16. 人間理解のための思わぬ啓示(1974年)


人間理解のための思わぬ啓示

 『食人の世界史』、『拷問の世界史』書評

 

両著とも最近はやりの、いわゆる暗黒史、裏面史を扱った書物である。しかし扱っているショッキングな内容に比して、著者たちの姿勢はきわめて真面目であるし、実に浩瀚な資料を駆使しての労作である。いや真面目であるばかりか、一般の読者にも手軽に読める面白さも備えている。食人にしろ拷問にしろ、人間がこの世に存在したときから現代に至るまで、あらゆる時代を通じ、あらゆる場所において性こりもなく繰り広げられてきたことはだれでも知っている。ただ意識に上らせまいとしているだけの話にすぎない。
  もちろん食人の方は、風習としては文明世界からはとうの昔に一掃され、ただ未開民族の一部に残っているにすぎないが、拷問の方はただ今の瞬間にも、地球上のどこかで行われていることは確実であろう。しかしこのように膨大な事例と、およそ考えられるかぎりの多様性をもった地獄絵図をつきつけられると、やはり唖然とさせられる。
  だが、唖然とさせられた後で、さて、と考えさせられるのは、こうした類の書物が、一般の読み物として広く世人に紹介され読まれるということの意味である。いままでいわばひそかな楽しみのため、あるいは公然か秘密の必要のためにごく少数の人たちの目に触れてきた書物が、いとも自然に多くの読者層を獲得しているということの文化史的な意味である。つまり暗黒史、裏面史といったジャーナリスチックな興味と関心の底に流れている時代的、歴史的な意味の重さである。簡単に言うなら、それは、著者、出版者、読者が意識するしないにかかわらず、われわれの住むこの「文明世界」にも、形を変えてはいるが明からさまな食人や拷問に豪もひけをとらぬ人間の悪業が跡を断っていない、という苦い現実認識があるということであろう。
  そしてそうした現実認識の暗部から聞こえてくるのは、「人間よ、お前は何者なのだ」「人間よ、お前はどこに行くのだ」という不気味なリフレインである。非人間的あるいは人間以下のものから、超人間的あるいは聖性の極みと言えるものまで、人間はありとあらゆることを経験してきた(もちろん、一人の人間の体験というより人類共通の体験として)。

  いったい人間はどこからどこまでが人間なのか。どこで善が終わり、どこから悪が始まるのか。悪をつき抜けた向こうは何なのか。また人間が人間を裁くことが実際に可能なのか。
  ところで食人とか拷間という人間の暗黒面に降りていくとき、そこに何らかの宗教的意味づけがなされるということは興味深い。異端審問、魔女狩りがそうであったし、現代においても、おのれのイデオロギーを絶対とみなすかぎり、対戦国の捕虜あるいはスパイに対する拷問も宗教にかかわってくる。つまり、おのれの側に絶対の真理があるとする人間の傲岸さほど恐ろしいものはないということである。求めもしないで絶対の真理などないと主張するのも愚かだが、しかし、絶対の真理とやらをやたらに振りまわすのも大人気ない。第一、やたらと振りまわすことのできないのが真理であるはずだからである。
  食人の方にも、たとえぼ宗教的儀式としてのそれがあるが、一昨年十月に起こったアンデス山中での遭難者たちの記録は、その意味で実に衝撃的(自分たちもまたあのような限界状況に立たせられる可能性は、今後むしろ増大するのであるから)であるし、同時に感動的ですらある。ところで遭難者のうち最後まで人肉嗜食をこばんでいた者たちが、ついにそれに踏み切ったのは、「これは聖体拝領のようなものだな」という言葉をきっかけとしてであったということである(「文芸春秋」一九七四年三月号、「大アンデスからの生還」)。彼らの行為は非難されるどころかむしろ英雄視された。しかし私はこの話に一種のいかがわしさが感じられてならない。神は人肉を食べても生き残る使命を自分に与えられた、とする割り切り方に一抹の不安を感じるからだ。むしろ武田泰淳の『ひかりごけ』の船長のように、いっさいの自己正当化を拒否し、食べるにしても食べないにしても、すべてに我慢する、耐えることの方に、より深い人間性と宗教性が感じられる。
  とにかく両著とも、訳文はこなれており(ただし『食人の世界史』の方に少々わかりにくい箇所のあることが惜しまれる)、最初の嫌悪感をおさえて読むだけの値打ちはあるし、そこから人間理解のための思わぬ啓示を引き出すことも可能である。題名を見ただけで読む気のない人にこそ、一読をおすすめしたい。


「朝日ジャーナル」
         一九七四年四月十二日号