オルテガ哲学における【歴史理性】の形成と発展
問題の所在
拙論の目的は二つある。一つは、オルテガ哲学の最終到達点とされる「歴史理性」の思想とは何か、いわゆる生・理性 razón vital との関係はどうか、同一のものなのか、それとも生・理性を乗リ越えた高次の理念なのかどうか、を解明すること。もう一つはその歴史理性はいかなる経緯をへて形成されたか、とりわけ、良く言われるディルタイの影響は実際にはどうであったのか、を考察することである。しかし解明の手順はむしろ逆に進められなければならないであろう。すなわちまず歴史理性の理念形成の経緯をたどり、次に、しからばその歴史理性はいかなるものか、を考察するのが筋であろう。だが両者(この二つの問題)をそう簡単に分離することができるであろうか。
たとえば彼が歴史理性という言葉を初めて使ったのはいつか、どういう経緯をへてそこに至ったのか、を問うとしても、時間的経過と共にその歴史理性の理念そのものに変化があるとすれば、先の二つの問いを分けて考察することはまったく意味を成さないからである。歴史理性という言葉そのものに内的変質があったことを示す顕著な例を挙げよう。
一九三三年から翌年にかけて、オルテガは「西洋評論」誌に三回にわたって「ウィルへルム・ディルタイと生の理念」と題する論文を発表するが、そこで次のように語っている。「生の問題に関して、生・理性の理念は、そこにディルタイがとどまった歴史理性の理念よりもさらに高められた水準を示している」(1)。 つまりここでオルテガは、生・理性の方が歴史理性より高次の理念であると明言しているのだ。しかし一九三六年から八年にわたる亡命生活の中で、おのれの思想の集大成を志したとき、彼の頭にあったのは生・理性ではなく歴史理性のことであった。一九四三年、彼は亡命先のリスボンで、弟子のフリアン・マリアスの『哲学史』(一九四一年に初版が出て、当時第二版が準備中であった)へのエピローグを書き始めるが(2)、それはエピロ―グの範囲をはるかに越えて、彼自身の哲学の集大成へとふくらんでいく。一九四四年のマリアス宛ての書簡では、それは三〇〇ページほどのものになるかも知れないと書き、彼の著作中もっとも重要なものとなるはずであると告げている。そしてその年の終わりごろの書簡では七〇〇ページになるだろう、とさらにふくらむ。
マリアスに対しては、このことは口外しないように念を押していたが、しかしその後、帰国その他の事情が重なり、結局それは末完に終わってしまう。一九四八年から翌年にかけて、彼は設立したばかりの「人文科学研究所」でトインビーをめぐって「世界史の一解釈」と題する連続講演を行なうが、そこでこの末完の代表作の題名を披露する。すなわち『歴史理性の曙』Aurora de razón historica である(3)。つまり「新しい哲学というより、あらゆる哲学とは異なる何か」(4)とまで自負する彼の思想の核ともなるべきものは、生・理性ではなく歴史理性なのである。このように、一九三三年の歴史理性と十年後の歴史理性とは、明らかにその意味内容を異にしている。
とすると、われわれの考祭に残されている道は一つしかない。すなわち歴史理性の [理念の] 形成とその発展をたどることによって、オルテガの言う歴史理性が何であるかを究明すること、これである。
歴史理性の発見
ところで歴史理性の問題をひとまず置いて、オルテガの思想そのものに発展段階を認めることができるであろうか。一九一四年の『ドン・キホーテに関する思索』、なかんずく、そこで主張された「私は私と私の環境である」という命題にオルテガ哲学が集約されているとするのがいまや定説となっているが、しかしそれは、そこに後の彼の思想がすべて顕在しているという意味ではなく、いわば透かし絵のように隠されている、あるいは可能態として存在する、という意味である。もちろんオルテガ自身にとってもそうであった。したがって顕在化の過程があり、そこにいくつかの節目があるのは当然であろう。発展段階の分け方にはいくつか説が出されているが、代表的なものにフェラテール・モーラのものがある。それによれば、三期に分けられる(5)。
第I期(一九〇二~一四年) 客観主義の時代
第Ⅱ期(一九一四~二三年) 遠近法主義の時代
第Ⅲ期(一九二四~五五年) 生・理性主義の時代
それぞれの段階のいわば分水嶺になっている著作は、『ドン・キホーテに関する思索』(一九一四年)と『生命主義でも理性主義でもない』(一九二四年)である。ホセ・ガオスも年代に関してはこれとほとんど同じ見解をとっている(6)。しかし内容に関してはかなり違った意見を提出している。彼によれば
第Ⅱ期 『ドン・キホーテに関する思索』の環境論的概念主義(el conceptualismo circunstancialista)から『現代の課題』の生・理性主義的生物学主義(el biologismo racio-vitalismo) の時代
第Ⅲ期『ラス・アトランティダス(楽土論)』 の純然たる歴史主義(el puro historicismo)から歴史理性主義的伝記主義(el biografismo raciohistoricista)の時代
そしてガオスはこの第Ⅲ期を一九二六年までとし、以後一九五五年までの第Ⅳ期を亡命の時代として一括し、創造性が後退し、代わりに集大成を目指した時期としている。もちろんモーラにしても一九二六年以降についての評価はガオスと同じであるが、両者の違いはまず『現代の課題』の評価をめぐってである。つまりモーラはその内容からすれば、『現代の課題』はむしろ第Ⅲ期に入れるべきであるが、しかし生・理性主義の観点からすれば生に比重が置かれすぎているため、第Ⅱ期に入れるのが適当である、といくぶん迷っているのに対して、ガオスの方はそれを生物学主義であるとして(生・理性主義的という形容詞はつくが) 、躊躇せずに第Ⅱ期に入れていることである。『現代の課題』が公刊されたのは一九二三年であるが、実際に執筆されたのは一九二一年であることを考えればガオスの見解の方がすっきりしている。しかしそんなことより、ガオスの見解の方が明解であるのは、生・理性主義を第Ⅲ期のものとしないで第Ⅱ期と第Ⅲ期にまたがるものとし、そして第Ⅲ期の特徴を、その生・理性主義が歴史あるいは歴史主義の影響のもとに歴史理性主義という表現をとったことにあるとしている点である。
この意味で言うなら、ガオスが指摘するように、第Ⅱ期と第Ⅲ期の分水嶺たる著作は、モーラの挙げる「生命主義でも理性主義でもない」よりかは、 同じ年(一九二四年)のそれより数ヶ月前に書かれた『ラス・アトランティダス(楽土論)』とする方が妥当ではなかろうか。
しかしどちらにしてもどこかに無理が生じる段階区分にこだわってみたのは、実はオルテガが歴史理性という言葉をはじめて使ったのが第Ⅲ期の初まりの年である一九二四年であり、しかも『ラス・アトランティダス』においてであるからである。ところでこのエッセイはトゥト・アンク・アモン(第十八王朝末の第十二代のファラオ、在位、前一三四七年頃~一三三九年頃)、いわゆるツタンカーメンの王墓発掘(一九二二年)をめぐる騒ぎから筆を起こし、幻の大陸アトランティスを語りながら、現代人にとっての新たな歴史感覚の必要性を説いたものだが、そこに次のような言葉が見られる。
「……もしわれわれが或る問題を前にして、その絶対的な解答を求めるなら、われわれはヨーロッパ的な規準を離れて、或る激しい内省によって、自分たちのヨーロッパ主義から解放されることをことさらに意図するであろう。歴史的限界からわれわれを解放するこうした内省こそが歴史なのだ。それゆえ私は、絶対的なるものの器官たる理性は、純粋理性であるばかりでなく、明確な歴史理性となることによって自己を完成する場合にのみ完全なものとなると言ったのである」(7)。
これは同じ時期に書かれた「歴史感覚」というエッセイの最後の言葉、すなわち「理性がもしも数学的もしくは論理学的なものにすぎないなら不完全なままにとどまるのはこのためである。古くからの理性にわれわれがまさに今日付け加えなければならないのは、歴史理性であり歴史感覚なのだ(8)」を受けての発言である。
確かにここには歴史理性という言葉が使われている。しかし後の歴史理性主義で意味されているものと同じものであろうか。ともあれ現段階でこの問いに答えることはできない。さらに先に進んで、特にディルタイとの出会いの後に徐々に明確にされていくはずの<歴史理性>との比較においてしか答は出てこないであろう。
したがってわれわれは次にディルタイとの出会いに考察を進めなげればならないのであるが、その前に、なぜこの時期に歴史がオルテガの関心を惹くようになったかを考えてみたい。
C・モロン・アロージョによれば、きっかけはシュぺングラーにある(9)。周知のように、『西欧の没落』の第一巻が出版されたのは一九一八年であり、第二巻はそれより四年後の一九二二年に世に出た。ヨーロッパ思想界に鋭い目くばりを忘れたことのないオルテガがこれにいち早く着目したのは言うまでもない。その証拠に、彼の主宰する「二〇世紀思想文庫」の一冊としてガルシア・モレンテ訳が出たのは一九二二年であり、オルテガはこれに協力し、さらに短い序文を守せている(10)。そこで彼は、この本が圧倒的な共感をもって迎えられたのは、壊滅したドイツという特殊事情によるものではなく、まさに生まれるべくして生まれた書、時代の必然性に裏打ちされた書であると述べたあと、いまこの書を要約したり批判するにはあまりにも豊かな観念と問題性をはらんでいるので、批評は別の機会を期したいと語っている。そしてその約束を果たそうとしたのが、或る意味で前述の「ラス・アトランティダス」なのだ。
しかしそこで展開されているシュペングラー論はきわめて手厳しい。批判の骨子がどこにあるかといえば、シュペングラーがヨーロッパ文化の相対性を認めたことは正しい、しかし問題はそこで終わるのではなくて、実はそこから始まることに彼は気づいていない、というところにある。「シュペングラーの労作は諸文化―― 人間の歴史的諸事実―― の相対性を示すことが絶対的な仕事をすることであることに気づかずに、自分自身の首をしめている。人間的諸形式の相対性を認めることによって、歴史は相対性を免れた一つの形式に着手するのだ。この形式が或る特定の文化 [ヨーロッパ文化] の内部に起こったということ、そしてそれが西欧人の中に出現した世界観であるということは、その絶対的な性格を否定するものではない。一つの真理の発見はつねに正確な日付けと場所をもった出来事である。しかし発見された真理は場所と時間を超越する。歴史は歴史理性なのだ。つまり、物理学が自然そのものではなく、反対に物質を支配せんとする試みであるのと同じ意味で、歴史的素材の可変性を超克せんとする努力であり道具なのである」(11)。
つまりシュぺングラーがヨーロッパ文化の相対性を主張したことは偉大な業績ではあるが、しかしその相対主義は一つの時代錯誤であり誤謬である、というのである。なぜなら「隣人が自分たちとは異なるものであることを納得するためには、その隣人から距離を置かなくてはならない。しかし同時にわれわれは、にもかかわらず彼がわれわれ同様に一個の人間であり、その生が意味を放っていることを発見するためには彼に近づかなければならない」(12)からである。歴史感覚は人間類型の可変性の意識であるが、しかしだからといってわれわれは相対主義に即くべきではなく、さらに進んでその歴史感覚を鋭敏にし徹底させることによって、われわれのそれを含めた人間真理の諸範疇が今まで決して同じものでなかったことを認識する必要がある。それが新しい歴史感覚であり歴史の意味なのである。これはまさにディルタイの見解ではなかろうか。
ディルタイとの出会い
前述のようにオルテガは一九三三年から翌年にかけて、『ウィルへルム・ディルタイと生の理念』を発表する。これはオルテガ自身とディルタイの出会い(書物を通じての)をたどりながら、ディルタイ哲学の根本理念ならびにその限界を述べたかなり長文のエッセイである(はじめ彼はこれを一冊にまとめるつもりで書き出したが、結局は雑誌掲載のままにとどまった)。これによると彼が「ディルタイの哲学的業績のいくぶんかを知るようになったのは、ここ四年来のことである。充分な意味で彼を知るようになったのは、ほんの数ヵ月前からである」(13)。 もちろんそれまでディルタイがオルテガにとって全く知られていなかったわけではない。彼がスぺイン政府の奨学生としてドイツにわたった一九〇五年にもディルタイに近づこうとするが、そのころディルタイは大学での講義はせず、自宅でごく限られた数の学生にしか講義をしておらず、また彼の著作を読もうとするが、書店で求めることはできず、そして図書館にあるものはつねに借り出されていたという前史がある。
ところでP・ガラゴーリの綿密な探究によると(14)、それまで(すなわちオルテガがはじめてその名前を引用する一九二八年以前に)、 ディルタイのことがスペインでまったく知られていなかったわけではない。驚くべきことには、早くも一八九〇年にホセ・デ・カストロがその『哲学史』の中でディルタイに関して次のように言及しているのである。
「歴史研究から出発したディルタイは、実在の認識の基礎は認識の理論にあるのではなく、精神的生の全体性が表現するあの独自な意味にあるのであって、その第一段階が歴史感覚であることを発見する。哲学的諸学問は <歴史理性批判> を要請している」。
スペイン語で「歴史理性」という表現が使われたのは、もちろんこれが最初である。その後一九〇六年、クラウシスタのヒネール・デ・ロス・リオスがR・ファルケンべルグの『カント以後のドイツ哲学』を翻訳する際、原著にはないが同じ著者の別の本から抜粋したディルタイ論を独自の判断から翻訳紹介している。さらに一九一三年には、このヒネール・デ・ロス・リオスが、かなり詳細にディルタイを論じている。
このようにディルタイはスべイン語圏にかなり早くから紹介されてはいたが、ディルタイ思想のたんなる紹介ではなく、その根本理念の歴史的位置づけと批判を加えて論じたのはオルテガの前記論文が最初である。ところでオルテガがかなり詳細にわたってディルタイとの出会い、というより出会いの試みの失敗とその遅延を強調しているのは、それなりの目的があってのことである。というのはディルタイ哲学がドイツ国内にあってもあまり知られることがなく、ましてやその意義と重要性がしかるべく評価されるのがあまりに遅かったのは、実はディルタイの思想そのものに内在する原因に、そしてもう一つはディルタイの方法に起因すると考えたからである。次にそれを見てみよう。
理念と信念
まずオルデガは、理念と大理念(あるいは大文字の理念)とを区別する。すなわち「大理念は、たんなる思いつきとは正反対のものである。小文字の諸理念は人間の頭に浮かぶことも浮かばないこともありうる。それはまったくの偶然に依存しており、この偶然のおかげてそうした諸概念の組み合わせが、個人の精神のうちに起こるかあるいは起こらないのだ。しかし最上級の理念は、人間の心に浮かばざるをえない。なぜならそれは、人間の運命の必然の形、つまり人類がそれまでの理念を使い果たしたときに不可避的に到達せざるをえない一つの発展段階だからである。ストア哲学、合理主我、観念論、実証主義はこうした類の理念である。したがって、これら大文字の理念に関して、それらがあれこれの人間の中に存在する――彼らの頭に浮かぶ――ということは意味をなさない。むしろ反対に、人間の方がある特定の日からそれら理念の中に存在するのだ。彼らがすること、考えたり感じたりすることはすべて、彼らが気づこうが気づくまいが、あの根源的な霊感、つまり彼らがその上で活動する歴史的土壌、彼らが呼吸する雰囲気、彼らの実体そのもの、を構成する根源的霊感から発するのである。それゆえこれら原型的諸理念の名称は時代を指し示している」(15)。
ここで言われている大理念、大文字の理念、そして最上級の理念は、後に「理念と信念」(一九四〇年)で詳説される信念 creencia と重なっていくことは言うまでもないだろう。つまり人は理念を持つが、しかし信念の中に生きるのである。あるいは、人は理念を操作するが、信念を糧として生きる、と言い換えてもよい。
そして、人間がその中に存在しはじめた新しい大理念(信念)こそが生の理念である、とオルテガは言う。ディルタイはこの未知の岸辺にたどりつき、そこを歩み始めた最初の人間の一人なのだ。しかし最初の人間にありがちなことだが、ディルタイもこの新しい大陸、新しい土地にたどりついたことを明確に自覚していたわけでなかったし、それを全的に所有することは決してなかったのである。初めて姿を現わしたときには実に容易に料理できると思われたこの理念は、ディルタイがそれでもって明確な概念に従わせようとはかった知的正確さから日ごとに遠ざかるばかりであった。
これは思想家としてのディルタイの無能のせいであろうか。いや決してそうではない。なぜなら大理念というものは、その要素もしくは成分がたがいにきわめてかけ離れている一つのオルガニズムだからである。つまり大理念はきれぎれに生まれ、そしてその一片一片は個々別々に看取されるのである。それが真の意味で信念となるためには、時問がかかるのである。たとえば地動説が一つの信念となるためには、それが発見されただけではだめで、約一世紀が経過しなければならなかったのと同じ理由からである。
オルテガは、ディルタイを知らなかったことによっておよそ十年を失ったと言っているが、それはオルテガがディルタイに遅れること十年にしてディルタイと同じ地点に達したということではない。彼は、自分の作品中にはディルタイの見解と一致するものはほとんど無いし、またそれらを含んだりそれらが先行のものと想定されるようなものさえない、とまで言い切っている。そればかりでなく、彼はそもそもの第一歩において(一九一四年の『ドン・キホーテに関する思索』)、生の理念の軌跡に関しては、すでにディルタイからはるか先の地点から出発していたと断言している。つまり両者の関係はあくまで平行関係であるとする。なぜなら平行関係はまさに一致を排除し、たんに厳密な意味での照応を意味するにすぎないからである。平行線はいかなる点においても交わることはできない。一方は他方より進んだ、そして完全な水準から問題を見ているのだ。そしてすぐその後に、先に引用した問題の言葉が語られる。「生・理性の理念は、そこにディルタイがとどまったところの歴史理性の理念よりもさらに高められた水準を示している」。
なぜディルタイはオルテガの言う生・理性の、新しい生の理念の解明にたどりつかなかったのか。それをごく大雑把に要約するなら、ディルタイがあくまで時代の子であって、哲学的なるものすべてを諸科学ならびに <文化> と直接かかわるものとみなし、実在的なるものとはただ間接的に、そして前者を介してかかわるものとしたところにある。それゆえディルタイは <人間> という実在についての科学がそうあるべきであった自己認識そのものの理由づけをせずに、人間が実践してきた諸々の知識の理論へと戻っていってしまう。たとえば一時期彼が心理学に大きく傾いていたなどはその良い例である。
こうした彼の時代のひだこそ、ディルタイが彼自身の充満に達することを不可能にした。かくして、「<精神的生>を基礎的実在とする彼の天才的な洞察は永久に言葉を失い、それをつきつめることができなかった――なぜなら認識論的偏執が、あるいはカント的ならびに実証主義的な存在恐怖症(オントフォビア)がそれを妨げたからである」(16)。
つまりディルタイは歴史を分析はしたが、しかし歴史の区分ごとにさまざまな形で実現される人間の存在を分析しなかった。ある意味でディルタイの言う歴史理性はあまりに認識論的側面に傾きすぎており、人間の生についての存在論的深みに入りこむには無力であったと言うことができよう。先に引用した「生の問題に関して、生・理性の理念は、そこにディルタイがとどまった歴史理性の理念よりもさらに高められた水準を示している」とのオルテガの見解の真意もこのへんにありそうである。
ディルタイはその著『精神諸科学序説』(一八八三年)をヨルク伯に献呈する際の書簡で、彼の意図は言うなれば <歴史理性批判> にあったと書いているが、この表現からも明らかなように、彼が目指していたのはカントの <批判> 書に対抗することであり、自然諸科学に対して精神諸科学を基礎づけることであった。したがって歴史理性のその歴史 [的] という形容詞は、その対象から引き出されてくる。つまり <精神> とその仕事、すなわち自然諸科学を除外しての文化的諸事実から引き出されているのだ。この意味では、物理―数学的論証と歴史的論証とは相互補完的であり、両者とも意識にその基礎を有している。ディルタイ自身が言っているように、それこそが「外的世界の実在性に関するわれわれの確信の起源ならびにそれの理由づけ」に対する関心の動機であった。つまるところ彼の言う歴史理性は歴史に内在する諸事象のための、あるいは<についての>、理性である。彼は歴史の諸法則、それの理解のための適切な論理ならびに概念を発見することを目指したのである。ついでに言うなら、『ラス・アトランティダス』(一九二四年)を書いたころのオルテガにしても、歴史感覚という用語から推察できるように、このディルタイの見解に近い立場にあったと言うことがでぎよう。
ともあれこの一九三三年の『ウィルへルム・ディルタイと生の理念』で言われている歴史理性は、未完に終わった、というより幻の集大成たる「歴史理性の曙」の歴史理性とは似て非なるものであった。
体系としての歴史
オルテガの歴史理性の理念が正面きって取りあげられ、その輪郭を明らかにするのはそれから二年後の一九三五年に発表された『体系としての歴史』においてである。
「人間は自然を持たない。人間が持つものは……歴史である。あるいは同じことだが、事物にとって自然であるところのものが、人間にとっては歴史――なされたこと res gestaeとしての歴史なのである」(19)。
これは良く引用される有名な言葉であるが、一九二三年に発表された『現代の課題』にもこれと似た言葉があったことをわれわれは知っている。そこでは、「生は独自性であり、変化であり展開である―― 要するに生は歴史なのだ」(20)と述べられている。しかしこれは生は変化であると言っているだけで、その一年後の『ラス・アトランティダス』でのシュペングラー批判の言葉がそのまま当てはまるのではなかろうか。つまり生は変化であると認めるだけでは一歩も先に進まない。それは生の理解の始まりにすぎないのである。その変化に内在する法を見出さなければならないのだ。といってもオルテガにその志向が無かったわけではない。前稿で指摘しておいたように、一九一〇年の『楽園のアダム』ならびに一九一四年の『ドン・キホーテに関する思索』で展開されている遠近法主義にその萌芽を充分認めることはできる。だがそれがさらに哲学的厳密さを増して理論化されるのは、一九三三年の『ガリレオをめぐって』で時代の危機の考察を行なったのちの『体系としての歴史』においてなのである。なぜなら歴史理性の登場は、理性そのものの危機という状況下において始めて可能だからである。
「理性の本質を知性を操作する特定の様式として成立させるような理性の定義はすべて、狭隘なものであるし、のみならず、理性の決定的な次元を切断し、鈍化させて、理性を不毛なものにしていると言わなければならない。私にとっては、理性とは、この言葉の真の、厳正な意味において、われわれを実在に接触させるところのあらゆる知的活動のことであり、それによってわれわれが超越的なものに出くわすところの知性のあらゆる活動のことである」(21)。
「従来、歴史は理性とは反対のものとされてきた。ギリシアにおいても、<理性> と <歴史> とは意味の対立した言葉であった。実際また、いままでだれ一人として歴史の中に合理的な実体を探究しようとはしなかった。たかだか、歴史に歴史とはちがった理性を押しつけようとする試みがなされたぐらいだ――形式主義の彼の論理を歴史に注入したへーゲルとか、心理学的な、物理学的な理性を注入したバックルとかのように。 私の意図はそれらとはまったく逆である――すなわち歴史自体の中で、その根源をなしている理性、いわば土着の理性を見出そうとするものである。したがって、<歴史理性> という表現はその十全な意味において理解されねばならない。歴史理性は、けっして歴史の中で遂行されているかに思われている歴史外の理性ではなく、文字どおり、人間に起こってきたものであり、一つの独立の理性である。それは 人間の諸理論を超越するところの実在の開示であり、人間の諸理論の下によこたわっている人間自身がそれであるところの実在の開示である」(22)。
オルテガはこの歴史理性主義をさらに体系的に展開し、彼の全思想の集大成を前記『歴史理性の曙』で試みようとしたが、ついに果たせなかったのである。しかし書かれたものからだけでも、もしその意図をもって詳細に検討していくなら、『歴史理性の曙』の全体像が浮び上がってくる可能性は大きいはずである。こうした試みは、私の知るかぎりまだ本格的には行なわれていないようである。
生・理性と歴史理性
さてわれわれは最後に、しからば生・理性と歴史理性の関係はどうなっているかを簡単に見ておかなければならない。いままでの叙述では、歴史理性の登場をまって生・理性は退場したかに思われるかも知れないが、実は決してそうではない。生・理性は乗り越えられたわけでもないし、捨て去られたわけでもない。ラソン・ビタルは最後まで有効なのである。とすると、両者の関係如何という問題が起こってくるが、それに関しては大きく分けて四つの見解を考えることができよう。
第一のものは、たとえばC・A・バリーニャスの言うように、両者は並列の関係にあるとする。つまり生的・歴史的理性(razón vital historica)というように。しかしこれは「生は歴史である」というオルテガ自身の言葉と矛盾する。
第二のものは、G・フェルナンデス・デ・ラ・モーラの言うように、生・理性は形而上学を構成し、歴史理性は方法論を構成するという見解である。
第三のものは、J・L・アべリャンの言うように、歴史理性は生・理性が個的局面で意味しているものを集団的局面に投影したものという見解である。
これら二つの見解は、なるほど明解な腑分けではあるが、そう簡単にいくかどうか、かなり疑問である。
第四のものは、これら二つの表現に本質的差を認めない立場で、A・L・キンタスなどがこの見解に立っている。つまり理性は生的であるがゆえに歴史的であり、歴史的であるがゆえに生的である。したがって、たとえば razón vital historica は重複強意(プレオナスティカ)であるという見解である。この第四の見解があたり前の意見とは言え、やはり事実にいちばん即していると思われる。
予定されていた紙幅が尽きたのでこの辺で稿を閉じなければならないが、実は歴史理性の外郭線を大急ぎでなぞっただけにとどまった。内容に立ち入ったより精密な考察はまた他日を期さなければならない。
註
(1) Obras Completas de J. Ortega y Gasset, vol. VI, p. 175, Revista de Occidente, Madrid, 1961 (4 ed.)
(2) O. C. IX, p. 347.
(3) ibid., p. 83. 白水社「オルテガ著作集」第七巻、小林一宏訳、126ページ。
(4) ibid., p. 348.
(5) Obras Selectas de J. Ferrater Mora, vol. I, pp. 122-124, Revista de Occidente, Madrid, 1967.
(6) La Torre, Año IV, Num. 15-16, Julio-Diciembre 1956, Universidad de Puerto Rico, “Los dos Ortegas”, pp. 127-140.
(7) O. C. de Ortega, vol. III, pp. 313-314. 西澤龍生訳『反文明的考察』、東海大学出版局、1966年、53ページ。
(8) ibid., p. 264. 前掲書、52ページ。
(9) Ciriaco Morón Arroyo, “El sistema de Ortega y Gasset”, Ediciones lcala, Madrid, 1968, p. 304.
(10) O. C. de Ortega, Vol. VI, pp. 309-311. 西澤龍生訳、前掲書1-6ページ。
(11) ibid., pp. 312-313. 前掲書、52ページ。
(12) ibid., p. 311. 前掲書、49ページ。
(13) O. C. de Ortega, vol. VI, 170.
(14) Paulino Garagorri, “Unamuno, Ortega, Zubiri”, Editorial Plenitud, Madrid, 1968, pp. 115-122.
(15) O. C. de Ortega, vol. VI, p. 166.
(16) ibid., p. 213.
(17) Cf., C. Morón Arroyo, ob. cit., p. 305.
(18) Cf., Paulino Garagorri, ob. cit., p. 117.
(19) O. C. de Ortega, vol. VI, p.41. 白水社『オルテガ著作集』第四巻、井上正訳、33ページ。
(20) O. C. de Ortega, vol. III, p. 198. 白水社『オルテガ著作集』、第一巻、井上正訳、260ページ。
(21) O. C. de Ortega, vol. VI, pp. 46-47. 白水社『オルテガ著作集』、第四巻、348-349ページ。
(22) ibid.,pp.49-50. 前掲書、354-355ページ。
(23) Cf., A. López Quintás, “Filosofía española contemporanea”, Biblioteca de Autores Cristianos, Madrid, 1970, p.132.