16. 白く塗りたる墓 (1998年)



白く塗りたる墓

  ――不撓不屈の精神でガンを克服したS・N氏に捧ぐ――


君たちにとっては、ちんけな風体の、どこか浮き世離れした、一種微苦笑を誘うだけの存在かも知れないけれど、俺にとっては、その本来の軌道から逸脱した彼ら(あるいは彼女ら)は、その姿を眼にするだに毛穴という毛穴から羞恥の脂汗がにじみ出てくる身内みたいなものなのだ。




ミッション・スクールの終焉


 いわゆるミッション・スクールの歴史的使命は終わった。このことはすでに何年も前からの、いや何十年も前からの、と言ってもいいだろう、事実であるにもかかわらず、少なくとも外面的には、ミッション・スクールは栄えてきた。社会的信用はいよいよ高いと言ってもいい。だからこそ、先の事実がいよいよ見えにくくなってしまった。
 しかしそうした隆盛は、まったくのまやかしである。ミッション・スクールだから栄えているのではなく、ミッション・スクールであるにもかかわらず栄えているのだ。あるいはこうも言えるであろう。すなわちミッション・スクールはその本来の使命(ミッション)を終えたがゆえに、あるいはその本質を喪失したがゆえに今日の隆盛はある、と。
 聖書の言葉を借用すれば、今日ミッション・スクールはまさしく「白く塗りたる墓」(マテオ、二十三-二十七)である。内部崩壊がはなはだしく、やわな風が少しでも吹けば瓦解するはずだ。一瞬のうちの崩壊。しかし幸か不幸か、そのやわな風は吹いてこない。



修道会は永久に不滅か


 修道会創立者のだれも、もしもまともな宗教者なら、自分の作った会が、「母なる教会」同様に未来永劫に存続して欲しい、などと考えなかったことは確かである。それなりの使命を終えれば、慎ましく歴史の表舞台から退場するのはとうぜんと思っていなかったであろうか。
 ところがその後に続く熱心な後継者(エピゴーネン)たちが心を砕くのは、創立者の素志に忠実であることより、組織のただひたすらなる存続である。長嶋巨人ではないが、「わが会は永久に不滅」と考えるらしい。確かL・アラングーレンはその著『カトリシズムの危機』の中で、これからの教会は細分化された小グループのゆるやかな集合体となるだろうというような未来図を描いていたと記憶するが、しかし「教会内教会」とも言うべき、こうした自我意識のきわめて強い修道会の乱立(信徒数四十万にも満たないのに、日本には修道会の数が、男女合わせておそらく数百を数えるのではないか)は、もしそれが他に対して開かれた姿勢のものでないかぎり、いたずらな緊張と刺々しさを醸し出すだけである。ときおり見かけるのは、外部の者に対してより、むしろ同じ組織内のもの同士で、醜い縄張り争いが繰り広げられることである。かくして、外からは想像もつかないが、内部的には空洞化が進んでいて、精神的エネルギーの枯渇した修道院(ときにはその修道会全体が)が存在する。そこから生み出されるのは、大量の精神的不自由者である。
 もし彼ら(あるいは彼女ら)が、修道者になることによって、生得的に持っていたさまざまな美質を失うとしたら、これほど悲しく不幸な身分選択はない。彼らが修道院にこもって外部との接触を一切断っているならまだしも、彼あるいは彼女が修道者であると同時に、まぎれもなく市民であり、ときには職業人でもあるから問題がややこしくなってくる。つまり彼あるいは彼女が他の人々、とりわけ若い命を育てるべき教育者であったり、さらには教育機関の経営に乗り出して、そこで指導的立場に立ったりすると、事態はかなり悲劇的様相を帯びてくる。



眞の連帯は可能か


 ところで彼ら(あるいは彼女ら)と、人間としてのぎりぎりの位置で連帯することができるか。といってこれは、なにも命をかけるほどの、たとえばレジスタンス運動などでの同志的連帯だけを言っているのではない。ごくごく普通の、たとえばある組織の改革を目指して、一時的には強い結束力が必要な場面での、彼らとの連帯は可能か、ということである。理論的には不可能であろう。なぜなら彼らは、従順の誓願によって、会から独立した形で、外部の者との連帯はけっして許されないからである。
 ということは、単独者として、最終的意思決定は不可能であるということである。しかし幸か不幸かそのような極限状況、つまり会と友人のどちらを選ぶかといった劇的な二者択一に苦悩する機会はめったに訪れるはずもない。それに、万が一そのような稀有の瞬間が訪れたとしても、いずくよりか、思いもかけない方角からの打開策が閃光のようにひらめくはずである(とは思わないか?)。たいていは、そのようなぎりぎりの選択などないのに、先走った予想をして、まず己の安全を確保したうえで、相手の本心をいわば担保にしての擬似連帯しか結べないのではないか。
 霊的指導師とか上長には胸襟を開く(あるいは開いたつもり)が、一般人には絶対に本音を語らない。なぜなら、そのような事態に進展すれば、いつか己が絶体絶命の窮地に立たされると恐れるからである。君子は危うきに近寄らず。
 この意味では、つまり友情といった、この世でもっとも大切なものの一つを端から犠牲にしているのだから、もともと修道生活は現世的価値観と真向から対立する側面を持っているわけだ。「私が地上に平和をもって来たと思ってはならない。平和ではなく、剣をもって来た」(マテオ、十の三十四)。
 しかし現実には、くどいようだが、そのような厳しい対立などめったに起こらない。なぜなら、たいていの場合、聖職者や修道者自身が、驚くほど世俗的価値観のなかにしっかり浸っているからだ。で、この際、もっとも悲劇的なのは、いや喜劇的なのは、本人自身が己の世俗性にとんと気づいていないこと。



オプス・デイとかいうものの正体


 エスクリバー・デ・バラゲル(一九〇二-一九七五) が一九二八年に創立したオプス・デイ(「神の業」の意)については、口伝えにはそうとうきわどい批判の声がささやかれてきたにもかかわらず(フランコ時代、閣僚の中に何人も会員を送り込んだことは有名な話である)、今ではローマに本拠を置く(といって正確にはすでに一九四六年に本部を置いたのだが)最大級の教育修道会に成長した。最近では、この道の老舗(?) あのイエズス会をもしのぐ勢い。ある日本の修道会神父の(これは間接的に聞いたものだが)「ローマ教皇も今ではオプス・デイの妾」というちょっと品のない言葉に、端的に現在の教会内の位置関係が示されている。
 ちなみに、最近第二巻を出した(全四巻のうち) 『新カトリック大事典』(研究社)では、創立者についてもオプス・デイについても、項目担当者はN・なにがしという、まぎれもなく日本のオプス・デイを代表する神父が執筆している。これはなにもオプス・デイだけの特殊例でなく、それぞれ教会内組織の説明は、関係者・当事者自身がやっているわけで、批判めいた、いや少なくとも客観的な記事を探す方がどだい無理な話なのかも知れない。かつて冨山房から出た『カトリック大事典』(全五巻、昭和十五年~昭和三十五年)がいま手元にないので分からないが、そこでも事情はさして変わらなかったのであろう。(ついでに言えば、カトリック教会唯一の情報紙だった「カトリック新聞」は、一九七〇年代に司教団が直接管轄する純粋な機関紙となったので、いまや自由な意見表明の場所はどこにもないということになる)
 ともあれ私自身が耳にしたオプス・デイにまつわる芳しからぬ噂のいくつかを書いておこう。
① 昨夏パンプローナ(その地のナバラ大学はいわずと知れたオプス・デイ経営の大学である)に研究のため滞在していた日本のある大学教授は、滞在中、毎夜入れ替わり立ち替わりオプス・デイ会員の訪問を受け、もし会員になるなら博士号を提供しようと言われたそうだ。
② 現在いくつかの大学の非常勤講師をしている友人[女性]は、かつてスペイン留学中、頻繁にオプス・デイからの接触を受け、もし会員になるなら、日本に帰国の際は専任講師の席を用意する、と言われたそうだ。彼女は薄気味悪くなり、友人の勧めもあって、その後一切の関係を断って帰国した。
 実はこの種の情報は他にも数え切れないくらいあるが、彼あるいは彼女たちの話が根も葉もない噂とはどうしても考えられない。もっとも、どの世界のものであれ、新興勢力には毀誉褒貶が付き物であり、たとえばかつてはイエズス会も、何度も叩かれ中傷され、一度はヨーロッパのほとんどの国から追放された歴史を持っている。しかし、オプス・デイの場合、どうもたんなる新入り苛め(ノバターダ)ではなさそうである。 
 最近特に彼らの動きが急になってきたように思われる。もしかすると第三千年期(彼らが愛好する用語らしい)を前に、総動員令がかかって、いささか気負っているのかも知れない。しかしどうしても看過できないのは、政治力や財力に物を言わせて(超エリート主義の彼らは、銀行、出版社、学校を手広く経営している)己の勢力拡大を図ること、いやそれよりも何よりも、だれが会員なのか原則的には(?)秘密主義をつらぬいている点である。フリーメーソンなみなのだ。



涙ぐましい気配り


 あるとき、教員合宿で話をしてもらえまいかと、長いあいだ付き合いの途絶えていた友人に電話をしたことがある。彼はいま大きな大学の副学長だ(と思う)。自分は都合がつかないが、〇〇神父ならその日空いているはず、電話してみたら、との返事。そのとき付け加えられた言葉に唖然とする。「その日空いていると、この私が言ったことは内緒にね」
 なんだい、それじゃ世間の気配り以上の気配りじゃねえか。複雑に入り組んだ仲間同士の関係の網の目の中で、仲間に後ろ指さされまいと健気に気を遣って、それじゃ御中元の季節に上司や同僚との力関係に細かく気を配って付け届けする小官僚とどこが違う?
 迷える羊たちを気遣う余裕あんの? そして神様には?



良識派の限界


 そこらの意地悪婆さんや根性曲がりの中年女とちっとも変わらない修道女が多いなかで、珍しく修道女らしい修道女が、配置換えになって南の方に移っていった。季節ごとに挨拶が届き新任地で頑張っているらしい様子に喜んでた。ところが勤務先の大学で問題があり、それを批判した文書のコピーを近況報告代わりに送ったら、以来彼女からは一切の音信が途絶えてしまった。危険人物とは縁を切りたい? それとも涙ながらに改心を祈ってくれてるの? 隠れキリシタンの末裔らしく、災難は通り過ぎるまでじっと待てなの? まさか貴女から賛成意見を引き出すつもりはなかったし、だいいち貴方にその文書を送ったことさえ秘密にしようと思っていたのに。



懸 崖


 ある深夜、何気なく見たテレビの画面が眼に焼き付いて離れない。中国の僻地の話と思う。いや、近くに大きな町があり、農閑期には、村のだれかれが耕耘機に乗って、あるいは徒歩で、ちょっとよそ見をすれば千尋の谷底に転げ落ちそうな山路をたどって芝居見物に出かける場面もあったから、そんなに僻地というわけでもないらしい。ともかくグランド・キャニオンなみのものすごい地形の中で、岩肌にまるでしがみつくようにして生きている人々の毎日の労苦。町から来た役人に村人たちが雨水のための貯水槽作りの助成金を嘆願している。助成金といっても、結局支給されたのは、セメント何袋だけの現物支給。出来上がった貯水槽は何の囲いもないままに掘られた深い大きな穴に過ぎない。間違って子供が落ちたら、いやいや大の大人が落ちても、絶対に這い上がれない危険きわまりない穴ぽこ。
 ただ食うためだけの労働の中で忙しく時間が過ぎていくなあ。未来への希望?、そんなもの考える暇なんてないなあ。



遅きに失する謝罪なし


 先日の新聞に、一つの興味深いニュースが載った。それは第二次世界大戦中フランス・カトリック教会がナチの暴挙に対して「沈黙」を守ったことを公式に謝罪したことである。つまりナチに協力しないまでも、しかし言うべき時に言うべきことを言わなかったことを、六十年近くも過ぎた今になって謝罪したのだ。遅きに失する、なにを今さら、と言えなくもないが、しかし現今の、特に日本の教会の、同様のこと(つまり過去の過ちに対する謝罪)への煮え切らない卑怯な態度を思うとき、むしろその遅さに対して敬意を表すべきだと思うのだ。
 これにつけても思い起こされるのは、昭和三十四年におこったスチュワーデス(BOAC勤務)殺人事件である。限りなく黒に近いと目されていたサレジオ会のベルギー人神父ベルメルシュが、事件後三カ月の六月十一日午後七時半、エア・フランス機で突然帰国した。殺人事件そのものより、このように重大な疑惑を晴らさないまま、逃げるように国外に出たことの方がはるかに重大な問題をはらんでいたはずだ。その当時のカトリック側のメディアはどのような報道をし、そしてどのような「主張」をしたのだろうか。
 どう考えても一修道会だけの力で、このようないわば超法規的※※な手段がとられたとは思えない。これには日本カトリック教会の中枢がからんでいたはずだし、またその背後にバチカンの指導と力が働いていなかったはずがない。ちなみに、この時、日本の内閣総理大臣はあの岸信介であり(第二次内閣)、カトリック知識人最高の地位にあったのは、最高裁長官田中耕太郎であり(昭和二十五年から事件翌年の昭和三十五年まで)、日本カトリック教会の最高位にあったのは、昭和十二年から大司教の地位にあった土井辰雄であった。ベルメルシュ神父が羽田を発ってちょうど一カ月後の七月十一日、その同じ羽田から岸は翌年に迫った安保改定調印にはずみをつける目的で欧州・中南米諸国への旅に出発した。そして事件翌年、田中はオランダ、ハーグの国際司法裁判所判事に転じ、また土井は日本人初の枢機卿に任命された。言うなれば、ようやく国際社会の中で認知されようとしていた戦後日本そして日本カトリック教会にとって、この事件はできれば秘匿しておきたい、実に忌まわしい事件だったはずである。
 松本清張は事件のあった年、「《スチュワーデス殺し》論」というエッセイを書き、さらに翌年、小説『黒い霧』によってこの事件を追った。彼は事件翌年に起こったBOACをめぐる麻薬密輸事件がスチュワーデス殺しの背景にあるとの推理をしているが、しかし残念ながらこの事件の背後にあったはずの巨大な力についての分析が弱いような気がする。これは彼の力量不足というより、むしろ当時のカトリック教会関係者が徹底的な箝口令を布いたためと思われる。 
 万が一(その「一」が限りなく大きく思えるが)いわゆる「もみ消し」工作のようなものがあったとするなら、その上に建てられたすべての建造物は、いつか必ず崩落せざるをえないことは、史上あまた類似の事件が証している通りである。口をつぐんで忘却の闇に葬ろうとしても、それは絶対に成功しない。なぜなら、「隠されているもので、あらわにされないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない」(マルコ、4-22)からである。

※ BOAC=国営英国海外航空の略号。七十一年(昭和四十六年)に、BEA(=国営英国欧州航空)と合併し。現在のBA(英国航空)となる。 
※※ 正確には「違法阻却事由」というらしいが、この当時そういう表現があったかどうか詳らかにしないが、この言葉が再びマスコミをにぎわすのは、昭和五十二年のいわゆる「ダッカ事件」のときである。



聖体顕示もしくは安置の思想


 聖体の秘跡(カトリック教会では、キリストの最後の晩餐での言葉を司祭が発することによって、パンとブドー酒の形色のもとにキリストの体と血に実体変化して現存すると教える)は、史上それをめぐって数多くの論争を引き起こす争点の一つだったが、いつものごとく数多くの異端邪説が斥けられて、慣習としてだけでなく教義的にも定着するようになったのはおそらく十三世紀あたり(一二一五年、第四回ラテラノ公会議)からと思われる。しかし今ここでその論争史をたどるつもりはないし、はたして神学的に正論なのかどうかの議論を蒸し返すつもりも、その能力もない。ただ、この教えから結果する一つの問題点だけを指摘しておきたい。
 つまり神の存在を身近に感じる一つの信心業として、これはこれでキリスト教徒に多大の恩恵を施してきた。事実この「聖体」を創業の柱とする修道女会が一八九一年にフィラデルフィアに誕生さえした。しかしすべていいことづくめだろうか。
 すなわちこの聖体を教会あるいは聖堂内に「安置」することによって、自分たちにはキリストが「ついている」と感じるのはいいが、そしてここが面白いところだが(?)、本来なら内在化さるべき神が外在化されることから問題が起こっていないだろうか。つまりキリストの聖墓を守る十字軍兵士のように、聖堂あるいは教会の外に汚濁の世界が広がるという錯覚に捕らえられて思い上がってしまうことである。つまり汚濁の世界は、教会の中にも、また修道院の中にも存在しうることをすっかり忘却して。
 それなら、むしろ神の「不在」を徹底的に実感した方が、本当の意味での「祈り」が可能になるのではないか?



ほとんどハーレム状態


 女性が司祭になれるかどうか、の議論がひところ盛んであったらしいが、その後どう展開しているのか、少なくとも身近に情報が入ってこないので知らないが、司祭の独身制そのものについての議論の方は? しかしときおりは、神父たちにまつわる不愉快な噂が嫌でも耳に入ってくる。あまりに馬鹿らしくて資料を探すつもりもないが、むかしキリスト教系の某有名私立大学の倫理学の教授が女子大生と問題を起こして週刊誌で騒がれたことがあった。聞くところによると、その神父、故国で相変わらず倫理学の教授を続けているそうだ。「エクス・オペレ・オペラート(秘跡執行者の功徳に関係なく秘跡自体が効果を持つ)」の実例の一つか?
 スチュワーデス事件のときもそうであったが、キリスト教に限らず、昔からいつの時代も破戒僧や生臭坊主がいるものだが、問題はそうした厄介事の処理の仕方である。ひたすら隠蔽するというのが従来のやり方。
 そうした「元気のいい」聖職者は、実はまだ罪が軽い。いやーな気持ちにさせられるのは、数多くの賛仰者(たいていは異性の)に囲まれて、まるで精神的ハーレム状態の中で得々としている愚かな聖職者である。これには年齢は関係ない、念のため。



キリスト教右翼


 第二バチカン公会議に行き過ぎがあったと主張する輩がいるとは仄聞していたが、まさか身近なところに出現するとは思ってもみなかった。昨夏、はしなくもこうした輩の一人が書いた阿呆らしくも幼稚な文章に噛みつかざるをえない羽目に陥った。当初の予想通り実りある論争に発展するはずもなかった。ただただオゾマシサだけが残った。 
 論争の相手にはしたくもないが、しかしやたら周囲に毒をばらまかれてはかなわない。今後も必要とあらばマングースよろしく即座に噛みつく元気を残しておきたいが、ともあれ一年ほどの生態観察で分かった結果をいくつか覚え書きしておく。
① 政治的右翼同様、きわめて簡単な論理能力しか持ちあわせていない(やたら学者ぶるが、知性は蚤の脳味噌程度しかない)。
② ことごとく後ろ向きである。先日などはちょっと目を離したすきに、廊下の壁につかまって、ほんとうに後ろ歩きをしようとしていた。
③ やたら小便が近い。
④ 他人の話に耳を傾けることはまずない。次にどう自分のことを自慢しようか、そればかり考えている。



アベ教授の悲しみ


 今でもアベ教授は、自分がなぜ世間から非難され糾弾されているのか、薬害エイズ患者から悪魔のように思われているのか、分かっていないのではないか。
 故郷に自分の胸像を建ててもらうのがちょっと大それた夢だったとしても、学者の鑑にもしたいくらいの、禁欲的で己れを持することにおいて模範的な男のようだ。ただ彼はどこかで、おそらくは学者生活の初期段階で、大きなミスを犯した。と言うより、大きくボタンをかけ違えた。つまり学問なんてものは、人間を(生きて苦しむ人間を) 無視したら屁ほどの値打ちもないことを肝に銘じなかったことである。彼にとって医学という「学問」の祭壇の前では、患者はすべて「症例」にしか映らない。
 だって全ては医学のためじゃないか。医学の進歩のためなら、それは君、少々の犠牲も、いやここだけの話だが、仕方がなかろうというもの(ずいぶんとこれはキリスト教右翼氏に似ているなあ)。



羞恥心


 武田泰淳という作家は、戦後文学者の中でもっとも優れた宗教思想を残してくれた一人だが、そのうちの一つは、宗教者の持つべき羞恥心についての教えである。いや、宗教者と限定すべきではないのも知れない。つまり人間たる者、すべからく持つべきものとしての羞恥心である。
 一つのステイタスとしての僧侶・牧師・神父あるいは修道士(女)という生の形態は、つらつら己の実相を反省するなら(たとえそれが一瞬でも)、とてもじゃないがこっぱずかしいものであるはずだ。
 もう少し謙遜になろうよ。すべてを神に委ねてもいいけど、羞恥心だけは自前でね。




『青銅時代』第39号、1998年