5. オルテガ『沈黙と隠喩』(1977)


オルテガ『沈黙と隠喩』



 本書には一九一六年から一九三六年にわたって八巻に分けて出版されたオルテガの個人誌『傍観者』のうちから、主に文学評論に属するエッセイが収録されている。同じ訳者によって既に紹介された『傍観者』(筑摩書房、一九七三年)と『現代文明の砂漠にて』(一九七四年、新泉社)と合わせて、原著『傍観者』全八巻の完訳がここに成ったわけである。
 オルテガの主要作品は先の『オルテガ著作集』全八巻(白水社、一九六九~一九七〇年)にほぼ余すところなく収録されている、と一応は言うことができるが、しかしそれは主要作品というものを手ごろな分量を持つ比較的まとまったテーマの、そして時代や環境といういわば外からの要請に照準を合わせた作品というほどの意味に解すればの話であって、必ずしもそれらがオルテガの真骨頂を巧まずして表現したものというわけではない。
 後になるに従って他の新聞・雑誌に既発表のものを再録するという形にはなったが、もともとオルテガはこの個人雑誌を自分の本当に言いたいことを自分の流儀で、しかも自らの要請によって書くために企画した。そのため読者はここで、哲学、芸術、政治、宗教その他多様なテーマをめぐっての彼の自由な思索の展開に立ち合うことが可能である。彼が自作のうちもっとも愛着を感じていたのが、この『傍観者』であったというのもうなずける。
 訳者西沢龍生氏がオルテガのこの隠れた代表作の重要性を夙に見抜かれ、完訳を敢行されたことにまずもって敬意を表したい。読者は本書のうちに、間口が広くかつ奥行きも深いオルテガの思想の一種内密な、しかし具体的な招きを感じることができるに違いない。本書には「九八年の世代」に属するピオ・バロッハやアソリンという、わが国には名のみ伝わって実作品の紹介が殆どされていない二作家をめぐる評論も収められていて、最初のうちは少々とっつきにくい感じがするかも知れない。
 しかしオルテガの魅力は、扱っている内容自体よりもむしろその対象に近づく手口、いわゆる文体にあることを想い起こしたい。たとえば『額縁考』(筑摩版『傍観者』所収)は、書斎の壁にかかっている一枚の絵の、その何の変哲もない額縁をめぐる一見とりとめのない考察から始まって、実在と非在、現実と虚構(あるいは理念界)に関する卓抜な哲学的思索へと、いつしか読者を誘いこむ。
 オルテガの思想においてその文体が有する重要性、もっと具体的に言ってその自在な隠喩の駆使が持つ重要性、は多くの評者によって機会あるごとに指摘されてきた。ホセ・ルイス・アベリャンによれば、オルテガが自己の思想の体系化を意識しだしたころから、そこに一種の停滞が、つまり魅力の減少が始まったということになるが、あるいはそうかも知れない。なぜなら彼の思想は、決してカントやへーゲル流の体系志向型の文体によってではなく、特に初期からこの『傍観者』を含む中期にかけてのまさに彼一流の絢爛かつ自在の隠喩をちりばめた文体によってしかその充全たる表現が得られなかっただろうからである。隠喩は「表現の手段である上に、洞察の本質的な手段でもある」からだ。この意味で本書に収められている「二つの大いなる隠喩」は、彼の哲学に近づく実に格好の鍵を与えてくれる。
 最後に訳文についてだが、評者自身がオルテガ作品の翻訳をしたことがあって、それこそ「自分のことは棚に上げて」式の手前勝手な言いぐさだが、訳者自身の非常に個性的な文体が、ある場合にはオルテガ散文の難解ではあるが明快な語り口を圧倒し、その微妙な偏差から新しい難解さが生まれている部分無きにしもあらずである。若い世代の読者にその点少々近づきにくいのではないか、というのが評者のぜいたくな危惧あるいは身のほど顧みぬ注文である。

「日本読書新聞」
昭和五十年三日十七日号



【息子注】後年、父は次のような文章を書いている。
「新訳」の対極にある訳業(2008年2月23日執筆)

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