女性への鎮魂歌
(『華岡青洲の妻』)
有吉佐和子著『華岡青洲の妻』書評
先日、大学時代の友人から電話があり、双方都合のよいときに会って話をしようとのことであった。終わりのほうで彼は、何か言いにくそうな口調で「実は最近いろいろ問題があって別居してしまった」と言った。私はそれをてっきり夫婦間の不和のことととってしまったが、数日後、駅まで出迎えてくれた彼とことばを交じえるうち、どうも話の調子がおかしい。が、問題が問題であるだけに、露骨に問いただすこともできず、とうとう彼の住んでいる家の前まで来てしまった。ところが、玄関をあけたとたんに迎えに出たのが、正真正銘の奥さんなのである。どうも早合点してしまったらしい。最近別居した、というのは、それまでいっしょに住んでいた彼の母と若夫婦が別々の家に住むことになった、という意味だったのである。
離婚などということがあまりめずらしいことでなくなった現代においても、やはり昔からの嫁としゅうとめの問題は続いているらしい。「人間がくらすべきトコロは、どうして家というものでなくてはならないのだろう」と安岡章太郎がどこかでボヤいていたが、家が続くかぎり、嫁としゅうとめの問題も常に新しくそして古い問題なのだろう。
有吉佐相子の『華岡青洲の妻』という小説がべストセラーになっているそうだ。ふだんはべストセラーなどというものに意識的無関心をよそおっている私だが、ある人からぜひ読んでみろとすすめられたので、ついつい最後まで読んでしまった。おかげで最近になくめずらしいよい読書ができたと思っている。
華岡青洲という人は、天保六年七十六歳で世を去った著名な医者である。著名な、というのは、彼が世界最初の全身麻酔による手術に成功した医者だからである。紀州にあって代々医を本業とする華岡家に生を享けた青洲が、母や妻をも実験台にすることによって、ようやく全身麻酔に成功する史実を話の骨格としてはいるが、しかし小説の主人公は、この青洲の妻となった加恵である。
そして主題は、責洲を中にはさんでの母於継と妻加恵の文字どおり生命を賭けた愛憎の歴史である。加恵は青洲その人にひかれてというより、幼少から慕いあこがれていた於継の美貌に魅せられて華岡家にとつぐ。事実、とついでから三年目にして初めて、加恵は京都遊学から帰った夫と顔を合わせるのである。そしてそのときから、嫁としゅうとめの関係は微妙に変化してゆく。母はむすこを嫁にわたすまいとし、嫁は夫をしゅうとめの手から奪おうとする。有吉氏の筆は、この醜く陰湿なかっとうを実に美しく格調ある文体で描写する。
ひとつの家庭にひとつの主婦の座しかありえない。そして主婦は、その個性を家財道具のひとつひとつにまでしみこませなければならない。主婦は家の一部、いや家そのものである。一軒の家に主婦がふたりいることは過剰であり悲劇である。夫の成功のため競ってわが身を犠牲に供した嫁としゅうとめの美談として世に喧伝されたこの話が、実は主婦の座をめぐるふたりの女の醜い権力争いであったことを、有吉氏の冴えた筆がえぐり出してみせる。
だがこの小説が多くの読者の心を動かすのは、女性の醜さをあばいてみせたからではなかろう。仕事や家名を負って立つ男のために、身を粉にしてまで献身しようとした女たちの哀しさおろかさを描ききった作品だからであろう。だが女性への鎮魂歌もいうべきこの作品は、現代の女性になにを語り、なにを訴えるだろうか。家の桎梏から解放されたあんどの念か、あるいは、かっては重荷ながら犠牲の対象として厳存した家やいきがいを失ってしまったことへの、そこはかとない郷愁の思いか。答えは読者ひとりひとりの胸の中にある。
(イエズス会神学生)
(「あけぼの」、一九六七年十月号)