15. 切り通しの向こう側 (1996年)



切り通しの向こう側




人間、書物、絵、風景、誤り、痛みなどの事実があるとして、それらをいちばんの近道を通って、その意味の充満にまで導くこと。人生がわれわれの足元に、その永遠に続く引き波の中にちょうど難破船の不様な残骸のように投げ出したものを、太陽が無数の反射光を投げかけるようなかたちに秩序正しく並べること。

オルテガ『ドン・キホーテをめぐる思索』



老いる

   年相応に老いるというのもいいな、と思う。先年亡くなった笠智衆さんなどを見ていると素直にそう思う。考えてみれば、自分は成熟というものをかたくなに拒否する生き方をしてきたようだ。その副産物というわけではなかろうが、他人の年齢を推定することがほとんどできなくなってしまった。実際には自分よりずっと年下の人が、たいていは自分と同年代、あるいはせいぜい数歳下にしか見えない。
 勤務先の大学で担当している「人間学」の授業では、つねづねこんな風にしゃべっている。「人間はあらゆることに習熟することができる。ただし生きることを除いて」。
 まさか自分の生き方を弁護するために考えついた言葉とは思わないが、結果的にはそういうことになってしまった。近頃では自分の不器用さを弁護する言葉であることを通り越して、逆にこの言葉にしばられ、これ以外の生き方はないとひらきなおった感さえある。
 だが最近になって、そういう生き方考え方に自信がなくなってきた。年相応の成熟は必要ではないのか、いつまでとっちゃん坊やでもないだろう、と思い始めたのだ。


ちぢこまる

 登山家がひとり、ロープにつりさがったまま、垂直にそそり立つ岩場の小さな凹みに身を支えている写真などを見ると、わけもなくうらやましいなと思う。もともと高所恐怖症気味なのだから、高いところに登ったことがうらやましいのではない。そればかりでなく、そもそも登山なるものに何の魅力も感じていないのだから、登山仲間のいわばエリートとも言うべき熟練した登山家の一世一代の美技がうらやましいのでももちろんない。身動き一つできないような狭い足場で、身体中の無駄な動きを最小限にとどめて、そうやってちぢこまっている姿にわけもなく感動するのだ。
 たとえば道端に(雨が降っているときならもっといい)野良猫が身をすぼめて、彼の自由になる(と信じている)小さな場所を確保して、世界がどうひっくり返ろうと私の場所はここしかない、となかばあきらめ、なかば居直ってうずくまっている様子など、先の例と同じ程度のうらやましさを感じさせる。


エコロジカルな不安

 ある友人からの葉書に「なにかエコロジカルな不安をかきたてるような今年の夏」とあったが、たしかに今年の夏の異常気象は尋常ではない。北の方の島では地震による津波の被害、南の方では長雨のための土砂災害。いちおう梅雨が明けたはずなのに、晴天の日が二日と続かない。家の東手と裏手にわずかに広がる竹薮は、気のせいか今年はやけに竹の数が増えたように思う。洗面所の窓から、ある朝忽然と図太い竹の姿が見え、あわててのこぎりで切り倒すことが二回ほどあった。この家に住むようになってから四年ちょっとになるが、こんなことはこれまでなかった。
  家の前の空き地にも、いつのまにかかなりの数の竹が生えている。ここに越してきたころは、千葉の方に住んでいるらしい地主が(まだ顔を見たことがない)ときおり伸び育った雑草を刈っていったり、だれかが車を駐めておこうものなら、さっそく駐車禁止の紙をフロントガラスに貼りつけていったりしていたが、このところ雑草は伸び放題。これにさらに竹が加わって、以前は通りの方まで視界が開けていたのに、異常なまでに伸び育った雑草(これを草と言えるなら)と竹にさえぎられて、通りどころか間にあった栗畑までもが見えなくなった。地主が手入れをしないようになったのには、それなりの理由がある。実はこのあたり、現在は家の東手を流れている川の流れが変えられて堤防になる予定だから、その工事が終わるまではすっかり放置する気になっているのであろう。


冷たい心

 昔はアガサ・クリスティも真っ青になるような完璧な推理小説のプロットを夢に見たこともあるが、最近はほとんど夢を見ない。もっと正確に言うなら、ここ十年ほど夢らしい夢を見たことがない。妻は毎晩のように見ると言う。時々、見た夢を現実と取り違えて、とんでもない言い掛かりをつけてくる。しかし自分には弱みがあるから、あまり抗弁しないことにしている。
 弱みというのは、一度も、文字通り一度も、夢の中に妻が登場したことがないという弱みだ。自分でもどうしてそうなのか理由が分からない。せめて夢の中だけでも妻から自由でありたいと願っているからか。それなら、たとえば妻から必死に逃がれようとする夢でも見そうなものだ。しかしもしかすると、医学的には夢を見ているのに、ただ覚えていないだけで、実は夢の中にひんぱんに妻が登場しているのかも知れない。それでもやはり後ろめたさは残る。もしかすると、私は自分で思っている以上に心の冷たい人間なのではないか、と。


ある日曜日の祈り

 神様(ところであなたはどこにいらっしゃるのでしょう、本当に天にましますのでしょうか)、今日も(いつのまにか)無事終わりました(無事であることがそんなにいいことなのか)、ありがとうございました。私たち家族三人、それに今離れて暮らしている息子を入れて家族四人(なぜ階下の義父と義母を数に入れないのか)病気もせずに元気で生きていられるのは、ひとえに神様のおかげです。でも今日も教会に行きませんでした(歩いて数分で行けるところに聖堂があるのに)、いつか身辺の整理がつきましたら(?)教会に行くことをお約束して(簡単に約束なんかしない方がいいぞ)、ともかくも今しばらくの猶予を下さい。


品位の問題

 ただ表面的になぞっているかぎりでは、女子大の教師なぞまことに気楽なものである。若い娘たちにかこまれて楽しくやっている分には、これは文句のつけようもない。しかしたとえば落ちこぼれの留年生や、障害を持っている学生の視点に立ってみると(あるいは降りてみると)、これほど偽善的な構造を持つところもないことを思い知らされる。そのとき、家族的な雰囲気とか少数教育の実践などというキャッチフレーズがいかにまやかしであるかが納得させられる。一度その視点に降りてみると、まやかしの構造が視界から消えるようなことはなく、次々とその断層があばかれてくる。
  徹底的に闘うことができたら、さぞかし気分爽快だろう。しかしこうした女子大ではそれもままならぬ。なぜなら当面の敵がいないからである。ここに敵あり、と攻めこんでいけば、ちょうど暖簾に腕押しといったぐあいに、みごと肩透かしをくうこと必定である。勢いつけて踏み込んでみればなんのことはない、敵が目の前から消えているのだ。敵がいない以上、そこでわめいたりするのは品位の問題にすり変わってしまう。下品なのだ、ただやたら怒鳴ったりするのは。


土手道の散歩

 曇天下の土手道を犬に引っ張られるままに、時おり目をつむったりなぞしながら歩いて行くと、何となくはかなく頼りない心持ちがして、だからこそ逆に、頑張るぞと下腹に力を入れるような具合になる。いま履いているゴム草履の足裏に当たる部分のいぼいぼが血行にいいことなどついでに思い出し、思いがけない充実感を恵まれるのもこのような時である。土手道にはふつうの道にはない不思議な雰囲気がある。まず第一に、片側はもちろん川だから、人間たちの集まり、その生活、有益な、あるいは無益な活動などから立ち昇る排気ガスのような人間臭が土手の上で一瞬とまどうような動きを見せる。つまり純粋な川の臭いと、町の方から流れてくる人間の臭いが、まるで寒流と暖流のぶつかるところのように、土手の上でたがいに押し合っている気配がはっきり感じられる。
 第二に、視界が大きく開けているところから、心にある解放感が生まれることである。もちろん解放感と言っても、具体的な目標に向かって解き放たれるという積極的なそれではなく、何となく片足を泥の中に突っ込んだままの解放感といったようなものだが……
 第三に……とこれ以上列挙してもきりがない。前を歩いていく愛犬が草叢に頭を突っ込んでいる。他所の犬の小便跡など舐めるとろくなことはない。何とかいうむつかしい名前の回虫が愛犬の腹の中に侵入してくることになる。
 土手道を歩いていくと、いろんな人に出会う。いまにも倒れそうな老人やら、青春を走り抜けているといった風情の若者、せせこましい人間関係のしがらみを一枚一枚脱ぎ捨てながら歩いている、といった感じの中年女に出会うこともある。しかし概して言えることは、皆どことなく頼りなさそうな歩き方だということである。初めてヨーロッパの街を歩いて日本と著しく違っているなと感じたのは、西洋人が実に堂々と歩いていることであった。いかにも大地にしっかりと足を踏まえているという感じがあり、なるほど西洋人にとって靴は身体の一部なんだなと変なところに感心したものだ。そういう目で、たとえばこの土手道を歩いていくと、すれ違う人すべてが、まことに頼りない歩き方をしているように思われる。


ララの死

 ララはアイヌ犬の雌。十六歳を越えていたから、犬としてはもうたいへんなおばあさん犬。しかし童顔と言ったらいいのか、小犬のようなそのあどけない顔付きは最後まで変わらなかった。いや、死の直前にはいよいよその幼さが際立った。死ぬ一年ほど前から、左耳が揚げた餅菓子みたいにふくらんで(獣医に何とかという病名を言われたが忘れてしまった)次にそれがしぼんで、縮まって、最後は片耳のようになってしまった。
 いい獣医に巡り合っていれば(ララの死んだ後、近所にいい獣医さんがいたことに気付いたが)、もっと別な、もっと幸せな死を迎えられたのに、と今もときおりるほぞを噛む思いに襲われる。今となってはせんないことだが、もしかしてあれはたんなる老衰なんかじゃなくて、たとえば乳癌とかれっきとした名の病気だったのかも知れない。こういうことには人一倍用意周到で心配症の妻さえ、ララは老衰で死ぬのだと思い込んでいたところがあり、二月以上ものあいだ苦しみながら死ぬとは夢にも思わなかった。 
 ある夜、夫婦と一緒の部屋に寝ていたララが、とつぜんソファーから落ち、翌日から少し歩行が困難になった。耳は老衰のためだいぶ前から遠くなっていたが、そのとき以来視力も急速に減退していった。と同時に乳の一つがこころもち膨らみはじめ、そこからきつい匂いの膿状のものを分泌するようになった。ソファーや絨毯が汚れるので、タオルを巻いたりしたが、しょっちゅう取り替えないと、タオルがじっとりと膿を含んでいることがある。初めのうちは抱きかかえて階段を上り下りしていたが、匂いがきついのと、大小便の世話がたいへんになったこともあり、とうとう同じ部屋に寝るのは無理と判断し、古毛布を玄関の板の間に敷いて、その上に寝せることにした。
 食もほとんど進まず、骨と皮ばかりになってきた。ララと呼んでも聞こえないのか反応せず、玄関の中を何かに憑かれたようにただぐるぐる歩き回った。夜中、ときおり階下から、歩き回るときのチェーンの音が聞こえてきた。こういう状態になっても、大小便は外にしようとした。そしてしきりに歩こうとする。どこに行こうとしていたのだったか。暮れもおしつまった厳寒の庭前で、いまにも尻もちをつきそうな姿勢でふるえながら用便をすませた。
 十月末におかしくなってから、十一月、十二月、とうとう年を越えてしまった。だっこしてもらうのが何よりも好きな犬だったのに、身体か汚れているからと、最後のあたりはほとんど抱いてやらなかった。玄関の板の間で、チェーンが延びるぎりぎりのところまできてからだを揺らせながらしきりに台所の方を見ていた。あれは何を見ようとしていたのか。
 獣医さんに連れていったら間違いなく安楽死をすすめられたろう。そうすべきだったのかも知れない。
 一月二〇日の夜、玄関先から息子のあわてた声がした。最後の時が近づいていた。家族全員の見守るなかで最後の息を引きとった。驚くほど安らかな顔をしていた。洗い晒しのバスタオルを敷いて、その上に寝かせたとき、元気な時の十分の一ほどの小ささと重さになっていることに、いまさらのように哀れさが募った。

 翌朝、家の東手の花壇の中に埋葬した。その日の午後、妻の呼ぶ声に行ってみると、墓の側の木に大きな五位鷺が一羽止まっていた。ララの霊を弔うかのように、身動きひとつしない。クリーム色とねずみ色のツートンカラーで、顔というのか頭部というのか、それがこころなしか犬に似ていて、おもわず「ララ!」と呼んでみたが、ぴくりとも動かない。夜行性で昼間は鎮守の森などで休んでいるという五位鷺は、死者の霊を弔うために人家に飛来することがあるという。夕方どこへともなく飛んでいった鷺は、翌日の午後も、昨日と同じ枝に止まって、冬の陽を浴びていた。
 翌日、同時刻、心待ちにしていたが、とうとう五位鷺は現れなかった。


神は細部に宿りたもう

 T川を渡ってすぐのその駅のプラットホームは、かなりの高さのところに架設されており、長い階段を昇ってきたばかりの肉体にとってはどこか不安定な感じが拭い切れない。向かい側の上り方面のプラットホームも、声など届きそうにもない距離にあるかに錯覚される。まだ日没まではかなりの時間を残しているはずなのに、あたりを領しているのは弱々しい光だ。それでも西の方にはわずかながら赤みを帯びた空がひろがり、すきあらばまた日中の勢力を挽回しようとしている、と思いたいが、そんなことはないか。
 都心に通う独身者がかたまっているのか、先程初めて訪ねた息子のアパートのまわりは同様の粗末な作りのアパートがひしめき合っていた。日中から雨戸を引いているのも、前後二メートルの近さで立て込んで立っているのだから仕方がないのか。それにしても日の差さない暗い小さな空間で、彼は何を考えて日々暮らしてきたのか。青春を持たないままに今日まで来てしまった息子に不憫な気持ちが湧いてくるが、しかしここで突き放さないと彼の自立の時はこないはずだ。
 彼が一方的に電話を切ってから、二週間以上になる。親の小言が聞くに耐えなくて、むらとむらと反抗心が燃えさかって、それで電話を初めとする一切の交流を断ち切ったというのなら、それもそれでいいとあきらめもつくが、どうもそれだけでなく、精神的な無器用さでどう対処していいか分からないままにいるのではないか。今の仕事が性に合わない、仕事の途中に便所に行くのも気兼ねしている、という彼の話は、どう考えてもノイローゼ的反応であるが、それをいくら諭してみても、そういう状態に陥っている当人からすれば、そう簡単に抜け出せない苦境であることには変わりはないのであろう。
 向かいのプラットホームには、常時十人くらいの人間が立ったりベンチに座ったりしているが、もちろん電車が入ってくる度にその顔ぶれは変わる。しかしなかには待ち合わせなのか、ベンチに座ったまま、何台も電車をやり過ごしている人もいる。三台ほどやり過ごしているのは、移動電話でときおりどこかと連絡をとっている若いサラリーマン風の男だ。こちらはそれ以上の電車をやり過ごしている。こんなこともあろうかと、革のハーフ・コートを着てきたが、時折襟元のマフラーをかき合わせても、下の方から寒気がぞくぞくと這い上がってくる。   
 朝方、バイト先に電話すると、今日は出勤途中気分が悪くなったので休むという連絡が入ったという返事。高熱を出して寝込んでいる可能性よりは別のバイト先を探しに出かけている可能性大と踏んで、訪ねてみたのだが、やはり留守であった。合い鍵をもらっていないので、中に入ることはできない。玄関のドアの鍵穴から中を覗いてみたが、雨戸を締め切っているので暗くてよく見えない。
 「おまえの問題は仕事が合わないとか職場が働きにくいという以前の問題なんだよ。要するに《生きる》ということの基本的な姿勢がなってない。自分を過大に評価するのでも過少に評価するのでもなく、等身大の自分の姿を謙遜に受け入れること。おまえは、もうここ十年以上、霧の中にいるようなものだ。まずそれを認めることだ。いつか必ずこの霧の中から抜け出すことを強く望むことだ。そうすれば思いがけぬ瞬間に思いがけぬかたちで、ふっとその霧が霽れるはずなんだから」(おや、人間学の講義かい。自分の子供を満足に育てられないのに、人間学の講義はないだろう)。
 彼がまだほんの子供のころ、外出先の中華料理屋で食べたものがどうしても呑み込めず、町歩きから家に帰り着くまでずっと口の中に入れたままということがあったが、その無器用さがいまだに直っていない。彼にもいつか笑い話として自分の無様な過去を振り返るときが来るのであろうか。
 空の明るさより蛍光灯の方が明るいと思って腕時計を見たら、もうすぐ四時になるところだ。まだ夕方の混雑までには間があるのかも知れないが、都心から帰ってくる人の数が増え始めた。もう何本の電車を待ったろうか。帰ってこないはずはないが、しかしいつまで待てばいいのだろう。このまま終電まで「待ち続ける父の愛」なんて、愚の骨頂と思ってはみるが、しかしベンチから腰を上げる潮時が分からない。口の中のものを呑み込むことができないのと同じことか、と思ったとたん苦いものが込み上げてきた。人生大事なのは潮時をつかまえることなんだよな。


『青銅時代』、第38号、1996年秋