内側からビーベスを求めて(三)
はじめに
ビーベスに関してささやかな覚え書きを連ねる作業に約2年間の中断がはさまってしまった。「アンソロジー新世界の挑戦」(岩波書店)の第6巻として昨秋出版されたビトリア『人類共通の法を求めて』の翻訳の仕事に専念しなければならなかったことがその主な理由である。しかしビーベスとほぼ正確に重なる時代を生きただけでなく、ユダヤ系改宗者の血筋に連なることでもビーベスと共通点を持つビトリアの思想、その人となりに触れたことは、今後のビーベス研究に裨益するところ大なるものがあったと思う。
しかしその間、筆者のビーベス研究にとって幸運な事件が相次いだ。まず第一に、とうとう一昨年、1782年刊行のバレンシア版全集(マヤンス・イ・シスカル編集)全8巻のマイクロ・フィルムが、友人のセビーリャ大学教授フェルナンド・ロドリゲス・イスキエルド氏の尽力によって、手に入ったこと。さらに嬉しいことには、やはり一昨年、ビーベス生誕500周年を記念して、同じく生誕の地バレンシアから、まったく新しい編纂作業による全13巻の『ビーベス全集』(1) の刊行が開始されたことである。筆者が現在手にしているのは、第1巻と第2巻だけであるが、第1巻はビーベス論集成で、ビーベス研究の現在の水準を知る上で大いに参考になる。第2巻には、今までどの全集にも収められることのなかったアウグスティヌス『神の国』註解の約4分の1が収録されている。XXII巻全部が収録し終わるにはあと3巻分必要である。つまり第3~5巻も『神の国』註解ということになろう。先日マドリードの書店からその第3巻目を送ったとの連絡が入ったが、以後どのような順序で作品群が刊行されるのかはっきりしていない。しかし第2巻を見るかぎり、旧版とは比較にならないほど厳密な本文批判がなされているようだ(2)。
さて前回に引き続き、主として書簡を中心に、ビーベスの実像に迫りたいが、今回は特に彼が師と仰いだエラスムスとの関係を考察してみたい。ヒメネス・デルガード編の『書簡集』には、両者が互いに対して出した書簡が合計27通(エラスムス宛20通、ビーベス宛7通) 、さらにエラスムスがビーベスのことを第三者に語った手紙が3通、そしてモアがビーベスのことをエラスムスに報告している手紙が1通収録されているが、今回はトロント大学から現在なお継続出版中の英訳『エラスムス著作集』(Collected Works of Erasmus)の中の書簡部分を大いに頼りにしたい。ただし筆者が現在まで被見し得たのは1992年刊の第10巻までの分で、年代的には1524年までのものだけである。それ以後のものは、したがってデルガード版のスペイン語訳だけでしか読むことができず、はなはだ心細い。というのは、スペイン語訳と英訳とを比べてみると、これが同じ原文からの翻訳かと驚き呆れるほどの違いがあり、近代語から近代語への翻訳の場合と比べてラテン語から近代語への翻訳にはかなりの幅があるということを、いまさらのごとく納得させられたからである。したがって今まで訳出した書簡はあくまで暫定的な訳文であり、バレンシア版新全集に収録されるであろうラテン語原文と照らし合わせての修正作業が今後の課題として残される。
ところで、書簡を読み進める前に、エラスムスとビーベスの交流に関して従来指摘されてきたいくつかの問題点を整理しておこう。しかしそれらのうちのいくつかは今後の考察をまって修正せざるを得ないかも知れない。つまりそれらはあくまで現時点での作業仮説にすぎないということである。
- 両人が実際に初めて会ったのはいつ、どこでか。
- 両人がある時を境にして疎遠になったと言われているが、それは本当か。本当だとしたら、それは何をきっかけとして始まったのか。
- ときおり指摘されるエラスムスの反スペイン感情、反ユダヤ感情は本当なのか。
- エラスムスはカトリック陣営とプロテスタント陣営双方に対して、よく言えば中立の立場、悪く言えば曖昧な態度をとったと言われるが、本当かどうか。そしてビーベスの場合はどうであったのか。
- 結局、両者の思想の質、傾向などにどのような違いがあったのか。
以上五つの問題点を視界に入れながら、両者の間に交わされた書簡を順次読み進めていこう。
ビーベスが時代の寵児であり噂の人であったエラスムスのことを早くから知っていたのはとうぜんだが、エラスムスの方ではどうであったか。たんなる噂にしろ、あるいはその著作を通してにしろ、ビーベスの存在をいつ知ったのか。ビーベスの才能は早くから一部の人のあいだでは認められていたが、より多数の人にも知られるようになったのは、やはりその著作を通してであろう。彼は1514年パリで『虚飾の真理』(“Veritas fucata”)、同じく『神の母なる童貞の凱旋』(“Ovatio Virginis Dei-Parentis”)を出版した。エラスムスがこれらの著作に目を通した可能性はある。当時、人文主義者たちの交流・情報交換は、皮肉なことだが、情報化時代の現代よりもはるかに密度の濃いものであった。もちろんそのスピードは、郵便制度その他の未発達もあってけっして早いものではなかったが、しかし確実に、つまり必要な情報は過不足なく、伝わっていたように思われる。
だがいずれにせよ、エラスムスがビーベスの存在にいつ最初に気付いたかについは、何も確実なことは言えそうもない。それでは両者が初めて実際に出会った時期に関してはどうか。これについても諸説紛々である。いちばん早い時期としてはやはり1514年、すなわちその年の7月、ロンドンからフランス、スイスを通ってルーヴァンに来たエラスムスにビーベスが会ったのが最初の出会いではないか、という説。ボニーリャ・イ・サン・マルティン(3) などがこの説を取る。しかしこれにも確証があるわけではない。事実、彼は本文でそう主張しながら、さっそく註においてそれを覆すことを言っている。1516年の夏ではなかったか、と主張するのは、エラスムス書簡を編集したアレン(Percy S. Allen)、『エラスムスとスペイン』の著者バタイヨン(Marcel Bataillon)、そしてアベリャン(José Luis Abellán)(4) である。
1517年の7月か8月説を唱えるのは、ノレーニャである。しかし同じ1517年でもさらに早い3月であった可能性もある。というのは、デルガード版には収録されていないが、トロント大学版の「エラスムス著作集」第4巻(5)に、1517年3月8日付アントワープ発信のエラスムスからトマス・モア宛ての書簡があり、そこに初めてビーベスのことが言及されているからである。「この手紙を持参する若者は素晴らしい人であり…もしビーベスが貴兄とたびたびご一緒するようなことがありましたら、小生がブリュージュで被っている迷惑がどんなものかを容易に理解していただけるのですが…」。しかしこの手紙にはいくつか謎めいたことがある。というのは、もしも「手紙を持参する若者」がビーベスその人だとするなら、ビーベスが初めてイギリスに渡ったのは1523年だとする従来の説が覆されることになる、ということ。もう一つは、この手紙は最初、1519年発行のエラスムス『書簡集』(“Farragot”)[“些事” という意味]に収録されたが、1521年発行の増補版『書簡集』(“Epistolae ad diversost”)では、ビーベスの名が Pollius という名に変わっているという不思議である。英訳「エラスムス著作集」の編集者が注記しているように(6) 、もしかしてこれは、1517年から数年続いたビーベスへの高い評価を、1521年にははや「トーン・ダウン」しようとしたエラスムスの意図の現れと見るべきかも知れない。
しかしいずれにしても、両者がいつ、どこで実際に会ったかについてもすべて憶測の域を出ないので、この問題にこれ以上かかずらうことは意味がないであろう。ともあれ確実に言えるのは、両者の出会いが1518年以後ではありえないということ。というのは、ブリュージュにこの年「三国語学院」(Collegium Trilingue Lovaniense)[ギリシア・ラテン・ヘブライ語の教育機関]が開設され、とうぜん両者の接触が頻繁になったからである。
さて文献の上で両者の関係がはっきりしてくるのは、1519年以降である。このころエラスムスは、カルロス五世の弟ドン・フェルナンド親王の教育係になるよう要請されていたのを、健康を理由に(実は宮廷務めを嫌って)断り、代わりにビーベスを推薦するということが起こった。次の手紙がその間の事情を伝えている。
ロッテルダムのエラスムスからフェルナンド皇太子殿下の侍医にして教育係フアン・デ・ラ・パラ氏へ1519年2月13日、ルーヴァン発信
(省略)…私たちの仲間にバレンシア出身のルイス・ビーベスという人がおります。彼は26歳にもなっていないと思いますが、すでに哲学のあらゆる分野に実によく精通しており、文学、雄弁術、たくみな話術や著述にも大いなる進歩を遂げております。彼に匹敵する人材は見出せないと言っても過言ではありません。今まで彼が手掛けなかったテーマはなく、いま現在も、彼は古典古代の文物を注釈紹介する仕事をしています。これがまことに見事と言うほかはなく、その論法たるや、ただタイトルを変えるだけで、私たちの時代や国に生み出されたものではなく、むしろキケロやセネカの時代、つまり現代にあって人文学全体の教師とみなされることを望んでいる人よりも当時の料理人や養蜂家の方がはるかに雄弁であった、あのいとも幸福な時代、の産物ではないかと考えてしまうほどの見事さなのです。彼は芸術の諸規則に関しては実に厳格な人ですが、しかし技巧を上手に隠しているので、私たちには彼の作品のどれもたんなる想像の産物とは思われないほどです。私の見るところ、彼こそフェルナンドの教育係を引き受け、皇太子の教育の世話をするのに断然適任であるし、まただれも陛下の宮廷を見下したり、陛下のいまだ幼い王子をさげすむことがないよう配慮するのに適任の人であると考えます。こうした適性全体にさらに加えて、一方で彼は、生まれがスペイン人ですからとうぜんスペイン語に堪能ですし、同時に長いあいだパリに住んでいたこともあって、フランス語も見事に駆使できます。私たちの言葉〔オランダ語〕は、話すより〔読んで〕理解することの方が得意です。しかし小生にもとりあえず分からないのは、彼が〔現在〕その教育係を勤めているクロイ枢機卿がビーベスのような〔有能な〕人物を引き抜かれることに応ずるかどうかということです。というのは、卿はとうぜんのことながら、彼を心から深く愛しているからです。また、このように将来を嘱望され、すぐれた素質を持った若者〔枢機卿〕がそのような教育係を取り上げられていいものかどうかについても、〔正直言って〕小生には分かりかねることです。小生としては、大いにフェルナンド皇太子の話の方に傾いてはいるのですが、しかし同時に枢機卿猊下にも恩義を感じております。したがって枢機卿にご迷惑がかかるようなことには、できればかかわりたくないのです。つまるところ小生は、ビーベス自身があのように有力なパトロンと縁が切れることに同意するかどうか、自信がないのです。枢機卿には大変気に入られていることをビーベス自身知っておりますし…もしもあなたご自身、小生と同じようにお考えなら、次便で別の人をご推薦申し上げます。
敬具
次の手紙は、この件に関して、エラスムスがビーベスに直接報告した手紙である。
ロッテルダムのエラスムスからビーベスへ1519年聖ジェルトルーディスの祝日[3月17日]、メヘレン発信
拝啓
フェルナンド殿下がご臨席されたある会席での会話の途中、リエージュの司教は、なぜ枢機卿猊下に返事をしなかったのか、と小生にお尋ねになりました。なんと言い訳したらいいのか、適当な言葉が見つかりませんでした。というのは、司教が例の手紙[ビーベスからのことわりの手紙か]を渡されていたかどうか、疑わしかったからです。司教のところに直接手紙を持参しなかった小生が悪いのですが。貴兄が小生に書いた手紙は、明らかに[だれかに]開封されていました。〔ともあれ〕フェルナンド皇太子殿下とお話をする機会が与えられますたびに、ますますそのお人柄に好感が持たれます。このように〔すぐれた〕主君の影響下に、この国がよりいっそう栄えますように! 今のところ、ドイツでは彼のことをあきらめるようです。彼の熟考の末の決断が、われわれにとって大きな益となるでしょう。
しかし以上のことは運にまかせましょう。貴兄から枢機卿に、よろしかったらリエージュの司教に簡単な手紙を書いてくださるようお伝えください。司教は当地にまだ四日ほど滞在なさると思います。どうぞご自愛のほど。
ご覧のとおり、最大級の賛辞である。自分が逃げたがっている教育係の仕事になんとかビーベスを、という魂胆あっての言葉と解されないこともないが、しかし当時のエラスムスの率直なビーベス評であったことは、以下に続く書簡群からも明らかである。
次に紹介するのは、エラスムスの友人で、後にはビーベスとも親密な友情に結ばれるトマス・モアの、最初の率直なビーベス評である。これを見るかぎり、先に挙げた17年の手紙にあるビーベスは、別人か、あるいは書簡集編集の際の間違いか、そのどちらかということになる。
トマス・モアからエラスムスへ1520年5月26日、カンタベリー発信
…この人[ルーヴァンからの客人?]が拙宅に滞在し始めた最初のころ、ビーベスの著作数点を小生に見せてくれました。久しくこのように見事な著作を目にしたことがありません。貴兄にしてもこのように優れた著作家を他に見つけることはできないのではないでしょうか。いや、あやうく一人だけは見つけることができる、と言うところでした。こんなにも若い年齢なのに (貴兄自身も、彼は年よりも若く見えると書いてきましたね) 世界のあらゆる問題に関して、これ以上のものはないほど実に完璧な作品をものしてきたのですから。友エラスムスよ、信じていただきたいのですが、小生自身や小生の仲間たちを恥じ入らせるばかりです。というのは、[私たちは]ほとんど児戯に類することだらけのあれこれの小品をさも鬼の首を取ったように自慢していますが、ビーベスはまだ若いのに、また扱いにくいテーマを取り上げているのに、実によく構成された、そして見事な文章の作品をいくつも出版しているのですから。二つの言語を自在に駆使することは至難の技ですが、彼はそれを見事にやってのけているわけです。さらに驚くべきことは、そして私たちはそこから貴重な示唆を受け取らなければならないのですが、彼はもっとも高度な学問分野に精通しているということです。事実、そのように多くの重要な問題においてビーベスを凌駕する人が他にいるでしょうか。しかしそれよりもっと驚くのは、彼は多忙な講義・授業の合間に、そうした高度な知識を見事に自家薬籠中の物にしたということです。つまり彼は、教育という小径を通って、他の人たちにそれらの知識を伝達してきたのですから。
彼以上に開かれた心を持ち、彼以上に感じのいい人がいるでしょうか。貴殿自身が『デクラマツィオネス』の中に鋭く発見なさり、そして見事に際立たせられた彼の多くの特性・資質を小生は過不足なく評価することはできませんが、ともかく彼は、たんにその優れた記憶力で古代の歴史(ことデクラマツィオに関しては実に刮目すべき功績です)を見事提示しただけではなく、古代の歴史上の人物たちすべてをまるで現代に生きているかのように私たちに示すものですから、デクラマツィオのデータについては、それらを本の中から引き出すのではなく、五官による直接的観察から引き出したとの印象をもたらすのです。つまりそれらは、彼自身が個人的に生きることになった幸運な、あるいは不運な歴史の一部を形成しているというぐあいにです。一言で言うなら、彼の非難はなげやりな形でする無縁の人からのそれではなく、恐怖、希望、危険、繁栄という実に生き生きとした彼自身の感情から湧出してくるのです。彼がこうした資質のどれか一つに傑出しているだけだとしても、それは賞賛に値するでありましょう。ところが実際は、彼はそのいずれにおいても傑出しており、まるでカメレオンのように、毎瞬間、ただ色を変えるだけでいいのです。エラスムス氏よ、あまりにも自己にしがみつき、それでいて雄弁家として評価されたいと望んでいる人たちが立ち上がってこの模範的な青年ビーベスを見習わんことを!彼らは雄弁家であるという光栄を確保することと引き換えに、他の人たちすべてを軽蔑しているのですから、なおさらそう言えます(ところが実際に彼らは、夢にもレトリックとは何かについてただの一つのイメージさえ表現するに至らないのです) 。このような人たちは、他のすべての学問を軽蔑しているわけですから、自分たちの行為をいったいどのような学問の名において正当化しようというのでしょう。正直に言うと、なんらかの現実的根拠を弁護したり、あるいはこじつけでもなんでも、なにか根拠を挙げないことには、だれも正当に演説家と呼ばれる資格はありません。それは、たとえどのように謙遜で霊感に恵まれない人であっても、自分の作る詩がいずれかの哲学の原理、修辞学の規則、デクラマツイオの実践そのものに適合しなければ詩人の名に値しないのと同じです。ところがビーベスは、修辞学に没頭して生活している人がとうぜんそうあるべき成果を上げながらもそれでいて学ぶに値する他の学問をどれ一つとして忘れることはないし、しかもそれらを完璧にマスターしているので、まるで彼がそれら学問のどれか一つを修得するためにだけに全生涯を捧げてきた人のように思えるほどです。
そのようなわけで、ビーベスの中には、すべての人に大きな喜びをもたらさないようなものは何もなく、とりわけ私には彼の『偽=弁証学者論』(“In pseudo-dialecticos”)はことのほか満足を与えてくれます。といってそれは、彼がそれら偽=弁証学者たちの味もそっけもない機知を、彼自身のそれこそ機知に富んだ沈思黙考を土台にして笑い飛ばしたり強力な論証をもって論難したり、あるいは反論しえない理由をもって粉砕し論破しているからというより(もちろんそれも理由の一端ではありますが)、小生がそこに見出すものが、小生自身だいぶ前から、つまりビーベスの作品を読む以前から、同じような論証をもって取り扱ってきた問題だからです。ビーベスの著作に見られるこれらの理由が小生を喜ばせるのは、まさに小生の方が先に評価さるべきではなかったか(なぜなら自分たちの方が先に思いついたことを他の人が後から [ようやく] 申し立てるということは愉快なことですから)ということではなく、小生が委曲をつくして表現するには至らずにただ漠然と予感していただけのことが、今やけっして途方もない考えではない(なぜならそれはビーベスの趣向に沿った考えでもありますから)という確信に導いてくれるからなのです。そして小生がもっとも満足に思っているところは、同一の論証が私たち二人の思考を支配していたことが立証されるに至ったということです。私たち二人は多くの点で、たんに同一の根拠を引き出しているだけでなく、ときには同一の言葉使いさえしているのですが、しかし彼の方がより広範囲に、したがってより鮮やかに論を展開しています。ともあれ、ある秘密の、そして神秘的な共感によって天から下った同一の霊感が私たち二人を結び付けていると考えると、心に深い満足感を覚えます。
彼が女王陛下と枢機卿猊下から高い評価を得ていることは、実にめでたいことだと思います。このお二方の権勢のおかげで、彼に敵対する運命が粉砕されることを望みます。運命の神は、とうぜん幸運に恵まれてしかるべき人たちに対して、悪意の顔付きを見せるのがふつうですし、学問や徳に嫉妬心を燃やして、無知蒙眛で邪悪な族(やから)を名誉ある地位に祭り上げようとするのが常套手段であります。しかし枢機卿は(猊下はご自分がそうであるのと同じように、だれをも幸福にする権能をお持ちです)、人よりも鋭い理解力を恵まれた人たちの中から選んだ人、つまり類稀な博学の人としてご自分の側近にとりたてた人(ビーベス以上に品性のきらめきをもって輝く人は他にはいないでしょう)に対しては、寛大で気まえのよい態度を示されるのはとうぜんですし、またその限りを知らぬ善意からして、ビーベスを後世にまでも光栄ある位置に据えられることは間違いありません。 親愛なるエラスムスよ、今日はこれで失礼します。まもなくカレーで例の王たちの会合に出席する際に、貴兄にお会いできることを心待ちにしています…友エラスムスよ、ご存じかも知れませんが、ビーベスに忠告したいことが一つあります。まったく面識のない者から、このようにむつかしい、あるいは時宣を逸した注文がどう受け取られるかは予測もつきませんが、貴兄ならそれができます。それというのは、彼の作品『法の神殿』(“Aedes legum”)と『夢』(“Somnium Scipionis”)以下に述べる瑕瑾を除けば、もっとも目覚めた学者たちの徹宵をも凌駕する作品ですが)の中に、とりわけ聡明な人にしかはっきりしないような、いくつか錯綜した部分があるということです。文学的テーマにおいては、すべてが読者一人ひとりに可能なかぎり理解できるものでなければならないというのが求められている条件なのですから、そうした欠点は、敷衍したり、欄外にいくつかごく簡単な註を加えるなどすれば、彼なら容易に修正できる欠点でしょう。またもし彼が、『デクラマツィオネス』の冒頭に、適切な歴史的データの要約をつけて説明するページを加えるなら、よりいっそう明快な著作となりましょう。
もう一度さよならを言わせていただきます。
これまた最上級の賛辞であり評価である。これを見るかぎり、当時モアはまだビーベスと直接会ったことはなく、ただその著作を読んでの感想であることが分かる。文中『デクラマツィオネス』とあるのは、1520年発行の『デクラマツィオネス・シラナエ』(“Decla mationes Syllanae”)であり、『夢』とあるのは、やはり同年発行の『夢すなわちキケロ“スキーピオの夢”への序説』であり、『偽=弁証学者論』は、それらより1年前に出版されたビーベスの初期作品である。「デクラマツィオ」というのは、一応「弁論」もしくは「演述」とでも訳すほかないが、「古代の修辞学校で作文の練習のために盛んに試みられた架空の演説。第一段階はより単純な説得演説(suasoria)で、これは政治的な弁論。第二段階は論争演説(controversia) で、こちらは法定弁論の練習」(7)である。したがって暫定的な題名として『シーラ弁論』としておこう。
さてこの手紙に対するエラスムスからモアへの返事は、デルガード版には収録されていないが、トロント大学版には英訳されているので、以下ビーベスについて書かれている部分のみを訳出しておこう。
エラスムスからモアへ1520年6月、ルーヴァン発信
……貴兄はルイス・ビーベスの優れた資質について話しておられますが、小生の彼に対する評価が貴兄のそれによって確認されたことを欣快に存じます。彼は将来エラスムスの名を陰らす(顔色を失わせる)若者たちのひとりですが、しかし彼以外のだれも小生の関心を引くことはありません。彼に対する貴兄の寛大なお心遣いを知り、小生ますます貴兄が好きになりました。彼は実に素晴らしい哲学的な精神の持ち主です。権力ある者に対してはだれもが犠牲を捧げますが、成功を得る人はわずか。しかし彼はそんなものは徹底的に軽蔑しています。しかし彼があのような天与の資質、それにあのような学識をもっているからには、運命の神に見放されることはありえません。彼自身その陣中に長くいたのですから、びっしりと密集したソフィストたちの陣営に楔を打ち込むのに彼以上に適した人はいません……
ソフィストたち云々のくだりは、もちろんビーベスの『偽=弁証学者論』のことを指している。ともあれ、当時エラスムスが心底ビーベスに惚れ込んでいたことは、この手紙を見ても歴然としている。
ところでビーベスからエラスムスへの手紙は、現存するもののうちでは、次の1520年の6月4日のものが最初である。発信地はブリュージュ。この手紙には、ビーベスのパリ行きが報告されている。『偽=弁証学者論』で辛口の批判を書いた後なので、パリの人たちの反応を恐れつつのパリ滞在だったが、予想に反して大歓迎を受けたこと、連日新しい知己が増えたことなどがはずんだ調子で書かれている。
次いでエラスムスのことに話が移り、いたるところで彼の名声が高まっていること、彼の影響でソルボンヌにも良識が戻りつつあること、ビュデに会ったこと、しかし彼について十分な評価がなされていないこと、彼の記憶力は抜群で、まるで生ける図書館だと書いている。しかし同時に、エラスムスに対してしきりにビュデのいいところをとりもっているような文章が続く。これは当時両者のあいだがあまりしっくりいっていなかったことを示している。学者たるもの、ときには相手の痛いところを指摘しなければ学問の発展はない、たとえば論争はしたが本物の友情が存在したキケロとアッティクス[キケロの親友でその著作の出版に尽力した]、ブルータスの関係を例に出すなどかなり苦し粉れのことも言っている。両者の仲を裂こうという悪質な人たちがいるが、両者の友情はこんなことで壊れないでしょう、と書いている。そしてパリの友人たちにはしきりに引き留められたけれど、折よく急ぎ戻るようにとの枢機卿の手紙が来たので帰国することができたと締めくくっている。
同時期、エラスムスからビーベス宛ての手紙(1520年6月、ルーヴァン発信) があるが、それは他人を批判しながらかえって好意的な反応を引き出してしまうビーベスの人柄をうらやむ文章から書き出されている。そしてパリ大学がある面では寛容でありながら、別の面では情け容赦のない弾圧者の顔を持っていることを皮肉っている。最後にビュデに触れて、彼がどんなに辛辣にエラスムスを批判しても、自分[エラスムス]から離れていくことはないだろう、と変に自信めいたことを言っている。
このころ、エラスムスからビーベス宛ての手紙は間を置かずに出されたらしく、何日かは不明だが同じく6月、ルーヴァン発信の手紙が残っている。そこでもふたたびビーベスのパリ報告を楽しく読んだこと、ほんらいなら石もて打たれるところ、歓迎攻めに遭ったことをうらやましがっている。次いでイタリアの人文主義者たちの批判に移る。つまり彼らは、文学(bellas artes)にのみ、それもあまりに異教徒的に没頭して、それで能事終われりとしているが、文学研究の真の名誉は、結局のところ、他のより重大な学問分野への薬味として役立つことだとして、北ヨーロッパ的、もっと正確にはオランダ的人文主義思想の根本原理を明確に打ち出している。そして各国の人文主義運動の現状とその見取り図を、「人文主義の王」よろしくビーベスに伝授している。
またパリでエラスムスが高い評価を得ていることについては、そこにビーベス自身の彼に対する熱狂的敬愛が入り混じっているのではないかなどと殊勝なことも言っている。ビュデについては、自分も高く評価しており、ときにはドイツ人たちの妬みを買うほどだと言う。そしてドイツ人たちは、確かにビュデは第一人者かも知れないが、フランスには彼のほか見るべき人がいない、その意味での第一人者だと負け惜しみを言っているとすっぱぬいている。ドイツ(「われらの」と言っている)はビュデに匹敵するような人材がいないだけでなく、全体としてもフランスにかなわないと書いている。
次に紹介するのは、1520年アントワープ発信の、ヌエバ・アギラの伯爵ヘルマンに宛てたエラスムスの書簡だが、これは前述の『シーラ弁論』への序文として書かれたものである。これによっても彼が相変わらずビーベスを高く評価していることが伺える。つまりビーベスは他の人たちがただ叫ぶ(clamar)ことを古代の方法にのっとって朗唱している(de-clamar)と誉めちぎる。スペインには古来、セネカやクィンティリアーヌスに代表されるように、そうした伝統があったが、彼はそれを見事に現代に甦らせているのだ。彼がそれをあまりに見事にやってのけるので、彼の書くもののタイトルを隠して人に見せれば、今とかここの事を言っているのではなく、トゥリウスやセネカたちの生きていた幸いなる時代からの報告と考えるであろう。想像上の事柄を扱っているのに、それを現実のことと受け取るであろう。彼はいついかなるときにおいても常套的なことに留まらず、またいかなることがあっても主題から離れることはない。ちょうど、危険に見舞われている友に対して、クレプシドラすなわち水時計から目を離さずに語りかける人のようだ、と。エラスムスは、しかし自分はビーベスの頭脳の鋭さに感嘆しているのではない、と言う。なぜなら彼は長いあいだ学問に精進してきたのだから。むしろ自分が賞賛するのは、あらゆる問題に柔軟に対処するビーベスの才知である。彼はいま、デクラマツィオよりもっと静かな仕事(アウグスティヌス『神の国』註解の仕事を指しているのか?)に全身全霊を打ち込んでいるが、その徹底ぶりたるや、「今の時代、彼に匹敵する人を私は知らない」とまで言い切っている。つまり「雄弁において彼に肩を並べる人はいるかも知れないが、しかしながらそうした雄弁と、哲学についての深い理解力を兼ね備えている人はひとりもいない」と断言する。彼の資質は輝かしい未来を約束しており、今後、彼の模範に習おうとする者の数は引きも切らないであろう、と。
手紙の相手が、枢機卿ギヨーム・ド・クロイに影響力を持っているらしい人なので、最大級の賛辞を書き連ねているのはとうぜんとしても、繰り返しになるが、この当時はまだ(?)、エラスムスが心底ビーベスを高く評価していたことは事実である。翌年(1521年5月28日)、この枢機卿が落馬事故で若い命を終えたことは、ビーベスにとって大変な痛手となる。
● この年(1520年)、7月25日から29日まで、エラスムスはトマス・モアとビーベスと共にブリュージュに滞在。
エラスムスはビュデ宛に、惜しくも夭折したクロイ枢機卿のこと、パトロンを失ったビーベスの苦境などについて書き送っている。
次に紹介するビーベスのエラスムス宛て書簡は、両者の間に気持ちのずれが徐々に芽生えつつあるのがはっきりうかがえる。少し長いが、重要な内容を含んでいる書簡なので、全文を訳出しておこう。
ビーベスからエラスムスへ1522年1月19日、ブリュージュ発信
数日前、待ちに待った大兄からのお手紙拝受。大兄からのお手紙ですから、喜ばしくないはずがありましょうか。もっとも、お手紙にもありましたように、健康もすぐれず、仕事の方も思い通りに進捗していないご様子、正直申して、小生を大いに困惑させました、と言うより、深い悲しみに陥れました。先般大兄が当地に滞在なさっていたあいだに大兄とお話する機会がありましたなら、どんなによかったことでしょう。その折り、大兄に関する噂などお伝えしたのに、と思います。とは申せ、小生はそうした噂が確かなものだとも信憑性に値するものだとも思っていませんが。しかしある人たちの考えていることをよく理解していただくには (そんなことは先刻ご承知とは思いますが)、またもしかして小生の口からお聞きになった方が、いま出回っている噂、貴兄のおっしゃる通りドイツにも広まってしまった噂の数々についての貴兄のショックがいくらかでも緩和されるわけですから、直接お伝えしたかったのです。確かなことは、当地で大兄はルター派とみなされているということです。そういうことを言う族は、大兄が当地にいらっしゃった時にもお分かりだったと思いますが、大兄についておよそ好き勝手な陰口や憎しみと反感に満ちた悪質な悪口を流しています。彼らは、大兄をルターと結びつけること以上に、大兄の名声と評判を傷付けるいい方法はない、と確信しているわけです。こうしたことに係わっている連中の数はもちろんそれ程多いわけではありませんが、しかし彼らの叫び声と宣伝活動は執拗かつ持続的であり、自分たちの主張の正しさを裏付けるものなら何でも利用しようとします。彼らはとりわけカエサル[カルロス五世]と諸君主の賛意を取りつけようとしますが、小生の理解するところ、彼らはそれをオープンに直接手段に訴えるのではなく、間接的にこそこそやろうとします。宮廷には、パリから来た神学者が何人かいます。この人たちが大兄について唯一確言できるのは、大兄がいつもルターについて曖昧に話していたということだけです。でもこの人たちにしても、ひとたびルターが弾圧されるなら、とたんに貴兄の擁護に回るでしょう。
ブリュッセルには、最近、自分の訴訟事件を引っ提げてアントワープからやってきた一人のアウグスティヌス会士がいます。彼の後を、なんと《せむし》[Baechem という人のことらしい]と《びっこ》[ヤコブス・ラトムス(Jacobus Latomus)のこと。彼は足が不自由だった]が大急ぎで付いてきました。聞くところによれば、彼らは大兄に対して、犯罪的とも言うべき中傷を広めているらしい。もっともそんなことは、ルターが生まれる以前から彼らのやってきたことですが。オレステス[ギリシア神話の、ミケーネ王アガメムノンの子で、姉エレクトラと共に、母と姦夫を殺し父王の復讐をとげる]あるいはヘラクレスといえどもこの両人ほどには気違いじみていなかったでしょう。でも信じられないことですが、このラトムスという男は、言うこと為すことすべてがおよそ常軌を逸しています。前述の[ギリシア神話の]人物たち以上に大きな悲劇に値する男です。《ローマからの使者》[ジラロモ・アレアンドロ (Giralomo Aleandro, 1480-1542)のこと。この手紙が書かれる2年前の10月、ルーヴァンとリエージュでルターの著書の焚書を指揮した]は率直な人柄の人で、自分の秘密も他人の秘密も隠しておけない人です。彼は大兄から数多くの迷惑を被ったとこぼしてはいますが、[大兄に対する]昔からの愛情には変わりがありません。また彼は、アルバ公爵が大兄に対して立腹しているとか言っています。つまり、大兄がスペインに滞在中のバルビエール[Pierre Barbier のこと。カルロス五世の官房長官ル・ソバージュ(Jean Le Sauvage)のお付き司祭]に宛てて、スペイン人たちは自分たちがキリスト教徒だと思われたいがためにルターの側に立ったなどと手紙に書いているから、というわけです。もちろんそんなことは信じられませんが。小生としては大兄がそんなことを書いたと認めることはできませんし、もし万が一書かれたとしても、それは冗談に違いありません。そんなことをいったいだれが公爵に告げたのでしょうか。
少し後で、小生は公爵のご子息[公爵には5人の子供がいたが、おそらくここではフェルナンドかディエゴを指していると思われる。]と話をしましたが、彼が言うには、父公爵はときどき大兄のことを話題にしますが、前述のようなことには一切言及したことがないということです。彼の考えがどのようなものか、小生には知る由もありません。というのは、彼は両陣営のどちらに対しても好意的な素振りは見せず、いつも中立を保っていたからです。しかしこの男[前述のローマからの使いか?]はおしゃべりです。[つまりもし何か聞いていたとしたらしゃべっているはずですが]前述のことについてあえて口をつぐんでいるわけではないのです。彼は次の二つのことについて[大っぴらに]話しているのですから。一つは、大兄がアントワープの本屋に、認可のことは気にせずにルターの本を売るよう勧めたということ。もう一つは、前言撤回を勧められたときにルターが答えたことは、あの人たち(つまりその権威とうながしによってルターが例の行為に踏み切った)に事前に相談することなしに前言を撤回することはできない、ということ。そして彼は大兄がルターの擁護者のひとり、それも彼がその名を挙げる主だった人たちのうちの一人ではないか、と疑っているらしいということ。以上がドイツに広まっているすべての噂の火元です。大兄ご自身も、当地ご滞在の折、そのことにお気付きだったと思います。というのは、かつては大兄を他のどのような宗教団体にも属さないキリスト者と見做していた人たちは、今もその考えに変わりはないからです。確かに噂というものは、ころがり出すと大きくなります。でも事は、ちっぽけな雲であって、遠くから見ると大きく見えるかも知れませんが、もしもっと近くで見て、それに実際に触れるなら、おそらく別のことをおっしゃるでしょう。人というものは、遠くで起こっていること、たとえば私たちには毎日のように、ブリュッセルやメヘレンで起こったことが伝えられますが、そんなふうに過大視してしまうのです。実際にはそんなことはだれの頭にも思い浮かばないことなのに。
ですから、大兄がそうした噂に頭を悩ませる必要はありません。当地で大兄のことをルター派だと言っている者たち、[逆に]ドイツで大兄のことをルター派ではないと言っている者たちは、どちらも似たりよったりで、その思いは同一のものです。つまり彼らは、劇場や観客の程度に応じて、その都度役割を変えているだけなのです。彼らの意図は、大兄の評判を落とすことですが、しかし大兄が難攻不落で、その論拠もしっかり固められているので、なんとか弱みにつけこんで[それが噂を流すことなのです]攻撃しようとしているのです。
小生としては、大兄が宮廷に仕える友人たちに手紙を書いて、これら敵たちがどのように大兄を中傷しているかを知らせてほしいと思います。たとえばデロニオ(Delonio)[ Jorge Halewyn のこと]とか、もしも面識がおありなら皇帝の聴罪師[Jean Glapion のこと]などに。なぜなら後者は、宮廷ではキリストご自身に負けないくらい信用を得ている人ですから。小生もアウグスティヌスの仕事が終わり次第宮廷に駆けつけるつもりです。そして小生の熱風のような雄弁をもって、そうした暗雲の大方を追い払って差し上げましょう。なぜならあの地で小生もどうしてかなりの信望を得ており、フェルナンドの家族の一員とさえ思われているのですからね。しかし話が外にもれて思わぬ妨害が入らないように、それはハルポクラテス[ギリシア神話の忘却の神]のために取っておいてください[胸のうちにしまっておいてください]。使者に関して言うなら、もしも適切な機会をつかまえて彼にしかるべき伝言を依頼する場合は、どうぞ彼をご自由に用立ててください。というのは、彼は大兄がエストゥニガ[Diego López Zúñiga(1530年ころ没)]の家に滞在したときのお礼をしなかったことを不満に思っているからです。[この個所は、英訳ではスニガ問題、すなわち聖書解釈に関してエラスムスとスニガとのあいだの論争(8) の際、彼がエラスムスに味方したことへの礼がなかったことへの不満、というふうに解釈されている]小生が何を言わんとしているかご理解いただけるものと思います。彼が大兄からの賞賛をこれほどまでに望んでいるのですから、何がもっとも彼の気に入るのか、もっと正確に言うなら、大兄についてどんな意見を持っているのか、考えておいてください。
しかし別の人たちの方がさらに情け容赦なく噛みついてきます。つまりこの人たちはある種の動物たちのように、死を前にして必死になっているからです。彼らが大兄の独壇場であるあの永遠の青春、すなわち豊かな学問から来る若々しさを享受することなどできない相談です。例の “キリストの石殺し”[Saxicida という造語を意訳してみたが真意は不明。ラトムスを指す]のことは、みな我慢していますが、仲間たちのあいだでは人気がありません。彼がこんな風に威張り腐ってしまったのは、カンブレーの邸に出入りするようになってからです[彼は夭折したギヨーム・ド・クロイの跡を継いで、1519年その弟ロベルトの家庭教師になった]。彼はいつも腰巾着のように若君の後についているので、影響力があるだろう、と思われています。おお、影に怯える者たちよ!自分がその後に従う者にもその主君と同様の権力があるかのように!大兄の目指すところは、いままでいつもそうであったように、キリスト者であることでしょう。人間たちがいかに恩知らずな者たちであるかを考えるなら、キリストが大兄にあのような大きく豊かな褒賞を準備なさっているのはとうぜんであります。ともあれ、彼ら[エラスムスに敵対する者たち]に関して言うなら、新しい教皇が大兄に示す好意あるいは敵意しだいで、彼らの言葉遣いはもっと柔らかなものになるか、あるいは辛辣なものになるでしょう。でも大兄は、善人共通の運命を避けようとなさるのですか。親愛なるエラスムスよ、キリストの名において心からお願いしますが、大兄の心の片隅にでもそのようなつまらない噂を留め置くことで、心を煩わせることや寿命を縮めるようなことはしないでください。なぜなら、キリストご自身を味方につけている人、そして全ての善人ならびにその無垢の良心の声は、悪人たちからそうたやすくダメージを受けるはずがないからです。大兄はなにも悪いことをしていない(それはすべての善人か熱望すべき唯一のことです)のですから、そうした問題に神が与えようとなさる結論がどのようなものか、心配するには及びません。でもそんなこといまさら大兄に言う必要などありませんね。
小生にはバラーノ(Varrano)[英訳註によれば(以下同じ)、大司教 William Warham の親戚の一人と思われる]、タレオ(Taleo)[おそらく William Thale のことと思われる]、そしてマウリシオ(Mauricio)ロンドンの聖ポール学園で教鞭を取っていた Maurice Birchnshow のことらしい]という愛すべき三人の弟子がいます。なかでも最初の二人は大兄のお墨つきを得た素晴らしい弟子ですが、最後の一人は、もし愛情に段階があるとするなら、もっとも愛すべき人と言えましょう。[ところで]アウグスティヌス註解は、 [いちおう]第13巻まで完了しました。そのうちの7巻は校訂を終えてコピーを取り、残りの6巻はしばらく作業を中断しているところです。ともあれ仕事は順調に進んでいます。しかしこの仕事がこのように長期に亙る複雑かつ困難なものであることなど計算に入れずに、短期間で終了するはずだなどと安請け合いしたことは、小生の若気の至りと言わなければなりません。ともかく大兄ならとうぜんよくご存じの歴史や神話関係のデータ、自然科学や精神科学、さらには神学関係の知識が要求されます。手紙の相手が大兄でなかったなら、小生としては仕事の全過程をくどくど説明しなければならなかったでしょう。たとえアウグスティヌスの仕事が大兄のお考えよりも遅くお手もとに届いたとしても、どうぞお怒りにならないように。少しはましな作品ができあがるようにと思ってのことですから。
ところで大兄のお言葉は痛く小生の心を傷付けました。「今後私の方からなにやかやとあなたに要求することはいたしますまい」。それではまるで、小生の仕事が有益なものかどうかさえ小生に言いたくないかのようではありませんか。大兄の励まし、そして大兄の言葉を使うなら、いわゆる要求も、小生にとってはまさに拍車のようなもの、つまりもしそれがなかったら仕事を投げ捨ててしまうような、小生をしてより高邁な企てへと鼓舞する拍車以外の何だと言うのでしょうか。それなのに大兄はそれを要求と言われるのでしょうか。師が弟子に与える説諭を、それでは何と呼ばれるおつもりですか。大兄の友人あるいは弟子たちに対してそのように馬鹿丁寧であることを望んでおられるのでしょうか。実は弟子たちは、自分たちをたんなる顔見知り、あるいは大兄と同等の人と同じように遇されることに心を痛めているというのに。大兄が小生に対して迷惑をかけるのでは、と心配なさることこそ、まさに小生に対する唯一の迷惑なのです。このことを小生は言葉と行いをもって示したはずですが、それでもまだ得心がいきませんか。これは大兄が手紙の冒頭に、「わが敬愛すべき友よ」と言うところを、たんに「敬愛すべき」ではなく、もしそんな表現が許されるなら、「最大の敬愛に値する」と書くようなものです。以上のことを申し上げたあとでもなお、大兄がフアン[英訳註によればエラスムスの従僕 Hovius のこと]にしろリビニオ(Livinio)[ エラスムスのもう一人の従僕 Lieven Algoet of Ghent] にしろ、そのような書き方で小生に手紙を書くことをお許しになるなら、小生としては手紙を受け取ることを拒むでしょう。小生に対してそのように他人行儀な手紙を書いてくる人がもしいたとしても、それはエラスムスさんではないでしょう。友情から来るあらゆる権利からしても、また大兄が小生に対して今まで示してくださったすべてのご好意のためにも、そして大兄にとって小生のご奉仕がなんらかの価値がありますなら、どうぞ小生に対しては他人行儀をやめてください。
おっしゃるように大兄がドイツで温かく迎えられたこと、欣快に存じます。とは申せ、小生にとってはひとつも意外なことではありません。あちらでベリオ氏[不明]にお会いになった由、嬉しく思います。彼は大兄の誕生祝いの詩を書いたはず、とてもいい詩だと思います。どうぞよろしくお伝えください。またそちらでブスキオ(Busquio)[HermannusBuschius]やレナーノ[Beatus Rhenanus]にお会いになったら同様に。マウリシオがくれぐれもよろしくとのことです。フワン・クレメンテ(Juan Clemente)[当時ルーヴァンで医学を勉強していた人]もよろしくと言っていますが、彼は来年の春までイタリアには行かないでしょう。彼は、大兄がいつのまにかバーゼルに行かれたことを大変残念がっています。もし知っていたなら、大兄に同行して、冬中そちらに滞在したかったらしいのです。大兄に使者を送ろうと考えていた矢先、ちょうど運良く本屋のフランシスコが大兄に何とかという本を送らなければならないということを知りました。もし小生が何かを送りたいときは、彼は荷物の中に小生の荷物を加えてくれるでしょう。そんなわけで、小生が校訂した[アウグスティヌスの]7巻を彼に依頼するよう言付けました。もし大兄がいいとお考えなら、フローベンは印刷を始めることができます。第17巻までの残りの10巻は、間違いなく四旬節前に大兄にお送りします。さらに残りの巻は、フランクフルトの市に行く予定のフランシスコ自身が持っていくでしょう。
大兄にもし他人の仕事を見てやる時間がおありなら、この7巻をご覧になれば小生がいかなる原則をもって注釈の仕事をしたかお分かりと思います。もっともその残りの巻、つまり第8、第9、第10、そして第18巻はたいして重要な巻ではなく、たいして苦労もありませんでした。なぜなら、それらの巻はより画一的であり、そこで扱われているテーマの大部分は概ねだれにでも近づけるものだからです。ところでお願いですが、アウグスティヌスの他の作品とは別に、この作品[『神の国』]を何百部か印刷してもらえないでしょうか。というのは、学者たちのなかにはアウグスティヌスの全作品を買いたくはないか、あるいは買うことができない人がたくさんいるからです。大兄もご存じのように、こうした高度な学術的著作の愛好者たちのなかには、ほとんどだれもそれ[『神の国』]以外の聖アウグスティヌスの作品を読む人はいないからです。最後にもう一度、小生のもっとも敬愛する師よ、ご健勝を心からお祈りしつつ。
この手紙が書かれた1522年は、両者のあいだでもっとも頻繁に手紙が交わされた年であった。正確に言うとビーベスからエラスムス宛の手紙が5通残っている。アウグスティヌス註解の仕事と重なっている時期だから当然と言えば当然かも知れないが、しかしもしかするとこの時期、両者のあいだの関係に何らかの齟齬を来して、それをなんとか埋めようと両者が努めた結果なのかも分からない。文中、ビーベスがエラスムスの「他人行儀」をしきりに気にしている様子がうかがえる。
ビーベスの目に映ったエラスムスは、従来指摘されてきたエラスムス像とぴったり重なる。大胆な論争家の面を持ちながら、世評や他人の思惑を神経質に気にしている小心者。たとえばJ. ホイジンガは彼についてこう書いている。「彼はひとが自分について言うこと、考えることにあまりにもいつも心を悩ました」(9)。 「前後撞着、追従、小さな狡猾、まっかな嘘、事実の重大な隠蔽、尊敬や遺憾の偽装的感情――これらはみな彼の書簡のうちに指摘できる」(10)。
さて先ほど訳出した手紙もかなりの長さであったが、三月後に同じくビーベスから出されたものはさらに長文である。今度は全訳はせず、必要な個所だけを訳出し、その都度簡単な解説を試みたい。
この4月1日付けの手紙の冒頭の言葉によれば、ビーベスはエラスムスからの返事を同年2月4日に受け取ったらしいが、残念ながらそれは残されていない。途中手紙が何者かによって開封されたあとが残っているとまたまた嘆いている。当時の郵便事情はかなりでたらめなものであったらしい。今回もアウグスティヌス註解の仕事のことが話題になっているが、注目すべきは、ビーベスがいわゆる名声に関して、いささか唐突に語り始めているところである。
「もしかして大兄はそう思っているかも知れませんが、小生はそれほど名声というものの奴隷ではありません。もちろんそれなりに考慮に入れなければなりませんが、でも時間に急き立てられたり、仕事そのものの性質などから、名声とか評判についてあまり考える余裕などないのです。実のところ小生としては、世間的評判やいくぶんかの名声のために費やされる時間よりも、できれば仕事そのもののための時間がもう少しあれば、と思っています」。
「大兄は人生という劇の大部分を立派に演じきりました。残された時間は、たんに観客たちや同時代人たちの賞賛だけでなく、大兄がこれまでそのためにたいへんな汗と苦労を捧げてきたキリストならびに大兄自身の良心からの賞賛を得るためにお捧げください。またもし大兄が、大兄に注目している人たちからの賞賛をお望みでしたら、現在の観客よりも、むしろ未来の人たちからの賞賛を希求なさらんことを」。
ここまでくると、もう完全に師と弟子という関係は逆転している。
5月20日に出されたエラスムス宛てのビーベスの手紙に、3月20日付けの手紙を受け取った、とあるが、その返事も残っていたない。相変わらずアウグスティヌス註解の出版の話題が続く。
この年(1522年)には、ビーベスからエラスムスへの手紙がさらに2通ある。1522年7月14日の手紙には、ようやく『神の国』註解の仕事が完了したことが喜びのうちに報告されている。エラスムスのいわば依頼で始められたこの仕事なのであるから、出版元のフローベンをあいだにはさんで、両者のあいだにとうぜん金銭的な関係が成立するが、その点に関して、手紙の中でビーベスは次のように書いている。
「お金のことについては、大兄とフローベンにすべておまかせします。小生がけっして金の亡者でないことは大兄もよくご存じです。しかしそうは言っても、このご時世、学問・文筆て身を立てている者にとって物価があまりにも高く収入がわずかしか得られないこの国に小生も生きていかなければなりません。もしいくらかでも送金くださる場合には、安全で、しかも遅滞のない方法で送ってくださいますように。お金のことについてはこれ以上申し上げませんが、しかし小生が生活方法や習慣を変えたのではないかなどゆめゆめお考えなさらないように。これについては、すでに大兄が何度か書いて下さっているとおりで、変化はございません。でも同時に大兄ご自身のこともお忘れなきように。当地でお会いしたときに、小生にお金を貸して下さったことも」。
前年(1521年)1月、ギリェルモ・デ・クロイ枢機卿の急死によって経済的な後ろ盾を失い、代わってトマス・モアの仲介でイギリス王ヘンリー八世の妻カタリーナ・デ・アラゴンからの年金が与えられることになったが、しかしビーベスが常に経済的に困窮していたことは有名である。一方は出す本出す本が記録的な売り上げを記録し、経済的に潤沢であったエラスムス。両者の疎遠の一つの原因が経済的な格差(?)にもあったことは否定できないのではないか。
さて1522年にはエラスムス宛のビーベスの手紙(8月15日、ルーヴァン発信)がもう1通残っている。そこには、『神の国』註解の仕事を終えたあと、ずっと健康状態が思わしくないこと、頭の上にものすごい重さの巨大な塔が十ほどものしかかっているような感じだ、と嘆いている。また新しい作品を執筆中とあるが、それは1524年にアントワープで出版されるはずの『キリスト教女子教育論』(“De institutione feminae chrisianae”)のことであろう。ところでこの手紙でも、エラスムスの性格に関してビーベスが苦言を呈している箇所がある。それはエラスムスにとって嬉しい二つの事件、すなわちスニガの「反エラスムス論」が枢機卿たちの反対で発禁処分になったこと、さらに一人の枢機卿から年金がもらえるようになったこと、を人伝に聞いたビーベスが、次のように言っているくだりである。
「大兄がこんな嬉しいニュースを大兄の心からの友である小生にだけ隠しておられるのが不思議でなりません。これではまるで小生がそのようなニュースを聞いても他の人たちより喜ばないとか、あるいはそれを秘密にすべきなのに小生にはそれができない、ということになるではありませんか。しかし何はともあれ、大兄にはとうぜんその資格がおありの、今回の慶事とご成功、心からお喜び申し上げます。もっとも、大兄から直接お聞きできなかったのは残念ですが。確かなニュースはそれだけ喜びも大きいですからね」。
また来月(9月)あたりイギリスに行く計画があり、その際は推薦状など書いていただきたい、とあるが、実際イギリスに行けたのは、翌1523年2月であった。このころ彼はルーヴァン大学ハルレス校で教鞭をとっていたはずだが、「教えることがつくづく嫌になりました。この益体もない生活に戻って学生たちに囲まれて暮らさなくてもいいなら、どんなことでもするでしょう」とまで言い切っている。教育学者としても令名の高いビーベスの、人間的なというか正直な告白であろう。
ところで、このときのビーベスの要請もあって、エラスムスは同年9月1日、バーゼルから次のような手紙を書いている。相手はジョン・フィッシャー(John Fisher, 1469~1535)、1504年以来ケンブリッジ大学総長でロチェスターの司教だった人である。ビーベスに触れている箇所だけを訳出する。
「この手紙の持参者であるルイス・ビーベスは、すでに猊下もその著作を通じてどのような人物かはご存じのことと思います。直接お会いして下されば、さらに彼の人柄がお分かりのことと思います。彼は小生の友人のうちの一人です」。
これだけである。手紙の末尾にほんの付け足しのように加えられた素っ気ない文章であり、わずか数年前のあの熱っぽい賞賛の言葉は跡形もない。
さて1522年のビーベスの手紙5通を一応読み終わったが、このころ彼に起こった最大の事件と言えば、同年7月、アルカラ大学のネブリハが死に、その後継者に指名されたことであろう。しかしこれについては「内側からビーベスを求めて」の (一) と (二) ですでに触れたので、エラスムス=ビーベス往復書簡をさらに先に読み進みたいと思う。
● この年の12月28日、オスマン・トルコのスュレイマン一世は、6カ月の攻防の後ロドス島を占領。このニュースは、全ヨーロッパに深刻な危機感を醸成した。
翌1523年9月16日、バーゼル発信のビーベスからエラスムス宛ての手紙がある。内容的には、『神の国』註解出版をめぐっての、いささか込み入った金銭事情、行き違い、ビーベスの『小品集』(“Opuscula variat”)をフローベンが出版しないのは、エラスムスの差し金があったからだとの告げ口のこと、エラスムスやモアと違って自著の売れ行きがはかばかしくないことへの一種のいらだちなどが吐露されている。「結局、この町[学者や出版者の世界と言いたかったのでは?]も、収入の多寡で等級が決まってしまうというのはまさに真実ですね!“あらゆる領域において類稀な知性と博識の人”などというあのまことに晴れがましい表現は[このときビーベスの頭には、かつてエラスムスがビーベスを評したときの賛辞の数々を思い起こしていたのでは]いったいどこに行ってしまったのでしょう!」。
そして末尾に「いかなる事情であれ小生のスペイン行きを思い留ませるものはありません。明日かあるいは明後日には出発するつもりです」と、強い決意が述べられている。しかし結局この時のスペイン行きは決行されなかった。翌1524年、バレンシアで父親が異端審問所の手によって火刑に処せられるのであるから、このころとうぜん故国スペインから家族の危急を告げる連絡がひんぱんに入っていたに違いない。この間の事情については、「内側からビーベスを求めて」(二) で、親友クラネベルト宛て書簡を紹介したときに触れておいたのでここでは触れない。
これ以後、ビーベスからエラスムス宛ての手紙は、これまでのものより短く、思いなしか素っ気ない内容のものとなる。1524年5月には、マルガリータ・バルダウラとの結婚 (それを知らせる同年6月16日付けのエラスムス宛ての手紙が残っている)、父の処刑、イギリスへの数度にわたる渡航など、身辺あわただしかったことも理由の一つかも知れないが、両者のあいだに抜きがたく疏隔の気持ちが定着したからと考えられる。
ところで両者の不和が表面化する一つの事件があった。それは1528年3月、エラスムスがフローベン書店より出版した『キケロ派』(“Ciceronianus”)をめぐる小波乱である。これは当時流行していたキケロ模倣の行き過ぎを批判した作品だが、同時に彼の評価する若手学者たちの一覧表をも兼ねていた。ところがその一覧表にはどうしたことかビーベスの名前がなかった。とうぜんこの事は人文学者たちの間でも話題になったらしく、二人の間の不仲説が広まった。さすがにエラスムスも気にしたようで、同年9月2日付けのビーベス宛ての手紙でこう書いている。「…ベリオは私がなぜ『キケロ派』の中で貴兄について言及しなかったか、その理由を聞いてきましたが、あれはまったくうっかり忘れただけのことなのです。私ほどの年齢の者にそれは許されないことだなどと言われましても、私の研究の混雑ぶり(これは私の仕事の混雑振り、と言うより正確な表現ですが)に免じて許されてもいいのではないか、と愚考します。しかしながら、ビュデの名前を挙げるよりかは貴兄の名前を忘れたことの方がまだしもでした。というのは、私の全著作の中のみならず会話においても、彼にはじゅうぶん名誉ある地位を与えているのに、彼の仲間たちが言うには、彼をバディオと同列に論じるとは、と非難ごうごうだったからです。ところが実際は、私のみならずビュデ自身も本気で軽蔑すべきものと見做している例のこと[意味不明]に限って彼を比較しただけの話なのですがね。しかもその際、私は彼をたんなる揶揄の対象としないために、こう付け加えておいたのです。“とは申せ、彼はその多くの、そして卓越した資質ゆえに尊敬されねばならない” と」。
それから一月後の10月1日、ビーベス自身がエラスムスに次のように書き送っている。「…御著『キケロ派』、むさぼり読みました――たんに “読んだ” というより正確な表現です。ところで、イタリア在住のある人から手紙をもらったのですが、この人は友人であるだけでなく親戚筋にも当たる人です。彼はせめて二年間はキケロ以外の作者は読まないように、そして彼の思想、言葉、文彩を真似するようにと勧めてくれました。つまりそうすれば、たんに多くの人たちを凌駕するばかりか、あのロンゴリオ(Longolio)[不明]その人さえも追い抜くというわけです。模倣ということに関してのそのような子供じみた主張には笑ってしまいましたが、しかしこれは熱病のように多くの才能たちの心を捉えてきました。
もし大兄が小生について言及なさっていたなら、どんなに嬉しかったことでしょう。でも大兄のお年から来るこの不注意を、もちろんお許しします。たとえそれを意識的にやられたとしても、お許しします。なぜなら、大兄が小生に対して敵意をもってなさることは何もないことは明らかだからです。また大兄が小生のことをお忘れになっていたとしても何の不思議もありません。なぜって、大兄はあらゆる階層の、そして多様な資格を持つ多くの人たちの名前を拾い集めなければならなかったからです。そのようなわけで、御著のページを繰りながら一つのことが記憶によみがえってきました。すなわち、演説家たちの一覧表を作りながらアッティクスがキケロに言った言葉です。“あなたが私のことを忘れるはずはないと思っていたのですが、でも私はあなたの心積もりとは異なる説明をつけてしまいました”」。このアッティクスの言葉でビーベスが何を言いたかったのか。もしかすると、言い抜かしについてのエララスムスの言い訳を、自分は違う風に解釈していますよ、と言いたかったのであろうか。
エラスムスとビーベスとの間に交わされた最後の手紙は、少なくとも残存するものの中では、ビーベスからエラスムスに宛てられた1534年5月10日の手紙である。エラスムスの死の2年前である。二宮敬氏の指摘(11)によれば、3月10日にもエラスムス重症のうわさを聞いて、秘書のジルベール・クーザンに問い合わせの手紙を送っているらしいが、その手紙はデルガードのまとめた書簡集には収録されていない。
ビーベスからエラスムスへ1534年5月10日、ブリュージュ発信
1月5日に受け取った大兄からの手紙が、もしも大兄の快癒を知らせるものだったら、どんなに嬉しかったことでしょう。でも大兄の健康が年齢的なことを加味しても衰えがひどいと人伝に聞いて、心中惨憺たる思いを禁じ得ません。ご健康切に祈念いたしますが、しかしそれがキリストのお気に召さないならば、大兄の苦しみが少しでも耐えられるものとなりますよう、せめて身体と霊魂の力が与えられますようにとお祈りいたします。
小生、昨夏は差し込みが激しく、一時はどうなることかと思いました。でも痛風は小生にとってあまりに頻繁に起こりますので、すっかり慣れっこになり、それほど煩わしくは思わなくなりました。自分の身体に対する絶えざる注意と引き換えに、ときに与えられる小さな贈り物はまたなんと嬉しいものでしょう。[ところで]ある特定の人について書いた手紙が、その当事者にも送られなければならないとしたら、どれほどの節度と思慮深さが必要とされますことか。これはまさにキケロが言うごとく、この人生から、互いに対すコミュニケーションや友情を奪ってしまうことに他なりません。小生としては、大兄の小生に対する友情が冷めてしまったとは思いませんし、最近ではたまにしか手紙をくださらないことを嘆くつもりもありません。なぜなら、その嘆きはお互いさまで、小生も以前より大兄に手紙を書いていませんから。大兄のみならず他の人たちに宛てた小生の手紙で、小生が主張してきたことは、手紙を書かなければならないというつまらぬ義務を基準に友情というものを評価することはしまいということです。そんな義務は、むしろ相手を愛していない人たちのあいだでの方がしっかり守られている義務ですからね。とりわけ私たちのあいだに手紙の交換を必要とする事柄が何もないときなら、なおさらそう言えます。[小生がお手紙を差し上げる気になったのは]例のカルバハルが大兄を批判することを何か書いたとしたら、彼が自分の名前と小生のそれとを今後いっさい並べることを止めさせるためです。そんなことは迷惑千万だと彼に手紙ではっきり言ってやりましたが、とりわけ大兄と小生とのあいだになにやら意見の違いがあるのでは、と疑わせるような並べ方は迷惑至極だと書いてやりました。なぜなら、さまざまな試練によってたびたび強められてきた私たちの深い友情によっても、また私たちの努力の同一性によっても、そんなことはあってはならないことだからです。つまり私たちはたんなる知恵の追求者ではなく、むしろ知恵の技師 (作り手) と見做されなければならないということです。
私たちは危険無しには話すことも沈黙することもできない難儀な時代を生きています。スペインではベルガラと彼の妹が、さらには他の学者たちが逮捕されました。イギリスでは、ロチェスターの司教[ジョン・フィッシャー (John Fisher)]とトマス・モアまでもが逮捕されました。大兄のために平穏な晩年を願わずにはいられません。
文中カルバハルとあるのは、エラスムスを激しく批判したスペイン人フランシスコ会士ルイス・カルバハル(Luis Carvajal)のことである。その生年は不詳であるが、アンダルシーア出身でサラマンカの聖フランシスコ修道院で神学を教えていた。エラスムスがスペイン人修道者たちを攻撃したことに対して、1528年、『エラスムスの駄弁を駁して修道生活を弁ずるの書』(“Apologia monasticae religionis diluens nugas Erasmi”)をもって反論した。以後両者間に数度の応酬があった。
ともあれ、時代は急速に不穏な方向へと流れつつあった。このとき逮捕されたモアは、翌1535年7月6日、ヘンリー8世の命により、タワー・ヒルで斬首された。長年の病苦の末、エラスムス自身が死を迎えるのは、さらに翌年(1536年)の7月11日の深夜のことであった。
さてここまで、エラスムスとビーベスとのあいだに交わされた書簡群を読み進めてきたが、最初に立てた五つの作業仮説に関して言うなら、結局それら五つの問題の (1) と (2) にわずかに接近できただけの成果しか上げられなかったと言わなければならない。(2) の疎隔の原因に関しても、書簡から読み取れるものは、両者の気質の違い程度であって、思想的な位相での両者の距離は、両者の作品を細かく比較分析する作業を待たなければならないであろう。(3) の反スペイン感情、反ユダヤ感情については、少なくとも今回読んだ書簡の中にはその痕跡は見つけられなかった。アベリャンなどはこの点に関して何度か言及しているが、その論拠は明言していない。おそらくバタイヨンの論拠を踏襲しているのではないかと思われる。バタイヨンは、エラスムスがモアへの手紙[1517年7月10日付け]で書いた「スペインはぞっとしない(Non placet Hispania)」という言葉を解釈して次のように書いている。
「ここでできる唯一のことは推測すること、つまり書簡がふと見せてくれた彼の性格の一端を解釈することだけである。彼にとってスペインは未知のもの、全面的な流刑地を意味していた。自分たちとは違う人間集団であった。宮廷のスペイン人たちはわずらわしくも場違いな挨拶で彼をうんざりさせた。彼がブリュッセルで知り合うことになった、きわめてヨーロッパ的なバレンシア人ビーベスその人も、その例外ではなかった。彼の西欧的な目からすれば、スペインは奇妙な国々、つまりキリスト教世界が、それと敵対するセム族と接触し混ざり合う国々の一つなのだ。世界市民とも言うべき彼の中には、まるで密かな反セム主義者が存在しているかのようであった」(12)。
しかしこの問題は、当時の人文学者たち、とりわけエラスムス主義者たち、のあいだに数多くいた改宗者の血を引く人たち(ベルガラ、バルデース兄弟などなど)を総体的に考察した上でなんらかの結論を出すべきであって、これまたやはり今後の課題となろう。
ところで両者の思想の質とその方向性の違いを比較検討するにあたっては、さしあたって次のような視点が考えられる(13)。
- 今回は触れられなかったが、例のカトリック陣営とプロテンタント陣営双方に対する両者の距離の取り方の違い。
- 平和をめぐる両者の見解の違い、特にサラマンカ学派との関係を踏まえての検討。
- 修辞学や古典研究における両者の方法論、考え方の違い。
これらの問題に今回は立ち入ることはできないが、一つだけそのための準備作業をしておきたい。それは両者の作品群の簡単な一覧表を作り、そこからどんなことが言えるかを考えてみることである。以下がその表である(作品分類はエラスムス自身によるもの)。
1.古典語・古典文学学習の手引き
エラスムス | ビーベス |
『文章用語論』 『学習計画』 『書簡文入門』 『対話集』 『ギリシア、ラテン語の正しい発音について』 『キケロ派』 『子供の教育について』 『格言集』 | 『スキーピオの夢』 『アリストテレス著作の吟味について』 『学問論』 『弁論法』 『書簡の書き方』 |
2.人間の生き方、倫理の指針
エラスムス | ビーベス |
『痴愚神礼賛』 『平和の訴え』 『キリスト教君主教育』 『子供の礼儀作法について』 | 『英知の探求についての対話』 『児童学習課程論』 『英知への導き』 『夫のつとめ』 『キリスト教女性教育論』 『人類の和合と不和について』 |
3.信仰の手引き
エラスムス | ビーベス |
『キリスト教兵士提要』 『神学捷径』 『キリスト教的結婚教育』 『死への準備』 『キリスト教的再婚論』 | 『キリストの勝利をめぐって』 『神の母なる童貞の凱旋』 『悔悛詩編の黙想』 『わが主キリストの御汗を偲ぶ日々の祈り』 |
4.新約聖書研究
エラスムス | ビーベス |
『校訂新約聖書』 | ― |
5.福音精神の普及
エラスムス | ビーベス |
『四福音書釈義』 『使徒業録釈義』 『使徒書簡釈義』 | 『キリスト教信仰の真理について』 |
6.教父研究
エラスムス | ビーベス |
『聖ヒエロニュムス著作集』 『聖ヒラリウス著作集』 『聖イレネウス著作集』 『聖バシレイオス著作集』 『聖アンブロシウス著作集』 | 『聖アウグスティヌス “神国論” 註解』 |
7.論争
エラスムス | ビーベス |
『自由意志論』 『ルターの奴隷意志論反駁』 『フッテンの泥水を拭う海綿』他 | 『偽=弁証学者論』 |
8.書簡集
エラスムス | ビーベス |
― | ― |
上の表を見てまず気付くことは、ビーベスには本格的な聖書研究がないこと(ギリシア・ヘブライ語の問題か)、エラスムスより哲学的な著作が多いこと(つまりこの表には分類できない著作、具体的には『蓋然性という道具』『第一哲学もしくは自然の内的活動について』、そして代表作とも言うべき『魂と生命について』など)、文学論、つまり前述のデクラマツィオ形式の多数の作品を書いたこと、いわゆる論争ものが初期作品以外にはないこと、予想に反して(?)エラスムスより多くの平和論や社会問題論を書いていること、などであろう。
それにしても彼らの扱ったテーマ、執筆傾向は似ている。アウグスティヌス作品の註解(『神の国』)の場合は、もともとエラスムスの指示、といって言い方が強すぎるなら、その慫慂をもって始められた作業であるが、その他の作品についても、その時期、内容についてはもちろん違いがあるにしても、ビーベスがエラスムスの執筆活動を常に意識し、しかも独自のものを出そうとしていたかが分かる。ただし前述のような視点から、作品に即した両者の比較研究は今後の課題である。だが、ここで一言指摘しておきたいのは、両者の関係がけっして一方的であったわけではないであろう、ということである。つまり先輩格のエラスムスが後続のビーベスに終始一方的な影響を与え続けたわけではないということである。
さてここで覚え書きの筆を擱く。毎度のごとく、今回もまた、獲得したものより宿題の方が多く残ってしまった。手探りしつつの覚え書きから、いつ確かな鉱脈を掘り下げる作業に入れるか。とうぶん模索状態が続きそうである。
注
(1) “Opera Omnia Joannis Lodovici Vivis”, edicions Alfons Magnanim, vols.1 & 2, 1992.
(2) 二つの全集以外にも、1991年の拙文「内側からビーベスを求めて」(一) の参考文献表に付け加えるべき著作、論文が若干あるので整理しておこう。
“Erasmus in Hispania Vives in Belgio”, In Aedibus Peeters, Lovanii, 1986.
(これは1985年9月23日から26日にかけてブリュージュで開催された対話集会の記録論文集で、各国の研究者による重要かつ興味深い論文が多数収録されている)。
“Erasmismo en España”, Ponencias del Coloquio celebrado en La Biblioteca de Menendez Pelayo del 10 al 14 de junio de 1985, Sociedad Menéndez Pelayo, Santander 1986. この中のベルナルド・モンセグー(Bernardo Monsegú)の「キリスト教的ヒューマニズムとしての“キリストの哲学”」は前回挙げておいたが、エンリーケ・リベラ ・デ・ベントサ (Enrique Rivera de Ventosa) の「サラマンカ学派に対するエラスムスとビーベスの平和のテーマ」も重要な論文としてぜひ加えておきたい。
Empaytaz, Dionisia: “Juan Luis Vives: un intento de bibliografía”.(発行年不詳)
Fernandez Santamaria, José A.: “Juan Luis Vives. Escepticismo y prudencia en el renacimiento”, Univ. de Salamanca, 1990.
González y González, Enrique: “JOAN LLVÍS VIVES DE LA ESCOLÁSTICA AL HVMANIZMO”, Generalitat Valenciana, 1987.
Vilanova, Antonio: “Erasmo y Cervantes”, Ed. Lumen, 1989.
Vives, Juan Luis: “Diálogos y otros escritos”, Planeta, 1988. (『対話』の他に「人間の寓話」、「法の神殿」がスペイン語訳されている)。
(3) “Luis Vives y la filosofía del renacimiento”, p.67.
(4) El erasmismo de Luis Vives, en “Erasmus in Hispania Vives in Belgio”, In Aedibus Peeters, Lovanii 1986, p.181.
(5) Op. Cit., pp.274-275.
(6) ibid. p.275.
(7) 二宮敬著『人類の知的遺産 23 エラスムス』、講談社、1984, p.240、 注(68).
(8) 英訳「エラスムス著作集」第8巻、1988年刊には、この問題をめぐってベルガラとスニガ間に交わされた5通の手紙がまとめて収録されており(pp.335-346)、何が論点だったかを知るための重要な資料を提供してくれている。
(9)『エラスムス』、宮崎信彦訳、筑摩書房、1965年、p.159.
(10) 同掲書、p.136.
(11) 前掲書、p.154.
(12) Op. Cit., p.77.
(13) アベリャンによれば、両者の違いは次の4点に絞られる。
1. ルターに対する態度の違い(エラスムスの方が極端に憶病で懐疑的であった)。
2. アウグスティヌス『神の国』解釈をめぐる両者の思想的な違い。
3. ビーベスの根本的に哲学的な傾向。
4. エラスムスの反セム主義的傾向。
Cfr. “Erasmus in Hispania…”, pp.182-183.
(『東京純心女子短期大学紀要』第8号、1995年)