ウナムーノと第二共和制
はじめに
最近、と言ってもすでに4年前になるが、ゴンサロ・レドンドは、1917年から1934年にわたるオルテガの政治活動ならびに政治的見解を、「エル・ソル」、「クリソル」、「ルス」など、その当時オルテガがその政治的見解の発表の場とした新聞・雑誌に直接あたって、大部にわたる鋭い分析を試みた(1)。どこの国においても事情はほぼ同じてあろうが、しかしスぺインにおいては特に、現実政治において新聞・雑誌が果たす役割は異常なまでに大きい。その意味でこのレドンドの著作は、オルテガの政治思想ばかりでなく、当時の状況を知るうえで貴重な文献となりえている。
さてウナムーノの場合だが、その政治思想、政治活動を正面きって取りあげたものと言えば、筆者が閲読した範囲では、雑誌掲裁の論文を別にするなら、エリアス・ディアスの『ウナムーノ再検討』、ジャン・べカルーの『ミゲル・デ・ウナムーノと第二共和制』、そしてブランコ・アギナーガがその著『98年代の青春』に収めた『ウナムーノの社会主義(1894-1897)』をまず挙げることがてきよう(2)。
ディアスのものは、1965年に出版されたアンソロジー『ウナムーノの政治思想』の序文をさらに敷衍したもの(出版は1968年)で、ウナムーノの政治思想の全体像を知るうえでもっとも体系的な論考である。彼はウナムーノの政治思想の根幹をなすものとして、自由主義、精神主義、個人主義を挙げ、またウナムーノの対抗思想、つまりテーゼに対するアンチテーゼの思想として、彼の反ファシズム、反進歩主義、反共産主義をとりあげ、さらに彼の挫折したジンテーゼの試みとして、民主主義、マルキシズム、そして社会主義との決裂を論じている。
J. べカルーのものは、すでに1962年にフランスで出版された『スペイン第二共和国(1931-1936)』(3)を踏まえて書かれたもので、ウナムーノと第二共和制の関係を、小著ながらきわめて手際よくまとめている。スペイン語版は1965年に初版が出た。
そして最後のブランコ・アギナーガのものは、ウナムーノが青年時代の一時期(特に1894-1897年)社会主義に接近したことを過少評価してきた従来の説に疑問を投げかけたものである。つまり従来、ウナムーノの社会主義への接近は皮相なもの、一時的なものであり、ウナムーノの思想全体に及ぼした影響などほとんど無視できるというのが一般的見解であった。
しかし、悲劇的・苦悶的・闘争的ウナムーノという一面的ウナムーノ像をその著『静観的ウナムーノ』(1959年)(4)によって見事にくつがえしたブランコ・アギナーガは、この問題に関してもその逆転劇を演出した。実はこれは,1965年、ニメーガにおいて行なわれた「第2回イスパニスタ国際会議」における講演をもとにした論文で、その発言に対してはかなりの抵抗があったことをアギナーガ自身が伝えている(5)。
ところで以上の3書を通読して感じられるのは、ある種のもどかしさである。おそらくそれは、ウナムーノの政治的発言なり行動なりを、それらが生きられた具体的状況の中でとらえられていないことから来るもどかしさなのであろう。やはりウナムーノの場合も、先のレドンドの著作のように、当時の新聞・雑誌を丹念に渉猟する作業が残されているわけだ。
もともと政治的見解というものは、それが抱壊され発せられた具体的状況という文脈において、初めてその充全たる意味を獲得するものであろう。
『小説はいかにして作られるか』のフランス語版の訳者ジャン・カスーは、その冒頭に付した「ウナムーノの肖像」の中て、ウナムーノの思想は「本質的に解釈学的な思想である。独自の教義をもたぬウナムーノは、評釈書(コメンタリオ)しか書いていない。つまり『ドン・キホーテ』の評釈とか、べラスケスの評釈とか、プリモ・デ・リべーラの演説の評釈とか」(6)と言いた。それに対してウナムーノは次のように応えている。
「カスーは、わたしが評釈しか書いてこなかったと語っている。わたしがこのことがじゅうぶん理解できず、評釈とそうでないものとの違いがどこにあるのかうまく把握てきないけれど、おそらく『イーリアス』もトロイヤ戦争のエピソードに関する評釈にすぎず、『神曲』も中世カトリック神学の終末論の教義にたいすると同時に、13世紀の波瀾に満ちたフィレンツェの歴史や、法王と神聖ロ―マ帝国との抗争にたいする評釈でしかないと考えると、心も静まるのである」(7)。
だがウナムーノの「評釈」を、冷静で客観的なもの、対象に即した評釈と考えることは大きな誤解を生むであろう。彼の『ドン・キホーテ』評釈である『ドン・キホーテとサンチョの生涯(8)』(1905)を一読すればそのことは明白である。つまりそこにあるのは、熱情的、主観的、そして自己に即した評釈だからである。
ともあれ、拙論では、ウナムーノと政治、特に第二共和制時代における両者の関係を前記3著を視界に入れながら、エリアス・ディアスの『ドン・ミゲルの生涯』(注11参照)を手引にしながら考察してみよう。
1. 第二共和制の危険なシンボル
独裁者プリモ・デ・リベーラの忌諱に触れてフエルテべントゥーラ、パリ、エンダヤと6年のあいだ亡命生活を送ったあと、ついに1930年2月9日、ウナムーノは国境を流れるビダソア川を越えてイルンに入った。帰国後まもなく書いた『キリスト教の苦悶』(初版はフランス語版で1925年に出版された)のスペイン語版に付した序文の中で、彼はこう書いている。
「本書を書き終え、フランス語での出版を終えたあと、今年(1930年)の2月になって、わたしは、わたしのスぺインに帰れると信じ、そして事実帰ってきた。それは、祖国の深奥であるこのサラマンカにおいて、わたしの市民としての――あるいは政治的と言ってもいい――闘いを再開するためであった」(9)。
市民たちの熱狂的な歓迎を受けながら長く苦しい亡命から故国スペインに戻ってきたとき、おそらくウナムーノには、これでようやくスペインにも政治的な安定が、国民の総意が現実に生かされる政治が到来するだろうとの期待感があったに違いない。そして自分もその実現をめざしての闘いに一役買うこともできるだろうと考えたにちがいない。
プリモ・デ・リベーラに代わって政権についたべレンゲル将軍、アスナル提督は、世界恐慌のあおりを受けた労働者のストライキや、各地の農民運動の前になすことを知らず、国民の中に共和制を望む声がしだいに強まっていたからである(10)。そしてサラマンカ大学の総長に返り咲いたウナムーノは(11)、こうした共和主義運動のシンボルであり希望であった。たとえばその年の4月末、週刊誌「ラ・カリェ」が読者を対象に行なった模擬選挙「共和国大統領にだれを望むか」で、投票総数6万5,218のうちアルカラ・サモラが第1位で3万3,984票を獲得し、ウナムーノが第2位で1万413票を獲得している(12)。
もちろんウナムーノは、そうした意味での政治的野望はまったく持ち合わせていなかった。先に挙げた『キリスト教の苦悶』の文章に次の言葉が続けられていることからもそれは明らかであろう。
「そしてわたしがその戦いに没頭している間も、わたしの昔からの、いやより正確に言えば、わたしの永遠の宗教的苦悩が湧き上がるようによみがえってくるのが感じられた。そして,わたしが情熱をこめて政治的見解を大音声で表明する間にも、次のような声がわたしにささやき続けたのである。“そのあとどうなるのだ。すべては何のため方のか。何のためなのだ”。わたしはその声を、あるいはその声の主をだまらせようと、進歩や社会的礼儀や正義の信奉者に向かって熱弁をふるい続けて来たが、それは同時に、わたし自身にそうしたことの素晴らしさを納得させんがためでもあった。しかし、もうこれ以上わたしは、こうした道を歩み続けたくはない」。
これが書かれたのは1930年の10月だが、しかし「歩み続けたくない」その道を、ウナムーノは最後まで歩み続けなければならなかった。ウナムーノのこの内心の苦渋は同時代の人たちからほとんど無視された。ウナムーノは来たるべき共和国の希望でありシンボルであったばかりでなく、また旧体制を維持し王制を存続させようとする人たちにとっても無視できない貴重な存在だったからである。
1931年4月12日の地方選挙で、初めウナムーノは共和・社会両党連合の候補者として立候補したが、手違いから結局は無所属で出馬し、526票を得て当選した(13)。このときの地方選挙は、各地で共和・社会両党の候補者が圧倒的な勝利を収め、これで事実上共和制の第―歩が印されたわけである。一日置いた14日の午後5時、革命委員会の代表アルカラ・サモラがマドリード市庁舎から共和制樹立を宣言し、同9時半アルフォンソ13世は国外に逃亡した。その当時人々の口に上ったのは、前述したように、ウナムーノが大統領になるのではないかといううわさと、もう一つはウナムーノがポルトガル駐在大使に任命されるといううわさである。
ついでにそのとき下馬評に上った各国駐在大使の名前をあげると、マラニョンがフランス、ぺレス・デ・アヤラがイギリス、オルテガがドイツ、サルバドール・デ・マダリアーガがアメリカ、アソリンがアルゼンチン、アメリコ・カストロがキューバといったぐあいで、いかにも新・共和国らしい錚々たる文人大使が名を連らねていて面白い。
それらはすべてうわさにすぎなかったが、確実なのは4月27日、ウナムーノが「 公民教育評議会」の議長に任命されたことである。
そして5月28日に、憲法制定議会の議員を選出する総選挙が行なわれるのだが、これにもウナムーノは自らの意志というより周囲からつきあげられて立候補した。開票の結果、ウナムーノは2万8,559票で第2位に当選した。このとき、CEDA(スぺイン自治右派連合)の指導者となったヒル・ロブレスも、このサラマンカ地方で2万6,041票の5位で当選したが、票差から見ても大接戦だったことが推測される(7人の当選者の最後が2万3,450票であった)(15)。
さらにこの選挙の結果を、前回の地方選挙と比べてみるなら、前回のそれが明白に左派の圧倒的勝利であったものが、今回のそれては左右の力関係がむしろ逆になりつつあることを示している。1位当選のヴィリャロボスは穏健なレントゲン科の医者で、選挙民が、相つぐ教会焼打ちなどの激しい左翼運動に警戒を示して、政治家というより温厚な市井人に票を集めたこと、そして5位から7位までがはっきりと右翼を表明する人が選ばれていることからもそれがうかがえる。
このころのウナムーノが、王党派や保守派にとっても無視できない貴重な存在だったことは前述した通りだが、それはどうしてかと言うと、この頃からすでに、ウナムーノの政治的発言は、他の革新系の人たちの顰蹙を買うようなものが多くなっているからである。たとえば、革命とか共和制それ自体では何の意味も有さないとか、王制はスペイン民族の統一に与って力があり、排斥さるべきはスぺイン的王制であって王制的スぺインではないとか、進歩派からはスペインの宿痾の一つとみなされてきた《領袖政治》(カシキスモ)を擁護するエッセイを発表したりしている(16)。 彼の言動が「逆説的」であるとの批判がいよいよ高まってきたのもこのころである。これらの批判に対するウナムーノの反論は、1931年9月に書かれた「炭焼き諸君へではなく山羊飼い諸君へ」(17) というエッセイに明らかである。
この場合の炭焼きとは、自ら考えることをせずに盲目的信仰をもって或る党派に属している人たちであり、山羊飼いとは「右派でも左派でもなく、王党派でも共和派でもなく、進歩主義者でも反動家でもなく、アナーキストでも社会主義者でもなく、深い意味において普遍的な人たち」である。もちろん後者は,ドン・キホーテの長口舌を、矛盾・逆説を、矛盾・逆説のまま聞いたあの山羊飼いたちの後裔である。
さてこの年(1931年)に起こったもう一つ興味深い事件は、10月1日、サラマンカ大学て行なった新学年開始講演において、「一(いつ)にして主権を有する普遍のスペイン閣下(Su Majestad España)の名のもとに、私はこの大学の1931-1932年の学年歴の開始を宣言する」(18)と述べたことで、これは大変な物議をまき起こした。
またこの頃、カタルーニャの自治問題が議題にあげられ、共和国のたてまえから、それに反対することは反動のレッテルをはられることを意味したが、この年の10月22日の国会での演説(19)で、ウナムーノは言語の問題をからめながらこの問題をとりあげ、カスティーリャ語こそスペイン全体の国語でなければならぬとして、またまた革新系の人たちを激怒させた。しかし結局ウナムーノの主張は入れられず、それ以後彼は、実践的な政治活動から次第に遠ざかってゆく。
つまりウナムーノは、彼が夢を托した第二共和国が次々とその現実の欠点を露呈させてきたことから、次第にそれに対する距雑感を覚え始めたわけだが、彼の置かれたそうした位相を知るうえで、彼が1932年2月、マドリードの「エル・アテネオ」で行なった講演は(20)示唆的と言えよう。これはホアキン・コスタを称える集会であったが、ウナムーノはそこで、実はコスタを語りながら己れを語っている。
「或る種の人格性を持ち合わせている一部の人たちと同じく、コスタのような人をだしにして、人はすべてを、どのようにでも自分の側に有利なように解釈することができる。コスタのような人たちは、直線の人ではなく、矛盾の総体(それこそ人に生をもたらすものである)の中に生きているからである」。またコスタを評して、「矛盾と孤独の人」と言っているが、まさしくこれは当時のウナムーノ自身の心境を語ってあまりある。
その年の夏は、「カタルーニャ自治令」をめぐって議会は大いに荒れたが、そのときのウナムーノの国会での演説(21)は、彼の従来の所見をくり返すもので、カタルーニャがカスティーリャ語を公用語とすることを再度主張している。そして彼自身の孤立無援の戦いを正当化し、国会議員の無節制ぶり、識見の無さを痛烈に批判している。つまり、己れの良心に反して投票することはいけないことだが、それよりもさらに悪いのは、無意識裡に投票することである。彼らはいま投票するのは何を決めるための投票かというより、どちらに投票すべきかを仲間に聞いてまわっている。 だが徒党を組まない彼にはそれを聞く相手がいない。というより,彼の多数者は彼自身であり、彼の内部ては、それら多数者(マジョリティー)がいつも一致を見るわけではないのだと言っている。
2. 言葉による愚行
さて1932年も、スペイン第二共和国にとっていよいよ多事多難な年となった。10月にはアサーニャ内閣が総辞職し急進党のレルーが後継者として指名されたが、議会の信任を得られず議会は解散した。しかしその後ようやく誕生したレルー政府も、いささか逆コースのきらいがあり、そのためアラゴン州の多くの町でストライキが頻発した。また同じく10月、先の独裁者プリモ・デ・リベーラの息子で、ドイツに行ってヒトラーに心酔して帰国したホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラが、ナチスを真似た組織「ファランへ・エスパ二ョ―ラ」を創立し、いよいよ右傾化の動きが活発化した。そしてその年の11月19日の選挙では右翼が勝利を占めることになる。
このころウナムーノを悩ませていたものは右翼の台頭に反発して各地で起こっている革命騒ぎのことであった。しかしウナムーノがもっとも心を痛めていたのは,そうした革命運動とそれを弾圧する側にくり広げられる事実としての暴力というより、むしろそこにはしなくも現われ出た言葉による愚行に対してであった。
1933年1月、「エラルド・デ・アラゴン」に発表した「それは革命ではない」(22)というエッセイには、次のような言葉が見られる。
「経済的危機という意味で危機が話題になるとき、私はすぐ精神的危機について考えてしまう。飢えについて語られるとき、私は知識への飢えのことではなく、自己自身を了解することへの飢え、意識への飢えを考えるのである。また過激派であると言われているあれら自称革命家諸君が話すのを聞くとき、彼らの……教説?…の極端な過激主義が私を不安にすることはなく、むしろ彼らのいわゆる理念たるもののおそろしいまでの混乱について心が痛むのである。分けのわからぬ用語が何と幅を利かせていることか。…中略…いやいや、われわれはいいかげんなものを革命などと呼ぶつもりはない。…中略…とりわけある人が歴然とした、否定すべくもない不正、正当化てきない、というより馬鹿げた乱用を指摘するとき、それを否定することをせず、またそれを正当化することもしないで、“何を言いたいんだ、それは革命だ!” だと言い返す――言い返すのであって答えるのではない、二つは同じことではない――ことがはやっている現今においてはなおさらのことである。ちがう、それは革命ではない。なかでも悪いのは、そうすることによって民衆が判断しないように、議論しないように、考えないように慣らし、民衆を愚かにしてゆくということである。愚者化こそ最悪の倒錯なのだ」。
もちろんことわるまでもなく、ここで言われている愚者化は、パスカルの言う意味でのそれ(s’abêtir)ではない(23)。そしてここでウナムーノが非難しているのは、革命の担い手たちに対してばかりでなく、そうした愚行をさそい出すこれまたま頑迷な保守派に対してでもあることは、翌年の11月、すなわちカタルーニャやアストゥーリアスのいわゆる「10月闘争」の直後に書かれたエッセイの次の言葉からも明らかである。
「最近の革命騒ぎやそれの弾圧の際、スペインの未来にとってより重大な危険信号であったのは、事実としての暴力沙汰であるよりも、言葉による暴力というよりも愚行であった。…共産党の宣伝用パンフレットの底知れない愚かさに匹敵できるのは、品位とか愛国心を独占しようとする者たち、つまりそうした反スペイン的愚行をつくりあげた者たちのやはり庭知れない愚かさであった」(24)。
3. 戦争の中の平和
左右両勢力間の手段を選ばない、あるいはウナムーノの言葉を借りるなら「手段が目的を正統化する」(25)泥試合と、またウナムーノを自派の宣伝合戦に使おうと躍起になっている両勢力間の争いの中でウナムーノは疲れた。「戦争の中の平和」(26)、「安らぎへの渇き」(26)、「炎の舌が大地に沈む」など、激しく安らぎを求めるエッセイが書かれたのもこの頃である。派閥争いと徒党の群れが渦巻く首都マドリードを逃れて、たとえば山間地や海岸地方のどんづまりの町や村、ちょうど「空間と時間とそして思考の淀み」のようなそれらの町に行き安らぎを見出すこと、これがこの頃ウナムーノを襲ったやみくもな渇きだった。「行き、通りすぎ、また道を続けるための村や町ではなく、行き、とどまり、また戻ってくるための村や町」に対するウナムーノの好みには、実は探い根がある。たとえば彼の処女小説である『戦争の中の平和』(1897年)、あの第2次カルロス戦争と故郷ビルバオを描いたいた『戦争の中の平和』の終章も、緑濃いビスカヤの山々にかこまれた静寂な世界の描写で終わっている。主人公の一人パチーコは、闘いの疲れ、死への恐怖から徐々に癒え、故郷の山に登ってゆく。
「頂上に身を横たえ、測り知れない無窮の青空の下、巨大な祭壇の上で休んでいると、諸々の心配事の産みの親たる時間がその歩みを止めたかに思われる。晴れた日など、日が落ちてから、まるで生きとし生ける者すべてが、すがすがしい周囲の清浄さにその内部をさらけ出すかのように思われた……荘厳な四囲の静謐なシンフォニーにまどろんで、諸々の観念は沈黙し静かになる。諸々の心配事が消えてゆく。そして大地と身体との接触感が消滅し、からだの重みが消え失せてゆく」(29)。
逆説的・戦闘的ウナムーノの姿はここにはない。ここにあるのは揺れ動く歴史の波の底にあって不動の世界、彼の言う 内–歴史(イントライストリア)であり、そしてそこに生きる人たちは「一日じゅう、そして地球上のあらゆる国々において、太陽の命じるままに起き出し、日毎の、そして永遠に続く、ひそやかで沈黙に満ちた労働を続けるために畑に出向く」(30)人たち、革命とか進歩、王党派とか共和派に何らの意味も認めない人たちである。
しかしウナムーノは、17世紀の偉大な異端者、あの静寂主義のミゲル・デ・モリーノスのように、静寂と安らぎの中にいつまでもとどまるにしては、あまりに矛盾に満ち、内心深く「内戦」をかかえていた。ちょうどこのころ書いたエッセイ「戦争の中の平和」で思い起こしているように、小説『戦争の中の平和』の最後は次の言葉で終わっていたのだ。
「真にして深い平和の中においてこそ、戦争は理解され正当化される。そこにおいてこそ唯一にして永遠の慰めたる真理のための聖なる戦いの誓いがなされる。そこにおいてこそ戦争を聖なる仕事に変えることができるのだ。平和を捜さなければならないのは、戦争の外にではなく、戦争の内部、まさに戦争の深奥においてなのだ。平和は戦争そのものの中にある」。
もちろん、ここで彼が言う戦争は、真の意味での市民戦争あるいは内戦(Guerra civil)である。なぜ「真の意味での」とことわるかというと、「非–市民戦争」(Guerra civil incivil)(31)なるものもあるからである。ウナムーノを巻きこみ、ついには祖国スペインを陰惨な兄弟殺しに追いこむであろうところの内戦は、ウナムーノにとって「非–市民戦争」であったことは明らかである。
「同胞に対する実り豊かな共感にうながされて、一人ひとりのスぺイン人が、自分のうちに伝統と革新という二つの傾向、つまりもっとも有益な適正さを目指しつつ、つねにあい闘い意志を通じなければならぬ二つの力を、自分の内部で競い合うがままにしておかなければならない。すなわちそれは人生が有する高次の問題と熱望の中で闘うすべての人が己れの内部に感じる矛盾する二つの魂であり……ウナムーノがその胸に秘めていた二つの魂、つまり果てしなくそしてつねに実り豊かな論争状態にある伝統主義的な魂と自由主義的な魂である」(32)。
こう書いたのは、歴史家・文献学者メネンデス・ビダルである。ウナムーノにとって、そしてそれ以上にスぺインにとって不幸であったのは、ウナムーノの言う「市民戦争」が正しい意味で理解されなかったことであろう。
4 政治上学(メタポリティカ)
結局ウナムーノにとって政治とは何であったのだろうか。同時代人として、ウナムーノの良き理解者であったアントニオ・マチャ―ドはこう言っている。
「ドン・ミゲル・デ・ウナムーノは現代スぺインの政治のもっとも卓越した人物である。彼は豊饒な精神の市民戦争に先鞭をつけ、そしてそこから新しいスペインが現われ出るはずである――あるいはもう現われているのかも知れない。私は彼をわが国の政治的生命の鼓吹者、というより人間化する人と呼ぼうと思う」(32)。
これはいかにも詩人らしいウナムーノ評である。しかし同じ文学者ではあるが、外国人の眼で、より厳しくウナムーノを眺めたエレンブルグの次のような言葉もある。
「ウナムーノは彼の時代情況を本のページを通して愛していた。しかし事態を直接に認識したり、国会に押しかけた大衆の叫び声を聞かなければならなくなると、いささか動顚して窓際から離れ、彼が深い眠りの中で生きてきたあの古いスペインを夢見るために時代の欄外に身を置いてしまう」(33)。
確かにこのエレンプルグが言うように、いまとここに焦点を合わせなければならない政治の世界でウナムーノの政治姿勢には現実的な効力に欠けるところがあることは否定できまい。ここには政治と知識人という背理と逆説をかかえた困難な問題が横たわっている。それでは知識人は現実政治とはかかわりを持たず書斎にこもってひたすら学問の世界,創造の世界に専念すべきなのであろうか。
かつて故国スペインを追われて、パリで亡命生活を送っていたウナムーノは、そうした批判に対して次のように答えている。
「あそこ、わがスぺインでわが友や敵は、わたしが政治家でもないし、またわたしにはそうした素質が、ましてや革命家のそれなぞ備っていないのだから、詩や小説の創作活動に精進して、政治からは離れるべきだと言っていた。それではまるで、政治を行なうことが詩を書くこととは別事であり、詩作が政治を実践する別の方法ではないかのごとくではないか」(34)。
生涯何よりも自分が分類されることを激しく嫌悪したウナムーノにとって政治の場という特別な領域が存在していたわけではなかった。ジャン・カスーの言うごとく、ウナムーノは、「思想とか現世での一時しのぎの経済――精神的ないしは政治的――を構成するであろうような一切のものにいささかの関心も示さないスペインの偉人たち」の一人であり、「彼らには,個人的なもの、したがって永遠なるものの経済しかない。
だからウナムーノにとって政治を行なうことは、依然として己れを救済することなのである。それは己れの人格を護り、主張し、歴史の中に永遠に参入させることである。それはあるひとつの教義や党派の勝利を確固たるものとしたり、領土を拡張したり、あるいは社会秩序を覆したりすることではない。そうであってみれば、たとえウナムーノが政治を行なったとしても、彼はいかなる政治家とも理解しあえないのだ。…なぜなら、彼が論争しているのは,己れ自身とだからである」(35)。
カスーのこのウナムーノ評は、もっとも正鵠を射ている。ウナムーノ自身命名したように、彼の政治は現実政治を超える政治,すなわち政治上学(メタポリティカ)であったからだ。
しかしながら、このウナムーノの言葉にさそわれてのっけから彼の政治上学(36)に参入することは、彼の思想の正しい理解には繋がらないであろう。たとえばわれわれは、1922年、アルフォンソ13世に呼ばれて、王宮に出かけて行ったウナムーノ、1935年2月、サラマンカで行なわれた「ファランへ・エスパニョ―ラ」の晩餐会にのこのこと顔を出したウナムーノにつきあう必要があるのだ。そしてそれらの誤解されやすいウナムーノの―連の行動は、先のエレンブルグの評言とは反対に、彼が可能なかぎり現実に近づこうとしていたことの証左である。
エミリオ・サルセードはその著『ドン・ミゲルの生涯』で、1935年2月、すなわちウナムーノがかつての宿敵の息子でいま新興右翼の領袖であるホセ・アントニオを自宅に迎えたときの情景を伝えているが(37)、血気盛んな右興の闘士と、生涯己れに忠実であったこの年老いたリべラリストの会話が微妙に屈折してかみ合わない様子が実に印象的である。このオールド・リベラリストの視線は、若い「愛国主義者」のそれが届かぬはるかな先に向けられている。
さて拙論はこれまで、主にJ. べカルーの『ウナムーノと第二共和国』と、現在までもっとも信用に値するエミリオ・サルセードの『ドン・ミゲルの生涯』に手引きされながら、1930年から1935年に至るウナムーノの政治的側面を検討してきたわけであるが、第二共和制終焉の年、スペイン内乱勃発の年でありウナムーノの死の年でもある1936年の彼の政治活動、政治的見解については触れることができなかった。
それについてはまた別の機会に考察してみたいが、しかしそのときには、その当時書かれたウナム―ノの書簡と、そしてもし可能ならばレドンドが試みたように、 当時の新聞・雑誌に直接当たる作業を自分に課してみたい。
繰り返しになるが、そうした作業を経てこそ、 ウナムーノの思想、とりわけ政治的なそれの正しい理解に近づけると思うからだ。 つまりウナムーノの政治上学理解するには、 ファランへ党員の晩餐会に場違いにもまぎれこんだウナムーノのように、たとえそれが邪悪で卑少な情況であろうとも当時の現実にでき得るかぎり身を置いてみなければならないだろうからである。
注
1) Gonzalo Redondo: Las empresas políticas de Ortega y Gasset, vols. l, II, Ediciones Rialp, S. A., 1970.
2) Elias Diaz: Revisión de Unamuno, Análisis crítico de su pensamiento politico, Editorial Tecnos, Madrid, 1968.
Jean Becarud: Miguel de Unamuno y la Segunda Republica, Ed. Taurus, Madrid, 1965.
Carlos Blanco Aguinaga: Juventud del 98, Siglo XXI de España Editores, S. A., Madrid, 1970.
3) Jean Becarud: La Segunda Republica espanola: 1931-1936, Taurus Ediciones, S. A., Madrid, 1967.
4) Carlos Blanco Aguinaga: El Unamuno contemplativo, El Colegio de México, 1959.
5) 批判の先陣を引き受けているのは、たとえばかなり右翼的な思想を持つフェルナンデス・デ・ラ ・モーラなどである。
6) 杉山武、大久保光夫訳、法政大学出版局 『ウナムーノ著作集』 第5巻『人格の不滅性』、所収、477ページ。
7) 前掲書、51ページ。
8) A・マタイス、佐々木孝訳、法政大学出版局 『ウナムーノ著作集』 第2巻。
9) 神吉敬三,佐々木孝訳、 法政大学出版局、1970年、19-20ページ。
10) スペイン北方の避暑地サン・セバスチアンに、共和党、急進党、社会党、カタルーニャ党右翼の領袖が会して、王制反対の革命委員会をつくったのは、1930年8月 17日である(斎藤孝著 『スペイン戦争』、中央公論社、1966年、 21ページ)。また翌1931年2月、オルテガ、グレゴリオ・マラニョン、 ペレス・デ・アヤラが「共和制奉仕集団」を創設した。
11) ただし正式に復帰したのは、帰国翌年の5月22 日である。ウナムーノがサラマンカに戻ったとき、現学長と教授団が決裂し、ラモス・ロスセルタレスが臨時の総長となった (Emilio Salcedo: Vida de don Miguel, Ediciones Anaya, S. A., Salamanca, 1970, p.329)。
12) Jean Becarud: Miguel de Unamuno y la Segunda República, p.11, nota (3).
13) E. Salcedo, op. Cit., p.342.
14) ibid., p.347.
15) ibid., p.349.
16) “Obras Completas de Unamuno”, Ed. Escelicer, Madrid, 1966, vol. VIII, p.1153.
17) “O. C de Unamuno”, vol. III, p.1156.
18) “O. C. de Unamuno”, vol. IX, p.399.
19) “O. C. de Unamuno”, vol. IX, pp.400-403.
20) “O. C. de Unamuno”, vol. IX, pp. 408-416.
21) “O. C. de Unamuno”, vol. IX, pp. 435-443.
22) 拙訳、A ・マタイス、 J ・マシア編 『ウナムーノ,、オルテガ往復書簡』 (以文社、1974年)に所収(194- 199ページ)。
23) 邦訳 『キリスト教の苦悶』、 第9章「パスカル的信仰」、特に137ページ参照。
24) cf. J. Becarud: Miguel de Unamuno y la Segunda República, p.46.
25) “O. C de Unamuno”, vol. III, p.820.
26) “O. C de Unamuno”, vol. VIII, pp.1192-1194.
27) “O. C de Unamuno”, vol. VII, pp.l114-1116.
28) “O. C de Unamuno”,vol. VII, pp.l123-1125.
29) “O. C de Unamuno”, vol. II, pp.299-330.
30) 拙訳、法政大学出版局『ウナムーノ著作集』第l巻『スペインの本質』所収「生粋主義をめぐって」、23ページ。
31) Elias Diaz, Op. cit., p.127.
32) 拙訳、メネンデス・ピダル『スぺイン精神史序説』、法政大学出版局、1974年、 188-189ページ。
33) cf. J. Becarud: Unamuno y la Segunda República, p.9.
34) 『ウナムーノ著作集』 第5巻「人格の不滅性」、78ページ。
35) 前掲書、46ページ。
36) “O. C de Unamuno”, vol. VI, p.669.
37) op. Cit., pp. 389-390.
(『南欧文化』、第二号、文流、 一九七五年)