18. なーんちゃって世紀末 (クアジ・フィニス・セクリ) (1999年)


なーんちゃって世紀末

  (クアジ・フィニス・セクリ)


免れた地獄と、既にもやい網の投げられた天の岸辺との間で、煉獄は偽りの等距離にある。つまり、過渡的・一時的な煉獄には、地獄や天国の永続性がない以上、それは偽りの中間性である。
                  (J・ル・ゴッフ『煉獄の誕生』、第三の場所)

理性は繰り返し言う、「空の空なるかな、すべては空しい!」と。それに対して想像力は答える。「充実中の充実、すべては充実!」と。かくのごとくわれわれは充実の空しさを生き、あるいは空しさの充実を生きる。
               (ウナムーノ『生の悲劇的感情』、第八章)





セクハラの構図


 かつて勤めたことのある女子大(キリスト教系)でセクハラ事件が起こったらしい。そのことをある婦人雑誌が記事にしていることを新聞広告で知り、さっそく購入して読んでみた。記事を書いた女性非常勤講師も、文中イニシャルで登場する人物たちも、そのほとんどを特定することができたので(ただし主犯格〈?〉の男性非常勤講師はまったく知らない人であった)、タイトルからして「学生たちの心の叫びを聞いてください」などと大げさな感情表現が随所にあってお世辞にも要領のいい文章とは言えないが、事件のあらましと、その間の大学内の雰囲気のようなものは掴むことができた。率直な感想を言わせてもらえば、事件そのものはどこの大学でも起こっている、あるいは起こりうることなのだが、その大学にとって運が悪かった(?)のは、セクハラとは何か、そして身近に起こったことの何が問題となっているのかを明確に意識していた人間が組織内、特に上層部(?)にいなかったこと、そのため、対応が後手後手にまわり、事態をさらに紛糾させて、大学や教職員に対する学生たちの不信感を募らせた、ということである。
 結局、この騒動の一部始終を眺めたあとに残る感想は、いわゆる大学当局の対応のまずさである。世間体や外面的な秩序を心配するばかりで、このような不愉快な事件からも学生の考える力、批判する力を養うことができる、ととらえる柔軟な姿勢がなかったということである。むしろどんな授業・講義よりも実践的かつ効果的な人間教育の機会でありえたのに。この大学に限らず、たいていの学校・大学は、何かことが起こると、いつも封じ込める、すかしなだめる、つまり生徒や学生側からすればつねに臭いものに蓋としか思えない対応しかできないのは、どうしてだろう。
 ともかく対応にバランスを欠いている。えてしてミッション・スクールにはありがちなことだが、社会的なこと(とりわけ社会正義に関わること)に対する感覚が希薄で、そしてそのことに内心ではコンプレックスを持っているので、時に人間の弱さに起因する事件(たとえば今回のようなセクハラ騒動)に対して驚くほどの寛容さ(杜撰さ?)を示すことがあるのだ。「世俗の人間って、どうしてこうだらしないのかしら。特に下半身がね」。しかしこうした一見寛容と見紛うほどの態度が、ある一点を境にして(その一点は時間的でも空間的でもありうるが)非情なまでに冷酷な判定を下したり、ある場合には神経症的潔癖症的に反応する(宗教界とは言え、人間社会であることに変わりはない。だから内部的なスキャンダルとも無縁ではありえない。しかしその際の対応は内部にあってさえ秘密裏の、しかも電光石火の隠蔽工作だから、人間の行為の社会的な意味、責任、反響などについてしっかり学習する機会を逸してしまう。すべては混沌たるミステリーの領域に吸い込まれていく)。
 ところで誤解がないように急いで付け加えなければならないが、事件の発端にある男性非常勤講師の行為自体には弁解の余地がない。六十代後半の、それも教科教育法を担当する人間が(と強調するほどのことでもないが)、孫ほどの年齢の女の子(複数)に対して、単位認定(あるいは非認定)をちらつかせながら、何度かセクハラと断定せざるをえない行為に及んだことは、なんとも意地汚い、そして同じ教師仲間からすればなんともいじましい、としか言いようがない。国文科の女性教授が言うように、彼はおそらくは教育熱心な(?)、真面目な(?)教師なのであろう。
 しかしどこかが狂っている。ビョーキである。記事をそのまま信じれば、彼は特定の女子学生に対して破廉恥な行為に及んだのではなく、多数の不特定学生にセクハラ的行為を繰り返したらしい。といって絶えずアンテナを延ばして、機会あれば女子学生と「いい仲」になろうという、当たりはソフトだが生来的にスケベな教師とも違うようだ。
 ただ残念なのは、被害にあったという学生たちの中に、間髪を入れず抗議したり、あるいはハンドバッグで横っ面を張り飛ばすくらいの勇ましい女の子がいなかったことである。これは同じアジア人でも、中国や韓国の女子学生だったらありえない事件だと思う。学生たちは単位がもらえなくなるのではと恐れて呼び出しなどに応じたとあるが(これまたイジマシイではないか)、相手が正真正銘の変質者とか、あるいは犯罪者ならいざ知らず、どう考えてもこの老教師は、権威を笠に着た、自己顕示欲の強い男ではあっても、世間体を気にする小心者に違いない。学生一人では無理かも知れないが、仲間と謀って、逆に呼び出しをかけ、この教師を徹底的にこらしめるくらいの元気のいい学生はいなかったのだろうか。最近は男の子より女の子の方がたくましいし、批判力もありそうなのだが、いざというときに蛇に睨まれた蛙のように、正常かつ臨機応変の対応ができなくなるのは、なぜだろう。 
 セクハラというものに対する社会の認識が深まるにつれ、この種の事件は今後増えこそすれ減ることはないだろう。その際肝要なのは、どこかの官庁があわてて編集したマニュアル(結局はどうカワスかに終始している)片手に疑心暗鬼になることではなく(下手をすると本当にいもしない鬼を呼び出すことにもなりかねない)、前述したように、むしろ事態を逆手にとって、相手がたとえ社会的にみて公権力に属する人間であろうが(かつてこの同じ大学の学生が、町内巡回の警官に暴行されて殺害されるという痛ましい事件があった)、あるいは僧侶とか教員といった、一般的には社会的信用度の高い人間であろうと、理不尽なことは理不尽であると的確に判断し、それなりの方法で抗議し、ときには反撃に出るくらいの学生(男子学生であっても同じだが)を育てる機会とすることではないか。
 もちろん今回の場合、事件が明るみに出されたことによる副産物はいくつかある。たとえばあの非常勤講師のような傾きを持っている教員に対しては警告となったであろうし、セクハラとは自ずと意味は違うにしても、日頃から鼻の下の長い教職員への究極の教訓として、非常に露骨な表現だが、「商売ものには手を出すな」という、ごく当たり前の職業倫理が改めて意識されたことであろう。
 ともあれ、この事件ならびにその顛末は、外から眺めるなら、なにかと教訓的な事件ではあったが、あの大学の当事者たちは、結局何が起こったのか未だに総括できないままでいるのではないか。運が無かった、間が悪かった、煽動者にかき回された、マスコミに取り上げられてしまった、今度は事態が紛糾する前に迅速に手を打たなければ、という風に考えているのかも知れない。こうしてまた人間として組織として成熟する機会をみすみす逸していく。



あと何回見られるか


 近所を流れる小さな川の、その流れを変えるための区画整理で、我が家の周りに家がなくなってしまった。「なくなってしまった」とはいかにも寂しがっているように聞こえるが、実は不利な代替条件を呑んで泣く泣く移っていった隣近所の人たちには悪いが、この孤立は願ってもないことで、今の家が文字通り終の住処になってほしいと願っている。台所の上に鉄骨プレハブで作ってもらった浮き巣のような書斎の窓から、竹藪の中に夕陽がその赤く長い脚をのばしてくるのを眺めながら、いつも考えてしまう、いったいこの美しい夕陽を、死ぬまで何回見ることができるのだろうか、と。夕陽とともに感覚的に蘇ってくるさまざまな思い出。白状しちゃおうよ、キリスト教が教えるような来世をもはや信じてはいない、と。それなら何を……



あゝブルータス、お前もか! 


 官僚の天下りのニュースが毎年恒例のように新聞紙上やテレビを賑わす。官界から民間企業への天下りの実体については、ほとんど何も知らないが、しかしなぜそれが性懲りもなく繰り返されるかと言えば、それによって得する人がいるから、といった程度のことは素人でも分かることだ。天下る本人はもちろん得をするが、受け入れる企業の方にも確実な利益があるのであろう。つまり「天下り」組は、いわゆる「たたき上げ」組と比べて実務的ではないが、いわば「看板」として、対外的折衝などに威力を発揮するということなのだろう。 
 もちろん「天下り」は政治の世界だけでなく、教育の世界でも頻繁に行なわれている。国立大学の教官が、一般的に定年の時期が遅い私立大学に「天下り」するのはいわば常習化しているが、ここでもう一つの天下りもあることを指摘しておきたい。すなわち一流と言われる私立大学の退職あるいは退職間近の教授が、ランクの低い(?)私立大学、とりわけ新設大学の学長・学部長クラスに特遇扱いで(新設校だったら完成年度まで自動的に停年が延長されるなど)迎えられることである。もちろんこれは、高い識見と深い学問的蓄積、教育者として実績のある人が天下るのであれば何の問題もないであろう。しかしこの場合であっても、受け入れる側の人間、つまりそれまでその組織の中にあって、その組織固有の問題解決のために努力してきた人間にとっては、何か釈然としないものを感じるはずだ。それは何だろう。
 先日何気なく『カトリック新聞』の最近号を見ていたら、昔懐かしい名前を見つけた。教会・修道会関係の人事移動が今ごろ、つまり夏場にあるのかどうか詳らかにしないが、いくつかの異動を報じている記事の中に、その名前を見つけたのだ。かつて同じ釜の飯を食ったN・A(神父)の名前が。それはY県県庁所在地にある小さな女子短大の人事異動の記事の中にあった。つまり新任の短大学長がN・Aだったのだ。
 この短大については何も知らないし、どのような事情からN・A師を学長として招聘するようになったか、もちろん知るよしもない。しかし私自身の理解が及ぶ範囲だけからでもなんとなく予想できることはいくつかある。もちろんすべて想像の域を出ないことだが、たとえばこんなことである。つまり理事者側にとって、この人事は非常に好都合なというか安易な現状打開の切り札だった。なぜならそれまでのスタッフではもはや窮境を抜け出すための妙案が出てこないか、あるいはそのままでは現体制の根本からの見直し(時には体制崩壊も)が迫られているので、強力な助っ人を要請したということである。最近は外部からの助っ人要請のほとんどが後者である、と言い切ってもまちがいないであろう。
 さてここで先ほどの話に戻る。「何か釈然としないもの」の正体である。現在たいていの私立大学のトップは、第二世代か第三世代になっている。つまりカリスマティックな創立者亡きあと、たいてい事業的にはさらに拡大発展の道を選択し、それなりの成果をあげてきた。しかしバブルがはじけ、今や少子化時代を迎えてのサバイバル競争の中で、かつての草創期には予想すらできなかったとてつもない困難に直面している。草創期の簡明な理想主義ではもはや人集めができない時代、つまり従来の意味合いでの「キリスト教(主義)大学」はもう疾っくにそのままでは存続できない時代に入っているのに、その事実に目を塞いで、旧来の形に固執している、そしてそこからさまざまな内部破綻が生じているというのが現実であろう。たとえば、教職員をなるたけ信者でかためようとしても、もちろん不可能であり(三分の一が精一杯)、そして九十五パーセント以上の学生が未信者(教会サイドの勝手な命名だが)という状況が、現在一般的にミッションスクールが置かれている状況である。トップに立つほんのひとにぎりの本国派遣の役人以外はすべて現地人で構成されている植民地体制に似ている。いつ現地人の反乱があるかと戦々恐々としており、一応は民主主義的機構を採用はしているが、それは表向きで、できればもっと安全にもっと敏速に自分たちの主張が通るようにしたい、と考えている。しかしそれには自分たちの力量が大幅に不足していると認めざるをえない。かくして、外部から、それも少しは世間的にも名の通った人間の登用が画策される。
 内部的破綻は、しかしたんに大学運営といった側面だけではなく、もっと深いところで確実に進行している。つまり設立母体である宗教法人自体の精神的空洞化である。草創期にあったあの積極果敢なパイオニア精神は減退し、宗教団体の命であるスピリチュアリティ(これを何と訳すかが現在問題になっているらしいが、従来からの訳語では霊性)が底を突いている。時代がそう見させたのか、それとも見る側にもまた霊性に共鳴する能力があったからか、かつてはどんな修道会にも聖性の香りを漂わす何人かの修道者がいたものだが、現今、どう贔屓目に見てもそのような個性が輝いているようには見えない。
 結論を急ごう。ともかくこうした現実を率直に認めて、これまでとはまったく異なる新たな道を模索することである。つまり新しい状況・時代に対しては自分たちも世俗の人間とまったく同じ条件下にあることを素直に認めて、手を携え協力しあって未来を切り開こうとの姿勢を打ち出すことである。聖フランシスコ・ザビエル時代の「ミッション」概念が既に完全に質的な変化をとげていることを認めなければならないのだ。
 ともあれ、経済的な仕組みから言うと、学校経営というのは、比較はドギツイがしかしぶっちぁけた話、どこかのカントリー・クラブとさして変わらないはずだ。つまり運転資金のほとんどすべてが、会員から集める会費で成り立っているという意味で。つまりお客さんあってのクラブである。サービス業なんだよな。既にある「自分たちの財産」を守る姿勢からは新しい時代を生きる活力も知恵も湧いてこないであろう。

 N・A師への実践的勧告……貴師が雇われ学長であることを片時も忘れないように。つまり理事者側にとって、貴師は所詮「切り札」、つまり「使い捨て」です。彼ら(あるいは彼女たちは)その時(貴師の利用価値が無くなる時)が来れば、世俗の辣腕経営者も呆気にとられるような冷酷さで貴師を切り捨てますよ。だからまだ貴師の周りにオーラがあるあいだに(もちろん理事者側に対する)、少しでもましな改革に着手してくださいね。



ここまで来れば犯罪的


 もう四十年近くも昔のことになる。そのころ、大学生だった私は、今はもうなくなってしまったが、当時代々木初台にあった、R会というカトリック修道会が経営する学生寮で寝泊まりしていた。貧乏学生だったから、もちろんアルバイトをいろいろしていたが、どういうきっかけからか、そこの修道院の来日間もない若いカナダ人神父に日本語を教えていた時期がある。この若い神父がある時、教室代わりに使わせてもらっていた応接室に、非常に興奮して入ってきたことがある。「S大学で、新進気鋭の英文学の教授(神父)の講演を聞きに行ったのだが、清貧について実に馬鹿げたことを言っていた」というのだ。つまり自分たちは三食昼寝付きの生活が一生保証されていることを「棚に上げて」(この表現はその頃覚えたばかりのもので、嬉しそうに発音した)、自分たち修道者の生活がいかに清貧であるかを得々と語ったというのである。
 確かにこの若い神父が指摘するように、修道者にとって「清貧」が「絵に描いた餅」である可能性というか危険性は日常的にころがっている。つまりそれはきわめて意識的・人工的であることが多いのだ。この場合「意識的」というのは、「右の手でしていることを、左の手にさえも知らせないようにせよ」(マテオ、六の三)という場合とは正反対の意識状態を言う。「人工的」というのは、たとえばアッシジの聖フランチェスコがまとった粗衣が、次の世代では会の精神そのものを象徴する地位に祭り上げられ、そして時の経過とともにもともとはそこいらにころがっていたいちばん廉価な布地が、いつの間にか特注しなければならないような高価な布地に変化し、にもかかわらず、その修道服(ハビトゥス)は文字通り慣習(ハビトゥス)として、不変の価値を帯びるようになり、そのうちその修道服にまつわる不思議な奇跡譚が誕生する、といった過程を指す。
 さてここで冒頭に戻る。あれから四十年後、かつての新進気鋭の教授は今や功成り名遂げた有名教授であるが、あるとき彼の学生から次のような愚痴を聞いた。彼の授業をとったが、課題に出されたレポートを書くために指定されて購入した彼の著書が、なんと十八冊にもなったというのだ。 
 分かるよ、彼は昔から浮き世離れしているので、学生のふところ状態などぜんぜん気にしていないのだろう。それに直接自分に印税が入るわけでもないし、などと考えているのかも知れない。でもそれはないぜ、あなたは別段気にしていないかも知れないが、あなた名義か、あるいは修道会名義の口座には間違いなく印税が振り込まれているんだよ。そして学生にとって、印税の宛先がだれかなど、まったく関係ないことなんだよ。この四十年のあいだ、著書の数は増えたが、清貧については進歩が無かったってとこかな。



海外旅行の添乗員


 『カトリック新聞』という週刊紙の定期購読を始めて二年目に入った。いわば業界紙のようなもので、おもしろい記事があると期待して購読しているわけではない。機関紙である以上、日本のカトリック教会のおおまかな動き、雰囲気、流れのようなものを掴めるのではないか、と思ったからだ。自称「はぐれキリシタン」でも、カトリック教会の動向を気にはかけている。 
 海外旅行がここまで普及しているのだから、当たり前と言えば当たり前かも知れないが、神父が引率する聖地旅行の広告が毎号のように載っている。キリスト教の宣教のためには、キリスト教発祥の地や、奇跡が起こった有り難い土地に信徒を連れていくのは、ちょうど修学旅行の引率のようなもので、結構なことなのかも知れない。しかし毎号かなりのスペースをとって掲載されている広告を見ていると、やはりちょっとおかしいなと思えてくる。簡単に言ってしまうと、旅の空の特別なフンイキの中で、ちょっぴり聖なる気分に浸ったとしても、勝負は旅から戻った後の日常よ。 
 もう十年ほど前の話になるが、シンガポールからバリ島まで豪華客船でVIP扱いの無料招待旅行を夫婦で経験したことがある。ところがその夢のような旅から帰ってきて最初の我が家での夕食の途中、妻がとつぜん呼吸困難になって救急車を呼ぶことになった。何時間か前までの竜宮城体験から、とつぜんうらぶれた我が家の台所に帰ってきて、そのあまりのギャップに、過換気症候群にかかったらしい。救急病院で皮肉まじりに言われたのは、今度かかったら、手近の袋を頭からすっぽり被せてくださいね、お大事に。

 ※一九九二年五月、JR東京駅構内で、京都への修学旅行から帰 って来た埼玉県八潮市立第四中の三年女子生徒一七人が、次々と息苦しさを訴え、救急車八台で都内五カ所の病院に運ばれた。いずれも症状は軽く、同夜、帰宅したが、診察した病院の話では、過換気症候群が集団で発生したもの、と見られる。(『知恵蔵』一九九三年版)



不思議な疲れ


 ひいきのプロ野球チームが負けた時のあの不思議な疲れは何だろう。たかがスポーツの勝ち負けに一喜一憂するなんて馬鹿の骨頂と思いつつ、しかし負け戦の後のあのイタタマレなさ。家人がびっくりするような激しい呪詛の言葉を、思いきり(ありがたいことに我が家は竹藪の中の一軒家で、少しぐらい大声を出したって、だれにも迷惑がかからない)テレビに向かって投げつける。
 とんでもないチョンボをしたって、日本の観客はなぜあのように整然と、温かく声援を送るのか。選手のプライバシー(たとえばお前のかあさんデベソだとかの)を侵害するようなヤジはいけないが、「下手くそ!どこ見てんだ!」、「馬鹿やろう、金返せ!」くらいのヤジ、満場を揺るがすくらいのブーイングは当然じゃないか。ともかく巨人戦だけを最優先させてテレビ放映する現在の仕組み(これまでこのことをめぐって本格的な議論があったのだろうか、みんなこうした現状に納得しているんだろうか)を是認している日本プロ野球機構(?)、全コミッショナー、あらゆる野球解説者をまったく信用していないし、FA権が取れたといって、さっそく巨人に色目を使う選手(何!大魔神もそうだって!)もいっさい応援しない。



三種の神器


 「神器」という言葉をなんと発音するか、いつも迷う。「じんき」か「しんき」か、はたまた「じんぎ」か。正解は最後。それでは何をもって三種と言うか。辞書を引かなければ分からない。「八咫鏡(ヤタノカガミ)」「天叢雲劍(アメノムラクモノツルギ)」「八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)」の三つだそうだ。
 ところで世俗的価値を捨てて、超自然的な価値を選んだはずの宗教者が、時にその捨てたはずの世俗的価値を、おそらくはそれとは知らずに、つまり無垢なる魂をもって、むしろ世俗の人間よりも純粋に信じこんでしまうことがままある。いや「ままある」どころではない、それがほとんど習い性となってしまっている。自分たちは世俗に疎い、というコンプレックスからか、意外なところで、世俗的価値を盲信するのだ。たとえば大学関係者だったら、それは東大、朝日新聞、NHKだったりする。世俗の人間だったらだれでも、東大卒にも馬鹿がいっぱいいるし、最近の朝日新聞ときたら中学生にも馬鹿にされるような見出しや文章が頻発するし、NHKのアナウンサーの物凄い日本語に辟易した経験を持っているにちがいない。修道女たちのそれは、たとえば妃殿下の出身大学であったり、黒い教皇と呼ばれる(やっかみ半分恐れ半分で)総長をトップにいただくJ修道会ならびにその会員だったりする。ああ、みっともない。



性の深淵


 以前、十六世紀スペインの神学者・ドミニコ会士・サラマンカ大学教授・国際法の先駆者フランシスコ・デ・ビトリアの二つの特別講義を訳したことがある(『人類共通の法を求めて』、岩波書店、一九九三年)。この場合「特別講義」というのは、通年の講義とは別に、当時、年に一度か二度、きわめて実践的なテーマをめぐって教授陣に義務づけられていた講義を指す。ともあれこの二つの講義録は、いわゆる「新世界問題」の非常に重要な文献である(最近、石原保徳氏が『世界史への道 ヨーロッパ的世界史像再考』〈丸善ライブラリー〉の中で、この二つの講義を真っ正面から取り上げている)。ここで「新世界問題」を視界に入れてのビトリア論を展開するつもりも備えも、今はまったく無いが、彼の講義録の中にあった非常に気になる言葉を紹介する。

「信仰は強制されるべきではない。………なぜなら、リカルドゥスが言っているように、より悪い結果をもたらすであろうからである。たとえ王に娼婦や売春婦が街角に立たないようにする法律を制定する権原があるとしても、もしそうした法律が施行されるなら、深く根を張った情欲に大混乱が生じるという悪い結果をもたらす。したがって、そのような法的措置を講じる者は間違っている」(『インディオについて』第三部、第一項)。

 ここで思い出されるのは、何年か前の売春論議で、どこかの神父から売春制度を容認するような発言があり、それが逆に物議をかもしたことである。売春婦を許すことと売春制度を容認することとは、まったく次元の異なる問題のはずであるが、しかし先のビトリアの言葉にはしなくも表れているように、キリスト教は国家や体制と結託することによって(発端はもちろんコンスタンティヌス大帝時代)決定的に体制維持の側に回ってしまったのである。だから体制維持のためには、社会に大混乱が起こらないためには、人間の悪に対して眼を閉じて見ないふりをすることを覚えてしまった。そこから教会の汚辱の歴史が始まる。二十世紀後半になってさえ、ベトナム戦争時のサイゴン政府、ほとんどすべての中南米政府……がカトリック教会と密接な関係にあったことは周知の事実であろう。現在でもバチカンの巨大な聖ピエトロ寺院を背景に、全世界約六億の信徒を率い、燦然たるティアラ(三重冠)を頂いたローマ教皇の隠然(いや歴然)たる政治的な力を知らない人はない。世界苦を一身に背負ったかのような苦悩の面持ちで世界平和のために祈る教皇の姿も、その背後にあるとてつもない政治権力を考えると、えげつないパワー・ポリティックスの図式が透けて見え、とたんに空しさが込み上げてくる。

 かつてルージュモンは、西洋精神史の大きな流れを愛を縦軸に見事に分析してみせたが(『愛について』、原題は『愛と西洋』)、最近たまたまカタログで見つけたウタ・ランケ・ハイネマンの『カトリック教会と性の歴史』(高木昌史他訳、三交社)は、「〈性〉を基軸に矛盾と葛藤に満ちた壮大なキリスト教文化の歩みを辿る」もので、実にユニークなカトリック教会史である。著者はドイツ連邦共和国大統領G・W・ハイネマンの娘で世界で初の女性カトリック神学教授らしいが(一九二七年生まれ)、表から見たキリスト教の大伽藍が、〈性〉というプリズムを通して背後から眺めると、実に滑稽かつ愚劣な歴史を浮き彫りにさせてくる。教会は性の抑圧者であると同時に、時にはセレスティーナの役、つまり置屋の女将的役割も演じてきたのである。



単独者


 このころ日毎に強まっていく確信のようなものがある。それはどのような分野のものであれ、およそ組織と呼ばれるもの、さらにはその組織に属しているすべての人に対する不信感のようなものである。不信が確信になる、とは論理矛盾かも知れないが。
 もちろん人は孤立して生きていくことはできない。つながりの強度に違いはあれ、いずれかの組織に属している。つまり家庭から国家にいたるまで、さまざまな関係の網の目の中に組み込まれている。したがって問題は、組織に属していること自体ではなく、組織に属しつつどこまで自由でいられるか、どこまで自己責任をとるかどうか、ということになる。 
 今夏、還暦を迎える。私の考えでは、もうだれにも遠慮することもない年齢と解釈させてもらう。ふたたび自分の生まれた年に戻ったのだから。



腐らない肉体


 聖フランシスコ・ザビエルの右腕が日本に来たのはいつだったか。調べてみると、昭和二十四年(一九四九年)であった。この年、教皇特使ギルロイ枢機卿がザビエルの「奇跡の右腕」と共に来日し、全国各地でザビエル渡来四百年祭の記念祝典が行なわれたとある(『キリスト教史』第十巻、平凡社ライブラリー版、五三四ページ)。そう言われれば、当時通っていた帯広市(北海道)のカトリック教会でもそのことが話題になっていたのをぼんやりと思い出すことができる。ところで今年一九九九年は、ザビエル渡来から四百五十年ということになる。各地で展覧会や記念行事が行なわれているらしい。しかし今回「奇跡の右腕」は来日したのだろうか。もし来ていないとしたら、それはどういう理由からか。百年単位の記念祭には出品(?)されるが、五十年単位のそれにはその資格(?)がないからか。それともミイラ化した人間の腕などというキワモノに対する世間一般の感じ方に変化があり、それを顧慮したためか
 肉体が腐敗を免れるということは、しかしいったい何を証明するのだろう? かつての持ち主の聖性を証明するのだろうか、それともその人が奉じた宗教の真理性を明かすのだろうか。もしそうだとしたら、地球上には無数といっていいほどの聖人や真の宗教が存在することになる。なぜなら、世界各地に、死者の肉体が死後も腐敗を免れている例は、それこそ枚挙のいとまもないほどだからである。
 最近肺ガンで亡くなった友人がいた。彼がまだ回復への強い意欲と希望をもって闘病生活をしていたある日、彼の病室を訪ねたら、ついさっきまでかつての同僚の二人の修道女が見舞いに来ていたと言う。そして彼女たちが置いていったカトリック系の雑誌の切り抜きを見せてくれた。それは日本で亡くなったある外国人修道士についての写真入りの記事であった。つまり彼の遺体は今なお腐敗を免れていて、現在彼を福者にしようという運動が起こっているとの内容らしい。友人の話によると、二人の見舞い客は、長時間、これがどれだけ珍しいことかを滔々と宣伝していったということだ。たとえば、コピーを持ってきたのでついでの時に読んでください、と置いていくのならまだしも、肺ガンの末期を宣告された病人の枕元で、腐らない肉体について長時間説教めいた話をまくしたてるとは、いったいどんな神経の持ち主なのだろう。

 ※この原稿がゲラになって戻ってきたころ、九月十二日付の『カトリック新聞』に、「ザビエルの聖腕 来日決定」という記事が載った。日本側のたっての要請で、十月八日から十一月一日まで九州中心に巡回顕示が追加決定されたそうだ。かくのごとく、「こうではないかな?」と相手の良識と成熟を期待しての予測はことごとくはずれる。噫乎!



インテグリスモ


 保守と革新などという二分割法がまったく意味をなさないことが、政治の世界に限らず、あらゆる領域・分野において日毎に証明されている。つまり深く保守的であることが、ある文脈によっては極めて革新的でありうる、などのことである。保守か革新か、という二者択一の構図からは何の積極的価値も生まれえないとして、かつて(十九世紀末スペインの)「九十八年の世代」はインテリオリスモ(といって、その渦中にあった人たちがそう自称したわけではなく、後世の命名なのだが)という第三の道を見つけた、あるいは見つけたと思った。つまり保守と革新、右翼と左翼というような水平的な対立ではなく、言うなれば垂直的な対立の図式を構想したのである。インテリオリスモを強いて訳すなら、「内面主義」となろうか。ならばその対立項は何であろうか。エステリオリスモ「外面主義」であろうか。街宣車や「楯の会」などを考えれば、派手好き、格好マン的傾向が顕著だが、しかし格好マンはどちらの側にもいるいわば性格的なものであろう。
 またまたスペインの例を引き合いに出すことになるが、前世紀末、インテリオリスモと時を同じくしてインテグリスモという動きが生まれた。一八八八年、典礼の改変や進化論、社会主義的なあらゆる傾向を否定する「スペイン・カトリック国民党」がその代表。極端なまでの反近代主義を掲げたこのカトリック右翼は、のちの「オプス・デイ」に繋がっていくのであろう。
 以上四つの思想的傾向のモットーを標語で表わせば、保守は「過去にもどれ!」、革新は「前進せよ!」であろうし、インテリオリスモのそれは「内部に進め!」ということになろう。ならばインテグリスモは? 垂直軸を考慮に入れるなら、「上部へ!」となろうか。確かにスペインの極右思想集団のファランヘ党の合い言葉は、「アリーバ!」、すなわち「上へ(万歳)!」だった。
 ともあれ、この世紀末にあって、あらゆる領域で極右の動きが活発になってきた。「日米新ガイド・ライン法案」「日の丸・君が代の法制化」があっと言う間に国会を通ってしまった。きな臭い時代になってきた。こうした体制に共通するのは、擬似完全性への志向である。理想国家、理想教会の建設。形だけから見れば、未来志向の理想主義めいているが、内実はありもしない過去の幻影を追い求める逆立ちの理想主義である。つまり「なーんちゃって理想主義」に他ならない。ありもしない完全性擁護を旗印に踏ん反り返らないで、謙遜に足もとを見てみようよ。もっとラディカル(根源的)に生きようよ。



カシモド


 時に思いもかけない記憶の断片が、深い沼の底から陽の光を求めて湧き昇ってくることがある。さて今それは、「レグラ・タクトゥス」と「ラピダチオ」という二つのラテン語である。実はそれらがふと忘却の底から蘇ってきたのは、これら一連の文章を書きあぐねていたときである。
 さて「レグラ・タクトゥス」である。何と訳せばいいのだろう、直訳すれば「身体的接触に関する規則」とで言おうか。これはJ会というカトリック修道会の規則の一つであるが、それがどこにあるのか、手もとの資料では確かめようがない。いま眼の前に、一九三五年にサンタンデルで発行された『J会霊の法典』という四四七ページの小型本があるのだが、その中の「会憲」(抜粋)にも、また独立したいくつか他の規則集の中にも見当たらない(その中には「礼節の規則」というのもあるのだが、探しているものとは違う)。あるいはそれは私の頭の中でいつのまにか作り上げられた実在しない規則なのか。いや、確かにこの規則があったはずだ。実習生(?)として日曜学校などに手伝いに出かけるとき、子供たちとの身体的接触、たとえば抱き上げたり、頬擦りしたり、といった接触を避けるように、と副院長から教えられた記憶は確かである。
 「ラピダチオ」、これは石を投げるという意味。この不思議なラテン語も、先の「レグラ・タクトゥス」と同じく、はるかな昔、修錬の一環として経験したことである。欠点や落ち度などを皆の前で指摘すること。ただし予想とは違って、自分の欠点や落ち度をいわば白状することではなく、同僚(修友と呼んでいたのだったか?)のそれを、ちょうど石をぶつけるぐあいに、皆の前でかしこまって座っている修友の背後から指摘することである。 
 おそらく正規の(?)現役会員でさえ忘れているような古ぼけた修錬時の規則を思い出すなど、我ながら馬鹿じゃないの、とあきれてしまう。正直言うと、このところ年のせいか物忘れがひどくなってきたのと反比例して、昔のことが、それも自分ではすっかり忘却の彼方に消え果てたと思っていた記憶が、とつぜん蘇ってくるのである。
 そこで三題噺ではないがカシモドである。これはビクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』(むかし少年文学の世界では『ノートルダムの☐☐☐男』という題名で有名だったが、最近は差別語なのか☐☐☐という言葉は使われないらしい。ディズニーの映画も『美女と野獣』となっている)の鐘突き男の名前である。ユゴーがどのような意味をこめてこの登場人物の名前を決めたかは分からないが、フランス語でカシモドと発音されるこの言葉は、ラテン語ではクアジモドのはずだ。クアジは「ほぼ、ほとんど」、そして「モド」は程度、風采といった意味であろう。だからユゴーは、みにくい姿の鐘突き男を「ほとんど人間」「人間と言うにはもう少し」という意味合いで命名したのでは、と愚考する。崩壊寸前の大伽藍に、頼まれもしないのに時おり鐘突き男を買って出て、弔鐘を鳴らそうとするクアジJ会士、「なーんちゃってJ会士」なんかになるつもりはないのに、やはり時おり昔のことが出てしまう。  
 ともあれ、これも一つの縁(えにし)、最後までこだわりますぞ。

 ※今世紀イタリアの詩人にサルヴァトーレ・クァジーモドという人がいるが、これはペンネームなのか、それとも本名なのか。イタリア人の姓にもともとある名なのか。もし本名だとしたら、ユゴーの命名とどう関係するのか。今後の課題。



『青銅時代』、第四十一号、一九九九年