭まで軽くなったよ

ひとりでも勇み行こう
乾いた田を抱いて流れるやさしい小川は
乳飲み子をあやす唄をうたいひとり踊り行くよ

蝶よ燕よ そんなに急かすな
たんぽぽや野の花にも挨拶しなけりゃ
ひまし油塗った人が草刈した野だからしっかりと見ておきたい

この手に鎌を持たせておくれ
ふくよかな乳房のようなこの土を
足首が痺れるほど踏みしめ心地よい汗をも流してみたい

川辺に戯れる子供のように
飽きもせずきりもなく駆けまわるわが魂よ
何を探しているのか 何処へ行くのか 可笑しいではないか 答えておくれ

わたしは全身に草の香をまとい
青い微笑と青い悲しみが交わるなかを
足を引きずり一日中歩く どうやら春の神霊にとりつかれたようだ

しかし今は―野を奪われ 春すらも奪われるというのか

   * 髪の分け目の白いすじ                                          ([朝鮮新報 2004.1.21]掲載)

 
 一見、美しい田園詩だが、これが書かれたのが1926年、つまりすでに日本の植民地となっていた朝鮮で作られたものであることを考えると、詩はとたんに別様の意味を帯び始める。すなわち底流する悲しみ、憂い、そして怒りが浮かび上がって来る。日本帝国に奪われた野…、そして今回の写真の被写体となった国策原発による事故で奪われた野…、両者はここで一気に結びつく。鄭氏がこの詩を写真集の題名に選んだ理由は明らかである。そしてそのことを徐さんは次のように解説する(写真集掲載のものと同一かどうかは知らないが、これもネットで拾ったものである)。

 この詩で福島を表象することにはどんな意味があるだろうか? 私はそこに積極的な意味があると考えるようになった。 “春は来るのか” という問いは “春は必ずくる” という根拠のない未来指向的標語ではない。 季節としての春は巡ってきて花が咲いたとしても、何かが決定的に損傷されたということ、“春さえ奪われるのだね” ということがこの詩の重要なポイントだ。
 日本政府と東京電力の説明でさえ原子炉廃棄までに40年という歳月がかかるという。その時まで放射能は広がり続けるだろう。 一方、汚染除去は技術的に困難で莫大な費用がかかる。 いっそ汚染された土地を放棄して移住を推進しなければならないという専門家の指摘もある。放射能被害は目に見えず臭いもしない。だが、それは未来の何世代にもかけて健康と生活に決定的な損傷を負わせ続けるだろう。 健康被害を確認できるのは今から数年後になるだろう。それが原子力発電所被害の本質だ。そうであれば‘併呑’されて100年が過ぎた現在も植民地支配による損傷が朝鮮民族全体の暮らしに決定的な影響を及ぼし続けている事実と共通点があると言える。

 昨晩、実は徐さんにもメールしたことだが、この解釈に99.9%共感しながらも、しかし私の中で何かが「軋む」。冒頭に書いた「難しさ」は実はこの辺のことである。さあ、この違和感をなんと説明しよう。
 以前、NHKの番組「心の時代――フクシマを歩いて」の時にも、99.9%の共感と同時に、小さい、しかし私にとっては大事な違和感があったが、それは今回のものと似たところがある。あの時の違和感は、あの映像の流れでは私は線量の高いところに、病妻その他の理由はあるにしても、いわば意固地に留まっていると思われる作りになっていた。ただし話の筋としてはその小さな齟齬を無視した方が分かりやすいのだろうな、と諦めたことがあった。
 それと似たような別の話をしよう。実は最近、ある新聞のインタビューを受け美子と一緒の写真も撮られた。しかし記事になる前の原稿を読んで、担当記者と意見の行き違いが生じ、結局私についての記事はボツになるということがあった。それは同じ記事の中で、もうひとりの人といわば同列に並べられたことへの不満がきっかけである。つまりそのもうひとりの人と原発事故後の姿勢、大げさに言えば生き方の違いにまったく触れられていないことへの異議申し立てだったのだが、それが記者氏にはたんなるイチャモンに思えたらしい。
 もう少し詳しく言うと、その人ならびに彼のグループは、南相馬市が年間1ミリシーベルト以下に除染されないうちは、緊急時避難準備区域〈あゝ懐かしい呼称!〉などの縛りを解除をしないよう署名運動をしたことに対して、まったく反対の意見だったからだ。私の主張は意味のない20キロ、30キロの輪切りを一日も早く見直すことであって、区域設定をそのまま存続させることには絶対反対だった。事実、もし彼らの運動が功を奏していたら、南相馬は今のように立ち上がることができないほどの致命的なダメージを受けていたと思う。
 あの児玉教授の発言やIAEAの天野事務局長の態度について私が書いた異議申し立ても似たような考えからだったが、しかしそれを理解してくれる人は少なかった。だから先日、上出氏と一緒に拙宅を訪ねてくれた織田桂子さんが、天野氏の態度は確かにおかしかったと言ってくれたときには、敵地で味方に出会えたように嬉しかった。
 さていま述べた二つ(三つ?)のことと、前述の難しさとどういう関係? 簡単に言えば、憂うべき現状を全否定するのではなく、可能な限りプラス要因を見つけ、それを手がかりに牛歩の歩みでもいい、希望に向けてじわじわと歩いていくこと…やっぱり説明がむつかしい。ある人から見ればそれは現実逃避、つまり現実を見ないでいたずらな夢を見て生きることだ、と言うだろう。それに抗弁することは、本当に難しい。
 まだ説明になっていない? そうでしょうなー。じゃ先ほどの徐さんの解説に戻ります。99.9%共感しながらも何かが「軋る」と書いたが、それは文中のこういう表現である。

「いっそ汚染された土地を放棄して移住を推進しなければならないという専門家の指摘もある。放射能被害は目に見えず臭いもしない。だが、それは未来の何世代にもかけて健康と生活に決定的な損傷を負わせ続けるだろう。 健康被害を確認できるのは今から数年後になるだろう。」

 この文章に異議申し立てなどできるはずがない。だからこそ「軋る」と言った。そう、まさに鱓(ごまめ)の歯軋りである。しかし歯軋りにもそれなりの理由がある。つまり事態がいささか単純化されていないだろうかという不満である
 確かに鱓ほどの小さな土地だが、その上で必死に生きている。しかし無謀にも、ではない、それなりに考え、これしかないだろうと思う最善の生き方としてこの地に生きることを選択した。絶対安全な選択ではないかも知れない。でもこの世に生きるうえで絶対安全な土地がどこにある? 地球上、人間を病や死から完全に隔離する場所などどこにも無いではないか。不遜な言い方、誤解を受けやすい表現かも知れないが、この地に踏みとどまり生活することは一種の賭けである。しかし人間にとって一種の賭けでない「生」などどこにある? 生は不確かさの中の絶えざる決断の連続ではないのか。
 線量の高いところならまだしも、私たちの住む地域にいまだ四割近くもの人が戻っていないのは、善意からのものではあるが被災地に対する放射能の一律の危険警告に影響されて、将来への過剰な心配を増幅させてきたからだ。確かに遠くから見れば、我が町は未だにピンクか赤に塗られた危険地帯に見えるはず。しかし私が早い段階から人体の例を使って主張してきたのは、幸いにもわずかながら健康な皮膚が残っていた、先ずはその上で生き始めようよ、ということだった※※。幸い現在、以前の生活を取り戻して元気に生き始めた人たちが確実に増えている。でも(私のように)表面はそう見えないかも知れないが、実は「必死に」生きている。だから善意からであれ一律に放射能の危険を告げる言葉を聞くたびに心のどこかで「軋る」のだ。
 今日の新聞を見ると、どこかの勇ましい老人が現職を途中で投げ出して国政に打って出るなどとホザイておられる。私からすれば、この地に踏みとどまって生き続けることより、何倍も、いや数千倍も「キケン」な方向へ事態がぐらり動き始めたと感じている。つまりその方がよっぽど憂うべき事態、未来に暗雲が垂れ込めかねない事態と映っている。
 春日三球照代の「地下鉄漫才」の言い草じゃないが、「それ考えると一晩中眠られなくなる」現実がすぐそこに迫っている。あゝ悪夢であればいいのに!
 案の定、意を尽くせないどころか、結局何を言いたいのか分からぬ駄文を連ねました。でも分かる人には分かってもらえると密かに信じてます。
 最後に、徐さん宛てのメールにも書いたことだが、原作者鄭周河氏の制作意図がどうであれ、氏の写真展を訪れる我が南相馬市民の大部分(と願っている)は、氏の素晴らしい作品から南相馬の未来への希望を読み取るであろう。同時に李相和の詩にも未来に対する密やかな希望を感じる、日帝の支配は「今は」ではあっても、永久に、ではなかったのだから。だから全国に先駆けてこの南相馬が写真展の出発地点・皮切りの地となることは実に意味のあることなのだ。開催されることを切に願っている、と。

★後日の追記
 これは私たちの住んでいる南相馬市が、被災地といえども被災の度合いが違う層が複雑に重なり合っている場所だからこそ見えている現実、だからこそ感じる不満かも知れない。つまり被災地一般という括り方に対する違和感である。
※※ 残っていた健康な皮膚、という喩えと同時に、私が常々言ってきたことは、放射能がサリンのように即死を引き起こす猛毒でも、ペスト菌のような伝染性のものでもない、という放射能の大事な特性についてであるが、話を分かりやすくするためなのか、なぜかいつも議論の中で忘れられている。極端な例を出せば、毎日放射線治療に当たっている放射線技師のことを考えてもらってもいい。


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する(2021年4月18日記)。

 ここに語られていることの前後関係のなかでいっそう明確になっていますが、阿部さんも重視しておられる「生は不確かさの中の絶えざる決断の連続」という一句、肺腑を衝かれる思いです。先生の思想の核をなすものが、おそろしいまでの圧縮度でこの一句に凝縮されている。もし旅の途上、路傍に立つ一つの石碑を見かけてそこにこの一句が刻まれているのを見たら、ついに出会うべき言葉と自分は遭遇したと思ったでしょう。
きょうからわたしの座右の銘とさせていただきます。

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からつ塾

古本整理も、ときに次のような大きな出会いに繋がることがあるので馬鹿にならない。ことの発端は、書棚の隅にあった『[トンネルの向こう側へ]』(思潮社、1984年)という地味な装丁の200ページほどの本である。題名に[ ]という括弧が付いているのはどうしてか気になりながら読み始めたのだが、小説としては実に風変わりな小説である。作者はマリアヘスス・デプラダ、訳者は大嶋仁。作者紹介によると1951年、スペインのサモラ市出身とある。巻末の訳者あとがきを見ると、1978年、バルセロナの書店でセルロイドの表紙にゼロックスコピーを束ねただけの粗末な原書に出くわして読み始め、たちまちその魅力に捉えられ、ついには翻訳までするに至ったということだ。
 実は私、まだこの小説を読み終えていない、というより読み始めて直ぐ、以下に述べるような出来事に遭遇して、そちらの方に関心が向かったのである。だからこの小説については、また別の機会に書くことにしよう。
 ところでわが国のスペイン関係事情については普通の人より少しは知っているつもりだが、この本の作者についてはまったく知らなかった。おっと申し遅れたが、この小説は日本文化との出会い、特に志賀直哉の文学との出会いに大きく影響されて書き出されたものらしく、だとしたら彼女(そう、名前から推してとうぜん女性である)について少しは調べてみるのが礼儀というものであろう。
 それでさっそくインターネットで検索。すると彼女、現在は日本に、それも唐津にある塾に関係していることが分かった。「からつ塾」というのがその正式名称で、さらに調べていくと、なんとそこには彼女だけでなく訳者の大嶋仁(ひとし)氏も講師を勤めていた!
 メディオス・クラブの精神を生かすには、将来南相馬に市民塾のようなものを作りたい、そこには私が埴谷・島尾記念文学資料館でやっていたような文学講座だけでなく、地元の歴史や文化や伝統についての講座、さらには外部から講師を招いての、大学並みの本格的な種々の講座のできる市民大学があれば、と思っていた。だから、この機会を逃さず、この「からつ塾」とお友だちになりたい、と思ったのである。
 善は急げ、とばかり「からつ塾」にメールを送りました。これまでの経験からすると、こうした問いかけにきちんと応えてくれる組織は滅多にない。地元の公共機関でさえ、ほとんどの問いかけは無視される。悪気はないのかも知れないが、要するにそうした問いかけにしっかり応じる仕組みができていないのであろう。たいそう大事なことなのに残念である。しかしこの「からつ塾」は違っていた。
 メールを送って数時間後に、塾の事務局長さんからお返事が届いただけでなく、いまカナダに出張中の大嶋ご夫妻にも連絡を入れます、との回答があったのである。で、その際、密かに私が想像していた通りの事実が判明した。つまりモントリオールで大嶋氏とご一緒の方こそがマリアヘスス・デプラダさんその人だったのである。その詳しいいきさつはもちろん知らないが、翻訳を通じて知り合い、ついには生活を共にするようになられたのであろう。めでたしめでたしである。
 そして何とその大嶋氏からもほどなくメールが届いた! そのメールの中で氏は次のように書いておられる。

 「南相馬の名前はニュースではよく耳にしてきましたが、そうした被災地においてこそ、知的なレベルを高める塾の活動は、実は非常に大事なことだろうと勝手ながら考えています。有形財産は災害で失われることがあっても、無形財産は永続するからです。」

 まさにその通り! 南相馬の真の復興は、経済的なそれよりも(もちろんそれも必要だが)精神的な復興、言葉の