7. ひと夏の体験 (正統をめぐる論争) (1997年)


ひと夏の体験
 (正統をめぐる論争)



第一幕

※ 今から五年前の夏、小さな大学に小さな論争が起こりかけました。しかしいつものようになんの反響もないまま(一通の手紙が書かれた以外には)、静かに終息していきました。単なる夏の思い出になってしまいました。しかし今読み返してみて、また沸々と怒りが込み上げてきました。本当はあそこでもう少し闘うべきではなかったか、と。でもたとえそうしたとしても、おそらく結果は同じだったかも知れません。ともあれ、私の「ひと夏の体験」を読んでみて下さい (03/2/10記) 。



東京純心女子大学キリスト教文化研究センター」 運営委員会への公開質問状



 貴センター機関紙「ニューズレター」第一号を読ませていただきました。七月三十日(水)、試験監督のため大学に出た際にレターボックスに入っていたものです。のっけから申し上げにくいことですが、いささか、いやはっきり申し上げましょう、たいへん暗い気分になりました。といって全部の記事を読んだわけではありません。S教授の巻頭論文と「運営委員会報告」、そして「編集後記」を読んでの感想です。それらがあまりに強烈でしたので、H神父とM教授の記事を読む気力がすっかり失せてしまったほどです。帰りがけ、講師控室で一人の先生に会いました。この先生は「《ニューズレター》読みました? こんなことあっていいんでしょうか」と言うのです。つまりどう考えてもS教授の個人的見解らしきものが、純心の公的見解と混同されることを危惧しての発言です。小生の知る限り、この先生はキリスト教の信者でないはずですし、今までこの先生から宗教に関する発言を聞いたこともありませんでした。しかし逆説的ですが、むしろその理由から、この先生の言葉を聞いて、それまで落ち込んでいた暗い気分からわずかに開放されました。つまりこの先生にはたいへん失礼な言い方かも知れませんが、純心の先生方は日頃は無関心を装ってはいるが、大事なことはきちんと見ておられるのだな、と改めて確認できたからです。そしてそのとき、先程来の暗い気分の原因らしきものにも初めて気づきました。
 つまり個人的な立場からの発言は、それこそ思想信条の自由が保障されているわけですから(他人の迷惑にならないかぎり)何を言おうと勝手ですし、不快なものでしたら読まなければいいのですが、しかし今度の場合は、一個人の見解と運営委員会という公的な立場のそれとが明らかに重なっているということです。
 ちなみに「運営委員会報告」は次のように始まっています。
「運営委員会(H、M、S、Sの四名)は4月17日、5月1日、7月3日に開かれ、つぎのことがきめられた。
 センターの規定第3条に謳われているセンターの目的《キリスト教ヒューマニズムの精神に則ったキリスト教文化に関する学問研究の推進》はカトリック正当信仰の擁護と学問的水準の維持を意味する……」(傍線佐々木。 「正当」は「正統」の単なる誤植と思うが、しかし後述の陣馬高原での発言記録でも「正当派」が使われているので、もしかするとジャスティフィケーションの意味で意図的に使われているのかも知れない)。
 まず「キリスト教ヒューマニズムの精神に則ったキリスト教文化に関する学問研究の推進」がなぜ「カトリック正統信仰の擁穫」になるのか、ここにはたいへん恣意的な飛躍がありますが、もっと重大なことは、何をもって「正統信仰」というのか、という問題です。小生自身は神学者でもないし、何が異端で何が正統か、まったく不案内です。ですからS教授が名指しで非難している人物や運動が本当に「危険」であり「破壊工作」なのか、まったく見当もつきません。というより複雑に絡み合って動いているものの中で何が異端であり何が正統なのか、個人的に警戒し判断するのは自由ですが、そのことを大学などの公的機関が取り上げることは、一見高度で学間的な作業のように見えますが、その実、低次元で低劣な論争に巻き込まれる危険性が大であることを心配しているのです(だいいち、九八パーセント近くもいる非キリスト教徒の学生、そして信者ではないがキリスト教大学の理想に共鳴して共に働いている教職員に、こうしたいわば身内同士の争いを何といって説明すればいいのでしょう。キリスト教の魅力を伝えなければならないというのに、そうした論争を顕在化させることにいったいどんな意味があるというのでしょうか)。
 十六世紀ヨーロッパ精神史(スぺインを中心に)を学んできた者としてそれこそ確信していることが一つあります。それは、あの時代、自らを真理の保管者 、正統派と自認する者たち同士がいかに醜い、そして非人間的な争いを繰り広げたかということ、そして自らの立場を絶対の正義と位置づけ、そう自負する者にとって、いたるところから異端が危険思想が立ち上がってくるという現象です。つまり異端は「生まれるというより作られる」ということです。かつてのアメリカを吹き荒れたマッカーシズムの「アカ狩り」も、結局はそうした異端審問的で非寛容の精神が自らの心に現出させた亡霊に対する闘いであったことは歴史が証明しているとおりです。いや、先程申し上げたように、こうした話題に深入りするつもりはまったくありません。こうした議論は心を殺伐とさせるだけであり、この「公開質問状 」の趣旨からもはずれます。小生が運営委員諸氏にお尋ねしたかったのは、まず第一に、貴センターの目的を本当に「正統信仰の擁護」(本当は「護持」という言葉を使いたかったのかも知れませんが)」とすることに賛成したのか、ということ。そしてこの質間に対する答え如何によって小生の申し上げたいことも二つに分かれます。つまり「賛成した」という場合には、厳重に抗議したいのです。どうぞ大学を「正統信仰の牙城 」にはしないでください、と。何をもって「正統」とみなそうとしているのか、小生に忖度する興味はまったくありませんが、この春の陣馬高原合宿でのS教授 の発言に「カトリック中道正当派(正統派の間違いか)の文化センターとして日本の中でもユニークな存在になりたい」というのがあります。しかしこの「中道正統派」という表現自体、先程からも言ってきたように、まかり間違えば、というよりほぼ確実に、低次元で政治的な、はっきり言ってキリスト教精神から遠く逸脱した議論を呼び込むものであると言わなければなりません。つまり、キリスト者として自らの立場を「中道」とか「正統派」と規定すること自体、宗教をイデオロギーや政治と同じ次元におくという実に奇妙で、それこそ「危険な」考え方(あえて思想とは言いますまい)だということです。
 では「私としてはそんなつもりはなかった」と否定の答えが返ってきたとしたら、次のことを申し上げたい。確かに現実的には今回の記事のようなものをすべての委員が逐一チェックするようなことはなく、たいていは書き手の良識に任せられるでしょう。しかし問題は、「正統信仰の擁護」というようなきわめて論争的かつ独善的な自己規定の文章がすでに外部に向けて発せられてしまったということ、そしてそれに今後どう対応するおつもりか、ということです。ちなみに今回の記事の中で「槍玉」にあがっているものの中に、その創刊時に小生自身(すでに大昔のことですが)翻訳者として関わったことのある『神学ダイジェスト』がありますが、それについて「編集後記」には次のように書かれています。「危機醸成に寄与してきた『コンチリウム』誌(日本では『神学ダイジェスト』)」。
 「危機醸成に寄与してきた」という表現には皮肉が込められていると思いますが、要するに「危機意識を煽ってきた」という意味でしょう。センターの目的の一つに他大学の同種の機関などとの交流という一項もあったと思いますが、しかしこうした言葉遣いは、端(はな)から論争を挑んでいるようなもので、小生には実に不可解なことに思われます。
 待ち焦がれていた夏休みにやっと入ったというのに、お互い厄介な問題をかかえこんだものです。しかし、ことは東京純心女子大学の存在意義の根幹に触れる重大間題と考えています。小生以外にも同じような意見をお持ちの方が他にもおられますが(休みに入ったので小生が話し合うことができたのはわずかに5人ですが)、貧乏籤を引くことは慣れていますので、今回は佐々木一人の「公開質問状」という形にさせていただきました。事態はすでに対外的な局面にも広がっていることですので、ぜひ明快な回答をいただきたいものと願っております。
 最後にもう一つ運営委員諸氏にお願いしたいことがあります。 「運営委員会報告」によりますと、「日本カトリック大学キリスト教文化研究所連絡協議会」(初めて聞く名前ですが)の来年度会場校として純心が名乗りを上げているようです。しかし本公開質問状で提起している間題点について委員間で十分な話し合いが行なわれ、その結論が他の教職員の少なくとも半数以上の賛同が得られないうちは、会場校となることはぜひ思い止まっていただきたいということです。
 エントリーは、キリスト教ヒューマニズムに則った開かれた大学、寛容と相互信頼に満ちた真のキリスト教系大学として、まず自らの足場を固めてからでも、けっして遅くはないはずです。
 以上をもって小生の公開質問状を終わらせていただきますが、蛇足ながら再度念を押しておきたいことがあります。すなわち本公開質問状の趣旨は、話の過程でそう思われても仕方がないかも知れませんが、ある特定の個人を批判しその人に論争をしかけるものではない、ということです。自らを中道正統派と自認する人と今後とも議論するつもりは毛頭ありません。あくまで運営委員会に対する間題提起であることを再度表明させていただきます。
 なお公開質問状という性格からして、今回は東京純心女子大の関係者の方々にも本状を配布させていただきました。
 皆様のご健康とますますのご活躍をお祈りしつつ。

一九九七年七月三十一日
佐々木 孝

東京純心女子大学
キリスト教文化研究センター運営委員各位




第二幕

※ それに対して珍しく委員の一人から手紙が届いたが、なんとも要領をえない不思議な手紙だった。以下、それに対する私の返答は以下のようなものであった。


前略ごめん下さい。
 先日はお手紙ありがとうございました。今まではこうした「問いかけ」に対して完全な無視か沈黙で迎えられるのが普通でしたので、まずは早速のご回答、たいへん嬉しく思いました。しかしお手紙を読んでいくうち、どういう意図のもとに書かれたお手紙なのか分からなくなりました。“…more calmly…” とか “…too emotionally” などと、まるで親か恩師か親友(もちろん小生にとってM先生はそのいずれでもありません)のようにきわめて個人的な口調の忠告で始まっていたからです。しかし何よりもびっくりしたのは、小生が「質問状」を書く原因となった当の「ニューズレター」をお読みにならない段階でのお返事だということです(「ことば」を大切になさっているはずの先生が、どうしてそうなさったのか、にわかには信じられないのですが)。それならまったく個人的なお手紙なのかというと、そうでもないらしい。
 なぜなら、お手紙の末尾にある他の三人の委員の名前の前の cc. という略号が、もしも「―にも同文のもの送付」を意味する略号でしたら、お手紙はいわば運営委員会からの公的な回答を意味するからです。
 さらに不思議なのは、先生がはたして本当に「質問状」の趣旨を理解なさった上でお手紙をくださったのか(私自身は先生のお手紙を一宇一句きっちりと読み理解したつもりです)疑問に思えることです。「質問状」にはいろいろ言わずもがなのことを書いてしまいましたが、要するにいちばん知りたかったことは、センターの目的「キリスト教ヒューマニズムの精神に則ったキリスト教文化に関する学問研究の推進」は「カトリック正統信仰の擁護と学間的水準の維持」を意味する、と本当に運営委員会が決めたのかどうか、ということです(S教授ははっきりと「きめられた」と書いています)。それに「カトリック正統信仰の擁護」という日本語は、どう考えたって先生がお訳しになっているような “taking its stand on Catholic orthodoxy” という意味にはなりません(こういう文章の中に「正統」という表現を使うこと自体異例のことですが、それはともかく、だれも “taking its stand on”  [則る、立脚する]ことに異を唱えているわけではないのです)。「カトリック正統信仰の擁護」は間違いなく “defending ‘Catholic orthodoxy’  (against)…”、を意味しています。そして “against…”の後に続くのは、S教授が講演記録その他で槍玉に上げているもろもろの「危険思想」なのでしょう。ご賢明にも先生は “though not in any polemic or pugnacious manner” とコメントされていますが、しかし該当箇所だけでなく、「ニューズレター」全体を虚心に読まれるなら、S教授の書かれたものがまさに、“in polemic or pugnacious manner” な文章であることは一目瞭然のはずです。それはS教授に対する個人的見解がどうか、などという問題ではなく、「書かれてあるもの」が直截的に語っている内容であり姿勢なのです。
 先生が私の質問状の内容を本当に理解してくださったのだろうかと疑うのは、次の事も関係しています。
 すなわち、先生はお手紙の最後に “Anyhow, I appreciate your concluding remarks, in which you appear somewhat more conciliatory than you were at first” と書かれています。しかしもう一度よく読んでいただければお分かりのように、文章そのものは嫌らしいまでに感情を抑えたものになっています。友人の一人は「怒りにもかかわらず抑制がきいているのに感服しました」とコメントしてきましたが、簡単に言うなら、先生のご指摘とは逆に、書き出しよりも後半の方がはるかに「頭に来て」おり、しかし表面的には慇懃な文章で締め括っております。ですから先生が小生の手紙を “too emotionally” と評されたり、“let off steam” などと書かれていることの意味が最初は分かりませんでした。しかし今はこう解釈しています。つまり先生は、こういう「公開質問状」を書くこと自体を「あまりに感情的」で、礼儀知らずで、過激な振舞いと考えておられるのではないか、と。
 しかし本当にそうでしょうか。おかしいことはおかしいと、その時々に反応しなければならないことがあるとはお思いになりませんか。いたずらに係争を引き起こしたり、それに巻き込まれるべきではありませんが、しかし発言をひかえることは、一見賢明な対応に見えても、実は結果的には大きく一方に加担してしまう場合だってあるのです。たとえば、今現在、M先生は、ご自身の意向とはかかわりなく、少なくとも「ニューズレター」をしっかり読んだ人の目には、「自らをカトリック中道正統派と自負するかなり好戦的なグループ」の一員になっておられるわけです(私は先生をそういう方だとは夢にも思っておりません。だからこそ、この手紙を書いているのですが)。もしそうでないなら、私に「そうカッカしなさんな」などと忠告なさる前に、まず「ニューズレター」をしっかりお読みなり、運営委員としてそんな決議をした覚えはないとS教授に抗議すべきではないでしょうか。 正直申し上げて、「公開質問状」を書くことなどかなり「厄介な」ことで、私としてもできれば避けたいことでした。しかし今回はどうしても書くべきだと思ったのです。なぜなら、もしも純心が今後「ニューズレター」に書かれているような方向に向かっていくなら、純心は、その多くの構成員にとって、どこか居心地の悪い、自分の存在が大学の本質的な部分とは無縁のものになってしまうからです。
 なぜなら、自らを中道正統派とみなす人たちがいるということは、必然的に中道派でも正統派でもない人たちの存在が前提とされているだけでなく、実はそういう人たちが新たに「生み出されて」いくことを意味するからです。ところで先生は、純心を構成する人たちの中に信者が少ないことをマイナス要因とお考えですか。「釈迦に説法」するなとお叱りを受けるかも知れませんが、それをプラス要因と考えてはいけませんか。つまり「豊かな実りを待つ主の葡萄畑」と考えることはあまりに楽観的に過ぎる理想主義でしょうか。確かに現実的には、先生がお書きになっているように、そこには「一種の緊張関係(“a kind of tension”)」が存在するでしょう。しかしその困難を甘受し、それに挑戦していくことこそまさにミッションスクールの存在意義ではなかったでしょうか。
 はっきり申し上げますと、純心の教職員の中に(そして学生の中にも)、純心がキリスト教精神に則って経営されること、キリスト教ヒューマニズムに立脚した教育がなされることに反対する人は、私の知る限り一人もおりません。彼ら(あるいは彼女たち)の中にもし不満があるとすれば、それはむしろキリスト教精神とは異質で無縁の、つまり一方的で対話を欠いた、そして相互信頼の希薄な事の進め方についてなのです。昨年来「学生会会則」や「後援会会則」について私が事情の分からない人にはいささか執拗と思われるほど問題にしたのも、そこにはしなくも表現されている、構成員に対する「信頼の無さ」についてでした。そう言えば先生のお手紙の中にも「多数の」教職員に対する一種の「不信感」のようなものが表現されているのを残念に思います。先生はこう書かれています。
 “If Tokyo junshin were to be run on purely democratic lines, with a majority of teachers deciding everything, then the university could no longer be called Catholic‥‥”  それではキリスト教大学の民主的運営は impure な、と言ったら言い過ぎですが、ただ形だけの、辻褄合わせのものだというのでしょうか。つまり本音を言うなら、できればそんな迂遠な手順を踏まないで、もっと効果的・直接的手段に訴えたいとでもいうのでしょうか。もちろんそうではないと思います。
 問題は民主的で開かれた手順やシステムを踏まえつつ、組織や構成員の中にいかにキリスト教精神を浸透させ、キリスト教的人間観・価値観に共鳴してもらうか、でしょう。つまり制度的な不備を埋めるのは、深い信仰に裏打ちされた誠実で魅力的な行動、どんな言葉よりも有効な生きた模範以外の何物でもないということです。すなわち民主的な手続きや手順を無視してではなく、それを踏まえつつ、さらにその上を目指す高邁な理想主義が絶対に必要だということです。かつてのミッションスクールに漲っていた「理想主義」は今どこに行ってしまったのでしょう。私の見るところ、ミッションスクールの内部崩壊、その空洞化は日々勢いを増してきています。そして日本の政治の世界に見られることがここにも起こっているのです。つまり内部深く進行する空洞化と、そのことに危機感を募らせた一部の人たちのファナティックな極右化です。
 今から九年ほど前、「世間の」大学から純心に移ってきたとき、理事長や学長にその理由を聞かれ、私はこう答えました。「《世間の》大学の理想は、せいぜいのところ《国家に有能な人材の育成》ですが、その点、ミッションスクールは現実はともあれ、高邁な理想を掲げているから」と。今もその考え方は毫も変わりません。しかし悲しいのは、そのキリスト教的理想主義なるものが昨今非常に微弱になってきたこと(本当の意味の自信を失っていること)、そしてそれとは反対に、相互信頼に裏打ちされた真の対話抜きの、一種強引なキリスト教の押しつけ(少なくともそう誤解されても仕方がない)の存在です。そうまでしなければならないほどキリスト教は魅力のないものなのでしょうか。
 先日、少々言葉はきついが率直な物言いをする一人の友人からこう言われました。「馬鹿だなあ、どうしてそうまでキリスト教にこだわるんだよ、第一お前がどんなにシャカリキになっても、シスターや神父たちはひとつもありがたいと思わないどころか、ただ迷惑がっているだけじゃないか」。時々私自身も、深い徒労感に襲われます。今回の問題も、なにも「ことを荒立てないで放っておけばいい」ことだったのでしょうか。私はそうは思いません。なぜなら、受験者数の増減やカリキュラムの改定よりも大切なのは、純心がキリスト教ヒューマニズムに則った開かれた大学であること、すべての構成員が純心を自分たちのものと考え、そして純心が常に自由と信頼、さらにはキリスト教的愛(これは言葉ではありません)の生きている大学であることだからです。ですから魂の自由、他者理解のための寛容の精神、立場の違う者同士の対話の精神が少しでも脅かされる事態に対しては、間髪を入れず、「それはおかしい」と言い続けなければならないのではないでしょうか。特に昨今は、大切なことがいつのまにか、なし崩しに失われていく時代です。私は、今後もおかしいことがあれば、たとえ人に嫌がられようとも、それに対しては常に抗議していくつもりです。もちろん先生が忠告なさっているように、“more calmly” に。
 文中、「神父様」という言葉は使わず、私たちの大学での関係を考慮してあえて「先生」と呼ばせていただきました。その他、失礼の段あればご寛恕願います。


先生のますますのご活躍とご健康を祈りつつ、
九月四日


※もちろんこれに対する返事はいっさい無く、以後大学は「あたかも何事も起こらなかったかのように」無事平穏に存続したのである、チャンチャン。