被災地見学?

スーパーでレジを終えて買ったものを袋に詰めていると、どこからか赤子の、それも生まれて間もない赤子の泣き声がする。振り返ってみると、三つぐらい向こうのレジで簡易乳母車に赤ちゃんを乗せた小柄の、若いお母さんが支払いに手間取っているところだ。久し振りに聞く赤ちゃんの声。いろんな事情、いろんな脅し、いろんな不安の中で必死になって子育てをしてるんだろう。
 たとえば(ですよ)今だれかがその若いお母さんに近づいて、「あなた、こんなときにこんなところで赤ちゃんを産んだり育てたりするの、どんなに危険なことか分かってるんでしょ。なるたけ早くもっと安全なところで育てた方がいいわよ」なんて、おせっかいな忠告をする奴がいたら、俺、そいつに何をするか分からない。幸いそんな奴はひとりもおらず、周囲の人もそんな赤ちゃんの声、久し振りに聞くような、優しい顔になっている。
 実は昨夕、嫌なことがあった。実際に会ったことはないが、間接的に知り合いになった人からメールが入ったのだ。今度被災地を実際に見ておきたい、ついてはあなたの所にも寄りたいがどうだろう、という問い合わせである。前からサンティアゴ巡礼をするなど、宗教に関心を持っている人だった。ただ、自分の宗教体験に今回の震災体験を加えたいというようなことが書いてあったので、内心、好奇心旺盛なのは分かるが、つまるところは見物気分で来られても困るなとは思った。しかし無下に断わることもできず、もちろんいらしたら喜んでお迎えするが、県内に住む共通の友人に一度相談してみては、と返答した。
 つまり私としては婉曲的ながら躊躇の気持ちを見せたわけだ。しかし折り返し、行ってもいいんですね有難う、とのメールが来た。そしてついでですが、今朝、児玉龍彦さんの発言を聞いたが、やっとはっきり物言う人が現れました、いま南相馬は正に渦中にある町なんです、と書いてあった。
 児玉龍彦、初めて聞く名前。しかし例の小出助教と同じような「専門家」かな、と思い、急いで検索。すると動画がありました。小出氏と同じく、どこかの委員会で参考人として熱弁を振るっている動画が。今にも涙を浮かべんばかりに、いかに南相馬が危険なのか、それを公表してこなかった行政の責任を鋭く追及している動画が。正直、彼がなにを言っているかしっかり聞いたわけではない。聞くに耐えずにすぐ消したからだ。
 小出氏の場合もそうだったが、どうして最近になって、こういう専門家が突然現れたんだろう。政治家の委員会に呼ばれるくらいだからこれまでだって口を封じられていたわけではないはず。今なら何を言っても追い風だから、あんな熱弁を振るい、大向こうを唸らせようとしてるんだろうか。以前「玩具のハンマーで殴らせる」で書いたが、私など気が弱いので、明らかな勝ち戦であのように相手を執拗に追い詰める様子など見たくもない。前にも書いたが、原発推進派へ振り上げた鋭い刃は、下手をすると同時に被災者をも傷つける結果になるという事実にまったく気付かない専門家の人間理解の浅さ
 で、先ほどの話に戻るが、もしあなたが児玉某と同じような目線で、つまり惨状視察といった目的で南相馬に来るつもりなら、少なくとも私のところには寄らないでいただきたい、と思い切って断わった。すると折り返し、彼(彼女?差し障りがあるので、性別も年齢も伏せておきましょう)から、児玉さんも子どもたちや南相馬の人たちのために政府と戦っている人です、反原発で力を合わせなければならないのに、自分とは違う考え方をするからと批判するのはあまりに心が狭すぎます、と言ってきた。それに対してはこう返事した。

 反原発だからといってだれとでも大同団結などするつもりはありません。反原発よりもっと大事なものがあると思っているからです。もちろん邪魔をするつもりはありませんが、声を揃えるつもりもありません。またふつう私は先輩だから、とか目上だからという理由で相手を批判することはしませんが、しかし「心が狭すぎます」と面と向かって言う人には、前便で言ったように、あなたはあなたの道を行きなさい、というほかありません。ただあなたは普通の人(?)よりも心や内面性について考えてきた人のはずです。徐さんの言う、被災者の悲しみや苦しみを「消費」することの意味、その独りよがり、思い上がりにだけはご注意ください。さあ、これで本当に最後にしましょう。お元気で。

 この文章で徐さんの名前が出てくるのは、実は今度出る『原発禍を生きる』に解説を書いてくださった徐京植さんの文章を、被災地を訪れる人の姿勢はこうあってほしいという例としてメールで引用させてもらったのである(無断で、それもケンカの武器(?)に使って、徐さん、申しわけない)。
 いやこの種の思い違いというか思い込みというか、時には親切の押し売りというか、この震災を機に何回も経験してきた。たとえば、震災直後、新聞に載った例の写真を見て、ある先輩などは、ヘンに突っ張っていないで、せめて愛ちゃんだけでも避難させては、なんなら愛ちゃんを引き取ってもいいと言ってる人がいるよ、と連絡してきた。私の娘でさえ言わないことを、よくもぬけぬけと。いや彼らは自分たちが相手のもっとも内面の領域にずかずか土足で踏み込んでいることに気付かないのだ。断わると、こちらは親切で言ってるのに、と逆恨みされるときもある。
 確かに難しいそして微妙な問題ではある。でもいつの場合でも、相手の内面、侵してはならぬ心の秘奥には不用意に踏み込むことだけは避けなければならないのではないか
 問題を急に広げることになるかも知れないが、たとえば後進国援助とか貧困からの救済の場合だって、上から目線で救ってあげるんだぞ、ありがたく思え、というような精神で事を進めてはならないだろう。
 かくして一人の友人、いや知人を失うことになったが、でもこれは仕方ないだろう。
 ところで、昨日の会話、尻切れトンボでした。少し続けてみます。


「で、結局、君にとって神はどういうもんなの?」
「恥ずかしいけど、まだはっきり結論を得たわけではない。有神論者か無神論者か、と言われれば有神論者だと答えざるをえないけれどね。ただ、今の段階でも言えるのは、既成の宗教のいずれともほぼ等距離、つまり離れているということ。そしてキリスト教やイスラム教の奉じるいわゆる人格神は結局は神話だと思うな。それに世界の歴史を見ると、いや現在においてもなお、宗教紛争の根源にあるのは、人間たちが勝手に作り上げた教義や掟に縛られて、他宗教や他宗派を排除し、ときには殲滅しようとまでする狭隘な精神で、これこそ正に本末転倒。キリスト教の歴史など正統と異端の血みどろな抗争史以外の何物でもない。これを本当に恥じ入らなければならないのに、かえって自派の正当化に終始してきた
「ちょっと待って。この問題をしゃべり出すと止まらないね。今日はその辺にしておいたら?」
「……」

児玉先生は何度か南相馬に足を運ばれたそうだが、たぶんその度に、内部被曝の、あれ何て言うんでしたっけ、堆積量?っちゅうもんを注意深く測ってるんでしょうな。つまりリミットに来たら、おっともうこれ以上は来るのよそう、なんて考えながら。どうせなら南相馬に腰をおちつけてはどう? ねえ、児玉先生も小出先生もみんな一緒に暮しましょうよ。そしたら同じこと言うんでも、表現の仕方がだいぶ違ったものになりまっせ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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被災地見学? への2件のフィードバック

  1. 成澤 弘子 のコメント:

    先生、いろんな研究者がいらっしゃいますが、児玉龍彦は、まだテイのいい方ですから、少し、ご安心ください。この頃になって、いろいろ出てくるのは、マスコミのせいもありますし、科学の派閥もありましたから。東京の民放は、どうしてもオブラートに包んだ報道しか出来ませんで、YouTubeででも検索するくらいの人でなければ、たいがいが、児玉龍彦すら知らずに暮らしているのです。

    ネット上で、私のところにも、とってもシツコイのがコメントを炎上してくれて、閉口しておりました。どうコメ返しをしても、引っかかって来て、困りました。

    賛成か反対かの振り子だけでは、平成デモクラシーを成長させて根付かせて行くのは無理で、先生のように、教育者の鏡?なら、気長にお付き合いなされるのでしょうが、私のところにやって来ては、私の言い方が手ぬるいと、私を攻撃する人は、「核は研究すればするほど欠陥のあるもの」で、また、「安心・安全が一番の商業利用だ」というように、私が科学社会学を引っ張り出して論じても、福島県の地理が分からないのか、私の哲学が分からないのか、もっと言うと、私の文章が分からない程度の国語力の方のようです。

    一方で、今現在、がん治療を受けている方は、健康がどうのこうのと人が言う度に傷つくようです。そして、一方で、自分で自分の住む場所を決める権利があるということもねえ、それを罪のようにおっしゃる人がいる。

    人をあおるように攻撃したい、つまり、なんでも文句を言いたい人、それでいて、何かの仲間になりたがって、自分は最初のオリジナルになろうとしない、つまりは、暇なのかしら~? お幸せな人ですわね。

    成澤 弘子

  2. 成澤 弘子 のコメント:

    P.S.

    あ、政府と闘う人を求めたがっているのかしら~? そういう風に、私を攻撃する人は~~~~~。

    私だって、闘ってます。でも、そういう闘い方は、詩人の闘い方ではない。詩人は詩人の闘い方をすればいいのだと、心に決めました。

    しかし、おかしな人が増えましたね~~~~。成澤

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