17. インコモドであること (1985年)


インコモドであること



 今年八月二十六日から二日間、ソウルで第一回アジア・イスパニスタ会議が開催されるそうだ。「そうだ」というのは、それを知らせる回状が筆者の所属する「日本イスパニヤ学会」からではなく、津田塾大に事務局を持つ「スペイン史学会」からいわば間接的にコピーで送られてきたからである。それによると、招待客の中にはスペイン・アカデミー会員J・C・カルボ・ソテーロとマヌエル・アルバール、メキシコの詩人オクタビオ・パスなどの名が見られ、また開会式にはスペインの文化大臣J・ソラナ・マダリアーガも出席する(予定)など、なかなか大がかりなもののようである。
 初め、参加してみるのも悪くはないな、と考えた。アジアのイスパニア学の現状に関してはまったく知識がなく、それを知るための絶好の機会でもあるし、またある一つのことが思いだされたからである。というのは、数年前から韓国のあるスペイン語の教授(名前は忘れたが)が、何回か日本イスパニヤ学会に接触を求めてきたことを思い出したのだ。つまりあのときあの教授が接触を求めてきたのは、この第一回会議に関して日本の学会と接触するつもりだったのかも知れない(その後何の連絡もないのはおかしいが)。だとすると少し借りがあるな、と考えたからである。このあたりのことは筆者のたんなる推測であり、もしかするとまったくの事実誤認かも知れない。ともあれ、筆者としては第一回会議が隣国で行なわれることに全然異論はないし、今までアジアにおけるイスパニスタの交流に思いをいたさなかったわれわれの不明をこそむしろ恥じなければならない、と思ったのである。
 しかし落ち着いて回状を読みなおしていくうち、まてよ、参加については慎重にしたほうがいいのでは、と考えはじめた。回状の調子がいささか官僚的であり、どことなく政治的に思えてきたからである。アジアのイスパニスタたちが一堂に会して親睦を深め、今後の学問的交流を話しあうのはいい。しかし今まで一度も(筆者の知るかぎり)学問的交流のないところにいきなり国際会議というのは少し変ではないのか。もしかするとこれは八八年ソウル・オリンピックに向けてのデモンストレーション(つまり韓国の国威発揚)ではないのか。

 もしそうだとしたら、とてもじゃないが付き会いきれない。つねづねわが学会はあまりに素朴かつ非政治的であると思ってきたが(ある口の悪い友人によると一年一度の親睦だけの「七夕学会」だそうだが)、韓国のそれと比べるならまだましなのかも知れない。もっとも、もしこれがたとえばアメリカからの誘いだったら、はたしてそれだけの警戒心が働いたかどうか、と考えると何とも居心地の悪さを感じるが。
 ところで話は突然変わる。今では旧聞に属することではあるが(「エル・パイス」、昨年十二月十日付)、現代スペインにおいてもっとも油の乗り切った仕事をしているJ・カロ・バロッハがスペイン言語アカデミーに入ることを断わった(正確には今後いっさい候補者にされることを拒絶した)。それについて同月三十一日付けの同紙に、J・L・アラングーレンが「アカデミー会員であるとは何を意味するか?」という興味深い記事を書いている。かつて大学改革を求めてマドリード大学を追われ、野に下り、オルテガ倫理学の正統な後継者として大著『倫理学』を持ちながら、最近はむしろ戦術として時評的短文で戦っている彼らしい実に皮肉のきいた文章である。そこで彼は、アカデミー会員に選出される絶対的条件として、「インコモドでないこと」を挙げている。アカデミアの辞書によれば、インコモドであるとは、「1. 居心地の悪さを感じさせる、2. 居心地の良さを欠いている」という二面性を持っている。となると、カロ・バロッハの場合、彼の書くものがひとを不快にしたり居心地の悪さを感じさせたりはしないが、彼自身つねに居心地の悪さを感じ続けてきた人間であるということであろう。事実、著名な小説家であった叔父のピオ・バロッハなど一族の思い出をからませながら自分の半生を描いた『バロッハ家の人たち』を読めば、今回の入会拒否は当然の反応であることが良く分かる。「第三次スペイン内乱が始まったときに二十一歳で、第二次大戦が始まったときに二十五歳であった人間の意識に、いったいどんな大きな夢が残されているというのだろうか」

 しかし「かつてインコモドであった」ことは、アカデミー入会の障害になるどころか、かえって箔が付くことにもなる。だから、とアラングーレンは言う、最後までインコモドであり続けること、vieux terrible であり続けようとすることが大切なのだ、と。「恐ルベキ老年」であり続けることがいかに至難のことか、最近、中曽根首相に急接近しはじめた学者諸氏の動向を知るにつけ、しきりに思う今日この頃である。


[追記]この文章のゲラの段階で、四月十八日、とうとう(ヤッパリ)カロ・バロッハもアカデミー入りを承諾したというニュースが入った。鳴呼!


「地中海学会月報」、第八〇号
                一九八五年五月