ビトリアと「インディオについての特別講義」覚え書き
はじめに
3年前(1992年)に迫った新世界発見500周年に向けて、現在世界各地でその再評価の作業が進行中である。スペイン本国に限ってみても、ここ数年のあいだに刊行された新世界関係の文献や研究書は実に膨大な数に上る。わが国でも、同年に開催予定のバルセロナ・オリンピックやセビーリャ万博などに便乗した企画は別として、新世界発見が抱えていた幾多の重要な問題に着目する真面目な企画がいくつか進行中のようだ。というのは今さら言うまでもないことだが、南北問題、地球規模の自然破壊の問題、民族と宗教の問題など未解決の難問が山積する現代のわれわれにとって、500年前に起こった新世界発見という、地球創世以来もっとも重大な、と言ってもけっして過言ではない出来事の意味、それが内包する貴重な教訓を無視することは許されないからである。
ウナムーノやオルテガにいわば導かれたかたちで、黄金世紀スペインの諸問題(特にユダヤ人問題と神秘思想)に深入りしていた(低迷していた)筆者にとって、新世界問題は確かに魅力あるテーマであり一度は取り組まなければならぬ課題ではあったが、自分の能力と残された時間を考えるととても手を出す勇気はなく、それでも買い集めた文献を横目でにらむ日々が続いた。しかし幸か不幸か、今回前述のような真面目な企画の一つに参加する機会に恵まれることになった。ただしその企画は現時点では公表できる段階には至っていないので、その全体について論評を加えることは控えなければならない。
ところで筆者の担当することになったのはフランシスコ・デ・ビ卜リア Francisco de Vitoria(1492-1546)である。筆者の知るかぎり、わが国には彼の作品は「インディオについての特別講義」の一部しか紹介がなく(1)、また後に触れるように彼の「作品」ならびにそのスペイン語訳にはいくつか問題があって、結局今回は原典校訂を経たラテン語から翻訳せざるをえなくなった。20数年前に学んだだけのラテン語が思わぬところで役立つことになったが、もちろん数種類のスぺイン語訳を横に置いての作業であり、最近とみに視力の落ちてきたわが両眼がどこまで酷使に耐えられるか心配である。
ともあれこの小論は、そうした翻訳作業へのいわば戦略的な足場固めのための覚え書きであって、正面切ってのフランシスコ・デ・ビトリア論でないことをまずおことわりしておかなければならない。
Ⅰ. ビトリアの人となり
生年と生地に関しては緒説があるが、現在ほぼ定説となっているのは、1492年、ブルゴスである。もし生年が1492年であるとするなら、実に象徴的あるいは運命的な日付でこの世に誕生したことになる。つまり8世紀にもおよぶ対イスラム戦争であった国土再征服運動が完了した年、その余勢をかって、イサべル女王の援助を受けたコロンブスが新大陸を発見した年、さらにはスペイン国家の政治的・宗教的統一の重要な政策たるユダヤ人追放令、あるいは文化的統一の手段としてのネブリハによるスぺイン文法の完成を見た年だからである。
父は Pedro de Vitoria、母は Catalina de Compludo。ビトリアもコンプルードも15世紀末のブルゴスに多く見られる姓であり、ほとんどが商業にたずさわる家系であった。もっとも中には知識階級に進出する者もおり、フランシスコの従兄にあたる著名な唯名論学者のゴンサロ・ヒル (2) もそのうちの一人である。ところで当時のブルゴスにはユダヤ人の血を引く新キリスト教徒、いわゆる改宗者(コンべルソ)が多く、1952年に復刊されたバルタナス(Domingo Bartanas)の『家系の誉れ』(“Apología de linajes”, 1557年、セビーリャ)にはフランシスコ・デ・ビトリアの名前も含まれている。ユダヤ系の血筋は母方からのものらしいが、フランシスコ自身おのが家系について一切触れていないので、彼が改宗者の血を引くかどうかは、現段階ではすべて仮説の域を出ない。しかしもしそれが事実だとしたら、彼と同じ年に生まれ、彼と同じように一切おのれの血筋について語らなかったルイス・ビーべス(Juan Luis Vives, 1492-1540、彼がユダヤ系であることは確実である)などの場合と考え合わせて興味深い問題が浮かび上がってくる。つまり沈黙あるいは故意の言い抜かし(reticencia)の重さという問題である。当時のスぺインの状況は、ユダヤあるいはイスラムの血に汚されていないこと、いわゆる「血の純粋性」が一種の強迫観念にまで高まっていた時であり、明敏な哲学者であり神学者であったビトリアに,その問題がスぺイン社会において持つ重要性が見えていなかったはずはないのに、なぜかそれにはまったく触れていない。
ところが彼の兄弟で、同じくドミニコ会士であったディエゴは「血の純粋性に関する法令」(Estatuto de limpieza de sangre)に対して激しい抗議運動を起こしている。だがこの問題は、この小論の範囲をはるかに越える問題であるのでこれ以上踏み込むつもりはない。ただ一つ指摘しておきたいのは、インディアス領有の合法性とかインディオの人権をめぐる深刻な問題意識が、たとえばスぺインと似たような状況を迎えていたポルトガル(のちにはオランダ、イギリス)などにどうして起こらなかったのか、という問題を考える際には、この視点が重要な鍵となる筆者は確信していることである,つまりおなじユダヤ系と言っても、トルケマーダ (Tomas de Torquemada, 1420-98)のようにむしろ迫害者の側にまわった者から、ビーべスのように迫害あるいはそれへの警戒心から国外に逃れた者にいたるまで、その対応の仕方にさまざまな形と段階があったということである。さてビトリアの歩いた軌跡をさらに追ってみよう。
ブルゴスで初等教育を受けた後、ドミニコ会に入会。1506年、15歳のときに誓願を立てている。1510年ころ(オリバル侯爵 Marquez de Olivart は1504年ころとしているが(4)、間違いであろう)パリにおもむき、当地のドミニコ会のサンティアゴ学院でさらに勉学を続ける。そのころビーべスとも会ったらしいことは、エラスムス宛てのビーべスの手紙から分かる。(5)
その当時の彼の師には、のちにドミニコ会総長となったフェナリオ(Juan de Fenario、または Freyner)、ベルギー人のクロカル(Pedro Crockaert)、そしてスコットランド人のメーア(John Mair、1469-1550)などがいた。ところでこのメーアは1510年ころ出版されたロンバルドゥス(Petrus Lombardus、1095ころ-1160)の『命題論集』(Sententiae)の注釈書でインディアス征服を正当とする論拠を分析した人で、もしかするとこのころからビトリアにインディアス問題に関する関心が徐々に萌していったのかも知れない。そして1513年にはすでに神学の教授に任命され、頭角を現わし始める。
しかしそのころの彼は、たんに神学の講義だけではなく、いくつかの研究も発表している。まず1512年ころには、聖トマスの Secunda Secundae の註釈書を出版し、またその数年後、コバルビアス(Pedro de Covarrubias)の説教集全二巻を出し、また1521年には、15世紀のすぐれた学者 Antonio de Florencia の Summa Aurea 校訂本を出版している。もちろんこれらは本来的な意味で彼の著作とは言えないが。ともあれ当時のパリに学ぶということは、ビュデ (Budé, Guillaume, 1467-1540)などの人文主義の影響を受けることであり、またスコラ哲学、とりわけ卜ミズムの再興という時代的要請に目を開くことでもあった。ビトリアの思想に顕著に見られる自然的秩序と超自然的秩序の峻別という姿勢は、この時代的要請と無縁であろうはずがない。そして自然的秩序と権力意志とのあいだの恒常的緊張の中で、平和は本質的にダイナミックなものとなるべきこと、さらには経済的な関係がそこに重要な要因として機能すること、などについての問題意識はこのパリ遊学に触発されたものと言えよう。
1523年帰国。さっそくバリャドリードのサン・グレゴリオ学院の神学教授となる。当時の彼の活躍ぶりについては記録が残されていないが、そのころ空席となったサラマンカ大学神学教授の席をなんとかドミニコ会士で埋めようという上長たちの期待を一身に受けていたことからも、彼が相変わらず抜きんでた存在であったことが分かる。もちろん資格審査を優秀な成績でパスした彼は、そのとき(1526年)から1546年、彼の死にいたるまでこの輝かしい学問の府サラマンカ大学の神学教授として第一線に立ち、のちに「サラマンカ学派」と称されることとなる幾多の学者たちを育てた。彼の講義を聴きにきたのは学生ばかりではなかった。のちにコインブラ大学を創設するアスピルクエタ(Azpilcueta)、当時の学生間に「ソトを知る者はすべでを知る」(Qui scit Sotum, scit totum)という格言までできたソト(Domingo de Soto)、トレント公会議で活躍するカノ(Melchor Cano)などの著名な学者たちまでが聴講したのである。
彼の思想がなぜこのように同時代の人々を引きつけたのか、簡単に言うなら、それは彼の知性が前述のように時代の要請に鋭く反応するものであったこと、もっと具体的に言うなら、キリスト教ヨーロッパの解体、新世界発見、そしてスぺインの社会的不安定という巨大な地殻変動に遭遇することによって彼の神学が社会倫理、政治哲学へと大きく発展していったことによると言えよう。
博識な文学史家メネンデス・ぺラーヨ(Menendez Pelayo, Marcelino, 1856-1912)は次のように書いている。「フランシスコ・デ・ビ卜リア以前の神学と彼が教え表明した神学とのあいだに深淵が横たわっている。彼以後に登場する学者たちは彼の模範、彼の教えに近づくか離れるか、その度合によって価値が決まる」。(6)
しかしこれほどまでに大きな足跡を残したビトリアが、生前自分の作品を著書のかたちで残さなかったことは不思議と言えば不思議である。彼がソクラテスの異名をとるのも、弟子を多く育てたことばかりでなく、このこととも関係しているのかも知れない。彼の著作のほとんどは師の名講義を弟子たちが筆録したものに他ならないからだ。
当時の講義形態には二つあって、一つは通常の授業のものでレクツィオ lectio と言い、もう一つは年に数回、ある特定のテーマをめぐって、学部全体あるいは大学全体を対象とするレレクツィオ(特別講義)relectio である。ビトリアによってなされた特別講義の数は正確には分かっていないが、一般には次のものが知られている。
De silentii obligatione 「沈黙の義務について」 1527年、クリスマス
De potestate civili 「政治的権利について」 1528年、クリスマス
De homicidio 「殺人について」 1530年、6月11日
De matrimonio 「結婚について」1531年、1月25日
De potestate Ecclesiae prior「教会の権限について 前段」 1532年、後半
De potestate Ecclesiae posterior 「教会の権限について 後段」1533年,5月もしくは6月
De potestate Papae e concilii 「公会議の権限について」 1534年、4月から6月のあいだ
De augmento Charitate 「愛徳の増加について」 1535年、4月11日
De eo ad quod tenetur veniens ad usum rationis 「理性の行便を始めたばかりの人が目指すべきこと」 1535年、6月ころ
Desimonia 「聖職売買について」 1536年、5月の終わりか6月の初め
De temperantia 「節制について」 1537-38年
De indis 「インディオについて」 1539年、l月の初め
De jure belli 「戦争の法について」 1539年、6月l8日
De magia prior 「魔術について 前段」 1540年、7月18日
De magia posterior 「魔術について 後段」 1543年、春
もちろんこれら特別講義の中でビトリアの名を同時代ならびに後世にもっとも高めたのは「インディオについて」である。これはオランダのフーゴ・グロチウス(Hugo Grotius, 1583-1645)よりも約1世紀も前に国際法の理論的骨格を作ったことで高く評価されるべきである。グロチウス自身も1609年の『自由の海』(Mare liberum)や、1625年の『戦争と平和の法』(De jure belli ac pacis)の中で、自説を裏付ける根拠としてビトリアの見解を援用している。
しかしこの特別講義について触れる前にビトリアがその中心となり、彼の死後大きく成長していくことになるいわゆる「サラマンカ学派」について簡単に言及しておきたい。
Ⅱ. サラマンカ学派について
言うまでもなく、サラマンカ大学はパリ、オックスフォード、ボローニャとともに、ヨーロッパのもっとも古く(創立は1244年)また権威ある大学であり、多くの逸材を輩出してきた。特にビトリアを中心とするサラマンカ学派が国際法の形成発展に大きな足跡を残した16、17世紀に最大の隆盛期を迎えることになる。もちろんその主流となったのは、ビトリア自身がそうであったようにドミニコ会士たちであるが、のちにイエズス会士など他の修道会の者もそれに加わった。学派の歴史は、ぺレーニャによれば次のように大きく二つの段階に分けることができる(7)。だれがどの世代に属するか、論者によって多少の異同が見られるが、その主な学者たちのプロフィールを紹介しておこう。特にことわらないかぎり、その属した修道会はドミニコ会である。
[第一世代……創造的な草創期。1526-1560年]
社会的正義と政治的自由が共存の至高の軌範であり、戦争は集団的安全、平和の保証のための必要な手段であるかぎり許される。平和は可能である、などの思想を展開した。
この時期に属するのは、ビトリアその人を筆頭に次の人たちである。
- ソ卜(Domingo de Soto, 1495-1560年)
1532-1560年教授職。540年から1553年にかけて彼が行なった講義(後に聖パウロ書簡註解として出版)は、ビトリアの「戦争の法について」の最初のまとまった註釈と言える。 - カノ(Melchor Cano, 1509-1560)
1546-1552年教授職。ときにはコピーと見えるまでにビトリアの思想を忠実に踏襲し、1548年にはサラマンカ大学の依頼を受けてセプルべダの『デモクラテス 第二』に反論を加えた。 - ロぺス(Gregorio López, 1496-1560)
1540年、カスティーリャ諮問会議の財務官に任命され、さらに1543年にはインディアス諮問会議委員、最後はその長に選ばれた。 - コバルビアス(Diego Covarrubias de Leyva, 1512-1579)
法学部の教授。彼の講義録である『実践的問題』(1556)には、国家の主権、民主制、教会と国家の関係などが論じられている。ヨーロッパ全休にビトリアの思想が広まるにあたって、彼の果たした役割は大きい。 - アスピルクエタ(Martín Azpilcueta, 1493-1586)
1524年から1538年までサラマンカ大学の教会法教授。ビ卜リアから深い影響を受け、1548年の特別講義ではビトリアの思想を軸に国際間の調停のあり方を定義し、ヨーロッパ文化の統一性を守るためのヨーロッパ連合の可能性を論じた。のちに創設されたコインブラ大学の学長となり1555年まで奉職。帰国後はフェリーぺ二世の聴罪師などを務めた。
[第二世代……文化的拡大をはかった世代。1560-1584年]
領土拡張やヨーロッパ帝国主義は武力介入の口実とはなりえないこと、植民はインディオの人格的成長とその政治的独立を進める手段であるかぎり正当化されうると主張。最初の征服は正当であったが、その後の戦争についての合法性を問題視した。
- ソトマヨール(Pedro de Sotomayor, ?-1564)
1552-60年神学部教授。ソ卜、カノの後を受けて、ビトリアの思想を継承し、それを現実の問題に応用した。特に1558年、ラス・カサスとセプルべグの論争のあと紛糾の度を深めたインディアス問題をめぐってインディオの自由を擁護。
上記三人の帥たち(ソ卜、カノ、ソトマヨール)が、1549-52年のトレント公会議に出かけた後を守って学派の活動を続けた弟子たちの中に、Juan Gil de la Nava, Diego de Chaves, Vicente Barron, Domingo de las Cuevas などがいる。この最後のクエバスは、ビ卜リアの「インディオについて」の稿本(というより要録、註釈と言った方がいい)を残した。
- ぺーニャ(Juan de La Peña, 1560-65年まで午後の部の教授として在職)
最初べネディクト会士で、次いでドミニコ会士となる。『対インディアス戦争論』が C. S. l. C. 版に入っている。 - メディナ(Bartolomé de Medina, 1576-80在職)
カノの弟子で蓋然論の創始者とみなされている。 - レオン(Luis de León, 1527-91)
アウグスチヌス会士。むしろ詩人、人文学者として有名だが、『法について』という著作もある。 - アラゴン(Pedro de Aragón, ?-1592)
アウグスヌス会士。『正義と法について』を書く。セブルべダ=ラス・カサス論争に対しては無関心。 - アコスタ(José de Acosta, 1539-1600)
1571年イエズス会としてペルーに派遣され、1588年帰国後は、バリャドリード、サラマンカのイエズス会学院で教える。『インディアス布教論』(1578年執筆、88年出版)、『インディアス自然文化史』(1590)が主著。
[第三世代……体系化を目指した世代。1584-1617 年]
紛争の平和的解決のための一連の方法を定義した。彼らの主張する正戦の条件は、歴史の経過と共にいよいよ武カの行使をむつかしいものとしていった。こうしたサラマンカ学派の弁証法的かつ人間的努力は現代において―層の現実性を獲得している。
- バニェス(Domingo Bañez, 1528-1604)
1581-1589年教授職。カノの弟子。アビラで教えていたとき聖テレサの聴罪師をしたこともある。イエズス会士ルイス・デ・モリーナとの恩寵と白由意志をめぐっての論争で有名。 - スアレス(Francisco Suárez, 1548-1617)
イエズス会士。サラマンカ学派の思想は彼の『法について』(De legibus)において、その総合に達した。また彼がスコラ哲学再興に果たした役割は大きく、新スコラ学派の祖と言われる。布教を容易にするための前もっての占領は不当であるなどの主張をしている。 - エレーラ(Pedro de Herrera, 1548-1630)
1604-21年教授職。バニェスの後継者。のちカナリアスの司教となった。
もちろんサラマンカ学派は、スぺインのみならずポルトガル、さらには新大陸各地に創設された諸大学にもその勢力を広げていくが、それについてはまた稿を改めて考察する機会もあろう。
Ⅲ. “Relectio de indis” すなわちインディオについての特別講義
さて、小論のもう一つのテーマであった「インディオについての特別講義」に話を戻そう。といって今回は、翻訳に際して最小限心得ておくべきいくつかの問題点を指摘することに限定させていただく。前述したように、この特別講義にはビトリア自筆の草稿が残されていない。つまり現存する稿本、刊本はすべて彼の弟子たちが筆記したものをもとにしているということである。したがって問題はこれらの稿本、刊本がどれだけ原作者すなわちビトリアの著作と言えるか、ということになる。結論から言うなら、ビトリアの文章そっくりそのままではないにしても、ほぼ彼の文体を正確に伝えている、とは言えそうだ。なぜなら、これらの稿本あるいは刊本のもととなったのは、弟子たちによる文字通りの筆録というより、ビトリアが特別講義のために用意した原稿(現在まで見付かってはいないが)を眼前に置きながらの写本であったらしいことが突きとめられているからである。
今回、筆者が翻訳の底本としているのは、1967年にマドリードの高等学術研究所(C. S. l. C.)から出版された原典批判本である(8)。これはそれら現存するすべての稿本刊本を相互に比較検討しながらビトリアの原稿に限りなく近いかたちのラテン語原文を再構築した大変な労作である。その編者の一人であるペレーニャ(Luciano Pereña)は、自分たちがたどった道筋をくわしく報告しているので、次にそれを見てみよう。
彼によればビトリアの原稿をほぼ完全に再生しているのは、稿本であるバレンシア本、バレンシア本、グラナダ本、そして刊本であるリヨン本、サラマンカ本、そしてインゴルシュタット本である。部分的に再現しているのは、セビーリャ稿本とグレゴリオ・ロペスの稿本である。さらには、ドミンゴ・クエバとフワン・サリーナスの稿本があるが、これも部分的な再現である。
- バレンシア稿本
これは年代的にもっとも古いもの(1542年以前)で、筆記者の証言をし尿すれば、ビトリアの原稿を手元に置いての写本ということになる。口述筆記された場所はビトリアのいあサン・エステバンン修道院、筆記者はエレディア(Juan de Heredia)、稿本の中ではいちばん原形に近いものと言える。もっともこれにもかなりの欠点がある。たとえば文法上の誤り、筆記上の不注意からきた間違い、などである。他の稿本と比べるなら、同意語が安易に取り換えられているなのことが特徴的だ。今年(1989年)、ぺレーニャたちはこの稿本のファクシミリ版を同じくC. S. I. C. から出版したので、現在ではだれで近づくことができるようになった(9)。 - バレンシア稿本
これは上記のバレンシア稿本といくつかの異同を除けば同一線上にある稿本で、筆記者はサラマンカ大学の公証人を務めたサンチェス(Bartolome Sanchez)である。奥書きによれば、1554年10月17日に筆記完了となっている。しかし詳しく見てみると、この稿本の欠点は、筆記者にラテン語の知識が乏しかったことから来ているようだ。 - グラナダ稿本
現在はグラナダ大学図書館に所蔵されている稿本で、おそらくはサラマンカのイエズス会学院が作製したものらしい。筆記者はビトリアの弟子を自称する者で、作製時期は1552年から1555年にかけてと思われる。文章は正確で簡潔、つまり分かり切った言葉は省略されている。聖書の引用はブルガタ訳から正確になされているが、ときおりもとにした稿本への説明補足的な文章が加えわれている。このグラナダ稿本はバレンシア本より後に触れるサラマンカ刊本に近いかたちとなっている。 - セビーリャ稿本
これはセビーリャ大学が所蔵する稿本で、ここのコレクションには持別講義以外に、書簡、報告書などの雑多な文書が含まれている。ぺレーニャは「インディオについて」の稿本に触れて、ここには第三部全体が収録されていると書いているが、C. S. l. C. 版を見るかぎり、それは第一部第三章の間違いである。この稿本の特色は、ビトリアの同僚であったアルコス神父(Miguel de Arcos)所有のものであったことで、この神父宛ての1534年の書簡(C. S. I. C. 版に収録されている)の中で、ビトリアがインディオ問題について初めて明確な見解を述べたことで有名。さらにここには他の稿本には抜け落ちている「節制について」の抜粋が残っている(おそらくビトリア自身が抜き出したと思われる)。C. S. l. C.版の編者の一人べルトラン・デ・エレディアの意見では、この稿本は1539年初頭、ビトリア自身との直接的な交渉のうちに作られたものという。 - ロぺス稿本
この稿本は第二部と第三部の要約を試みるものであると言っているが、その際、セビーリャ稿本とグラナダ稿本との照合からも明らかな通り、たいていは本文そのものをコピーしている。 - クエバス稿本
ロぺス稿本と同じく、セビーリャ、グラナグの両稿本の線に沿ったもの。ラス・クエバス自身のアルカラ大学での特別講義のために使われたものらしい。 - リヨン刊本
これは1557年、リヨンのボアイエ(Jacobo Boyer)が出版したもの。異端審問所長官でセビーリャの大司教であったバルデス(Fernando Valdes)にあてた献辞で、彼はビトリアの著作が他の人によって勝手に手を加えられてしまったそれまでの経緯を嘆いた後、彼自身はこの特別講義の「正確でまったく純正な」版を作るために最大の努力をしたと自負している。その成果はかつてビトリアの講義を直接聞いたことのある人、「本書を他の私的な稿本と比べる人」なら納得できるばずだ、と言っている。ボアイエは自らサラマンカに行ったし、ビトリアその人とも面識があり、リヨン版の作製に当たっては、彼自身明言しているように、「博識な学者たち」の助力も得たうえでの作業だったらしい。
といって、欠点がないわけではない。最大の欠点は、行替えや句読点などその表記方法がごたごたしているし、誤植、読み違えが多いことである。 - サラマンカ刊本
このリヨン版に対する批判、修正という意味をもって作られたのが、1565年に出版されたサラマンカ刊本であり、その旨は扉にはっきりとうたわれている。編者はドミニコ会士でかつてビトリアの弟子だったムニョス(Alfonso Muñoz)である。ムニョスの語るその編纂作業は、他の一人にリヨン版を音読してもらい、それを彼が他の稿本(複数)と付き合わせ、誤りが見付かったり疑問の個所があった場合は、その場で原稿(ビ卜リアの?)や他の稿本に照らしあわせながら修正するというものである。それでも解決できない個所は、ビトリアがそこからヒントを得たと思われる聖書、教会法、教父たちの著作などの該当個所を詳細に検対する。そしてこうした作業を都合3回行なったという。さらにはビトリアの愛弟子ソ卜やカノの校閲を受けたと言っているが、しかしこれはかなり疑わしい。なぜなら両者とも、このサラマンカ本が出版される5年前に死んでいるからである。ともあれ前述のようなムニョスの自負にもかかわらず、サラマンカ本は結同はリヨン本によりかかった改訂本であり、ある論者が批判しているように、編纂者の浅慮からかえって改悪された個所なきにしもあらず、と言わざるをえない。 - インゴルシュタット刊本
1580年のもので、リヨン本とサラマンカ本の誤植やその他を校正しただけで、それまでの稿本を検討したものではないから、本質的には何ら新しい要素は加わっていない。
さて以上のような検討の末にぺレーニャが到達した結論は、次のようなものである。すなわちリヨン本、サラマンカ本の両者に共通しているのは、編者たもの自負にもかかわらず、多くの欠陥があること、たとえばビトリアがキリスト教徒(Christianis)一般について言っていることを、ことさらスペイン人(Hispanis)について言っているかのように表記する傾向があるなど、刊本を全面的に信用することはできない。したがってビトリアの原文を理想的に再現する作業は、作製時期もより早い種々の稿本、とりわけ時期的にもっとも早いパレシシア稿本に依拠することだ、と。
次に検討しておきたいのは、「インディオについて」の構成の問題である。つまりパレシシア稿本などがビ卜リアの文章をほぼ忠実に再現しているとしても、(なぜならペレーニャも言う通り、サラマンカ大学において特に午前の部[prima]の教授が特別講義をする場合、事前に草稿を準備するのが通例だったから)、本来なら三部構成になっているはずなのに、その第一部に当たるものしか扱っていないからである。
ちなみに本来の構成は次のようになっていた。
- 第一部 いかなる法的根拠のもとにインディオたちはスペイン人の支配下に置かれるようになったか。
- 第二部 スペインの王たちは、彼らインディオたちに対して、現世的かつ政治的な面でいかなる権限を持っているのか。
- 第三部 司教たちあるいは教会は、霊的なことや宗教に関係した事柄において、彼らインディオたちの上にいかなる権限を持っているのか。
ところが、前述のように、パレンシア稿本、そしてそれを底本とした以後の刊本は、その第一部に当たる内容しか扱っていない。それで今回、ペレーニャたちは、ビトリアのその他の文章の中から、この第二部ならびに第三部に該当する文章を持ってきて、ビトリアのはじめの構想を再構成するという思い切った方針をとったのである。
たとえば、第二部は、インディオ論の一年前に発表された「節制についての特別講義」からの抜粋を充当させる、というぐあいに。しかしペレーニャたちは第三部に当たる文章をどこから引き出してきたのか。確かに C. S. I. C. 版の表紙カバー裏には、ビトリアが時間的制約のために果たせななかった第二部と第三部は、それ以前の7つの特別講義をもとに編者たちが組み立てた、と書かれているが、実際にはどこからなのか明確に説明していない。ともあれ、彼らが参照したという種々の稿本がわれわれの手元にない以上、編者たちの言葉を信じるほかはない。
次の問題は、そうして彼もが苦心の末に再構成したところのラテン語文を底本とすべきか、あるいは彼らがそれをもとに原意を汲み取りながら翻訳したというスぺイン語文を底本にすべきか、という問題である。彼ら自身が言うように、スぺイン語訳が「二義的な価値しか持っていない」としたら、当然ラテン語文の方を取るべきであろうが、当方がラテン語学者でない以上、そのラテン語がどの程度正確なものなのか、的確に判断する決め手がない。一方、今年出版されたパレシシア稿本のファクシミリ本に付けられたスペイン語訳は、1967年に出されたときのものとかなり違っている。今回は1567年版のスぺイン語訳をバシエロ(C. Baciero)が彫琢したことになっている。結局、訳者としてはここでもぺレーニャの言葉を信じてラテン語文を底本とし、それにいくつかのスぺイン語訳を参照しながらの翻訳作業にならざるをえない。といって、それを文字通り踏襲することもできない。というのは、第一部にかぎったことだが(これも不思議なことだ)、ぺレーニャたちの校訂本には、各種稿本から作り上げた際の経過、その相互問の異同がいろいろな略記号で示されているからである。したがって一般者を対象とした今回の翻訳ではそれらを割愛して翻訳作業を進めるつもりである。
おわりに
思想は、そのときどきに持っていた歴史的価値を、それはそれとして認められねばならないが、しかし同時にそれがまさに歴史的価値であるがゆえに、歴史そのものからの厳しい判定を受けなければなるまい。
この点に関して、ビ卜リア評価は従来から曖昧な位置に立たされている、と言わざるをえない。つまりラス・カサスやセブルべダに関しては、肯定・否定とりまぜながら、とにかくそれなりにはっきりとした評価がなされてきたと言えるが、ビ卜リアに関しては、学問的評価が高いにもかかわもず、いやだからこそ一層と言うべきか、意外と曖昧な評価で始終してきたように思えるのだ。
この小論ではビトリアの思想に立ち入らないと再三にわたってことわってきたが、しかしまったくそれに触れないわけにもいかないだろう。それで最後に、ビ卜リアの翻訳者として、現段階で心得ておくべきいくつかの問題点を簡単に述べてみたい。
いちばん大きな問題は、もちろんビ卜リアの思想の歴史的有効性のそれであろう。つまり彼の思想は国際法理論の基礎を築き、その後の新世界問題に多大な影響を及ぼしたと言われるが、実際はどうなのか、ということである。たとえば1550年のあの有名なバリャドリード論争の二人の立て役者ラス・カサスとセプルべダに彼の思想がどのように反映していったのか。もっとはっきり言うと、新世界問題が内包していたより根源的な問題にこの三角あるいは三極(ビ卜リア、ラス・カサス、セプルべダ)がどのように機能していったか、という問題である。いまや古典的となったメネンデス・ピダルの図式、すなわち盲目的熱情と侠い視野の、売名偏執狂のアンダルシーア人ラス・カサスと、節度あり言葉少なく、より学問的・近代的であるビ卜リア、という図式は果たして正しいのか。
私の知るかぎり、新世界問題にしかるべき重要性を認めてそれを思想史的連関の中に組み入れた数少ない思想史家の一人アべリャンは、これに触れて、「ビトリアの知的臆病とラス・カサスのラディカルな姿勢」(10)というふうに解釈している。はたして知的臆病というだけで片付けられる問題だろうか。むしろ石原保徳氏の言うように、「ことは、サラマンカ学派の思想の質にかかわる問題」なのではなかろうか。さらに石原氏は一般には対立構造としてとらえられているビトリアとセプルべダに触れて、次のように書いている。「スペイン人によるインディアスの事業はかくして基本的にはビ卜リアの新理論によってたくみに是認され法的根拠を与えられてゆく。いまや私たちはセプルべダのすぐそばに立つビトリアに気づかざるを得ない。……ここに二つの路線は合体する。
いやこれをもってビトリア理論はセプルべダを包摂し、それをのり越えたというべきかも知れない」(11)。ビトリアならびにサラマンカ学派に対する、これは実に厳しい評価である。しかしここには、第1期、第2期の「大航海時代叢書」(岩波書店)の編纂作業、とりわけ厳しい歴史家の眼をもってラス・カサスの思想に肉薄し、それをくぐり抜けてきた者が初めて発しうる言葉の重さがある。
ビトリアの論法、その言葉使いにはスコラ学者特有の難解さがつきまとう。つまり本心がつかみにくい文体である。さらにアメリコ・カストロの言う「葛藤の時代」に生きたこの思想家固有の複雑さ(冒頭で述べたような改宗者の血を引く者の独特な精神構造もその一つ)がそれに加わる。つまりここで言いたいのは、石原氏のビトリア評価が大枠で正しいとしても、ビトリアの言葉そのものにこだわりながらの翻訳作業を通じて、何か新しいビトリア像があぶり出されてこないだろうか、という期待感が筆者にはある、ということである。ある一つの人間の生、あるいは思想を問題にするとき、筆者にいつも思い起こされるのは、オルテガがゲーテについて述べた言葉である。「すべての生は、多かれ少なかれ一つの廃墟であって、その人物がどのような人であったかは、その砕片の中に探るしかない。……いちばん面白いのは、その人と世界あるいは外的運命との闘いではなくて、その人とその天命との闘いなのだ。…おのが存在の中で難破したゲーテ、存在の中で道に迷い、次の瞬間に自分がどうなるか分からないようなゲーテ、自分を “不思議な波をかぶる魔法の牡蠣” になったように感じるゲーテ」(12)、つまりは「ワイマール抜きのゲーテ」の内部に脈打つ彼の生の実像に迫ること、である。もちろん訳者にとってビトリアの生の砕片とは、彼が残した言葉である。そんなことが可能かどうか予測もつかないが、心掛けるべきはビトリアを「彼の生の内側から」見ることであろう。そのためには、黄金世紀スぺインの持つ独特な精神構造、新世界発見という衝撃波を受けた当時の知識人たちの精神状態を押さえながら、ビトリアの言葉を丹念に解き明かしていく以外の方法はない。
ともあれ、以上は、すでに「インディオについての特別講義」の序文と第一部第一章を上すべりのまま翻訳し終えた筆者の、自戒と新たな覚悟のための覚え書きである。
〈1989.12.20〉
註
(1) 伊藤不二男『ビトリアの国際法理論』、有斐閣、1965年。
(2) Gonzalo Gil パリで学んだあと、シスネロに呼ばれてアルカラで教え、のち(1518年)サラマンカに移った。
(3) ユダヤ人問題のいわば火付け役とみなされているアメリカ・カストロの次の言葉はこの問題を扱う際の実に適正な姿勢を示している。
「セルバンテスがスペイン人のある持定の血統[ユダヤ系]に属している、という事実は1600年とほぼ変わることなく、今日でも危惧と反発の対象であるが、読者の関心がそのことにのみ集中するというのは嘆かわしいと言わなければならない。セルバンテス特有の「生粋主義」は、本書において[『セルバンテスとスぺイン生粋主義』]、これまでただ推測の域を出なかった、あるいは間違って解釈されてきたことを、いくぶんかの正確さをもって見るためにのみ役立っているのだ。それはちょうど生物学において、それなしには顕微鏡でも明らかにしてくれないある物を見るために使われる試薬のようなものである」。 Castro, Américo, “Cervantes y los casticismos españoles”, Alianza, 1974, pp.107-108.
(4) “Relecciones de Indios y del Derecho de la Guerra”, Espasa-Calpe, 1928, p.XV.Ⅲ.
(5) 1527年6月13日、ブールジュ発エラスムス宛。
「……フランシスコ ・デ・ビトリアはドミニコ会士、パリで神学を学び、仲間たちのあいだで大変な評判と名声をかちえ、ソルボンヌでは並みいる学者たちの前で貴兄 [エラスムス]の擁護をした男です。彼は非常に論争の術に長けています。幼いときから勉学にいそしみ、成果を上げてきました。貴兄に対しては尊敬と感嘆の念を抱いています……現在彼はサラマンカ大学のプリマ[午前の部]の講座を持ち、けっして少なくない給料を得ています……」 Luis Vives, Juan: “Epistolario”, p.467, Editora Nacional, 1978.
(6) Cit. En “Relecciones sobre los indios y el derecho de guerra”, 3 ed., Espasa-Calpe, 1975, p.14.
(7) “La ética en la conquista de America”, C. S. I. C., 1984, pp.291-344.
(8) Vitoria, Francisco de, “Relectio de indis”, C. S. l. C., 1967.
(9) Vitoria, Francisco de, “Relectio de indis, Carta magna de los indios”, C. S. I. C., 1989.
(10) Abellán, José Luis, “Historia critica del pensamiento español”, tomoⅡ, Espasa-Calpe, 1979, pp.442-448.
(11)「大航海時代叢書」通信 9、岩波書店、1988年。
(12) Ortega y Gasset, José, “Pidiendo un Goethe desde dentro”, O. C., lV, Revista de Occidente, 6 ed., 1966, pp.401-402.