21. われ俳諧の裾野を徘徊す(1991年)


われ俳諧の裾野に徘徊す


 生まれてこの方、俳句の世界とは無縁であった。あえて近づこうともしなかった。俳句はずるい芸術、と思っていた。表現への努力を骨惜しみして、たったの一七文字のスぺースに、ちまちまと約束ごとに縛られた言葉を連ね、あとは読み手の深読みに期待するのだから。自分の教養(もしそんなものがあるとして)に決定的に欠落している日本古典に、いつかは近づかなければと思ってはいたが、しかし俳句に対しては何の魅力も感じなかった。桑原武夫の「第二芸術」とやらを読んだからではない。それ以前の、ほとんど生理的と言ってもいい距離感がそうさせた。
 だから俳句への接近は、外部から、まったくの偶然の積み重ねから起こった。昨年七月の初め、「青銅時代」同人の西岡武良氏に連れられて、同じく同人のロべルト・オエスト氏と、作家の真鍋呉夫氏宅を訪ねたことがきっかけである。真鍋氏のお名前はそれまでも島尾敏雄との関連で知っていたが、お目にかかるのは初めてであった。奥様の手料理に舌鼓を打ちながらの談笑の中で、いつか話は連句の会のことに移っていた。オエスト氏は確かに芭蕉が専門だから(東京教育大での卒論が「幻住庵の記」についてであると聞いている)誘われる資格はじゅうぶんだが、まさか自分も誘われるとは思いも寄らなかった。旬日を経ずして、登坂佳永という女の人から、第一回目の連句の会参加の問い合わせがあった。時は暑い盛りの八月二十四日、場所は関口芭蕉庵。参加者は例の四人に、先日の電話の主の登坂さんが加わっての総勢五人。会の仮称は真鍋氏が語呂合わせをしたのか「雁の会」。しかし氏には「わが夢にきらめく雁の涙かな」という名句がある。
 さて当日、会が始まる前に芭蕉庵の庭をみなで散策。私にとってそこにある草花は「草花」という総称しか持っていないが、しかしここにあるのは「水引き」、そしてあそこにあるのは「……」だそうだ。しゃくだが、みんな名前を持っている。アルゼンチン出身のオエスト氏がまたやけに草花に詳しいときている(真鍋氏邸はうっそうたる木立のなかにある。先日辞去する際、玄関脇の大木は何かという話になって、彼こともなげに「……」と言う。これには真鍋氏も驚いた)。

 やっぱり俳句をやるのは無理じゃないのか。俳句についてはまったくの素人で、ましてや連句については何も知らないから、とことわったのに、「いや、その方がむしろいい」という真鍋氏の甘言に乗せられた自分が馬鹿だった。だが今さら帰るわけにもいかない、芭蕉庵の古びた座敷に上がって、いよいよ会が始まった。初心者が多いとの配慮からであろう、形式は歌仙ではなく胡蝶。発句はもちろん天魚宗匠(真鍋氏の俳号が天魚であることをこのとき知った)。

      それぞれの寝顔さびしき良夜かな

 さあ、これに七七の短句を続けるのだ。脇旬は発旬と同季で、しっくり付き添う形がいいそうだ。昼間の遊び疲れからか、幼い姉と弟が月の光の中でぐっすり眠っている。寝顔というものは不思議なもので、どんな悪ガキでも、寝てしまえば妙に寂しい顔になってしまう。構えるところがなくなって、人間存在の原形質とも言うべき悲しみがにじみ出てくるのだ。やわらかく開かれた子供の掌に月の光が当たる。しかし「たなごころ」という言葉が長すぎて、うまく句にならない。「手のひら」では中途半端だ。ええい面倒くさい、「腕(かいな)」にしてしまえ。恐るおそる「伸ばしし腕に月のこぼるる」と短冊に書いて出してみた。ところがどうだ、「良夜」はすでにして月のことだから、「月」はまずい、という。結局、オエスト氏の「摘みし水引きかざる母親」が採用された(後日、これは「子らの摘みきし露草の瑠璃」に改められたが)。
  こうして午後二時から五時間ばかりかけて、ようやく表六句ができあがった。私の句も辛うじて一句採用された。私にとっては文字通り苦吟の五時間だったが、しかしまた不思議に充実した五時間でもあった。大いに楽しんでいたと言ってもいい。この感慨はどこから湧いてくるのだろう。主観的・個人的な詩想が、他者の温かな、しかも厳しい眼差しの中で鍛えられ、承認されつつ、共同主観的なものに統合され昇華される。そして全体が、思ってもみないような、ある不思議な調和を醸し出す。もしかすると、そのようなことから生まれる充実感かも知れない。あるいはこれは、独創性とか個性とかに振り回されているわれわれの「近代的自我」の積年の疲れが、言葉が本来的に持っている力によって癒されるからかも知れない。

 さて胡蝶「寝顔」は、十月二日の第二回目の会に引き継がれる。今回はさらに二名の女性が加わって、総勢七人となった。一人はこの道のべテランで執筆役を務めてくれる万波鮎さん、もう一人はこの道まったくの素人、家内である。前回の会のあと、次回から女性を何人か加えようか、という真鍋氏の言葉をその日帰宅してから思い出し、翌日電話で氏に頼みこんだのである,この辺のところは説明がむつかしい。老人会の民謡の集まりじゃあるまいし、夫婦そろって参加というのは、ちと尋常でない。家内も初めは躊躇したが、 「面白いからともかく行って見ようよ」という説得に折れた。自分自身まだ始めたばかりなのに、俳詣の道を「面白い」とは、これまた不謹慎な言葉である。だから、やはり説明がむつかしい。天魚先生の人間的魅力に支えられた会の雰囲気を家内にも味わわせてやりたいから、という自分でも歯の浮くような説明しかできない。
 いや、こうも言えるかも知れない。つまり、自分としては初めて生をまるごと受け止めてくれる表現形式に出会ったのだ、と。芸術、文学、文化、その他なんでもいい、われわれが価値あるものと認めるすべてのものも、生に比べれば「どうってこたねえ」ものだ。芭蕉さんも言っているではないか、俳諧さえ「一生の道の草」と。そしてこの私は、オルテガも言うように「私」と「私の環境」の対話であり闘いなのである。ちりちりと神経をとがらせて創作する(苦吟する)括弧付きの「私」など、浮世のしがらみを引き連れて日々苦闘する私に比べれば屁みたいなもの。芸術的達成、人間的成熟などむしろ拒否したい。なぜなら、「生はひきとめることも、捉えることも、跳び超えることもゆるさない一つの手に負えぬ流れである。成りつつあると同時に、手の施しようもなく存在することをやめて行くもの」だからである(芭蕉には、言葉に対する徹底的なこだわりと同時に、言葉の意味作用に対するいさぎよい断念があるように思われる)。ならばこの短い生の伴侶(しがらみの一つ?)と一緒に俳諧の道に遊ぶのも一興ではないか。

 その日、芭蕉庵に向かう電車の中で、家内はしきりに心配する。「何も思い浮かばなかったらどうしよう?」「だいじょうぶだよ、なんとかなるさ。ま、今日は見学のつもりで」と答えてはみるが、なんとかならなかったらどうしよう、とこちらも心配になってくる。こどもの面接についていく親の気持ちだ。しかし、会が始まる早々、とんだどんでん返しが待っていた。裏の第一句、「冬浅く半旗のゆれる大使館」というさすが年季の入った万波さんの句に続いて、「満ちてたふるるイカのとっくり」という、天魚先生言うにはその日最高の一句が読み上げられた。作者はなんと家内なのだ。初めてカジノに入ってバカ当たりするようなもんさ、とつぶやいてはみるものの、心中おだやかでない。だから俳諧はずるくて底が深くて、そして面白い。


※参考

胡蝶「寝顔」 雁の会  天魚捌

それぞれの寝顔さびしき良夜かな            天魚

子らの摘みきし露草の瑠璃               柔石

吹かれきて蜻蛉(あきつ)とまりぬ纜(ともづな)に     呑空

犬ふりむいて猫のこえ聴く               かりん

朝茶粥口にふくみてもてあまし             浮羅

北へ北へとこころふるえる               か

冬浅く半旗のゆれる大使館               鮎

満ちてたふるるイカのとっくり             美子

別れきし胸を濡らしてラムネ飲む            空

魚の目に効く布引の滝                 魚

半島にUF6眠らせて                 鮎

油うりゆく行くあてもなく               石

紅梅のたれて重たき昼さがり              美

ジーパンの尻擦りきれて春               か

淡々と蛤くらふ神の舌                 羅

雛よりほかに知るひともなし              魚

うたげ果て厠のまどに氷る月              空

プラスマイナスすべてはゼロよ             羅

御霊廟(おたまや)の将門起きて汗ぬぐひ          か

深夜番組音消して見る                 美

土偶の脚つみあげられし小つもごり           魚

里のたよりを待つばかりなり              石

つれづれに本に挿みし花の痕(あと)          美

暖雨の紗幕せまりくる眉                空

注 ウラ五句目の「UF6」は、天然ウランをガス化したもの

天魚(眞鍋呉夫)
柔石(ロべルト・オエスト)
呑空(佐々木孝) 
かりん(登坂恭子) 
浮羅(西岡武良)
鮎(万波三佐子)
美子(佐々木美子)

平成元年八月二十四日首―十月二日~十一月三日尾 於 関口芭蕉庵

(『江古田文学』、特集 連句の現在、一九九一年冬、第一九号、30―31ページ「われ俳諧の裾野に徘徊す」)