内側からビーベスを求めて (二)
前回の「ビーべス論(一)」において、「拙論の狙いは、ウナムーノからカストロにいたる “生の理念” の生成発展の流れをいま一度検証しなおし、それを援用しながら、具体的にビーべスの “生” を考察すること、特に教授職辞退問題を突破口として、彼の生を内側から見てみることである」と書いた。しかしその後、日本放送出版協会から出版予定の『栄光のスペイン黄金時代』(仮題)のために書いた「スペイン黄金時代の思想」という文章の中で、「ウナムーノからカストロにいたる生の理念の生成発展の流れを検証する」作業の一部を終えてしまったため、今回は、教授職辞退問題を中心に話を進めていきたい。
ところでビーべスの生を内部からとらえようとするとき、もちろん彼が書き残した作品がとりあえず最大の手がかりとなるが、しかしなかでも重要になってくるのは、彼が書いた書簡群であろう。さしあたって筆者が読むことができたのは、1978年にエディトーラ・ナシオナル社から、ホセ・ヒメネス・デルガードの編集によって出版された『書簡集』である。この書簡集には、1514年にパリで書かれたビーべスの手紙から始まって、合計195通の手紙が収録されている。すべてがビーべスによって書かれたものではなく、中にはエラスムスやトマス・モアなど当時ビーべスと親交のあった著名人によるビーべス宛の貴重な書簡も含まれている。
しかし私がとくに注目したいのは、ほとんど4分の1を占めるクラネべルト宛の書簡群である。もちろんこれに注目するのは、数の多さではない。ビーべスとクラネべルトの関係は、他の人たちのそれに比べてはるかに密度の濃いものであり、したがってクラネべルトに対してビーべスはかなりの程度まで内面を明かしているからである。とくに教授職辞退問題、結婚、そして彼が日頃何を考え何を悩んでいたかなどを知るための(もっとも父の焚刑に関しては、前稿でも指摘しておいたように、一種の捏造が行なわれており、必ずしもつねに真実を吐露しているわけではないが)貴重な資料を提供してくれる。
ところでクラネべルト宛書簡は合計48通残っている(デルガード編集になる前記書簡集には、他にも両者共通の友人フワン・フェヴィンがクラネべルトに宛てた手紙が一通、そしてビーべスの死後、クラネべルトが教皇パウロ三世に当てた手紙が一通収録されている)。それらの大部分は、現在もルーバン大学に保管されているが、実を言えば1914年、つまり第一次世界大戦のときに、大学の図書館が焼失し、そのとき危うく、クラネべルト関係の269通にもおよぶ書簡も焼失するところだったのである。そのときの火災が原因で、手紙の多くは焼け焦げなど、部分的には判読不可能なものとなってしまった。また、第二次世界大戦の最中の1940年には、進駐してきたドイツ人が手紙の束の中から一部を持ち出してしまった。ともあれ平和の使徒であった彼の書簡が、二度も世界的規模の戦火を潜り抜けて後世に伝えられた事実はまことに象徴的なことと言わなければならない。なお彼の書簡の多くは、筆記者によって清書されたものである。また筆者は当時の郵便制度、郵便事情についてはつまびらかにしないが、少なくともビーベスの場合、職業的な郵便配達人によって手紙が運ばれたときもあるが、その多くは宛先地に旅する友人や知人にことづけられたようである。
さて以下、クラネベルト宛のビーベスの手紙を年代順にたどりながら紹介し、必要な場合はそれにいくつかのコメントをしていきたい。なお、教授職辞退事件に関しては、さらに、第三者によって書かれた重要な手紙をも傍証として紹介するつもりである。
最初の手紙は、1519年l2月末、最後の手紙は1530年1月末のものであるから、約十年にわたって両者の交流の記録が残されているわけだが、デルガードも言うように、これが全てであるとは思われない。まだ新たな書簡発見の可能性は残されているのである。
※以下に記す初めの番号は、『書簡集』につけられている番号、かっこ内の番号はその中からクラネべルト関係書簡だけを選び出して筆者が付けた通し番号(48+2ということで50までつけた)である。
〇20[1] 1519年12月末、ルーバン発信。
現存する最初のクラネべルト宛書簡である。クラネべルトという人がどういう人物であったかについては、資料が乏しく詳しくは分かっていないが、デルガードによれば、彼は最初ルーバン大学の教授で、のちメへレン市におけるカルロス五世の帝国評議会の議長となった人である。もしそうであるなら、両者が知り合ったのは、ビーべスもしばらく講師を勤めたルーバン大学においてであるということになる。ともあれ書簡を通じて浮かびあがる彼の人物像は、誠実で良き家庭人であり、またビーべスの思想の良き理解者であったということである。ビーべスは新しい作品が出るたびに、彼からの批評をいちばん頼りにしていたようだ。年齢は、おそらくビーべスより少し年上ではなかったか。結婚も彼の方が少し早かったようだ。最初の頃の手紙には、彼の職業が何であるかは明記されていない。
〇37[3] 1522年1月、ルーバン発信。
この3通目の手紙は、1914年8月24日から26日にかけてルーバンへのドイツ軍進駐によって起きた火災で一部判読不可能となっている。
〇41[4] 1522年6月24日、ルーバン発信。
この手紙の中で、三晩続けて不眠に苦しんでいる様子が書かれている。
「この手紙を書いている今もいま、どうも調子を崩しています。というのは、不眠が続いての三日目の夜だからです。眠りは小生に対して機嫌をそこねているのですが、なぜだか分かりません。もし不眠が小生に休戦をもちかけてくれないなら、結果として小生の身体の中には今より大きな痛みが残されているのでは、と恐れています。そんなことは神もアウグスティヌスもお許しにならないように。というのは、今度の苦しみは、まさにアウグスティヌスのせいでもあるのですから。でも彼のためなら、むしろ喜んでこの苦しみを耐えようとは思っていますが」。
ここで言われているアウグスティヌス云々は、このころ最後の追い込みに入っていた『神の国』注解の仕事である。前回の年譜では1521年完成としておいたが、翌年に仕事を持ち越したことがこの手紙で分かる。次の7月8日の手紙でもそのことが確認される。
初めて末尾で、クラネベルトの当時の肩書きである法律顧問に言及している。
〇42[5] 1522年7月8日、ルーバン発信。
前述のように『神の国』完成に苦しんでいる様子が語られている。その部分だけを抜き出してみよう。
「親愛なるクラネべルト、これまでたびたび手紙が書けなかったのは、『神の国』の最後の詰めに夜を昼に継ぐ生活を続けていたからです。そんなわけで、哀れなことに、アウグスティヌスの “国” を建設する一方で、自分の体をこわすことになるのではないかと恐れています。しかしルーバンに帰ってからは、貴兄からの手紙を受け取る前にこちらからこうして先に手紙を書いているわけです。ところで貴兄はエラスムスから小生に宛てた手紙を読んでどう思うでしょう。今日も一通受け取りました。なんと苦く、なんと要求が多く、またなんと卓見に満ちた手紙でしょう!フロ―べンからは矢の催促があり、仕事の残りを締め切りに間に合わせなければ、作品は今のままの状態で出てしまうことになります。つまり16巻までの注釈だけで、形にならない末完成のままで出版されてしまうでしょう。ですから、明後日か、少なくとも日曜日には使いの若者に作品を渡すつもりです。フランクフルトの書籍市に間に合うように、9月までには完成させなければならないからです。仕事が一段落ついたら、また長いおしゃべりに戻りましょう」。
文中フローべンとあるのはエラスムスなど当時の人文学者たちの著書を出版した有名なドイツの印刷出版業者の名前である。
前回の年譜の1521年の項に「8月にブリュージュを訪れたトマス・モアの紹介で、イギリス王へンリー八世の妻カタリーナ・デ・アラゴンからの年金が与えられる」と書いたが、この手紙からも分かるように、最初のイギリス訪問は1522年であったようだ。ボニージャ・イ・サンマルティンは、最初のイギリス訪問を1523年としているが(前掲書、p.165)、明らかに間違いであろう。おそらく彼は、この手紙を見る機会がなかったと思われる。
ところで手紙には次のように書かれている。
「旅行そのものは、ロンドン滞在に比べるなら、それほど不快なものではありませんでした。しかしロンドンはどこもかしこも同じで、つまり薄汚れて、不快で、まったくぞっとしない街でした。きっとこの街の性格と私の性格とは頭のてっぺんから足の先まで折り合い悪くできているのでしょう。小生に微笑みかけたことなど一度もないのはどうしてでしょう。こんな不快な思いをした街は他にはありません」。
末尾の挨拶に初めてクラネベルト夫人への挨拶の言葉が見られる。
※ところでちょうどこの頃、アントニオ・デ・ネブリハが亡くなるわけだ。いつビーべスは彼の死を知ったのであろうか。前回の年譜では、ネブリハの死を、ボニージャにならって(前掲書、p.153)7月としたが、しかし次に見るように、アルカラ大学からの誘いの手紙の日付が5月となっており、計算が合わない。
ともあれ、ここで当のアルカラ大学がビーべスにどのような誘いをかけたのか、その全文を見てみよう。
〇41 1522年5月、アルカラ・デ・エナーレス発信。
「私どもの大学で大きな賞賛と学生たちに対する多大の稗益のうちにラテン文学の講座を主宰しておりました類稀な博識の人アントニオ・デ・ネブリハが亡くなったあと、この卓越せる教授の後継者としてふさわしい人を後任として任命できないものかと私どもなりに努力してまいりましたが、折りしも、フワン・べルガラ氏(かつてシスネロス枢機卿の秘書だった人)からの手紙を受けとりました。その中で氏は、貴兄ご自身に関するきわめて適切な証言――貴兄が学識豊かで人文学に精通しておられること――をしてくれました。つまり氏の判断では、貴兄がこの文学講座にさらなる栄光をもたらしてくださるということ、そしてわが大学の熱心な学生たちにとってもきわめて有益な方となるだろう、そして学識あると同時に賢明でもあったネブリハ教授に対する私どもの敬慕の念をも満足させてくださる方である、ということです。べルガラ氏のお考えでは、貴兄のような博識に満ちた、そしてあらゆる点でネブリハ教授に似た方は他にはいないというもので、私どもの中からも前述のような願いをかなえて下さる方は他にはいないのではないかという意見がわき起こりました。私どもの中にも、この教授職を埋めようと願い、そしてしかるべき時期までに選出されることを要請している学識経験豊かな候補者がいないわけではありませんが、しかし私どもとしては貴兄のことを考慮して(選考委員からの提議なしには異例のことですが)、待別な処置として、この際貴兄に競争者なしに講座を提供する機会を逃したくありません。
それで私どもは、友人べルガラ氏に対して、私どもに代わってこの教授職の意味するところと年俸、要するに貴兄に出される条件について手紙を書くよう委任することとなりました。氏が貴兄に書かれることは私どもが書いているとお思いになって、氏が貴兄に勧めることは私どもが勧めているのだと信じていただきたい。この件に関して私どもは貴兄のご決断をなるたけ早く知りたいと願っておりますが、それはひとえに貴兄のご配慮にかかっております。 敬具」
〇42[5] 1522年7月8日、ルーバン発信。
この手紙で初めて、宛名が法律顧問クラネべルトとされている。どこの法律顧問か、この手紙だけでは分からないが、後の手紙にはメへレン市法律顧問となっているから、おそらく彼自身のそれまでの居所もメへレン市だったのであろう。ビーべスの方は、最初はブリュージュ、次いでルーバン大学で教えるようになってからは両市のあいだを行ったり来たりし、結婚とともに最終的にブリュージュに落ち着いたと思われる。
※ さてアルカラ大学からの招請状のあとにいよいよべルガラ氏からの、さらに詳しい手紙がビーべスのもとに届くわけだが、前述したように、べルガラ氏からの手紙が9月となると、やはりネブリハの死は、ボニージャの言うとおり7月であり、大学からの手紙はその後とするのが自然であろう。するとこれに限って言えば、デルガードの間違いということになろうか。ともあれ、べルガラ氏の手紙を全文、次に紹介しよう。ただし、デルガードもことわっているように、一部どうしても意味がとれない個所があり、そこは大体を推測するしかなかった。
〇47 1522年9月6日、バリャドリード発信。
「神学者フワン・デ・べルガラから、いと博学にして友なる哲学者フアン・ルイス・デ・ビーべスへ。
小生の仕事、ならびに郵便配達人の急かしもあって(貴兄の友人ニコラスが言うには、この郵便配達人は自分の意志に反して当地に長逗留したそうですのでおさらのこと)、この手紙 で簡潔かつ大急ぎで、この大事な用件を貴兄にお伝えしなければなりません。小生が貴兄ならびに貫兄の学問や生活態度をいかに高く評価しているかは、小生の思い過ごしでなければ、貴兄にも即座にご理解いただけたものと存じます。もしそうでありますなら、今回の手紙で小生のお伝えしようとしていることの真意も、貴兄に相応にご理解いただけるのではないかと愚考いたします。と申しますのは、小生がご相談しようと思っていますことは、どのような学者であれ、富よりも優先されるべきと考える家族の問題でもあるからです。ともあれ、くだくだしい前書きはこのくらいにして、さっそく本題に入りましょう。
斯界の重鎮であったと同時に偉大な博学の人でもありましたアントニオ・デ・ネブリハは、齢満ち名誉に包まれて、また揺るぎなく続く名声に囲まれて亡くなられました。これあたかも、彼が栄誉と名声の道半ばにして倒れたかのように、すべての善意の人にとって大きな悲しみとなりました。アルカラ大学の人たちは、当大学で大きな賞賛のうちにラテン文学を講じていましたアントニオ、正確な判断力というよりすべての善きものに対する愛にみちびかれていたあのアントニオ、の後継者にふさわしい人を探していましたが、小生は最初からむしろはっきりと大学関係者以外の人へと考えが傾いていました。事実、この手紙を書いている今もいま、宮廷での用事にせかされてアルカラに行ってきたところですが、事態をよく見極めた上で、目下小生の気持ちは貴兄に狙いを定めています。小生の考えでは、あの重責を担うことができるの は貫兄しかいないのです。なぜと言って、人々から期待される有名教授の仕事はけっして楽なものではないのですから。それで小生はすぐアルカラ大学の文学部教授会に対して手紙を書き、こうして推薦問題に口を出すのは小生の日頃の生活信条にまるで反することではありますが、貴兄についての小生の考えを大いに弁じた次第です。つまり貴兄が他のだれにもまして、教授会の栄光のためにも、また若い学生たちのためにも大いに尽力してくださる方だと保証したのです。そしてもし礼節をわきまえた条件のもとに教授職が提供されるなら、貴兄はきっとその申し出を受け入れてくださるはずだと付け加えておきました。
ですから、教授の任命をそう簡単に延ばすことはむつかしいとは重々承知していますが(つまり慣例によれば選出のための時間は限られているのですから)、貴兄に手紙で相談するあいだ、少々の遅延はどうか勘弁願いたい、とお願いしておきました。当の学生たちのためにもこの特例を認めていただきたい、もしふさわしい後継者を見つけないなら、あの偉大な教授ネブリハに対してたいへんな忘恩となるでしょうから、教授の冥福のためにもこの条件を呑んでいただきたい、と書いたのです。また小生も彼ら教授たちのあいだではいくぶんかの権威を認められていますが、その小生の顔も立てていただきたい、とも書きました。その手紙に対して彼らからまだ返事はありませんが(つまり出してからまだ大して時間も経っていないので)、小生とひんぱんに付き合いのあるアルカラの友人たちとの会話や接触を通じても、あるいは今回の件の性質からしても、小生の意見が彼らに尊重されるであろうと確信をもって言うことができます。アルカラ大学が今度のことをどのように考えているか、彼らの手紙を見るまでは、小生の方からは何も言うまいと思っていましたが、郵便配達人がもたらしてくれたこの好機を利用して、今度の問題を広い観点から貴兄に説明してもいいのではないか、と考え直しました。そのわけは、まず第一に、貴兄にもっと考える時間を与えるため、彼らの側にもむだな時間が過ぎないためです。また小生は、今の段階でもわずかな言葉で、貴兄がこれなら考えてみてもいいとお考えのような条件についてはっきりお話しすることができます。小生の考えでは、貫兄には年俸200フロリンが提供されるでしょう。また快適な生活ができる家が供与され、他にも、もし貴兄がそう望むならの話ですが、毎日の特別課外授業を持つことも許可されるでしょう。そのようなわけですから、彼らにあまり返事を待たせないよう、よろしくご検討ください。小生の仲介のせいで彼らが長いあいだ待たされるようであれば、小生としても辛いところがあります。
ところで、貴兄の友人ニコラスは、貴兄が “大時化の海の” 荒波を恐れているのか、よもや船旅はしないのでは、と疑っているそうですが、ほんとうでしょうか。哲学者殿、しっかりしてください。いま安全な家の中で震えておられるなら、実際の暴風雨の中でほんとうにロープが鳴り舵がきしむときに、いったいどんな青ざめかたをするというのですか。春や夏と違って、冬なら(ニコラスにはすでに言ったことですが)海に乗り出すことは確かに恐ろしいものでしょう。ところが彼が言うには、貴兄はこの季節でも、ましてやこの穏やかな天候の中でも恐怖心を持っておられるというではないですか。だから小生は彼に言ったのです。“口から出まかせに馬鹿なことは言わないでくださいよ。そんな臆病な魂の中に哲学が宿るはずがないではありませんか” と。こうして冗談まじりに、貴兄のことを真面目に心配しているニコラスをどやしつけてやりました。ともかく貴兄に関するかぎり、もし今度の提案が気に入ったと返事をくださるなら、出発は来年の3月もしくは4月末まで延ばすことができます。なぜなら、旅行者があふれる時期ではありますが、その頃なら貴兄に注意を払う人はわずかでしょうから。 しかし小生の見るところ、貫兄はどこぞの不実な男より精神的にははるかに優れたストア主義者であることを証明してくれるはずです。
ネブリハに委ねられていた『スぺイン史』執筆の約束は、シチリア出身の詩人であるドミニコ会士が後を引き継ぐことになりました。つまり今回、あのなにかと評判の悪いべネディクト会士のセべロがアルバ公爵の孫たちの家庭教師を引き受けましたが、彼の前任者がそのドミニコ会士だったというわけです。ところでそのドミニコ会士は、かつては王の年代記作家として振る舞い、自分は現代の歴史を書いているんだと言い、そして人々にそう見られることをとうぜんのこととしていました。しかしぶちあけた話、以前は隠れていて見えなかったもの、つまり “報酬のこと” がからんでいて、前任者が死んだ時点でそうした名誉が彼に与えられるという約束があっただけの話なのです。それゆえ彼は、信用を失ってしまいました。もしそうでなかったら、いまも彼は人々をうそっぱちの信用で呪縛していたかもしれません。金モールの縁飾りのついた頭巾をかぶっている人たちの運命など、しょせんそんなものです。
小生からエラスムスにどうぞよろしくとお伝えください。もしそちらにいらっしゃらないのであれば、手紙でなりとついでの折り、よろしくお伝えください。学者であれそうでない人であれ、あるいは教会関係者であれ一般信徒であれ、私どもスぺイン人の彼に対する賞賛の念はとても大きなものです。小生がブリュージュ滞在を終えてスぺインに帰国する直前、貴兄に手紙の束を託しましたが、そこにはエラスムス宛の一通の手紙と彼の『護教諭』への反論としてローマで出版された一人のスぺイン人神学者の本を入れておきました(エラスムスのその本についてはすでにスニガが反論をしていますが)。少しあと今度はイギリスのアントナの港をスぺインに向けて船出しようとしているとき、同じく貴兄にもう一つ別の包みを託しましたが、その中にもエラスムス宛の手紙、スニガの『エラスムスの不信心と冒涜について』と題する小品をことづけました。貴兄の誠実さと勤勉さからすれば、貴兄が間違いなくすべてを名宛人の手に渡されたことと存じます。しかし貴兄がほんとうに小生を愛してくださっているなら、エラスムスがすべてをきちんと受け取ったことをお知らせください。
ところで冒頭小生は、この手紙が簡潔にならざるをえないとお断わりしておきましたが、今はむしろ冗長になり過ぎたことを謝る必要がありそうです。貴兄とお話ししたいという押さえ切れない欲求が、このように小生を夢中にさせ駆り立てるのです! 令名赫々たるフォンセカ氏に小生からの心からなる挨拶をお伝えください。また親愛なるディエゴにもどうぞよろしく。 敬具」
さてこの手紙にはいくつか説明を必要とする人名が出てくるので、少し解説を加えておこう。まず、文中ニコラスとあるのは、かってパりからフランドル地方にやってきたビーべスの身元保証人であったべルナルド・バルダウラ(ビーべスはかってこの人の家に下宿し、そして2年後にはその娘のマルガリータと結婚することになる)の兄弟、つまりビーべスの義理の叔父になる人である。
この手紙から察するところ、この頃ニコラスはバリャドリードに滞在していたような書きぶりであるが、ほんとうはどうであったのか。またスニガという名前も出てくるが、彼(Francesillo de Zuniga, 1490ころ-1523)はスぺインの作家でカルロス五世に仕えた人。『皇帝カルロス五世の滑稽年代記』(28)で、当時の貴族階級を皮肉をこめて攻撃あるいは戯画化したことのある人である。
〇49[7] 11月8日、ルーバン発信。
宛名に、次のような表現が新しく付け加わる。Eximio y excelentisimo doctor en ambos derechos, miembro del Consejo del Senado de Malinas(メへレン市評議委員会委員にして市民法・教会法博士)
〇 50[8] 1522年12月初句、ルーバン発信。
新居が幸福をもたらすものであるように、と言っているところから、クラネべルトが転居したらしい。
〇 53[9] 1523W年1月4日、ルーバン発信。
「君が当地に来たのに僕に会いに来なかったことを知って、僕がどれほど深い悲しみに沈んだかご存じですか。僕はそのことを知るや否や、下男をやって、翌日僕の方から君の家に行くからとことづけました。事実僕は行ったのですが、君はなにごともなかったかのように出発した後でした。僕がこれほどにも残念がっているのは僕の方から挨拶もできないうちに君がいなくなったからというより、君に会って話をすることができなかったからなのです。これはずいぶんと馬鹿にした話ではありませんか。君への訪問と君との会話が僕の悲しみのあらかたを和らげることができたのに。しかしそう考えてみるなら、実際に君が出発してしまったという事実をいくぶんかは耐えることができそうです。というのは、僕はたとえ君に会うことによって慰められ気分が軽くなったとしても、君の方で背負うのは、嘆きだけだろうし、僕たちがたがいに抱いている愛情によっても、君は僕の苦悩に染まって出立することになるだろうからです。
男の兄弟のうちでただ一人の男のきょうだいである弟が福音史家聖ヨハネの祝日に死んだという知らせが入りました。しかし運命の一撃はこれだけはありません。僕の父も重病にかかっており、きわめてわずかな希望のうちに死んでいくしかないということです。つまりきわめて深刻な訴訟沙汰が起きており、僕たちの財産に対してひどい仕打ちがなされたということです。僕の三人の女きょうだいは、まだ年端もいかないのに貧しさの中に取り残されてしまいました。君にはいつも苛酷な運命についての嘆きを伝えなければならないのは残念です!一つでも愉快な報告があればいいのですが!運命の神々は、もしかしてこのようにひっきりなしの不運を見舞うことによって、いつの日か僕の軽蔑の対象となりたがっているのだろうか? 神々の悪口を言うのは適当ではないし、そのための時間もない。彼らの本性はそのようなものだと承知して、どうにも仕方のないことはできるだけ不快な気持ちにならずに引き受けることにしよう。
といってそのような知らせで僕の心の苦悩と不安が増大したことには変わりがない。というのは、僕はスぺインのことが気掛かりで、将来に向けて決定的な決断を下す勇気が出てこないからだ。このような状況下で、スぺインに行くべきか、それとも当地に留まるべきか、自分でも分からないのです。家族の者たちにとって僕が居合わせることがどうしても必要なことなのかどうか、それが分からない。そんなわけで僕には内省する余裕さえ残されていない。事態の推移がこれほどまでに僕たちを縛っているということだ!
親愛なるクラネべルト、君のためにはひじょうに幸福で愉快な一年を、そして僕のためにはかくまで大きな災厄に対するなにがしかの解決策を祈る。たしかに、運命の女神がだれかを惨めにすることができるというなら、先だって来のこの僕以上に,惨めにした相手はいないでしょう。でもこれは僕たちが哲学に対して持っている借りのようなものかもしれない。つまり僕たちが、自分を育成し守ってくれるように、哲学にすべてをまかせた後に、今度は哲学の方がその力を全て用いて僕たちに対して仕掛ける罠のようなものなのかも知れない。今日はこの辺で失礼しよう。もう一度、僕からメへレンの学部長によろしくと伝えてくれたまえ。彼は、その人柄の良さゆえに、僕がますます親愛の情を深めている相手だ」。
※ 兄弟の死と父の重病、財産没収(?)のことが書かれているが、これらをすべて額面どおりに受け取ることはできない。しかしスぺインにいる彼の家族に異端審問所の魔手がしだいにのびていることだけは確実である。
〇56[10] 1523年1月28日、ルーバン発信。
末尾に、数日中にブリュージュに向けて出発すると書いているが、事実それ以後、発信地はほとんどのものがブリュージュとなっている。
〇58[12] 1523年3月15日、ブリュージュ発信。
「友人たちとの楽しい語らいのうちに日を送っていますが、しかし彼らの示してくれる友情にもかかわらず、いかなる解決策を講じるべきかが分からないため、僕の精神はにがい苦しみを味わっています。故国に帰りたくはないが、かと言って当地に留まることもできない。故国からは今また帰国するようにと手紙で言ってきています。でも、そのための費用のことを考えると二の足を踏みます。また待ち受ける危険が僕をぞっとさせます。波間に漂う難破者にとって、いったいどんな静穏があるか考えてもみてください。静穏が無いところに何の学問でしょう。また静穏なしに、あらゆる愛情の源たる喜びと熱誠が存在するはずがありましょうか。
あゝ、鉄の時代よりも劣った時代よ!おゝ、心広きユリシーズよ――もし汝が純然たるホメロスの創作でなかったなら――というのは、汝は己れの進むべき道を持っていたのだから!僕には運命以外に他の定めがないので、行く手を阻むものは最大規模のものと言えます。貴兄がトルコ人たちについて書いていることは、僕も知っており、心が痛みます。僕も事態が打開されることを望みますが、しかしほとんどそれに希望を持っていません。キリストが私たちを救ってくださらんことを。人がもし苦悩に身を委ねようとすれば、そこには限界がありません。さようなら。ご家族の皆さん、そして学部長によろしく。貴兄の前信に対する返事は、貫兄の同郷の友へラルドに頼みました。彼は貴兄や小生にたいへん関心を持っている人です」。
〇59[13] 1523年3月17日、ブリュージュ発信。
「 (前段省略)静穏を享受する者たちは幸いなるかな!という僕のあの叫びは、あれら幸福な人たちについて言ったのですが、ある意味では君についても言ったわけです。(君も含めて)そのような人たちは、自分の中に感じている内的情動によって煩わしさを感じることはなく、ただ外からやってくる面倒事が彼らを苦しめるだけなのです。絶えず回転する天体がみずからに害を及ぼすことがないように、火や空気や水も自らの力によって動きを与えられますが、だからといってエネルギーを奪われることはなく、かえって力を増大させます。それと同じように、君たちも自分たちの衝動そのものによって(つまり空しく不確かな欲望の奴隷としてではなく)動きを与えられています。君たちを養っているのは、美しさに欠けることのない外的実践、もっと正確に言うと、毎日のように君たちになにかしら新しく素晴らしいものを提供してくれる例の変化に富んだ光景が君たちを養ってくれている。そうした光景を見たあとであっても、君たちの精神は躍動し、家にいても暇を持て余すということがない。奥さんや子供たち、そして家族に注意を払うことを可能にしてくれ、彼らからはただ君たちに対する尊敬の念だけを要求することができる。したがって君たちは、君たち自身の仕事に没頭することができる。
君たちは思い煩いそのものに対しては、まるでそれが微風でもあるかのように、それにむしろ喜びを見いだし、君たちの資質が付ける火は燃え広がり、暖め、こうして無為によって妨害されたり火を消されたりすることを許さない。こうした事の推移によって、各自はより快適な状態にある。というのは、そこに変化があることによって、嫌悪感が除かれるからです。ところが僕たちは、思いもかけない時にとつぜん襲ってくる夏の嵐の突風の中でのように、しばしばひどい眠気に憔悴しきって、吐き気を催したり、むかつきを覚え、手当たり次第にしがみついたり、あちらこちらとうろたえ、大いに嘆いてみたり、悲嘆にくれてみたりする。そしてそれまで絶対確実だと信じていた物事の状態そのものが引き起こす思ってもみなかったような災害を前にして、動揺するばかりか、完膚なきまでにおちこんだ自分たちの姿を見いだすという始末。君がふざけてストア哲学者と呼んでいる僕たちが、根かぎりに守ろうとしているもの、勇気を奮って抵抗しているものすべてを、運命の女神はさらに大きな力でもって、僕たちのみじめな力を、あるいは僕たちの砦を攻め落とすさまざまな武器を思うがままに操る、こうして運命の女神は、僕たちが徳という盾をもってしても自分たちの身を守ることができないことを、むしろ彼女の方が僕たちの行動をわがもの顔に制御していることを分からせようとしているのだ。彼女に逆らう者は、ついには彼女が命じることをしなければならなくなる。あゝ、もしも僕が、君が言っている (冗談なのか真面目に言っているのか知らないが) あの力を持っていればいいのだが!
(中略)
魅力あるわが良き友、クラネべルト、世にある奥さんがたの中でもっとも素敵な奥さん、そして君の最愛の子供たちによろしく。」
〇62[14] 1523年5月10日、ブリュージュ発信。
「貴兄に対する尊敬の念がきわめて強いため、僕の沈黙の言い訳を探そうとすると今回の言い訳がかつてないほど正当かつ充分なものであるにもかかわらず、とたんに汗が出てきました。といってこれは僕たちの大きく類稀な友情と相互的愛情に関して貴兄がなんらかの疑いを抱くことができるという意味ではなく(そんなことは貴兄はとうにご存じであり、またこれまでもいつも実証済みのことですが)、貴兄という掛け替えのない友とできるだけ頻繁に語り合うことが、そして賢明さに満ちた貴兄の手紙によって僕の心の苦渋が和らげられることが必要なことだったからです。ダメージを受けたのは僕一人なのですから、貴兄はそれが僕のせいでなかったと想像することができます。なぜなら、僕がそうしたダメージを望んでいるわけでもないし、それらとは反対の善に無頓着で生きているわけでもないからです。しかし僕の上に一つの不幸が重くのしかかっています。それは僕に対してあらゆる種類の慰めへの道をふさぎ、どのような鎮痛剤も与えずに、いっそう冷酷無比に僕を苦しめるのです。
明日、イギリスに向けてブリュージュを立ちます。向こうに着いたらモアと君の友情にふさわしい心からの挨拶を彼に伝えるつもりです。イギリスから、今度は船便を使ってスぺインに渡る計画です。というのは、陸路ではこんな物騒な世の中ではとても無事ではすまされないからです。出発をいままで延ばしてきたのは、スぺインからわずかでも希望の光が差さないかと期待していたからです。すべては闇であり夜ですが、しかしその闇は出来事の中にあると言うより、僕の精神そして僕の決意の中にある。つまり僕の苦悩の激しさがすべての精神と決意を根こぎにしているのです。なかには、これらすべては僕の魂の罪滅ぼしのために起こっていることだとまで言う人がいます。願わくはそのような罪滅ぼしが彼ら自身を襲うことがありませんように! しかし泣きごとを言うのは止めましょう。(後段省略)」
※相変わらずスぺインにいる家族のことが彼の心に重くのしかかっているようである。しかし不思議でならないのは、スぺイン王を初めとして、各国の高官たちとコネのあるビーべスが、どうして故国の家族たちのために尽力しなかったのか、ということである。この意味で興味深いのは、彼が王侯貴族に学者として仕えることをどう考えていたのかを示す次の書簡である。
〇67[15] 1523年聖マルティンの祝日(11月11日)、オックスフォード発信。
「僕の生き方からすれば、王侯たちに仕えること以上に気に入っているものを見つけることはできません。それは確かに無視することのできない奉仕の一形態です。僕はあらゆる種類の学問を受けた偉大な、そしてあらゆる賞賛に値する友人たちを持っています。君だって、モアのような人たち、リナカー [1460ころ-1524、イギリスの医者、オックスフォード大学で医学を講じ、へンリー八世の侍医。王女メアリのため『ラテン語文法』を著す]、タンスタル [1474-1559、イギリスの聖職者、学者。彼の著したラテン語の算術書は、イギリス最初の印刷本算術書として有名]、ラティマー [1485ころ-1555、イギリスの聖職者、殉教者。へンリー八世の離婚問題では王を支持したが、のちロンドン塔に監禁され、異端者として焚刑に処せられた]、などをご存じです」。
つまりこのような人たちの生き方を肯定し、自分をもその列に加えているのである。たしかに、当時学問をするには、大学教授などの定職につかないかぎり、ビーべスのように王侯貴族の恩顧を受ける以外の道はなかったのであろう。それにしても、前述の疑問はビーべスの複雑な性格を知る上で一つの闇を構成していることに変わりはない。
〇78[17] 1524年5月第一日曜日、ブリュージュ発信。
この手紙には結婚する予定が語られている。
「親愛なるクラネべルト。イギリスで受け取った貴兄の手紙に対して今まで返事を書きませんでした。というのは、ブリュージュに帰り着くまですべてを延ばしていたからです。それに例の注釈のこと以外に、貴兄にとりわけお伝えすることがなかったからでもあります。おかげさまで先週、無事元気に、しかし馬車や船の旅にいささか疲れ果てて、ブリュージュに帰ってきました。
確かもう何度かお伝えしたかと思いますが、結婚しようと考えています。そうです、今月の下旬に結婚します。この結婚がいい結果をもたらしてくれればいいのですが。小生の妻となる人は、べルナルド・バルダウラの娘です。小生が彼女を選んだのは、彼女の財産や美しさのためではなく、彼女が実に模範的な母親と祖母の薫陶よろしく素直に誠実に育った女性であるという点です。また彼女の父親の人の善さ、そして12年間におよぶ付き合いと同居の結果です。もちろんこの結婚で小生の目的とするところはキリストに倣うことですから、願わくは小生がこの決断を将来けっして後悔することがないよう、キリストが守ってくださることを期待しています」。
またこの手紙の最後には、トマス・モアに触れて次のように言っている個所がある。
「モアが貴兄によろしくと言っています。彼は貴兄に心からの幸福を願い、また奥さんに6個の銀製の指輪を贈るそうです。親しい人たちに分けてくださいということです。それらはイギリスの習慣に則って、祝福済みのものです。この手紙に同封してお送りします。さようなら」。
これを読むと、クラネべルトは、モアとも非常に親しい関係にあったことが分かる。
〇79[18] 1524年6月9日、ブリュージュ発信。
結婚生活が幸福なものであることが行間に読み取れる次のような個所がある。
「貴兄は小生の結婚を祝ってくださいましたが、小生の方でも新たに誕生した貴兄のお子さんに祝福を送りたいと思います。つまり貴兄の方では葉に対する、そして、小生からは果実に対するお祝いを、すなわち貴兄は小生の春を、小生は貴兄の秋を祝っているというわけです。
小生は貴兄の言う例の語原的な説明 [これは結婚という言葉についてのことか?] に十分満足していますし、それに賛成です。そうした解釈がもっともっと広まりますように。小生も、若い妻の善良さ、また彼女の両親の善良さ、さらには小生が結婚への決意をかためたときのその心の動きによっても、貴兄の意見にまったく賛成です。このところ貴兄はいままでの習慣に反して沈黙を守っていることを、小生実に不思議に思っております。なぜなら、貴兄の手紙は、喜ばしい時にはこの上なく嬉しいものであり、悲しみの時には大いなる慰めとなってくれるからです」。
※ またこのころ書かれたエラスムス宛の手紙にも次のような個所が見られる。
〇81 1524年6月16日、ブリュージュ発信。
「聖体の祝日 [復活祭から数えて60日日に当たる祝日だから、6月ころになろうか] にとうとう女性の軛につながれる身となりました」。
〇88[22] 1524年12月2日、クラネべルト宛書簡。ロンドン発信。
「(前段省略)スぺインについての僕の報告は実に悲しい内容のもので、多くの場合、それらの知らせは僕をしてぺシミズムへと駆り立てます。君にこの手紙を書いている今もいま、僕の祖父が死んだという悲しい知らせが届いたところです。この祖父は、僕がたいへん愛していた祖父で、自分の家のことと同じくら僕の家の面倒をみてくれた人です。こんなにもたくさんの打撃をもたらすと、運命そのものもついにはその効力を失う、つまり堅くなった魚(うお)の目を叩くようなことになってしまいます。ともあれ神が僕にいちばんいいことを配慮してくださらんことを。人間本性が苦しみの果てに耐えることができなくなるということ以上に恐ろしい嘆きの理由はないのですから。(後段省略)」
※もちろんこの時亡くなったのは、というより焚刑に処せられたのは、祖父ではなく父である。クラネべルトのように親しい友人にさえ真実を隠さざるをえなかったビーべスの心中の葛藤の大きさが、これをもってもうかがい知れる。
〇93[24] 1525年1月25日、クラネべルト宛書簡。オックスフォード発信。
「運命の女神は、おのれの本性に忠実に、僕の父ならびに僕の家族全体、そして僕自身をも、相変わらず徹底的に痛めつけています。というのは、彼らに対してすることは、この僕に対してすることになるからです。つまり僕は僕自身に負けず劣らず彼らを愛しているからです。しかし僕たちのことをすべてその法の下に統御なさっている至高の創造主なる神は、すべての出来事の理由と原因を知っておられるばかりでなく、また沈黙のうちに忠告し慰めてくださり、あらゆる逆境を心静かに耐えるよう、厳しく命じておられるのです」。
〇96[26] 1525年5月27日、ブリュージュ発信。
イギリスからの帰国。妻が眼病を患っており、彼女が右目を失明するのではと恐れて夜となく昼となく泣き明かしている様子が書かれている。
〇98[27] 1525年6月20日、ブリュージュ発信。
クラネべルト夫人が病気から癒えたことを喜んでいる。
〇99[28] 1525年7月18~25日、ブリュージュ発信。
クラネべルト夫人が不在であることに触れているが、どうも彼女のきつい性格を仄めかしているところがあり、もしかすると夫婦の不和があったのかもしれない。もちろん、夫人への挨拶はない。
〇101[30] 1525年9月17日、ブリュージュ発信。
前回の手紙には夫人への名指しの挨拶は抜けていたが、今回はいつものとおり、夫人への挨拶がある。
〇110[34] 1526年4月13日、ロンドン発信。
末尾の挨拶で、「この上なく完全な健康に値する素晴らしい奥方によろしく」と書かれている。
〇113[36] 1526年9月初初旬、ブリュージュ発信。
末尾の挨拶に「僕の家のみんなから、貴兄の家のみんなに、貴兄ならびに僕の妹、貴兄のすぐれた(egregia)パートナーに」とあり、はじめて「僕の妹」という言葉が見られる。これ以後の手紙にもこの表現が続くが、「妹」と呼ぶような、つまりクラネべルトには「兄」という表現を使わないのに、その夫人を「妹」と呼ぶような何らかのきっかけがあったのだろうか。
〇119[39] 1527年1月15日、ブリュージュ発信。
ルーバンへの移転について触れ、事情が変わらないかぎり、その可能性はないだろう、と告げている。
末尾の挨拶では、今回も「家内から貴兄ならびに僕の妹へよろしく」と書かれている。
〇122[41] 1527年2月26日、ブリュージュ発信。
末尾の挨拶では、「私の妹へ、私から、彼女の姉妹ならびに私の義母からよろしく」となっている。
※1527年4月12日にフワン・デ・べルガラからビーべスに宛てた手紙で、「貴兄の父君の不幸[惨事とも解せる]については、とうぜんのことながらたいへん心を痛めています。しかしこのことで貴兄に対する小生の敬愛の念がわずかでも揺らぐことがあるなどとは考えないでください。私はそんな卑しい精神の人間とは違います。貴兄はすべての善意の人たちのために卓越した栄光を築き上げたのであり、その光を陰らすものは何もありません。今度の不幸は、貴兄ご自身とはなんの関係もないある状況から派生したものであり(神はこの不幸が貴兄だけにふりかかることを望まれた)、むしろ貴兄が神に感謝する機会でもあるのです。というのは、神はあらゆる種類の徳を豊かに恵まれることによって貴兄を名声赫々たる著名人にするだけでは足りないと思しめされ、むしろ貴兄の栄光を多くの人たちに伝えるための多様な機会を恵まれたわけです」とある。ということは、逆に言うなら、父親の不幸によってふつうなら両者の友情に罅(ひび)が入る可能性があったということで、おそらくべルガラは、ビーべスの父親の死が不名誉なもの(焚刑)であったことを知っていたということを意味する。親友のクラネべルトにさえ明かさなかった事件の真相は、スぺイン在住のべルガラには隠せなかったということか。
※1527年8月14日にべルガラに宛てた手紙で、ビーべスがかつて聖職の道を考えたこともあるという事実が語られている。その個所を抜き書きしてみよう。
〇129 ブリュージュ発信。
「(前段省略)十月の初めには戻るという約束のもとに五月にイギリスから帰国しました。しかし、小生にとって現在のような世界の変化と動揺の中では、すべてが不確実かつ不安定で堅固な大地の上でというより、まるでつるつるの氷の上を歩いているような感じがします。そのようなわけで、小生はほとんどその日暮らしをしており、明日のための希望をどこに求めたらいいのか分かりません。まだ小生が独身のころ、司祭職の道に進むなら未来が開かれるのではないかと考えたこともあります。しかし当時は別の計画を持っていましたので、司祭職の道からは離れました。しかし最近になっても、なにか手段があるなら、司祭職へ戻る方法はないものかと考えることがあります」。
〇130[44] 1527年8月15日、ブリュージュ発信。
この手紙の中でエラスムスをルター派の異端者として摘発する動きがスぺインにあることを告げている。また末尾の挨拶は、「僕の妹、そしてご家族のみなさんによろしく」となっている。
〇132[45] 1527年10月1日、ブリュージュ発信。
末尾は「貴兄の奥さんにして僕の妹がみごと安産でありますように」となっている。
〇136[47] 1528年5月24口、ブリュージュ発信。
クラネべルトの母親の死に対する悔やみの言葉が綴られているが、その際、ビーべスは彼特有のべシミズムを吐露している。その個所を抜き出してみよう。
「実際、この喧燥の世のただ中における死がある特別な恵みのきっかけとならない人などいるでしようか? すくなくともこの僕にとっては、生きることはたいして楽しいことではなく、もうその大部分を生きてしまったことを喜んでおります」。
またこの手紙には、イギリスで国王の離婚問題のとばっちりを受け身柄を拘束されたことに触れて次のように書いている。
「貴兄はすでに小生がイギリスで身柄を拘束されたことをご存じだと思います。動機は彼ら(つまり拘留を決定した人たち)にとっていささか不面目なものでした。なぜなら、小生は全力をあげて王妃の言い分を支持しただけのことでしたから。38日間の拘留のあと、今後いっさい宮廷に足を踏み入れないという条件のもとに釈放されました。宮廷に出入りすることは、とりわけこのような状況下では、万感の思いがあったのですが」。
〇137[48] 1528年7月14日、ブリュージュ発信。
「奥さんがこの7月に無事お帰りになったことを嬉しく思います。お二人は、時ならぬときに人生の春と夏を享受なさっているというわけです」。このことが具体的に何を指すか、これだけでは分からない。もしかすると、夫婦間に不和が生じて別居し、また仲直りして第二の春を迎えたということなのかも知れない。
またこの手紙には、エラスムスがルーバンに到着したことに言及しているが、その際のエラスムスについての描写が、このときすでに彼に対してある疏隔感が生じていることをうかがわせる。
「昨日、エラスムスがルーバンに到着したという知らせを受け取りました。いくつか実に喜ばしい仕事に恵まれつつ穏やかな老境を迎えたこの敬うべき老人が、彼を取り巻く憎悪の渦から自由になることは小生も切に祈っていたことであります」。
〇151[49] 1530年11月末、ブリュージュ発信。
現存する最後の手紙。フランドルの海岸地方に酷暑による被害、というよりそのために起こった暴風雨、出水のこと、そして海岸地帯では波浪が高く、必死の護岸工事が行なわれていることが報告されている。ところで末尾にはいつもの家族への挨拶が省略されている。この手紙以後クラネべルトへの手紙は残されていないが、両者のあいだが疎遠になったというのではないようだ。というのは、ビーべスの死後、未亡人の依頼を受けて絶筆となった『キリスト教信仰の真実について』の出版のために奔走し、 ときの教皇パウロ三世にその本を献上する労を取ったのはクラネべルトだからである。そのときの手紙の一部を紹介しよう。
〇191[50] 1543年、メへレンのクラネべルトよりバウロ三世への手紙。
「(前段省略)当地でさえ人々のうわさに上ぼることもなく、ましてやガリア・べルギカ[ライン川以南の地域。現在のオランダ]の境界を越えてはまったく無名の者である小生ごとき者が、恥じることなく聖下にお手紙を書こうという気を起こしましたのは簡単な理由からでございます。と申しますのは、フワン・ルイス・ビーべスという名の博学きわまりない人物のためでございます。彼はとてつもなく広い教養と真実の敬虔に満ちた人で、小生の大の親友でありました。小生と彼は生涯、共通の熱望と親密な友情でむすばれておりました。彼が後世に残したその才能の成果、そして他の学者たちからも高く評価されるその優秀さについての多くの証言はともかくとして、彼は自分に可能なかぎり、このあまりにも多くの不幸に満ちた時代に対して救いの手をさしのべることが義務だと信じていた人であります。事実、現代はこと宗教に関してもきわめて重大な問題が起こっており、また最重要な事柄に関しても由々しい悲劇が起こっている時代であります。彼は公共善のためにできうるかぎりのことをしようと考えたのです。彼は生涯の終わり近く、何年もかけて五巻におよぶこ の『キリスト教信仰の真実について』を書きました。
彼は本書の中で、彼の才知とその学識のすべてを動員して、きわめて柔軟かつ見事に、ちょうど死を前にした白鳥よろしく、最後の歌をうたおうとしたのです。事実、これまで発表してきた他の全ての作品以上に、本書に熱誠と丹精の限りをこめたことは間違いありません。しかしながら、本書を書き上げて間もなく結石、痛風、そして発熱の苦痛が耐え難い肉体の苦痛から彼を解放しました。つまり彼の48年におよぶ労苦から彼を解き放ったのです。彼は(私の意見ですが)ひたすら学問のための絶え間ない努力に憔悴しきって死んだのですが、その学問こそ彼がこの世でもっとも愛好したものでした。ビーべスは息を引き取る直前、本書が聖下に献上され、そして聖下によって支援されることへの望みを私どもに託しました。なぜなら、聖下は諸君主の中でもっとも高い位置を、そしてわれらのカトリック信仰のもっとも堅固な守り手という称号を誇られる方だからであり、聖下こそ本書で信仰の基礎に関してユダヤ人、異教徒、イスラム教徒、悪しきキリスト教徒たちに対して見事にかつ確実に開陳されているすべての事柄を証明してくださるはずだからです。その意図するところは、本書がもし聖下のお考えにかなうものであるなら、他の学者たちにもいっそうの関心と利益をもって読まれんがためであります」。
さて与えられた紙幅も尽きようとしている。今回は、終始ビーべスの書簡の周囲を確たる見通しがないまま彷徨する結果に終わってしまったが、それでももし拙論にいささかの価値があるとすれば、ビーべスの書簡のいくつかを初めて邦語で紹介することができたことであろう。ともあれ、ここに引用されたビーべスの書簡をざっと読んでの率直な印象はと言えば、改めて感じられる彼の複雑な性格である。つまり彼の人柄がより鮮明になったかと言うと、実はその反対なのだ。彼の生涯にまとわりついている闇の部分がいよいよその密度を濃くした感すらある。たとえばそれは次のようなことである。彼が、カルロス五世、へンリー八世など当時のヨーロッパ世界を動かしていた有力者たちにかなりの程度の影響力があったのは疑い得ない事実だが、その彼が故国の肉親たちの遭遇していた死活の危機に際して、たとえば助命嘆願など、どうして積極的に働きかけることをしなかったのか、という疑問である。
しかしそれよりももっと重大かつ深刻な疑問がある。すなわちそうした肉親たちの受難は、とりあえずは異端審問所が直接手を下したものだが、しかし、突き詰めていくと、結局それは当時の教会組織の責任に行き着くと言わなければならない。しかし、それなのに、ビーべスは最後までキリスト教信仰から離れなかったばかりか、クラネべルトの言葉を借りれば、彼の「白鳥の歌」が『キリスト教信仰の真実について』という、当時のキリスト教世界にあってもきわめてテンションの高い信仰賛歌を歌い上げた事実をどう解釈すればよいのか。従来のようにビーべスを何の軋轢葛藤もない「温和で信仰深い平和主義者」ということで片付けるのか、それともたとえば次の時代のケベードやグラシアンのように、一種の高度な自己韜晦の術を身につけた人、つまり己れの生に偽装を施した人とみなすべきなのか。その答えは今後の検討に待たなければならないとしても、少なくとも現時点で予想できるのは、ビーべスはそのいずれでもなく、むしろその中問に位置する人ではなかったか、ということである。次回はその点を踏まえながら、彼の実作品を、やはり書簡集を参考にしつつ(たとえばエラスムス、ビュデ、モアなどとの交流の記録)、さらに踏み込んで検証してみたい。
(『東京純心女子短期大学紀要』第5号、1992年)