島尾敏雄における生の構造
仮に自らを処分しなければ、この無慈悲なこころみのなかで、習熟し馴狎することのないぶざまな舞踏を舞い続けなければなるまい。その舞いも又連続させられず、そのため、ぶざまな状態に習熟することさえない。習熟するかとみえると断絶におそわれそしてその断絶の淵におちこんだまま凍死することもできず、又もや習熟の場にはいあがって行く。それは永久にくりかえされる機構だ。
(「非超現実主義的な超現実主義の覚え書」)
一.
最近出版された小川国夫との長時問にねたる対談の記録『夢と現実』(筑摩書房)は、対談集ばやりの昨今にあっても出色のものであるが、昭和二十五年から昭和五十年までのさまざまな相手との対話を一冊にまとめた『内にむかう旅』(泰流社)も、きわめで興味深い対談集である。収録されている対談は、ごく初期のものをのぞいてそれぞれ発表時に読んだものではあるが、こうして一冊にまとめられたものを通読すると、個々に読んだときには気づかなかった島尾敏雄の側面があぶり出されてくる。なかでも面白いのは、ふだんはどちらかと言えば話を引き出される側、いわば受身にまわっている彼が逆に聞き役にまわった、漫画家つげ義春との対談である。これが面白いのは、異色の組み合わせであるということばかりでなく、島尾敏雄が執拗なまでにつげ義春にその方法意識を問いただしているところである。
「島尾 でもあなたがかいたものを見る人は、たとえばそこに夢を見、旅を見ますね。そういうものがあるんだから、だからご本人はただそういうふうになっちゃうんだという ふうにいっても、やっぱり何かあるんじゃないですか?……」
これに対するつげ義春の否定的な答えに対して、「……こうだからこうだというふうなことが先走っていないで、まあ無意識にとおっしゃったですか、何か自覚しないで出てくるところがやっぱり、まあぼくはおもしろいというふうに感じます」といったんは折れるが、しかし今度はつげ義春が画中に使う言葉に関してもう一度食いさがっている。
「島尾 ぼくはね、あなたは自覚しないといわれるけど、やはりいろいろ自覚があると思 うんですよ。やはり案がなければ、はっきりした形では、つかめられないと思うんですよ。もちろん評論的な自覚じゃなくてね……」(傍点引用者)
ここでもまたつげ義春からは否定的な答えしか返ってこない。しかし島尾敏雄は納得しない。「思いつきとか自覚しないとかいっているけれども、本当にそうかな……」としきりにこだわりを見せる。
だがここで島尾敏雄は、対談者から方法意識があるという肯定的な答えを期待しているのだろうか。そうではなかろう。ストレートに肯定的な答えが返ってきたら、島尾敏雄はむしろ落着きが悪かっただろうし、納得できなかったのではないか。つまり彼が聞き出したかったその「何か」とは、いわば否定の半ば肯定であり、無意識の半意識化であったのではないか、ということである。
島尾敏雄の文学を語る際に、従来その資質、体験に力点が置かれてきたのは当然であるが、しかし力点が置かれすぎているのではないかという感がしないでもない。もちろん私は、彼を尖鋭な理論派のシュールリアリストに祭り上げるつもりは毛頭ない。だが彼の文学の方法に関して、もっと論じられてもいいのではないかと思う。いや、方法が論じられること少ない、と言い切ってしまってはやはり言いすぎだろう。たとえば「眼をあけるとこれらの短編(『島の果て』や『いなかぶり』)となり、眼をつぶると『夢の中での日常』となった」(『島の果て』あとがき)という島尾敏雄自身の言葉をめぐって数多く論じられてきた。だが、この同じ「あとがき」で、「しかし眼をあけて表現したはずのこれらの作品も、<夢の中>へ片寄っていることが不幸である」と言っているし、また先ほど引用したつげ義春との対談の中でも、「だから<夢>のもの、何のものというのは、ちょっと冗談でいうだけの話でね。書くほうにとっては別にそういう区別をつけて書いているわけじゃなくて、みな同じに書いている」とも言っている。これらの言葉を作家持有の韜晦と取ることもできるが、しかしそれならなおのこと、「評論的な自覚」というものに挑戦してみたくなるではないか。この挑戦で思い出すのは、昭和二十七年に書かれた『兆』の中で、主人公巳一が語る次のような言葉である。
「小説、のようなもの、を書いているのは、全く不用意にであり、自然発生的であり、それはこうこうであり、しかじかなのだが、実は不用意で且つ自然発生的であることは半は意識的にやっていることで、それが私の方法なのだが、それを敵にさとられてしまっては私の方法は崩れてしまうのです。それはもうまったく至る処に爆弾をしかけて置くのですが、その仕掛けてあるという外見はいうまでもなく、しかけた爆弾自身早く発見されてしまうことがあれば、私の文学は崩壊してしまうのです……」(傍点引用者)
「要するにですね、私の小説、いや歴史、つまり記述としての歴史はですね、実はそんなことじゃないのです。そこに私はやっと気づいたのです。いやもうずっと前から予感はしていたのです。そこの所を私は小説に書くのですよ。恐らく失敗します。然しその失敗こそが実は成功でもありいや成功というななことでなく、何と言っていいか栄光、つまり……」
一見、何とも不得要領な巳一の言葉ではあるが、私にとってこれは、島尾敏雄がおのれの文学方法に触れたどのエッセイよりも説得的に響く。ここには前述の否定の半ば肯定あるいは無意識の半意識化が生まの形で語られているような気がする。評論的な自覚あるいは意識化ではなく半意識化が問題なのである。作家がそれを創作時に明確に意識化するとき、島尾敏雄の言うように作品は面白くなくなるであろう。変な例だが、自動車運転の際の半クラッチの状態が私の言う無意識の半意識化である。つまり無意識と意識のあわいに島尾敏雄の作品創造の場が設定されているのだ。
二.
島尾敏雄の数多いエッセイの中で、文学批評家が引き合いに出されることはまったくと言っていいほど無いが、その例外中の例外にスぺインの哲学者オルテガがいる。私自身がいささかオルテガに関わっているからこれに注目するわけではないが、しかしいままで述べてきた無意識の半意識化に照らし合わせてみると、島尾敏雄がそもそもの文学的出発から(それが書かれたのは昭和十四年、彼の二十二歳のときである)いかにこの一種の方法意識に関心を向けていたかがうかがえて興味深い。
題名の『ドストエフスキイの小説に於ける冗長性について』からも察せられるとおり、このエッセイは彼が青年時代に一時傾倒したドストエフスキイの小説についてのもので、オルテガもその限りでの引用なのだが、引用されている文章は『小説の考察』(池島重信訳)の以下のような文章である。
「ドストエフスキイの<リアリズム>は語られる事物や事実のなかにあるのではなくそ れらを取扱ふ仕方――読者はこれに注意せざるをえない――のなかにあるといふ見解に 達する。素材に関してではなく、形式に関してドストエフスキイは<リアリスト>なのである」
島尾敏雄はこれを受けて次のように言っている。
「狂気じみたと笑われるかも知れないが、私はドストエフスキイは、彼の小説の形式がか程迄に効果的であった、つまり一部の人々から非難される所の冗長多岐が<小説の内容に例の内面的密度を、例の雰囲気的圧力を作り出すのに効果的な手段>であったと言ふ事を既に計画して記号ゐたであろうかなどと疑って来ることさへある」
ここにもすでに、つげ義春との対談に見られたような方法へのこだわりが顕著である。 ところで島尾敏雄の作品を内容から見て、幼少年期体験、戦争体験、死の棘体験(いわゆる病妻物)、南島体験などと一応は分類することができよう。しかし先の「眼をあけて」書いた作品と「眼をとじて」書いた作品という、どちらかと言えば方法に即した分類の場合と同じく、こうした内容に即した分類も、実は島尾敏雄にあっては二義的重要性しか持っていない。いま引用したオルデガの言葉に対する彼の考え方からすれば、島尾敏雄にとって問題なのは、「何を描くか」よりも「どう描くか」であることは明白であろう。
しかしもちろん小説にとって素材は欠かせない。となると、島尾敏雄にとっての素材は何か、ということになるが、とうぜんその素材はふつう言う意味での素材とは異なってくる。こういう言い方が許されるなら、それはいわゆる素材の底にあるものである。つまり彼にとって興味があるのは、事物や事実を描くことではなく、それらの背後あるいは内部にある構造あるいは形式、もしくはそれらの相互的関係ではないかということである。
最近一書にまとめられた東欧紀行『夢のかげを求めて』(河出書房新社)にも、この意味でひじょうに示唆的な場面がある。それはポーランドでの一日、二ュポカラヌフ修道院のへンリク修道士と二人で強制収容所のあったオシヴィエンチム[ドイツ名アウシュビッツ]に向かう途中の町ショビェ二ツェでのこと。レストランを捜しながら見知らぬ町を歩くうち、「わたし」はふと四辻で、「ひとりの婦人が歩道の縁にかかとをのせ両足をそろえて電車の通りすぎを待っている姿」を目にする。そのあと二人はレストランを見つけるが閉まっており、つい目と鼻の先の食料品店に入って食料を手に入れるというあわただしい時間をすごすが、そのとき「私」に不思議なほど鮮明に先ほどの光景が呼びもどされる。
「それにいっそう鮮明なのが、煉瓦の家と石だたみのあいだであるきながらちらとこち らを見た婦人の白い顔。それが脳裡にからみついてはなれない。しかしいずれも中途で引きかえした行為に似てひとつの絶望なのである。どんなに想像をかたむけても対象が私の中に融解することはありえない。それが近よってくるのは、せいぜい早移り絵を動かすほどの速度でぎこちなく彼女の細い足を動かしながら石だたみを歩いてくる姿勢を見せるところまでだ。そのとき通りに居たのは彼女だけであった。道の向こうがわの花屋の横の歩道に三、四人の年老いた婦人が、灰色の壁と同じ色あいで立ちばなしをしているのが見えていた。彼女はこちらの方に顔を向け、そこに私たちのほかには誰も道を歩いていなかったけれど、表情は動かさずにまた正面を向きなおって歩いて行ってしまった。ただそれだけの情景がこびりついてはなれないのはなぜなのか。そこがまるで劇場の舞台に似て視野の中で適宜に小さくまとまっていたからか。建物にかこまれ、舗装された道、灰色の空は書割りとそっくり、町の中のほんの一部が、そこに現出していてそのほかはそのどんなかたちも私の頭の中では欠落していた。その中にきりとられた情景を婦人がひとり、表情をうごかさぬ白い顔をのこし舞台をつっきって歩き去って行く」(傍点引用者)
作者はなぜここで唐突と言ってもいい「絶望」を感じているのか。言葉の通じない外国でだれしもが感じるあの隔絶感か。もちろんそれもあるだろう。しかしそれだけでは片づけられない何かがここにはある。なぜこの何でもない情景が「私」の脳裡をはなれないのか。そこが「まるで劇場の舞台に似て視野の中で適宣にまとまっていたからか」、そうかも知れない。しかしそれだけではないだろう。つまりこの情景は作者の心象風景あるいは内的世界の構図そのものだったからこそ心に焼きついたのである。隔絶感がものの見事に決まった構造がそこにあったからこそ脳裡にこびりついたのである。「私」は意識してその構造を見ようとして見たのではない。作者「私」のいわばコントロールされた表現のつみ重ねの末に、作者の意表をついてふと現われ出た構図であり構造なのだ。
「<眼に見えたかたち>のままの写しとりのつみ重ねの末に、ふと現われたゆがみこそ がわれわれを鼓舞する」(『非超現実主義的な超現実主義の覚え書』)
ここに言われている「ゆがみ」は、私にとって「構造」、つまり事実や事物の背後もしくは内部にある構造と等価に響く。このゆがみは、作者の思惑の外にあるという意味ではゆがんでいるが、しかし作者の思惑を越えているという意味では実に正確なのである。
昭和三十七年、彼が「朝日新聞」に寄せた「わが小説」というエッセイに次のような文章がある。
「書く方の姿勢を言えば、一方の資料は意識の世界の中から、他方は意識下のものが夢 などを通してほんのわずかのぞかせた喘っこをつかまえて引出せるようなものの中から 借りてくるが、それは時の経過をあいだに置けば、その区別もたしかなものではなくなってくる。私の感受の中ではお互いに感応し合って一方から他方を引きはなすことが困難になり、その度合いの強いものだけが私の小説の中の真実となる。そのとき私の中で規制的にはたらくのは、単純で正確な記録を、ということだ。自分の心境に興味があるのではなく、その鍛練などを考えているのでもない。関心があるのは個人の外にはたらく基準の方にだ」(傍点引用者)
私にとってこの「個人の外にはたらく基準」もまた、前述した構造と等価である。島尾敏雄の中で、眼に見えた世界と眼に見えない世界、現実と非現実(あるいは夢)、意識と下意識、過去と現在、これらが互いに交錯し、感応し合っており、そこに生じたゆがみあるいはハレーション(光暈)が彼を鼓舞する。彼は「これでもない、これでもなさそうだ」と書いていくうちに「ごく稀に、かちっと硬度の高い標的を射当てた感じを持つことがある」(「今後の文学、というアンケートへの答え」、昭和二十四年)。これでもない、これでもなさそうだ、という違和感が彼の文学の出発点にあるが、それは「かちっと硬度の高い標的」を求めていなければ感じられるものではない。
ところで『夢のかげを求めて』の文章に、「舞台」、「書割り」など、まさに格好の言葉が含まれていたから引用したと思われるかも知れない。しかし私の言う事物の背後にある構造、あるいは無意識の世界の内部構造は必ずしもそれに尽きるものではない。私の言っているのは空問的構造のみを指しているのではないのである。
ここでもう一つの例を出そう。それは昭和二十五年に書かれた『ちっぽけなアヴァンチュール』である。発表誌が『新日本文学』であったことから、これをめぐって激しい論争が起こったことは有名であるが、いま私が注目したいのは発表の翌年、同じ『新日本文学』に寄せた作者の一種の自注『滑稽な位置から』の最後の文章である。
「そして今言えることの一つは、私ですらこれに偏見を抱き始めた、ちっぽけなアヴァンチュールではなく、私が書きたかったのは、インゲという少女のことだったのだと、ふと確信を持った瞬間があったということである。ただ副次的な位置でさらされていることは、滑稽であり、笑うべきことであるが、然しそれは私の存在につながって居り私自身で背負うべきことなのである」
これを一種の遁辞とみなすことももちろん可能である。言葉による表現には必ず限界がつきまとうのだから、「本当に言いたいことはそれではないのだ」とだれでも逃げることはできる。しかし私にはこの場合、それがたんなる逃げ口上であるとはどうしても思えないのである。ともかく、ここで一旦、作者の自注を離れて、作品そのものに戻ってみなければならない。
これは、一人の教師らしき男が、「春先のなまぬるい、落着のない濾過性の病原菌がいっぱい空気中に浮遊しているような、そして、少し手荒い、いけないことをしてみたいような気温」の中で、しだいに酒場の女との浮気に心が傾き、そして結局はていよくふられてしまうという、文字どおりちっぽけなアヴァンチュールを描いた作品であるが、「私」がそのような「暗い情熱のようなかたまり」をもてあましながら坂道を登って行く途中、インゲという混血の少女に追いつく個所がある。
「私は彼女達に追いつきながら、インゲの亜麻色の髪の毛を私の掌でさわってみようと 思いました。それは何でもないことです。それなのに私は呪縛から解放される時のふるえをを覚えるのです。私にとってそれは大へんな決心を必要とすることでありました。その仕草一つによってでも、あるものを汚し又あるものを獲得する意味を私にとって持つことなのです」
しかし、「私にとって大へんな決心を必要」としたその行為も「なーんや、けっさくやあのおっさん」というインゲのことばに冷たくあしらわれ、「私は妙に参ってしまって、自分をひどく影薄いものに感じ」るのである。そして「私」は、だから当然に、というふうに「その日の暮れ方、学校からの帰途、私はその酒場に寄りました」と続けている。「私」はインゲという少女の中に何を見ていたのか。自分をなぜ「影薄いもの」に感じたのか。
いやそれよりも、作者はなぜこの作品にことさら「ちっぽけな」という形容詞を冠し、「ただ出来るだけありのままに私のありふれたつまらない経験を書いてみましょう」と書き出さなければならなかったのか。何に対してちっぽけでつまらないのか。こう考えて、いくと、「私が書きたかったのは、インゲという少女のことだった」という作者の言葉はやはり重要である。
島尾敏雄の作品のいくつかには、一種の少女願望が顕著であり持にそれが外国の少女や混血の少女に対しては強く反応するが、これをたんなるエクゾティズムと解することもできよう。しかし、少年時代にプロテスタントの聖書学級に通い、学生時代に口シアの小説を読みあさって、求めて亡命ロシア人たちに近づいていったことのある作家が、それら少女たちの中に何を見ていたかは推測するにかたくない。
超越的なもの普遍的な世界にあこがれながらも、しかし〈とび越さないで、いこじに流れに沿って〉いくことを選んだ彼にとって、それらがつねに西洋という衣装をもってしか現われないことに対して、あこがれと同時にある欝屈した感情をいだいたのではなかろうか。
この場合、事実や事物の背後にある構造とは、ある絶対的なるもの普遍的なるもの、小説に即して言うなら、ちっぽけでつまらぬものの対極にあるもの、と「私」とのあいだに横たわる隔絶という関係である。しかしこの関係はどこから出てくるのか。両者の関係にはもちろん個人的な、あるいは主観的なものが投影されている。しかし関係そのものは決して主観的なものではない。つまりこの関係性あるいは体系性は、観念論が言うように主観が周囲世界にいわば恣意的に押しつける図式ではないことに注意しなければならない。
オルテガ流に表現するなら、宇宙の実在は一定のパースぺクティヴのもとにしか見ることができず、そればかりかパースぺクティヴそのものが実在の構成分子の一つなのだ。それは実在を歪曲するものではなく、実在を構成する要素なのである。一九一四年、その『ドン・キホーテに関する思索』で「私は私と私の環境である」という独特な生(正確には生的理性)の哲学を打ち出したオルテガの思想をここに要約するわけにはいかないが、その同じ著作の中の次の言葉だけは引用しておきたい。
「この世の決定的な存在が物質でもなく、魂でもなく、その他持定のものでもなく、ひとつのパースぺクティブなのだという確信に、われわれはいつ目ざめるのであろうか。……神はパースぺクティブであり、序列である。サタンの罪はパースぺクティブの誤りなのだ」
三.
島尾敏雄の作品は最近作の『日の移ろい』(中央公論社)はもちろんのこと、すべで彼の生の記録である。彼にとって、他者の生にかまけるには、自分自身の生があまりにも重く見える。というより、彼は自己の生が生の全体であり世界の全体であるとの自覚のうちに生きている。彼は『兆』の主人公巳一の言うように、言葉の真の意味で記述者である。だが、いわゆる年代記作者とは異なり、彼は事実や事物の背後にある生のかたちを描く記述者たらんとした。彼にとって生きるとはすなわち書くことであり、書くことすなわち生きることである。
それほどまでに彼にあって生きること書くことは密接に連関している。それが彼の文学にとって唯一の方法であるとさえ言うことができる。
ところで生とは何か。生はものではない。肉体でもなければ観念でもない。実在論にも観念論にもうまくおさまってはくれない。先般引き合いに出したオルテガの言葉を借りれば、「生は引きとめることも、捕えることも、跳びこえることもゆるさない一つの手に負えぬ流れである。成りつつあると同時に、手のほどこしようもなく存在することをやめて行くものである。……それはちょうど、それ自体はとらえることのできない風が、やわらかな雲のからだの上に身をおどらせ、それを引きのばし、よじり、波打たせ、とがらせるようなものである。われわれは視線を上げて、綿毛の形をした雲の中に、風の襲った跡を、その激しくも軽やかなこぶしの跡を見るだけなのだ」(傍点引用者)
生は絶えざる実体変化である。われわれは生そのものをとらえることはできない。われわれがとらえることのできるのは、ただその通り跡だけである。そして生はまさに個人的なものである。
島尾敏雄がその小説方法に関して、あらゆる構築性もしくは虚構性に対する不信を表明し、同時にべたついた事実性への寄りかかりをも拒否しているのは、生がまったく個人的なものであることの徹底した自覚から発している。つまり、人問の生は各人の生であり、各人の生こそが根本実在であり、それ以外のすべては、ただその根本実在に惹起する限りにおいて実在性を獲得するにすぎないのである。
そうであるなら、こうした生の理念は観念論的独我論と同じものであろうか。そうではない。オルテガは言う。
「この根本実在――私の生――は、利己的であるとか<独我論的>であることとは縁も ゆかりもないものであり、本質的に、そこに含まれる他のすべての実在が自己を現わし自己の姿を顕現するために提供される解放された区域もしくは舞台なのである」
なぜ島尾敏雄は自己の生を執拗に掘り起こし、自己の生のかたちをしきりになぞろうとしているのか。それは、そこからしか救いがやってこないからである。オルテガ思想の核を形成する言葉をもう少し引用しよう。
「われわれはありのままの自己の環境、すなわちまさに限界と特殊性を持つ自己の環境 のために、世界の広大なパースぺクティヴの中の正確な位置を捜し求めなければならない。神聖な価値の前で節度も知らずに陶然となったりしないで、自己の個的生のために諸価値の中に適当な場所を陣取らなければならない。つまるところ、環境を再摂取することが人間の具体的な運命なのだ。……私は私と私の環境である。もしもこの環境を救わないなら、私をも救えない」(傍点引用者)。
四.
諸家が指摘するように、島尾敏雄の作品から或るきわめて深い宗教性が感じられるにもかかわらず、彼の作品の中に神は姿をあらわさないし、また神からの語りかけも、また神への呼びかけも描かれていない。奄美大島の名瀬に生活を移した翌年の昭和三十一年、彼はカトリックの洗礼を受けるが、たとえば親しくしている神父や信者たちのひそかな、あるいは明らかな期待にもかかわらず、彼はいわゆる信仰をテーマにした作品をひとつも書いていない。信仰表明がストレートに文学たりうるかどうかはともかく、彼はかたくななまでにおのれの生き方に忠実である。作品ばかりでなく、死の棘体験のいきさつを書いた手記『妻への祈り』においてもそれは一貫している。
「二年ばかり前、私は『妻への祈り』という手記を書いた。<妻への祈り>という言い方は、言葉としてあるいは成立しないかも分らない。祈りは妻へではなく、神へでなければならないだろう。私の気持では<妻のための神への祈り>であった。しかし妻は私にとって神のこころみであった。私には神が見えず、妻だけが見えていたと言ってもいい。その限りにおいて、あの題名は私の精神状況を示していた」
なぜ神が見えなかったのか。それは彼がまさに神が見えない位相にいたからである。そしてことわるまでもないが、これは彼に信仰が欠如していたという意味では決してない。彼は流れを跳びこさないで、いこじに流れに沿っていく。この流れは、言うなれば次元を異にする二つの世界の境界線である。あるいは眼をあけて見た世界と眼をとじて見た世界のあいだの境界線である。
「島に上陸して白い道を歩いたが何も見えない。船の上から眺めたときも何も見えなか った。何も、と言ったが、洋上に位置を占める以上、島全体の存在があり、岡があり谷があり、草木が生え、珊瑚礁の泊が認められないわけはないが、でも私は何も見えないという気持を抱いた。たぶんそれは、人間臭い人工的な構造物が見えなかっただけだ。それなのに何も見えないと感じた」
これは昭和三十七年に書かれた『島へ』の書き出しの一節である。
「私」にはなぜ何も見えなかったのか。それは先ほどと同じ答えである。つまり彼は、何も見えない位相に立っているのだ。
オルテガは、その著『芸術の非人問化』中で、現代の作家を戸外の景色を見ようとして窓に接近するのではなくして、窓ガラスを、しかもそのガラスの小さなきずを、ある特定の色合いを、またその透明度のいかんを検討するためにながめる人間にたとえている。この図式を便わせてもらうなら、写実小説は窓ガラスの向こうにある外界のながめを活写し心理小説はガラスのこちら側にいる主体の心境を描いたことになる。とすると、わが国の伝統的な私小説は、あるときはガラスのあちら側、またあるときはガラスのこちら側へと都合にまかせて行き来する主体の動きを描写したことになる。しかしどちらにせよ、それらは、主体の存在を疑ってもみない。だが「私」という存在は、疑うも愚かなほど確かな実体なのだろうか。
そうではなかろう、オルテガも言うように、「私」は存在するのではなく「生きる」のである。つまり「私」は、自己を遂行する、自己を実現するというかぎりでの人間、物、状況のすべてを意味しているのである。確固と自立する私があり、さらに物が、外界があるのではない。まさに「私」は、私と私の環境なのだ。
一見して島尾敏雄の作品の中には、「他者」の存在が稀薄で、その代わりに「私」が充満しているとの印象を受ける。作者の主観を通して、いわばゆがめられた形で作者の意識に結ばれた「他者」のイメージはある。しかし、作者とはまったく異なり、同時に作者に対話を求めてくるような「他者」が描かれることはまずない。
そこでは、他者は「私」の弱味につけこみ、「私「をおびやかすものとして現われ、「私」がそれらとぶつかり合うとによって、そのときだけ「私」が自己の存在をおののきながら確かめる、そのような道具としてだけ現われてくる。他者はひたすら「私」との一種力学的関係の中で登場するにすぎない。たとえば先に引用した『兆』は、主人公巳一が毛内と沢という二人の友人と風がひょうひょうとうなり砂ぼこりが舞う乾燥し切った道を歩いていくところから始まるが、毛内と沢は巳一と関わるその一点ににおいてのみ存在を許されている。
「ざらざらの砂ぼこりをかぶり白い道を歩いていると、陰語に似たそれらの言葉は二人 の共謀の凶器となって巳一の横顔にじっと押しつけて来るような妄想が起り、冴えない蒙古型の薄い眼が四つ巳一の意識にはりつく。その眼は無意識な眼だ。単にそこに向いて動かないというだけだが、巳一はそれにたじたじとなった。その眼には羞いがなくただ四つ並んでいるというだけで、巳一がその中に毛内も沢も自分を軽蔑していると読みとったのは思いすごしだ。然しそれだから一層冷酷な感じはあった」
ここでは毛内と沢の全存在は文字通り一点に、つまり羞いがない四つの眼に収斂してしまっている。いやそれだけではない。実は作者自身[そして主人公]も消えている。例証としてはそれこそ島尾敏雄の全作品を挙げなければならないが、最近のものでは「夢のかげを求めて」全編にそれがもっとも顕著である。確かにここには或る特定の時間と空間の中を島尾敏雄が旅をしている。われわれも彼の旅程に合わせて、この「私」とワルシャワやプラハの町を歩きはじめる。しかし正確に言うと「私」とではない。「私」はいつのまにか薄明(現実と非現実のあわい)に消え去り、私ひとりが二ュポカラヌフ修道院の石だたみを歩き、夕暮れの中のオシヴィエンチムの収容所跡にたたずむのである。
島尾敏雄の作品の中の「私」は、人間くさいよそおいを漂白してゆき、ついには外界、そして持に生命あるもの、との接触にふるえおののく一片の薄膜に変化する。おそらく、島尾敏雄にとって興味があり、そして描こうとする唯一のものは、この薄膜であり、この魂のふるえである。
「片側は外界に眼界がひらけ、うずくまる岬、岸の岩にくだける白波、胸の中の何かがふくらみ、見当もつかない距離を落下して行って、はるか下方のその海水の量や波や砂浜にぶつかると、また胸のところまではね返ってくる。それを何回もくりかえすと、空間に震えをともなった音域が出来た。波涛のひびきか、風のつぶやきか、とらえることの出来ない音響が、においのようにからだを包んできて、視界にありながら手のとどかぬ距離感が頭をしびれさせる」(『廃址』)
はたしてこの文章の中から、私小説流の「私」を摘出することができるだろうか。ここでは「私」は岬、岩、白波、海水の量、波涛のつぶやきと区別することはできない。すべてが、「私の生」そのものとなっている。これは単なる擬人化でもないし感情移入でもない。外界、状況、環境、世界、何と表現してもいいが、それと「私」の共存、相互関係がすなわち私の生なのだ。
「足の向くままに歩道を歩くと、人かげはいっそう数をへらし、しき石は、夜空の青をうつしつづけ、酔いが、まるで町全体が巨大な船となって南海のただ中を静かに波をかきわけて進んでいるような気持ちにした。堡塁をへさきにして、左右に夜光虫の水脈をひきずりながら」
これは『市壁の町なかで』の一節であり、プエルト・リコの首都サン・ファンの旧市街を歩く「私」の感受を通して描かれた町の姿である。この作品を読みながら、われわれはまるで目に見えぬ手に導かれているかのように、この「私」と夕闇のサン・ファン旧市街を歩き始める。いや、「私」とではない。「私」はいつの間にか薄明の中に消え去り、私ひとりがこの物悲しい憂愁の町なかを歩いてゆくのである。
最近作『日の移ろい』はまさしく作者島尾敏雄の一年間にわたる生活記録である。しかしよく見てみると実に奇妙な日録である。ここに書かれている出来事は、昭和四十七年四月から翌三月までの一年間のものだが、これを書き終えるのに、四年の歳月が費やされている。日の移ろい、時の流れに対する作者の感覚には独特のものがあり、それはそれで別個の論考を必要とするが、ともかく読後われわれの脳裡に刻みつけられているのは、一人の人間の生のかたちである。もちろん作者島尾敏雄の生のかたちではあるが、しかし力点は島尾敏雄ではなく生のかたちに置かれている。
もちろん作者島尾敏雄の生のかたちではあるが、しかし力点は島尾敏雄ではなく生のかたちに置かれている。これにかぎらず、島尾敏雄のほとんどの作品は、古臭い私小説的なよそおいをこらしながらも、「私」小説の「私」を消去することによって、私小説をいわば内部から否定し踏みこえているのである。
島尾文学の中で、「他者」が正確な像を結ばないのは、ちょうど窓ガラスに焦点を合わせていけば、その向こうにあるものがぼやけてきて、これはこれ、あれはあれ、というぐあいに区別がつかなくなってしまうのと同じことである。だが「他者」や神が不在なのではない。なぜなら、薄膜と化した「私」がふるえおののくのは、そこに「他者」があり、神がいるからである。その振幅がはげしければはげしいほど、また大きければ大きいほど他者の、そして神の実在が実感される。
『日の移ろい』の中の「私」の魂のふるえは大きい。小川国夫が言うように、「島尾敏雄の胸は新しい風の通り道となったかのようだ」(「ひそかな嵐」、「海」昭和五十二年四月号)。しかし考えてみればこれも当然かも分からない。なぜなら人間の生は「一つの手に負えぬ流れ」であり、そして人間が絶対に習熟できないもの、まさしくそれは生きることだからである。島尾敏雄が『日の移ろい』の中で陥っている一種の苦境は何に由来するのか。自転車事故から来る肉体的・精神的疲れか。あるいは積年の緊張状態のあとの弛緩か。それもあろうがそれだけではなかろう。むしろ真の原因は、生の構造の中にすっぽり己れを合わせたときの一種の失速状態である。あるいは、冒頭に引用した彼自身の言葉を使うなら、習熟のあとの断絶の淵におちこんだからである。真に生きるとは、それほど反自然的な力業なのだ。もちろん彼は、またもや習熟の場にはいあがって行かざるをえない。なぜならこれは人間の生の、「永久にくりかえされる機構」だからである。
『季刊創造』、第四号、一九七七年