サクロモンテの丘で
最近、福岡での残忍な殺人事件に関連して、中国人留学生の似顔絵が繰り返しテレビで放映された。いま現在、日本にどれだけの中国人留学生がいるかは分からないが、昨春まで勤めていた大学でも、今年三十人余の中国人留学生を受け入れたというから、全国の日本語学校や大学では相当の数にのぼるであろう。
しかしそれら留学生は今回の事件で多大の迷惑を被っているはずである。ある意味では避けようのない事態かも知れないが、しかし「中国人留学生」という言葉でひと括りにすることについてはよほどの注意が必要である。その点、テレビや新聞の報道がじゅうぶんな注意を払っているとは思えない。
簡単に言えば、人間を個としてではなく類あるいは種で括る危険である。これについていつも思い出す一つの光景がある。もう三十年近くも前になるが、スペインはグラナダの夕陽に赤く染まったアルバイシンの丘で出会った幼い二人のジプシー姉弟の姿である。その日、最後の見物先としてフラメンコの聖地サクロモンテを選んだ。夕陽に映える坂道で道に迷い、通りがかりの幼い姉弟に道案内を頼んだ。さて行き先に着いて別れる際、お礼として差し出したわずかな額の硬貨を二人はどうしても受け取ろうとしないのである。そのときの、粗衣を着た二人の真剣で毅然とした態度を忘れることはできない。
旅行ガイドなどではジプシーによる被害が再三警告されている。事実、統計的にはジプシー(彼らはロマと自称する)がからんだ事件は多いかも知れない。しかしジプシーすなわち掏(す)り・引ったくりとすることは絶対に間違いなのだ。極端な話、たとえ九十九パーセントのジプシーがそうであったとしても(そんなことは絶対にありえないが)目の前の具体的な一人のジプシーを偏見の目で見てはいけないのである。
むかし、日本人はホッテントットだと言って物議をかもした日本人大使がいた。その同じ彼が引退してスイスから寄稿した新聞記事を見て仰天したことがある。
南米のある国を「泥棒国」呼ばわりしていたからである。たぶんエリートコースを歩いてきたこの男、実は無知で真の教養が欠如していることがその一事で露呈した。なぜなら偏見や差別は無知や相手を知らぬことからくる恐怖に由来するからである。つまりコンプレックス(優等と劣等の裏表がある)のかたまりなのだ。
最近思いもかけない偶然が重なって、地方の国立大学大学院に学ぶ一人の中国人留学生とお友だちになった。彼女は内モンゴル自治区の出身で、五年前に亡くなった父親は、かつて抗日戦をたたかった人である。しかし彼は自分に「あいうえお」を教えてくれた優しい日本人とその可愛い子供たちのことは終生忘れなかったという。つまりすべての日本人を「小日本鬼子」とみなさなかったのである。今さら言うまでもないことだが、すべての紛争や戦争は、要するに相手あるいは相手国を「神殺し」「鬼畜」「ならず者」とひと括りにする物の見方から生じていると言っても過言ではない。観覧車から見下ろした人間たちが蟻んこに見えたり、照準器に捉えられた人間の姿が射的場の景品に見えるのと同じパースペクティブの誤りなのだ。
だから私たちは人間をグループや階層や地域や国などの括りでなく、〇〇ちゃん、△△君、□□□さんとして個別に見る眼力を日ごろから鍛えておかなくてはならない。
『福島民報 サロン』
2003年9月11日掲載分の原稿