このところ机の足元に「幾太郎・仁」というラベルの貼られた菓子箱が置かれている。すでに遥か昔に他界した母方の祖父母の名前である。中には書きかけの遺言書やら息子の一人、つまり私からみれば叔父の一人からの借用証書などが雑然と積み重なっている。まだ生きている(といったら悪いが)母の書類群も、いや自分のものさえ一向に整理がついていないのだから、本当はきれいさっぱり棄ててしまいたいし、そうしても誰からも文句が出ない紙切れたちではあるが、なぜか棄てられないできた。
先日はその中から仁ばあさんの「私の思い出」と題する黄ばんだ便箋三枚の文章をワード文書にした。他にも同工異曲の繰言めいた書きかけの「自伝」が何枚か残っている。そのうち「原文ママ」としてパソコンにすべて収納するつもりである。べつだん彼女の伝記を書こうなどと思っているわけではない。とりあえずは彼女の孫たち、つまり私の従弟たちに配布することぐらいしか考えていない。ついでに、婿入りした祖父が株で失敗して先祖伝来の山や田畑とともに失った三階建ての大きな屋敷の写真もコピーで添えるつもりである。
ところで話は変わるが(つまり回り道をするが)、ここ数年来、これまで新聞やら雑誌やら紀要などに発表した雑文だけでなく、手元に残っていた未発表のものまで、殆んどのものを、さらには未刊行の二つの翻訳までをも私家本にしてきた。そんなものがいつの間にか19点にもなった。中には自分たち夫婦が40数年も前に交わしたラブレターや、今年の夏、手術で入院した妻に付き添った折の病室日記(と一応は言うしかないが)までも本にした。本にして他人様にも読んでもらうからには、それなりの価値があるだろうという自負がないと言ったら嘘になる(この言い方大キライ、私の記憶では確か後楽園球場でのさよならコンサートの際にキャンディーズが最初に使ったのではなかったかな。「私たち悲しくないといったら嘘になりますが…」)。が、しかしオオモトにあるのはちょっと違う感慨、今日のちょっと意味不明のタイトルに込めた考えである。
つまり偉い作家や芸術家の死後、たくさんの研究者やら伝記作家が死者の残した断簡零墨までも集めてその執筆時期やら制作動機やらを特定したり推定したりする。現に私が生前親しくしてもらった作家たちの場合にもそういうことが起こっている。それは当たり前のこと、なんら異議をはさむべきことでもない。だからこれから言うことは、実は大それたというか、世迷い言に聞こえるかも知れない。しかし最近、その考えが頭から離れないのだ。
思い切って言おう。自分の生きた痕跡やら意見やら考えなどを後世に残したい、そしてたとえ大勢からでなくてもいい、せめて何人かの人たちからでも自分のことを思い出してもらいたい、偲んでもらいたいというのは誰しもの願いであって、その願いはけっして才能やチャンスに恵まれた少数の人だけの特権ではない。だれしもそう願うなら、恥ずかしがることなく堂々とそれを実行すべきである、という考えである。
こう言ってしまえばだれにも異論はないであろうが、しかしたいていの人は尻込みしてしまう。自分たちの取るに足らない考えや表現などは消え去って当然、なにも後世に残して恥をかくまでもあるまい、などと殊勝にも身を引いてしまうのである。でもそれはおかしい。人間の一生という大局的な見地に立つなら、天才であれ名も無き市井の人間であれ、ほとんど等価値、「まあ、ぼちぼちでんな」という革命的な(?)主張である。こうなると私は、社会通念や常識に対して異議申し立てを行なっていることになる。そう、いささかのヒガミ根性と、それを大きく越える一種の怒りをこめてそう弾劾しているのである。負け犬の遠吠え?そう思いたけりゃそう思いたまえ。
たとえば、祖母の場合である。たまたま私が眼に留めなかったら、尾羽打ち枯らした夫とともに十勝開拓団に加わって渡った北の大地での厳しい畑仕事の日々、彼女の脳裏を駆け巡った不安や無念の思い、畑仕事を嫌って肖像画の外交で家に居つかなかった調子のいい夫に対する恨みつらみの数々。晩年の、長女(私の母)のもとでの静かな日の移ろいの中でもそれらの怨念は消えなかったようだ。いや、傍目には平穏で幸福な日常に見えたのではあるが、書きかけの便箋やら広告ビラの裏に書き連ねたのは幸福から見放された己が一生のへの悔恨の情である。
いや四男二女を授かってそれなりに幸福な生涯だったとは言えなくはないが、しかし彼女の内面の嵐は、だれかが思い出してやらなければ彼女も浮かばれないであろう。いま「彼女の霊も」と書こうとして辛うじて踏みとどまった。彼女の霊は極楽や天国にあるのではなく、まさに彼女を思うたびに、私たちの心に蘇る、と言うのが正確な表現だからである。だからこそ、だからこそ、私たちは自分や親しかった人たちのことを可能な限り「記録」しなければならない。それは有名人だけの特権ではないのだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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