5. 現代スペイン思想におけるR. マエストゥの位置 (1973年)


現代スペイン思想におけるR. マエストゥの位置



 一九三六年七月、スペインは以後三年有余の長きにわたって同邦が血を流し合う内戦に突入した。これは歴史上何度か繰り返された他の内戦と比べて、その規模、国際的影響という点で比較にならぬほど重大な意味を持った内戦となった。そしてこの戦乱のさなかに、その損失を嘆いてもあまりある三人のスぺイン知識人の死が重なった。まず七月二〇日、ラミーロ・デ・マエストゥが人民戦線側の手でマドリードの獄中で暗殺され、次いで八月一九日、グラナダ郊外において、詩人ガルシア・ロルカが今度は逆にファシスト側から血祭りにあげられ、そして最後に、この災厄の年をしめくくるかのように、一二月三一日、現代スペイン最大の思想家ミゲル・デ・ウナムーノが、右翼によってなかば軟禁されたまま、サラマンカの自宅で息をひきとった。それ以後一九三九年三月まで続く内戦の中では、理性的な声はすべて爆音と叫声と憎悪の声の中にかき消えてしまったことを思うとき、これら三人が黙して語らぬ死者の列に真っ先に連なったことはスペインにとって大きな不幸であったと言わなければならない。
 スペインは一七世紀後半以後、とりわけ一九世紀初頭以来、保守と革新、伝統主義と進歩主義、すなわちポルトガル人フィデリーノ・フィゲイレードの言う「二つのスペイン」(As duas Espanhas)間の絶えざる対立拮抗の上に辛うじて均衡を保ってきた。しかしスペインにとってこれら二つの勢力が必然のもの、あるいはスぺイン的生に不可欠の二つの器官であるならば、求めらるべきは、相手を抹殺することでなく、むしろそれぞれの特色を際立たせつつ、しかも相手側の理解を目指す真の対話であったろう。ライン・エントラルゴは、スぺイン以外の国々では対立が対話あるいは協調に至ることが可能な場合でも、なぜスペインではそれが惜悪と流血の紛争(コンフリクト)にまでエスカレートするのか、その原因究明を試みつつ、現代にまで生きてその豊かな対話を展開してくれたらと願う幾人かの名前を両陣営からそれぞれ挙げている。そこに詩人ロルカの名がないのは分かるとしても、ウナムーノの名があってマエストゥの名前がないのは少々意外の感がしないでもない。もっとも、マエストゥが敬遠されるのも無理からぬところがある。
 一般に彼は最右翼の思想家、スペイン・ファシズムの先鋭な理論家として知られているからである。事実、彼はプリモ・デ・リベラ独裁政権下で、アルゼンチン駐在大使をつとめ、共和制が敷かれてからは、共和国に対する叛乱の合法性を研究し、王党派政党設立を目指す雑誌「スペインの行動」(Acción Española)を創刊し、それを指導した人である(3)。彼が革命勃発後数日を経ずして共和派に危険人物として捕えられ、抹殺されたのも故なきことではない。しかし、ライン・エントラルゴの言う真に実りある対話がなされるには、頭から彼をファシストときめつける前に、虚心に彼の言うところに耳を傾け、捨てるべきところは捨てながらも、そこに含まれる価値を捜すことが必要なのではないか。 マエストゥの全著作を編集し、それに解説を加えているビセンテ・マレーロは、わずかな例外を除いて、いままで一般にマエストゥはしかるべき評価を与えられてこなかったと嘆いているが(4)、このマレーロにしろ、あるいはラファエル・カルボ・セレール(5) にしろ、右翼的な批評家からの一種の「仲間ぼめ」的評価はあっても 彼の思想を客観的に正しく位置づける作業はあまりなされていないように思われる。ただ彼の場合、ウナムーノのように思想家、文学者としての姿勢を明らかにしたわけでもないし,オルテガと比べて哲学者としての独創性にもとぼしく、多くは新聞・雑誌を通じて時局的な文章に拠って断片的にその思想を展開した人であるから、文学史あるいは思想史の文脈からもれることは致し方のないことかも知れない。これは近代スぺインのジャーナリストの祖ともいうべきラーラ(一八〇七-一八三七)の場合と酷似している。だが、彼が今世紀に入ってから約三〇年のあいだ、ウナムーノやオルテガと並んで、スペイン人に測り知れぬ影響を与え、外国からは代表的なスペイン知識人と目されていたことを否定することはできまい。
 近年、カール・シュミットなどによって、一九世紀中葉のスぺインに活躍した右翼的な革命的カトリック国家哲学者ドノソ・コルテスの再評価の動きがあるが、マエストゥの場合もファシストというレッテルを貼って簡単に片づけるよりも、むしろ彼の思想の底に流れる健全で良質の保守思想を見究め,それをしかるべく評価することの方が大切であろう。
 こうすることによって、避けるべきファシズムへの傾斜もまた抑止することができるのではあるまいか。マエストゥがわれわれの関心を惹くのは、しかしそのことばかりではなく、実は彼の思想形成、思想遍歴のうちに、実に典型的なスペイン知識人の姿が刻印されているからでもある。彼が初めて本の形で世に問うたのが、『もう一つのスぺインに向かって』(Hacia Otra España, 1899)であり、最後に問うたのが『スペイン精神の擁護』(Defensa de la Hispanidada, 1934)であったというところからもその間の事情を推測することができよう。一八九八年の米西戟争の敗北を契機としてスペイン再生の問題を思索しはじめた「九八年の世代」の一員として、彼も最初のうちは,伝統的スペインを否定し、新しいスペインを志向したが、しかし数々の思想遍歴の後に、かつて否定した伝統的スペインに復帰し、それを熱烈に擁護するに至る。この意味で言うなら,彼の思想遍歴はウナムーノのそれと多くの類似点を持っていると言えよう。しかしウナムーノと違うのは、彼の場合、現実政治の苛酷な争いの中に巻きこまれることによって,結果的には狭隘なナショナリズム、あるいは軍国主義へと傾いていったということである。つまり彼の場合、あまりに政治に密着したことから生じた思想家としての悲劇があった。彼は現実の政治にのめりこむにはあまりに理想主義的であり、ロマンチシストであったのである。もちろん彼を、単純にロマンチシストときめつけることはできないかも知れない。アメリコ・カストロは、「九八年の世代」の特徴はそのロマンチシズムにありと言ったが、それに対してマエストゥは、ロマン主義の概念をもう少し正確にすべきであると反論している。つまり彼によれば、ロマン主義者は人間の転落を信じるが、しかし原罪を信じてはいない。だが自分は正統キリスト教の言う原罪を信じる者である。そして「九八年の世代」は、一八九八年という時点では確かにロマン主義者であったが、しかしそのうちの幾人かは後にロマン主義から抜け出たのだ、と主張する。同時代の思想家、文学者がおおむね現実逃避的であったのに比ベれば、確かに彼は「九八年の世代」中もっとも現実的であった。しかし『スペイン精神の擁護』の最終章、「(スペイン精神の)騎士のモットー」の中の次の言葉には、いかにもロマンチシズムの響きが濃厚である。
 「われわれの過去は、未来を創造するためにわれわれを待っている。……問題は、何丁かを言わなければならないときに、われわれが昨日言ったことを正確に思い起こすことである。この正確さは、一般に,ただ詩人のみがとらえることができる。もしわれわれスぺインの歴史主義者たちの言い分が正しいとするなら、詩人こそわれわれを助けに来なければならない。もしもスペイン人そしてスペイン語圏の人たちの生の充実がスペイン精神の中にあり、そしてスペイン精神の充満がその歴史意識の奪回にあるとするならば、われわれをその摩訶不思議な声でもって導いてくれる詩人が興らなければならないであろう」(7)
 これは不可能事を不可能事であるが故に追い求めるロマン主義的夢想であり、彼の言う「スペイン精神」も「九八年の世代」に共通に感受された「夢見られたスペイン」(España soñada)の線上にはっきり位置づけられるのである。そしてその多くの欠点にもかかわらず、彼の著作を読む者に伝わってくる彼の魅力は、まさにこのロマンチシズムである。マエストゥの思想が持つ危険性と悲劇性もここにある。つまりロマンチシストが現実政治に手を染めるときに陥りやすいファナティズムあるいはファシズムへの危険性と、理想と現実の相剋がはらむ悲劇性がそれである。
 以上のように、政治的ロマン主義の本質を押さえながら彼の思想の集大成たる『スペイン精神の擁護』の徹底的考察を抜きにして、マエストゥの思想を語ることは不可能に近い。しかしいま、この問題に踏みこむための準備不足ということと、いままで彼についてわが国ではほとんど紹介されてこなかったという二つの理由から、拙論では、彼の生涯をたどりつつ、彼の思想がいかに形成されていったかを素描するにとどめたいと思う。



彼の生い立ち、米西戦争

 ラミーロ・デ・マエストゥは一八七四年、スペイン・アラバ州ビトリアに生まれた。父のマヌエルはバスク系のキューバ移民の子で、パリで勉強中、スコットランド出身のイギリス外交官の娘ジュアンナ・ウィットニイと結婚し、この二人が夫方の父祖の他ビトリアを新婚旅行を兼ねて訪れているとき、最後のカルロス戦争勃発 (一八七二)のためこの地に足止めにされ、そこでラミーロが生まれたのである。はじめはかなり裕福な家庭生活を送ることができたが、しかし、それもつかのまで、父の経営していたキューバの砂糖工場が経営不振のため一家は相当な貧困に苦しめられるようになり、ついに一八九〇年、ラミーロは学業を中断して、父が先に単身おもむいていたキューバに渡らなければならなかった。そこではいろいろな職業を転々としたが、結局四年後の一八九四年にスペインに帰国している。そしてその年、一家はビルバオに居を移した。ラミーロが、母のすすめもあって、文筆稼業を一生の仕事と考えるようになったのはその頃のことであり、一八九六年、そこの「バスクの未来」(El porvenir de Vascongado)に彼の書いた記事が初めて載った。彼と共に後年「九八年の世代」を構成したミゲル・デ・ウナムーノもビルバオの出身であるが、一八九一年にサラマンカ大学に奉職しはじめているから、二人がビルバオで同時に生活したことはない。しかし生粋のバスク人であるウナムーノと、半分バスクの血が流れているマエストゥが、立場は違うが後年共にスペイン精神の鼓吹者になったことは不思議な符合と言えよう。さて翌九七年、マエストゥはマドリードに出、そこでバローハ、アソリンらと知り合い、ジャーナリストとして数多くの論文・記事を書くようになる。
 翌一八九八年は言うまでもなく米西戦争敗北の年であり、後年「九八年の世代」という現代のスペインにとって決定的な影響力を持つ一群の思想家、文学者を輩出するきっかけとなった年であるが、九八年の敗北を、後に文学史家が言うほど、個人の文学者が深刻に受けとめていたかどうかは、はなはだ疑問である。しかし、九八年という時点でこの敗北をもっとも切実なものとして受け取ったのが、マェストゥであったことには異論をさしはさむ人はいないであろう。
 換言するならば、他の同時代の思想家、文学者は、わずかな例外(たとえばホアキン・コスタ)を除けば、この国民的敗北を一種の文学的意匠に、おのれの文学、思想を展開するための単なるきっかけとして捉えた。それに対してマエストゥはそれが国の命運を決するぎりぎりのものであるとの問題意識、危機意識のうちに捉えたのである。彼は米西戦争直前のキューバの実情をつぶさに体験しており、そこで資本の力、産業、銀行の力をいやというほど知らされた。もはや理想を語るべきときではなく、現実に、生身をもって、自国の経済的発展を画策すべきときなのだと、若きマエストゥは切実に感じたのである。彼が社会主義に近づいたのもその頃と時を同じくしている。彼はその当時の思いつめた自分の姿を次のように想起する。
 「数年のあいだ、私はもしも同時代の “知識人たち” が学校や食料の必要を説くようになったならば、スペインは短期間のうちに生まれ変わるであろうという確信のうちに生きていた。しかし私の文学仲間はそのことを納得しようとはしなかった。彼らは自分たちの文学者としての生活や創作に没頭することの方を望んだのだ。しかし私は再生を説き広めることに全力を尽そうと、詩や物語を捨てた。おそらく彼らの方に理があって、私は世間知らずだったのだろう。しかしこのことが機縁となって私は彼らから離れ、イギリスに行く最初のきっかけをつかんだのである(8)」。
 さらに彼は米西戦争の年、志願兵としてモロッコに出兵している。とにかく彼は、非政治的な九八年の世代の文学者に中にあって、唯一人、政治的な人間、政治的な反応を示した作家であった。というより、周囲の現実につねに精一杯反応しつつ生きた人間であった。彼がつねに複雑な人間像を提供しているのもそのためである。「危機の時代における自画像」(一九〇四年三月一八日)は、そうした彼の複雑な人間性を知る上での貴重な手がかりを与えてくれるエッセイである。
 彼は初めはニーチェ主義者、次にクロポトキン流のアナーキスト、サンジカリスト、それから一八〇度転回して熱烈な伝統主義者、そして最後はスペイン・ファシズムの先鋭な理論家という栄光と汚名のうちに一生を終えた。見方によれば節操のない変節漢ではあるが、しかしその変化のうちにあって不動のものがある。すなわち人間マエストゥである。スペインならびにスペイン人についての鋭い分析家であるサルバドール・デ・マダリアーガ(10)によれば、スペイン人は情熱(パシオン)の人である。情熱とは、行動や思考と違って、全人間を包括するもの、つまり行動や思考のように生の流れの一結節ではなく、生の流れそのものである。その意味からしても、マエストゥは言葉の正確な意味で典型的なスペイン人であった。
 かなり裕福な家庭に生まれながら、家運は傾く一方で、ついにはキューバで煙突や壁のペンキ塗り、ハバナの街を歩き回っての集金係りなど、およそありとあらゆる職業を転々とした経験、それらが苛酷な現実に対して彼の眼を開かせ、彼を「九八年の世代」の中でユニークな存在とした。「孤独の中で、マエストゥは解体し分散する。ただ闘争だけが、精神的闘争だけが彼を生気づける。しかし勝利への見通しは彼を恐れさせる。だから彼は、闘いをいどむと同時に勝利の瞬間にはそれから逃げ出すことを大いによしとするのである」(11)。この青年期の自画像のうちに、われわれは後のポレミスタとしての彼の姿を透かし見ることができよう。



ロンドン時代、サンジカリズム

 彼がロンドンに渡ったのは一九〇五年である。それはいくつかの新聞・雑誌、とりわけ「スペイン通信」とブエノス・アイレスの「ラ・プレンサ」の特派員としてであった。彼のイギリス滞在は、一九一九年までのおよそ十五年間であるが、その間本国合うペインはもとより、ドイツ、オランダ、フランス、そしてイタリアを訪問し、見聞を広めている。しかし何といっても、このイギリス滞在中のこととして特筆すべきは、彼のサンジカリズムへの接近と、一九一三年から一九一六年のあいだに起こった大きな思想的転換、すなわち彼のカトリシズムへの復帰であろう。
 彼がスぺイン再生のためには経済的要素を重視すべきであると早くから指摘してきたことは前述した通りだが、イギリスに渡って,そこで接触したサンジカリズム、より正確に言えばギルド社会主義との接触は決定的であった。このギルド社会主義というのは一九一〇年代のイギリスに生まれた運動で、一方においてすべての生産手段を国家にゆだねると共に、他方において産業、管理の仕事をギルドに、すなわち生産者団体である労働組合に委任するものである。つまりこれは、消費者本位の集産主義と、それとは反対に生産者本位のサンジカりズムへの批判から出発したものである。これは「ファビアン協会」に対するいわば内部批判であり、代表的な人物としてA・J・べンディ、A・R・オレージュ、S・G・ホブスン、バートランド・ラッセルが挙げられる。
 マエストゥがクロポトキン流のアナーキズムに惹かれていたことは、彼の初期論文において明らかであるが、そこから出発して革命的・フランス的サンジカリズムに批判の目を向けるこのイギリス的社会主義に傾斜して行ったことも自然の成り行きと言えよう。後に熱烈なカトリック右派に傾く彼が、一生サリジカリズムに近い立場にあったことは、一見奇妙な取り合わせに思われるかも知れない。しかし先述のギルド社会主義が、遠くその淵源を一八四八年のキリスト教社会主義、一八五〇年以後のカトリック・ルネサンス、あるいはカーライル、ラスキン、ウィリアム・モリスなどの仕事を通じて高まった中世的反動、さらにチェスタ–トン、ベロックなどのカトリック思想の流れを汲んでいることを考えるなら、それほど唐突な組み合わせではない。この運動の言論活動は、前記オレージュの監修による雑誌「新時代」(The New Age)であるが、マエストゥは数年にわたってこれに協カすることとなる。
 マエストゥが「新時代」の仲間と知り合いになったのは、彼の職業を通じてのまったくの偶然であった。そしてマエストゥと彼らの関係は、ふつう考えられているのとはむしろ逆で、マエストゥが彼らから影響を受けたというより、彼の方が彼らに影響を与えたというのが真相らしい。イギリスでの生活体験が豊富なアントニオ・パストールに対して、一九三五年にギリエルモ・デ・トーレがインタビューを行なったが、その中でパストールは次のように語っている。
 「マエストゥはイギリス人たちから何らの影響も受けなかった。むしろ彼の方が影響を与えたと言えます。ギルト社会主義のリーダーであるオレージュは、自らをマエストゥの称賛者、弟子とみなしているくらいですから」(12)
 マエストゥは生涯サンジカリズムに関心を持ち続けたが、しかしロンドン滞在時代のような熱意と切実さをもって帰国後もスペインでその可能性を追求したわけではない。彼は、毎瞬間、与えられた環境の中でもっとも緊急の問題につねに対処せんとした人間である。一九一九年、帰国した彼の前に待ち受けていたのは、より切実な問題,すなわちいまやスペインの伝統、その至高の精神が崩壊の危険にさらされているという状況であった。
 彼は、スぺインを救う道は、その経済的興隆ではなくむしろ精神的諸価値の擁護であり、そのための政治活動であると考えたのである。なぜなら祖国と精神が存在しないならば、パンと正義もまた味を失うからである。
 しかし青年時代に彼が抱いた経済優先の考え方からこのように精神優先の考えに一八〇度転換したことを説明するには、ロンドン時代の彼に起こったもう一つの重大な出来事、すなわち彼の回心、カトリシズムならびにカトリック教会への復帰を考察してみなければならない。



彼の回心と哲学体験

 一九三四年一〇月に、「アクシオン・エスパョーラ」に発表された「ある回心の理由」(13) は、マエストゥの精神遍歴を知るうえで貴重な文章である。もともとこれは、ドイツ、パーターボーンのフランシスコ会神父たちが、世界各国の著名な知識入たちにその回心の由来を求めたものに応じて書かれたものである。寄稿者の中には、たとえばチェスタートンやポール・クローデルの名前が見られる。しかしこの「ある回心の理由」の中に書かれているものは、文字通りの意味での回心(conversión)とは少々趣きを異にしている。「私は自分を回心者と呼ぶことができるとは思っていない。なぜなら、私を教会と結びつけているいくつかの絆がすべてたち切られてしまったことなど一度もないからである」という言葉で始まる、彼のものとしては比較的長い文章の中で語られているのは、幼児からの信仰が一時弱まったことはあっても、結局彼の一生を貫いている太い一本の線としてのカトリック信仰への讃歌であり、信仰宣言だからである。ただここでわれわれの関心を惹くのは、彼の信仰と彼の哲学体験との関わりであろう。彼はこう言っている。「もしも哲学の勉強を始めるようなことがなかったならば、おそらく私は自分がカトリック信者であるのかそうでないのかを真剣に自問するようにはならなかったであろう」。「九八年の世代」の人たちが大学には入ったが、たいていは厳密な学問形成を経ないアウトディダクト(独学者)であったことは広く知られているが、マエストゥの場合は文字通りのアウトディダクトであった。バチジェラートの学業なかばにして、家計を助けるために彼がキューバにおもむいたことはすでに述べたが、それだけに彼の哲学への関心は切実であり、また深かったと言えよう。
 青年時代の彼がニーチェに傾倒したこともまた有名だが、しかし彼自身述懐しているごとく、彼は「愛国心ゆえに」ニーチェを読んだ、つまり米西戦争の敗北によってその弱体をさらさなければならなかった祖国スぺインのために、彼は激しく「超人」を待望したのである。だが彼がニーチェから学んだものはこの超人思想ばかりではない。人間を超え出なければならないのは、まさに人間が罪人であるからである。そしてこれは教会の教えと完全に合致するがゆえに、ニーチェは、知識人の教会復帰の先駆者の一人に数えられなければならない、と彼は言う。このニーチェ解釈はいかにもマエストゥらしい。
 ところで彼の本格的な哲学体験は、一九〇八年、ロンドンにおけるべネデット・クローチェの『精神の哲学』を通してであった。だが彼はクローチェからは多くを学ばなかった。というのはクローチェは、世界は精神であり、理論から実践、そして実践から理論へと移るために必要なのはただ自由のみであり、精神の歩みをはばむのは物質であると言うが、その物質そのものが何であるかはついに明かしてくれなかったからである。
 何年かの精神的彷徨ののち、彼は一九一一年ドイツに渡り、そこでカント哲学と出会う。そしてこのカント体験が、彼の思想形成、信仰の強化に徹底的な影響を与えることになった。この場合も、そのニーチェ体験のときと同じくきわめて独自なカント解釈がほどこされている。
 「もちろん私は、神、霊魂の不滅、そして自由意思が証明不可能な実践理性の要請なりとするその教説をもって、カントが世界を懐疑論者で満たしてきたことを知っている。また、カントの論理学が精神と精神でないものとのあいだに混乱をもたらしてきたことも知っている。しかし彼が私に教えてくれたのは、精神は精神でないものから生じることはありえないというまさにそのことであった……これによって、私の心の中に残っていたダーヴィニズムの痕跡は、すべて永久に払拭された」。
 かくして、カント哲学は彼の宗教思想にとって「不動の基礎」となった。もちろん彼は、カント哲学から、彼自身の思想形成に有益と思われるものを注意深く、というより本能的に選び分けていたのである。そして彼が精神あるいは精神性というとき、そこにはスペイン精神が含蓄されていることは言うまでもない。なぜなら、彼にとって人間精神はより高次の精神、民族の精神に仕えるべきであり、そしてこの民族の精神を無限に超えるものこそ神の精神(霊)であったからだ。
 以上述べたごとく、サンジカリズムを通してのイギリス伝統思想との出会い、そしてカント哲学との出会いは、彼に後の伝統主義、保守思想の道を用意した。興味深いのは、彼が他の同国人とは違って、たとえばドノソ・コルテス、ハイメ・バルメス、メネンデス・ぺラ–ヨなどの思想をほとんど知ることなく、しかも彼らの文脈に正統に連なる伝統主義に到達したことである。彼がこれらスぺイン伝統主義者の思想に親しく触れるのは、ずっと後になって、すなわち一九二七年から一九三〇年にわたる駐アルゼンチン大使時代である。そして彼の思想の集大成とも言うべき『スぺイン精神の擁護』が構想され推敲されたのも同じころ(一九二九-一九三〇)であった。しかし彼の伝統主義が従来のものと違って、きわめてダイナミックであり、具体性があるのは、マレーロの言うように彼の一五年にわたるイギリス滞在と、そこの伝統思想との接触のしからしむるところであろう。一九三四年に書かれたラファエル・ピカベアあての公開書簡「伝統主義について」の中で、彼は次のように書いている。
 「われわれは異なった源から流れ出る水である。古い株から出た伝統主義者たちは原理、ドグマの人であり、峻厳な姿勢を保つ人たちである。しかし新しい株から出たわれわれは経験主義者であり、スペインの善を普通選挙とデモクラシーに和合させようと努めてきた。そしてそれに成功することができなかったので、いまや眼をわれらの先輩たちの思想に向けている。スぺインの経験論者の中で、自国のためにその救済策を私以上に捜し求めた人は一人もおるまい。というのは、私は四〇年のあいだ書物や新聞を通じて渉猟し、また二〇年のあいだイギリス、ドイツ、そしてアメリカ合衆国を歩きまわってそれらを捜し求めてきたからである」(14)
 一九世紀から二〇世紀にかけてスペインの伝統主義的思想を代表したのは言うまでもなくメネンデス・ペラーヨであったが、「九八年の世代」の伝統批判の勢いがあまりに強く、ために健全な保守思想は長らく低迷を続けていた。そしてスペイン伝統主義の守り手であった君主制が崩壊してからは、イデオロギー的な面での無力さは、いまやだれの眼にも明らかであった。伝統を守らんとする人たちはもちろん多勢いたが、しかしそれはピダルの指摘するミソネイスモ、つまり新しいものを嫌うだけで伝統を生かすという創造的側面を持たぬ悲しき伝統主義に成りさがっていた。マエストゥの思想が現代になお働きかけるものがあるとすれば、それは彼がメネンデス・ペラーヨ以来捨ててかえりみられなかった健全な伝統主義を現代に生かそうとしたその果敢な試みのためである。初めに述べたように、確かに彼にはファシズムに傾斜する危険な側面がなかったとは言えぬ。しかし彼がスペインの伝統、スペインの精神を現代に生かさんとして悪戦苦闘したその誠実な思索の歩みのそこここに良質の伝統主義が珠玉のように輝いていることも事実である。ただしそのためには、ライン・エントラルゴがメネンデス・ペラーヨ研究に試みたような、主義にとらわれぬ自由かつ客観的なマエストゥ研究が必要であろう。拙論は本格的なマエストゥ研究の一つの足がかり、というより問題の所在を確かめるための遠望の試みにほかならない。

(一九七三・九・一七)


(1) この「二つのスぺイン」に関しては、メネンデス・ピダルの『歴史の中のスぺイン人』(Los españoles en la historia) の第五章を参照されたい。なおこの本は、今秋,法政大学出版局から『スぺイン精神史序税』として翻訳出版される予定である。
(2) Pedro Laín Entralgo, “A qué llamamos España”, 2 edición, Espasa-Calpe, S. A., Madrid, 1972, p.133.
(3) こうした評価の典型的なものとしては、ヒュー・トマス『スぺイン市民戦争』〔筑紫忠七訳 一九六二年、みすず書房〕四四ぺージを挙げることができる。しかし、たとえば「アクシオン・エスパニョーラ」に対する評価などは、かなりの修正を必要とするであろう。これについては Gonzalo Fernandez de la Mora, “Pensamiento español, 1963”, Ediciones Rialp, S. A., Madrid, 1964, pp.148-152 を参照されたい。
(4) Cfr. Ramiro de Maeztu, “Un ideal sindicalista”, Editora Nacional, Madrid, 1961, p.15.
(5) Rafael Calvo Serer, “Teoria de la restauración”, Ediciones Rialp, S. A., Madrid, 1952.
(6) Ramiro de Maeztu,“Autobiografía”, Editora Nacional, Madrid, 1962, p.90.
(7) Ramiro de Maeztu, “Defensa de la Hispanidad”, Editorial Poblet, Buenos Aires, 1942, p.304.
(8) “Autobiografía”, p.66.
(9) Ibid., pp.21-29.
(10) Salvador de Madariaga, “Ingleses, franceses, espanoles”, Editorial Sudamericana, Buenos Aires, 1969.
(11) Autoretrato en edad critica, p.27, en “Autobiografía”.
(12) “Un ideal sindicalista”, p.11.
(13) “Autobiografía”, pp.220-237.
(14) Ramiro de Maeztu, “El nuevo tradicionalismo y la revolución social”, Editora Nacional, Madrid, 1959, p.18.

  「清泉女子大学紀要」 、第二十一号、 一九七三年