徐京植先生の言葉(『原発禍を生きる』解説に代えて“「魂の重心」という言葉”より)


[前略]
玄関に現れた佐々木先生は、私の想像とは正反対の人だった。導かれて二階の居間にあがると奥様が椅子に座っておられた。挨拶もそこそこに、さっそく先生のお話が始まった。国家と個人、人間の自由と尊厳、もっと深いところで(ラジカルに)考えるということ、ほとんど共感することばかりである。私は最初の緊張を忘れ、異郷をさまよった挙句ようやく言葉の通じる人と出会ったような安堵を覚えた。
[中略]
私のような凡庸な悲観論者でなくとも今となっては誰も知っていることだが、原発禍は今後数年、数十年と続く3・11という終末論的な出来事が浪漫的な叙事詩としてではなく、個々の人間をすり減らす日々の困難としてのしかかってくるのだ。多くの人々が忘れたり無関心になったりした後になってもそれは続くのである。本書の書名は「原発禍を生きる」と決められたそうだ。ああ、なんと困難なことだろう。私は信仰のない者だが、いまは文字通り祈るような気持ちで願う。佐々木先生と奥様がこれからも続く苦境をよく生き延びられることを。そして先生がそのサービス精神に包んで差し出される切実な言葉が私たちの「魂の重心」となることを。

 二〇一一年八月一日 東京の西郊にて

(ソ・キョンシク 作家・東京経済大学教授)