島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月)

 

島尾敏雄との距離


佐々木 孝

 

 とても無神経で手前勝手な言い方に聞こえるかも知れない。しかし島尾敏雄を失って心の中にポッカリと大きな穴が開いたような寂しさ、無念さを感じると同時に、それとはまったく矛盾した感慨だが、私には以前より島尾敏雄がより身近に感じられる。彼の作品を読んだり、彼のことを考える時間が増え、雑駁な日々の中で彼との語らいが荒れた心を鎮めてくれる。

 島尾敏雄が出血性脳梗塞に陥ったことは、昨年の一一月一一日、夜七時半ごろ、相馬の母からの電話(令弟の義郎氏から知らされたそうだ)で知った。あまりに突然のことで、鹿児島に駆けつけるとか電話を掛けてみるといった現実的な才覚がいっさい働かず、ただ呆然としていた。この感じどこかで経験したな、と考えたら、もう二〇数年前、やはり敬愛していた叔父の死のときと同じであることに思いあたった。あの時も臨終の知らせを受けながら、北海道までの絶望的な距離の前にただおろおろするばかりであった。田舎の小さな大学での抜き差しならぬ雑用も鹿児島に駆けつけることを思い留まらせた。ただ長男の伸三さん夫妻が仕事で香港に行っており、八方手を尽くしているが、どうしても連絡が取れないというのが大いに気掛かりであった。もちろん何かとお世話くださる方々にはこと欠かないであろうが、ミホさんとマヤさんがどれほど心細い思いをしているか、それを思うと心が痛んだ。
 次の日の夜九時ごろ、小川国夫氏夫人から、いま出版社の人に脳死の状態になったことを知らされたが、とお電話があった。いまから思うと、この電話を受けてから一時間後に島尾敏雄の霊は天国に召されたことになる。
 翌一三日の朝七時ごろ、相馬の母からの電話で彼の死を確認した。朝刊を見ると、彼の死が報じられていた。あまりにあっけない死で実感が湧いて来ない。ただミホさんの深い悲しみだけが現実的なものとして意識を占めていた。
 彼の死からちょうど一〇日後の二二日、ようやく時間がとれて家内と二人で鹿児島に行った。そのときの様子は、めったに日記などつけたことのない家内が詳細に記録しているので、そこから借りることにする。

「空港に降り立つと、まるで夏の日差し。周辺の蘇鉄の植え込みが南国に来たことを感じさせる。リムジンにて鹿児島市内まで約五〇分。途中、以前島尾さんが住んでおられた加治木と吉野を通る。街なかに入ると景色全体が何となく薄汚れた感じを受けたが、これは後になって桜島の噴火の際の降灰であることがわかった。西鹿児島駅でリムジンを降りタクシーを拾い宇宿町の島尾宅に向かう。途中、花屋さんの前で止めてもらい、白菊とかすみ草の花束を作ってもらう。約一〇分で宇宿の商店街をちょっと入ったところの島尾さんの家に着く。石垣と松の植え込みをめぐらした二階建ての大きな家。インターホーンで案内を乞うと伸三さんの奥さんらしい人の声。玄関に入ると、ミホさんが出てこられた。『タカシちゃん、敏雄さんは死んじゃったのよ』と細い高い声で歌うようにおっしゃる。何の挨拶の言葉も出て来ず、ただおじぎをくり返した。玄関に入って左、応接間と書斎をかねた洋間に隣りあった日本間の片隅にローソク一本とひとかかえの白菊の入った壺、そして高く積まれた弔電だけで飾られた敏雄さんの写真。つつましく美しい祭壇だった。昨年一二月に越してこられた現在の家の書庫でミホさんと一緒に蔵書の整理中に気分が悪くなり、その場で数冊の本を枕がわりにあてて横たわり、救急車を呼んだそうだ。そのときの軍手とメガネ、そしてはいていた靴の片方はそのまま書庫の床に置かれたままであった。
 ダンボールの箱の上に腰をおろして『少し疲れたから休んでいいですか?』と言いますので『それじゃ私も一緒に休みましょうか』と答えてフッと顔をのぞきますと、とてもさびしそうな顔をしていますので、『そんなお顔なさると冗談でもびっくりするじゃあありませんか』と私言ったんです。でもその時、もうくちびるが真っ青でしたので、とにかくかかえて床に寝かせて救急車を呼びました。救急車に乗りますとき、『お父さま、メガネはどうなさいますか?』と聞きましたら『メガネは置いてて下さい』と申しました。一一日の夕方、パジャマの替えを取りに病院を出た頃はもう意識がなかったのではないかと思います。脳死の状態でした。一一月の一一日は敏雄さんのお母さまの命日で、今年も義郎とゆっくりお母さんの話でもしたいね、と言っておりました。特攻隊の出撃がとりやめになったのも一一日でしたので、ああ、お母さんが守ってくれたんだと思う、といつも敏雄さんが言っていました。ですから一一日という日が私はこわいような気持でした。どうぞ助けて下さいと祈っておりました。でも、お母さまの命日の日に死んだなんて……私は脳死状態になった一一日が敏雄さんの本当に死んだ日だと思っています。いつも敏雄さんはミホより一日でも一時間でも後に死にたい、ミホに悲しい思いをさせたくない、と言っておりましたのに。私はマヤさえいなければ今すぐにでも敏雄さんのところに行きたいんです。でもマヤのために、……。あの写真とても若々しいでしょう。お医者様にいつも島尾先生の身体は三十代ですと言われていたんですよ。髪も黒くて、白髪が出ると、私、毎日その白髪を根元からハサミで切っていたんです。時には三時間もかかることがあったんです。そして顔もガーゼに石鹸をつけて毎朝、私が洗ってやりました。時々『ミホ、今日は寒いから自分で洗ってもいいですか』と申しましても、『ダメダメ』と言って洗ってやりました。旅行に出てもしょっちゅう電話をくれて、そして『一人で旅行するのも二週間が限度だね』と言っていました。ようやく気に入った家も見付かって、ここでマヤと三人でひっそりと暮らしておりましたのに。『ミホのために、ミホさえよければ。家族のためなら文学もいらない』と言っておりました。でも私は、ああもすればよかった、こうもしたかったと思い残すことはありません。
 夜、お寿司と、登久子さんが作ったステーキをごちそうになりながら伸三さんと三人で話す。ミホさんはマヤさんたちと食堂で食事をしていたようだ。口数は少ないけど面白い人だと思う。『お父様によく似ていらっしゃるのでびっくりしました』と言うと『違いますよォ』と言う。『もう飲んだくれてひどいものです』と静かに言う。『母はあのように父の身体は別にどこといって悪いところはなかったなどと言っていますが、実際はいつ死んでもおかしくないくらい全部がガタガタだったんですよ。僕はわかっていました』
 八時過ぎ失礼する。タクシーに乗り込んでから後を振り向くと、暗い門の前でマヤさんがつま先立って右手をまっすぐに伸ばして手を振り続けていた……」

 その夜は鹿児島のホテルに泊まり、翌日、鹿児島を離れる前に、昼ごろもう一度お宅に伺った。ミホさんは頭から黒いベールをかぶり、黒い裾長のドレス(イヴニングドレスとして敏雄さんが作ってくれたとのこと)で盛装して待っていた。玄関脇の書庫、二階の書斎など案内してもらった。書庫にはまだ未整理のままのダンボールの箱が相当数残っていたが、本が取り出された箱は几帳面に畳んで重ねられていた。昨夜ミホさんが言ったように、彼が倒れた場所に眼鏡や軍手がそのままになっていた。おびただしい数の蔵書には、おそらく南島関係のものがかなり混じっていたように思われる。

 ところで編集同人から求められたのは、島尾敏雄追悼の文章である。その趣旨に添うことになるかどうかは分らぬが、この機会を利用して彼との出会いから現在まで交流を振り返ってみたい。かつて筑摩書房版の『島尾敏雄・安岡章太郎・庄野潤三・吉行淳之介』の月報にも書いたように、彼との最初の出会いは私の幼児期に遡るが、本当の意味で彼と出会ったのは、昭和三九年の夏であった。そのころ私は広島市郊外長束のイエズス会修練院にいた。二年間の修練のあと、ラテン語・ギリシア語やキリスト教史の勉強のかたわらそれぞれの希望で自由に本が読めるようになったとき、私は現代日本の文学に興味を感じ、小さな図書館にあった作品をいくつか読み始めた。そしてそのとき初めて彼に手紙を出した。彼からは同年一〇月二二日の日付けで次のような返事を受け取った。
 「お手紙ありがとうございます とてもなつかしく拝見しました 同封の写真もありがとう 昭和十六、七のころでしたか、千代ちゃん夫婦と一郎ちゃん夫婦(まだ結婚したばかりでした)がそれぞれ満州と蒙古に移住するときのことを思い出したりしました そのとき九州大学の学生だった私と博多航空隊に居た健ちゃんとみんないっしょに会って別れを惜しんだのです そのとき私が写したスナップ写真がのこっていますが まだ小さなヒロシ君とミチコちゃんが(名前がちがっていませんか、心配ですが)夢中になって走っているところです あなたはそのときまだ生まれていなかったと記憶します〔註 実は昭和十四年の生まれであるからそのときいたはずだが、小さくて気がつかなかったのであろう〕 その後私は熱河省欒平県鞍匠屯まで千代ちゃんをたずねて行ったこともあります
 みんな過ぎ去りましたが、ヒロシ君はすでにカナダで神父様になり またあなたはイエズス会で修練なさっていることを知り、なんだかうそのようです
 私は奄美にきてからカトリック信者になりましたが 妻の一族が明治の中ごろからの信者で自然オミドウに通うことになって洗礼を受けました
 千代ちゃんの実家の安藤氏はキリスト教の氏族だと子供のとききかされて、不思議な気持を抱いていましたが、キリシタンだったのでしょうか、などと思っています
 私の小説を読んでいただき、本当にありがとうございました
 私は文学のことなどよくわからずに書いてきましたがいつも手の力が及ばずにいます ただ一足とびに西欧の文学の方法を使うことに疑問を持ち、と言って日本の文学伝統にもあきたらぬもの、よくわからぬところがあり、手さぐりで立往生というところです。
 いつも両極に引っぱりっこしているものをいっしょにつかみとろうとしているようにも思い、うまく行きません
 日本の伝統をふまえて超日本的なものに生い立つ、という御意見は私も賛成です 善蔵と直哉の名前をあげておいでですが、きっとあなたは近代日本文学の上の私小説の問題にぶつかっていらっしゃるように思います その系譜が妥当かどうか私はよく読んでいないのでちょっとはっきりした見通しがつきません
 私のことについてはとても自分で言うことはできませんが 日本の土着性という湿地に足をとられながら、やはり普遍的な世界にぬけでて行きたいといつも思っています ただし逃げ出すのでなく
 長いあいだ九州に住み(長崎や福岡、佐世保、奄美)私は九州のもつ日本的要素にいつもぶつかり、そして東北的な気質というものを対蹠的に思い浮かべている状況です、ちょっと大ざっぱですが そうすると先の善蔵も直哉も東北的環境の出身であることが面白いと感じました しかし系譜をつくるには私はちょっと材料の持ち合わせが少ないです
 手紙ではうまく書けませんね、ゆっくりおはなしし合いたいものです
 でもこれからも時々おたよりを下さい
 伸三は熊本のマリスト学園高校一年です(マリスト修道会経営)寮にはいっています
 マヤは今 家に居て中学(二年)に通っています
 ミホはマヤに言語訓練をしています
    十月二十二日                          敏雄
孝様
 日本の現代文学研究上のことで何か私でも役立つことがあればいつでもお手伝いしたいと思っています」

 そのころ私の方から何を書き送ったのかまったく記憶にないが、彼からの手紙は彼の人柄を示す実にていねいな字で書かれている。さらに翌年二月には次のような返事をもらった。

「二度目のお手紙へ返事と思っているうち、三度目のお手紙いただきました
 去年は十一月中旬から十二月まで沖縄に行き そのあと風邪をひいて寝込んだまま歳を越しました それでおくれたのですおゆるし下さい
 ぼくのものを色々よんで下さってほんとうにうれしいです ぼく自身全く手さぐりで小説を書いていると言っていいですが、ぼくもやはり純粋に文学的な立場など考えることができません どちらかというともっと別なところで仕事をしながら(もちろん文字を使っての表現のわざになりますが)結果的にそれを文学と見られるなら それでよいと思ったりしています といっても文学以前のところで未熟ですので少しずつでも充実させたい気持ちです
 試論を書いて下さった由、いつかどこかでそれが拝見できることを待っています どうかかしゃくのない槍でぼくの書いたものを貫いて下さい 作品集の三は絶版になっていますので、手もとにあるものを別便でお送りしました その後 新潮社から出してもらった短編集『出発は遂に訪れず』があるだけです まだ本になっていない短編がそのあとに三四篇あります
 伸三はどの方面に進むやらまだ混沌としているようです ミホの一族は信者が多く、ミホも生まれるとすぐ洗礼を受けていました 伸三は小学校の二年のころの受洗ですが ずいぶん深くカトリックのことがはいっているように見受けられます ぼくは自分の身うちから二人も神父様が出るのでとてもほこりにしています どうかぼくたち家族のために祈って下さい 取急ぎ御返事したためました
 沖縄旅行の手記を同封してみます
    二月十三日                       ペトロ敏雄より
アシジのフランシスコ・孝様                        」

 二通も彼の手紙を引用したのは他でもない。ここには、血の繋がった若い神学生に対する期待感と、未熟な文学青年に対する彼のやさしい心遣いが実によく表われているからである。事実、その後、彼は上京のたびに彼の友人である作家や評論家に私を引き合わせてくれた。埴谷雄高、安岡章太郎、吉本隆明、奥野健男、森川達也、三枝和子、などの諸氏である。もちろん小川国夫氏を紹介してくれ、『青銅時代』の同人になるきっかけを作ってくれたのも彼である。昭和四一年の夏には、名瀬の彼の家に約一月押しかけたこともある。いまその当時の日記を初めて読み返してみたが、実に手前勝手な客人だったことが思い返されて火の出るような恥ずかしさを覚える。東京から彼のアメリカ人の知人の二人の男の子を同道しての訪問だったが、和室の彼の書斎兼寝室で約一月間、彼と一緒に過ごした。確かベッドがあって、それも私が占領したのだったか。いや、私はその横の畳の上に布団を敷いて寝たのだったか。文学づいた聖職者の卵の独善的な姿が目に浮かぶようだ。もっとも何日間か彼は出張で家を留守にしていたはずだ。名瀬市郊外の空港に見送りに行ったか迎えに行ったときの記憶がある。しかしそれにしても大変迷惑な滞在者だったのに、彼やミホさんの好意に甘えっ放しで、何も見えていなかったとしか言いようがない。
 ともあれ彼としては私が聖職者の道をまっとうに歩くかぎりにおいて、文学の勉強を手伝ってあげよう、という気持だったと思う。しかしその間の事情は省略するが、私の方は、翌年その期待を見事に裏切ってイエズス会を退会してしまった。昭和四二年一一月、還俗の決意を奄美に知らせたとき、彼は国内にいなかった。年譜を見ると、一〇月末から一二月中旬にかけてソビエト、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、オーストリアへの「東欧への旅」をしていた。留守宅のミホさんからは驚きと思い遣りに満ちた長文のお手紙をいただいた。「….御便りを戴きました時、大きなショックで文面を拝見しながらマヤと二人で涙をポロポロとこぼしました。決断を下されるまでの御気持御拝察申し上げられてなりません。御便り読み終ってすぐ、お苦しみのさなかの孝ちゃんの御声なりと…と存じましてすぐ電話を申し込みまして夜十時過ぎまで図書館の電話口でマヤと二人で通話をお待ちして居りましたが一向に東京への通話が通じませず、マヤが『十時が修院の門限ですから消灯も十時かもしれないから、お電話があまりおそくなっては孝御兄さまに御迷惑かもしれない』と申しますので、通話を取消して家に帰りました次第でございます」。
 次の一二月一五日付けのミホさんの手紙には、「敏雄さんを迎えに横浜迄いらして下さってありがとうございました とてもよろこんでいました」とあるが、私にはその時の記憶がすっぽり欠落している。一一月一二日には上石神井のイエズス会神学院を出て相馬に帰郷しており、一二月のおそらくは一五日の彼の帰国を上京して迎えたはずなのだが、そのとき初対面で以後一度も会ったことのない弓立社の宮下氏のことはぼんやり記憶しているのに(もっとも名前だけで顔の方はまったく覚えていない)、肝心の島尾敏雄の姿、そのとき交わしたはずの会話は何も覚えていない。いや、黒い鞄を肩から下げてタラップを降りてくる彼の姿が切れぎれに浮かんできたが、会話の方はどうしても思い出せない。それ以後の彼の手紙で私の還俗のことは一切触れていないから、そのとき彼がなんらかの感想を述べたはずだ。ローマンカラー無しで迎えた私の姿を見てすべてを察し、おそらく励ましの言葉をかけてくれたに違いない。
 翌年一一月、私の方は早くも結婚。その時、彼に仲人になってくれないか、などとまたまた無理難題をふっかけている。結婚式出席は無理だが九月初旬に札幌での全国図書館大会への出席の帰途、相馬に寄るからとの返事があり、事実その通りになった。
 翌四四年、あの自転車事故という災厄が彼を見舞う。しかしそのころから私の方もいろいろと不如意のことが続き、彼の気鬱が徐々に悪化していたのに、それを気遣うだけの心の余裕もなかった。実は昨年秋、彼に死が訪れる直前まで、私は出たばかりの『続日の移ろい』を読んでいた。そしてその当時の彼の日々をいろいろと思い巡らしていた。
 ところで、私が結婚して大学の教師を生業にするようになって安心したのか(もちろん自転車事故以後の「日々の移ろい」をじっと耐える必要があったからでもあるが)、以後彼からの手紙は間遠になった。しかし心のどこかで気になっていたかも知れないことは、『夢日記』の昭和四五年の次のような箇所からもうかがえる。

「 一月三日
 孝
 何かインボー発覚。彼関係していて処罰されることがきまっている。彼と会い、つい彼の行動に同情的な言葉を出す。もっとくわしくききただしたい様子。しかしそれはまだ時が来ていないのでぼくは言えぬ。あいだにへんな『時』がはさまった。言わぬと彼を裏切る事になると思う。
 彼を避けて逃げる。そばを通っても気づかぬふりをする。町歩き。城下町のようでもある。ふもと町のような所。彼は何人かとやってくる。隠れるように避ける。何とか決着つけなければならぬと思う。」

 私にとって彼の文学に触れたことが本当の意味での人間発見に繋がり(広島の修練院で彼の作品を初めて読んだ時の強烈な印象は今でも鮮明に覚えている)、それが聖職者への道を断念する一つのきっかけとなったことは否定できない(そしてそれは島尾敏雄に対する私の深い敬愛と感謝の念の根源にあるものだが)。しかしもしかすると、それが彼にとっては一つの負担であったのかも知れない。少なくとも彼がそのことを気にしていたらしいことは、今回鹿児島でミホさんから聞くことができた。
 没後一ヵ月の一二月一三日、上智大学の小聖堂で行われた追悼ミサの翌日、家内と私は、お茶の水の山の上ホテルに投宿していたミホさんとマヤさんを訪れた。ロビーで待っていた私たちの前に現れたのは外出姿の二人の姿であった。これから高輪の泉岳寺に義士祭を見に行こうという。敏雄さんが生前、機会があったら義士祭に行こうと言っていたそうで、いい機会だから一緒しようというのである。身も心もズタズタになるような心痛の日々を送ってきたミホさんたちにとって、おそらくそれが故人を偲ぶ本当の意味での追悼の行為なのだと心から納得して、さっそくタクシーで泉岳寺に向かった。その途次、車の中でミホさんがふと「孝ちゃん、八王子の純心で教えたら」と言う。実は鹿児島の彼の家を訪ねたとき以来、頭にこびり付いて離れぬ一つの妄想があった。それはもし可能なら彼が最後の職場とし、そしていまマヤさんがその図書館に勤める鹿児島純心女子短大に移れないだろうか、という考えである。それによっていままで果たせなかった恩返しが少しでも可能だなどと思い上がっているわけではない。ただできるだけ彼の世界に近付きたいがために他ならない。しかし現実的に考えてそれが無理なことは初めから明らかであった。それに、頼りになる伸三さんと登久子さんがいるのに、それはあまりにも出過ぎた行為である。
 車の中のミホさんの言葉はそうした私の気持ちを察してくれたものだったと思う。そのときは現実味のないものだったが、しかしその後、思いもかけない筋からの接触があり、近い将来それが現実のものとなりそうだ。三月末、八王子の純心を訪れた夜、ホテルからミホさんにそのことを報告したら、敏雄さんの取り計らいかも知れないね、と言う。実際、今回の推移には、彼の影が感じられてならない。同系列の短大に勤めたからといって、鹿児島に近くなるわけではないが、彼をいまもって深く敬愛する修道女たちの経営する職場で働くことはともかくも私の心を慰める。そのときお会いしたシスター・ユーゼニアが「島尾先生は私にとって実の父親以上に父親みたいな人でした」と、ふっと涙ぐみながら話してくださったのが印象的である。小川国夫氏夫人の話によると、この九月から小川氏も鹿児島純心に集中講義に行かれるそうだ。こうして私にとって純心聖母会発祥の地である長崎そして鹿児島がにわかに身近なものになって来たし、それは同時に島尾敏雄の世界に近付くことにも繋がる。そしてこれが私にとって島尾敏雄に対するいちばん相応しい距離ではないか、と思っている。つまり近過ぎもせず遠過ぎもせず。

 八王子訪問の後、足を伸ばして相馬の彼の墓に詣でた。酷しい寒さが去って、相馬にも春が訪れていた。牧歌的な風景の中にも、しかし浅薄な都会文化の波が押し寄せているのか、小高い墓所へと通じる一本道の途中に、冗談のように突如、邪悪な看板を掲げたモーテルがあったりする。おそらく墓の中の彼も苦笑しているであろうが、しかし彼はこの卑小な現実からけっして逃げ出さないであろう。「日本の土着性という湿地に足をとられながら、やはり普遍的な世界へぬけでて行きたいといつも思っています ただし逃げ出すのではなく」彼の存在が濃密に感じられる場所はと言えば、もちろん彼が後半生の大部分を過し、その文学的営為の前線基地となった南島奄美大島であることは間違いないが、彼の今でこそ言える「晩年」に、彼の郷愁を烈しく掻き立てたこの東北の一隅にも彼の気配が濃厚に感じられる。だが私にとって島尾敏雄はいまや遍在し、そしてよりいっそう身近な存在となった。
 島尾敏雄の霊よ、安らかに憩わんことを!


『青銅時代』第二十九号 島尾敏雄追悼(1987年11月)

 

渡満前、博多にて
昭和16年5月、旧満州に渡る直前の写真。相次いで渡る母方の叔父夫婦、博多航空隊にいた叔父、九州帝大在学中の敏雄さんと一緒の記念撮影。

【息子追記】父は祖母千代に抱かれている。祖父稔は長髪の学生服の島尾敏雄さんの隣。眼鏡をつけた背広姿。
博多の街を走る兄と姉
満州に渡る直前。今は亡きC叔母の姿も見える。私はまだ走るまでには大きくない。

※キャプションは父のもの。おそらくこれが島尾氏が撮ったスナップ写真か。

8. 島尾敏雄の中の東北 (1967年)

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スペイン語版佐々木孝作品集『平和菌の歌』原本から「あとがきに代えて」

 

あとがきに代えて 
東日本大震災・原発事故を被災して

 

 ソウル大学「統一平和研究所」の金聖哲教授から研究所の皆様宛てのメッセージを、それも学術論文ではなく(もともとそれは私には無理でしたが)、今回の原発事故被災者の一人として何をどう考えているのか、率直に書いてもらいたい、さらには会議に参加するようにとのお誘いを受けたときは、大いに喜び、そして光栄に思いました。ただし会議出席の方は家内の介護のため断念しなければなりませんでしたが、このメッセージを訳された韓南大学邢鎭義教授が私の代わりに出席してくださることになったので、邢教授には大いに感謝し、そして研究所に対してはこうしてご好意になんとかお応えできることを嬉しく思っております。
 本題に入る前に、貴国ならびに皆様に対する私の率直な思いをお伝えしたいのですが、これについては拙著『原発禍を生きる』の韓国版や京郷新聞のインタビューなどですでに語っておりますので繰り返しを避けます。しかし、原発事故のあとの思わぬ展開の中で、在日の方々や韓国の友人たちとのお付き合いが始まり、長年の願いがこの歳になってようやく実現したことを心から嬉しく思っていることだけはぜひ申し上げたいと思います。
 さて本題に入ります。といって、国際政治や平和問題に造詣の深い諸先生方に対して首肯に値する卓説を用意しているわけではございません。ただ二〇一一年三月十一日のあの東日本大震災・原発事故によって私たちの住む、福島第一原発から25キロほどの地帯が最初は屋内退避区域、次いで緊急時避難準備区域に指定され、思っても見ぬ災禍に見舞われましたが、その渦中で考えたことのいくつかを、それこそ無手勝流に申し上げるだけであることをどうぞ御理解ください。
 いま無手勝流などという言葉を使いましたが、もともとこの言葉は塚原卜伝という剣豪の「戦わずして勝つ」という戦法を指していますが、私の言う意味はそのような高等戦術ではなく、何の戦略も武器も無しに素手で立ち向かう徒手空拳と同じ意味です。実は今回のお招きに応じることだってそうですが、原発事故に遭いながらも、そしてその廃絶を目指して残り少ない人生を賭けようと思いながらも、私は未だに原発の仕組みや歴史、さらには放射能と放射線の違いという、今では小学生でも知っていることすら知らないし、この先知ろうとも思っていないのです。
 つまり事故以前から原発には最初から反対しましたが、その理由は実に簡単明瞭でした。要するに核エネルギーの平和利用とか安全利用などというのは実にいい加減な詭弁であり、その廃棄物の安全確実な再利用法が完成しないうちに見込み発進したこと自体言い逃れようのない愚挙である、という実に単純明快な考えからでした。物理学や放射線学を修めた最高の知性集団に、素人の私にも一目瞭然のこの事実がなぜ分からないのか、未だに大きな謎です。
 一つ考えられるのは、彼ら専門家集団・推進者の思考回路には、それがなければ人間の理性がいつか踏み誤る回路、すなわちスペインの哲学者オルテガの言う「往還の回路」が欠落していた、いや今なお欠落しているのでは、ということです。つまり科学研究の場合で言うと、いま研究している対象が人間の生にとって果たして最終的に有益なものかどうかを、絶えずフィードバックする回路です。この場合大事なポイントは、作業の一貫性とか効率性ではなく「人間の生」にとって有益か、という一点です。それがなければ悪しき意味でのスコラ哲学的迷走を始めてしまいます。よく引き合いに出される中世ヨーロッパの笑い話に、煩瑣な哲学論議の果ての、あの「針の尖に天使は何体とまれるか」というのがありますが、それと同じ迷走を演じてきたのでは、と考えています。
 先ほどは無手勝流という私の基本的な姿勢を述べましたが、別の言い方をすれば物事を根源から見るという立場でしょう。つまりラディカルな見方です。政治的な訳語としては過激派と訳されるかも知れませんが、生来ノンポリ(非政治的)の私ですから、ラディカルという言葉の語源の根っこ(ラテン語の radix )をもじって根っこ派と自称することもあります。時にそれを「奈落の底から」とか「魂の重心」などと表現して来ましたが、すべて同じ意味で使っています。別言すれば物事をその生成の瞬間・状態において(ラテン語で言うところの in statu nascendi あるいは in fieri )見る、立ち会うということです。
 原発事故のあと、外出も控えての籠城生活を余儀なくされた一時期、次々と流されるテレビの画像を見ているときに、とんでもない発見をしたのもそうした視点に立っていたからです。いや発見などと大層なものではなく、実は誰もが知っていて、それでいて気づかない或る重大な事実、すなわちこの世界は投機で動いているという厳然たる事実です。大津波や原発事故関連のニュースのあと、画面が切り替わって、アナウンサーは事も無げに「さて今日の株式市場は…」と続けたのですが、それまでは何とも思わなかったこの流れが実に奇妙で理不尽なものに思われたのです。事故や戦争の結果、株価に変動が生じるのはいつものことですが、しかし良く考えてみるとその原因と結果が、ちょうど鶏と卵の連鎖関係になっていることが分かります。つまり戦争があったから株価が変動するのか、それとも株価の変動を見越して戦争があるのか、それこそ綾目も分かたずに繋がっているのですから。世界がこういう動き方をするようになったのはいつからでしょう。経済学にはうとい私には分かりかねますが、しかしそれほど遠い昔からのことではないはずです。極論を言えば、この世は理想とか信念、あるいは人間の善意などによって動いているのではなく、投機あるいは投機心で動いているというなんとも味気なくも情けない現実です。
 もちろんこのような世界の仕組みを元に戻すことなど不可能です。しかし少なくともその事実をしっかりと認識し、これ以上おかしな事態に進まないように、皆が知恵を出し合うことが必要でしょう。
 そういう意味からすれば、9.11というもう一つの悲劇の日に、世界貿易センターがテロの標的になったのも、絶対に許されないことではありますが、それなりに理屈には合っていたわけです。つまりテロリストからすれば、アメリカ主導の世界経済の動きに対する異議申し立てでもあったわけですから。
 以上が震災・原発事故の直後に考えたことの一つですが、もう一つそれに負けず劣らず根源的な問題がありました。それは私たちにとって「くに」とは何か、という問題です。つまり元はと言えば国策によって生じた事故で、それまでの日常が一瞬のうちに崩壊しましたが、その奈落の底で見えてきた問題です。そして事故後から踝を接するように次々に起こった領土問題、従軍慰安婦問題、さらには沖縄の米軍基地問題などでこの難問はより一層深刻かつ焦眉のものとして迫ってきました。
 この政治問題を国内的側面と国際的側面とに分けることなど不可能なくらい両者は分かちがたく連関していますが、今は便宜的に分けて考えてみます。まず国内的な問題としては、この事故によって原発が国のエネルギー政策によるものであることを改めて認識させられただけではなく、原発は決して国民の安全・幸福に役立つものではないという苦い現実が突きつけられました。とりわけ日本のような地震多発国にとってこれだけの数の原発を設置したことは、ちょうどいつ暴発するかも分からない爆弾をやたら抱えこんでいるようなものです。しかも福島第一原発の事故が汚染水の処理など未だに収束からほど遠いのに、現政府は多数の国民の不安や反対を無視して再稼動に踏み切ろうとし、さらには海外への輸出さえ断行してきました。
 問題は、こうした政権に対して国民の意思をどう反映させるかです。選挙制度の見直し、中央政府と地方行政のバランスつまり地方分権の問題、などなど課題は山積しています。しかし事故後、私にはそうした政治問題の根底に横たわるもっと大きな問題が見えてきました。私はそれを国民それ自身の中に広がる液状化現象と呼んでいます。今回の大地震によって近県にもまたがる広い地層内部での液状化が問題になりましたが、それよりも深刻な魂の液状化現象のことです。ですから事故後しきりに叫ばれた「絆(きずな)」と言う言葉が実に空疎に響きました。人と社会、人と人を結んでいたと思っていた繋がりがいたるところで断ち切れていたからです。自分の目で見、自分の頭で考え、そして自分の心で感じる者たちの強い繋がりではなく、危急の時にはたやすく切れてしまう軟弱な社会であったことが露呈したのです。
 たとえば事故後の最初の国政選挙であった参院選で福島県は一人区でしたが、自民党候補者が圧勝しました。そこには自民党議員でありながら脱原発や廃炉を訴えるというサギまがいの戦術があったとはいえ、被災民自身の意識が低く、そして当然感じるべき怒りが極めて希薄で、調子のいい言葉にたやすくなびいたということです。日本人は我慢強く、助け合いの精神に富んでいるという評判の実態は大いなる買い被りだと言わざるをえませんでした。上は事故後の行政の対応の仕方から、下は日本郵政や銀行その他の社会構造のいたるところに、平常時には見えなかった脆弱さ、もっとはっきり言えば「想定外」という言葉に代表されるような、あらゆる局面での責任逃れの構図が露呈したのです。
 南相馬市の南部は小高区といって最初は警戒区域として立ち入りが出来ませんでしたが、現在はそれも解除され、大部分は私の住む原町区とほとんど変わらない低線量の地帯です。しかし現在もなお無人境のままです。私の母方の親戚が多く住んでいましたが、彼らは今なお仮設住宅や遠く離れた他県に暮らしています。私は時おり人を案内して小高に行くことがありますが、そんなとき、やり場のない不思議な怒りを覚えます。そして内心こう叫びます。私だったらもうとっくに住んでいるぞ、と。
 私は敗戦の時は6歳で、家族は旧満州の熱河から引き揚げてきました。父は敗戦の二年前、治療する医師もいないその僻地で病死しました。ですから当時の日本人の苦しい生活を知っています。国自体が崩壊したわけですから、国にも誰にも頼れず、しかもその日その日を必死に生きなければなりませんでした。食事にありつけるだけで御の字と思っていました。
 しかしいま被災地の人たちに当時の日本人の生きる力・気力は微弱にしかありません。震災後、暴徒化したり略奪行為に走ったりするようなことはありませんでしたが、しかしそれとは裏腹に、未だに自力で復興する気のない、すべてを「お上」まかせの依存体質の国民になっていました。つまり遵法精神とか法治主義というより、自ら考えることをしない国民、言葉は悪いですが馴化・家畜化された国民に成り下がっていたのです。
 こうしてすべてが国まかせ、補償金待ちの状態ですからストレスが蓄積していきます。長らく沖縄でPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療に当たってきた蟻塚享二医師は昨年から隣の相馬市でメンタル・クリニックを開院しましたが、その彼によると、いま被災地で問題になっているのは放射能禍ではなくストレス症候群である、と明言しています。私の見立てもそれに近いです。
 こう考えてきますと、単に被災地だけでなく国そのものの真の復興のためには政治の仕組みや選挙制度を変えることなどでは足りず、国民一人ひとりの覚醒が必要だということが分かってきます。でも悲観的なことばかりではありませんでした。事故後、ちょうど液状化した地層の所々に打ち込まれたパイルのように、更なる液状化を止める頼もしい人たちがいたことも嬉しい事実です。社会全体の液状化を止めるこうした有意の人を育てていくこと、それがもっとも肝要なことだと思います。
 私は長らく教師をやっていましたから、国民の真の覚醒のために教育が重要なことは痛いほど分かります。しかし現実の学校教育の実態はこれまた嘆かわしい状態になっています。知識を記憶させることには熱心ですが、生きる力、考える力を養うといういちばん大事な教育がないがしろにされてきました。
 大震災直後、被災地の学校はすべて閉鎖されて避難所などに使われましたが、私は当時ブログにも書いたように、真の教育に目覚めるための好機到来とばかり内心期待したものです。つまりこの際、教師も親も、そして当事者である児童も、教育とは、学ぶとは何かを考え直す絶好の機会だと思ったのです。この機会に親と子が向き合い、日ごろ読めなかった良書をじっくり読んだり、時おり巡回してくる教師に課題を出してもらったり質問したりできる手作り教育の好機と思ったからです。これからの長い人生にとって、半年あるいは長くて一年のこうした体験は実に貴重な財産になったはずです。しかし実際は30キロ圏外にある学校にバス通学をさせ、教室が狭いので廊下で学習させるなど実に愚かな対策を講じました。教育関係者には明治開国以来の盲目的学校信仰が骨がらみになっていたわけです。
 最近の新聞紙上では経済協力開発機構(OECD)が実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果が話題になっていますが、それについて私はきわめて懐疑的です。たとえば問題処理能力で日本の子供は好成績を上げたそうですが、これについては完全に否定的です。コンピュータ・ゲームなどでの障害物や迷路を抜け出す能力は一種の慣れの、想定内の問題ですが、しかし今回の原発事故のようなそれこそ想定外の「問題群」に対しては無力であることは、大人たちの体たらくを見てもはっきり証明されました。想定外の問題に対しては、ろくろく学校にも行けない発展途上国の子供たちの方がはるかに高い能力を示すであろうことは容易に「想定」できます。つまり人間にとってより重要かつ手ごわいのは、「生きる」ことに直接かかわってくる、つまり「死活の」問題群なのです。
 さてこうして書いてきましたが、与えられた紙幅がどれほどのものなのか、さらには求められたメッセージが以上のようなものでいいのかどうかさえ怪しくなってきましたが、ここまで来ましたのでもう少し続けさせていただきます。つまり国内的な側面はこれくらいにして、国際的な側面に話を進めさせていただきます。
 これまで述べてきたことと地続きのことですが、奈落の底ではっきり見えてきたのは、日本のみならず現代世界全体が陥っている進歩幻想、すなわち何のための進歩かを問い直すことをしないままの闇雲なまでの進歩幻想です。とりわけ日本は明治の開国以来、欧米に追いつけ追い越せの「富国強兵」路線を突っ走って来ました。「近代」がもたらした経済優先、効率優先、快適・利便優先に骨がらみになって来ましたし、現政権のキャッチフレーズ「アベノミクス」にも明らかなように経済優先路線が時代遅れの国粋主義的思想(注1)と奇妙な複合体をなしています。
 スカイ・ツリーのフアンには申し訳ないですが、無駄に高いあの塔が、重心のやたら高い日本の姿を象徴しているように見えてきます。さらにこんな格言も思い出します。「馬鹿と煙は高いところに登りたがる」と。
 前述しましたように、大震災・原発事故に続けて起こった領土問題などではっきり見えてきたのは、そうした効率優先の「近代的思考」のもう一つの産物たる近代国民国家の仕組みがもたらす深刻な弊害です。つまり小さな無人島をめぐっていまだに「固有の領土」を主張することの無意味さ、それに気付かない政治家たち、そして国民たち、の蒙昧さです。それは日本で同時期に再燃したオキナワ基地問題にも繋がっていきます。
 近代国家とは一般的に言えば中世封建国家や近世の絶対主義国家の崩壊後に成立したもので、国民の代表機関たる議会制度,統一的に組織された行政制度,合理的法体系に基づく司法制度や常備軍制度など,中央集権的統治機構を備えた国家ということでしょう。しかしとかく忘れがちなのは、こうした近代国家の枠組みがたかだか数世紀の歴史しか持たない過渡的なものであり、決して未来永劫に続くはずもない、という当たり前の事実です。先般来のウクライナの場合もそうでしたが、1998年のコソボ紛争その他世界各地で起こっている紛争でも、これまで多少の問題を抱えながらも民族・宗教・言語の相違を越えて平和裡に共存していた人たちが、互いの国籍・領有権をめぐって鋭く対立し、多くの犠牲者を出してきました。
 でも最初にお断りしたように国際政治に関しては無知に近い私なので、この話題をこれ以上は続けない方がいいでしょう。ともかく日本名でいうところの尖閣諸島や竹島をめぐって日中、日韓のあいだで対立が始まったときにもブログに書きましたが、たとえ国際司法裁判所に調停を願い出たとしても、当事者双方が納得できる調停案など出るはずもありません。なぜなら過去のある時点を境にすべての国が納得ずくで国境を定めたのでない限り、互いの領有権論議はどこまで遡っても妥協点が見つかるはずもないからです。私からすれば解決法はただ一つしかありません。すなわち領有権はひとまず棚上げして(でも私の願いは永久に、ですが)係争地を双方の共同管理にすること、その近辺に地下資源などがある場合はそれを完全に折半するということです。
 いやいやもっと根源的なことを言えば、相手が気に入らないからと言ってどこかに引越しできるわけでもなく、この世が続く限りお隣さんなのですから、仲良くしなければ損だという当たり前の理屈です。
 これをお読みの先生方は(もしもお読みになればの話ですが)なんと乱暴な素人論議だこと、そんなものは素朴な感情論に過ぎないと言われるかも知れません。しかし理性は大きく間違えるが、感情は小さくしか間違えません。
 あるとき原発推進派と反原発派の論客とが討論するテレビ番組を見たことがあります。推進派は今回の事故はあくまで万に一つの事故で、それに対しては衷心からの反省の気持ちを表したいが(本当ですか?)、しかし…と、原発がいかにエネルギー源確保にとって大切か、そして事故を未然に防ぐための研究も着実に進んでいる、と縷々自説を展開しました。そのとき悟ったのはいかに感情論と軽蔑されようが彼ら専門家の用語や論理に乗っかることがいかに不毛な論議に繋がるか、いや不毛どころかいかに危険か、という一事でした。
 平和問題の専門家の皆様を前に申し上げるのは不遜の誹りを免れないかも知れませんが、平和論議も同じではないか、と思っています。関が原やワーテルローでの兵士同士の戦いの時代ならいざ知らず、ミサイルや核兵器を使っての現代戦においては、たとえ自衛のためとは言えいかなる戦争も許されないと思います。今から冷戦時代を振り返ってみれば、そうした対立が互いに手持ちの戦力をちらつかせながらの愚かなチキンレースであったことは紛れようもない事実なのですから。
 先ほどこの世界は投機で回っていると言いましたが、同時に地球を何千回も破壊できるほどの核弾頭で覆われている、これにさらに原発所在地を示す赤丸を満遍なく印していったら地球は真っ赤に染まってしまいます。これはどう考えても狂っているとしか言いようのない世界です。ここでも先ほどと同じことを繰り返し言わなければなりません。すなわちこうした世界の現状を一気に元に戻すことはほぼ不可能である、しかし私たちはこんな狂気の世界に生きているんだということを事あるごとに思い返し謙虚になることです。現代と同じく戦乱と狂気の時代であった十六世紀のユマニストたちが言ったように「この狂気の時代にあって、唯一残された道は、いかにして正気であり続けるか」なのです。
 あるいはセナンクール『オーベルマン』の主人公の言葉をもじって言うなら、「世界は狂っている。――確かにそうかも知れない。しかしこれに抵抗しようではないか。そして、混乱と狂気が世界を覆っていようとも、それを当然と思わぬことにしよう」と。
 初めて皆様にお話するというのに、終始暗い内容になってしまったことを心苦しく思いますが、それも「奈落の底」からのメッセージと思ってお許し下さい。でも最後に少しは明るい話題で締めくくりたいと思います。実はすでにブログには書いたことなのですが、領土問題が持ち上がっていたころ、こんな夢を語りました。すなわち尖閣諸島や竹島を最も建設的に利用する方法です。つまりそれらの島々にそれぞれ当事国同士が最高の技術や資材を出し合って、一大合宿所を建設し、そこで当事国の若者たちが互いの文化や歴史を学習し親睦を深めるという夢です。これはどんな空母や戦闘機にもはるかに勝る最強の防衛施設ではありませんか。
 でも現実はそんなことを夢見ることさえ許さない厳しいものになっています。本当に残念で、そして情けない。お隣同士がいがみ合っている嘆かわしい現実。そんなときにいつも思い出す場所があります。アルザス・ロレーヌ地方です。何世紀にもわたって独仏両国の流血が絶えなかったその係争の地が現在は両国友好と相互協力の磁場に生まれ変わっているという事実です。あるいは領有権はフィンランドにありながら住民の九割はスエーデン人で、しかも永久に非武装中立を誓ったアハベナンマー(スエーデン名はオーランド)諸島のことです。
 そして今のところはまだよちよち歩きのEUのことです。その成立事情には詳しくありませんが、初めはヨーロッパ経済共同体(EEC)でこじんまりと出発し、次いでヨーロッパ共同体(EC)に,そして現在は加盟国も格段に増えてのヨーロッパ連合(EU)にまで成長しました。素人考えですが、かつての近代国民国家という枠組みを緩やかに解体しつつあります。東アジアにも同様の道筋をたどってほしいと願うのは単なる幻想でしょうか。
 かつて国際連盟のスペイン代表を務めたサルバドール・デ・マダリアーガという思想家に、皆様もどこかで聞いたことのある有名な言葉があります。「イギリス人は歩きながら考え、フランス人は考えた後で走り出し、そしてスペイン人は走った後で考える」。これは島国、大陸、そして半島に住むそれぞれの民族を、行動の人、思考の人、そして情熱の人とする面白い比較文化論です。もちろん彼の説を日本、中国、そして韓国にそのまま当てはめることは無理でしょう。でも私が言いたいのはイギリス、フランス、スペインよりもはるかに密度の濃い歴史的・文化的相互交流を経た、しかも現代に入ってからは流血を伴う不幸な歴史を持ったアジアの三国が、互いに相手の長所、時には短所をも認め合って、相互に裨益し合う真の交流が、政治的な軋轢などでびくともしない堅固な友情で結ばれる日が一日も早く到来してほしいということです。
 もしも私に財力があれば、いやその前に充分な時間が残されているなら、その時間そして私財と体力・知力を投げ打ってでも南相馬(注2)に三ヵ国語学院を作り、次代の東アジアの平和と友好に役立つ子供たちを育てるのですが、それはかなわぬ夢ですから、日々細々と、しかし諦めずに平和菌をばら撒き続けましょう。最後に来て、佐々木よ、なんたる血迷いごとをと呆れるかも知れませんが、三ヶ国語学院というのは現代と同じく戦乱と昏迷の時代でもあったあのルネサンス期のブリュージュでエラスムスなどが教えた人文学の学校を真似た塾のことです。もちろん当時はラテン語・ギリシャ語・ヘブライ語の学院でしたが、私が妄想するのは中国語、朝鮮語、そして日本語の学院です。
 これも私の持論ですが、経済分野のグローバリズムはいざ知らず(これとて私自身はかなり懐疑的ですが)文化の領域でのグローバリズムにはむしろ反対です。旧約聖書に出てくるバベルの塔は、互いに意思疎通ができなくなる神の罰ととるのが一般的でしょうが、私からすれば互いに言葉が通じないことによって、相手をさらに知ろう、理解しようと努めるための神の粋な(?)計らいだったと解釈しています。ですからこの学院ではいわば当面のつなぎ役として、たとえば英語が使われることはあっても、目指すべきは三つの言語が同等の重要性と役目を持つべきだと考えています。
 おやおやまるで今にも実現しそうな話をしていますが、私には気力はあっても知力、体力は衰えかけています。どなたか蛮勇を奮ってこの学院創設に参加していただけたら、というのが、私の最後の夢です。
 ちょうど漠然と想定した一万字になりました。こういう場合、落語家はこう言って次の噺家に演台を譲ります。

 お後がよろしいようで…

 二〇一四年四月五日、東日本大震災三周年にあたって

被災地福島県南相馬市にて
 佐々木 孝

 


注1 実は筆者はこのメッセージを書く直前に、太平洋戦争中は海軍の戦闘機乗りだった今年九十六歳の叔父宛ての公開書簡で、過去の過ちを率直に認めようとしない人たちが、それを認める人たちに投げつける「自虐史観」との批判にこう答えている。

 でも本当に謝罪したのでしょうか。領土問題に限らず、従軍慰安婦問題や河野談話や村山談話をめぐっての一部の政治家たちの再三にわたる発言・行動を見れば、それがまったくのまやかしである、と当該諸国が考えるのも無理はありません。たとえば従軍慰安婦問題ですが、南京虐殺問題の場合とまったく同じです。つまりわが国の一部の人たちはそれを公式文書が見つからないとか、規模・数字に誇張があったとして、行為そのものさえをも否定しようとしてきました。
 私はこうした態度は、過去の行為以上に絶対に許されないことだと思います。時に人間は過つもの、そして戦争の最大悪は、人的・物的損害よりも人間性を獣以下の状態に追い込むことです。しかし平和時に、正常な精神状態の中でおのが罪の言い逃れをしようとしたり、さらには行為そのものを否認することは、かつての悪行以上に人間の品性を貶めることだと思います。かつての過ちを心から悔い、相手方に率直に謝罪すること、これを自虐と言いふらすことの方が人間のさもしさ、情けなさを晒す自虐行為だとは思いませんか。自虐と言うなら、自らを三百代言に貶めることの方がはるかに自虐の名に値しませんか。


注2 私の住む南相馬は、かつて二〇〇メートルの無線塔で有名でした(一九二一年完成、一九八二年老朽化のため解体)。これは現在のスカイ・ツリーのように、最先端の工学技術を駆使して、いわば国威発揚の象徴でもありました。しかしこの塔には悲しい歴史が秘められています。つまり危険な作業に使われたのは死刑囚と徴用された朝鮮人で、彼らのことは公式文書に残されていません。
 この塔は一九二三年、建設してまもなく起こった関東大震災で、いち早く世界にSOSを打電したことでも有名です。無線塔と関東大震災、スカイ・ツリーと東日本大震災・原発事故、偶然の一致とは言え私には不思議な暗合を感じさせます。
 だからこそ南相馬にぜひ三ヶ国語学院を、と願っているのです。

 

カテゴリー: モノディアロゴス | スペイン語版佐々木孝作品集『平和菌の歌』原本から「あとがきに代えて」 はコメントを受け付けていません

宇野重規先生に感謝

 

佐々木は同じように、原発事故を受け、東北のみならず日本とは何か、東北と日本の再生はいかにして可能かを模索した。佐々木の目に、事故の原因究明はもちろん、そこに至った日本の近代を徹底的に問い直すことなく、目をそらす日本の現状は嘆かわしいものだった。

宇野重規

 

岩波書店の雑誌『図書』10月号の巻頭言で、宇野重規先生(東京大学社会科学研究所教授。『大衆の反逆』の解説をご執筆)が、父についてご寄稿くださいました(「福島の哲学者とオルテガ」)。ぜひお手に取ってお読みいただければと思います。死後、このような形で先生に父の存在を取り上げていただき、家族としても感謝の念に堪えません。宇野先生、心よりお礼を申し上げます。

また、岩波書店のホームページ(以下のリンク)でも巻頭言はご覧いただくことができます。ぜひお訪ねください。

福島の哲学者とオルテガ

『図書』2020年10月号

【追記】WEBマガジン「たねをまく」でも、巻頭言を含むその他の読み物が閲覧できます。

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

【さらに追記(10月2日)】今日、ニュースで知り、驚く。しかし、自己批判することなく、真理、正義を追求する声を封じて標榜する「文化」「学術」とは、また、そのような「国」とは??とどのつまり、そのような人間たちが今や社会の主軸を成しつつあるということでもあろう(閣僚の顔触れは象徴的である)。低劣な自己肯定感だけで「武装」した真の叡智とは無縁の野蛮な社会へとまた一段と進みそうである。

毎日新聞記事「少数意見抑圧すれば、真理への道閉ざす」学術会議任命外された宇野重規氏がコメント

【みたびの追記(10月3日)】

朝日新聞記事: 学術会議除外の宇野重規氏「日本の民主主義、信じる」

私は日本の民主主義の可能性を信じることを、自らの学問的信条としています。その信条は今回の件によっていささかも揺らぎません。民主的社会の最大の強みは、批判に開かれ、つねに自らを修正していく能力にあります。その能力がこれからも鍛えられ、発展していくことを確信しています。

カテゴリー: モノディアロゴス | 2件のコメント

【家族よりご報告】

 

家族よりご報告

 佐々木孝の息子・淳と申します。

 ウェブ上という場で、家族から初めて公にご報告させていただきます。またこの形を通して、お便りやご連絡をくださいました方々への感謝のご挨拶と代えさせていただくことをお許しください。

 父は去る12月20日夜、宮城県立がんセンターにおきまして、入院翌日の気管支鏡検査で起きた合併症がもとで残念ながら帰天いたしました。あまりにも突然で切なく劇的な幕切れでした。しかしながら生前、身内や親しい友人に語っていた通り「闘い抜きたい」という決意を全うした最期となりました。クリスマスイブに私が投稿した写真は、18日昼過ぎの検査に赴く直前のものであり、奇しくも最後の写真が父の穏やかな微笑となりました。父はもちろん生還するつもりでいましたが、一方で死も覚悟していました。父は入院直前に語っていました。自分の生き方は痛くてつらくとも(癌を)放置などせず、最後まで闘うと。君は明日死ぬよ、と言われても従容として受け入れる覚悟は既にできている。闘わずして死ぬのは絶対に嫌だ、と。ともに過ごした家族は父の気持ちがよくわかります。闘い抜いた父は後悔していないと確信します。

 24日クリスマスイブの日、父の兄でカトリック司祭の伯父の司式で、自宅で病床に伏す母の傍らでささやかな家族葬を行いました。今は天上から母や私たち家族、親しくさせていただいた皆様を見守ってくれているでしょう。生前父がお世話になりました皆様に改めて遺族を代表し、心から感謝と御礼を申し上げます。

 父はいつも人の言葉や態度をそのものとして信じ受け止め、二心なくそれに応える篤実さを貫いていました。それ故に実は幾度となく傷つき苦しみしました。愚直さというより、きわめて人間らしい、しかしまたきわめて稀な聖性、善性を父は内に宿していたのだと私は思っています。また、父は巷が有難がるような華やかなポストとは縁遠い学者人生でしたが、アカデミズムとは何たるかを知る真の大学人であり真の教育者であったと思っています。イエズス会の修道生活から還俗しても、真正の求道者であり続けた証を、私は父の生きる姿勢の随所に見出します。今思えば、時に世間的、「常識的」な視点からすれば挑戦的と受け止められた発言も、私から言わせれば、それは父の物事への眼差しがあまりにも天上(つまり真理)に近すぎたがゆえに、地上においては真意が伝わりにくかったのだと受け止めており、今やその思いは全くゆるぎのないものになりました。父が生涯真剣に向き合ってきたものにしっかりと目を向けてもらえるならば、そのことは判然とするはずでしょう。ともあれ父はどんな仕打ちを受けても、誰かを根に持って恨んだりするようなことは、ただの一度もありませんでした。

 病床に残した母を案じ、最後の10年は外出も半径2キロ圏内のたった小一時間足らずにとどめ蟄居の身を甘んじて受け入れた父。特に震災後は、スペイン美術家の展覧会に招かれ県立美術館を半日訪れたのと、最後の旅となった宮城県立がんセンターへの移動以外、小さな町を出ることはありませんでした。しかし、そのような不自由な環境においても、言葉を通じて、心は時空を超え自由に世界の友人のもとへと駆けめぐっていました。そんな中、丹精込め作った素朴な私家本の送付や買い物に町の郵便局やスーパーを独り行き来する父の姿は、およそ権勢的な振る舞いや虚飾とは対照的な、あまりにも質朴かつ孤高の小さき者としてのそれでした。福音書にあるイエスの山上の説教「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」の表現、そして清貧という言葉は、父にこそ相応しいと私はいつも心の中で父を誇りに思っていました。著作などを通じてではなく、生身の人間としての父を、その魂そのものを理解し、敬愛し、支持してくれた人は結局わずかでした。しかし、父が昔から悪意や疎外、冷笑、嘲笑に晒され続けてきたことも、永遠の相のもとに遇される真理の世界においては、今や地上の何物にも勝る勲章です。くじけず果敢に生き切った父の姿が、真理の世界に生きようとする誰か一人にでも、ささやかな励ましとなってくれればと、苦闘の人生を送った父を想い、願わずにはいられません。とにかく父は格好、体裁をつけようとするあらゆる物事を嫌い、南相馬での後半生、いつどんな場所においても「逃げも隠れもせず」(最後に私にそのように生きてきたと語りました)、たとえ無様でもありのままの自分であろうと決意し貫徹しました。半ば四面楚歌(あるいは無視、無反応)に遭い、孤軍奮闘しようとも、故郷を愛し、そこに生きることに誇りと喜びを見出した福島、南相馬での父でした。今、振り返ると、晩年、一日一日を慈しむように感謝して生きていた姿は、祈りそのもののようでした。

 身内の贔屓はこの辺までにします。父の魂は、有り難いことに自らが残した文章、言葉の中でこれからも生き続けていきます。父のブログ「モノディアロゴス」は今後も継続してまいります。どうか時折でも訪れ、父と再会して下さることを願います。そして父の灯した魂の火を絶やすことなく、心ある方々との間で継承していくことができたら、これにまさる幸せはないでしょう。今後ともどうかよろしくお付き合い、ご指導を切にお願い申し上げます。

 最後に、「カトリック新聞」2018年9月16日付に掲載されたウナムーノの関連記事で父が述べた言葉を引用します。

「富士貞房Jr.」拝

 

「私が、原発被災地という“奈落の底”でしきりに希望したのも、この惰弱な物質主義・快楽主義・没理想への抵抗です。さらに厳しく言えば没義道(もぎどう)の日本を、また世界を、まともな国や世界にするために、ウナムーノに倣って、目先の勝利や敗北に心乱さず、時に嘲笑に身をさらそうとも、最後まで闘い抜く若い世代の誕生を切に望みます」

佐々木孝

 

 

【追記】死後、父の除籍の文書を役所に発行してもらい気づいたことですが、父と母が役所に婚姻を届けたのは、奇しくも父の亡くなったちょうど50年前の12月20日でした。半世紀ぴったりの結婚生活となりました。

※父の訃報は、スペイン紙 El País 紙上において、ゴンサロ・ロブレド氏の寄稿による追悼記事が出されております(本ブログでも、コメント欄でお世話になった清泉女子大学元学長で現教授の杉山晃先生が、ご弔意とともに紹介くださっています)。リンクと翻訳を以下にご紹介いたします。

Fallece el traductor japonés de Unamuno que se negó a evacuar Fukushima

福島原発事故で避難勧告を拒否した日本人ウナムーノ研究者逝く

スペイン思想研究者の佐々木孝氏、12月20日木曜日の夜帰天。享年79

ゴンサロ・ロブレド 東京 2018年12月27日

 スペイン思想研究者でミゲル・デ・ウナムーノの翻訳を手掛けた日本の佐々木孝氏が、去る木曜日の夜(12月20日)逝去した。佐々木氏は、このバスク人思想家の思想に忠誠を示し、近隣の福島第一原子力発電所で起きた原子力事故に際し、居住する町から避難することを拒否した。氏は、「日本政府は生物学的な命を憂慮するだけで、われわれ一人ひとりの人生という意味の命は尊重しない」と、ウナムーノの言葉を引き合いに出して、2011年3月11日の地震と津波の後に起きた発電所の爆発による被爆の危険を前にし、南相馬市からの避難勧告を拒否した理由を語っていた。

 氏はさらに、彼の母も、認知症の犠牲となった妻も、政府が用意した避難所では生き延びることはできないと主張した。南相馬は、ゴーストタウン化し、物資の供給も絶たれ、「排除地帯」であるかのようなレッテルを貼られた。

 佐々木氏は、62歳でインターネットによる発信を始め、ウナムーノを敬し「モノディアロゴス」(独対話)と命名したブログを執筆するようになる。ブログにおいて佐々木氏は、災厄を予見もせず、その重大な結末にも対峙しない政府と原発企業の発する誤った情報、その無能ぶりへの告発を決意する。批判の中で繰り返し焦点に当てたのは、この国の構造的な個人の責任意識の欠如であり、これが集団的決定を促しているということである。モノディアロゴスという羅針盤は、数多くの支持を得、その多くにとって、遺棄された住民に起きた出来事の真実を知る唯一の手がかりとなった。ブログの文章は集成され、『原発禍を生きる』のタイトルで出版化され、中国語や朝鮮語、スペイン語などの言語にも翻訳された。わが国ではサトリ出版から上梓している。

 北海道の帯広で生まれ、下級官吏として海を渡った父親とともに、幼少期の一時期を日帝侵略下の旧満洲で過ごした。第二次世界大戦の敗戦後、5歳で日本に引き揚げ、福島県で暮らし始める。イエズス会経営の上智大学(東京)で学び、カトリシズムとスペイン思想に出合う。この二つによって彼の精神は導かれ、数多くの翻訳を手掛けたことで、スペイン思想研究は日本に普及した。

 政府が南相馬における避難指示を解除すると、彼の住まいは、氏の共鳴者やスペイン研究者、ジャーナリストの巡礼地となった。作家のホアン・ホセ・ミリャス氏や芸術家のホセ・マリア・シシリア氏などが、原発事故前までは公的な正直さ、技術の優秀性が代名詞であった日本という国への氏の批判的ビジョンに耳を傾けにその住まいを訪れた。2017年から2018年の間には、法政大学出版局により、氏の翻訳による『生の悲劇的感情』(再版)や、『ベラスケスのキリスト』といったウナムーノの著作と、このビルバオ出身の思想家の人物像に迫った氏の思索『情熱の哲学』が刊行された。

 彼の命を奪った肺がんの診断が下された病院に入院する前夜、最後のブログを執筆し、デジタルの遺書としてインターネット上に最後の願いのリストが掲載された。病床に伏す妻と息子家族に蓄えを残した。「孫の愛に清泉女子大学で学んでほしい」。佐々木氏はここで教鞭を執っていた。愛さんがスペイン研究の専門家になって、「日本を愛する若きスペイン人と結婚し、スペイン語を広めるという祖父の仕事を継いでほしい」と。そして息子には遺稿の校正と出版を託した。それはイエズス会士であり、平和主義者のダニエル・ベリガンの『危機を生きる』と邦題化された作品、そしてオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』であった。

Fallece el traductor japonés de Unamuno que se negó a evacuar Fukushima

El hispanista Takashi Sasaki murió en la noche del pasado jueves, 20 de diciembre, a los 79 años

Gonzalo Robledo
Tokio

Takashi Sasaki, hispanista y traductor al japonés de Miguel de Unamuno, que por fidelidad a las ideas del filósofo vasco se negó a evacuar su ciudad tras el accidente nuclear en la vecina central de Fukushima, falleció en la noche del pasado jueves (20 de diciembre) a los 79 años. “El Gobierno japonés solo se preocupa de la vida biológica y no respeta nuestra vida biográfica”, había dicho, parafraseando al autor español, al explicar su rechazo a la orden de dejar la ciudad de Minamisoma ante el riesgo de radiación tras las explosiones ocurridas después del terremoto y el tsunami del 11 de marzo de 2011 en la central nuclear Daichi de Fukushima, situada 25 kilómetros al sur.

El hispanista argumentó además que ni su madre ni su esposa, víctima de demencia senil, podrían sobrevivir en uno de los refugios habilitados por el Gobierno en las provincias vecinas a Fukushima. Minamisoma, semidesierta y sin abastecimientos, fue catalogada como “zona de exclusión”.

Sasaki, que a los 72 años se iniciaba en las comunicaciones digitales, comenzó un blog que en honor a Unamuno llamó Monodiálogos y se dedicó a denunciar la desinformación, la ineptitud del Gobierno y las empresas reguladoras de la energía nuclear para prever el desastre y hacer frente a sus graves consecuencias. El blanco reiterado de sus críticas era la falta de responsabilidad individual propiciada por el sistema japonés, que fomenta la toma colectiva de decisiones. Su bitácora digital consiguió miles de seguidores y para muchos fue la única forma de conocer la realidad de lo que sucedía en las poblaciones abandonadas. Los textos recopilados fueron traducidos a varios idiomas y en español aparecieron con el título Fukushima: vivir el desastre, de la editorial Satori.

Nacido en Obihiro, en la isla septentrional de Hokaido, pasó parte de su infancia en Manchuria, territorio invadido por el ejército nipón donde su padre fue enviado como funcionario. Al final de la Segunda Guerra Mundial, con cinco años, regresó a Japón y empezó a vivir en la provincia de Fukushima. Estudió en la universidad jesuita de Sofía, en Tokio, donde conoció el catolicismo y los filósofos españoles que guiarían su vida intelectual y que divulgaría a través de numerosas traducciones.

Cuando el Gobierno levantó la prohibición de visitar Minamisoma su casa fue lugar de peregrinación de simpatizantes, hispanistas y periodistas. Escritores como Juan José Millás y artistas como José María Sicilia acudieron a escuchar su visión crítica de un país que parecía, hasta el accidente nuclear, el epítome de la honestidad oficial y la excelencia tecnológica. Entre 2017 y 2018 la editorial Hosei Daigaku publicó sus traducciones de Del sentimiento trágico de la vida y El Cristo de Velázquez, ambas de Unamuno, además de un ensayo suyo sobre la figura del pensador bilbaíno titulado Filosofía de la pasión (Jonetsu no Tesugaku).

La última entrada de su blog, publicada en vísperas de su ingreso en el hospital donde le diagnosticaron el cáncer de pulmón que acabó con su vida, contenía una lista de últimos deseos que permanecen en la web como su testamento digital. A su esposa postrada en cama y a la familia de su hijo Jun les deja sus ahorros. “Deseo también que mi nieta Ai estudie en la Universidad de Seisen”, dice en referencia a la universidad femenina donde el profesor Sasaki enseñó. Espera que Ai se especialice en estudios hispánicos “y se case con un joven español que ame Japón y siga la labor de la difusión del idioma español de su abuelo”. También pide a su hijo que se encargue de la corrección y publicación de sus últimas traducciones, una obra del jesuita y pacifista Daniel Berrigan que tituló Kiki-wo Ikiru (Vivir la crisis) y La rebelión de las masas, de Ortega y Gasset.

他、カトリック系メディア「Aleteia」紙の追悼記事

Takashi Sasaki, el católico japonés que desafió la catástrofe nuclear

Takashi Sasaki, el católico japonés que desafió la catástrofe nuclear

Jaime Septién | Dic 28, 2018

En sus últimos años de vida, se dedicó a luchar por la paz y la erradicación de la energía nuclear, todo desde el amor a su esposa, y fiel al mensaje del Papa Francisco

El pasado jueves 20 de diciembre, murió a los 79 años de edad, el intelectual japonés Takashi Sasaki en su pueblo de Minamisoma (Japón), ubicado a solo 25 kilómetros de la central de Fukushima, epicentro de la crisis nuclear sufrida después del terremoto y el tsunami que golpearon al país asiático el 11 de marzo de 2011.

Sasaki era un católico practicante, en un país donde los católicos no suman más de 0,5% de la población total. Estudió en la universidad jesuita de Sofía (Tokio), y quiso ser sacerdote antes de tomar la decisión de casarse con su esposa Yoshiko, a quien nunca abandonó, sin importar las circunstancias.

Gran apasionado del español y de la cultura hispana, tradujo al japonés importantes libros de Miguel de Unamuno, como *Del sentimiento trágico de la vida* y *El Cristo de Velázquez*. En sus últimos años de vida, se dedicó a luchar por la paz y la erradicación de la energía nuclear, todo desde el amor a su esposa, y fiel al mensaje del Papa Francisco.

Valentía con sentido humano

El 11 de marzo de 2011, Japón vivió uno de los desastres naturales más catastróficos de su historia. A las 14:46 hora local, la costa oriental de Japón fue sacudida por un terremoto de magnitud 9.0 en la escala de Richter, que duró seis minutos. Se trató del terremoto más potente de la historia de Japón y el cuarto más potente de la historia a nivel mundial, desde que hay mediciones. Como consecuencia del terremoto, se crearon olas de maremoto, de hasta cuarenta metros de altura, que golpearon con fuerza la costa del Pacífico japonés.

Entre los muchos daños que dejó el terremoto y el posterior tsunami, el más grave fue el causado a la central nuclear de Fukushima. La central sufrió fallos en el sistema de refrigeración y múltiples explosiones, que pusieron en peligro a cientos de miles de japoneses. Fue el peor accidente nuclear desde el ocurrido en Chernóbil (Ucrania) en 1986.

En medio de la tragedia, destaca el testimonio de Takashi Sasaki. Cuando el gobierno japonés ordenó la evacuación de las zonas cercanas a la central de Fukushima, Sasaki decidió quedarse en su casa a cuidar de su esposa, quien sufría demencia senil. Argumentó, con Unamuno como bandera, que las autoridades “solo se preocupan de la vida biológica y no respetan nuestra vida biográfica”.

El motivo para no abandonar su hogar era que tanto su madre, a quien cuidaba desde hace tiempo, como su esposa, Yoshiko, no podrían soportar las condiciones de los albergues instalados por el gobierno. En los hechos, gran cantidad de los ancianos y enfermos que fueron trasladados a albergues murieron en una situación de extrema precariedad.

Con el riesgo que esto implicaba para su propia vida, decidió quedarse a procurar el cuidado y el cariño de su familia, con el conocimiento de que a partir de ese momento, de ese instante, el mundo exterior le daba la espalda.

Una voz que clama en el desierto

Desde su pueblo de Minamisoma, que se convirtió en parte de la zona de exclusión –donde los pocos habitantes que quedaban fueron abandonadas a su suerte–, Takashi se volvió una voz crítica y tenaz contra el abuso de los poderosos y la insensibilidad humana.

En su desierto nuclear, Sasaki comenzó a escribir un blog de evocación unamuniana, llamado “Monodiálogos” bajo el seudónimo de Fuji Teivo. Al poco tiempo, la publicación adquirió un profundo significado, por ser la única voz que denunciaba –desde el abandono– la desinformación de la prensa, la ineptitud del gobierno y los graves estragos que causa la energía nuclear, tanto en términos de generación de energía –con énfasis en la contaminación que causan los desechos nucleares y los desastres como los de Fukushima y Chernóbil–, como en el componente bélico de las armas nucleares, una herida abierta en el corazón de todos los japoneses.

Con el paso del tiempo, su voz fue cada vez más escuchada en Japón y en el mundo, y sus relatos fueron recopilados en un libro llamada *Fukushima: vivir el desastre* (traducido al español por editorial Satori). En el Papa Francisco encontró un gran aliado en su denuncia contra las armas nucleares, y dedicó todas sus fuerzas para que el mundo fuera consciente de que lo que pasó en Fukushima se puede –y se debe– evitar en el futuro.

Un legado hispanófilo

A su muerte, víctima de un cáncer de pulmón, Sasaki deja, además de su lucha contra la energía nuclear y el testimonio de entrega a su familia, un legado de amor y respeto por la cultura y las letras hispanas. Además de Unamuno, tradujo a otros importantes filósofos españoles como José Ortega y Gasset.

Gracias a Sasaki, los japoneses pueden conocer y estudiar en su propia lengua el pensamiento hispano, y sobre todo el pensamiento hispana católico. Un puente que une a dos tradiciones milenarias y un testimonio de vida que abre las puertas para que más japonenses sigan su camino intelectual, espiritual y humano.

En medio de los desiertos del mundo actual, brotan flores raras que demuestran que no todo está perdido. La imagen de Takashi, en su desierto nuclear, cuidando a su madre y a su esposa enferma, abandonado por el mundo, escribiendo en la más terrible soledad, traduciendo a Unamuno, luchando por devolver la esperanza al mundo, es una imagen poderosa.

Una imagen que vale la pena recordar.
A su muerte, víctima de un cáncer de pulmón, Sasaki deja, además de su lucha contra la energía nuclear y el testimonio de entrega a su familia, un legado de amor y respeto por la cultura y las letras hispanas. Además de Unamuno, tradujo a otros importantes filósofos españoles como José Ortega y Gasset.

Gracias a Sasaki, los japoneses pueden conocer y estudiar en su propia lengua el pensamiento hispano, y sobre todo el pensamiento hispana católico. Un puente que une a dos tradiciones milenarias y un testimonio de vida que abre las puertas para que más japonenses sigan su camino intelectual, espiritual y humano.

En medio de los desiertos del mundo actual, brotan flores raras que demuestran que no todo está perdido. La imagen de Takashi, en su desierto nuclear, cuidando a su madre y a su esposa enferma, abandonado por el mundo, escribiendo en la más terrible soledad, traduciendo a Unamuno, luchando por devolver la esperanza al mundo, es una imagen poderosa.

Una imagen que vale la pena recordar. 

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最期の迎え方

 半ば習慣化していることだが、早暁、布団の中で、半覚半睡(これ私の造語です)の中で、いろいろ複雑なことを考えたり思いついたりしている。大半は目覚めてから思い返すと他愛もない妄想のたぐいだが、なかに、時おり、なかなかいい着想やら思い付き(同じことか)を得ることがある。
 今朝しきりに考えていたのは、まだ治らない皮膚炎がらみのことだった。仁平さんの忠告を忠実に守ってステロイド系の塗り薬はいっさい使わず、痒いときはタンポポの根とヨモギの葉から作った「ばんのう酵母くん」を患部にこすり付けて何とか凌いでいる。そのうち体のどこかからタンポポの花が咲くかも(それはそれで気持ち悪<わり>い)。
 患部は頭皮から足の先までと広範囲だが、しかし増えているわけではない。激しい痒さではないが、日中もほのほのと痒く、まるで頭の中にも薄いヴェールがかかっているようで、はなはだ気分が悪い。掻きだすと手が勝手に動いてしまう。初めのうちアナミドールなどに戻ろうとの誘惑を感じたこともあったが、その時は「これを使っても何の効果もなかったんだぞ!」と強く自分に言い聞かせて思い止まった。
 で、今朝の妄想のことだが、どこかの通販から保湿成分の入ったローションの瓶が届いた。注文したわけではないが、先日届いた小型の瓶と同じ成分で、今年新しく収穫した材料(オリーブか何かか?)で作ったので試してください、とのこと。料金も請求せずずいぶん良心的で親切なメーカーだこと、と感心した。お金で払わないとしてもなにか御礼せねば、と真剣に考えはじめた。『情熱の哲学』は残りあと一冊しかないから、なにか私家本でも送ろうか。でも待てよ、その瓶が送られてきた時の包み紙は? いやそれより先日送られてきたというヤクルトほどの小さい瓶はどこにある?
 すみません、実につまらない夢の一部始終をここまでしゃべってしまいました。そう、全て夢の中のこと、その時鳴ったケータイの目覚まし音で今度はしっかり目が覚めました。でも頭がしびれるほど本気で考えたその痕跡が、頭蓋のどこかに残っていて、このことを後で何とか書かなければと思ったわけです。書いているうち本当に馬鹿らしくなりましたので、この辺でケリをつけます。「ケリ」で思い出しましたが、これが古語の完了を意味する助動詞「けり」だということご存知でした?「蹴り」じゃないっすよ。おや知らなかった? じゃせめてそれだけでも収穫にしてくださいな。
 実は白状すると、数日前、しかも二度にわたって半覚半睡の中で考えた或ることを書こうと思ったのだが、内容がちょっと重過ぎるので、その前に少し軽めのものを,と書き出したのはいいが(良くない良くない)、つい長々としゃべってしまったわけ。ところでその或ることとは、先日多摩川に入水したあの人に関してである。彼は私と同じ道産子で、しかも歳は同じはず。生前の彼とはもちろん接点はなかったが、ただ一度だけ、清泉の教え子の森西・村山さんと共訳したライン・エントラルゴ著『スペイン 一八九八年の世代』(れんが書房新社、1986年)を「生の悲しみ知る権利」という題で実にいい紹介をしてくれた(「朝日新聞」、1986年7月十四日号)。その最後のくだりだけでも引き写してみよう。

スペインはヨーロッパ文明の突端であり岬である。いまやそのもうひとつの岬となった我が国は、スペインにおける精神の下降と苦悩とはまったく逆のものを、つまり上昇と歓喜を享受しているかにみえる。しかし、本書を読めば、生きることの「巨大な悲しみ」を知るのは人間の輝かしい特権であるとわかるであろう。

 ウナムーノなど「九十八年の世代」の本質を実によく理解している。だが、と先ず褒めた後に貶すのは、とりわけ相手が黄泉の国に旅立った者であれば、つまり死者を鞭打つことなど私の趣味じゃないが、しかし前述したようにこれは半覚半睡の中でのこととして大目に見てもらおう。
 はっきり言おう。あのいつの間にか保守の真髄を言い募るほどになった人の最後があまりにも悲しい。ウナムーノの盟友アンヘル・ガニベットも領事として赴任していたラトビア共和国の首都リガを流れるドビナ河に、グラナダから家族が来るというその日に謎の投身自殺をしたし、漱石『心』の先生も自殺をした。だからというわけではないが、その行為自体を一概に非難するつもりはない。しかし保守の真髄氏の場合、報じられる限りの理由ではその傲慢さに首を傾げたくなる。
 会津藩士のなれの果て(のその子孫)である私から見ても、手段はどうあれ、もしもそれに切腹の意味があるとしたら、彼の自死は完全にご法度のはずだ。確か彼は「自裁」とか言っていたと思うが、誰も「生命」を裁く権利など持っていない。それは生命に対する忘恩であり権利侵害である。
 大した芸も持たないのにいつの間にか芸能界の大御所になってしまった明石家さんまだが、彼が娘さんに付けた名前はまことに大正解。「生きているだけで、まるもうけ」からイマルと付けたそうだ。
 そんなことをつくづく考えさせられるのは、今も私の3メートル横で穏やかな寝顔を見せている美子がいるからだ。ときどき「美子ちゃん、ママ、偉いねー、美子ちゃんがいちばん偉いんだよ」と声をかけると、まるでどこかの国の女王様のようににこやかに、しかも威厳をもってこちらを見てくれる。何もしゃべることができなくとも、人間生きているだけでご立派。美子からどれだけの勇気と喜びを貰っていることか。
 真髄氏に心酔していた二人の友人が自殺幇助罪を犯したことになったかどうか、その後の報道を見ていないので知らないが、ともかく人騒がせな死に方をしたものだ。
 てなことを半覚半睡の中で二日にわたって考えたわけだが、しっかり目覚めている今でもその見解は毫も変わらない。私にいつ死が訪れるか分からないが、たとえ家族や他人様の手を煩わせて惨めな状態になろうとも、最後まで感謝の気持ちを失わず、それまで生きられたことに深く感謝しながら、そしてできることなら美子の最期をしっかり看取ってから死にたいといつも願っている。

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新・大衆の反逆



 Kさん、この度は拙著『スペイン文化入門』のご感想など、出版社気付で送ってくださりありがとうございます。昨日、竹内社長さんから転送してもらいました。これまで未知の読者からこのような懇切丁寧な感想が寄せられる経験などめったになかったので、大変嬉しゅうございました。感想だけでなく気の付かれた誤植などのご指摘も痛み入ります。幸い(?)すべて索引・ミニ事典に関してのものでしたので、さっそく編者の碇さんにも転送しました。めでたく再版になるようなことがあれば、ぜひ訂正させていただきます。ただしMaeztuに関しては、従来からマエストゥと表記されてきたもので誤植ではありません。
 ともあれこれまでKさんの実体験に裏付けられたラテン気質についての貴重なご意見も興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。ところでその最後にオルテガに高評価を与えている著作として、小室直樹の『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』を挙げられ、この著者が誠に興味ある人物であるとコメントしておられます。「興味ある」ということが奈辺を指しておられるのか分かりませんが、彼に関してちょっとだけ私見を述べさせていただきます。
 実は小室直樹という人物について、いちど調べたことがあります。たぶんご指摘の著書に関して、つまり戦争論をめぐってであったと記憶しています。ただその折り感じたのは、戦争は国際紛争解決の究極的な手段であるから、戦争に代わるものを作り出さない限り戦争はなくならない、といったオルテガの主張の、その前段を誇張することによって、オルテガの思想をかなり恣意的に利用しているといった感想を持ちました。こうした傾向は小室直樹だけでなく、例えば三島由紀夫などにも見られます。詳しくは覚えてはいませんが、戦争をしない軍隊は軍隊ではない、といったかなり過激な解釈を施して、現代思想家のうち信用できるのはオルテガだけだと礼賛してました。
 それとはちょっと違った文脈ではありますが、オルテガの『大衆の反逆』を換骨奪胎(したと自負?)して『大衆への反逆』を書いた西部邁についても言えます。つまり高みから大衆を見下ろすという貴族主義的なところに共鳴し、オルテガ思想の一側面を拡大解釈して自論を展開するといった傾向です。でもスペイン人オルテガの貴族主義は日焼けすればその下から庶民が顔を出す態の貴族、逆に言えばゴヤの「裸のマハ(下町の小娘)」のモデルが実はアルバ公爵夫人だったように、もっぱら精神のあり方を意味していて、自宅の庭にロココ風の装飾を施して悦に入っていた三島流の貴族主義とは違うように思います。
 しかしオルテガ曲解はなにも日本に限った現象でありません。本家本元のスペインでも、かつてファランヘ党(ファシズム政党)の創始者ホセ・アントニオがオルテガの政治思想をたくみに取り入れて、その全体主義的体制を補強したことは有名です。オルテガがこうした趨勢に抗して長らく亡命生活を余儀なくされたにも拘わらず、です。
 もともとオルテガには右翼思想に利用されやすい側面があったと言えなくもないのでしょうが、しかし彼の思想をその出発点から辿ってみる限り、それは悪く言えば曲解、良く言っても部分的な拡大解釈だと言わざるを得ません。私個人のことに絡めていえば、そうした表面的なオルテガ像でいちど残念な経験をしたことがあります。もうかなり昔のことですが、或る大出版社から『大衆の反逆』翻訳の打診があったときも、その会社の編集会議のようなところでオルテガ右翼説(?)が出てきたらしく、結局その話が流れるということがありました。
 実はその後、別の出版社が企画した世界思想全集の一巻にオルテガが入ることになり、彼の他の作品と一緒に『大衆の反逆』の翻訳に改めて着手したこともありましたが、今度はその出版社が倒産してしまい(その後その出版社は【新】を冠して再出発しましたが)これまた頓挫しました。『大衆の反逆』翻訳の紆余曲折に触れたので、更に補足しますと、その後、また別の出版社の新訳文庫から依頼されて翻訳の見直しを始めたのですが、編集者と肌が合わず(?)難航しているときにあの東日本大震災に遭遇、思いもよらぬ原発事故被災者になってしまいました。それ以来その出版社から連絡が途絶えたことをいいことにこちらからも一切の関係を絶って今日に至っております。
 しかし捨てる神あれば拾う神あり、とはよく言ったもので、今度は別の出版の可能性が出てきましたが、それにはスペイン政府機関の助成が前提となっており、昨年、一応申請はしましたがその結果は未だに届いておりません。何冊か既訳があることもあって、たぶん駄目だったのかも知れません。こうなれば残り少ないわが人生、いざとなれば私家本で出そうか、といまは開き直っています。
 余計なことをだらだら書いてしまいましたが、しかし今回Kさん宛てのこの手紙にも実は深く関係していることなので、つい筆がすべったわけです。というのは、今回の『大衆の反逆』には本邦初訳の「イギリス人のためのエピローグ」を加えたのですが、それが平和主義についての論考だからです。つまりまだ解説を書き出してもいないのですが、彼がそこで展開している平和主義批判をどう読み解こうか、少し思い悩んでいるところだったのです。ですから小室直樹の新装版の副題が「”平和主義者”が戦争を起こす」となっているのを見て、またか、と思った次第です。
 大袈裟に言えば、事はオルテガ解釈にとどまらず、残り少ない私自身の時間の中で、なんとかおおよそでもその道筋を考えなければならないテーマ、すなわち核兵器を含むあらゆる核利用の廃絶のための闘いにも深く関係しているからです。
 でも国際政治にも政治論にもまったくの素人なので、どこから手をつけたらいいのか。しかし原発問題に対する私の基本姿勢を反戦論にも貫くしかないのでは、とは思っています。つまり塚原卜伝流に無手勝流に、と言えば格好のつけ過ぎですが、要するに素人は素人なりの真っ向勝負を挑もうと考えています。最近、そうした私の考え方に近い二人の先輩を見つけて意を強くしています。一人は御年100歳ながら未だ矍鑠として戦争撲滅のために奮闘しているむのたけじ翁、もう一人は今年三月までウルグアイ大統領であったホセ・ムヒカさんです。両者に共通しているのは、そのメッセージが実にシンプルなことです。正戦は果たしてありうるか、とか、原発の安全は将来可能か、などの議論には深入りせず、単刀直入、ズバリ本筋に切り込んでいるところです。
 話は急に飛びますが、今朝のネット新聞(日ごろから実に右翼的傾向で有名なサンケイ新聞)に小泉進次郎の農林部会長起用に関するこんな記事が載ってました。
「…高村正彦党副総裁は10月下旬、党本部ですれ違った小泉氏の腕をつかみ、副総裁室に招き入れた。高村氏はかねて、小泉氏が復興政務官在任中に安全保障関連法をめぐり、政府や党を批判したことに強い不快感を抱いていた。
高村氏は「政府と党が共闘している最中に、政府の立場にある者が後ろから味方に向けて鉄砲を撃ってはならない」と指摘。「本当に国民を安全にしたいと考えるなら、世論と同じレベルで動いたのではプロの政治家とはいえない。単なるポピュリストだ」などと切々と諭した。」
 いちど権力の座に座ると、民意に耳を傾けようとする者をポピュリスト呼ばわりするという昨今の体制派の汚いやり方です。この伝でいくと、安保法制成立阻止を目指して今夏、国会周辺のみならず全国的にデモを展開した国民運動など無視すべきであるということになり、事実政権与党はそう判断してひたすら沈静化を狙っています。ポピュリズムとは、もともと19世紀末に農民を中心とする社会改革運動で、政治の民主化や景気対策を要求したアメリカやヨーロッパ、ロシアの民主化運動の総称でしたが、いつのまにか「大衆迎合主義」という一点に収斂して使われるようになりました。
 しかし繰り返しになりますが、真剣に民意を探り、それに誠意を持って応えようとしない政治家とはいったい何者なのでしょう? 質の劣化著しい政治家たちの傲慢さ、識見の無さは目に余るものがありますが、その彼らが、これまで政治に無関心であった(よく言えばそうであり得た)多くの国民の初めてと言っていいような意思表示を無視するだけでなく、それを見下すとは滑稽以外の何ものでもありません。
 半ば公開の私信とはいえ少々話が長くなりましたので、そろそろまとめに入りましょう。要するに私が言いたい、そしてこれからの方針としたいのは、オルテガ『大衆の反逆』の西部流換骨奪胎ではなく、まさにオルテガ思想の入魂作業、と言えばちょっと大袈裟ですが、つまりは彼の大衆論の新たな解釈そして展開です。いや新たなと言うより、もともと彼の大衆論に内在した大衆、すなわち彼が鋭く批判した大衆人(hombre-masa)ではなく、スペイン文学・思想の真の主役であった庶民・一般大衆の復権です。言うなれば「大衆への反逆」ではなく「目覚めた大衆の悪政に対する反逆」です。
 『大衆の反逆』を読む者が先ずぶつかる問題は、ところで私自身は果たしてここで批判の対象になっている大衆なのだろうか、それとも選ばれた少数者なんだろうかという素朴な疑問です。三島由紀夫や小室直樹、そして西部邁などは自らを大衆とはっきり一線を画した選良と自負しているようですが、私自身はそこまで自分を買い被るつもりはありません。著書などその一冊も読んだことの無い今は亡き小田実ですが、彼の言った一つの言葉だけは大賛成です。人間みんなチョボチョボナや、です。
 要するに私が目指したいのは、大衆への反逆ではなく、戦争や原発依存などひたすら亡びの道に進もうとするあらゆる動きに対する目覚めた大衆の粘り強い反逆です。原発など核エネルギー利用や戦争に対して反対を表明すると、それは単なる感情論と言われることがよくあります。単なる感情論? 上等じゃないですか。理性は大きく間違えますが感情は間違っても大きくは間違えません。単なる厭戦? 厭戦のどこが悪いのでしょう、敗戦のあと私たちの先輩はどんな理屈を並べられようと、もう戦争はこりごり、と心の底から思いました。原発事故のあと、私たちはどんな生活の利便より、父祖の残したこの美しい自然を汚すような核の利用はもうまっぴら、と心底思ってます。理屈など犬に(ブタでしたっけ?)喰われちまえと思ってます。
 原発推進を画策する人たちは、どうぞ自分たちだけで住める無人島か人工島でも造って、そこでどんどん稼動させればいい。どこに住めばいい? もちろん今まで口がすっぱくなるほど言ってきたように、推進論者の政治家、電力会社のお偉方は全員家族同伴でその島に移住してけつかれ!おっと下品な言葉を使いました、お住みくだされ!と思ってます。
 おやおや話はどんどんエスカレートしそうなので、この辺でそろそろやめましょう。初めてのお便りなのに、思わず長話になってしまっただけでなく、どうやら尻切れトンボになってしまいました。でもこれに懲りずときどきはこのモノディアロゴスや母屋の『富士貞房と猫たちの部屋』を覗いてみてください。それからオルテガについて興味がおありでしたら、『すべてを生の相のもとに オルテガ論集成』という私家本もありますのでどうぞ。
 最後に、もう一度、ご丁寧な感想文をお寄せくださいましてありがとうございました。今後ともどうぞ宜しく。


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南無三、地球は投機で回ってる!


 しばらく画面から消えておりました。NHKの鄭周河さん紹介の番組やら、スペイン・テレビの拙著紹介の番組やらで、文字ではなく生身の貞房を晒しているので、その方でしばらく時間がかせげる(?)わいと、怠けていたこともありますが、もうひとつ、何とも中途半端な時間を過ごさざるを得なかったからでもあります。
 つまり先週、毎年一回の精密検査で心電図やら尿の検査やら胸部レントゲンやらをしてもらったのですが、その問診の際、胸部レントゲン写真を見てI医師が「これは血管が重なって出来た影だと思いますが、安心のためCTを撮ってもらいましょう」と近くの病院に予約を入れてくれたのです。なんとも気分的に落ち着かない五日目が今日で、午前中病院で撮影してもらい、いま帰ってきたところ。結果はいつ分かるか聞いたところ、クリニックに届くまで3、4日かかるとのこと。何でもスピードアップの時代にそれはないでしょ、と思ったけれど、これだけは待つしかない。
 で、これ以上中途半端な執行猶予の時間を気もそぞろに待つのは馬鹿げている、もうそれについては考えずに、しっかり「生きて」行こうと考え直したところです。でも世の中には、今も持病を抱えたり、余命を気にしながら生きている人がどれだけいるかことか、その人たちにとって毎日がどれほど大変なことか、と考えると、掛け値なしに偉いなあ、とその人たちを尊敬してしまいます。
 私にとって、たとえば今入院とか手術とかが必要になったとしたら、いちばん困るのはその期間、美子の介護が出来ないことです。それだけは何としても避けたい。強がりを言うつもりはありませんが、美子のことが無かったらどんなことでも耐え抜けるのですが…
そして唐突にこんな都々逸をつぶやきました、「貞房殺すにゃ刃物はいらぬ、入院必要告げりゃいい」。つまり日ごろ勇ましいことを言っても、貞房にとって妻・美子は泣き所というわけ。ところでこの都々逸まがいの文句の元歌は、「ニコヨン殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればいい」だと思いますが「ニコヨン」といっても今じゃぴんと来ないでしょう。ニコヨンはつまり昭和20年代の半ば、失業対策事業に就労して職業安定所(今のハローワーク)からもらう日給が240円だったことから土木作業員(土方とも言った)を意味した言葉。いろんなバリエーションがありますが、傑作は「噺家殺すにゃ刃物はいらぬ、あくび一つもあればいい」でしょうか。
 それはさておき、この五日間、もちろんただぼーっとしていたわけではない。もしも結果が悪い方に出たらどうしようか、としきりに考えていた。美子の世話ができなくなることを怖れたただけではなく、おかしくなってきた日本をこのままにしておきたくはない、といよいよ切迫感が増してきました。比喩的表現ではなく文字通りの末期の目から見れば、多少の問題はあるにせよこのまま日本が、そして世界が推移していくと考えている多くの人たちの目を覚まさせないうちに自ら果てることはなんとも我慢がならぬ、などひとり怒っていたのです。原発事故の収束さえ覚束ないのに、あたかも何事も無かったかのように愚かな政治を進めている安倍晋三よ、お主は後世の評価では「愚者列伝」の筆頭に来る政治家だぞい、などとつぶやきながら。
 いやいや冗談じゃなく、日本を筆頭に、世界全体がおかしいのですぞ。地球を何千回、いや今だったら何万回でしょうか、ぶっ壊すことが出来る核弾頭が存在すること自体、どう考えったっておかしな世界でしょ。「笑っていいとも!」なんてアホ面下げて笑ってる場合じゃないんですよ、ほんとに。
 いやいや、もう何回も書いたり喋ったりしてきたことですが、この世界は理想や信条や善意の人たちの努力によって動いてるんじゃありません。はっきり言えば「投機」によって動いてるんですよ。こんな世界になったのは、そんな遠くの昔じゃありません。長くても2、3世紀この方のことです。マルクスがどう言おうがケインズがどう言おうが(あと名前が出てきません)、この世は明らかに「投機」、あるいは「投機心」によって展開してます。ガリレオが異端審問所で「E pur si muove! それでも地球は回ってる!」と言いましたが、いまはそれを少し換えて「南無三、地球は投機で回ってる!」と言わなければなりません。
 もちろんこんな世界を一気に元に戻すことは不可能です。革命なんてやっても無駄なことです。でもこの世がおかしいということを少なくとも自覚すべきでしょう。何?無駄なあがきは止せ、ですって? そうかなー、パスカルの「考える葦」じゃないけど、いやそうだけど、人間の尊厳て、突き詰めていけばそこに尽きるのじゃない?
 そして我らがウナムーノが『生の悲劇的感情』で引用しているセナンクールの『オーベルマン』の決定的な言葉を、今日の結論としてだけでなく、いまの私自身への自戒、いや励ましの言葉にしましょう。

「人間は死すべきものである。確かにそうかも知れない。しかし、抵抗して死のうではないか。そして無がわれわれに予め定められているとしても、それを当然と思わぬことにしよう」。


★3日朝の追記 渡辺一夫さんの、確かフランス・ユマニスムについての文章の中で読んだ言葉だが、現代に生きる私たちへの無上の覚醒と励ましの言葉を取り急ぎ書き加えておく。「この狂気の時代にあって、唯一残された道は、いかにして正気であり続けるか、である」。(正確な引用はまたの機会に)

★★同じく3日朝の追追記 先ほどとつぜんクリニックから連絡が入り、昨日の結果が出たのでいらっしゃいとのこと。取るものもとりあえず(もちろん美子の安全を確認して)出頭(?)しましたら、CT検査の結果、ガンその他の心配は一切無い、という嬉しい判定結果。八割がた大丈夫と信じてはいても、これだけは実際に結果が出るまで心配なものです。でも待合室のテレビから流れる映像は大飯原発再稼動のニュース、嗚呼!一難去ってまた一難、さあ皆さんめげずにすべての原発廃炉まで息の長い戦いを共に戦い抜きましょう!

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水の低きに就く如く


 小泉純一郎に代表される日本の保守政治家に
(いや政治家一般と言ってもいいだろうが) 政治哲学が不在であるということが言われてきたが、しかし何を指してそう言うのか。簡単に言えば、アメリカ追従だけでなく現実追従以外の何物でもないということである。だからイラク武力攻撃容認をめぐっての今回の小泉答弁に見られるように、明確な理由説明などどだい無理である。ああだからああなり、こうだからこうなった。つまりもともと思想などありえないのである。
 現実にぴったり寄り添う論理 (実はその名に値しないのだが) は実に頑丈である。ちょうど机の端がそうであるように、生半可な理想論などいっぺんに撥ね返すほどのしたたかさを持っている。
 しかしもちろん真の意味で思想の名に値するのは、実はそうした現実に一旦は拠りながら、しかもそこから強靭な意志をもって離陸するものの謂いである。現実から離陸できない思想は、はっきり言って思想の名に値しない。なんども引き合いに出して恐縮だが、セナンクール『オーベルマン』の主人公のように、
「人間は死すべきものである。――確かにそうかも知れない。しかし抵抗して死のうではないか。そして、無がわれわれに予め定められているとしても、それを当然と思わぬことにしよう」というところからしか思想は生まれようがないのである。もちろんこの場合、オーベルマンの言う「無」を「現実」と言い換えたが我田引水の謗りは免れているはずである。
 現実から出発しつつ、しかもあるべき理想に向かって点線で仮説を立て、しかるのちにそれが実線となるべく具体的な方途を積み重ねる。これが政治哲学の通常の形成過程である。私自身政治哲学についてはずぶの素人ではあるが、それほど見当違いのことは言っていないつもりである。
 もちろんこうして生まれた思想が、今度は現実を無視したり歪めたりして、人間の「生」を疎外する危険性はつねにつきまとう。だからこそ思想は絶えず現実からのチェックを必要とする。つまり「思想」と「生」の間につねに往還がなければならない所以である。
 傍観者の立場からならなんとでも言えるさ、という皮肉っぽい反論はもちろん覚悟している。しかしぎりぎりの思索から生まれた言葉は、もしかすると生物細胞内のDNAよりも伝達能力を持っているかも知れない。いやそう信じて、以後執拗に反戦と平和の思想を構築していきたい。
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花曇りの中で


 浜通り地方は午前中天気はぐずつきますが、午後には回復に向かうでしょう、との予報通り、大熊町からの帰途、行く手がしだいに明るさを増してきた。なぜか私は薄曇りや花曇の不思議な明るさの中で、思い出の小径へと導かれることが多い。少し意識を凝らせば、そのうちの一本へ容易に入っていけそうだ。幸い眠気もないことだから、運転に気をつけながら少しその小径を進んでみようか……

 いや嘘をつくのはやめよう。以下のことは確かに車の中でフラッシュバック風に思い出したのではあるが、脈略をつけて思い出したのは家に帰ってきてからである。しかし夕食前にほとんど書き上げたのだがどうもしっくりこない。つまりなぜそれを想い出したのか、その意味が分からないのである。もちろん想い出なんてものはそんなもので、強いて意味づける必要はないのだが。いや待て、分かった、なぜそのことを思い出したのか。
 花曇の中、一つの風景が浮び上がってくる。満州からの引揚げの途中らしい。これはどこの町だろう、小高い丘の上の、校舎のような建物が連なっている。そうだ私たちが逗留していたのは坂道の一番下の棟だった。ある日、その坂道を上がってくる他の棟の男の子にふざけて投げた小石が、まともに彼の頭に当たってしまった。数人の友だちもそれぞれに投げたのだが、私の石が当たったとの感触があった。幸い小さなたんこぶを作っただけだったらしいが、たいへんなことをしでかしてしまった。
 夕刻、その子の棟の大人が数人押しかけてきた。私たちは玄関脇の物陰に隠れていたが、応対した私たちの棟の小父さんがしきりに謝っている声が聞こえてきた。たしかに石をぶつけたのは悪いが、その子からは以前それ以上の被害を受けていた。だからあそこまで無条件に謝るのは行き過ぎだくらいに思っていたようである。
 男たちが帰っていったあと、小父さんはみなの頭をひとわたり撫でながら、世の中にはたとえこちらに非がなくても謝っておいたほうが丸く収まることがある、と言った。あのとき初めて世の中には「建て前」というものがあり、それが大人たちの世界を動かしているんだ、と落雷に打たれたように悟った。
 そう、確かにこのことをきっかけに世の中の動きが本音と建て前の二重構造になっていることを認識し始めたわけだ。だがもう建て前はネクタイとともに捨てよう。残された日々、可能なかぎり本音で生きていこう。
(3/17)

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素朴経験主義の陥穽


 戦争や戦場を体験したことのない人の反戦は頭でっかちである。これは自ら報道記者として戦場体験のある人が述べた言葉である。いやもしかすると自らではなく戦場で命を亡くした友人を持っているだけだったのか。実は一読するや腹が立って破り捨てた
(消去のキーをクリックした?) ので、実際はどっちだったか、今となっては確かめようがない。著者その人は別段好戦的な人でもないし、右翼でもない、それどころか、穏健な平和主義者だと思う。つまりそう書いたのは報道記者としての過去の経歴をちょっと自慢したくて筆を滑らせたのだろうと思う。「爺ちゃんの若い頃はなー」のたぐいである。だからいちいちつっかかる必要はないのだが…。
 実体験を潜り抜けた人の言葉はたしかに重い。経験もなしに単に観念的に発言する人のそれよりも傾聴に値する、と一応一般論としては言えるだろう。しかし経験が無いから、その人の発言に重みがないか、といえば必ずしもそうとは限らない。たとえばボールを打つとか、物を売るとかだったら、確かに経験の有無は決定的である。しかし戦争とか平和とか、あるいは愛とか信頼といったもの、つまりはそれ自体、誤解を恐れずに言うなら、観念的なものについては、素朴経験主義は時に間違うのである。なに戦争が観念的だと、と即座の反論が返ってきそうだが、はっきり言って個々の戦闘と違い「戦争」は「平和」ともども、いやもっと言えば「愛」や「信頼」と同じく、すこぶる観念的なものなのだ。つまり「戦争」を経験しようとして前線に赴こうとも、そこで体験するのは耳をつんざく砲声、至近距離で肉片と化して散乱する味方の死体、失禁してもそれさえ気付かないほどの恐怖感であって「戦争」ではない。そしてそこにいるのは刻々の危険に自動的に激しく反応する筋肉の束であり、人間性をゼロまで縮小させられた「人間らしきもの」に過ぎない。だからこそ「戦争」は悪である、と認識するのは、まさしく観念の働きなのだ。
 むかし「君、愛なんて理屈じゃないぜ。いろいろな体験を経なけりゃ分からんものよ」と言った御仁がいた。「色町通いで性病うつされたけど、君これは男の勲章だぜ」と言った時には、あっこいつは完全な馬鹿だ、教師になったのが間違いだ、と思ったが、馬鹿相手に喧嘩する気にもなれない。私もいい歳になってきたが、素朴経験論で若い人に説教するじじいにだけはなるまい、と肝に銘じている。
(3/15)

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もううんざり


 時事ネタは黄ばむのも早いから、あまり話題にしたくはないのだが、今はそうも言っておられない。今朝の新聞で、アメリカ外交問題評議会中東研究部長の肩書きを持つレイチェル・ブロンソンのコメントをつい読んでしまった。イラク攻撃容認派らしいが、とたんに気分が悪くなった。彼女もそうだが、小泉首相を初め日本の政治家やコメンテーターの言い草に、市民たちによる反戦のうねりはこれまで自分たちが適切な説明をしてこなかったせいである、というのがある。一見謙虚なようでいて実はとんでもなく思い上がった考え方である。これは裏を返せば、民衆の動向などというものは、多くの情報や裏事情を知っている自分たち政治家のさじ加減でどうとでもなる、というたちの悪い傲慢さが潜んでいる。

 違うんだな、君たちのいささか高揚した気分とわれわれのうんざりした気分とは。この「うんざりした」という言葉は、実はスペイン語の escatológico という言葉のうまい訳語はないかなと考えていて思いついた言葉なのだが、要するに「とどの詰まり」「ぎりぎりのところ」ほどの意味で、学問的 (?) に気取って言えば「終末論的な」という意味である。
 政治の世界は小賢しい事情通が幅を利かせるところである。しかしその事情なるもの、下らぬ駆け引きの具ではあっても、大所高所から見て肝要なるものとはほど遠い。またそれを報じるマスコミ関係者と政治家のじゃれ合いは不快の一語に尽きる。プロ野球の番記者たちがグラウンドを去る監督のコメントを取りたくて金魚の糞みたいにまとわりつくのとさして変わらない。つまりまずい試合だったか良い試合だったかは、解説やコメントなどなくても誰の目にも明らかだからである。
 アメリカがこう動けば、他国はどう出る、その場合わが国はどう動けば「国益」を守れるか、などという視点から市民たちが動いているのではない。それこそ切羽詰って、もううんざりという気持ちでデモに参加しているのだ。
 いま世界を覆いつつある反戦のうねりは、はっきり言って従来のそれとは質を異にしていると思う。つまり理屈やイデオロギーじゃなくて、気分なのだ。しかし気分だといって侮ってもらっては困る。「生きる」に当たって理屈なんてよりはるかに大事なものであり、本当は歴史を大きく動かしてきたものなのである。要するに、もう人殺しには「うんざりしている」のだ。
(3/13)

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…主義


 気がついたら師走に入っている。第二の人生 (と言うほどのものでもないが) の初年度が終わりかけている。いくつかまだ遣り残していることがあるが、もともとノルマを自らに課さないことにしているので、アワテナイ、アセラナイ。
 昨日の問題に関して若干のことを付け加えたい。愛国心のその「国」が何であるかが重要であるが、もう一つある。すなわち愛国心はそれが自然発生のもの、排他的でないもの、自らの環境をさらに大切にする心を育てるものなら、あった方が無いよりずっといい。いま「持たないより持ったほうがいい」と言おうとして辛うじて踏みとどまった。なぜなら愛国心は持つものではなく、私たちの方がその中に「ある」ものだからである。言葉を換えれば、愛国主義は御免だということである。
 たとえば伝統というものがある。これは、何らかの価値を持ち、大切にされる要素を持っているものが自然と形を成し、そしてそれが伝えられるときに生まれる。人類が他の動物に比してこの地球上で大きな顔ができるのも、この伝統を他人や子孫に伝える能力を持っているためである。このことはラテン語を見れば実によく分かる。つまり伝統 (traditio) とは引き渡す (tradere) ことなのだ。他の動物も、たとえば食物を川で洗うという習慣を仔に伝えるなどのことができるが、人間は単に所作だけでなく、それを様々な仕掛けを通じて正確に、時には創始者の予想をはるかに越える意味と精神性を加味しつつ子孫に伝えることが出来る。
 伝統は、伝えられた者が、それを再び生きるときに初めて「生き返る」が、伝えられた者が伝えられたものを「生きる」のではなく、たんに「繰り返す」とき、伝統は内部から崩壊する。各種家元がときに醜い跡目争いで腐臭を漂わせるのはそのためである。あるいは各地の史跡保存委員会なるものがもっとも伝統から遠ざかっていることがあるのもそのためである。
 愛国者ではありたいが、愛国主義者にはなりたくない。といって、その場合の国は、政治的あるいは経済的 (現代両者は分かちがたく結ばれている) な存在ではなく、文化的な共同体であり風土であってほしい。外国人という他者との共存でその独自性が脅かされるような国あるいは文化など、もともと伝承に値しないものと思って間違いない。あるいは神話や作られた美談で鎧わなければならぬ国など、祖国の名に値しないということである。
(12/3)

 

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