理性と感情


脱原発 負担は覚悟 意見公募 集計結果

 二〇三〇年時点の原発依存度などをめぐる政府のパブリックコメント(意見公募)の集計結果が二十七日、公表された。有効意見は八万八千二百八十件で、政府が示した原発比率の三つの選択肢(0%、15%、20~25%)のうち、原発ゼロ案の支持が約七万六千八百件(87%)を占めた。さらに、原発の代替手段となる再生可能エネルギー・省エネ対策については、電気料金の上昇につながるにもかかわらず「コストがかかっても拡大」が39%に上り、脱原発に向けた国民の覚悟が示された。
 国民的議論の結果を検証する二十七日の専門家会合では、多数が原発ゼロを支持する意見公募について、「国民が政府に怒っているという表明。情緒的、主観的だからといって、正当に考慮しないのは危険だ」(小林伝司大阪大教授)として、重く受け止めるべきだとの見方が示された。

(「東京新聞」2012年8月28日 07時02分)

 この暑さの中、実に爽やかな(?)印象を残すニュースであった。小林教授の意見は、こうした結果に危機感を募らせるであろう一部政治家や識者の反論を予想してのコメントかも知れないが、私からすればそれこそ見当はずれの、人間や世界についての根本的な無理解を示す「危惧」であると言いたい。
 原発事故以後、国民のあいだにようやく芽生え始めた反原発、脱原発への意志表明に対して、何人かの政治家たちがヒステリックな感情論だと決め付けたことも記憶に新しいが、しかしヒステリックな反応という評言はそっくりそのままそうした論者に熨斗をつけて返さなければならないだろう。事実、ある政治家の領土問題などへの対応を見ていると、まさにその評言が当てはまる。
 要するに歴史上人類は何度も理性で大きく過ちを繰り返してきたのであって、それに比べると感情での間違いは小規模だし一時的なものであったということだ。たとえばヒトラーが層々と積み上げた人種差別思想とその実践たるホロコーストなど理詰めで人間や世界を裁断しようとする思い上がりから生じた。
 実は少し前から、小林秀雄の「アシルと亀の子」という初期エッセイを探していたのも、理性がいかに間違いやすいものであるかを言い当てていたエッセイではなかったか、と思ってのことである。つまり理屈では、遅れて出発する足の速いアシル(アキレス)は、先行する亀の子には追いつけない、なぜならアシルが百メートル追いかけても、そのとき亀は50(?)センチ先に進み、その50センチ先の亀に追いつくためにさらに百メートル走っても、その間さらに亀は50センチ進んでる…だからアシルは永久に亀に追いつけない、などおよそ現実的ではない結論を出してしまう、そんな思考上の錯覚を取り上げたエッセイではなかったか、と。あれっ違ったかな。
 ともかくこの暑さの中、アシルの捜索は諦めた。だから見つかって読み直せば、とんでもない誤読・勘違いであったかも知れない。
 しかし理屈にしろ記憶にしろ、人間の理性的な部分はいかにも精緻でありながら実はきわめて間違いやすいものであることのもう一つの例。それはこのところの古本蘇生術の最中に起こった不思議な事件だが、一昨日以来、こんな小さな家の中で一冊の本が忽然と消えてしまったのである。もっと詳しく言うと佐木隆三の『復讐するは我にあり』という上下二巻の合本文庫本を改めて解体して装丁し直しをするときに、その下巻が消えてしまったのだ。念のためゴミ箱の中まで探したのだが、まるで神隠しに遭ったかのように見えなくなってしまった。これも美子が読んだ本で、私には特に読みたい本ではないので惜しくはないが、それにしても気持ちが悪い。どこかにひょいと置き忘れたのだろうが…
 つまらぬ例など出すな、ですか。ごもっとも。それではもっと荘厳で歴史的な例を出しましょか。史上有名なスコラ哲学にまつわる笑い話。いま詳しく調べるのは面倒ですが、たぶん反スコラ哲学陣営から出された馬鹿話なんでしょう、針の先に何人の、おっと天使は「人」で数えませんな、たぶん神様に近い存在だから「体(タイ)」でしょうか、つまり何体とまれるか、という議論です。純粋霊の天使が場所をとることはないだろう?そうです、その通り。しかし鹿爪らしいスコラ談義を続けていくと、えてしてそんな陥穽にはまってしまうぞ、という教訓話です。それと原発とどういう関係?
 分からないかな、要するにだね、頭のいい原発設計者がここまでは計算上危険ではない、ここまでは理論上安全であるなどと、厳密極まりない机上の計算の果てに原発を作ってきたのでしょうが、そんな計算上の安全とか許容範囲なんぞ想定外の自然の暴威の前にひとたまりもなく崩壊するということです。
 小林秀雄を援軍にと思ってましたがそれもうまく行かず、ここでもう一人に助けを求めよう。志賀直哉である。これも実にあやふやな記憶で、この暑さの中(おや、この人、立論のいい加減なことを暑さのせいにしてるよ)確かめるのも面倒なままに言うのだが、確か彼も理屈は間違えるが感情は間違えない、と言ってたような気がする。
 ともかく嫌なものは嫌だ、という感情は間違えようがない。たとえば反戦。戦争がどんなに愚かで悲惨なものか、おまけに割りの合わない愚行かを千万言費やして論じても、「おら戦争嫌だ」という厭戦感情に若(し)くはないそう言えば、この「モノディアロゴス」の鼻祖ウナムーノに『生の悲劇的感情』という名著があったっけ
 ともかく感情を馬鹿にしちゃいかんぞなもし。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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