病室から(その三十七)元気の出る妄想

九月六日(日)晴れ

 午後、頴美と愛を乗せてまずばっぱさんのところに。次いで三人を乗せて久し振りに郊外へドライブ。と考えたが途中で計画を変更して、石神のH宅へ。日曜だからだれかはいると思ったが、元校長のH子さんが畑仕事をやっていた。Kおばさんは具合が悪くて寝ているそうだ。従弟のNさんはいつもの通り元勤務校のマラソンの指導で連日出かけているらしい。帰りがけにH子さんにジャガイモをもらった。いつか畑をやりたいと言っている頴美が、指導を仰がなければならないのはこのH子さんだが、そのときは面倒みてくれるだろう。
 美子はとつぜん三人で行ったのでびっくりしたようだ。でも最近は喜怒哀楽の表現がずっと少なくなった。以前はオーバーなくらい喜びやら驚きを前面に出す人だったのに悲しいことだ。ばっぱさたちそれぞれを家、施設に送り届けた後、病室に戻って予定通り廊下でのリハビリ。午前中は昨日の二倍、午後は三倍の距離を往復したのだが、どこも痛くないらしくけろっとしている。明日あたり階段の昇り降りに挑戦してみようか。
 そのあと連続して二回も、便器に座らせる前にやっていたので(それも成功していた大の方)落ち込んでしまった。ウナムーノを読み始めたが、雲谷斎のことが気になって頭に入らない(日曜は看護師さんの数が少ないので、なかなか汚れたオシメを持っていってくれない)。しかしそんなことでは修行が足らん、精神一到、何事か成らざらん。心頭を滅却すれば悪臭もまた芳香に変ず(とはならない、なりましぇーん)。
 ところで『小説はいかにして作られるか』は、第八巻の『自伝と個人的思い出』に収録されていた。なるほど自伝のグループに入れられているか。ともあれウナムーノのような作家の作品を従来の文学ジャンルでくくるのは実に難しかったろう。生前のガルシア・ブランコ教授にはお会いしたことはないが、未亡人にはサラマンカのご自宅で何度かお会いした。サラマンカでは元総長宅のウナムーノ博物館を長らく守っておられたウナムーノの長女(これはしたり!名前が出てこない!)や、マドリードに住んでいた長男で建築家のフェルナンド氏などとお会いできたのは、いまから考えると貴重な体験だったわけだ。出てきた!フェリーサさんだ!
 ともあれ(この言葉使いすぎ)、残された日々、ウナムーノをもっと読み、彼からもっと学ばなければならない。私がもし中国の若い世代に何らかの意味で役に立つことがあるとすれば、それは日本文化とか日本文学の研究者としてではなく(その分野では私より役立つ人がゴマンといる)、日本人としてスペイン思想を研究し、それをなんとか中国の若い研究者にも伝えたいと願っていた、ということでしかありえないからである。生前はほとんど知られない存在であったが、死後、書き残した何冊かの私家本の中に、かなりすぐれた論考が含まれていた、という成り行きになればいつ死んでも(おいおい今死んではダメなんだよ、まずやってから)本望である。(何を言ってるんだろ、この人。そういうの何て言うか知ってる? そう、取らぬ狸の皮算用!もしくは絵に描いた餅、ビンゴ!)
 でもそんな成り行きになるには、誰かがその隠れた逸材(?)を見つけてくれ、しかも中国語で紹介してくれなきゃ、それこそ元も子もないのでは。それがいるんだな、それも身近に。えっだれのこと? 
 愛はまだ一歳三か月なのに、好奇心の旺盛なこと、これは頭抜けています。おじいちゃんの部屋に入ると、まさに仕事人の目でこれと眼につけたものにまっしぐらに突進します。その小さな指の、またなんと器用で力持ちなことでしょう!スウィッチ、ボタン、チャンネル、いやいやそんな大きな物でなくても、たとえば床を這いまわる小さな虫にまで彼女の興味は向かいます。小さい小さい体なのに、はっきり目的意識を持ってもくもく動く愛ちゃんを見ると、おじいちゃんはいつも訳もなく笑い出してしまうのです。おまけにこのところ、何やら中国語らしき発音の言葉を、小さな口から、イルカのような可愛い声で呟き始めました。
 そう! その愛ちゃんなら、将来きっと死んだおじいちゃんの書き残したものの中から、なにか値打ちのありそうなものを見つけ出してくれるに違いありません。(おいおい、そういうものなんて言うか知ってる? そう妄想、見果てぬ夢、ファンタジー…まっいいか放っておけ、別に害になるってわけでもねーから)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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