黄金色に輝く日々
振り返るとなぜか私にとって静岡時代、つまり常葉学園大学で過ごした五年間が黄金色に見えてくる。もっとも、だれにとっても「青春」は振り返れば黄金色に見えるものなのかも知れない、たとえ恥ずかしさやほろ苦さゆえにセピア色に見えることがあろうとも。そう言えば、大林宣彦監督の『青春デンデケデケデケ』や、明らかにそこから影響を受けたと思える中国映画(監督名は失念した)『太陽の少年』の中でも、登場人物を含めたすべての風物が不可思議な黄金色に輝いていたのが思い起こされる。これは「青春」を構成するすべての微粒子(賢治風に言うと《微塵》)が「かけがえのないもの」だから、あらゆるものが黄金色に見えるのであろう。
しかしもちろん常葉時代の私自身が「青春」の只中にあったわけではない。一九八四年から一九八九年までといえば、私自身は四十五歳から五〇歳だったのだから立派なおじさんである。しかし振り返るとなぜか常葉時代は「わが青春」という思いが強い。自分自身の青春があまりぱっとしなかったから、遅れてきた青年のように、これが自分の青春である、と血迷ったからか。いやそうではない。なぜならあの当時も、刻一刻過ぎて行く時の中で、今自分が二度と出会うことのない「青春」を生きているとの意識があったからだ。正真正銘(?)の青年はそんな風には時間を意識しないものだ。しかしもっと正確に言うなら、そのとき体験していたのは自分の「青春」というより、不思議な運命に導かれて出会った学生たちの「青春」に自分も全面参画しているとの意識であったろう。そして今を生きるといういわば前向きの意識に重なるようにして、未だ来ぬ時から今を振り返るという、いわば後ろ向きの意識があったと言ってもいい。だからあの当時、これが教師生活の一種の蜜月(小豆島の大石先生の体験)だということをしきりに自分に言い聞かせていたし、周囲にもそのように言っていた記憶がある。
毎年夏、伊豆の子浦でやったスペイン語合宿のときの8ミリフィルムが残っている。当時常葉学園は、どういういきさつがあったかは知らないが、明治の政治家で文筆家でもあった小泉三申(本名策太郎、一八七二–一九三七)の別荘を合宿所として使っていた。
今でも古い映写機でフィルムを回すと、8ミリ特有の回転音と共に、その合宿所の玄関先でカメラを前にはしゃぎ回る学生たちや、その中央に当時ふざけて蓄えた、まだ黒々とした口髭の私の姿が飛び出してくる。逆光の中の荒い粒子の中で、映像は文字通り黄金色の微塵となってスクリーンとレンズのあいだの金色の帯の中に蘇ってくる。いや蘇ってくるというのは錯覚で、あのフィルムに閉じ込められた「時」はもう未来永劫戻ってくることはないのであろう。しかし……
今から考えると実に滑稽で独りよがりな理由(ある故人への忠義立てのようなもの)で常葉から八王子の女子大へと移ったとき、友人からは何か居づらくなる理由があったのでは、と勘繰られたが、それはまったく事実に反する。私にとって教師生活の中でもっとも幸福な時代が常葉での五年間であった。それには学生たちとの出会いだけでなく、心許せる同僚たち、そして実に寛大に学科経営をまかせてくださった諏訪学長、海野学部長、岩本事務局長などという上司や先輩(無念!以後そのような幸運には恵まれていない)の存在が大きく関わっていた。
ところでスペイン語学科の草創期を知らない現在の学生諸君には、あまりピンとこない回想記ととられたかも知れないが、この年老いた教師にとっては、常葉スペイン語学科の草創期は今もなお思い起こす度に胸を熱く焦がす「生きている過去」だということはぜひ分かっていただきたい。
あゝ、今日も常葉時代の思い出が黄金色の微塵となって私の心を満たしてくる!
常葉学園大学、イスパノアメリカ文化研究会 機関誌 “Retama”
第十六号、二〇〇〇年