1. 神の沈黙とは? 遠藤周作氏の近作をめぐって (1966年)


神の沈黙とは?
 ―遠藤周作氏の近作をめぐって―

佐々木 孝

はじめに

 『沈黙』はひとりの転びパードレ(神父)の物語である。キリシタン禁教令の施かれた当時の日本に、信徒を力づけ、師フェレイラの安否をたずねるために潜入したポルトガル人司祭ロドリゴが、一信徒の裏切りによって捕縛され、ついに師フェレイラ同様、キリストの顔を踏んで棄教するまでの顛末を語った書である。
 一個の作品をめぐっては、幾様もの解釈が成り立つ。事実、この「沈黙」も東西文化の衝突という文化史的な観点からとらえられうるし、また、キリスト教は日本に土着できるかという司牧的な観点からも見られうるし、あるいは、それまで自己の実存をかけて奉じてきたものからの離反という、転向文学の一種と解されることも可能である。だが、「沈黙」という題名からも察しられるように、氏が沈黙、すなわち神の沈黙に相当の比重を置いていたことは確かであろう。ミステリアスで不気味な神の沈黙という真空地帯のまわりに、登場人物たちはやみがたく吹き寄せられていく。言ってみれば、この作品は神の沈黙とそれに立ち向かう人問たちの戦いの記録である。
 だから、作品において沈黙がどのような意味を持ち、それがどのように扱われたかを考察することは、作品理解の鍵であるとも言える。この小論でも、その線に沿って考察を進めてみよう。


沈黙の神秘

 キリスト教を奉じたために、たくさんの貧しい農民たちが迫害され、拷問を受け、転ばされる。神は愛であるというが、この期に及んでなぜ神は慈悲をたれてくれないのか。「なぜ? そのなぜかという理由だけでも、教えてください。」ロドリゴのこの痛切な叫びは全編を通じて流れる主調音である。
 旧約の昔から現代に至るまで、神の沈黙ほど不思議なものはなかったし、神の沈黙ほど人間を苦しめたものもなかった。現代文学、持にヨーロッパ文学がこのテーマをめぐってさまざまな展開を見せてきたのも当然である。神の沈黙は、神を信じない人には不条理そのものであり、神を信じる人には神秘とうつる。だが、神秘はあくまで神秘であって、人はその前にとまどい悩み、苦しみ、どうにかしてその意味をさぐろうとする。信仰が安易なあきらめでない以上、このような人間の態度は当然と言える。
 ところで、神の沈黙とはいったい何を意味するのだろうか。人間の苦しみや不正に奇跡をもって答えないことか。あるいは文字どおりことばを使って語らないことか。両方ともそうらしい。とにかく、神が人問にわかるような意志表示を何ひとつしないことである。だが、人間にわかるような、ということを、人問の五官を通じては、というふうに皮相的に解釈してはならない。キリストがゲッセマニの園で血の汗をしたたらせながら祈ったとき、また十字架上で「わが神、わが神、なんぞわれを見捨てたまいしや」と絶叫したとき、五官にとらえられる天来の声を待っていたわけではない。心の奥深くに語りかける神の内密の声を待っていたのである。そのときも神は沈黙を守った。
 先ほど私は神の沈黙が神秘であると言った。それはどういう意味であるかというと、神の沈黙はけっして意味のない空虚さではないということである。かえって、それは意味の充満だと言っていい。これは何も神の場合だけにあてはまることではない。われわれも時として自分の表現しようとすることの内容があまりに豊富なため、つい沈黙を守るしかないことがある。不言実行ということばがある。これも沈黙の尊さを教えていることばである。意味のない駄弁や饒舌のほうが、かえって聞く人に空しさを伝える。
 神はある意味で沈黙と一体である。だが先ほども言ったように、これは意味のない空しい沈黙ではない。十字架の聖ヨハネというスぺインの神秘家は、この神の沈黙を「響きわたる孤独」と呼んだ。つまり、われわれが意味あるものとするすべては、この神の沈黙という深い井戸から汲み上げる一掬の水にすぎないのである。
 この神の沈黙を前に、人は二つの積極的な態度をとることができる。すなわち、一方は沈黙そのものの意味をあくまで問いつめながらも、なお神秘の領域を残しておくことであり、もう一方は、沈黙の意味を問うだけでなく、その沈黙を破って具体的な意志表示を神に求めることである。前者は問う者であり、後者は奇跡待望者である。前者は「なぜ……であるのか」と問い、後者は「なぜ……しないのか」と要求する。
 ロドリゴの場合に即して言うなら、そこには前者から後者への移行がみられる。 「主は何のために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試練をお与えになるのか」から、「主よあなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけない」への移行。
 私は、この移行が、謙遜な信仰者から、神に人間的要求をつきつける不遜な信仰者へのそれだ、と簡単に割切るつもりはない。それだけ事態が切迫してきたわけだし、またそれだけ神との人格的な交わりに突入したとも言えるからである。だが、両者の間には沈黙をめぐる解釈が微妙にくいちがっていることを知らなければならない。前者は沈黙を沈黙のままにその意味を問うことであるが、後者はことば(意志表示)に対立する否定概念として沈黙が扱われている。つまり沈黙はことばのアントニムとして。


ロドリゴが聞いたキリストのことば

 ロドリゴは熱っぽく神の沈黙を問いつめたあげく、ついに神の言葉を聞いた。
 「その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」
 ロドリゴはついに神の返事を聞いた。神は沈黙を破ったのだ。このへんの描写は作中もっとも迫力があり、そして同時に、感動的でもある。だがなんと奇妙な感動だろう。長い問張りつめてきた感情の突然の弛緩。キリストを踏んだロドリゴには深い哀愁がつきまとう。なぜか?キリスト自身、転ぶことをすすめたのではないのか。
 だが、ロドリゴが聞いたキリストのことばとは何か。神の沈黙の意味を沈黙のままにようやくさとることができたことか。あるいは文字どおり、人間のことばのように分節された音声を持つキリストの声だったのか。正直に言ってそのへんのことは私にもよくわからない。もし後者だったとすれば、それは文字どおり奇跡であり、それはそれで結構であるが、しかし神の沈黙は皮肉なことに最後にきて、ほかならぬ神のことばによって吹き払われ、その重さを減じることになる。
 まず妥当な解釈は、ロドリゴが沈黙の意味を聞きとった、読みとったということであろう。先ほど引用したキリストのことばも、実は正確に言うと、そのままキリストのことばではなく、キリストの言わんとすることをロドリゴが人間のことばをもってなぞったものにすぎない。つまり、沈黙の中で、あるいは沈黙をとおして語っているキリストのことばを、人間のことばに翻訳したことを意味する。
 だが、人間のことばは常にアンビヴァレント(両義的)なものである。神のことばも、人間のことばになったとたん、やはりこの制約を受けなければならない。神の沈黙というすべて意味あるものの源泉を、まるごと了解することの不可能な人問にとって、人問のことばという不完全なレシーバーを使って神のことばを聞きとらなければならないのは当然である。
 神は旧約の昔には、予言者たちをとおして、そして時満ちてはそのひとり子をとおして語った。しかし、ひとたび神のことばが人間のことばとなり(聖書)、人の子となれば(キリスト)、人間にとってそれらはアンビヴァレントなものとなる。聖書は単なる史書、文学書としても扱われたし、キリストは神を侮辱するたいへんなイカサマ師ともみなされた。
 さて、ロドリゴの聞いた(解した)キリストの声も、ひとたびそれが人間のことばとなることによって、それなりの制約を受けなければならない。つまり、人間にはとうていはかりしれない無限の神の意志の、その極少部分ともいうべきものが、わずかに人間に開陳されたことを意味するからである。
 神は「転ぶがいい」と言った、とロドリゴは解したわけだが、しかし神の真に語りたいあるいは表わしたい気持(ひとまず擬人法を使ってみるが)は、そのことばの背後にかくれてしまうのではないか。神がロドリゴに望んでいることは実は全く逆のことではなかったか。
 ロドリゴは神の答えを待っていた。しかしただひとつの答えを。「転ぶがいい」という答えを。ちょうど母親にただひとつのことを泣きながらねだる子供のように。彼が聞きとることができたのは、いや、聞きとろうと努めたただひとつの返答は「転ぶがいい」ということばであった。彼は他のことばに対しては耳しいだったろう。彼は待ちに待った答えを聞いた、そして転んだ。皮肉なことに、この答えを聞いたときから、ロドリゴの深いふかい悲しみが始まる。この答えを聞くまえは、苦しくともしかし希望を残していた。つまり待ちの状態にあった。しかし今は、はやその待望の一瞬は後方に流れてしまった。ロドリゴの心境は、ちょうどねだりにねだって得た母のゆるしのあとの、変なうつろなさびしさに似ている。
 もちろん、神に対するロドリゴの立場は、単に一個人としてのそれではなかった。彼は遅れてやってきた最後のパードレである。日本の教会の栄華はすでに去り、日一日と破局はせまっている。彼はいわば末期の眼で臨終の教会を見つめなければならない。この泥沼のような日本の地に、キリスト数が根をおろし生き続けるためには、どうしようもない業のような弱さゆえに何度もキリストを踏んでしまうキチジローのような男にも、救いが残されていなければならないのではないか。このような暗い予感は「タ陽がまるでうるんだ赤い硝子玉のように港と海に沈んでゆく」あのマカオからすでに、ロドリゴの心情にに沁み込んでいたように思われる。神の沈黙に対するロドリゴの問いかけが、この一点に集中していたのも無理はない。


貴重な問題提起

 「沈黙」をめぐってたくさんの批評がなされたが、亀井勝一郎氏は「最後まで基督をして沈黙せしめよ」と述べている。しかし、氏もつけ加えて書いているように、それは『沈黙』と言う作品の出生を拒むことになろう。つまり、『沈黙』はキリストの「転ぶがいい」ということばを聞くためだけに書かれたとも言えるからである。ある意味で、作者はロドリゴをとおしてキリストにこの答えを強要したことになる。この答えを聞くために、日本泥沼説、東西断絶論、絶対と相対など氏の文学的出発から抱えこんでいた問題がすべてこの作品一個の中にたたきこまれている。作者が本書を現代に重ね合わせて書いたことはもちろんで、これは壮大な規漠を持った実験小説と言える。
 実験、つまり神の沈黙という場をまず設定して、そこにさまざまな触媒を投げ込んで、さてどのような声がそこから出てくるかを実験するという意味で。そして、結果は初めから予想されていた。
 『沈黙』に対する私の不満も、実はこのへんに由来する。すなわち、神の沈黙に対する作者の態度が、いささか性急にすぎたのではないかということである。もちろん作品の中で神の沈黙を問いつめるのはロドリゴである。しかし、このロドリゴの姿に、ときどき作者の姿が二重にかさなって見えるのである。神の沈黙をテーマとする本書が、いささか騒がしい音色をかなでるのは、ロドリゴの声と作者の主張とが奇妙に入り混じって聞こえてくるせいかもしれない。
 ロドリゴは待ちに待ったキリストの答えを手に入れたわけだが、はたしてその答えは普遍的な意味を持つことができたろうか。つまり、ロドリゴの得た答えは、ロドリゴ個人への答えばかりでなく、泥沼に住むすべての弱き人々に対する神の慈悲の新らしいメッセージなのだろうか。ロドリゴは日本の教会を代表していたから、あるいはそう言えるかもしれない。ロドリゴの問いかけは、一匹の迷える羊のそれではなく、牧者のそれだとも言えるからである。しかし、これはそう簡単に答えられる問題ではない。作者自身もはっきりとそれを主張しているわけではなく、単に問題を提起しているにすぎないだろう。皮肉なことに、作者は正統思想(信仰)を井上筑後守に語らせることによって、確答を避けるためのバランスシートを作りあげている。氏の注意深い批評家としての眼はこういうところにも働いている。
 日本という国は、井上筑後守の言うように泥沼ではないのか、この土にキリスト数が土着するためにはいわゆる浄土真宗的な変革が必要ではないのか。作者が『沈黙』をとおして以上のような問題提起を行なっていることは明らかだが、これらがそう簡単に解決できる問題でないことは先ほども書いたとおりである。しかし、今私にも考えられることは、そのような問題が真の重さを持って浮かび上がれるのは、そしてそれがいわゆる泥沼から世界に向かって放たれうる新しい声であるためには、今一度、神の沈黙に深く聞き人るべきではないか、ということである。
 「泥沼」が実は「黄金の国」であり、神の恩寵が豊かに流れる国であった、という逆転劇、つまり弱者の復権がなされるにはロドリゴはもう少し苦しまなければならない。「転び者」のらく印を、自己を正当化することによって消そうとすることなく、いよいよ深くそれを自覚し、うみただれるまでにそれを悔やまなければならないのではないか。「転び」はあくまで「転び」であることに変わりはないからである。
  その逆転劇はまだ始まっていない。もしそれが書かれるとしたら、実は『沈黙』が終わったところから新たに書き出されなければならないのではないか。『沈黙』におけるロドリゴの最後の姿は、海のものとも山のものとも、まだ予断をゆるさない。つまり、永遠の敗者か、あるいは偉大な罪人、苦悩の聖者か、どちらに転ぶか予断をゆるさないということだ。
  神の沈黙劇はさらに続いている。われわれはあらゆる邪念と先取観念とを捨てて、謙虚に神の沈黙に耳をすまさなければならない。
  とにかく、『沈黙』をとおして遠藤氏が試みた問題提起は貴重なものであり、これを機会にわれわれの間にさらに問題を深めようとの気運がすでに見られることは、真に喜ばしいことである。

ささき・たかし(イエズス会神学生)


『あけぼの』、一九六六年八月号