砂糖菓子は壊れたか(曽野綾子論2)
曽野綾子の作品には、「たまゆら」の世界、薄明の世界への希求が色濃く流れていること、そしてそれはなぜかという問題提起で前号の私の小論は終わったと思う。しかしこれはそう簡単に答えられる問題ではないし、いろいろ作家自身の創作動機といったものを推測してみたところで、それらは単なるこじつけの域を出ないことは明らかであろう。それに曽野氏のように、「なぜ書くか」ということよりも「なにを書くか」ということの方へよりウェイトのかかった出発をした作家に対して、創作動機をうんぬんしてもはじまらないかもしれない。
曽野氏の作家としての出発は、普通に比べるとかなり恵まれた出発だったと言ってよいだろう。きわめて順調にすべり出し、その後も大きな破綻も停滞もなく進んできたように思われる。もっともこれは無責任な第三者から見た感じにすぎないから、曽野氏自身の内面の真実とは、ほど遠い憶測にすぎないかもしれない。しかし外見には少なくともそう感じられる。
このことは、作家の創作態度として確かに健康であると言えよう。特に現代のように、過度に敏感な意識がはんらんしている時代にあってはなおさらそうである。私たちの時代は病的なほどの意識に囲まれて疲弊している。意識は終わりを知らないまでに細分化し鋭敏化して、不健康な自己増殖を続けている。意識は、さらに意識を生んでゆくのである。
これはちょうど、鏡にうつる自分の姿を別の鏡で写し、さらにそれをもうひとつ別の鏡で見るというぐあいにであって、人はこの「鏡の間」で限りなき自己拡散を続けなければならないのである。ほんらい、というのはつまり健康な人間にとって、意識は行動に過不足なく伴うものであったが、現代人にとってひとつの行動に対し、実におびただしい数の意識が乱反射しているのである。こうなるとよほど強靭な意志力の持ち主でないかぎり、自意識の波におぼれて身動きがとれなくなってしまいそうである。
この事実から、また別の、というより裏返しの危険が現代をおびやかしている。つまり思考停止、無動機の行動がそれであって、これは意識の過重に耐えかねて、一挙に原始の状態に帰ることである。現代の若者たちを毒している無反省、無動機、無道徳(これは非道徳、反道徳でさえない)も、実は意識過剰に悩む現代が生んだ奇形児だと言うことができよう。「頭にくる、トサカにくる」ということは、雑多な意識に腐蝕されている頭にはもはや内省や反省が不可能なのである。そのとき人間は、動物や原始人と同じく、単なる本能や条件反射によって行動するが、その本能といい行動といっても、動物や原始人に見られる健康な本能でもないし、行動でもありえないのは当然であろう。
作家も現代人である以上、このような現代病に無縁ではありえない。文学というものが社会の上部構造かどうかは別としても、確かに言えることは、文学であるかぎりどうしても時代の病といったものを敏感に反映しているということである。「島屋敏雄論「(本誌一~三月号)でも述べたことだが、現代文学のおちいっている危機は、同時に現代の、そしてそこに否応なく投げ出されているところの私たち自身の病でもある。この現実に作家はどう立ち向かうべきか。医者としてか、病者としてか。
前号で私は、曽野氏は氏の生活体験を通して人生の観察者の位置を獲得したと書いた。つまりそれは、氏が現代および現代人の病思を冷静に観察する臨床医の目を獲得したということであろう。ということは、いかに人間存在の不安定、悲惨、そして懐疑を描いたとしても、作者の目が冷静であり不動であるかぎり、そこには破綻がありえず、文体は安定しているはずである。
曽野氏は人生の観察者の位置を獲得した、と再三私は述べてきたが、しかしはたしてひとりの作家が純粋に観察者としてとどまることができるだろうか。もしできるとしたら、かれは自己の位置を固定し、自己の観点を絶対的なものとしなければならないだろう。そしてこれは自己を、自己をとりまく小宇宙の王とすることで、そのかぎりではここには真の発展がありえない。完全に自足しきった状態である。その小宇宙にうごめく人間たちはたしかに生まれ、食べ、話し、愛し、憎み、そして死ぬであろう。
しかし真の意味で生きているのではない。かれらは作者という小さな神の予定調和の世界に生きる操り人形にすぎないのである。そこにはもはや謎はなく、ましてや神秘の入りこむ余地もない。不断に継続されてゆく創造もないのである。曽野氏はこの危険を、いつごろかわからぬが、敏感に意識しはじめた。
「もし再び人生をくり返さなければならないとしたら、それはあくまで《懐疑》の上に立ったものでありたいのだ」(マルタン・デュ・ガール)
これは曽野氏が『われらの文学』曽野綾子集の冒頭に選んだことばである。昨今のような全集物全盛の時代には、ひとりの作家が種類の異なるシリーズに何回も選ばれて、そのたびに「好きなことば」を書かなければならないのであるから、作家によってそのつど選ばれることばも、そう事あらたに問題にしないほうがよいのかもしれない。しかし私には曽野氏によって選ばれたこのことばが、氏の肉声そのもの、氏の内心の叫びそのものに聞こえてくるのである。氏は当然このことばを吐くほずだったという気持さえしてくる。氏は自分の構築した小宇宙に息苦しさを感じ、なんとかそこから抜け出してゆこうと焦慮しているのではないか、と漠然とながら私は感じたからである。
先月号の文章を書き終えたとき、実は曽野氏の最近作が手に入らず読むことができないでいた。氏は昨年『砂糖菓子が壊れるとき』という長編を書いているのである。ところがさいわいにも遠藤周作氏にお会いしたとき、氏からそれを借りることができた。遠藤氏はそのとき、『砂糖菓子』はぼくが感心している好きな作品だと言われたので、私も大いに期待した。それに私には、今まで述べてきたように、氏の文学が今ひとつの転換期にさしかかっているのではないかという漠然とした予感があったので、この最近作の題名がかなり気になっていたのである。つまり『砂糖菓子が壊れるとき』。
読み終えたときの感想を言わせてもらえば、私の期待はなかば満たされ、なかば裏切られたと言おうか。もっとも、私は遠藤氏の言われた意味でのおもしろさは、じゅうぶんわかったつもりである。実に曽野氏の面目躍如たるものがあるのである。ひとりの自由奔放な、それでいてきわめて純真な肉体女優の一生を、作者は実に愛情をこめて描いている。主人公・千坂京子に託して、氏は今までの作品に比べて数段と自由に、すなおに、氏自身の面目を伝えているからである。
遠藤氏によると、この作品の主人公・千坂京子のモデルは、アメリカの女優マリリン・モンローだそうで、そう言われてみれば確かにいろいろな点で符合するところがある。貧しく不幸な境遇に生まれながらも、肉体の美しさによってはなやかな人生の檜舞台にあがってゆく。しかし外面のはなやかさの裏に、自分がこうして人からちやほやされるのは、ただ自分の肉体のためだけであって、ほんとうの自分はだれからも理解されないし、ましてや愛されることもないのだ、という底しれぬ不安が巣くっていく。事実、彼女はその美しい肉体ゆえに慕いよる男たちから次々と裏切られ捨てられてゆく。しかし男たちが彼女を捨てるのではなく、男たちに、彼女の強く深い愛についてゆくだけの能力が欠けていると言ったほうが当たっているかもしれない。こうして彼女は不幸な経験を通して、女優としてまた人間として愛のうちに成長してゆくのであるが、その愛に応じるだけの強い愛にはついに恵まれない。男たちは彼女の深く激しい愛の前にたじろぎ、そして去ってゆくのである。
劇作家・五来克己との結婚は、彼女にようやく幸福な家庭を約束したかに思える。しかし彼もある日とつぜん、彼女から身を引いてしまう。彼もまた京子の愛に疲れてしまうのである。彼女にとっての初めての悲劇『砂糖菓子が壊れるとき』により主演女優賞を受けたという朗報を知る直前に、彼女は睡眠薬によって、自殺とも過失ともとれる謎の死をとげてしまう。
五来克己との不幸な体験を通して、彼女は次のような感懐を述べていた。
「私は、五来さんを知って以来、初めて、彼の中の愚かさにふれた。それは、私にとって最後の救いになるのだろうか。神さまのような五来さんの中にさえ、人並みなずるさと愚かさがまじり合っている。私も安心して愚かに生きる、ということを、実は悟らせるために、彼はわざとこうした卑怯さをさらけ出して見せているのかもしれない。」
「五来さんは私の心から、いっさいの愚かしく、しかもこの世に生きるために最もたいせつな執念の火を消して行った。これだけはおそらくユタちゃん(友人である新聞記者のなまえ)にもわからない、私の内面の大きな変化だった。」
真実の愛を求めながらも、ついにそれを手にすることのできなかった女、愛の中に真実を求めながらも、そこに人間の弱さと限界に出会わなければならなかったひとりの人間、これは曽野氏が初期の作品から好んで取りあげてきた人間像である。先ほど私は、この作品に対する期待はなかば満たされたと言ったが、それはこの作品に「たまゆら」の世界へ逃避することを拒否しようとする積極的な何かが、少なくとも意図されているからだ。そして期待がなかば裏切られたと言ったのは、最後にきてまたあの「たまゆら」の世界に帰ってしまうからである。睡眠薬の飲みすぎという不注意によって決定的な勝負を逃げている。私は曽野氏にもっと積極的な、建設的な主題を打ちだせと要求しているのではない。はなはだ無責任な言い方になるが、人生や愛に対する不信や懐疑そのものをさらに疑ってもらいたいのである。「たまゆら」の世界に逃げ道があるかぎり、懐疑は徹底せず、それはあくまで甘い、自足した世界である。砂糖菓子は壊れなければならないのだ。
この作品にも描かれた宗教人批判(京子が通ったミッション系の大学の)もわからぬことはないが、どうも感情的で表面的な批判に終わっているように思われてならない。
「いや、それでけっこうです。疑うなんてことは、古の昔から、一度だって美徳であったことはないんですから」
これは劇中劇ともいうべき五来氏の作品の誘惑者のことばである。しかし懐疑を逆に疑うことによって、そこに真理への活路が開けてくることも確実であろう。曽野氏の今後の飛躍を願いつつ、いささか性急にすぎたこの試論を終えよう。
(『あけぼの』、一九六七年八月号)